いかなる宗教にサーイー・バーバーは属していたか
P.S.V.アイヤル
シュリー・P.S.V.アイヤルは、カルカッタ・サーイー・サマージの書記であり、その月報を編集することと別に、カルカッタのラマナ・ジャヤンティ祝賀会にも積極的に参加しています。彼はまた、マハルシの人生とその作品のいくつかを含む、Sree Ramana Geetikaというベンガル語の出版物を出版する手助けもしました。サーイー・バーバーはどの特定の宗教にも所属しているというそぶりは見せませんでしたが、極めて宗教的でした。彼はどの共同体もひいきにすることはありませんでしたが、宗教的な修練を奨励しました。ヒンドゥー教徒やゾロアスター教徒にならい、彼は聖なる火の世話をしました。彼は服装や行いにおいてイスラム教徒として通り、ダッタ(*1)とシュリー・ラム(*2)を敬愛しました。彼は敬虔なイスラム教徒の熱心さを持ってアッラー・マリク(*3)について語り、聖なるグル・プールニマー(*4)の遵守を命じました。
サーイー・バーバーは、1838年、青年のころに、マハーラーシュトラのラーハター郡にある不毛の放置された村、シルディーへやって来ました。彼は共同社会間の調和の実験を行うために、この面白くない場所を選びました。今住んでいるように、その村には隣人として、当時、ヒンドゥー教徒とイスラム教徒の家族が住んでいました。彼らは互いによく言い争っていました。
見知らぬ人として、バーバーは彼らの中の病人を薬草で手当てし、そして、彼らと仕事を共にしました。彼が彼らに施した奉仕とは別に、サーイー・バーバーは、彼のグル・ヴェーンクシャから彼が得た、そして、彼の苦行と犠牲的行為の力によって蓄えられた彼の達成と精神的な力によって、彼らの注目を引きつけ、彼らの称賛を強いることができました。彼のその存在によって、それゆえ、彼はこれらの素朴な農夫に仲たがいすることの無益さを理解させることができました。彼らはゴーダーヴァリ川の新鮮な水で沐浴し、それを持ち帰るために数マイル歩かなければなりませんでした。彼は彼らのために村に新たな井戸を掘り、村人を互いに協力して働かせることで庭園を設計しました。彼は一緒に、かしこく働くことによって彼らがいかにシルディーをより住み良い場所にできるかを彼らに示しました。
村でサーイー・バーバーはモスクに住み、彼はそれをドゥワラカ・マーイと呼びました。このモスクで、彼は3本の丸太に火を付け、それは今日まで燃え続けています。この火の灰は、病気を癒やすことに奇跡的な効き目があると分かっています。サーイー・バーバーは彼のもとにやって来た人々を祝福し、彼らにあらゆる類の現世的利益と精神的利益を与えました。ここで、彼はナラシンハ・スワーミージが彼の傑作である『Charters and Sayings of SaiBaba』の中に編集した知恵の言葉を話しました。彼の寵愛を共に分かち合い、異なる共同体に所属する、これらの信奉者は、互いを信仰における兄弟とみなしました。
寺院でのアーラティの様子
サーイー・バーバーは、ヒンドゥー教とイスラム教の熱狂者を皮肉ったカビール・ダース(*5)の歌を歌って大いに楽しみました。バーバーはヒンドゥー教の聖典とコーランに驚くほどの熟達を示しました。彼はアブドゥッラー・バーイにコーランを、マハルサパティに『バーガヴァタム』を、ナーナ・サーヘブ・チャンドルカールに『バガヴァッド・ギーター』を朗読するように指示しました。バーバーの愛情深い世話の下で、これらや他の信奉者たちは、知恵と精神性において成長しました。
