2014年9月26日金曜日

バガヴァーン・ラマナのハーシャ・ヴィチャーラ(笑いの追求)

◇「山の道(Mountain Path)」、1997年ジャヤンティ p131~135

清らかなユーモア 

I.S.マドゥグラ

 全ての聖者がユーモア感覚で知られているわけではありません。よそよそしかったり、近づきがたい傾向のある人々もいます。バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシは、決してどのような排他性も主張しませんでした。彼は人生の大部分を普通の人間として普通の人々の間で生活し、彼に接触しに来た人々の人生に並外れた変化をもたらしました。しかも、彼はそれを想像しうる最もチャーミングな方法で行いました。自らに関する非の打ちどころのない議論を使い、いわば、彼は靈性(スピリチュアリティ)を民主化し、人生の神秘を解き明かしました。

 おそらくはそれが聴衆を安心させ、彼を彼らに繋ぐだろうから、あたかも彼らへの限りない愛情では十分でないかのように、シュリー・バガヴァーンが彼のメッセージを伝えるために使った道具の一つがユーモアでした。

 さらに、どれほど深刻な問題が手元にあっても、ユーモア感覚は彼の存在の自然な部分であったようです。例えば、ある信奉者が馬車での彼女のギリ・プラダクシナがちょうど終わったばかりだと発表した時、彼は雄牛が得たに違いない大変な功徳について語ることがありました。また、嘆き悲しむ母親が亡くなった息子を彼が蘇らせられると愚かにも主張した時、彼はそうすることはできないとはっきりと言い、「もし私が本当にその奇跡を起こせるなら、アーシュラムの敷地には死体があふれかえっているでしょう」と付け加えることにより、重苦しい雰囲気を軽くしたものでした。

 おそらく、彼の生来の陽気な性質(つまり、賢者にしては陽気な)のさらに良い例は、彼の周りの人たちが大麻の影響を議論していた時、あたかも大麻の影響下にいるかのように、彼がよろよろ歩くふりをした出来事の中に見ることができます。彼は薬に引き起こされるアーナンダの可能性さえ認め、50年後にやって来ることになるヒッピーの奇矯な振る舞いを、いわば、予見し、それが正当である理由を与えました!同時に、芝居を演じてるように見える間に、彼は触れることで、支えを求めるふりをして彼がもたれかかったある信奉者にしびれるような感動を与えました。(*1)

 探求者の質問に答えるシュリー・バガヴァーンの方法は、3段構えであったようで、状況と質問者の態度によりました。彼は質問に的確に答えました。もしくは、質問者がより十分にその質問の含意を理解するために、質問をぐるりと回転させ、質問者を受け身にさせました。もしくは、質問に予想外のユーモラスなひねりを加え、彼の見解をより効果的に理解させました。ここでの我々の関心事は、この3番目の区分です。

 この3番目の区分の中には、3種類のユーモア-言葉に関するもの、一般的なもの、自分に向けられたもの-が見られます。自分に向けられた冗談の例は、シュリー・バガヴァーンによって哲学的な疑問を晴らしてもらいたいと思った彼のタミル語の老先生に関するものでしょう。自分は学校をやめ、町を離れて山に逃げたのに、教師の尋問からは逃れることができなかったようだと述べることによって、彼はその状況の皮肉な結果を明らかにしたものでした。

 このエピソードを詳しく話してもいいでしょう。
バガヴァーンが山腹に住んでいた時、彼のタミル語の老教師がはるばるマドゥライからティルヴァンナーマライまでやって来て、自分自身で彼の以前の生徒の中の変化を確かめ、今や有名なマハルシに敬意を払おうとしました。彼は訪問者の中に控え目に座りましたが、すぐにバガヴァーンは彼と認め、アクシャラマナマーライを一部、彼の手におきました。それにざっと目を通し、そのパンディットはその深い献身としっかりした哲学を喜ばしく思いましたが、いくつかの文章の意味を完全に理解するためには助けがいると感じました。勇気を奮い起し、彼は立ち上がり、詩節を読み上げ、バガヴァーンにそれを説明して下さるように頼みました。 
「このありさまを見てください」とバガヴァーンは抗議しました。「そういった質問から逃(のが)れるために、私は学校と家から逃げ出しました。そしたら彼は私を追って来て、『この文章はどういう意味ですか』といつもの同じ質問を尋ねるのです』」。(*2)
  全ての人がこの不満のまねごとの裏にある愛情を楽しみました。主スワミナータやダクシナムールティから学んだ年長者たちのように、かつては生徒の知識をためそうとして質問をした教師は、今や弟子に変わり、その質問は彼自身の無知を取り除くことを目的にしていました。

