『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅳ
プラフラーダの物語
M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳
ヴァーシシュタ曰く:
おお、ラーマ!知恵を獲得し、解放を達成するために、アシュラの王、プラフラーダによって採られた方法を私は説きましょう。デーヴァの敵、ヒランヤカシプ(彼の父)が、(主ヴィシュヌ)によって殺害された時、プラフラーダはとても悲しくなりました。彼は思いました。「世界に終わりが訪れる時に嵐によって破壊されつつあるクーラの山々のように、我が父とアシュラの首長らは皆、ヴィシュヌによって滅し尽くされた。ヴィシュヌは我が先祖と多くの戦を交えた。彼は決して戦から身を引いたことがない。今や、彼が私を恐れるのか。ただ彼に委ねることによって、心の底から彼に完全な寄る辺を求めることによってのみ、私は彼を征服できる。彼は私の唯一の寄る辺である。この時より、私は彼を寄る辺としよう。実際、私はすでにヴィシュヌになっている。オーム・ナモー・ナーラーヤナーヤ(ナーラーヤナ、つまり、ヴィシュヌに礼拝いたします)というマントラは、我々皆の望みを満たす。大気が空中で震えるのとまさしく同様に、それは私のハートの中で震えることを決して止めない。ヴィシュヌでない者は、ヴィシュヌの形式的な崇拝によって、真の崇拝の結果を得ない。人はヴィシュヌになる後に、ヴィシュヌを崇拝すべきである。私は今やヴィシュヌとなった」。
そのように、プラフラーダは彼の体をヴィシュヌの体であると想像し、彼を崇拝する適した方法について考えました。彼は心の中で思いました。「至高なる存在、ヴィシュヌは、出入りする息の形で、この体の外に存在している。然るべき儀式によって、私はこの息を心の中で崇拝しよう」。それに応じて、宝石がはめ込まれた器、サンダルペーストや他の香り、香料、灯、様々な類の装飾のような神聖な全ての道具一式が彼の前にあると想像し、プラフラーダは心の中で崇拝しました。次に、彼は崇拝に必要とされる実際の用具を含む寺院の中で(宮殿内で)ヴィシュヌを崇拝しました。そのように、彼は毎日、至高なる主を献身的に崇拝しました。彼の例にならい、彼の臣民、アシュラたちもまたヴィシュヌを崇拝し始めました。
アシュラたちがもはやヴィシュヌに憎しみを抱いておらず、彼の信奉者になったという知らせが、天空の住まいに届きました。インドラ、デーヴァたち、マルト神群、皆が危惧しました。すぐさま彼らは乳海の上の蛇にもたれかかるヴィシュヌのもとへ行きました。彼らは祈りました。「バガヴァーン!いつもあなたに敵対していたアシュラたちが今やあなたの信奉者になったのは、一体どういうことですか。邪悪で、無情なアシュラたちが、最後の生においてのみ生じ、培われる、あなたへの献身と何の関わりがあるのですか。悪人が善人に変わる時、世界にとって悲しみと苦悩に終わると言われています。それは季節外れに咲く花々のようです」。
これに対して、ヴィシュヌは言いました。「おお、デーヴァたちよ!プラフラーダの私への献身についてうろたえないように。これは彼の最後の生まれです。彼は今や解放に適しています。善人が善人でなくなる時、それは危険の徴です。しかし、悪人が善人に変わる時、それは良い徴です。デーヴァたちよ!あなたがたの住まいに戻りなさい。プラフラーダの善性は、誰にとっても害となりません」。こう述べて、タマラ花をつけた大きな枝のように、主は海の波間に消え去りました。
しかるべく彼を称賛した後、デーヴァたちは天界に戻りました。彼はプラフラーダの友となり、彼をヴィシュヌの信奉者と見なしました。