ある時、イスラム教徒がサーイー・バーバーの前に改宗者を連れて来ました。彼は彼の働きを誇りに思いました。しかし、サーイー・バーバーはそれを拒絶しました。彼は改宗者に父親を変えたことがあるのか尋ねました。彼は人がその過去のカルマによってそのもとに生れてきた宗教から誰が改宗することも決して許しませんでした。サーイー・バーバーは世界の主要な宗教の存在の正当性と必要性を認識していました。彼はバジャン、瞑想、自らの探求を彼の信奉者に勧めましたが、その中のどれが各々の宗教的訓示を損なうことにも反対しました。
サーイー・バーバーは、ラーマナヴァミー祭(*6)の間にシルディーでウルス(*7)と呼ばれる定期市が催されるのを許可しました。ムスリムの商人にその定期市に参加する機会が与えられました。この祭りで催されるレスリングの試合では、ヒンドゥー教徒、イスラム教徒、シーク教徒の闘技者、それに加えて他のどの共同体に所属している闘技者でも(参加が)認められました。優勝者は、彼がどの共同体に所属していても、賞をさらっていきました。ラーマナヴァミーの行進では、ヒンドゥー教徒は旗を運び、イスラム教徒はサンダル・ペーストを含んだ円形盆を持ち出します。この習慣は今でもシルディーで続いています。そのように、姉妹共同体の成員を商売やスポーツや色とりどりの祭りに参加させることによって、バーバーは素晴らしい共同社会の調和を達成しました。
シルディーの祭り-ラムナヴァミー(シュリー・ラーマ・ナヴァミー) 第一部
サーイー・バーバーが1918年10月15日にマハー・サマーディを得た時、彼の遺体を扱う方法をめぐってシルディーのヒンドゥー教徒とイスラム教徒の間に論争が生じました。36時間後に、県の収税官の代理を務める役人の目の前で直接投票が行われ、多数決によって彼の遺体は、ゴーパル・ラオ・ブッティがクリシュナを崇拝するために建てた寺院の中に埋葬されることが決定されました。遺体はこの建物へ行列で運ばれ、そのために建設されたお墓に埋葬されました。その間中、遺体は腐敗や死後硬直もなく、新しいままでした。サーイー・バーバーの遺体を収納した寺院は、サマーディ・マンディールと呼ばれています。この場所で、師の生き生きとした存在を感じます。カーストや信条や国籍に関係なく、昼と夜に取り決められた奉仕に参列するために、ここにはバーバーの信奉者が大勢集まります。
日に2回-正午に1回、夜の最後の時間にもう1回-催される(奉仕の締めくくりの)アーラティの時に、様々な共同体に所属する信奉者がマラーティー語の賛歌の朗唱に参加するのを見ることは、感動的な光景です。その機会に、サーイー・バーバーへの献身が世界中の様々な信仰をもつ人々の心と心をつないでいるのを見ることができるでしょう。
(*1)ダッタ・・・トリムールティ-シヴァ・ヴィシュヌ・ブラフマの3大神ー-を包含するダッタートレーヤー神のこと。
(*2)シュリー・ラム・・・ヴィシュヌ神の7番目の化身であるラーマのこと。
(*3)アッラー・マリク・・・マリクはイスラム教の3番目の神の名で、「王、所有者、支配者」という意味。「アッラー(神)が王である、(すべての)所有者(支配者)である」という意味。
(*4)グル・プールニマー・・・ヒンドゥー教と仏教徒によって行われる聖なる師や勉学の師へ感謝の気持ちを表し、捧げられる祭り。ヒンドゥー教徒は、伝統的に聖仙ヴィヤーサに、仏教徒は仏陀に敬意を表し、祝う。
(*5)カビール・ダース・・・インドの神秘主義的詩聖(1440~1518)。カビールは、イスラム教の37番目の神の名であり、「偉大なるもの」の意。彼の著作「ビージャク」の中で、ヒンドゥー教とイスラム教いずれにおいても、独断的な教えに反対し、コーランとヴェーダはひとまず脇に置いておくことを主張し、神の中の一体性への自然な(サハジャ)道を推奨した。