  別の例は、カウピーナ[*1]だけを身につけるという彼の生涯に渡る「刑罰」についてでしょう。慣習にあったように、隣家の年配の女性が吉日の料理を手伝うためにカウピーナを身につけるよう彼に頼んだ時、恥ずかしがりな少年ゆえに、それを身につけるのを拒んだ罰としてです。
  私は一度、カウピーナを身につけるのを拒んだのですが、今、それをいつも身につけるという報いを受けさせられています。(*3)
  独学でサンスクリットに精通した者として、シュリー・バガヴァーンはその言語において驚くべき学識を披露しました。彼は哲学的、専門的用語の中に独創的な対照を示すことができました。ヨーガの概念を議論している時に、彼は述べました。
そのため、知の道はどのようにヴィヨーガ(分離)が生じたのか見出そうと試みます。(*4)
ヨーガ(合一)は、ヴィヨーガにある者のためにあります。(*5)
  また、彼のブラフマチャルヤの解釈は、伝統的なそれからの革新的な離脱であり、その言葉の文字通りの意味に基づきます。
ブラフマチャルヤとは、「ブラフマンに住まうこと」です。それは一般に理解されるような独身生活(禁欲)と全く関係ありません。真のブラフマチャリ、すなわち、ブラフマンに住まう者は、自らと同じであるブラフマンの中に至福を見つけます。では、どうしてあなたは幸福の他の源を探さなければならないのですか。(*6)
  本当に面白いものは、彼のグルとラグの対比であり、再び、哲学的な意味よりもむしろその用語の明示的な意味に基づいています。
グルは、ラグがある限り必要です。(言葉遊び:グル=重い、ラグ=軽い)。(*7) [*2]
  それから、彼は続いてその対比の哲学的含意を教えます。

 同様に面白おかしい調子で、彼は自らの探求の必要性をそれが止んだ時に起こることを指摘することによって強調しました。
アートマ・ヴィチャーラが止むなら、ローカ・ヴィチャーラ[*3]取って代わります。(*8)
  彼がある質問への答えに差し出した、さらにもう一つの言葉に基づい説明は、
訪問客:いつくかのアーサナが言及されています。その中のどれが最良ですか。
バガヴァーン:ニディディヤーサナ(心の一点集中)が最良です(*9)
  シャンカラが、ブラフマンの実現に導かない、どのような姿勢も自ら課した苦しみでしかないと言った時、彼は韻を踏む機会を逃していました(netarat sukhanasanam)。シュリー・バガヴァーンは一枚上手のようであり、我々に韻が合う相関語を同じ趣旨で提供します。

 シュリー・バガヴァーンによる即興の発言の大部分は、一般的なユーモアの区分に入るようです。それらはもちろん誰に向けられたものでもないですが、状況に大変適したものです。彼はどうしてそんなにも彼の近くにあり、まったく絶えることなく彼の内に存する自らを見逃すことができるのか当惑した様子で不思議がったものでした。
自らより明確なものがありえますか。(*10)
これより大きな謎はありません-すなわち、我々自身が現実であるのに、我々が現実を得ようと試みることよりも。(*11)
  実際、彼の側のこの驚きは、人々が愚かにも死に注意することなく、それなりに人生を送るということをほのめかすユディシュティラのヤクシャへの答えに勝っているかもしれません[*4]。シュリー・バガヴァーンは、人々が彼らの人生の一瞬一瞬をその道の隅々まで照らす自らを逃していることに言及します。
 
