2014年5月20日火曜日

プニャとパーヴァナの物語 - 輪廻転生(サンサーラ)の克服について

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年7月 p170~173

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅱ


プニャとパーヴァナの物語


ヴァーシシュタ曰く:
 誤った概念が全ての迷妄の種であり、全ての不運の起源です。人が至高の存在を見る(つまり、実現する)瞬間、人はそれを抱かなくなります。ジャナカのように常に瞑想にふけり、世界の移ろいやすさを見る者には、自らがやがては現れます。サンサーラを恐れる者たちは、神々や儀式的行為、富、親族によって救われません。本人の努力が必要です。

 人が狭い了見、すなわち、「私はこの人である」を抱かなくなる時、シヴァ、広大な遍く行き渡る存在がしかるべき位置につきます。「私は確かにこの人である」という考えの夜が終わりを迎える時、その人自身の遍く行き渡る光輝である夜明けが現れます。ある物事を受け入れ、他を拒絶することが、心の束縛を構成しており、その他の何ものでもありません。捨てさられるべき物事を悲しまず、受けいられるべき物事を愛好しないように。受容と拒絶についての全ての考えをわきに置き、堅固に、心落ち着いていなさい。無欲、無畏、永遠の自らの内にあること、平等の気持ち、堅固な知恵、全てのものに平然とあること、快活さ、全生命への友情、満足、親切、好ましい言葉-これらの性質は、潜在的傾向(ヴァーサナー)と同様に受容と拒絶についての一切の考えがない聖者の内に見出されます。思いの糸で編まれた潜在的傾向の網が、不注意な者という魚を捕らえるためにサンサーラという大海に広げられています。親愛なる者よ!理解の剣でもってそれをばらばらに切断し、風によって散り散りとなる雲のごとく、その断片を追い散らしなさい。次いで、自らの内にありなさい。斧でもって切り倒される木のように、心でもって心を切り倒した後、純粋な境地を得て、そこにしっかりと留まりなさい。あなたが何をしていようとも、立っていようが、歩いていようが、寝ていようが、息をしていようが、昇っていようが、下りていようが、この世界が非現実であるといつも心に留め、あらゆる欲望を放棄しなさい。しきりに肉を欲しがる猫が森にいるライオンに依存しているように、心は本来的に意識なく、知性である自らに依存しています。ライオンを追う者は、ライオンの勇敢さにより獲得される肉を食べます。同様に、心は純粋な知性の力によって示される対象物を把握します。

 あなたが感覚の対象を渇望するなら、あなたは心の所有者となり、束縛に従属します。あなたがそれを気にしないなら、あなたは心を持たず、自由になります。「私は知識の対象ではない」と思い、堅固に至高なるハートに留まりなさい。無限で、純粋な空間のようにありなさい。「私はいつも見る者と見られる世界の間にある純粋な意識である」と知りなさい。味覚の対象、味わう者、その二つの間にある味覚を拒絶しなさい。あなたが(真に)あるものでありなさい。経験者、経験の対象、その二つの間にある経験する行為を拒絶しなさい。あなたが(真に)あるものでありなさい。邪悪な「私」という概念を「私ではない」という明晰さの剣でもって切り落としなさい。悲しみと喜びによって影響されないように。サンサーラをそれらの方法で超越しなさい。

シュリー・ラーマ曰く:
 おお、バガヴァーン!あなたの言葉はとても賢明です。なぜなら、あなたは自我という概念を抱かないように私に求めています。私が「私」という概念を拒絶するなら、私は「私は体である」という概念を放棄することにもなるでしょう。「私」という概念が消滅する時、根がのこぎりで切り落とされた巨木のように体の意識は必然的に消えます。