その間、プラフラーダはヴィシュヌの崇拝に夢中でした。彼は感覚的楽しみへの欲望を抱いていませんでしたが、安らぎを得られませんでした。彼の心は揺れ動き、不安定でした。ヴィシュヌはこれをその全知によって知り、彼の従者と共にパーターラ(の世界)にあるプラフラーダの寺院に行きました。主が実際に彼のもとへやって来たのをプラフラーダが見た時、彼は非常に喜び、より一層の献身を持って彼を崇拝しました。大変な熱意と意義を備えた言葉で持って、彼は前に立つ主を称賛しました。
彼の称賛の言葉を耳にするとすぐに、ヴィシュヌは雨雲を目にした孔雀のごとく満足しました。彼はプラフラーダに言いました。「おお、アシュラ族の宝石、彼らの宝物庫よ!あなたの誕生と死に終焉をもたらす恩恵を求めなさい」。プラフラーダは答えました。「主よ、あなたは我々の一切の欲望を満たす者です。あなたは永遠に遍在しています。あなたが思う、私にとって最良なる恩恵を私に授けたまえ」。これに対してヴィシュヌは言いました。「おお、罪なき魂よ!ブラフマンを達成し、それに留まるまで、自らの探求を修練しなさい。あなたの迷妄は終わりを迎え、あなたは最高の善を達成します」。このように言い、ヴィシュヌは静かに姿を消しました。プラフラーダは送別の花を捧げ、蓮華座で床に座りました。適切な讃歌を唱えた後、彼は次のように熟慮しました。「ヴィシュヌによって定められたように、私は自らの探求を修練しよう。この広大な世界の中で、話し、歩き、立ち、進み、働く、私とは誰か。私は樹木、草木、草地を伴う、この大地ではない。外側にあるものは、全く意識がない。どうして私がそれでありうるのか。生まれる前、この体は独力で存在しなかった。それは生命の流れ(プラーナ)によって命を吹き込まれている。それはじきに存在しなくなる。私がこの意識のない体であるはずがない。
また、私は、形を持たず、永続性を持たない音でもない。私は、意識のおかげで存在する、永続的でなく、意識のない触覚でもない。また、私は、対象物に依存して存在する、変わりやすく、意識のない味覚でもない。形に関して言えば、それは視覚と意識のない知覚対象物との接触に依存している。それは独力で存在せず、それゆえ、私は意識のない形でない。また、私は、断続的に経験される、意識のない嗅覚でもない。
『これは私のものである』のような、一切の心の概念もまた私は欠く。私は、変わりやすい五感と異なる、一切の対象性のマーヤーを免れた、純粋なる意識である。純粋なる光輝として、私は万物の内に外に行き渡る。私は、汚れなく、不可分の純粋なる実在である。ああ!私自身が全世界であることを今や私は確かに知っている。私は、あらゆる概念を欠く、全てに行き渡る自ら、光り輝く意識である。太陽から壺や衣服のごとき些細なものにいたるまで、万物は私によって、私のみによって照らされている。私はブラフマーの住まいすらも超え、未来永劫も存在し続ける。私は今もこれからも永遠に広大無辺である。自らは、『私』なる概念を超えている。その(概念)は私を有限に見せるが、私は無限である。私は今や完全な平静として打ち立てられている。私は万物をとても喜ばしく見ている。私は純粋なる意識である。
私は、完全に概念を欠く、全生命の内なる意識、私自身に敬礼する。(世界の創造のごとき)全ての素晴らしき偉業は、私によって、絶対的に純粋で、汚れなき、不可分かつ不変の、この至高なる意識によって行われている。過去、現在、未来を思い煩わない、一切の概念を欠き、相違を見ない、その心は、完全なものである。そのような心を描写したり、定義することは不可能である。自らなる現実を理解しない人々には、それは虚無のように見えるかもしれない。愛憎という垢により汚された心は、決して自由になれない。それはその足が紐につながれた鳥のごとくである。愛憎なる対になる両極によって惑わされ、全生命は、暗く不潔な穴の中を這う、惨めな芋虫のごとくである。
(続く)
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