 どのように執拗な欲望や感情を扱えばいいのかという質問が、「放棄する前に欲望の充足によって満足しなければならない」と感じた訪問者によって提起された時、シュリー・バガヴァーンはその提言の愚かさを指摘しました。
炎の上にアルコール(spirit)を注ぐことで、火を消すようなものです。(*12)
  spiritについての言葉遊びが意図されていたことは全くありそうなことです。なぜなら、欲望が抑えられるのは、それに耽溺することによってではなく、内なる魂(spirit)の中に寄る辺を求めることのみによってです。

 我々が長年のサンスカーラに対処している時、嫌悪療法がどれほど効果的なのかあまり確かではありません。シュリー・バガヴァーンはシャマンナ氏を以下のように指導しました。
あなたが自分の無力を認め、また自分を助ける高き力を必要とするため、委ねなさい。もしくは、苦しみの原因を調べ、苦しみの原因の中に入り、源の中に入り、自らの中に溶け込みなさい。
  彼は「委ねの後の心の流れはどうなっていますか」と尋ね、シュリー・バガヴァーンのおどけた逆質問を引き出しました。
委ねた心が、この質問を提起しているのですか。(*13)
  これが、ある未来の段階で起こるだろうことについてその段階を達成する前に知りたいと思ったり、はじめに自分自身を改める前にどのように世界を改めるのか知りたいと思った多くの訪問者を、シュリー・バガヴァーンが恵み深くも正した方法でした。質問には死後や悟りの後の状態を含んでおり、それにシュリー・バガヴァーンは質問者に未来について思いめぐらし出す前に現在の状態がどうあるのか見出すように求めることで返答しました。

 彼が(少し耳が遠い)アメリカ人の訪問者に彼の聴覚の問題について思い悩む必要なないと言った時のように、時に、彼の思いやりは軽妙な発言に変わりさえしました。
心配するには及びません。五感の征服が、自らの実現のために必要な準備です。神自身によって、あなたのために、一つの感覚が抑制されています。かえって好都合です!(*14)
  また別の時、彼はどうしても当意即妙の応答への衝動をこらえることができませんでした。アメリカ人のヘンリー・ハンド博士を含む幾人かの人々が、様々な哲学的なテーマを広く議論していた時、ハンド博士は彼らがそのように厄介者であることのお粗末な謝罪をしたいと思いました。
ハンド:マハルシ!私たちが悪い子だと思わないでください。
バガヴァーン:そんなわけないでしょう。(でも、)あなたは自分が悪い子だと思う必要はありません。(*15)
  同様の素早い機知は、ラマナ・パダーナンダとシュリー・バガヴァーンが山へ向かう途中で出会った時の彼らの間の以下のやり取りの中に見られます。
パダーナンダ:では、私はダルシャンを得ました.... 私は戻ります。
バガヴァーン:誰のダルシャンですか。あなたが私にダルシャンを与えたと言ってはどうですか。(*16)
  シュリー・バガヴァーンは、決して賢者として堅苦しくはありませんでした。アナンタチャリ氏との以下の議論に証明されるように、彼は全く現世的でありえました。アナンタチャリ氏は、「私はそれである」という聖なる表明よりも、一般的に人々にとって「私は人間である」という声明を自然に理解することは簡単であると主張し、仮に手近にいる聴衆に世論調査するなら、彼が過半数の票を得るだろうと付け加えました。シュリー・バガヴァーンは即座に加わりました。
私もあなたの側に投票します.... 私もまた「私は人間である」といいますが、私は体に制限されていません。それ(体)はの内にあります。それが違いです。(*17)
  シュリー・バガヴァーンのこのハーシャ・ヴィチャーラ[*5]は、ユーモラスな状況が現れた時、彼が神々さえも容赦しなかったという最後の報告で締めくくられていいでしょう。偽の盗賊に変装したシヴァの雑多な側近によって聖者ティルジニャーナサンバンダル[*6]がどのように追剥にあったかの物語を彼が読んでいた時、彼は全ての人の注意をシヴァ自身に起こったことに向けさせました。
シヴァ自身がティルヴダル・ウトサヴァで追剥にあい、彼は同じいたずらを彼の信奉者たちに行いました。そんなことがありえますか。(*18)
  上述のバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシのとても見事なユーモア感覚の例は、一冊の本からだけです。彼が身体的にアーシュラムに存在する時に彼を訪問し、彼と共に時を過ごす幸運を得た人々によって記録された残りのラマナの文献の中にはさらに多くのものがあるでしょう。

