2015年10月17日土曜日

ゴータマ・ブッダとラマナ・マハルシ - 賢者は同一の真理を語る

◇『The Call Divine(召命)』 Volume V、Book 5、1957年1月1日、p207~209

論文集-聖者たち

21. ブッダ

シュリー・R.P.チョウドリー著、ラングーン

 ブッダとシュリー・ラマナ・マハルシの教えの間には多分に類似性が存在します。ライオンたちが同じように吼えるのとまさしく同様に、賢者たちは同一の真理について語ります。

 悟りを得るとすぐに、ゴータマは有名な最初の説法を行い、ダルマチャクラ(法輪)を転じ始めました。ドゥッカ(苦)は存在の根本的な事実であり、仏教はこの苦しみという軸の周りを回転します。救いの体系の中の苦しみという事実の重要性を強調する必要はありません。「永続的でないものは、苦しみである」。苦しみは人生の重要な事実ですが、そこから逃れることは可能です(そのため、仏教は悲観的な宗教ではありません)。

 最初の説法で、ブッダは有名な四つの崇高な真理(四聖諦)-①苦しみ(苦)、②その原因(集)、③その消滅(滅)、④その消滅に通じる道(道)を説きました。苦しみの原因は渇望、タンハーであり、八つの道(八正道)に従うことによる、その完全な消滅は、苦しみの原因と共に苦しみを終わらせます。

 
四分で分かるブッダの四聖諦

 さて、質問が生じます。誰が苦しむのか。誰のタンハーなのか。その答えは、「自らならざるものの徴についての教説」と題する第二の説法で与えられます。

 ブッダは、「体(ルーパ)は、おお、比丘たちよ、自らではありません。それは病にかかりやすく、『私の体がこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えないため、それが自らであるはずがありません。体は自らでないため、病にかかりやすく、『私の体はこのようでありますように、あのようでありませんように』と我々は言えません」と言うことで始めました。これらの発言は、個人の構成要素である五つのスカンダ(五蘊)全て-ルーパ、物質または体(色)に加え、ヴェーダナー、感覚(受)、サンジニャー、認識(想)、サンスカーラ、心の作用因(行)、ヴィジニャーナ、意識(識)-に適用されます。その後で、ブッダは尋ねます-「あなたがたはどう思いますか、おお、比丘たちよ、体などは永続的ですか、それとも、永続的ではありませんか」。「永続的ではありません、主よ」と比丘たちは答えました。「永続的でないものはスカ(楽)をもたらしますか、ドゥッカ(苦)をもたらしますか」。「ドゥッカをもたらします、主よ」と比丘たちは返答しました。「では、苦しく、変化を被るものを見て、『これは私のものである。これは私である。これは私の自らである』と言うことは、適切ですか」。「いいえ、主よ」と比丘たちは答えました。「それゆえに、おお、比丘たちよ、どのようなルーパetcであれ、過去のものであれ、未来のものであれ、現在のものであれ、内にあるものであれ、外にあるものであれ、粗大なものであれ、微細なものであれ、良いものであれ、悪いものであれ、遠いものであれ、近いものであれ、全てのルーパetcはこのように見なされるべきです-『これは私のものではない。これは私ではない。これは私の自らではない』。そのようにみなし、おお、比丘たちよ、気高い弟子はスカンダに無関心になります。無関心は離欲を生じ、離欲は解放に通じます」。(Disinterestedness>Dispassion>Deliverance、D³)

 別の機会に、上の説法を繰り返した後、ブッダは直喩を述べ、スカンダが我々にとっていかに無縁なものかを示します。「ある人が祇園精舎で巻き藁を集め、それを積み重ねて山にする時、その人が我々を積み重ねて山にしつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。また、巻き藁の山に火がつけられている時に、我々が燃やされつつあると思う比丘は誰もいないでしょう。同様に、スカンダは我々とは全く別のものです。しかしながら、我々は愚かにもアナートマンである体と心を我々のまさしく自らとみなし、そのために、我々は苦しみます」。

 ブッダの最初の二つの説法は、彼の主な教えをまとめ上げています。例えば、有名な因果法則、プラティーティヤサムトパーダ(縁起)は、苦しみの原因についての第二の崇高な真理の中に暗示され、仏教の倫理は崇高な八つの道の中に凝縮されています。

カラニーヤ・メッタ・スッタ-慈愛(パーリ語のカラオケと英語の意味)

