◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、第二部-対話 前書きは省略
第11章 瞑想
<1> 1936年5月16日
C氏は1926年に『パタンジャリ・スートラ』を読み、それがどれほど彼に感銘を与えたか話しました。最初の少しのスートラにより、彼は教えの真実性を確信しました。しかし、不運なことに、彼が1936年の始めにシュリー・バガヴァーンに会うまでは、彼に適切な導きを与える人がいませんでした。
バガヴァーン:
パタンジャリの最初のスートラは、まさしく、ヨーガ全体系の極みです。全てのヨーガはヴリッティの停止を目指しています
(*1)。これは聖典の中で言及される多様な方法による心の制御を通じ、もたらすことができます。それは意識からあらゆる思いを取り除き、純粋に保ちます。努力が必要です。実際、努力がヨーガそのものなのです。
C氏:
努力は目覚めている状態において行われねばならず、当然、モークシャ
(*2)はジャーグラット
(*3)においてのみ獲得できるということになると思います。
バガヴァーン:
まさしくそうです。心の制御のためには、自覚が必要です。そうでなければ、努力するべき誰がいますか。あなたは眠りにおいて、または、薬の影響下では努力できません。また、ムクティ
(*4)は完全な自覚の中で獲得されねばなりません。なぜなら、現実そのものが純粋な自覚なのです。
C氏:
自覚以外の何も存在しないようです。というのも、何を知るにも、知識が存在するはずです。我々はそれを乗り越えられません。
バガヴァーン:
確かに。主観的な知-それ自身を知る知がジニャーナです。それはその時、知る者としての主体、知られるものとしての対象、それらを結ぶ知です。
C氏:
その場合、その最後が私には明らかではありません。
バガヴァーン:
どうしてですか。知は、見る者と見られるものをつなぐ光です。仮に、あなたが本を探しに真っ暗な図書館に入るとしましょう。主体であるあなた、客体である本が共に存在しますが、あなたは本を光なしに見つけられますか。光が、あなたを結ぶために存在しなければいけません。あらゆる経験における主体と対象の間のこのつながりが、チット、意識です。それは礎であり、経験の目撃者、パタンジャリの見る者でもあります。
<2> 1936年6月18日
引退した県の警視は、60歳の誕生日の後、観照的生活を始めるつもりでした。彼は瞑想が深刻な問題であると見出し、(シュリー・ラマナの)弟子に導きを求めて近づきました。しかし、弟子は彼に彼の困難を師の前に置くように助言しました。彼は今日それを行いました。
訪問者:
バガヴァーン、私は瞑想する時にいつでも、頭に強い熱を感じます。もし私が続けるなら、全身が燃えるように感じます。何が解決策でしょうか。
バガヴァーン:
集中が脳によって行われるならば、熱の感覚や頭痛さえも結果として起こります。集中は涼やかで、さわやかなハートで行われるべきです。力を抜きなさい。そうすれば、あなたの瞑想は楽になります。侵入してくる一切の思いを優しくかわすことによって、心をしっかりと保ちなさい。ただし、緊張なく。じきに、うまくいきます。
<3> 1936年7月1日
このアーシュラムにずいぶん前に所属した信奉者は断続的に一種の恍惚状態に陥り、そこで彼は
自らでなく、空(そら)のような空白を見ました。彼はそれについてシュリー・バガヴァーンに話しました。
バガヴァーン:
その空白を見る彼が
自らです。
信奉者:
瞑想は、心の制御によってのみ可能です。心の制御は、瞑想を通じてのみ達成することができます。これは循環論法ではないですか。
バガヴァーン:
それらは相互依存的です。実際、瞑想は心の制御、侵入する思いへの鋭い注意深さを包含しています。はじめは制御のための努力が実際の瞑想のための努力よりも大きいのですが、やがては瞑想が勝利し、無努力になります。
信奉者:
そのためにはあなたの恩寵が必要です。
バガヴァーン:
修練が必要です。恩寵は存在しています。
信奉者:
瞑想において、心の中で繰り返されるべき言葉はありますか。
バガヴァーン:
概念の心による復唱以外の瞑想とは何ですか。それは心によるジャパであり、言葉で始まり、
自らの沈黙に終わります。
<4>
ある訪問者は、彼が自我であると想像するものと戦う時に、瞑想において大変な困難を経験しています。彼は師のもとへ確認のために行きました。
訪問者:
瞑想において、私は間違った「私」を排除しようと試みますが、これまでのところ成功していません。