 ユーモアは人間の魂の手際を要する領域であり、最高の職業喜劇俳優でさえ聴衆を怒らせることなく安全にそれを行うことに手を焼きます。シュリー・バガヴァーンの場合、特筆すべきことは、彼が知恵によって聴衆を教えながらも、決してその機知によって誰の感情も傷つけはしなかったということです。

原注:
(*1)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p179(1994年版) (*2)『The Mountain Path』、1996年6月号 (*3)『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p387(1994年版) (*4)同上、p11 (*5)同上、p140 (*6)同上、p140 (*7)同上、p12 (*8)同上、p80 (*9)同上、p519 (*10)同上、p83 (*11)同上、p130 (*12)同上、p476 (*13)同上、p334 (*14)同上、p132 (*15)同上、p142 (*16)同上、p326 (*17)同上、p556 (*18)同上、p153

shiba注:
[*1]カウピーナ・・・腰布
[*2]グルとラグは、韻律学では、重(長)音節と軽(短)音節を意味するようです。バガヴァーンは、続いて「ラグは、自らへの自ら課した、しかし、誤った制限によります」と述べています。
[*3]ローカ・ヴィチャーラ・・・ローカは「世界、世俗」の意味。つまり、世俗的なことを追い求めること。
[*4]『Mountain Path』、1968年4月号、「THE YAKSHA PRASNA」 119から ヤクシャ:最も驚くべきこととは何か。ユディシュティラ:日ごと日ごとに人々は死の住まいへ旅立つが、残る人々は決して自分自身の死を思い描かない。これより驚くべきことがあるのか。
[*5]ハーシャ・ヴィチャーラ・・・ハーシャは「冗談、笑い、微笑み」
[*6]ティルジニャーナサンバンダル・・・http://en.wikipedia.org/wiki/Sambandar


2014年9月8日月曜日

マハルシとマハートマ - 第5代インド首相、モラルジー・デーサーイー

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年7月 p145~146

マハルシとマハートマー

モラルジー・デーサーイ
カルマ、バクティ、ジニャーナの師らに捧げられる、この出版物の中で、インド首相、シュリー・モラルジー・デーサーイーによる、この記事を再掲できることを我々はとても喜ばしく思います。それは元々、1968年に、デリーのラマナ・ケンドラによって出版された記念品、ラマナ・マンジャリーに掲載され、その時、彼は財務大臣、副首相、ケンドラの会長でした。
   私がはじめてラマナーシュラマムを訪れたのは1935年であり、当時、現在ある建物はほとんどなく、マハルシ自身が後年にそうなるほどに良く知られていませんでした。その折に、私はアーシュラムに1日滞在し、マハルシの面前で1時間かそれ以上、座りました。私は質問を尋ねませんでした。尋ねる必要を少しも感じなかったからです。しかし、その沈黙の面前における完全な静寂のその時間は、それ以来、私にとって貴重な記憶になっています。彼にいとまごいをする前に、私は彼と共に食事をとる機会に恵まれました。その訪問の体験は、ここに真理を悟った人物がおり、ギーターの中で提起されているような「無行為の中の行為(*1)」という理想は実際に得ることができると私に確信させました。

