2014年4月23日水曜日

バガヴァーンが「最高の女性料理人」と評した、サンプルナンマルの思い出

◇『ラマナ・ペリヤ・プラーナム(Ramana Periya Puranam)』、p292~294
 『ラマナ・ペリヤ・プラーナム』の副題は、「75人の古参の信奉者たちの内なる旅」です。バガヴァーンの弟の息子の長男・V.ガネーシャンが、バガヴァーンと直接に親交のあった信奉者たちに話を聞くことによって集められた信奉者たちのバガヴァーンとの思い出です。(文:shiba)

サンプルナンマル 


 めったに比較をしないバガヴァーンがサンプルナンマルについて、「彼女は我々の最高の女性料理人です」と言いました。サンプルナンマルは文字通りは「甘い詰め物」を意味します。しかし、その聖なる意味は、「完全な至福」です。サンプルナンマルはバガヴァーンの村、ティルチュリの隣の村で生まれました。彼女は若いラマナの死の体験、彼のティルヴァンナーマライへの出発、どのように彼がバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシとして知られるようになったかについて聞いていました。彼女の家族は大変にわくわくしながらそれぞれの出来事に耳を傾け、彼のダルシャンを持ちたいと思いました。家族はサンプルナンマルを誘いました。彼女は彼女の夫と親族に彼女の時間を捧げたいと思っていたので断わりました。しばらく後に、サンプルナンマルは夫を失いました。このために彼女は慰めようのない悲しみと苦しみの内にいました。彼女の家族は彼女がこの憂鬱から抜け出るのを手助けしたいと思い、彼らはバガヴァーンのみが彼女が正常を取り戻す助けになると強く信じていたので、彼女にバガヴァーンを訪問するように勧めました。しかしながら、彼女は悲嘆にふけることをただ望み、今一度、誘いを断わりました。

  それでも、バガヴァーンの恩寵を見てください!ある日、彼女がマドゥライのミーナクシ寺院で神殿で祈りを捧げている時、晴れやかな顔つきの若いバラモンの少年が彼女の祈りを妨げました。彼は、「私のために食事を食事を作ってくれませんか」とかなり断固とした調子で尋ねました。これは奇妙な要望でした!施しものを頼む時、托鉢修道者は食べ物だけを頼みます。しかしながら、ここには「私のために食事を作ってくれませんか」と尋ねる晴れやかな顔つきの奇妙なこの若者がいました。祈りをほとんど終えていたサンプルナンマルは、「私にとってバラモンに食事を与える良い機会だわ。私はとても幸せだわ!」と自分に言いきかせました。しかし、その若い男は突然に姿を消しました。彼女はあちこち彼を探しました。その時、彼が彼女を探しにやってきたバガヴァーン以外の何者でもないかもしれないということが彼女に分かってきました。

 それで、1932年に、サンプルナンマルは彼女の妹と義理の弟のナーラーヤナ・アイヤル医師と共にティルヴァンナーマライへ行きました。彼女はいまだ深く悲しんでいました。しかし、バガヴァーンからの一瞥により、彼女は一変しました。そのまなざしは心を癒やすものでした。彼女はバガヴァーンを見続け、バガヴァーンもまた彼女を見つめました。その結果は魔法のようでした。彼ら3人はアーシュラムにそのまま二十日間滞在しました。サンプルナンマルは体をよく動かし、それゆえに瞑想するとはどういうことなのか少しも知りませんでした。しかしながら、彼女がバガヴァーンの面前に座った時、彼女は瞑想的な状態に努力なしで連れ行かれました。彼女が彼の面前にいる時、彼女はまるで思いを抱きませんでした。彼女が町にいて彼から離れている時、思いが彼女の心を束縛しました。次の日、彼女がバガヴァーンの面前にいる時、彼が彼女を見続けたので、彼女は再び思いのない状態を経験しました。バガヴァーンは彼女にこれが聖なる働きであり、超常的な働きでないことを理解してほしかったので、彼女に「私は誰か」を1冊与えました。

 二十日後、サンプルナンマルは村に戻り、自分が落ち着かないことに気づきました。彼女はアーシュラムで自分が経験した平静はバガヴァーンがいるためであると悟りました。彼女は戻ることを決意しました。彼女の伯父は彼女の苦境を理解し、彼女をアーシュラムまで送り届けました。そこで、彼女は料理人のサンタンマルが出かけようとしていることに気づきました。「サンタンマルが行けるように料理をしに行ってくれませんか」とバガヴァーンの面前で尋ねられた時、彼女は感激しました。バガヴァーンが彼女を見た時、彼女は心の中で「ああ、これがあなたの奇術ですか!」と言いました。そのようにして、その責任が彼女の肩にかかることになりました。彼女はその日の食事を作り、彼女がバガヴァーンに給仕している時、この人がまさしく寺院で自分のために食事を作ってくれないか彼女に尋ねた若いバラモンであることを彼女は悟りました。まさしく最初の食事を給仕することにより、彼女は聖なる探求を始めただけでなく、それを終えもしました。彼女は自分がひとりのバラモンに食事を与えているだけではなく、ブラフマン、我々の一人ひとりの内にいる神に食事を与えていることを悟りました。彼女はそのままアーシュラムに居続け、バガヴァーンに食事を作りました。