ヴァーシシュタ曰く:
 潜在的傾向(ヴァーサナー)の放棄には、おお、蓮華の目をした者よ、2種類、すなわち、概念の放棄と知覚対象の放棄があります。「私はこれらの物の所有者であり、それらは私にとって必要不可欠であり、私はそれらなくして存在できず、それらも私なくして存在できない」-このようなしっかり根付いた概念が、「私は何ものにも属さず、何ものも私に属さない」という思いに取って代わられる時、そして、落ち着いた心でもって楽しげな様子で行為を行う時、人は知覚対象と結び付いた傾向を捨て去ります。

 概念と同様に自我意識という連れ合いを戯れに(つまり、楽しげに)捨てる者は、生きているうちに解放された人(ジーヴァンムクタ)であると言われます。潜在的傾向をその根本の原因と共に取り除き、平静を得た者、おお、ラーガヴァ、彼を知覚対象から解放された人であると知りなさい。おお、ラーガヴァ!これら2種の放棄それぞれが人を解放に導きます。このどちらかを達成した人々は、ブラフマンの境地を得て、苦しみがありません。楽しみと悲しみが次々にやって来る時に、喜びも嘆きもしない彼は、解放された人と言われます。好ましい対象と好ましくない対象に対して好悪を持たず、眠っている人のごとく遊行する彼は、解放された人と言われます。喜び、嫉妬、恐れ、怒り、欲望、吝嗇によって本当に影響されない人は、生きている内にさえ解放された人であると言われます。深い眠りにおけるように、目覚めている状態において心の概念がなく、満月のようにいつも快活である人は、解放された人とみなされます。

 おお、ラーガヴァ!外的対象に結び付いた潜在的傾向から生じる欲望が、束縛を構成しています。そのような傾向のないもの(欲望)が、解放を構成しています。「これを私のものにしよう」という欲望は、おお、ラーガヴァ、かぎ爪のようであり、束縛です。

 上に述べられた欲望を常に放棄することにより、偉大なる人々は最高の境地を達成します。束縛と解放、悲しみと喜び、存在と非存在についての一切の考えを捨て去り、穏やかな時の大海のように留まりなさい、おお、ラーマ!考える人の心の中に、4種の確信が生じます。一つは、「頭から足まで、私は父母によって形作られている」です。これは誤った考えによるもので、束縛につながります。「私は一切の概念を超え、髪の毛の先端よりも微小である」が2番目のものです。この確信は善良な人々に生じ、彼らを解放に導きます。「私は世界の全対象物の不滅の自らである」が3番目の確信です。おお、ラーガヴァ、これもまた解放に通じます。「この世界はいつも非現実であり、虚空のごとく対象物を欠いている」が4番目の確信です。これもまた解放に通じます。

 これらの中の1番目のものは、束縛に通じる欲望(つまり、確信)です。その他の三つは、生きている内にさえ解放された人々の内に見出される純粋な欲望(つまり、真実の確信)です。おお、高貴な人よ!「私自身が全てのものである」という確信を持ち続けなさい。そうすれば、あなたは再び嘆き悲しむことはありません。空(スンニャ)、自然(プラクリティ)、マーヤー、ブラフマン、意識、シヴァ(吉祥なるもの)、人(位格、プルシャ)、主(イーシュワラ)と呼ばれるものは、永遠の自ら(アートマン)です。

 唯一の至高の存在の力が、二元と非二元として現れ、戯れに世界を創造します。あなた自身の、もしくは、他者の得失、悲喜によっていかなる時も影響されないように。超越的な境地に寄る辺を求めた者、満月のようにその心が穏やかで、興奮することも得意気になることもない者は、サンサーラの中で不幸を感じません。何ものにも喜ばず、憎まず、嘆き悲しまず、欲せず、快・不快についての一切の思いのない者は、サンサーラの中で不幸を感じません。全ての人に適切に、優しく話し、全ての存在の気持ちを理解する者は、サンサーラの中で不幸を感じません。