 我々みなが戦争は人間の心の中で始まることを知っていますが、我々は多くの人が内なる平和を得ることなく外側の行為を通じて平和のために働いていることに気づきます。戦争が起こるのは、貪欲、世界の富の正当な割り当て以上に所有しようとする欲望が存在するからです。宗教の真の精神が理解され、それが生きられなければ、内なる平和が人々の心の中に打ち立てられなければ、我々が世界に平和を打ち立てることはできません。平和とは戦争の休止ではなく、積極的な他者との一体感であり、他者を思いやる気持ちです。これが人間と国々がいつの日か達すべき目的であると私は確信しています。しかし、たとえ我々がそれに達しそこなうにしても、その目的は求め励むに十分値します。なぜなら、我々がその方向に進むことをやめれば、争いの原因は増え続け、世界はより一層良くなるのではなく、より一層悪くなるからです。我々みなが内に平和を探すなら、世界はいつの日か真に人間的な社会になります。恐怖と貪欲が消えなければ、他者の所有物や才能や人生における立場へ羨望の眼差し向けるのをやめなければ、あらゆる国のあらゆる人が内なる平和を成し遂げなければ、あらゆる宗派の宗教が他の宗教を尊重し、他(の宗教)への優越性を主張することなく、自らの精神的体験を深め、豊かにしなければ、真の宗教的精神、一体性の意識、人類共有の運命が恐怖と貪欲に打ち勝つことはなく、我々が真に人間的な社会を地上に築くことはできません。

 最初の一歩は、サーチライトを内に向け、我々自身の欠点を学び、我々自身の弱さを認め、我々自身の改善に着手することです。これを行わずに、我々が尊大に構え、他者を改めようと試みるなら、たとえ我々が平和の名のもとにそれを行っても、平和よりもむしろ争いの雰囲気を作り出すことになるでしょう。神霊の領域では、貪欲や恐怖や争いの余地はなく、自己主張や排他性の余地はありません。この国にいる我々はいつもアネーカーンタヴァーダ(*2)、多くの視点の可能性を受け入れており、優越感と劣等感を伴う庇護の一つの形でしかない信教の自由をはるかに超えています。我々が他者を尊ぶのは、我々に命を吹き込む同じ自ら、もしくは、神霊が彼らの中に映し出されるのを我々が見るからです。我々は「アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ(*3)」と言います-私はすべての生けるものに対して、私が彼らに私に対して振る舞うことを期待するように、振る舞わねばなりません。

  この全ての存在の一体性の認識からこそ、非暴力の教えが生じます。非暴力の状態のみにおいてこそ、人は他者を尊ぶことができます。他者を尊ぶ時のみにこそ、人は平和が行き渡る平等の雰囲気を身にまとうことができます。平和は、私の考えでは、全ての宗教の主だった役割です。内なる平和を持つ人は誰でも、外側の平和もまた広げます。しかし、宗教的な集団が追随者の数を増やすためだけにその思想を広めたいと思うのなら、結果として争いが生じます。真の宗教が不完全な道具である我々を通じて役目を果たすためには、組織化された宗教によってこの攻撃性が放棄されなければならないでしょう。

 科学が大変に発展したため、我々は今や誰も困窮しないことを保証できます。しかし、科学は同時に破壊の原動力を増やしています。我々がこれを阻み、我々の一般の生活と社会関係を精神的に意味あるものにしないならば、現代科学や新たなコミュニケーションの方法や社会組織が人類に与えることができる利益を我々が享受することはないでしょう。科学技術を人類に役立つものにするためには、積極的で、活動的な平和が欠かせません。この精神的な力は、侵略や攻撃性によってではなく、犠牲的行為というサーダナを通じて獲得されなければなりません。

 南アフリカとインドの両方における長い政治生命の間のマーハートマー・ガーンディーの無数の活動は、彼の内なる平和や、彼と共に働いた人々の平和を決して妨げませんでした。彼が発揮したシャクティは、彼が祈りや献身的な無私の奉仕を通じて培ったシャーンティが外側に現れたものでした。ダルマとモークシャとの間、カルマとジニャーナとの間の極めて重要なつながりを心に留めておくのは良いことです。『ラマナ・マハルシとの対話』の中に、マハートマー・ガーンディーの思いのない境地と完全な自らの委ねについての意義深い発言が見出されます。1938年8月18日、バブー・ラージェンドラ・プラサードがアーシュラマムでの数日の滞在の後、いとまごいをしていた時、マハルシからガーンディーへ伝えられる言付けを求めました。答えは、「アドヤートマ・シャクティ(*4)が彼の中で働いており、彼を導いています。それで十分です。さらに何が必要ですか」でした。また、1938年9月20日、ある国会議員がマハルシに自由闘争の成功についての質問を山と積んだ時、彼は、「ガーンディーは自分自身を神に委ね、私利私欲なくそれに従って働きます。彼は結果を案じておらず、結果が現れるままに受け入れます。それが国家のために働く者の態度でなければいけません」と言明しました。国会議員は食い下がり、「我々は、我々の行動が価値あるものなのか知るべきではないのですか」と尋ねました。再び、マハルシは、「国民的運動のために働いているガーンディーの例に倣いなさい。『委ね』が合言葉です」と言いました。

