ラベル ダクシナームールティ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル ダクシナームールティ の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2016年1月16日土曜日

真の沈黙、ラマナ・ダクシナームールティの沈黙の声は録音しえない

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年4月 p71

兄への手紙-2
真の沈黙

ナーガンマ著

 今日の午後3時、私はバガヴァーンの周りの信奉者の集まりに加わりました。彼がシュリー・シャンカラの「ダクシナームールティ・アシュタカム」について以前に話していたことに話は戻り、バガヴァーンは言いました。「シャンカラはダクシナームールティを称賛しようと思い立ちましたが、どうしてモウナを称賛できるでしょうか。それで、彼はスリシュティ(創造)、スティティ(維持)、ラヤ(消滅)を描き、その三つ全ての化身(体現者)であるダクシナームールティに敬礼しました。一体、他のどのような方法で沈黙が称賛できたでしょうか」。

 会話の穂を継いで、ある信奉者が言いました。「何年も前、あるシヴァラートリの日に、バガヴァーンの周りに全ての信奉者が集まって、座り、『今日、バガヴァーンは我々にダクシナームールティ・アシュタカムの意味を説明すべきです』と言ったとダンダパーニ・スワーミーは我々に言いました。しかしながら、バガヴァーンは微笑みながらも、話さずに、長い間沈黙して座りました。その後、バガヴァーンがその継続する沈黙によって、沈黙こそが詩節の真意であると自分たちに理解させたのだと感じながら、彼らは立ち去りました。そうでしょうか」。

 バガヴァーンはそうであると承認しました。その後、私は加えて言いました。「では、それはバガヴァーンが沈黙の注釈を与えたということでしょうか」。そして、バガヴァーンはこれもまた承認しました。

 他の誰かが、「では、真の沈黙とは、自らに住まうことを意味しますね」と言いました。

 バガヴァーン:「ええ、もちろんです。自らがなければ、どうしてそれが沈黙になりえますか。」

 信奉者:「まさしくそれが私の尋ねていることです。自らに住まうことなく、ただ会話を控えることは、沈黙なのでしょうか。」

 バガヴァーン:「どうしてそんなことがありえますか。沈黙を守ることについて話しながら、その間中、紙切れや石板にメッセージを書き続けている人たちもいます。その心の活動は全く同じではありませんか。」

 別の信奉者が、「では、単に会話を控えることには何の益もないのですか」と割って入りました。

 バガヴァーン:「外の世界の障害物を避けるために、人は会話を控えるかもしれませんが、彼はそれが目的そのものであると思うべきではありません。真の沈黙とは、実際、終わりなき会話です。それを得るというようなことはありません。なぜなら、それはいつもそこにあるからです。あなたがしなければならない全ては、それを覆い隠す世俗的な関心事を取り除くことです。それを得ることは断じてありません。」

 その間に、ある放送協会がバガヴァーンの声を録音しようと考えているという知らせが来ました。笑いながら、バガヴァーンは言いました。「おや、そうですか。でも、私の声は沈黙ではありませんか。彼らはどうして沈黙を録音できるでしょうか。在るそれが、沈黙です。誰がそれを録音できるというのでしょうか」。

 信奉者たちは黙って座り、目を見合わせ、講堂は完全な静寂になりました。ダクシナームールティの化身であるバガヴァーンは、モウナ‐ムドラー、沈黙の姿勢で座り、南を向きました。その生き生きとした聖像、彼の体は、アートマの光で輝いていました-今日は何とも良い一日でした!

2014年2月23日日曜日

マハー・シヴァラートリの由来、シュリー・バガヴァーンによる沈黙の教え

◇「山の道(Mountain Path)」、1972年4月 p128~131
(1972年)2月13日、聖なるシヴァラートリの日がアーシュラムで盛大に祝われました。いつもよりさらに大勢でやって来た訪問者はもちろん、外に住む信奉者らが、(アーシュラムの)居住者に加わりました。シュリー・バガヴァーンの恩寵の神殿で、信奉者の集団は夜通しプージャーに立会い、山もまた巡り歩きました。その活気に満ちた雰囲気は、今一度、主シヴァ自身により以下のように表される、この機会の計り知れない意義を証明しました。
この最も聖なる日に私(主シヴァ)にプージャーを行うことにより
人は丸一年のプージャーの(を行うことの)結果を得る
月が海面の上昇を引き起こすがごとく
この聖なる時間(時)は私の顕現の優れた力を高める
-アルナーチャラ・マーハートミャム