 サンプルナンマルは料理の仕方を知っていましたが、彼女に料理の細かい微妙なところを教えたのはバガヴァーンでした。彼は豆類、穀類、野菜を調理する様々な方法を教えただけでなく、その時間にたくさんの話をしました。彼は彼の少年時代の話から始め、徐々にヴェーダーンタについての話に進み、ついには自らの教えに達しました。彼は彼女に真理の至高の境地は「私は在る」という境地であると教えました。バガヴァーンはまたサンプルナンマルに『リビュ・ギーター』を与え、その意義を説きました。このことだけをバガヴァーンが教えたのではありませんでした。サンプルナンマルは(以下のように)言いました。「バガヴァーンはまた、仕事は他者への愛であると私たちに教えました。彼がまさにそこにいることによって、彼は私たちに私たちみなが神の面前にいて、私たちが行うすべての仕事は彼(神)への奉仕であることを理解しました。彼は私たちに哲学と聖なる事柄を教えるために料理を使いました。たとえば、バガヴァーンは私にかつて、『野菜を調理する時、野菜を(ふたで)覆わなければなりません。その時だけ、野菜は香りを保ち、食べるのに十分適しています。心についても同じです。あなたは心にふたをして、静かにコトコト煮させなければなりません。その時だけ、人は神が飲み込むに十分ふさわしい食べ物になります』と言いました。料理に関してバガヴァーンが与えるこれらの細かな指示は、バガヴァーンが美味しい食べ物を好み、思う存分食べたという誤った印象をよく知らない人に残すかもしれません。それとは逆に、バガヴァーンは給仕される時、彼は我々に給仕することを許した少ない食事を混ぜ合わせました。彼は食べ物の味をまったく考慮しないかのように、甘いもの、酸っぱいもの、辛いものを混ぜ合わせ、無関心に一口で食べました!時に我々が彼にそれを指摘した時、バガヴァーンは微笑んで、『多様性はたくさんです!統一性をあらせましょう!』と言いました。別の機会に彼は、『この分離性はどうしてですか?全てのものは一つの区別できない統一体であるべきではないですか』と言いました」。

 サンプルナンマルは、どのように真理の探求者が素早く、容易く、努力なしに成熟できるのかについての手がかりを我々みなに与えています。ヒンドゥー教の聖典の中で保障されているように、これはグルの恩寵によってのみ可能です。より高い内なる至福の境地は、逃れることができないグルの恩寵によって可能です。彼女は、「バガヴァーンもたいへん熱心に働きました。彼は料理に精を出しました。彼は使われるべき材料の正確な割合を知っていました。彼はいつも間違いなく、私達に同じようにするように助言しました。私たちがしなければならないこと全ては彼の指示に従うことでした。私たちが料理する時に彼のことを考えたなら、料理はその日おいしくなりました。こういうふうにして、料理をおいしくするために、はじめに彼のことを考え、その後で必要な材料を入れることを私たちは学びました。次第に、私たちは実際に料理する前に彼を思うこの過程を広げ、どのような活動-どれほど平凡であったり、ささいなことであっても-それを始める前に彼を思うようになりました。私たちは最終的な結果がいつもうまくいくことに気づきました。そのため、彼を思うことは私たちの生活のなくてはならない一部となり、私たちはバガヴァーンに集中することを学びました。私たちが恐れたり、不安に思ったり、苦しんでいた時はいつでも、彼の援助の手が私たちに下りてくるのを感じるためには、私たちはただ彼を思いさえすればよかったのです」と言いました。彼女が述べたことを証明するためにバガヴァーンの言葉を引用して、「アーシュラムにくるため、また家に帰るためにも、私は木が生い茂った道を一人っきりで歩いて通らねばなりませんでした。ここは山のふもとにありました。私は時々少し怖く思いました。バガヴァーンが私の恐れを知るようになった時、彼は『どうして怖がるのですか。あなたと共に私はいませんか」と言いました。チンナ・スワーミーがいつか私に『どうして一人で来ているのですか。怖くないのですか』と尋ねた時に、彼は今一度、この事実を裏づけました。これに対し、バガヴァーンは、『彼女は一人ですか。いつも彼女と共に私はいませんか』と答えました」と加えて言いました。サンプルナンマルが述べたように、我々が注意をバガヴァーンに集中するなら、彼はいつも我々と共にいて、我々を導き、我々をより成熟させているのです。

 私はサンプルナンマルによって提供される二つの美しい思い出を共有したいと思います。そこで彼女はどのようにスッバラクシュミーアンマルがただ平凡な日常の出来事を経験するだけで最高の聖なる状態に連れ行かれたのかを明らかにしています。バガヴァーンは医者にバターミルクよりもヨーグルトを食べるように勧められていました。しかし、全ての人にとって十分なヨーグルトはなく、バガヴァーンは彼のための特別なものを食べませんでした。ある日、スッバラクシュミーアンマルがバガヴァーンにバターミルクを給仕している時、彼女がとてもいい思いつきだと考えたあることをしました。彼女はひそかにヨーグルトのひしゃくをバターミルクのバケツに入れて持って行き、バガヴァーンに給仕しました。バガヴァーンは彼女をじっとみつめ、苦しげな調子で言いました。「スッバラクシュミー!あなたは私に何をしたのか知っていますか。あなたは私に毒を給仕しました!どのような類であれ、私と信奉者たちの間に差別をすることは、まったくの毒です」。スッバラクシュミーアンマルはたいへんにうろたえ、三日間熱を出しました。サンタンマルはバガヴァーンのもとへ行き、「バガヴァーン、あなたはスッバラクシュミーアンマルに怒っています。哀れな女性は高熱を出しています。どうか彼女を許していただけませんか」と言いました。バガヴァーンはほほ笑み、尋ねました。「私は彼女に怒りましたか?私は彼女の振る舞いにだけ怒りました」。熱は即座に引きました!