 おお、ラーガヴァ!あらゆる瞑想の対象の放棄によって特徴づけられる包括的な知見を持ち、生きている内にさえ解放された生来のあなた自身に住まい、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。心の中で一切の欲望を放棄し、愛着と潜在的傾向なく、外見上は全てのことをなし、そのように世界であなたの役割を演じなさい。外見上は活発であり、しかし、心の中で不活発でありなさい。外見上は行為者であり、しかし、心の中では非行為者であり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。自我意識を捨て、心を空のように純粋に、明瞭に保ち、あたかも眠ってるかのごとくあり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。あなたの行為を親切で、心地よいものにさせましょう。世間的な慣習に従い、しかし、心の中で一切のものを放棄し、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。心の中で無欲を養い、しかし、外見上は欲望を持つかのように見え、心の中で冷静であり、外見上は熱く(つまり、動揺して)あり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。「これは私の親族であり、あれは見知らぬ人である。私はこの人であり、あなたはあの人である」というような虚偽の概念を抱かないように。偏狭な心の人だけが、「これは私の親族であり、あの人はそうでなはない」と思います。広い心の人々は全世界を彼らの家族とみなします。この世界での多くの様々な前世により引き起こされる迷妄のため、親族と見知らぬ人という考えが生じます。実のところ、三世界すべては人に関連しても、関連してなくもあります。古い物語がこれを例示するために語られています。それはガンガー川の岸辺に住んだ賢者の二人の息子の間に起こった議論に関連しています。

 ジャンブーディーパとして知られるこの広大な土地に、マヘンドラという名の森に覆われた山があります。宝石が埋め込まれた装身具のように美しい(この山の)幅の広い峡谷に、大変な禁欲行を行う賢明で、高貴な賢者が住んでいました。ディールガタパーという名のこの賢者は、禁欲行の体現者であり、月のように美しい二人の息子がいました。プニャ(文字通りの意味は、徳)とパーヴァナ(文字通りの意味は、神聖な)という名を受け、彼らはブリハスパティのそれぞれがカチャと名づけられた2人の息子のようでした。長年、賢者は彼らと共に住んでいました。そのうちに、二人の内で年の上でも、高貴な性質の上でも年長者であるプニャは、賢者となりました。パーヴァナは、夜明けの蓮華のように、不十分に真理を理解したままいました。彼はとても愚かで、目的を達成することができず、ブランコのようにいつも揺らいでいました。

 やがて、賢者ディールガタパーは、全ての物事の原因である時間に追いつかれました。彼は生きることに何の喜びも感じませんでした。彼は年老い、巣を捨てる鳥や、荷を下ろす運搬人のように、終には山の洞窟の中で体を捨てました。空に溶け込む花の香りのように、彼はあらゆる欲望と思いを超えた概念のない心に特有である境地に溶け込みました。

 父親の死にあたり、プニャは落ち着いて葬儀に専心しましたが、パーヴァナは悲嘆に暮れていました。彼は泣きながら、兄のことを気に留めず、森の中の空き地をさ迷いました。父親の葬儀を行った後、極めて徳のある行いをする人、プニャは、森の中に入り、悲嘆に沈んだパーヴァナに近づきました。彼を見て、プニャは言いました。

 「子よ、どうしてあなたはこのように過度に、むやみに嘆くのですか。賢者の中でも最も優れた者であったあなたの父は、解放として知られる彼自身の至高の境地を得ました。彼が彼の真の境地を得ているのに、どうしてあなたは彼のことを嘆き悲しむのですか。あなたには前世で何千もの父、母、息子、親族がいました。全ての人には人生において彼らがいます。あなたが今世の父母や誰かの喪失を嘆くなら、どうして前世の人々の喪失を嘆かないのですか。

 無知という広大な砂漠において、人の潜在的傾向という熱い蜃気楼の水は、善悪の行為という波によって揺り動かされ、無数の形をとります。この世界は、親族、友人、息子、愛、憎しみ、迷妄というような概念によって維持されています。それらは名称に過ぎません。あなたが人を親族とみなすなら、彼は親族になり、見知らぬ人とみなすなら、彼は見知らぬ人になります。束縛は、神酒と混ぜ合わされた毒のようです。それは人の思いに依存しています。ただ一つの遍く行き渡る自らのみが存在する時、どうして『これは私の親族で、あれは見知らぬ人である』というような概念が生じうるのですか。