主シヴァの歌:マハー・シヴァラートリ特別版

聖なる夜 - シヴァラートリ

ヴィシュワナータ・スワーミー 

アーディ・アルナーチャラとして知られる
不可思議な山のリンガの形を帯びたのは、マールガリ月(*1)のアールドラーの日である
そして、ヴィシュヌと他のデーヴァらが
光の山に顕現した彼を崇拝した日が、マーシ月(*2)のシヴァラートリである    
-シュリー・バガヴァーン

 これは「シュリー・アルナーチャラへの五つの賛歌」へのシュリー・バガヴァーンによって作られた導入の詩節の2番目のものです。着想は『シヴァ・プラーナ』からとられています。他の詩節の内容は、『スカンダ・プラーナ』の中の「アルナーチャラ・マーハートミャム(アルナーチャラの栄光)」からとられています。

 シュリー・バガヴァーンの信奉者にとって彼自身がその日の夜(マールガリ月のアールドラー)に誕生した事は興味深いことです。

  『シヴァ・プラーナ』には、創造者であるブラフマーと保護者であるビシュヌの間で、彼らの内の誰がより偉大なのかについての戦い(論争)があり、その結果、全世界の全てのことがうまくいかなくなったという記述が見られます。その重大事に、主シヴァが並外れた光の無限の柱としてそこに現れ、「あなたがた二人のどちらであっても、この光の柱の頂上か底を見つけられる者が、より偉大な者です」と言う声が聞こえました。それで、ブラフマーは白鳥の姿になり、頂上を見つけるために高く舞い上がり、ヴィシュヌは猪の姿になり、底を探し出すために沈んで行きました。長い長い年月の後、彼ら両者とも試みに失敗して戻らねばならず、偉大なるシヴァ神がいて、彼らは彼の恩寵によってのみ存在し、働く道具に過ぎないことを悟りました。彼らの願いにより、主シヴァはアルナーチャラという情け深い姿をとり、そのため、全ての者が彼のダルシャンを得て、彼の周りを歩き、彼を崇拝し、祝福を受けることができました。そして、ヴィシュヌと他のデーヴァたちが(かの光の柱から顕現した)主シヴァを讃え、崇拝した最初の日が、マーシ月の黒月(こくげつ)(*3)の第14日目です。

 これが我々がプラーナに見るシヴァラートリについての記述です。シヴァラートリは主シヴァの祭日の中でもっとも神聖なものであり、信奉者は一日中断食し、夜の四つの区分の間中、彼を崇拝し続けます。

 寺院や家でも、シヴァ・リンガに正式なプージャーが行われます。シヴァリンガは、シュリー・ルドラ(*4)やその他のヴェーダの賛歌の朗唱に伴われ、聖水、牛乳、凝乳、蜂蜜で洗われた後、装飾品や花で着飾られます。彼の千の名が崇拝において唱えられます。様々なお供え物は、食事の用意と果物からできています。長い間、灯りを波のように美しく振り、プージャは燃える樟脳を波のように振ることで終えられ、それは心が主シヴァとして知られる純粋な自覚という炎の中に完全に溶け込むことを意味します。

 ティルヴァンナーマライでは、その夜、主シヴァに瞑想しながら、もしくは、彼の名やシヴァの賛歌を唱えながら、多くの信奉者がアルナーチャラの周り(約13キロメートルの距離)を歩きます。夜明けや夕暮れ、または、夜だけ静かに山の周りを歩き、アルナーチャラの存在は生き生きとした体験になります。