 二つ目の出来事もとても美しいものです。サンプルナンマルは、「昔、私は友人たちとベナレスに巡礼に行くためにバガヴァーンの許可を求めました。バガヴァーンは私をからかって、『ここアルナーチャラで見つけられない何をベナレスで見つけるつもりなのですか』と尋ねました。彼はそれから続けて、『ヴィシュワナータ、ベナレスの主はここにいます。彼があなたと共にここにいるのに、どうして彼を探しに行くのですか』と言いました。彼は自分自身に言及していました。なぜなら、彼は、『彼があなたと共にここにいるのに、どうして彼を探しに行くのですか。彼はここに我々と共に、我々すべてのものの中にいます。彼はここにいます』と言いました。バガヴァーンが私に許可を下さらないので、私は旅行を断念しました。しかし、まあ師の思いやりを見て下さい!まさに次の日の朝、バガヴァーンは私に、『サンプルナンマル、私は昨夜、夢を見ました。私はあなたがベナレスの主ヴィシュワナータ寺院で崇拝をしているのを見ました』と言いました。それは単なる夢だったのでしょうか。その寺院で私に崇拝する機会を与えるために、彼が私をそこに連れて行き、連れ帰って来たように私は感じました」と言いました。バガヴァーンは確かにサンプルナンマルをとても思いやっていました。彼女の周りにいる人々は彼女の性格の欠点ばかりが見えました。しかし、バガヴァーンはそのすべてを大目に見て、彼女がそれらの欠点から持ち上げられ、かの聖なる完全性の境地へ高められるように、彼女に並外れた注意を払いました。

 サンプルナンマルは、バガヴァーンのアーラーダナの日(命日)にアーシュラムで亡くなりました。私は彼女の体を火葬場まで運び、そしてまた積んだ薪に火をつけるという大変な栄誉を得ました。これはバガヴァーンが私に授けたもう一つの祝福です。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

 上の話と重複しない部分などを抜粋して、以下に訳します。(文:shiba)

                                                                65.

 サンプルナンマルは(1899-1993)はバラモンの未亡人で、アーシュラムに料理人として長く奉仕しました。
・・・

 村に帰り、私は落ち着きませんでした。私はアーシュラムに行きたいと切望しました。そして、そこに偶然行くことになった叔父に喜んで同行しました。到着するとすぐに、私は調理場を手伝うことになりました。私は料理が得意ではありませんでしたが、バガヴァーンはいつも私のそばにいて、詳しい指示によって私を手助けしました。彼の確固とした原則は、健康は簡単に消化できる食事にかかっているというものでした。それで、私たちはうすで挽き、とろ火で煮ることに何時間もかけたものでした。バガヴァーンは調理場で助言するためにいつも喜んで講堂を離れました。

 昔、ある人がナスビをどっさり送って来て、私たちはくる日もくる日もナスビを食べました。茎だけが大きな山となり、隅に置かれていました。バガヴァーンは私たちにそれをカレーとして料理するように頼みました。私は唖然としました。なぜなら、牛でさえもそのような役に立たない茎を食べようとはしないだろうからです。バガヴァーンは茎は食べれると主張し、私たちは乾燥エンドウ豆と一緒にゆでるためになべに入れました。数時間ゆでた後、それは依然として固いままでした。私たちはどうすべきか途方に暮れていました。しかし、私たちはバガヴァーンの邪魔をする勇気はありませんでした。バガヴァーンは調理場で彼が必要とされる時をいつも知っていて、議論の真っ最中でさえ講堂を離れたものでした。その時々の訪問者はバガヴァーンの心が料理に向けられていると思ったものでした。実際、彼の恩寵は料理に向けられていました。いつも通り、彼は私たちを見捨てず、調理場に現れました。「カレーはどうなっていますか」と彼は尋ねました。「私たちが料理しているのはカレーですか?私たちは鉄の爪をゆでています!」 私は笑いながら声をあげました。彼は調理したものをひしゃくでかき混ぜ、何も言わずに去りました。そのすぐ後で、私たちは茎がとてもやわらかくなっていることに気づきました。料理はとてもおいしく、多くの食事する人たちがおかわりを頼んでいました。

 料理人として、バガヴァーンは完ぺきでした。彼は私たちにとても厳格でした。私たちはすぐに彼の指図は一から十まで守らねばならないことを学びました。私たちが彼の指示に従っている限り、料理に関するすべてのことはうまくいきましたが、自分たちで行おうとした瞬間に私たちは困ったことになりました。

