2016年5月13日金曜日

プラフラーダの物語② - ヴィシュヌの信奉者になったアシュラの王

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月、p101~103

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅳ


プラフラーダの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

 プラフラーダは続けました。「私の不可分の自らに敬礼を!おお、一切世界を照らす宝石よ!やっとのことで、私はあなたを得た。私はあなたについて注意深く考えた。私はあなたを明確に理解した。あなたは明確にあなた自身を顕した。あなたは私によって達された。いつもあったごとく、あなたは(今も)ある。あなたに敬礼を!吉祥たる至高なる自ら、主の中の主たる、あなたと異ならない私に敬礼を!雲が立ち去った満月のごとく、それを隠したものを取り除くや否やその真の姿を再び帯びた、私の自らに私は敬礼する。それは純粋なる至福として住し、独りで立ち、己の支配下に留まる。それは座しているように見えるかもしれないが、実際には座っていない。それは行くように見えるかもしれないが、実際には行かない。それは不活発なように見えるかもしれないが、活動的である。それが行う時でさえ、それは影響されない。風が木の葉を揺り動かすように、それは心を活動的にする。二輪戦車を駆る者がその馬を導くのとまさしく同様に、それは五感を導く。人は自らのみを探求し、それのみを思い、それのみを称賛すべきである。そうすれば、人は誕生と死なる錯覚を超え行き、自由になることができる。蓮華の上の蜂のごとく、それはハートの蓮華の中に明確に見られうる(つまり、体験されうる)。親しい身内のごとく、それに自由に近づくことができる。私はもはや感覚的快楽への何らの欲望も持たない。しかし、私は意図的にそれを断ったりもしない。何が去来しようとも、私は気にかけない。今まで、私は私の敵、独りいる私を悩ませていた無知によって識別力を奪われていた。私は心を心によって切り倒し、自我意識から自由になった。私は真の知の助けによって一切の誤った概念を取り除いた。私は今や私の真の境地に住する。私の体は、概念、自我意識、心、欲望を欠く、純粋かつ不変なる自らの内に存在する。縛りつけていた欲望なる紐を引きちぎり、自我なる鳥は私の体なる鳥かごから飛び去った。私はそれがどこへ行ったのか知らない。人がのぼせ上がらないなら、女性の美が盲目の人にとって存在しないのとまさしく同様に、その貴重な所有物は存在していないも同然である。

 「万歳!恐ろしい容貌をした、あなたよ!万歳!平和を愛する者である、あなたよ!万歳!一切の聖典を超える、あなたよ!万歳!一切の聖典の基礎となる、あなたよ!万歳!傷ついている、あなたよ!万歳!傷ついていない、あなたよ!万歳!存在する、あなたよ!万歳!存在しない、あなたよ!万歳!征服されうる、あなたよ!万歳!征服しえない、あなたよ!」

 プラフラーダ、敵の殺害者は、その後、無概念かつ至福に満ちた境地に入りました。五千年間、絵画の中の人物のごとく動きなく、彼はサマーディに留まりました。彼の王国は混乱に陥りました。魚類の掟(つまり、弱肉強食)がはびこりました。その時、乳海の中で蛇シェーシャによって形作られた寝椅子に横たわり、三世界なる蓮華にとって太陽のごとくあり、全世界の秩序を保つという務めを持つ、ヴィシュヌは思いました。「プラフラーダは自らに没頭している。パーターラの王国には統治者がいなくなった。もはやアシュラがいないため、創造は完全ではなくなる。アシュラがいなくなれば、デーヴァには誰をも征服する機会がない。彼らは平和を愛する者となり、解放を達成する。彼らが解放を達成する時、供儀のごとき宗教儀式や苦行は無意味になり、じきに終わりを迎える。それらが終わりを迎える時、世界は終わりを迎え、サンサーラの問題はもはや存在しなくなる。その時、太陽、月、星々を欠くこの世界において、私は静寂の境地を達成し、その境地に留まる。このように世界が時ならず終わりを迎えるのは、よろしくない。それゆえに、アシュラを繁栄させよう。彼らが繁栄する時、デーヴァは活動的になる。その時、供儀や苦行、サンサーラも再び働き始める。プラフラーダは現カルパの終焉まで、彼の体に留まるべきである。これが我が節理である。」