バガヴァーン:
どうして「私」がそれ自身を排除できますか。あなたがなすべき一切は、その源を見つけ、あなたの真の
自らとしてそれに留まることです。あなたの努力はそこまで届きます。それを超えては自然に進みます。
訪問者:
バガヴァーン、あなたはいつも「
自らは常に存在する」と言います。私が存在するなら、では、どうして私はそれを感じないのですか。
バガヴァーン:
あなたは今、あなたが存在していることを感じませんか。あなたの疑問は、あなたが常に存在し続けるのかどうかです。あなたはどうして疑問を持たなければならないですか。少し考えれば、あなたの存在の壊れる部分である体が単なる機械であり、壊れ得ないものである心に仕える道具であるとあなたは確信します。それが一切(all-in-all)、知る者、師であり-あなた自身です。
あなたの疑問と困難は、あなたの思いから生じます。それは体を知覚し、体をあなた自身と間違えています。あなたの敵(自我)である思いを止めなさい。そうすれば、心はあなたの純粋な存在、不滅の「私」として残ります。それが自我を排除する最良の方法です。
<5> 1937年1月2日
訪問者:
私はマントラ・ジャパが修練においてとても力強いものであると教わりました。
バガヴァーン:
自らはすべてのマントラの中で最も偉大なものであり、自動的に、永遠に続いています。あなたがこの内なるマントラに気づかないなら、ジャパとして意識的にそれに専念すべきです。他の一切の思いをかわすために、ジャパには努力が伴います。それへの継続的な注意によって、終には、あなたは内なるマントラに気づくようになります。それは実現の境地であり、無努力です。この自覚の堅固さによって、あなたがどれほど他の活動に従事しようとも、あなたはその流れに途切れなく無努力で保たれます。ヴェーダの朗唱やマントラに耳を傾けることは、ジャパの意識的な復唱と同じ効果があります。そのリズムがジャパなのです。
<6> 1936年7月5日
訪問者:
どのようにして瞑想中に眠りに落ちるのを防ぐべきですか。
バガヴァーン:
あなたが眠りを防ごうと試みるなら、それは瞑想中に考えることを意味します。それは避けなければなりません。しかし、あなたが瞑想している間に眠りにすっと入るなら、眠っている間やその後でさえも、瞑想は継続します。しかし、思いであるため、眠りは取り除かねばなりません。というのも、生来の境地は、妨げる思いのないジャーグラットにおいて意識的に獲得されなければならないからです。目覚めと眠りは、生来の思いのない境地というスクリーン上の映像に過ぎません。気づかれることなく、それらを通過させましょう。
<7> 1942年7月27日
北インド出身の鉄道主任技師が、瞑想における直接の導きを得ようと一月以上アーシュラム滞在しました。
技師:
私は瞑想において初心者です。どうかバガヴァーンが私を導いてくださいますように。あなたは我々に「私は誰か」探求し続けるように熱心に勧めます。それが私をどこへ導くのか教えていただけますか。
バガヴァーン:
それは単に尋ねているだけではありません。あなたはその真意へ入らなければなりません。多くの人が体の何かの中心に瞑想して、終にはそれらに溶け込みますが、遅かれ早かれ、彼らは避けることのできない彼らの本質を調べなければなりません。それでは、どうして一直線にあなた自身に集中して、終にはその源に溶け込まないのですか。
技師:
そうです。20年間、私はあるチャクラに集中しつづけ、ものを見て、音を聞きつづけていますが、まるで真理に近付けていません。今、思いが心に生じるとすぐに、「私は誰か」と問い続ければよいのでしょうか。
バガヴァーン:
まさしくそうです。あなたが外側の思いにより妨げられない限りは、その真意に留まりなさい。目的は、心の変化の絶え間ない抑制を通じ、「私」という感覚の根元へ到達することです・・・
<8> 1936年11月10日
訪問客:
私が見る限りでは、押し寄せる思いを防ぐのに完全に成功するまで、
自らを実現するのは不可能です。正しいでしょうか。
バガヴァーン:
少し違います。あなたは他の思いを防ぐ必要はありません。深い眠りにおいて、あなたは完全に思いから自由です。なぜなら、「私」という思いがないからです。目覚めて「私」という思い生じる瞬間に、他のあらゆる思いが自然に押し寄せます。それゆえ、人がなすべき最も賢明なことは、この先導する思いである「私」という思いを捕まえ、それを吟味し-それは誰で、何か-、それによって他の思いに気をそらさせる機会を与えないことです。そこに、ヴィチャーラの真価と心の制御におけるその有効性があります。