・・・

 バガヴァーンは何も無駄にすることを許しませんでした。地面にある米粒やからし種のひと粒でさえ拾い上げられ、ほこりを払われ、調理場に連れて行かれ、その適切な場所に置かれました。私は彼にどうして米粒ひとつにそんなにも労を費やすのか尋ねました。彼は、「ええ、これが私のやり方です。すべてのものが私に世話されていて、私は何も無駄にはさせません。このことにおいて、私はとても厳格です」と言いました。

 私たちが料理をしている間に、彼は私たちに話をしました。彼は私たちに宗教や哲学を教えるために料理を使いました。彼はまた、仕事は他者への愛であると私たちに教えました。彼は私たちに他者への奉仕の精神をしみこませました。彼の存在そのものが、私たちがいつも神の面前にいて、全ての仕事は彼(神)のものであるということを私たちに教えました。

・・・

 昔、別の女性の料理人と私自身は山の周りを歩くことを決めました。私たちはとても早くに出発しました。私たちは木が生い茂ったところをとても恐れていました。少しの道のりを歩いた後、私たちは奇妙な青い光を私たちの前に見ました。それは神秘的なもので、私たちはそれが幽霊だと思いましたが、それは私たちを道に沿って案内しました。それが私たちの道案内をしていることに気づいた時、私たちはそれに安心感をいだきました。それは夜明けに私たちから去りました。

 別の時、私たち二人は朝早くに山の周りを歩いていて、家庭や親戚のことについておしゃべりしていました。私たちは遠くに私たちの後についてくる男に気づきました。私たちは人気のない森を通らねばならなかったので、彼に私たちを追い越させ、先に行かせるために立ち止まりました。彼も立ち止まりました。私たちが歩く時、彼も歩きました。私たちは不安を感じ、「主アルナーチャラ、あなただけが私たちを救えます」と声に出して祈りました。その男は私たちに追い付き、「ええ、アルナーチャラが私たちの唯一の拠り所です。あなたの心を絶えず彼に留めなさい。いつも彼を心に抱きなさい」と言いました。私たちは彼は一体誰なのだろうと思いました。山を巡っている時に世俗的な事柄を話すことはふさわしくないということを私たちに思い出させるために、彼はバガヴァーンによって送られたのでしょうか、それとも、人の姿をしたアルナーチャラ自身だったのでしょうか。私たちは振り返りました。しかし、道には誰もいませんでした。

 月経の間、女性にはアーシュラムの食べものは与えられず、アーシュラムに入ることも許されませんでした。昔、バガヴァーンが私が三日間来ない予定で、アーシュラムの門の前のマンダパムに座っていると告げられた時、彼は私を中に連れて来て、アーシュラムの食事を給仕するように命じました。全ての人が衝撃を受けました。なぜなら、それは一般に受け入れられた規則に明らかに反するものだったからです。そのようにして古来の規則は破られ、バガヴァーンはその違反を是認しました。

 昔、私は夕食を野外で食べてはどうかと提案しました。バガヴァーンは同意して、私たちは講堂のそばの中庭で食事が給仕されるように準備しました。バガヴァーンが私たちと座っている時、私たちは彼の頭のまわりに力強く輝く後光を見ました。それは月の光か、何か他の原因だったのでしょうか。私には分かりませんが、後光はそこにあり、多くの人がそれを見ることができました。食事の直前に、誰かがみんなに十分な量の大きなかご一杯のお菓子を持ってきました。これは偶然だったのでしょうか、それともバガヴァーンの素敵な戯れだったのでしょうか。

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、188~192

調理場のバガヴァーン


サンプルナンマル

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 バガヴァーンの確固とした原則は、健康は食べ物しだいであり、適切な食事によって健康は取り戻す事が出来、健康を十分に維持できるというものでした。彼はまた、細かくすりつぶすことと注意深い調理によって、どんな食べ物でも簡単に消化できるようになると信じていました。

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 彼は私たちに穀物、豆類、野菜の無数の調理法を教えました。彼は私たちに、幼少時代からの話や、彼の母親、彼女のサンプルナム(甘い詰め物)の作り方の話を語りました。

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 調理場では、彼は味と見た目における完璧を目指す料理長でした。

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 彼が私たちのために調理に並外れた気遣いをかけていたのは、明らかです。彼は私たちに健康でいて欲しいと思っていて、調理場で働く人々にとっては、調理は深い聖なる体験になりました。

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 ある日、彼は私に「リビュ・ギーター」を1冊下さり、それを学ぶよう促しました。私は学識あるパンディットにだけ役立つ難解な文章を熟読する気はまるでなかったので、その一言も理解できませんと言って、容赦して下さるように頼みました。彼は、「理解できなくてもかまいません。それでも、大変あなたのためになります」と言いました。

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 (食べ物を無駄にしないことに関して)別のある日、彼は、「これは私の父なる神、アルナーチャラの所有物です。私はそれを保護して、彼の子供たちに手渡さねばなりません」と言いました。彼は私たちが食べられると夢にも思わないものさえ、食べ物に使いました。野草、苦い根っこ、ピリッとする葉っぱは、彼の指示のもとに、美味しい料理に変わりました。