(*6)ラーマ・ナヴァミー祭・・・ラーマが、ダシャラタ王とカウサルヤー王妃のもとに誕生したことを祝う、ヒンドゥー教の祭り。チャイトラ月、白月(シュクラ・パクシャ)の9日目(ナヴァミー)に行われる。
(*7)ウルス・・・南アジアで行われる、スーフィー聖者の命日祭(http://www.e384.com/imadoki/03india/india_68.html)。
サーイー・バーバーの格言
私は無形であり、あらゆる所にいる
私は一切万物の内にあり、それを超えてある。私は全空間を満たしている
あなたが見る一切は、その全体として、私自身である
私は揺れも、動きもしない
我々の義務とは何か。礼儀正しく振る舞うこと。それで十分である
あなたが何をしようと、あなたがどこにいようと、常にこれを心に留めよ
私はあなたがなす一切のことに常に気づいている
私の宝物庫は開かれているが、そこから取り出すために荷車をもって来る者は誰もいない
私は「掘りなさい」と言うが、誰もかまわない
見られる一切は、私の姿である-蟻、ハエ、王子、貧者
この体は、私の家でしかない
私のグルは、ずっと以前に、それから私を奪い去った
バーバーがシルディーにしかいないと思う人々は、完全に私を知り損なっている
私は一切を平等な目で見る
神の許しがなければ、私は何も行えない
私は日夜、私の子供たちの面倒を見、どの1パイサについても神に報告せねばならない
賢者は快活であり、彼らの運命に満足している
あなたが裕福であるなら、謙虚であれ
植物は、実をつける時に、たわむ
金銭を施しに使え
寛大で、気前よくあれ。ただし、浪費することなく
世俗的活動を快活に続けよ。ただし、神を忘れることなく
人であろうがなかろうが、どのような生き物があなたのもとへ来ようとも
思いやりを持って扱え
富の重みの虜となるな
人の内に神を見よ
人々に怒鳴るなかれ。攻撃的になるなかれ。そうでなく、他者の不平を耐え忍べ
自らと他者、あなたと私の間には分離の壁がある
この壁を破壊せよ!
飢える者に食を、渇く者に水を、裸の者に衣を与えよ。その時、神は喜ぶ
サブリ(忍耐)は、あなたを遠くの目的地まで運ぶ
良い時も悪い時も、最後まであなたから離れない友を選べ
辛らつな言葉はあなたを貫かない。誰かがあなたを悪く言っても、ただ動じずにあり続けよ
誰とも闘うなかれ。復讐するなかれ。誰をも中傷するなかれ
私が溢れんばかりに与えるものを私から取り去りたいと思う者は誰もいない
真実を、ただ真実のみを語れ
あなたが対立や論争を避けるならば、神があなたを守る
怠惰になるな。働き、神の名を口にし、聖典を読誦せよ
他の人々の行為は、ただ彼らにだけ影響する
あなたに影響するのは、あなた自身の行いのみである
我々が一切の行為を神のなすこととみなすなら
我々は愛着を離れ、カルマの束縛から自由になる
あなたが行為の起因であると想像し、自我意識の虜となるなかれ
一切万物は神に起因している
正と邪を識別し、正直で、高潔で、有徳であれ
神の摂理に完全に信頼を置けよ
貧しさは富の中で最上であり、王の富より千倍も優れている
私の信奉者は一切万物を彼らのグルとみなす
起こることに満足し、快活であれ
神が与えるものは尽きず、人が与えるものは決して長くは続かない
誰かがあなたの気分を害しても、それに報復するなかれ
もし無形の瞑想が困難ならば、まさにあなたがここで見るように私の姿について思え
そのような瞑想によって、主体と対象の間の相違は失われ、心は一体性に溶け込む
他者の幸運によって、我々は何を失うのか