<9> 1937年2月19日
訪問者:
どの瞑想(ディヤーナ)が最良ですか。
バガヴァーン:
最良の瞑想は、三つの状態すべてで継続するものです。それは「私は瞑想している」と思う余地さえないように力強くならねばなりません。そのように目覚めと夢の状態がそれによって完全に占領される時、深い眠りもまた分化しないディヤーナと考えられるかもしれません・・・
訪問者:
スシュムナ・ナーディとアートマ・ナーディの違いは何ですか。
バガヴァーン:
スシュムナは、ヨーガの修練において、つまり、動的なディヤーナにおいてシッディ(超常的な力)の達成のために働く中心的なナーディであり、ヨーギはサハスラーラ、脳に帰着すると主張します。アートマナーディ、パラナーディ、もしくは、アムリタナーディは、ジニャーナ・マールガの静的なディヤーナにおいてハートからサハスラーラへ昇る力の流れであり、
自らの実現に通じます。スシュムナは、それを支えるアートマナーディに最終的に溶け込まなければなりません。
ナーディとは神経構造であり、それに沿って意識がハートから全有機体へ流れます。
<10> 1936年2月12日
C氏は山から帰る途中のバガヴァーンを捕まえました。
C氏:
シュリー・オウロビンドーは、ヨーガの修練に影響する二つの力について話します。一方は水平的で、他方は垂直的です。私はそれが分かりません。
バガヴァーン:
一切の力は、方向を持たない
自らから出てきます。しかし、シュリー・オウロビンドーは、頭の中心における集中の結果生じる動的な力(または、クンダリーニ・シャクティ)とハートにおけるヴィチャーラ・ディヤーナの結果生じる静的な力について比ゆ的に話しているのかもしれません。
C氏:(夕方遅くに)
バガヴァーンはサマーディ、恍惚状態(trance)について話します。私はそれを体の意識の完全な喪失を意味すると理解しています。私はそれを決して達成できないのではと恐れています。私は私自身を眠りにつかせるのさえ難しく感じます。それは
自らの実現の前に必要ですか。
バガヴァーン:(笑いながら)
もしそうなら、あなたはクロロフォルムを吸い込まなければなりません。サマーディは、
自らの境地そのものです。あなたは体の意識の完全な喪失をどう解釈していますか。それを一種のカタレプシー
(*5)や深い眠りに陥っているとは想像しないでしょう。サマーディにおいて、心はジャーグラットにいますが、しかし、思いなくあり、心はそれが中へ引き込まれるスシュプティ
(*6)の至福を楽しみます。サマーディにおいて心はとても注意深くあるため、それはブラフマンを経験します。仮に心がそのように完全に目覚めていないなら、どのようにしてそれがブラフマンを知るのですか。実際、心そのものがブラフマンになります。恍惚状態は、この考えを伝えていますか。でなければ、サマーディを表すには不適切な言葉です。
C氏:
カルマ・ヨーギやバクタもまた、サマーディを経るのですか。
バガヴァーン:
サマーディとは、集中と心の制御を通じてハートへ溶け込むことです。カルマ・ヨーギやバクティ・ヨーギもまた、彼らが修練するなら、サマーディを達成します。実際は、彼らの大部分が結局はヴィチャーラの方法によってムクティを達成します。
<11> 1936年7月15日
C氏はシュリー・バガヴァーンの「40詩節」を講堂で黙読していました。第30詩節が彼を魅了しました。彼は声に出して読み、言いました。
C氏:
この詩節から、私は探求がハートではなく、心で始めねばならないと理解しましたが、バガヴァーンはいつもハートについて話します。おそらくは、修練の最終段階として。
バガヴァーン:
まさしくそうです。それは押し寄せる思いを阻止するため、そして、「私」の位置を理解するために、内に向けられた心で始まります。心がついにハートに沈む時、妨げられない至福が圧倒されるほどに感じられます。その時、純粋な自覚から離れていない実感があります。つまり、頭とハートがまったく同じものとなります。
C氏:
『ヴィヴェーカ・チューダーマニ』の第266詩節においてシュリー・シャンカラーチャーリアは、ブラフマンはブッディ、微細な知性により実現されうると言います。それは知性が大きな助けになりうること、実際、実現に不可欠であることを意味しています。
バガヴァーン:
「ブッディ」という言葉は、微細な知性として正しく翻訳されていますが、ここで、それは、ハートの洞窟を意味しています。とは言え、微細な知性もまたブラフマンを実現できるので、それゆえ、最も重要です。(声に出して266詩節を読んで)
