◇「山の道(Mountain path )」、1981年6月、p153~155
バガヴァーンとの対話
スワーミー・マードハヴァ・ティールタ
スワーミー・マードハヴァ・ティールタ:
神は様々な種類の世界を創造し、いまだ新しい世界を創造するつもりであると言う人々がいます。
シュリー・バガヴァーン:
我々の現在の世界そのものが真実ではありません。各々の人が様々な想像の世界を彼の想像に応じて見ます。それでは、どこに新しい世界が現実的であるという保証がありますか。ジーヴァ(個人)、世界、神、それら全ては真実の境地に依存しています。「私」という個人の感覚が存在する限りは、それらもそこに存在します。この「私」という個人の感覚から、心から、これら三つが生じています。あなたが心を破壊するならば、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。それは今でさえ留まり、住まっています。私たちはものを誤って見ています。この誤った認識はこのジーヴァの本質を探究することによって正されます。たとえジーヴァが超越した心(super-mind)に入っても、それは心の中に留まります。しかし、心を委ねた後、ブラフマン以外留まるものは存在しません。この世界が現実、もしくは、非現実であっても、チェータナー、もしくは、ジャーダであっても(意識がある、もしくは、意識がなくても)、幸福な場所、もしくは、悲惨な場所であっても、それら全ての状態は無知の状態に生じます。「私」という個人の感覚を欠くアートマ・ニシター(
自らに定められた)の境地は、至高の境地です。この境地において、対象的な思考の余地はなく、この個人的存在の感覚もありません。存在‐意識‐至福というこの自然の境地においてどのような疑いも存在しません。自分自身の中に名と形の知覚がある限り、神は形を伴い現れますが、無形の現実の知見(アルーパ・ドリシュティ)が達成される時、見る者、見る、見られるものという変形はありません。その知見は意識そのものの本質であり、不ニであり、分割されません。それは制限なく、無限であり、完全です。体の内に「私」という個人の感覚が生じる時、それから目覚めの状態が現れます。この感覚が不在の時、それでは誰が世界を見るのですか。
質問:
我々が我々の体に存する物質的性質を抑制できるのとまさしく同様に、
自らは全てに共通しているため、聖者は他者の物質的性質を変えられるといった力を彼自身の内に持つにちがいないと信じている人たちがいます。
答え:
ジニャーニは他者が存在していると信じていません。ですから、誰かの物質的性質を変えるという問題は存在しません。他者が見られる時、それは無知です。
質問:
ジャナカはジニャーニでしたが、彼は支配する君主でした。しかし、ジニャーニである彼のグル、ヤージュナヴァルキヤは世俗を放棄し、森へ行きました。どうしてそうなのですか。
答え:
全ては各々のジニャーニのプラーラブダ(運命)に応じて起こります。クリシュナは楽(らく)を楽しむ者(ボーギー)でしたが、スカデーヴァは苦行者(トゥヤーギー)でした。ジャナカとラーマは王でしたが、彼ら全てはジニャーニでした。彼らの内なる体験は同じであり、外の人生はプラーラブダに従っていました。
質問:
ある人は縄に蛇を、ある人は棒を、ある人は花輪を、ある人は水の流れを見ますが、縄を縄として見る人は真実の知識を持っています。その他の見る者の知識は真実ではありません。
答え:
他の見る者の見かたについて考える必要はありません。それらの他者はあなたの想像の内にだけ存在します。ただ一人の見る者を知りなさい。そうすれば、全てはよくなります。
質問:
どのようにですか。
答え:
夢の中で多くのものが見られますが、それらはすべてただ1人の見る者の想像の内に存在します。あなたが夢から目覚める時、夢と夢の中の見られるものはそれら自身のプラーラブダを引き受けます。
質問:
それでは、他者はいなくなるのですか?
答え:
世界と同じです。『アパロークシャーヌブーティ』(シャンカラに帰せられるアドヴァイタの作品)において、著者は「見る者、見る、見られるものが存在しないその境地に、視線は鼻先ではなく、そこに(その境地に)定められるべきである」と述べます。
質問:
それから質問が起こります。視線がそのように定められるならば、どのように毎日の生活が続けられるのですか。
答え:
アディシュターナ(礎)以外何も真理とならないため、ヴァヤヴァハーラ(世俗的な活動)の間でさえ、ジニャーニは視線(ねらい)を礎に定めています。壺の内に土が存在すると感じることが適切な態度です(つまり、形でなく本質を見る)。
質問:
壺は水で満たせますが、土に水を注ぐことによって同じ結果は達成できません。
答え:
あなたに壺を壊した後で土を見るようにとは言ってません。壺が完全な時でさえ、あなたは土からなる形においてそれを見ることができます。同様に、世界をブラフマンからなる形として見ることができます。目覚めの状態にブラフマンの知を持つことは、壺の内に粘土の知識を持つことに似ています。
質問:
名と形は現実ですか。
答え:
あなたはそれらをアディシュターナから分離しているとみなしてはいけません。名と形を理解しようと試みる時、あなたは現実のみを見つけます。それゆえ、永久に現実なるものの知を得なさい。
質問:
夢は目覚めの状態の間に受けた印象のために生じるというのは事実ですか。
答え:
いいえ、本当ではありません。あなたは夢で目覚めの状態において以前に見たことがない多くの新たな物事や新たな人々を見ます。あなたは夢の中で二番目の夢すら見るかもしれません。二番目の夢から目覚めた後、あなたは目覚めたと感じますが、それは一番目の夢という目覚めの状態です。同じように、人は毎日、目覚めますが、それは本当の目覚めの状態ではありません。
質問:
どうして目覚めの状態はとても現実的なのですか。
答え:
我々はとても多くのものを映画のスクリーン上に見ますが、現実ではありません。そこでスクリーン以外の何も現実ではありません。同じように、目覚めの状態において、アディシュターナ以外何も存在しません。ジャーグラット・プラマー(世界の知識)はジャーグラット・プラマータ(世界を知る者)のプラマー(知識)です。両方とも眠りにおいて去ります。
(*1)
質問:
どうして我々は世界においてそのような永続性や不変性を見るのですか。
答え:
それは間違った考えのために見られています。ある人が同じ川で二回沐浴したと言う時、彼は間違っています。なぜなら、彼が二度目に沐浴した時、川は彼が一度目に沐浴した時と同じではないからです。炎の輝きを見て、人は同じ炎を見ると言いますが、この炎は瞬間ごとに変化しています。目覚めの状態はこのようです。変化のない見かけは知覚の誤りです。
質問:
誰の誤りですか。
答え:
プラマータ(知る者)です。
質問:
どのようにして知る者は来たのですか。
答え:
知覚の誤りのためです。実際は、知る者とその間違った知覚は同時に現れ、
自らの知が得られる時、同時に消えます。
質問:
どこから知る者とその間違った知覚が来たのですか。
答え:
その質問を誰が尋ねていますか。
質問:
私です。
答え:
その「私」を見出しなさい。そうすれば、あなたの全ての疑問は解消されます。夢の中に虚偽の知る者、知識、知られるものが生じるのとまさしく同様に、目覚めの状態において同じ過程が働いています。両方の状態において、この「私」を知るとすぐに、あなたは全てのことを知り、知られるべき何ものも残りません。深い眠りは、知る者、知識、知られるものを欠いています。同じように、真実の「私」を経験する時、それらは存在しません。目覚めの状態であなたが見る起こっているものが何であれ、それらは知る者に対して起こり、知る者が非現実であるため、実際には決して何も起こっていません。
質問:
眠りから目覚めた後、どうして前日の世界は同じように見えるのですか。
答え:
前日に見られた世界は現実ではありません。それは非現実な知る者の知識です。同様に、次の日の世界もまた非現実な知る者の知識です。実のところ、現実の世界は存在しません。我々から分離して見えるものが我々によって「世界」と呼ばれています。自我意識(アハンカーラ)のために、それは我々と分離して見えます。アハンカーラが去る時、何ものも分離して存在せず、それゆえ世界は存在しません。時間もまたプラマータから生じます。プラマータは現実でないので、時間もまた現実ではありません。アインシュタイン博士もまた、相対性理論の中でこれを唱えました。
質問:
それでは、どのようにして日常生活の出来事は進むのですか。
答え:
この頃、政府は一時間先に進めて時間を変更しました。時間は間違ったものですが、日常生活は依然として続きます。
質問:
『パンチャダシ』に、あなたが同じ学校に通っている子供たちみんなと一緒に歌っている息子の音楽を聞きたいと思うならば、他の子供たちに静かにするよう頼まなければならないという例があります。同様に、
自らの声を聞くためには、あなたは他の全ての活動をやめなければなりません。
答え:
特にこの例においては、息子が出席していなくても、あなたは他の子供たちの音楽を聞きます。ですから、この例えはうまく合っていません。真実を言えば、
自らが存在しなければ、他の仕事を行うことはできません。他の例によれば、我々がハーモニウムの主旋律に注意を定めるなら、他の旋律がそれと共に流れていても、その旋律を聞くのに困難はありません。
質問:
非現実であると信じられていても再び現れる蜃気楼とまさしく同様に、世界は非現実であると信じられていても再び現れます。
答え:
蜃気楼の中の水の知識が真実でないのとまさしく同様に、ブラフマンの中の世界は真実ではありません。全ては一つのブラフマー・ルーパ(ブラフマーの形)です。それのみが真実の知です。
質問:
ヴェーダーンタの古い体系によれば、無知がはじめに生じ、それから個人の存在という考えが生じたようですが、新しい体系によれば、前も後もないようです。個人の存在、無知、世界は同時に生じ、知を得るとすぐに、それら三つすべてが消えます。
答え:
そうです。「あなたの知見をジニャーナマヤ(完全な知、知からなるもの)にした後、世界をブラフマーからなるとして見よ」(ヨーガ・ヴァーシシュタ)。
質問:
そのような状態はサット・サンガ(聖者との交際)によってのみ得られます。
答え:
サット・サンガが講話や対話のみを意味すると考えないように。それは
自らの形として存在に住まうことを意味します。
質問:
「アートマはスワヤム・プラカーシャである(
自らはその独自の光でもって輝く)」という意味は何ですか。
答え:
太陽に決して暗闇が見られることがないのとまさしく同様に、
自らにも決して無知は見られません。
自らは知ることはできませんが、アパロークシャ・アヌバーヴァ(直接的認識による
自らの知)によって体験できます。これがスワヤム・プラカーシャトワ(
自らの輝き)と呼ばれています。
(*1)ジャーグラットが英文では「world」となっていますが、本来は「目覚めている状態」という意味で、ジャガットが「世界」という意味です。