・・・

 (ナスビの茎のカレーについて)バガヴァーンを除く、全ての人がカレーと料理人を褒めました。彼は薬のように一口でのみ込み、おかわりを断わりました。私はとてもがっかりしました。なぜなら、私は彼の茎を調理するのに大変苦労したのに、彼はそれをきちんと味わいさえしなかったからでした。翌日、彼は誰かに、「サンプルナンマルは、私が彼女の素晴らしいカレ-を食べなかったことで気落ちしています。彼女は食べるすべての人が私自身であると見れないのですか。重要であるのは料理することであって、料理人や食べる人ではありません。愛と献身をもって、良く行われたことが、それ自体の報酬です。後に起こることは、ほとんど重要ではありません。なぜなら、それは我々の手の内にありません」と言いました。

 夕方、私が眠るためにアーシュラムを離れて町へ向かう前に、彼は翌日の料理のために使えるものを私に尋ねたものでした。そして、翌朝の夜明けに到着すると、私は全てのものが準備されていることに気づきました。野菜は皮をむかれ、カットされ、レンズマメは水につけられ、香辛料はすり潰され、ココナッツは割られていました。私を見るとすぐに、彼は何をどのように調理するかについて詳細な指示を与えました。それから彼はしばらく講堂に座り、調理場に戻りました。適切に調理されているか確かめるために、彼は様々な料理を味見して、講堂に戻りました。彼がとても熱心に調理するのに、そんなに食べたがらないのを見るのは、おかしなことでした。

 料理人として、バガヴァーンは完ぺきでした。彼は決して塩やスパイスを入れ過ぎたり、少なくし過ぎたりしませんでした。私たちが彼の指示に従うかぎり、料理に関する全てのことはうまくいきました。自分たちで行おうとした瞬間に私たちは困ったことになりました。その時でさえ、私たちが彼の助けを求めたなら、彼は私たちのごちゃまぜにしたものを味見し、食べ物を給仕するにふさわしくするために何をすべきか言いました。調理場でのどんな小さな出来事も、私たちにとっては聖なる教えでした。そのように、バガヴァーンの指導のもとで料理の技術を熟達させている間に、私たちは盲目的に従う技を習いました。

・・・

 それは私たちが新しい世界-歓喜の世界-の入口に住んでいた日々でした。私たちは何を私たちが食べているのか、何を私たちが行っているのか意識していませんでした。気づかれることなく、時間はただ、音もなく、過ぎ去りました。とても大変な仕事は、些細なことのように思えました。私たちは疲れを知りませんでした。ある時、私たちが調理場での仕事を早々と終えたことを評して、バガヴァーンは、「最も偉大な神霊、アルナーチャラがここにいて、あなた方の上にそびえ立っています。働くのはであって、あなた方ではありません」と指摘しました。

2014年4月14日月曜日

バガヴァーンの教えへのイスラム教からの証言-「私は神である」の真意

◇『静かなる力(The Silent Power)』、p164~168

ラマナの普遍的な哲学 

M.ハーフィズ・サイード博士

Ⅱ.バガヴァーンの人生と教えへのイスラム教の証言 


 ラマナ・マハルシの他に類をみない人生と教えの偉大さは、彼が世の聖典に親しんでいないにも関わらず、自らの実現の後、無限の知が彼に開かれたという事実にあります。パタンジャリの『ヨーガ・スートラ』の1節を引用すると、「無学の者の心が一点に集中する時、内なる知と外なる知が彼に明らかになる。彼は彼の存在の至高なる源にじかに接するようになる」。

 ラマナの信奉者は、彼の簡素で波乱のない人生に親しんでいます。彼は最後まで質素な人生を送りました。彼には気取った様子も、もったいぶった様子もありませんでした。彼は偉大な教師であり、彼独自の高い次元に生きただけでなく、日常生活において全く人間的でした。真のバラモンがそうあるべく、彼は全ての生ける者に愛と思いやりを抱いていました。彼は自分の杖を修理し、時には、野菜を切り、料理することに加わりました。彼は人類は一体であり、平等であると非常に強く感じていたので、彼自身のために用意されたものを決して何も受け取らず、講堂にいる全ての人々へ平等に配らせました。あらゆる人種、カースト、信条、性別の人々、地位の高い人も低い人も、富裕な人も貧しい人も彼を訪れました。彼にとって全ての人は同じでした。彼は地位のある人々を決してひいきせず、パーリア(*1)やパンチャマ(*2)を決して見下しませんでした。全ての人が彼に会えました。

 イスラム教の預言者(ムハンマド)も同様でした。彼は人類の兄弟愛を信じ、全ての人を等しく扱いました。彼は彼の追随者に、アナ・ミスラクム(*3)、すなわち、「私はあなたたちと同じく人である」と言いました。彼にとってユダヤ人も非ユダヤ人も、ムスリムも非ムスリムも同じでした。彼がモスクで礼拝にいそしみ座っている時に非ムスリムが彼を訪れた時はいつでも、彼はすぐに座から立ち上がり、彼自身のマントを広げ、丁重にその人を座らせました。彼は自分の靴を修理し、自分の擦り切れた衣服に継ぎ当てしました。彼の家には翌日のために残されるものは何もありませんでした。一日のうちに彼が受け取る全てのものは貧しい人々に配られました。彼はしばしば、アル・ファクル・ファフリ(*4)、つまり、「貧しさは私の誇りである」と言いました。彼は人類の福利に強い関心を持ち、聖なる瞑想のために洞窟に退いたものでした。そのように、彼の人生と我々の愛するマハルシの人生の間には緊密な類似性があることが分かります。