 ここで私は1924年の私の人生で最高のシヴァラートリを思い出します。夜8時ごろ、シュリー・バガヴァーンは、彼がいつも休む場所である寝椅子の近くに座りました。小さな机が彼の前にあり、側には落ち着いた灯りがありました。彼の前には、とてもわずかの信奉者しか座っていませんでした。彼らの一人が、他の人を代表して、シュリー・バガヴァーンにシュリー・シャンカラの「ダクシナームールティへの賛歌」の意味を説明して下さるよう頼みました。それはシュリー・バガヴァーン自身がタミル語の詩節に翻訳したものです。シュリー・バガヴァーンはとても恵み深い、穏やかなほほ笑みをたたえ、沈黙していました。数分が経過しました。その信奉者はシュリー・バガヴァーンに彼の願いを重ねて言いました。返答はなく、シュリー・バガヴァーンは同じく驚くほど優しげな表情をたたえ、沈黙したままでした。数分の間に、質問者を含めた全ての信奉者は、主ダクシナームールティが昔日に主ブラフマーの四人の息子、すなわち、サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、サナトスジャータに教えたことを、シュリー・バガヴァーンが沈黙の中で彼らに教えていることを理解しました。

 (その話は以下のように良く知られています。ブラフマーの四人の息子が、世界の仕組みの創造において彼を手助けするため、彼の心から創造されました。しかし、息子たちはむしろ彼らの周りにある不可思議な世界の源を見出したいと思い、そのような知を求めて一点に集中した心で巡り歩きました。バニヤンの木の下に座し、栄えある沈黙に包まれた主シヴァが彼らの前に現れ、彼らは彼を一目見るなり悟り、彼の足元に黙して座りました。シヴァのこの側面はダクシナームールティの名で知られており、我々は彼のこの聖像が主シヴァの全ての寺院の南側で顔を南に向けているのを見ます。さらに、ダクシナーは知を意味し、その面前において全ての中のただ一つの自らの知が自然と現れ出る彼がダクシナームールティとして知られています。)

 シュリー・バガヴァーンが我々の心を引き込み、彼自身に調和させていたため、その夜の時間は我々の誰にも気づかれずに過ぎて行きました。突然に夜が明け、バガヴァーンはほほ笑みながら立ちあがり、カマンダルを持って朝の散歩に出かけました。我々みなは、バガヴァーンの面前でのシヴァラートリの一晩中の素晴らしいサマーディから出ました。

 ここでバガヴァーンとの毎日、毎晩はそのようであったと言うことは、場違いではないでしょう。とりわけ夜の静かな時間に、私は彼の活発な沈黙の力をしばしば体験しました。シヴァラートリは、実際、その中に他の一切が溶け込む主シヴァの絶対的で純粋な自覚を意味しています。

 プラーナには別の記述もあります。デーヴァとアスラがアムリタ(不死の霊薬)を得るために乳海をかき混ぜていた時に上がってきた猛毒をシヴァが飲み込み、そうして、全世界を消滅から救いました。そして、彼は毒を喉に保ち一晩中座ったので、彼らみなを救わんとする偉大なる慈悲の行いのためにすべてのデーヴァとアスラによって崇拝されました。シヴァはこのためにニーラカンタ(青き喉をした)という名前で知られています。

 かき混ぜている(サーダナ)時に毒が上がってくることは、心の潜在的な不浄な傾向性が神の恩寵により破壊されるために持ち出されて行く過程です!

主シヴァの歌:マハー・シヴァラートリ特別版

(*1)マールガリ月・・・タミル暦の9番目の月。12月半ばから1月半ば。ヒンドゥー暦ではマールガシールシャ。
(*2)マーシ月・・・タミル暦の11番目の月。2月半ばから3月半ば。ヒンドゥー暦ではマーガ。クンバ月とも。
(*3)黒月・・・クリシュナ・パクシャ。満月から月が欠けてゆき、新月に至るまでの15日間。逆に、新月から月が満ちてゆき、満月に至るまでの15日間は、シュクラ・パクシャ(白月)と言われる。
(*4)シュリー・ルドラ・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AB%E3%83%89%E3%83%A9

2013年5月12日日曜日

「ダクシナームールティへの賛歌(Dakshinamurti stotra)」

◇「山の道(Mountain Path)」、2013年6月 p79~84
 バガヴァーン・ラマナ・マハルシは、シュリー・シャンカラーチャーリヤによるサンスクリット語で記された「ダクシナームールティへの賛歌」をタミル語に翻訳しました。以下の前書きと紹介は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からの翻訳であり、賛歌の英文は、マリー・トンネール(Marye Tonnaire)さんによるものであり、上記の「Mountain Path」に掲載されました。
 以下の第2~第11詩節に記されたサンスクリット語の音写と単語の意味は、「Shri Dakshinamurti Stotram」からです。日本語訳は、バガヴァーン自身の賛歌への注釈(「Dakshinamurthy Stotra)を参考にして、英文通りに訳していない所があります(文:shiba)。
歌:Uma Mohan、以下の賛歌の2詩節から11詩節まで

