以下の対話は、当ブログの2013年8月4日投稿の記事、「バガヴァーンとの対話①」とよく似た内容ですが、より詳しく記録されたものとなっています(文:shiba)。
探求とサーダナ
1944年8月24日午前8時、南インド、ティルヴァンナーマライ、シュリー・ラマナーシュラマムにおいて、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシと南インド鉄道、国際鉄道技術者協会、上級技官、シュリー・D.C.デーサーイーとの間で交わされた質問と答えの報告。シュリー・デーサーイー:
探求の間、「私は誰か(コーハム)」などを、ちょうどマントラのジャパのように何度も何度も、それへの感覚と理解をもって心の中で繰り返すべきですか、それとも、それらをはじめに一度か二度尋ね、その後、心を自我の源-ハートに、そして、世俗的な思いや疑いが生じるのを防ぐ努力に集中するべきですか。
シュリー・マハルシ:
コーハムのジャパは正しくありません。一度だけ質問をして、その後、自我の源を見つけること、思いが再び起こるのを防止することに集中しなさい。
シュリー・デーサーイー:
探求の間、深く、リズミカルに息を吸い、吐き、このコーハムという文句を息に合わせるように努力すべきですか。
それとも、コーハムやクトーハム(*1)などの質問を繰り返し言いながら、吸う息と吐く息に注意を払うべきですか。
シュリー・マハルシ:
それなしで探求に集中できるなら、あなたは呼吸に注意すべきではありません。探求のみに集中できないなら、呼吸に注意しなければならない人もいるかもしれません。探求の間に、ケヴァラ・クンバカ(*2)を修練する人もいるかもしれません。心を安定させ、思いを制御するためにも、秩序だったプラーナーヤーマの助けを必要とする人もいるかもしれません。
これらすべての修練は、心がそれらの助けなしに探求を修練するほどに十分力強くなった時、放棄されるべきです。プラーナーヤーマは、いつものように注意して修練されるべきです。それはクンバカの力と持続時間を徐々に増します。それは心を一点に集中させます。それなしで集中できないなら、その助けを借りなさい。
プラーナーヤーマは、心という馬を制御するための手綱、もしくは、思いという車輪を制御するためのブレーキのようです... 「私は誰か」と「私はどこから来たか」は、全く同じです。それらは自我のみに言及しています。現実の自らの場合には、そのような質問が尋ねられるはずはありません。
シュリー・デーサーイー:
コーハムなどの質問を、「マノー・ブッディ・アハンカーラ・チッタ・ニナーハム(*3)」というようなシュリー・シャンカラによって与えられる答えと交互に行うべきですか。それとも、コーハムという質問それぞれの後に、シヴォーハム(*4)という文句を繰り返すべきでしょうか。
シュリー・マハルシ:
探求へのシヴォーハムなどのような示唆的な答えは、瞑想の間、心に与えられるべきではありません。真実の答えは、自然と訪れます。自我が与えるどのような答えも、正しいはずがありません。これらの断言や自己暗示は、他の方法に従う人々にとっては役に立つかもしれませんが、この探求の方法においてはそうではありません。あなたが尋ね続けるなら、答えは訪れます。探求の方法がディヤーナであり、無努力の境地がジニャーナです。
シュリー・デーサーイー:
私はグルデーヴの教えと著作に従い、グル・マントラ(*5)のジャパにより、サグナ瞑想を修練してきました。私は今、「私は誰か」という探求の方法に従い、瞑想を修練できますか。私がそうしたいと感じるなら、私はこの瞑想を始めるのにふさわしいのでしょうか。
シュリー・マハルシ:
「私」もまたグル・マントラです。神の最初の名は、「私」です。オームでさえ後から来ました。アートマ、現実の自らは、いつも「私‐私」です。ジャパをする人、すなわち、アハムなくして、マントラは存在しません。アハムのジャパは、いつも内で続いています。
ジャパはディヤーナに通じ、ディヤーナはジニャーナに通じます。あなたの好みに応じて、サグナ瞑想、または、探求の方法を修練してかまいません。その人に最も適した方法だけが、その人にとって魅力的に映ります。
シュリー・デーサーイー:
私は上に述べたサグナ瞑想の他に、ジャパ、マントラの書き取り、キールタナ、バジャン、スワディヤーヤ、聖なる教えの布教、講義、宗教的な出版物の無料配布というような、他の形のサーダナも修練してきました。
余分な時間があるなら、「私は誰か」という探求に加えて、私はそれらを続けるべきでしょうか。それとも、それらのいくつか、もしくは、全部を削り、探求のみにもっと時間を費やすべきでしょうか。
上の修練は、探求における私の進歩を早めるのに役立つでしょうか。
シュリー・マハルシ:
「あなたは誰か」という知(識)を手放さなければ、内なる支配者に促され、全ての活動を行い続けてもかまいません。活動はあなたの努力がなくても続きます。あなたがなすように定められていることを、あなたは避けられません。活動は自発的に起こります。あなたはまた、ジャパやキールタナなどが何を意味するのか理解しなければなりません。あなたであるものになり、留まりなさい。真のジャパはいつも続いています。ジャパと神は、全く同じです。聖者ナームデーヴによって説かれた名についての哲学をご覧なさい。
シュリー・デーサーイー:
「私は誰か」という探求において、「私」は自我のことを指しているのですか、それとも、アートマンのことですか。
シュリー・マハルシ:
探求において、「私」は自我のことを指しています。
シュリー・デーサーイー:
信仰、謙虚さ、委ねの私の現在の性質は、十分に熱心なものですか。それとも、未だとても不完全であり、さらなる発展を必要としますか。
そうであるなら、恩寵とアートマンの実現における早期の成功に値するために、どうすれば素早くそれらを完成へと発展できますか。
シュリー・マハルシ:
そのような不完全、資質の欠如などの思いを抱かないように。あなたはすでに完全です。不完全と発展の必要性という考えを取り除きなさい。実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何ものもありません。あなたは自らです。自我は存在していません。探求を続け、実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何かがあるのか確かめなさい。制御されるべき心があるのか確かめなさい。努力さえも、存在しない心によってなされています。
シュリー・デーサーイー:
瞑想の間、背筋を真っ直ぐに保ち、鹿の皮やクシャーサナ(*6)などの上に座り、シッダーサナ(*7)で座ることは探求において役立ちますか。それとも、それらは全く必要ありませんか。それらは進歩を早めませんか。
シュリー・マハルシ:
真のアーサナは、自らという現実、または、源に「打ち立てられていること」です。あなたの自らに座りなさい。自らがどこに座りに行けますか。あらゆるものが自らに座しています。「私」の源を見つけだし、そこに座りなさい。自らがアーサナなどの助けなしには実現できないという考えを持たないように。それらは全く必要ありません。主要なことは、自我の源を探求し、それに到達することです。姿勢などのようなそれらの細かなことは、心をそらし、それらや体に向けるかもしれません。
シュリー・デーサーイー:
(探求のための心の素早い鍛練のための)余分な時間のあいだのスワディヤーヤに最も役立つ書籍はどれですか。
シュリー・マハルシ:
あなたが好きなどの本を読んでもかまいません。自ら(アートマン)が、真の本です。あなたが好きな時にいつでも、それに目を通せます。誰もそれを取り去れません。それはいつも読まれるように手元にあります。余分な時間にも、あなたの自らにつかまりなさい。その後、どんな本でも読めます。
シュリー・デーサーイー:
瞑想の間に疑い、恐怖、心配が私を悩ませるなら、どうしたらそれらを最も効果的に取り除けますか。
シュリー・マハルシ:
あなた自身に「それらの疑い、恐怖、心配が誰に起こるのか」尋ねなさい。そうすれば、それらは消えます。それらに注意を払うのをやめなさい。内なる自らに注意を払いなさい。恐怖などは、二人いる時、つまり、あなたと別に、あなたと離れて、あなたの外側に誰か他の人がいる時にのみ起こり得ます。あなたが心を内に自らに向けるなら、恐怖などは消えます。
あなたが疑いや恐怖を一つ取り除くなら、別の疑いや恐怖が生じます。それに終わりはありません。それらを全滅させる最良の方法は、「それらが誰に起こるのか」尋ねることです-そうすれば、それらは消えます。葉を一枚一枚摘むことによって木を枯らすのは、不可能です。あなたが少しの葉を摘むころに、他の葉が成長します。木の根-自我-を取り除きなさい。そうすれば、その葉や枝と共に木全体が枯れます。予防が治療より優れています。
シュリー・デーサーイー:
私は体の内の源を探すべきですか。
シュリー・マハルシ:
自我は体の内に生じます。それゆえ、まずは、その源を体の内に探してもかまいません。あなたが源に達する時、内も外もありません。なぜなら、源、または、自らはすべてに行き渡っています。実現の後、あらゆるものは自らの内にあります。
シュリー・デーサーイー:
源は胸の中央線の右側にありますか。
シュリー・マハルシ:
ハートは、「私」という思いが生じる場所として定義されています。ハートは、(意識の)中心を意味します。それは肉体のどの部分とも同一視できません。
シュリー・デーサーイー:
講堂に座っている間、あなたの聖なる響きへの心の受容性を高めるために、そして、講堂での努力の頻度と持続時間を増すため、もしくは、そのような努力をやめるために、私に何ができますか。
シュリー・マハルシ:
心を静かに保ちなさい。それで十分です。この講堂に座ることはあなたの役に立ちます。努力の目的は、一切の努力を取り除くことです。静寂が達成される時、力は明確に感じられます。聖なる響きは、あらゆる所に存在します。それは心が静まった時に現れます。
シュリー・デーサーイー:
瞑想時の努力の間、折に触れ、あなたの目や顔を見つめるなら、それは役立ちますか。それとも、私は目を閉じておくべきですか。閉じるなら、私は目をアージニャー・チャクラ(*8)に集中するべきですか、それとも、ハートの奥深くに集中すべきですか。自分の部屋で探求を修練している時、目を閉じるべきですか、それとも、何らかの献身の対象に定めるべきですか。
シュリー・マハルシ:
他のどこよりもむしろ、あなたの自ら、アートマを見なさい。目は開いたままでも、閉じたままでもかまいません-それは些細なことです。あなたがそれを「私(I)」や「目(EYE)」と綴ろうとも、ただ一人の私だけがいます。目を開けたり、閉じたりしても意味はありません。注意は、内なる私に集中すべきです。あなたは開いたり、閉じたりできる「私」ではありません。あなたの好みや気持ちに応じて、目を閉じたり、開いたりしてもかまいません。それは些細なことであり、重要ではありません。あなたが自らについて思う時、あなたは世界について思わなくなります。あなたが部屋にいて、目を閉じ、外を見ないなら、窓を閉じても、開いたままにしても、それは些細なことです。体が部屋であり、目が窓です。
アージニャー・チャクラなどを見ることは、この方法では必要ありません。それは心が外に出て、外側の対象に向かうのを防ぐのに役立つかもしれません。自らに集中しなさい。自らなくしてチャクラは存在しません。それらはあなたなくして存在しません。あなたはそれら全てです。全ての中心(チャクラ)は、ハートにあります。ハートは、アナーハタ・チャクラ(*9)ではありません。後者は、脊髄に存在します。ハートは、「私」です。
シュリー・デーサーイー:
瞑想の間やそれ以外の時間に、私はとても無知であるか、もしくは、とても無邪気であり、この世界で耐えがたい痛みや拷問に苦しむ何百万の人々についての思いによって困惑し、気が重くなります。つまり、(a)干ばつ、貧困、失業による貧しい人々の飢餓; (b)衛生の習慣への無知、食事、貧困によって引き起こされた無知な人々の病による痛みと苦しみ; (c)罪のない女性や子供への空爆; (d)洪水、地震などによる罪のない貧しい人々の苦しみ; (e)食べ物のために動物を殺すこと; (f)自然において上位の動物によって虫や下位の動物が食べられていること、など。
私はこの全ては過去世の彼らの邪悪なカルマのせいにちがいないと自分自身を納得させようと努めるのですが、どのように、そして、誰によって彼らにそのような行為を犯すよう強いるほどに彼らの自由意思が向けられたのかということについて疑問が依然として生じます。それが欲望のせいであるなら、どうして、もしくは、どのように彼らは欲望やそのような傾向をそもそも抱くようになったのですか。それがアヴィドヤーやデーハードヤーサ(*10)などのせいであるなら、どうして彼らにその責任がありますか。
シュリー・マハルシ:
まずは、自我が存在するのかどうか、それらの思いによって気が重くなるのは誰か見出しなさい。体についての考えをどのようにしてあなたが得たのか見出しなさい。あなたの自我というこの問題を解決しなさい。その後で、解決すべき何かが残っているのか確かめなさい。
「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」、歌:S.P.バラスブラマニヤン
(*1)クトーハム・・・「私はどこから来たか」
(*2)ケヴァラ・クンバカ・・・クンバカは「呼吸の停止」。ケヴァラは「~だけ、純粋な」など。
(*3)シュリー・シャンカラ作、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の第1詩節、「マナスでも、知性でも、自我でも、チッタでも私はない」。マナスは「知覚する働き」、知性は「判断する働き」、チッタは「印象、記憶の貯蔵庫」など。
(*4)同じく、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の各詩節の最後に繰り返される文句。「シヴァは私である」。
(*5)グル・マントラ・・・「グルはブラフマー、グルはヴィシュヌ、・・・」というマントラ。
(*6)クシャーサナ・・・クシャ草で編まれた敷物。
(*7)シッダーサナ・・・達人座という座り方。
(*8)アージニャー・チャクラ・・・表面的な活動場所は、眉の間やおでこ辺り。
(*9)アナーハタ・チャクラ・・・表面的な活動場所は、胸の中央。
(*10)デーハードヤーサ・・・デーハは「体」。アドヤーサは「付加」。自分を体と同一視すること。