 我々みなが、どれほど繰り返しマハルシが、神の意思へ完全に委ね、全て(の人)と仲良くするように、意見の違いを忘れ、水に流すように言ったのか知っています。実際、かつて彼は、「それらを燃やし、安らぎの住処、あなた自身のハートへ向きなさい」と言いました。イスラムは、安らぎ、静穏、そして最終的には、神への自分自身の委ねを意味するサラームという語根に由来します。ドイツ人作家のドイチュは、「イスラムという言葉は神の意思への絶対的な服従を含意する」と言います。4代目カリフ、預言者(ムハンマド)の娘婿であるハザラット・アリーは、「自分自身の自らを知らなければ、誰も神について少しも知ることはできない」と言いました。そのように、バガヴァーンが彼のよく知られた全ての本の中でくり返した教えを裏づけています。

  ある神秘主義の詩人は、「私が私自身になしたこと、かつて誰も自らそれをなさなかった。私自身の家(体)の中で、私は私の家の所有者(つまり、自分自身)を失った」と言いました。これはバガヴァーンの感動的な言葉への証言になりませんか。

 さらに、コーランには、「我々は神のものであり、彼のもとへ我々は帰る」(コーラン、第2章、第156詩節)と書いてあります。これはどこから我々が来て、どこに我々が行くのかを明確に示しています。人の生来の神性が、コーランにある、これらの明快な言葉において表現されています。「神は人の鼻孔に彼自身の命の息を吹き入れた(*5)。人は神の顔にならって創造された(*6)」。

 ガズナ朝とセルジューク朝の初期の時代に、偉大な哲学者で詩人のナースィル・ホスロー(*7)がいました。彼は大変優れた神秘主義者として知られていました。自らの知に関する彼の詩、「ラウシャニ・ナマ」(*8)の中で、彼は(以下のように)著しており、それはバガヴァーンのよく知られている教えへの十分な証言になっています。

あなた自身を知れ。なぜなら、あなたがあなた自身を知るなら
あなたは善と悪の違いもまた知る
まずは、あなた自身の内なる存在に親しみ
その後、全兵の司令官となれ
あなたがあなた自身を知る時、あなたは全てのことを知る
あなたがそれを知る時、あなたは一切の悪から逃れている
あなたはあなた自身の価値を知らない。なぜなら、あなたはこのようであるから
あなたがあなた自身を見るなら、あなたは神自身を見る
九つの天と七つの星はあなたの奴隷である
しかしながら、あなたはあなたの体のしもべである。もったいないことだ!
獣のごとき快楽に束縛されるな
あなたがかの至高なる幸福の探求者ならば
真の人になり、眠りと断食を捨てよ
巡礼者のごとく、あなた自身へ旅せよ
眠りと断食とは何か。理性のない獣のつとめである
あなたの魂が存続するのは、知によってである
一度でも目覚めよ。いつまで眠っているのか
あなた自身を見よ。あなたは十分に素晴らしい何かである
今、熟考せよ。あなたがどこから来たのか思案せよ
そして、なぜに今、あなたはこの牢獄にいるのか
檻を破れ。あなた自身の天空の駅へ発て
アーザルの息子、アブラハムのごとく偶像破壊者となれ
あなたはそれにならい目的を持って創造されている
あなたがこの目的を無視するなら、それは恥となる
天使にとって悪魔から命を受けるのは恥である
王にとって門番のしもべとなるのは恥である
なぜイエスが盲目でなければならないのか
ひとつ目であるのはカルンにとって誤りである
あなたはあなたの財宝の上に蛇にとぐろを巻かせている
その蛇を殺し、苦しみなくあれ
しかし、あなたがそれに餌を与えるなら、あなたは恐怖し
その限りない財宝と関わりなくなる
あなたの家の中に財宝があるのに、あなたは物乞いである
あなたの手には奴隷がいるのに、あなたの心は傷ついている
あなたは眠っている。どのようにして旅の目的地に着くのか
あなたは魔法を作り上げ、財宝を気にしない
急ぎ、魔法を破り、財宝を取れ
少しの苦しみを引き受け、あなたから苦しみを取り去れ

 神秘主義の第一人者であるジャラール・ウッディーン・ルーミー(*9)は、R.A.ニコルソンの『ルーミー-詩人であり、神秘主義者』(*10)の中で引用され、(以下のように)言います。

 ジャラール・ウッディーンは、「儀式的祈りよりも近い、神への道はありますか」と尋ねられました。「いいえ」と彼は答えました。「しかし、祈りは形のみに存するのではありません。形や体、言葉と音の性質を帯びる一切のもののように、形式的な祈りには始まりがあり、終わりがあります。しかし、魂は制限がなく、無限です。それは始まりもなく、終わりもありません。預言者たちは祈りの本質を示しています.... 祈りとは、魂がおぼれ死ぬこと、魂の無意識であり、その結果、これら全ての形は外に留まります。その時、純粋な神霊であるガブリエルの余地さえありません。このように祈る人は一切の宗教的義務を免除されていると言えます。なぜなら、彼は理性を奪われています。神聖な一体性に溶け込むことが祈りの極意です。