  この2人の巨人の関係性は、詩人サロージニー・ナーイドゥによって、これらの言葉の中で上手く描かれています。「今日、インドには二人のマハーン(*5)がいます。一人はラマナ・マハルシであり、我々に安らぎを与えます。もう一人はマハートマー・ガーンディーであり、一瞬も我々に安らかに眠ることを許しません。しかし、各人が同じ目的、つまり、インドの精神的復活を視野に入れ、自分が今行っていることを行います」。

(*1)無行為の中の行為・・・「action in inaction」の訳、「無為の為」と訳してもいいかもしれません。
(*2)アネーカーンタヴァーダ・・・「非排他性、もしくは、多様な見解の教説」。日本語版ウィキぺディア参照のこと。
(*3)アートマヴァット・サルヴァブーテーシュ・・・「すべての生命を自分自身であるとみなすこと」
(*4)アドヤートマ・シャクティ・・・「自らの根源的な力」
(*5)マハーン・・・偉大な人物

2014年9月3日水曜日

古きバクタからの貴重な話 - 我々はバガヴァーンをハートに携えている

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年4月 p114~115

サット・サンガの喜び

エブリン・カセロウ

 サット・サンガは、ムムクシュの精神的進歩のために欠かせません。ジャパが心を清め、心を自らの光を反射するのにふさわしくするように、志を同じくする成熟した信奉者たちとの交際は、探求者が内にある真理に注意を集中するのを手助けします。

 師と行動を共にし、彼に仕えた、シュリー・バガヴァーンの古くからの信奉者たちは、師と我々新来者の間の決定的に重要なつながりを喜んで提供します。そのような年長のラマナ‐バクタたちとの交際において、我々の心は献身によって和らぎ、我々の狭量な自我は安らぎとしての彼の存在の体験の中に溶け込みます。

 年長のバクタたちは、安らぎと静けさを放つだけではなく、我々の心の目の前にシュリー・バガヴァーンの時代に起こった出来事をもたらします。私が1979年の2月・3月に師の住まいに滞在していた間に、シュリー・クンジュ・スワーミーから聞いた思い出の少しを読者と共有できることをうれしく思います。

Ⅰ.

 南インドでは、サードゥやマト(僧院)の一員は、「これ」や「それ」といった中性や第三人称で自分自身を指して言う習慣がありました(「これは寺院に行った」)。バガヴァーンと彼の信奉者たちは、一般的な慣習に従い、「私」しか使いません。クンジュ・スワーミーがマトを訪問していた時、サードゥの一人が彼が「私」という言葉を使うことに驚きを表わしました。クンジュ・スワーミーはその時、返答できませんでした。いくらか後、彼はシュリー・バガヴァーンのもとへ行き、起こったことを報告しました。

 これを聞くとすぐに、シュリー・バガヴァーンは言いました。「どうして、どこに困難がありますか。あなたはその『私』は大きな『私』(つまり、自ら)だけを指していると答えればよかったのです。全てはそれでしかありません。全ての人が自分自身を指して『私」と言うことを好みます。『私』は、神の最初の名です。『これ』や『それ』、中性の全ては、体だけに言及していますが、『私』は本当の我々である自らに言及しています」。

Ⅱ.

