アルナーチャラでの私の体験
S.C.ローイ博士
S.C.ローイ博士は、17歳の時に失明しましたが、著名な学者および作家となるまでになりました。その障害にもかかわらず、彼は日本、アメリカ、そして世界の他の場所へ付添なしで旅行しました。彼はボンベイのタタ社会学研究所のカルカッタ大学、そして、クーパー・ユニオンを含む様々なアメリカの高等教育機関の講師でした。現在、彼はニューヨーク市に居住し、そこでアルナーチャラ・アシュラマを訪れています。ポンディシェリー見物の後、1946年10月16日、私はシュリー・ラマナーシュラマムに到着しました。有名なインド人音楽家であり、シュリー・オウロビンドーの弟子である、ディリップ・クマール・ローイ氏が、カルカッタへ戻る前にアルナーチャラを訪問するように私に勧めました。彼は私のそこへの到着についてティルヴァンナーマライへ電報を二通送り、私が盲目であるため、私の身体的障害を説明しました。私が駅に到着した時、私は二人の女性-スイス人のミス・ボウマンとパルシー教徒のミセス・タリヤーカン-が私を出迎え、アーシュラムまで私をエスコートするために待っていることに気づきました。
私はバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの前に連れ行かれました。夕食の前、私は彼と短い会話をしました。「あなたにはすでに良い視力があります。それは障害物によって曇らされています。あなたがなすべきことは、それらの障害物を取り除くことです」と彼は言いました。
私は休息し、眠るための部屋を提供されました。翌朝目覚めた後、バガヴァーンの弟子の一人が私を大きな部屋にエスコートし、そこで彼はもう座っていました。数人の信奉者、インド人と西洋人の両方が、講堂にまんべんなく座っていました。誰もバガヴァーンに話しかけたり、質問しませんでした。私は質問を尋ねた唯一の人であり、彼の答えを点字で書き留めました。私の問いかけは、哲学的、宗教的テーマに関わっていました。それらは第一にヴェーダーンタ哲学に関連し、私が理解していたところでは、それは彼の哲学でもありました。彼はとても辛抱強く、そして、快く私の質問全てに答えて下さいました。バガヴァーンは私の点字の読み書きについて知りたがりました。彼は私が点字を書いた紙を取っておきたいと望みましたが、アーシュラムの誰もそれを解読できないでしょう。
私は講堂でただ一人の話す人であったため、少々気恥ずかしく感じました。他の人々は何らの言葉の妨げもなく、崇高な雰囲気をただ吸い込んでいました。バガヴァーンは彼の信奉者にダルシャンと祝福を与えるために午前と午後にこの部屋にやって来ると私は教わりました。彼の祝福を受け取るために午後に私は彼の前に現れ、さらに質問を尋ねました。
私は翌朝早くに出発することになっていたため、午後に再びシュリー・バガヴァーンに会いに行きました。インドの習慣に従って、彼の足に触れようと私がひれ伏した時、彼は私から後ずさりました。バガヴァーンは誰にも彼の足に触れることを許しませんでした。なぜなら、彼の考えは、同じ神が全ての人の中にいるので、誰も別の人にひれ伏すべきでないというものでした。その時、ドラマチックな出来事が起こりました。私はバガヴァーンに告げました-「他の人々はあなたを見ることができるので、あなたの足に触れる必要はありません。しかし、私はあなたを見ることができず、それに、盲人にとって、現実性とは触覚性です。盲目の者にとって、人やものは、触れることを通してより現実的で、実際的になります。それゆえに、バガヴァーンは私からあなたの現実の存在を感じるための機会を奪うべきではありません」。彼はこれに心和らぎ、私が彼の足に触れられるように、私の近くに進み出ました。彼は私に祝福を与え、私の出発のための用意が全て整えられいることを私に告げました。彼が私をもう「身体的に」見ることはないだろうとも言いました。実際、この予言は本当になりました。私が翌朝4時にアーシュラムを発って以来、1950年に彼がその死すべき体を離れるまでに、私は戻れませんでした。バガヴァーンの祝福を受け取るように私をエスコートした弟子は、私が彼の足に触れるのを目にし、非常に驚いていました。我々が講堂から出た後、12年間でバガヴァーンがその足に誰かが触れることを許したのはこれが初めてであると言いました。
部屋に戻った後、私は出発の準備をし、しばらく眠りました。午前4時、牛車が私をバス・ターミナルまで連れて行きました。私はマドラスへ行き、そこで「Indian Express」の編集者から取材を受けました。美味しい夕食の後、私はカルカッタへ発ちました。
しばらくの間、シュリー・バガヴァーンの信奉者と私はアーシュラムから文通していました。彼はその最初の手紙の中で、翌朝、バガヴァーンが講堂で座につくやいなや、私の出発について尋ねたと私に書き送りました。