 「自らでない」を明白に意味する「アナートマン」という言葉は、「自らはない」を意味すると仏教徒にたいてい受け取られていて、自らは存在しないとブッダは説いた-彼は自我である自らを拒んだだけでなく、普遍的な自らも否定した-と主張されています。しかしながら、そのような結論は、上に引用した聖句によって是認されません。それによれば、ブッダが述べた全ては、どのスカンダも決して我々の自らとみなされるべきではないということであり、そこから導かれる唯一の論理的な結論は、一切のスカンダが完全に取り除かれている時、残るものは自らであるということです。束縛は自らならざるスカンダを自らとみなすことに存し、解放はスカンダを自らと脱‐同一視することによって得られます。アートマンを得るためには、解放への道をふさぐ自我である自らを拒否することが必要です。

 仏教はヒンドゥー教徒によって異端の烙印を押されてきました。しかしながら、仏教がバラモン教と異なるのは非本質的なところです。つまるところ、話す言葉は違えども、全ての国の賢者は同一の永遠の真理を宣言します。
 
 古くから続く同一の真理が、最も新たな賢者、自らなる現実の生ける化身であったシュリー・ラマナ・マハルシによって、再び語られています。彼に敬礼を!

2015年10月10日土曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第5章 ハートの場所

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p58-62

マハルシの福音

第2巻 第5章 ハートの場所

信奉者:
 しかし、私はある聖者によって彼の霊的体験が眉間で感じられると言われるのを聞きました。

マハルシ:
 以前、私が話したように、それは主体‐対象の関係性を超越する究極的かつ完全な実現です。それが達成されるとき、どこで霊的体験が感じられるかは重要なことではありません。

信奉者:
 しかし、問題は、2つの見解、すなわち、①霊的体験の中心は眉間である ②それはハートである、の内のどちらが正しいのかということです。

マハルシ:
 修練の目的上、あなたは眉間に集中してもかまいません。その時、それはバーヴァナ、心の想像的観想になるでしょう。しかしながら、アヌバーヴァ、実現の至高の状態は心を超越し、それとあなたは完全に同一化し、その中にあなたの個人性は完全に解消されます。その時、対象化された中心が、それと異なり、分離した主体としてのあなたによって経験されることはありえません。

信奉者:
 少しばかり異なる言葉で私の質問をしたいと思います。眉間は自らの座であると言うことができますか。

マハルシ:
 自らが意識の究極的な源であり、心の3つの状態すべての間に等しく存続しているとあなたは認めています。しかし、瞑想中の人が眠気に負けるときに何が起こるか見てみなさい。眠りの最初の兆候として、彼の頭はうつむき始めます。しかしながら、自らが眉間や頭の他のどの場所にでも位置しているなら、それは起こり得ません。

 眠りの間に自らの体験が眉間で感じられないなら、その中心が自らの座と呼ばれるとき、自らが己のあるべき場所をしばしば見捨てるということを必ずも暗示することになり、それは馬鹿げています。

 実のところ、サーダカは、その心を集中するどのような中心、チャクラにおいてでも彼の体験を得ることがあります。しかし、そのために、彼の体験のその特定の場所が、その事実そのものによって、自らの座にはなりません。

 聖者カビールの息子、カマールについて興味深い話があります。それは、頭が(そして、なおのこと眉間が)自らの座とは見なせないことを示す例として役立ちます。
 カビールはシュリー・ラーマを熱烈に信奉しており、彼が信奉する主を褒め称える人々に彼は必ず食べ物を与えました。しかしながら、ある時、そのような信奉者の集まりに食べ物を提供するための資金をたまたま彼は持ち合わせていませんでした。しかしながら、彼にとって、翌朝までに彼がどうにかして必要なあらゆる手はずを整えなければならないという以外の選択肢はあり得ませんでした。それで、彼とその息子は必要な食料を確保するために夜中に出かけました。
 話によれば、父親と息子が、彼らが壁に作った穴を通じて商人の家から食料を取り去った後、息子は、家族を起し、家に泥棒が入ったことを、道義上、ただ彼らに知らせるために、再び入りました。家族を起し、少年が穴を通ってまんまと逃げおおせ、反対側にいる父親に加わろうとしたとき、彼の体が隙間に詰まってしまいました。追跡する家族に身元を確認されるのを避けるため(というのも、もし見つかれば、翌日、信奉者たちへの食べ物の提供が全くなくなるだろうから)、彼は父親に呼びかけ、その首を切断し、一緒に持ち去るように言いました。それは行われ、カビールは盗んだ食料と息子の頭をもってまんまと逃げおおせ、家に着くとすぐにその頭は起こりうる発覚から隠されました。翌日、カビールはバクタたちにご馳走し、前夜に起こったことを全く気に留めていませんでした。「ラーマのご意思が」、彼は心の中で言いました、「私の息子が死ぬことであるなら、それが行き渡らんことを!」。夕方、カビールはその一行と共に、バジャナなどを伴い、いつも通り列をなして町へ出かけました。
 その間、泥棒に入られた家族は王様に報告し、頭を切り取られたカマールの体を取り出しましたが、手掛かりは得られませんでした。その身元を確認するために、王様は目立つように公道上に体をくくり付けました。それを要求したり、持ち去る者が誰であれ(というのも、どんな死体も、最後の儀式が親類縁者によってそれに行われなければ見捨てられないので)、その目的のために秘密裏に配置された警察に尋問されるか、逮捕されるようにです。
 バジャナもたけなわに、カビールとその一行が公道のそばを通った、そのとき、皆が驚愕したことに、(完全に死んだとみなされていた)頭を切り取られたカマルの体が、バジャナの一行によって歌われる調べに合わせて足踏みしながら手をたたき始めました。
    この話は、頭や眉間が自らの座であるという提言を反証しています。また、戦場において、突然の力強い剣の一撃によって戦闘中の兵士の頭が体から切り落されたとき、終には死んで倒れる前に、ほんのしばらくの間、体が戦うふりをして走ったり、手足を動かし続けたりすることに言及してもいいでしょう。