 ニューヨークとノヴァスコシア州の我々アルナーチャラ・アーシュラマの会員は、シュリー・バガヴァーンの恩寵によって、「ラリター・サハスラーナム」とバガヴァーンの「ウパデーシャ・サーラム」をサンスクリット語で、「アクシャラ・マナ・マーライ」をタミル語で暗記し、毎日歌っていました。我々が山を巡る時、私は他の信奉者たちと一緒に「アクシャラ・マナ・マーライ」(タミル語)と「ウパデーシャ・サーラム」(サンスクリット語)を歌うことに加わりましたが、私の発音には間違いがあったかもしれません。

 私がアーシュラムを離れる前の最後の日、クンジュ・スワーミーは親切にも私とガネーサンと共に山を登り、彼の思い出を詳しく話してくれました。その時、彼は「ウパデーシャ・サーラム」を彼のために数詩節歌うよう私に頼みました。不完全な発音のために、私が躊躇した様子を示した時、彼は、(マラヤーリ人である)彼がバガヴァーンのタミル語とサンスクリット語の詩節を唱えるのを躊躇した時に、バガヴァーン自身が彼に語った物語を私に話しました。

 「シュリー・クリシュナの有名な寺院、グルヴァユール(*1)にプーンタナム・ナンボーディリという名の偉大な信奉者がいました。彼の主への献身は全面的なものであり、強烈なものでした。すべての人が彼を真理を悟った聖者として尊敬しました。プーンタナムは他者から何も求めず、いつも寺院の隅で主を賛美して詩節を歌っていました。その聖なる都市に、(後に「ナーラーヤネーヤム」という偉大なサンスクリット語の詩を記した)ナーラーヤナ・バッタティリという人がやって来ました。このナーラーヤナ・バッタティリは優れた学者であり、人々は彼を大いに称賛していました。彼はグルヴァユール寺院の周りに連れ行かれました。隅っこで、いつものように、プーンタナムは彼の祈りを唱えていました。プーンタナムの独唱を聞いたバッタティリは声に出して、「あなたは彼を聖者と呼ぶのですか。彼は詩節を正しく唱えることさえできません。彼を真理を悟った人と呼ぶあなたを恥ずかしく思います」と述べました。

 「これを耳にするとすぐ、プーンタナムはとても気落ちして、主に苦悶して呼びかけました。『おお、主よ。私は詩節を誤って唱えてきました。どうして私を正して、この当てこすりから私を救ってくれなかったのですか』。そのように言いながら、彼は断食によって体を捨て去ろうと思いました。

 「その夜、ナーラーヤナ・バッタティリは夢を見ました。そこに主が現れ、『プーンタナムは私の偉大な信奉者です。あなたは学者でしかありません。私はあなたのヴィバクティ(文法上正しい語形変化)より彼のバクティを好ましく思います。さらに、プーンタナムが歌っていたことは正しくもあったのです。「アマラプラボー」は私を「天人の主」として認め、「マラプラボー」は私を「植物界の主」として認めます(*2)。それのどこがいけませんか。私は全創造物の主ではありませんか。ですから、プーンタナムのもとへ行き、謝りなさい』と言いました。学者、ナーラーヤナ・バッタティリは、今や、無知と知識を共に超えるプーンタナムの純粋な献身を悟りました。」

 クンジュ・スワーミーは決してタミル語とサンスクリット語の詩節を唱えるのを恥ずかしく感じませんでした。私は勇気づけられ、ウパデーシャ・サーラムから数詩節を唱え、クンジュ・スワーミーはそれを傾聴し、味わいました。

***

 私はアルナーチャラを去り、ヴィシュワナータ・スワーミーのような他の偉大な人物と別れることをとても悲しく思いました。

 シュリー・クンジュ・スワーミーは即座に言いました。「あなたはシュリー・バガヴァーンをあなたのハートに持っています。彼はいつもそこで輝いています。ここに住む我々は彼の蓮華の御足についた『塵(ちり)』に過ぎません。あなたは彼をあなたのハートの中に携えているのだから、我々もまたあなたのハートに住んでいます。彼の御足についた『塵』としてでしかありませんが!」。

シュリー・ヴィシュヌ・サハスラーナマ、19詩節目に「amara prabhu」が出てきます

(*1)http://en.wikipedia.org/wiki/Guruvayur_Temple
(*2)シュリー・プーンタナムが歌っていたのは、「シュリー・ヴィシュヌ・サハスラーナマ」であり、「アマラプラボー」を「マラプラボー」と歌っていました。