論文集-聖者たち
21. ブッダ
21. ブッダ
シュリー・R.P.チョウドリー著、ラングーン
ブッダとシュリー・ラマナ・マハルシの教えの間には多分に類似性が存在します。ライオンたちが同じように吼えるのとまさしく同様に、賢者たちは同一の真理について語ります。
悟りを得るとすぐに、ゴータマは有名な最初の説法を行い、ダルマチャクラ(法輪)を転じ始めました。ドゥッカ(苦)は存在の根本的な事実であり、仏教はこの苦しみという軸の周りを回転します。救いの体系の中の苦しみという事実の重要性を強調する必要はありません。「永続的でないものは、苦しみである」。苦しみは人生の重要な事実ですが、そこから逃れることは可能です(そのため、仏教は悲観的な宗教ではありません)。
最初の説法で、ブッダは有名な四つの崇高な真理(四聖諦)-①苦しみ(苦)、②その原因(集)、③その消滅(滅)、④その消滅に通じる道(道)を説きました。苦しみの原因は渇望、タンハーであり、八つの道(八正道)に従うことによる、その完全な消滅は、苦しみの原因と共に苦しみを終わらせます。
四分で分かるブッダの四聖諦
さて、質問が生じます。誰が苦しむのか。誰のタンハーなのか。その答えは、「自らならざるものの徴についての教説」と題する第二の説法で与えられます。
ブッダは、「体(ルーパ)は、おお、比丘たちよ、自らではありません。それは病にかかりやすく、『私の体がこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えないため、それが自らであるはずがありません。体は自らでないため、病にかかりやすく、『私の体はこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えません」と言うことで始めました。これらの発言は、個人の構成要素である五つのスカンダ(五蘊)全て-ルーパ、物質または体(色)に加え、ヴェーダナー、感覚(受)、サンジニャー、認識(想)、サンスカーラ、心の作用因(行)、ヴィジニャーナ、意識(識)-に適用されます。その後で、ブッダは尋ねます-「あなたがたはどう思いますか、おお、比丘たちよ、体などは永続的ですか、それとも、永続的ではありませんか」。「永続的ではありません、主よ」と比丘たちは答えました。「永続的でないものはスカ(楽)をもたらしますか、ドゥッカ(苦)をもたらしますか」。「ドゥッカをもたらします、主よ」と比丘たちは返答しました。「では、苦しく、変化を被るものを見て、『これは私のものである。これは私である。これは私の自らである』と言うことは、適切ですか」。「いいえ、主よ」と比丘たちは答えました。「それゆえに、おお、比丘たちよ、どのようなルーパetcであれ、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、遠いものであれ、近いものであれ、全てのルーパetcはこのように見なされるべきです-『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の自らではない』。そのようにみなし、おお、比丘たちよ、気高い弟子はスカンダに無関心になります。無関心は離欲を生じ、離欲は解放に通じます」。(Disinterestedness>Dispassion>Deliverance、D³)
別の機会に、上の説法を繰り返した後、ブッダは直喩を述べ、スカンダが我々にとっていかに無縁なものかを示します。「ある人が祇園精舎で巻き藁を集め、それを積み重ねて山にする時、その人が我々を積み重ねて山にしつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。また、巻き藁の山に火がつけられている時に、我々が燃やされつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。同様に、スカンダは我々とは全く別のものです。しかしながら、我々は愚かにもアナートマンである体と心を我々のまさしく自らとみなし、そのために、我々は苦しみます」。
ブッダの最初の二つの説法は、彼の主な教えをまとめ上げています。例えば、有名な因果法則、プラティーティヤサムトパーダ(縁起)は、苦しみの原因についての第二の崇高な真理の中に暗示され、仏教の倫理は崇高な八つの道の中に凝縮されています。
カラニーヤ・メッタ・スッタ-慈愛(パーリ語のカラオケと英語の意味)
「自らでない」を明白に意味する「アナートマン」という言葉は、「自らはない」を意味すると仏教徒にたいてい受け取られていて、自らは存在しないとブッダは説いた-彼は自我である自らを拒んだだけでなく、普遍的な自らも否定した-と主張されています。しかしながら、そのような結論は、上に引用した聖句によって是認されません。それによれば、ブッダが述べた全ては、どのスカンダも決して我々の自らとみなされるべきではないということであり、そこから導かれる唯一の論理的な結論は、一切のスカンダが完全に取り除かれている時、残るものは自らであるということです。束縛は自らならざるスカンダを自らとみなすことに存し、解放はスカンダを自らと脱‐同一視することによって得られます。アートマンを得るためには、解放への道をふさぐ自我である自らを拒否することが必要です。
仏教はヒンドゥー教徒によって異端の烙印を押されてきました。しかしながら、仏教がバラモン教と異なるのは非本質的なところです。つまるところ、話す言葉は違えども、全ての国の賢者は同一の永遠の真理を宣言します。
古くから続く同一の真理が、最も新たな賢者、自らなる現実の生ける化身であったシュリー・ラマナ・マハルシによって、再び語られています。彼に敬礼を!