ダクシナームールティへの賛歌

シュリー・バガヴァーンによる紹介

 ブラフマー(四つの顔を持つ神)は、彼の思いの力によって、サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、サナトスジャータという名の四人の息子を生み出しました。彼は世界を創造し、維持するなどの務めに従事するよう彼らに頼みましたが、彼らはそれに興味がなく、まったく無関心でした。彼らは安らぎと静穏を探して放浪しました。彼らの愛着から離れることが極まり、(聖なる教えを受け取るために)適切になったので、偉大なる慈悲の神シヴァは、ダクシナームールティ(南を向く神)という人間の姿でバニヤンの木の下に彼らの前に姿を現しました。彼は彼自身の中に吸収されて静かに座し、彼の右手はチンムドラーとして知られる仕草を表していました。鉄が磁石に引き寄せられるように、四人の探求者は彼に引き寄せられました。彼らは彼の前に座し、彼のように自らに吸収されました。進んだ修行者でさえ、この沈黙の境地を簡単には理解できません。世界、見る者、それが認識されるのを可能にする意識が障害物として立ちはだかっています。しかし、ただ一つの力(シャクティ)こそがそれら三つとして現れ、再びそれ自身にそれらを引き入れるので、一切は自らである、その力です。シャンカラーチャーリヤはこの真理を、以下の賛歌で開示しました。

祈り

偉大な修行者らに安らぎを授けるためにダクシナームールティとして現れ、その沈黙なる真の境地を明らかにし、自らなる本質をこの賛歌の中に表した、かのシャンカラは私の内に住している。

賛歌

1.
永遠に若々しく、完全な知を示す手の仕草(チンムドラー)と晴れやかな顔つきをし、その姿が至福であり、彼自身の自らの内に楽しむダクシナームールティを称賛せん。彼を囲むのは、至高なる自らへの献身に堅固である最も有能な老齢のリシたちである。彼は最上の師であり、沈黙を通じて至高のブラフマンなる本質を明らかにする。

Let us worship Dakṣiṇāmūrti, the eternal youth, with the hand-pose of perfect knowledge (cinmudrā) and a radiant countenance, whose form is bliss and who revels in His own Self. Surrounding Him are the most eminent and aged rishis who are steadfast in their devotion to the Supreme Self. He is the best among teachers, revealing through silence the nature of Brahman.

2.
To the one who sees the universe within Himself like a city that is reflected in a mirror but due to (the play of) Māyā, appears to exist externally as if in a dream, and Who, upon awakening, has the direct experience (of the universe) as His own non-dual Self. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        viśvaṁ darpaṇa-dṛśyamā nanagarītulyaṁ nijāntargataṁ
        paśyan-nātmani māyayā bahiriv-odbhūtaṁ yadā nidrayā |
        yaḥ sākśāt-kurute prabodha-samaye svātmānam-evādvayaṁ
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)viśvaṁ =全世界、 darpaṇa(ṁ)=鏡、dṛśyamānaṁ=のように見える、nagarītulyaṁ=都市のように、nijāntargataṁ = 彼自身の内にある (2行目)paśyan = 見ている、ātmani = 彼自身の内に、māyayā =幻を通じ、bahiḥ = 外に、iva = ように、udbhūtaṁ = 存在・顕現した存在、yathā = このような方法で、nidrayā =眠りを通じて (3行目)yaḥ = ~である彼、sākśāt =目の前に、kurute=行う、prabodhasamaye = 目覚めている間、sva =自分自身の、ātmanāṁ=自ら、eva =それ自体、advayaṁ =不ニの自ら (4行目)tasmai = 彼に、gurumūrtaye=グルの中に具現化された神、namaḥ =拝礼する、idaṁ =この、dakśiṇāmūrtaye =ダクシナームールティ神へ

3.
種の中の芽のごとく初めは(自らの中に)分化せずに存在していた世界を、マーヤーのため虚偽に現れる空間、時間、行為の下で、魔術師や偉大なるヨーギのごとく、自分自身の意思によって、「不可思議な多数のもの」として外側に広げる方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