 「子よ、骨格や血肉などの集まりである体をはじめとし、あなた自身の内に『私は誰か』探求しなさい。実のところ、あなたも私も存在していません。プニャとパーヴァナという概念は虚偽です。あなたは様々な聖地で鹿の中に生まれ、多くの親族を持ちました。どうして彼らのことを嘆かないのですか。あなたは山の高い頂きでライオンの間に多くの親族を持ちました。どうして彼らのことを嘆かないのですか。あなたはダシャルナ国で黄褐色の野生の猿として生まれ、ツシャラ国では王子として、プンドラ国では密林のカラスとして、ハイハヤ国では象として、トリガルタではロバとして、シャルヴァでは犬として、再びシャララ木の鳥として生まれました。ジャンブーディーパと呼ばれる、この国で、あなたはすでに何十万ものそのような生をすでに生きました。このサンサーラにおいて、無数の父と母が木の葉のように亡くなります。自らは、老年と死と同様に、存在と非存在についてのあらゆる考えを超越していると思い出しなさい。愚者のように嘆き悲しまないように。子よ、欲望の汚れのない高貴な心の助け、そして、ハートの蓮華の中で経験される純粋な自らの想起により、即ちに、この迷妄という汚れを脱ぎ捨てなさい。そのようにするなら、あなたは幸福になります。」

 パーヴァナがプニャによりこのように忠告された時、彼は日の出の地上のように完全に真理を悟りました。この二人の賢者は、知識と知恵の彼岸に達し、その後は生涯の終りまで森の中を放浪ました。上に述べたように、人の前世に属する無数の親族がいます。我々は彼らを愛し続けるべきですか、それとも、我々は彼らを愛さなくなるべきですか。

 火が燃料によって大きくなるように、思いは思いによって成長します。人が思うのをやめる時、燃料のない火のように思いは消えます。立ちなさい、あなた自身を目覚めさせなさい、おお、ラーガヴァ!無概念という二輪戦車にまたがり、悲しみに満ちた世界を寛大な憐れみの目で見なさい。

 ブラフマンの境地は、自分自身の内にあります。それは欲望と苦しみから解放されていることです。おお、力強い腕を持つ者よ!これを悟る者は、たとえ彼が愚者であっても、再び惑わされません。識別力を友として選び、理性を高貴な女王として選ぶ者は、空想によって惑わされません。自分自身の勇気、そして、俗事や親族への無執着以外の何も、人を(サンサーラという)悲しい境遇から引き上げるのに役立ちません。それゆえに、人はその心を適切な方向に向け、離欲、聖典の学習、高貴な性質の修養という助けによって、一切の障害を乗り越えなければなりません。

 高貴な性質で満ちた心の助けによって達成されうるものは、三世界の全ての富や、宝石で満たされた宝物庫によって達成することはできません。心が(至福で)満ちている時、世界は神酒で満ちあふれているように見えます。確かに、その足が靴によって守られている者にとって、地上は皮で覆われています。欲望によって気をそらされない心は、愛着から解放されている時、完成を得ます。秋の湖水のように、それは欲望によって増大します。

 欲望によって気をそらされた者の心は、木の空洞のように無価値になります。それはアガスティヤにより飲み干された大海のように干からびます(つまり、冷酷になります)。欲望のない心よりも、満月は明るくなく、乳海は満ちておらず、ラクシュミー(美と繁栄の女神)の顔は美しくありません。月を横切る雲の線や、白い石膏の上のインクの飛沫のように、欲望という悪霊は人を駄目にします。おお、高貴な者よ!あなたのあらゆる欲望を克服し、サンサーラという束縛なくあり、心の中で解放されなさい。愚かな思いからなる心という束縛が壊れるなら、誰が自由にならないのですか。

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