 こう決心して、至高なる主は乳海を離れ、プラフラーダの都市へやって来て、彼の宮殿に入りました。彼のそばでチャマラ(ハエ払い)を振るラクシュミーと共に、彼はガルーダの上に乗っていました。彼には武装した付添人と彼を称賛する神々しい賢者たちが同伴していました。彼はプラフラーダに「おお、偉大なる魂よ!目覚めよ」と言い、とても大きな音でほら貝を吹いたので、その地域には音が響き渡りました。ヴィシュヌの生命の息によって作り出された音を耳にするとすぐに、プラフラーダはゆっくりと目覚めました。彼の生命力はブラフマランドラ*1から生じ、ゆっくりと体の全てのナーディに行き渡りました。それが入口を通って五感に入った時、彼の心は内なる生命力の鏡に映し出され、知覚対象物に向けられました。鏡に映った顔がもう一つの顔のように見えるのとまさしく同様に、知覚対象物に向けられた心は対象物の形を帯びました。心が生じ始めた時、青蓮華のごとき眼もまた開き始めました。プラーナとアパーナの作用により、意識が入口を通り、ナーディ中に行き渡った時、風の中の蓮華ごとく、ナーディが活動し始めました。瞬間に、心が活動的になり、眼が開き、体が機能し始めました。

 プラフラーダの目が開き、彼の心が活動的になった時、雨雲が孔雀に語りかけるように(つまり、雷によって)、ヴィシュヌは彼に語りかけました。彼は言いました。「おお、偉大なる魂よ!あなたの偉大さとあなたの体を思い出しなさい。どうして適切な時節の前に、このようにそれを捨て去るのか。あなたはどのようなものにも受容や拒絶の概念をもはや持たない。では、どうしてあなたが体への好悪によって影響されているのか。サマーディから立ち上がり、現カルパの終わりまでこの体と共に留まりなさい。解放された魂のごとく、あなたの王国で煩わされることなく生きなさい。おお、善良なる魂よ!12の太陽は登っておらず、山々は地に沈んでおらず、世界は大火の中にない!*2では、どうして体を捨て去ることをを望むのか。死が歓迎されるのは、『私はやせ衰えた、私は惨めだ、私は愚かだ』と思う者にとってのみである。欲望の紐によってあちらこちらに引っ張られる心を持つ者にとって、それは魅力的になる。その心が何物によっても煩わされず、全生命に等しくある、自我意識を持たない彼は、栄光に満ちた人生を送る。愛憎を免れ、世界を見物人のごとく眺める、穏やかな彼は、栄光に満ちた人生を送る。何物も受容せず、拒絶せず、その心がそれ自体の内に安定している、自らの本質を知った彼は、栄光に満ちた人生を送る。知覚者と知覚されるものという一切の概念の終焉を伴う、心の安らぎが、解放(モークシャ)と呼ばれている。それゆえに、おお、アシュラ族の王よ、立ちて、あなたの玉座に登れ。私自らあなたに冠をかぶせよう。ここに集いしシッダ、サーディヤ、デーヴァたちにあなたを祝福させよう」

 そのように言い、ヴィシュヌは、乳海などやガンジス川のような川から持ってきた聖水によって、プラフラーダに清らかな沐浴をさせました。デーヴァとアシュラの喝采の真中でプラフラーダに冠をかぶせた後、ヴィシュヌは彼に言いました。「おお、罪なき者よ。大地、メール山、太陽、月が存続する限り、王として君臨せよ。あなたの美徳は皆によって称賛されるであろう」。そのように述べ、蓮華の目をした神は、彼に同伴していたデーヴァ、キンナラ、人間と共に、もう一人のシヴァごとく姿を消しました。

ラーマはヴァーシシュタに尋ねた:
 どのようにヴィシュヌのほら貝の音が、その心が至高なる存在に変容していた高貴なプラフラーダを目覚めさせたのですか。

ヴァーシシュタは答えた:
 生きている内にさえ解放された者たちの純粋な傾向は、芽吹かない煎られた種のごとくに彼らのハートの中に住しています。それは純粋なサットヴァ(知)の産物であり、自らのみに属しているため、それは純粋であり、至福に満ちています。彼らが深い眠りの中にいるのとまさしく同様に、それは解放された人々の中に留まっています。千年の隔たりの後でさえ、体が存在するならば、それは活動的になり、成長します。

原注
*1 頭頂にある開口部。それを通じて、魂が体を離れる時、抜け出ると言われている。
*2 これらの出来事は、世界が終わりを迎える時に起こることになっている。

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