ブッディの洞窟の中に、ブラフマンがある
それは粗大とも微細とも異なる、絶対的実在
至高であり、他を持たない唯一なるもの
ブラフマンとして、この洞窟に住まう者は、おお、最愛なる者よ
もはや女性の子宮へ入ることはない
<12> 1936年7月30日
C氏:
『ヴィヴェーカチューダーマニ』では、「私」‐「私」の意識について永遠にハートの中で輝いていると語りますが、誰もそれに気づいていません。
バガヴァーン:
そうです。目覚め、夢、夢を見ない眠り-どのような状態にいるのであれ、それに気づいていようがいまいが、全ての人が例外なくそれを持っています。
C氏:
『サット・ダルシャナ・バシャヤ』の対話の部分で、「私」‐「私」は絶対的な意識として言及されていますが、バガヴァーンはかつて私にサハジャ・ニルヴィカルパ以前のどのような実現も知性によるものであると言いました。
バガヴァーン:
そうです。「私」‐「私」の意識は絶対者です。それはサハジャの前に来ますが、その中にはサハジャ自体の中にあるように微細な知性があります。違いは、後者では形の認識が消えていますが、前者ではそうではありません。
C氏:
バガヴァーン、あなたは昨日、人間の体には針の先のように小さい穴があり、そこから意識がいつも湧き出ていると言いました。それは開いていますか、それとも閉じていますか。
バガヴァーン:
それはいつも閉じており、体を意識へ結び付ける無知の結び目です。心が一時的なケヴァラ・ニルヴィカルパの中に沈む時、それは開きますが、再び閉じます。サハジャでは、それはいつも開いています。
C氏:
「私」‐「私」の意識の体験の間はどうですか。
バガヴァーン:
その意識が、それを永久的に開く鍵(かぎ)です。
<13>
C氏:
「私は誰か」という探求は体のどこかの場所へ導きますか。
バガヴァーン:
明らかに、
自らの意識は個々人自身に関係しているために、体の中の中心によって体験の中心として、彼の存在の中で体験されなければなりません。それは機械の発電機に似ていて、発電機はあらゆる類の電気の働きを生じさせます。それは意識的および無意識的に、体の生命やその一切の部分や器官の活動を維持しているだけでなく、物質的次元とより微細な次元の間の関係も維持しており、個人はそこで活動します。また、それは発電機のように振動し、それに注意を払う落ち着いた心はそれを感じることができます。それはヨーギやサーダカにスプラナの名称で知られており、サマーディにおいて意識によってきらめいています
C氏:
あなたが究極的な意識-「私」‐「私」-と呼ぶものが生じる場所-中心にどのように到達するのですか。単に「私は誰か」と思うことによってですか。
バガヴァーン:
ええ。それはあなたを連れて行きます。あなたは落ち着いた心で行わねばなりません。心の落ち着きが不可欠です。
C氏:
その中心-ハート-に達する時、どのようにその意識は現れるのですか。私はそれを認識しますか。
バガヴァーン:
もちろん、あらゆる思いのない純粋な意識として。それはあなたの
自ら、むしろ、実在の途切れのない純粋な自覚です。それが純粋な時、間違えることはありません。
C氏:
中心の振動する動きは、純粋な意識の体験と同時に感じられるのですか、それとも、その前か、後ですか。
バガヴァーン:
その両方はまったく同じものです。しかし、瞑想が十分に安定し、深まり、究極的な意識に非常に近い時に、または、突然の大きな恐怖や衝撃の間に心が停止するようになった時にさえも、スプラナは微細な方法で感じられます。それはそれ自体へ注意を引きつけ、その結果、落ち着きによって鋭くなった瞑想者の心はそれに気づくようになり、自然とそれに引き寄せられ、最終的にそれ、
自らに飛び込みます。
C氏:
「私」‐「私」の意識は
、自らの実現ですか。
バガヴァーン:
その前触れです。それが永続的(サハジャ)になる時、
自らの実現、解放です。
(*1)『ヨーガ・スートラ』、第1章2詩節、「ヨーガ チッタ ヴリッティ ニローダ(ヨーガとは心の働きの止滅である)」。ヴリッティは、「(心の)働き、変形したもの」とよく訳されます。
(*2)モークシャ・・・解放
(*3)ジャーグラット・・・目覚めている状態
(*4)ムクティ・・・解放
(*5)カタレプシー・・・受動的にとらされた姿勢を保ち続け、自分の意思で変えようとしない状態。統合失調症やヒステリーなどでみられる。蝋屈症。(「デジタル大辞泉」)
(*6)スシュプティ・・・眠り