彼らと共に祝おう。もしくは、彼らを見習わんとして励め
あなたが他者の悪態に耐えることができないなら、ただ一言、二言簡単な言葉を言え
あるいは、ほうっておけ
神ははるか遠くにいない
彼は上の天国におらず、下の地獄にいない
彼はいつもあなたの近くにいる
形を伴って、もしくは、形を伴わずに私に瞑想せよ。それが純粋な至福である
我々の義務とは何か。礼儀正しく振る舞うこと。それで十分である
あなたが何をしようと、あなたがどこにいようと、常にこれを心に留めよ
私はあなたがなす一切のことに常に気づいている
私の宝物庫は開かれているが、そこから取り出すために荷車をもって来る者は誰もいない
私は「掘りなさい」と言うが、誰もかまわない
見られる一切は、私の姿である-蟻、ハエ、王子、貧者
この体は、私の家でしかない
私のグルは、ずっと以前に、それから私を奪い去った
バーバーがシルディーにしかいないと思う人々は、完全に私を知り損なっている
私は一切を平等な目で見る
神の許しがなければ、私は何も行えない
私は日夜、私の子供たちの面倒を見、どの1パイサについても神に報告せねばならない
賢者は快活であり、彼らの運命に満足している
あなたが裕福であるなら、謙虚であれ
植物は、実をつける時に、たわむ
金銭を施しに使え
寛大で、気前よくあれ。ただし、浪費することなく
世俗的活動を快活に続けよ。ただし、神を忘れることなく
人であろうがなかろうが、どのような生き物があなたのもとへ来ようとも
思いやりを持って扱え
富の重みの虜となるな
人の内に神を見よ
人々に怒鳴るなかれ。攻撃的になるなかれ。そうでなく、他者の不平を耐え忍べ
自らと他者、あなたと私の間には分離の壁がある
この壁を破壊せよ!
飢える者に食を、渇く者に水を、裸の者に衣を与えよ。その時、神は喜ぶ
サブリ(忍耐)は、あなたを遠くの目的地まで運ぶ
良い時も悪い時も、最後まであなたから離れない友を選べ
辛らつな言葉はあなたを貫かない。誰かがあなたを悪く言っても、ただ動じずにあり続けよ
誰とも闘うなかれ。復讐するなかれ。誰をも中傷するなかれ
私が溢れんばかりに与えるものを私から取り去りたいと思う者は誰もいない
真実を、ただ真実のみを語れ
あなたが対立や論争を避けるならば、神があなたを守る
怠惰になるな。働き、神の名を口にし、聖典を読誦せよ
他の人々の行為は、ただ彼らにだけ影響する
あなたに影響するのは、あなた自身の行いのみである
我々が一切の行為を神のなすこととみなすなら
我々は愛着を離れ、カルマの束縛から自由になる
あなたが行為の起因であると想像し、自我意識の虜となるなかれ
一切万物は神に起因している
正と邪を識別し、正直で、高潔で、有徳であれ
神の摂理に完全に信頼を置けよ
貧しさは富の中で最上であり、王の富より千倍も優れている
私の信奉者は一切万物を彼らのグルとみなす
起こることに満足し、快活であれ
神が与えるものは尽きず、人が与えるものは決して長くは続かない
誰かがあなたの気分を害しても、それに報復するなかれ
もし無形の瞑想が困難ならば、まさにあなたがここで見るように私の姿について思え
そのような瞑想によって、主体と対象の間の相違は失われ、心は一体性に溶け込む
他者の幸運によって、我々は何を失うのか
彼らと共に祝おう。もしくは、彼らを見習わんとして励め
あなたが他者の悪態に耐えることができないなら、ただ一言、二言簡単な言葉を言え
あるいは、ほうっておけ
神ははるか遠くにいない
彼は上の天国におらず、下の地獄にいない
彼はいつもあなたの近くにいる
形を伴って、もしくは、形を伴わずに私に瞑想せよ。それが純粋な至福である