信奉者:
 しかし、カマールの体は何時間も前に死んでいたのではないですか。

マハルシ:
 カマールにとって、あなたが死と呼ぶものは、並外れた経験では全くありません。ここに彼がさらに年若かった時に起こったことについての話があります。
 少年のころ、カマールには同い年の友達がいて、よく彼と一緒におはじき遊びなどをしたものでした。彼らの間で守られる一般的な決まりは、彼らの内の1人がもう1人に1、2勝の借りがあるなら、翌日に同じだけ返却されなければならないということでした。ある晩、彼らは1勝をカマールの貸しで別れました。次の日、「勝ちの返還」を要求するために、カマールは少年の家に行きました。そこで彼は少年がヴェランダで横になっているのを目にしましたが、その一方で、彼の親族たちが彼のそばで涙していました。
 「どうかしましたか」とカマールは彼らに尋ねました。「昨晩、彼は僕と遊んでいて、僕に1勝の借りもあるんです」。親族たちはさらにいっそう涙し、少年は死んでいるのだと言いました。「いいえ」とカマールは言いました。「彼は死んでいません。ただ彼が僕に借りている勝ちを返却するのを逃れようとして、そんなふりをしてるだけです」。親族たちは抗議し、カマールに自分自身で少年が本当に死んでいることを、体が冷たく硬直していることを確かめるように求めました。「でも、この全ては、この子のふりに過ぎません。私は知っています。体が硬直して冷たいから何だっていうんですか。僕もそのようになれます」。そのように言って、カマールは横たわり、瞬く間に死んでいました。
 哀れな親族たちは、その時まで彼ら自身の子供の死に涙していたのですが、気が動転し、うろたえ、今やカマールの死にも涙し始めました。しかし、仰向けのカマールは立ち上がり、「もう分かりましたか。あなたたちが言うであろうように僕は死んでいましたが、僕は再び起きて、ぴんぴんしています。こうやって彼は僕を欺きたいのですが、彼のふりでこのように僕から逃れることはできません」と言明しました。
    話によれば、最後には、カマールの生来の聖者のごとき性質が死んだ少年に命を与え、カマールは彼に支払われるべき勝ちを取り戻しました。その教訓とは、体の死は自らの消滅ではないということです。体とそれの関係は誕生と死によって制限されません。そして、肉体の中のそれの場所は、例えば眉間のように、特定の場所で行われるディヤーナの修練のために、その中心で感じられる体験によって、範囲を定められません。自らの認識という至高の状態は、決してなくなりません。それは誕生と死だけでなく、心の3つの状態も超越します。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンが、自らは、その座はハートにあるが、どの中心やチャクラでも働くことがあると言うため、眉間での強烈な集中、ディヤーナの修練によって、この中心それ自体が自らの座となることは可能ではないのですjか。

マハルシ:
 それがあなたの注意を制御する場所を定めることによる集中の修練の段階に過ぎない限りは、自らの座についてのどのような考察も理屈の産物に過ぎません。あなたはあなた自身を主体、見る者とみなし、あなたが注意を定める場所は見られる対象になります。これはバーヴァナに過ぎません。逆に、あなたが見る者自身を見るとき、あなたは自らに溶け込み、あなたはそれと一体になります。それがハートです。

信奉者:
 では、眉間での集中の修練は望ましいものですか。

マハルシ:
 どのような類のディヤーナの修練であれ、その最終的結果は、サーダカが心を定める対象が主体と異なり、分離して存在するのを止めるということです。それら(主体と対象)は、唯一の自らになり、それがハートです。