私は稀有な人物を訪問し、話をする機会を得たことを非常にうれしく思いました。私の唯一の後悔は、再び彼に会うのに間に合うようにシュリー・ラマナーシュラマムに戻れなかったことです。
・・・
S.C.ローイ博士の訪問は、A.デーヴァラージャ・ムダリアールによるDay by Day with Bhagavan(p285~287)の中で、以下のように記録されています。
1946年10月16日
夜、盲目の紳士、別のローイ博士が、シュリー・オウロビンドー・アーシュラムからここに到着しました。そこでディリップ・クマール・ローイが彼にここに行くように勧めたようです。彼は17歳の時に盲目になったようでしたが、それにもかからず、なんとか独学で大いに学んだ結果、最近まで彼はカルカッタ大学の講師であり、今はボンベイのタタ社会学研究所の講師です。彼はアメリカ人妻と結婚し、親切にも私とそこにいる他の幾人かに彼が見せてくれた写真から、彼女は美しい女性です。彼は非常に驚くべき人物です。今、彼は一人っきりでボンベイから旅行しています。しかし、これは何でもありません。彼はアメリカ、日本や他の場所を一人っきりで旅行しています。我々が彼が成し遂げられている全てについて彼を称賛した時、18か月の時に一切の感覚を失ったヘレン・ケラーが自ら成し遂げられていることに比べれば何でもありませんと彼は言いました。
この紳士は今日の午後8時以降にバガヴァーンとプライベートな話をし、その時、彼は目の病気について話し、バガヴァーンの慈悲を願い求めました。
1946年10月17日
今朝、ローイ博士がどのように彼が書き、時計を読むかなどをバガヴァーンの前で見せました。彼がカルカッタ大学の文学修士、文学士であり、その後、アメリカの大学の博士になったことを私は知りました。午後、私が午後3時ごろに講堂に入った時、ローイ博士がバガヴァーンに尋ねていました。「長い瞑想ができない人々の場合、彼らが他者へ善を行うことに従事するなら、それは十分ではないのでしょうか」。バガヴァーンは返答しました。「ええ、それで間に合います。善の考えが彼らの心にあるでしょう。それで十分です。善、神、愛は全て同じものです。人が継続的にそれらのどれかを考え続けるなら、それで十分でしょう。全ての瞑想は、他の一切の思いを締め出す目的のためにあります」。しばらく間が空いた後、バガヴァーンは言いました。「人が真理を実現し、見る者も見られるものもなく、両者を超越する自らのみあることを、自我とそれが見る全ての両方の映像が行き帰する自らのみがスクリーン、または、礎であると知る時、視力を持っておらず、そのために様々な物の光景を見そこなっているという感覚は消え失せるでしょう。実現した存在は、正常な視力を持っていますが、これら全ての物を見ません」(彼は自らだけを、ただ自らのみを見ます)。
ローイ博士とのさらなる議論の後、バガヴァーン言い添えました。「この体や世界、何を見るのにも全く問題はありません。間違いは、あなたが体であると思うことにあります。体があなたの中にあると思うことに害はありません。体、世界、全ては自らの中にあるはずです。というよりも、映像を投げかけられるスクリーンがなければ映画が見られないように、何ものも自らから離れて存在できません」。目標への最良の道は何かについての質問に答え、バガヴァーンは言いました。「到達されるべき目標はありません。得られるべき何ものもありません。あなたは自らです。あなたは常に存在します。それが存在するという以外の何ものも自らの性質であると断言できません。神、もしくは、自らを見ることとは、自ら、もしくは、あなた自身であることでしかありません。見ることとは、あることです。あなたは、自らであるのに、どのように自らを得るのか知りたいと思います。それはラマナーシュラマムにいる人が、ラマナーシュラマムに到達するための道がどれぐらいあるのか、彼にとってどれが最良の道か尋ねるようなものです。あなたに必要とされる全ては、あなたがこの体であるという思いを放棄すること、外側の物事や自らならざるものについての全ての思いを放棄することです。心が外的対象物に向かって出て行く度に、それを引き止め、それを自ら、もしくは、『私』に定めなさい。それがあなたの側に要求される全ての努力です。様々な思想家によって定められる様々な方法は全て、これについて一致しています。アドヴァイタ、ドヴァイタ、ヴィシィシュタードヴァイタ学派や他の学派は全て、心が外側の物事について思うのを止めなければならず、自ら、もしくは、それらが呼ぶところの神について思わなければならないということで一致しています。それが瞑想と呼ばれています。しかし、瞑想は我々の本質であるため、あなたが自らを実現する時、かつて手段であったものが今や目的であることを、かつて努力しなければならなかったのに今やたとえ望んでも自らから逃れられないことをあなたは見出すでしょう」。
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