 「ハエが蜂蜜に投げ入れられる時、体の全ての部分は同じ状態にさせられ、ハエは動けません。同様に、イシュティグラク(*11)(神への没入)という言葉は意識的な存在、主導権、動きを持たない者に適用されます。彼から起こるどのような行為も彼のものではありません。彼がいまだ水の中でもがくか、彼が『ああ、私はおぼれ死につつある』と叫ぶなら、彼は没入の境地にいるとは言われません。これがアナッル・ハック(*12)、「私は神である」という言葉によって意味されることです。人々はそれが僭越な主張であると思いますが、実際はアナッル・アブド(*13)、『私は神の奴隷である』と言うことが僭越な主張であり、アナッル・ハック、「私は神である」は大変な謙虚さの表現です。アナッル・アブド、『私は神の奴隷である』と言う者は、二つの存在-彼自身と神の存在-を肯定してます。しかし、アナッル・ハック、『私は神である』と言う者は、彼自身を存在しないものとなし、彼自身を捨て去り、『私は神である』、すなわち、『私は存在しない、彼が全てである。神のもの以外の存在はない』と言います。これは謙虚と自己卑下の極致です。」

 この二つの引用は、「自らの探求」や「私は誰か」やその他の本に具現化されているように、バガヴァーンの教えへのまったく十分で、最も明快な証言になります。

スーフィーの音楽、ルーミーからの引用と共に

(*1)パーリア・・・社会的に排除された人々、南インドの低いカーストの人々。
(*2)パンチャマ・・・文字通りの意味は、第五番目。4つのヴァルナに属さないアウトカーストの人々。
(*3)Ana mislakum・・・おそらく、コーランの第18章、第110詩節に当たると思います。
(*4)Al faqr fakhri・・・ファクルが「貧しさ」、ファフリが「誇り、栄光」。
(*5)おそらく、旧約聖書の「創世記」、第2章、第7詩節に当たると思います。
(*6)おそらく、旧約聖書の「創世記」、第1章、第27詩節に当たる思います。
(*7)ナースィル・ホスロー・・・Nasir-e-khusrau、
(*8)ラウシャニ・ナマ・・・「Raushani nama」。wikiでは「Rawshana'i-nama」 となっています。「悟りの書」の意。
(*9)ジャラール・ウッディーン・ルーミー・・・Jalaluddin(Jalalu'l-Din) Rumi。別の表記では、Jalāl ad-Dīn Muhammad Rūmī となっています。
(*10)『Rumi, Poet and Mystic』、R. A. Nicholson 著
(*11)イシュティグラク・・・istighraq
(*12)アナッル・ハック・・・Ana'l Haqq。Ana al Haqとも。「私は真理である」という訳もあります。
(*13)アナッル・アブド・・・Ana'l abd。Ana al abdとも。「私は神のしもべである」という訳もあります。

2014年4月12日土曜日

「マーヤーに関する五詩節(マーヤー・パンチャカム、Maya Panchakam)」

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年4月 p75

マーヤーに関する五詩節

シャンカラーチャーリヤ

1.
私は無比なる、永遠の、部分を持たない完全な、まるで概念のない純粋な自覚であるにもかかわらず、世界、神、生命(ジーヴァ)のような概念が私の中に生じる。これは不可能を成し遂げるのに極めて巧みなマーヤーの仕業である。

Although I am the Pure Awareness which is unparalleled, eternal, whole without parts and entirely conceptless, notions like the world, God and the soul (jiva) arise in me. This is the work of Maya who is extremely clever in accomplishing the impossible.

2.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、何百ものヴェーダおよびヴェーダーンタの著作を綿密に学んだ人々さえも混乱させる。彼女(マーヤー)は彼らに富やその他のものを渇望させ、動物のように振る舞わせる。何という不可思議!

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, distracts even those who have closely studied hundreds of Vedic and Vedantic works. She makes them hanker for riches and other things and behave like animals. What a wonder !

3.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、不ニであり、途切れのない意識かつ至福に虚空、火、太陽のような(要素)からなる(世界)を付属させ、サンサーラの大海の中でそれを乱暴に揺さぶる。

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, attaches what is non-dual, unbroken Consciousness and Bliss to (the world) composed of (elements) like ether, fire and sun and tosses it about violently in the ocean of samsara.

4.
マーヤーは不可能を成し遂げるのに極めて巧みであり、カースト、(肌の)色、属性のような区別がまるでない純粋な自覚かつ至福なるものの中に妻、息子、家という迷妄のみならず、「私」という概念やバラモン、ヴァイシャなどの概念を生み出す。

Maya, who is extremely clever in accomplishing the impossible, gives rise to the notion of  ' I ' and notions of brahmin, vaisya, and so on as well as the delusion of wife, son and house in what is pure Awareness and Bliss entirely free from distinctions like caste, colour and attributes.