 眉間の中心への集中の修練は、サーダナの方法の1つであり、それによって、差し当たり、思いは効果的に制御されます。その理由はこれです。全ての思いは、心の外向きの活動です。そして、思いは、体もしくは心の「視覚」の後にやって来ます。

 しかしながら、注意すべきは、この眉間に注意を定めるというサーダナは、ジャパを伴わなければならないということです。なぜなら、心を制御するためであれ、散らすためであれ、重要性において体の目に次ぐものは、体の耳であるからです。心を制御し、それによって心を鍛えるためであれ、心を散らし、それによって心を浪費するためであれ、重要性において心の目(つまり、心による対象物の映像化)に次ぐものは、心の耳(つまり、心による言葉の発声)です。

 ですから、例えば眉間のように、中心に心の目を定める間、あなたはナーマ(名)、もしくは、マントラ(聖なる音節)の心による発声も修練すべきです。そうでなければ、あなたはすぐに集中の対象を手放すでしょう。

 上に述べられたようなサーダナは、御名(ナーマ)、御言葉(マントラ)、もしくは、自ら-あなたがそれなんと呼ぶのであれとディヤーナのために選ばれた中心との同一化に通じます。純粋な意識自ら、もしくは、ハートが、最終的な実現です。

信奉者:
 どうしてシュリー・バガヴァーンは、チャクラのどこか特定の中心への集中を修練するよう私たちに指示しないのでしょうか。

マハルシ:
 ヨーガ・シャーストラには、サハスラーラ、脳が自らの座であると書いてあります。プルシャスークタは、ハートがその座であると主張します。起こりうる疑問をサーダカが避けられるように、私は彼に、「私」(という)性(質)、「私はいる」(という)性(質)なる「糸」、手がかりを手に取り、その源までそれを追跡するように言います。なぜなら、第1に、誰にとっても彼の「私」という概念について疑問を抱くことは不可能であり、第2に、どのようなサーダナが採用されても、最終目標は、あなたの体験の根源的な所与である「私はいる」性の源の実現であるからです。

 ですから、あなたがアートマ・ヴィチャーラを修練すれば、自らであるハートにあなたは達するでしょう。

2015年10月3日土曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第8章 安らぎと幸福

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p31

マハルシの福音

第1巻 第8章 安らぎと幸福

信奉者:
 どうすれば私は安らぎを得られますか。私はヴィチャーラを通してそれを獲得しないようです。

マハルシ:
 安らぎは、あなたの自然な状態です。その自然な状態を妨げるのは、心です。あなたのヴィチャーラは心の中だけで行われてきました。心とは何か吟味しなさい。そうすれば、それは消え去るでしょう。思いと離れて心というようなものはありません。それにもかかわらず、思いの出現のために、あなたはそれが飛び出してくる何かを推測し、それを心と名付けます。あなたがそれが何か知ろうと探るとき、心というようなものは実際にはないとあなたは見出します。心がそのように消失するとき、あなたは永遠の安らぎを実現します。

信奉者:
 詩、音楽、ジャパ、バジャナ、美しい風景を見ること、霊的な詩節からなる詩を読むことなどを通して、人は時に真の全一性の感覚を体験します。(個人の自分が存在する余地がない)その深い至福に満ちた平静の感覚は、バガヴァーンが話すハートの中へ入ることと同じですか。その修練はより深いサマーディへ、そして、究極的には現実なるもの(the Real)を完全に見通すことに通じるでしょうか。

マハルシ:
 心に心地よい物事が提供されるとき、幸福があります。それは自らに本来備わっている幸福であり、他の幸福はありません。そして、それはかけ離れた遥か遠くにありません。あなたが楽しいとみなす、それらの場合に、あなたは自らの中に潜りつつあり、その潜ることは、自存する至福に帰着します。しかし、観念連合*がその至福を他の物事や出来事に押し付けることを招いていますが、実際、その至福はあなたの内にあります。それらの場合に、無意識的にですが、あなたは自らの中へ飛び込みつついるのです。まさしく自ら、唯一の現実である、その幸福とあなたが同一であるという体験から生じる確信をもって、あなたが意識的にそのようにするなら、あなたはそれを実現と呼びます。私はあなたに自らの中に、つまり、ハートの中に意識的に潜ってほしいのです。

*観念連合・・・association of ideas、「ヒュームの連合観念説とは、ある現象の後に特定のある現象が起ることを繰り返し体験すると、時間的に先行する現象を原因だと錯覚し、習慣的にその後に起った現象を結果だと思い込んでしまうという説である」とあるサイトに書かれています。ここでは、「ある現象」とは「心地よい物事」であり、「後に起こる特定のある現象」が「幸福」となるでしょうか。