5.
至高なる存在(神)は部分を持たず、ブラフマー、ヴィシュヌ、シヴァのような一切の区別を免れているにもかかわらず、賢者でさえ惑わされ、ヴィシュヌ、シヴァなどのような相違があると思い込む。これは不可能を成し遂げるのにたいへん巧みなマーヤーの仕業である。

Although the Supreme Being has no parts and is free from all distinctions like Brahma, Vishnu and Siva, even the wise are deluded into thinking that there are differences like Vishnu, Siva and so on. This is the work of Maya who is very clever at accomplishing the impossible.

2014年4月2日水曜日

偽りの装い - あなたの心があなた自身の敵となる

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1949年12月8日
(261)欺瞞の装い 

 1944年のある日の午後、信奉者たちがバガヴァーンの面前で種々様々な事柄について話していた時、欺瞞の装いと談話というテーマが議論に上りました。バガヴァーンに話しかけ、ある信奉者が、「いくらかの人々は、世間を欺くためにあらゆる類の偽りの装いを身につけます」と言いました。

 バガヴァーンは、「ええ。いくらかではなく、多くがです。それがどうかしましたか。人々が偽りの装いを身につけるなら、最終的に悩むようになるのは彼ら自身の心です。彼らは他者が彼らについてどう思うのか恐れ始め、彼らの心が彼ら自身の敵になります。人々が偽りの装いを身につけることによって他者を欺くことを考えるなら、彼ら自身が最後には欺かれます。彼らは、『我々は計画を立て、他者を欺き、それによってたいへんな賢さを示した』と思います。うぬぼれて、彼らはよりいっそうの欺瞞を働きます。彼らの行いの結果は、欺瞞が暴かれた時にのみ実感されます。その時が訪れるなら、彼らは彼ら自身の欺瞞の結果、崩れ落ちます」と言いました。

 みながバガヴァーンは誰を思い浮かべていたのだろうと思っていた時、ヨーギ・ラーミアが、「スワーミー、これによって私は1つの出来事を思い出しました。私はバガヴァーンがかつてパンガナーマム(*1)をつけたことをどこかで読んだのを思い出しました。それは本当ですか」と言いました。

 バガヴァーンは以下のように返答しました。「ええ。それは私の山の上での生活の初めごろのことでした。当時、何人かのヴァイシュナヴァイテが私のもとへやって来ており、彼らの執拗な要望で、それによって失うものは何もなかったので、私はナーマムをつけていたものでした。

 それだけではありません。かつて私が何をしたのか知っていますか。アルナーチャレーシュワラ寺院でカルヤーナ・マンダパム(*2)が建設された頃のことでした。それはナヴァラートリ(ダシャラー祭)の時でした。寺院では、バージャンの一団が崇拝のための人形の展示を準備していました。私は誰かが私だと気づき、あらゆる類の奉仕をし始めるのを恐れていたので、パラニスワーミーのドーティ(*3)を身につけ、別の布で体を覆い、ヴァイシュナヴァイテのようにナーマムをつけ、彼らと共にゆきました。寺院の管理人たちは私をよく知っていました。私は彼らを避けたいと思いました。しかしながら、彼らはまさにその門のところで私に気づき、『スワーミー!スワーミー!あなたもスワーミーを見にここに来たのですか?あなた自身がスワーミーではないのですか?』と言いながら、私を追いかけてきました。どうしたらいいのでしょうか。私は私自身を偽っているように感じました。私は何とか彼らから逃れ、中に入りましたが、すべての人が私だけを見ているように感じました。私はマンダパムを見ず、また他の何も見れませんでした。私は気づかれずに帰ろうと思い、引き返しましたが、アルチャカ(司祭)たちの長が私を再び門のところで捕まえました。『スワーミー!スワーミー!この服で来たのですか?ああ!なんと素晴らしいことですか、スワーミー!待って下さい』。そのように言い、彼は私を引きとめ、彼の助手に呼びかけ、『君たち!花輪を持ってきなさい。サンダル・ペースト(*4)を持ってきなさい。プラサーダム(*5)を持ってきなさい。我々のブラフマナスワーミーが主クリシュナの衣服を身につけ、ここに来ました。これは我々の大変な幸運です』と言いました。そのように言い、彼らは寺院の儀礼を浴びせかけ始めました。私は何とか彼らの注意から逃れ、去りました。後に、私は何度も彼らの目をくらまし、何とか寺院に行こうと試みましたが、必ず彼らは私に気づき、あらゆる寺院の儀礼を私に施しました。そこで直ちに、私はそれ以上の試みをすべてあきらめ、寺院へ行くのをまったくやめました。

 すべてのことについても同じです。あなたの本当の姿でいるなら、あなたはどこででも恐れなくいることができます。あなたが他者を欺くために衣服を身につけるなら、あなたは誰かがあなたの欺瞞を見破るかもしれないということを毎分ごとに恐れ、そうして、あなたの心があなた自身の敵になり、あなたを悩ませます」とバガヴァーンは言いました。

(*1・原注)パンガナーマム・・・ヴァイシュナヴァイテ(ヴィシュヌ派の人々)の特徴的なカーストの印。
(*2)カルヤーナ・マンダパム・・・婚礼などの家族に関わる行事を行う神殿のようです。
(*3)ドーティ・・・ヒンドゥー教の男性が身につける腰布。
(*4)サンダル・ペースト・・・サンダルウッド(白檀)をのり状にしたもの。
(*5)プラサーダ(ム)・・・神々や聖者に捧げられる食べ物。