In the beginning the world is undifferentiated, but it blossoms forth like a sprout within a seed through the illusion (Māyā) that gives rise to time and space. By His own desire, like a magician or a great yogi, He projects this world which becomes manifold, as if changed into a picture of variegated names and forms. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        bījasy-āntar-iv-āṅkuro jagad-idaṁ prāṅ-nirvikalpaṁ punaḥ
        māyā-kalpita-deśa-kāla-kalanā-vaicitrya-citrīkṛtam |
        māyāv-īva vijṛmbhayaty-api mahāyog-īva yaḥ sv-ecchayā
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bījasya=種の、antaḥ =内に、iva =のように、aṁkuraḥ=芽、jagat =世界、idaṁ =この、prāṅ =初めは、nirvikalpaṁ=顕現しない、punaḥ =再び (2行目)māyā =幻、kalpita =作られた、deśa =空間、kālaḥ=時間、kalanā=計算、vaicitṛya =様々な、citrīkṛtam =絵の形で置かれた (3行目)māyāvīḥ =魔術師、 iva =のように、vijṛmbhayati =輝かしく表す、api =そして、mahāyogī =偉大なるヨーギ、yaḥ =~である彼、sva =自分自身の、icchayā =欲望により

4.
その方の光輝のみが虚偽に生じる事物の中で明瞭に輝き、彼を頼りとする人々に「汝はなり」というヴェーダの言葉を示し、彼を直接に見ることによって、生と死の無限の大海へ決して再び落ちることがない方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティーへ礼拝いたします。

To the one whose real effulgence shines forth even through unreal, non-existent objects. And who teaches the great Vedic injunction, “tattvamasi,” “That thou art,” leading to immediate and direct experience (of Truth). Those who seek refuge in Him will never again fall into the endless ocean of births and death. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        yasya-iva sphuraṇaṁ sad-ātmakam-asat-kalp-ārthakaṁ bhāsate
        sākśāt-tat-tvam-as-īti vedavacasā yo bodhayaty-āśritān |
        yat-sākśāt-karaṇād-bhaven-na punar-āvṛttir-bhav-āmbho-nidhau
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)yasya =その人の、sphuraṇaṁ =拍動する状態、sāda =いつも、ātmakaṁ =いつも内にいるそれ、asat =非現実な、kalpa =架空の、arthakaṁ =概念、bhāsate =輝く (2行目)sākśāt =目の前に、tat =それ、tvaṁ = 汝、 asi = である、iti = そのように、vedavacasā = ヴェーダの言葉を通じて、yo =~の彼、bodhayati =教える、āśritān =避難した人 (3行目)yat =~のあの物、sākśāt =目の前に作ることにより、karaṇāt =、bhavet =起こるだろう、na =ない、punaḥ = 再び、āvṛttiḥ =くり返し、bhava =誕生のサイクル、ambhasya =水、nidhau =大変な量の

5.
多くの穴が開いた壺の中に置かれた炎の輝きのごとく、その方の知が、目をはじめとする感覚器官を通じて、「私は知る」という意識として輝き出て、自ら光り輝く方である彼のみに従い、この全世界が輝く。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one whose effulgence is like the light of a great lamp inside a pot with many holes, pulsating outward through the gates of the five senses, shining forth as the awareness “I know” and reflecting the appearance of the entire world. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        nānā-cchidra-ghaṭ-odara-sthitahā-dīpa-prabhā-bhāsvaraṁ
        ñānaṁ yasya tu cakśur-ādi-karaṇa-dvārā bahiḥ spandate |
        jānāmīti tam-eva bhāntam-anubhāt-yetat-samastaṁ jagat
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)nānā = 様々な、cchidraṁ =穴、ghaṭaḥ =壺、udaraṁ =お腹、stithaḥ =立っている、dīpaṁ =灯、prabhā =光、bhāsvaraṁ =明るい光 (2行目)jñānaṁ =知、yasya =その人の、tu =強調、cakśuḥ = 目、ādi =ここで、karaṇaḥ =感覚器官、dvārā = 通じて、bahiḥ =外に、spandate =振動する (3行目)jānāmi =知る、taṁ =彼、eva =のみ、bhāntaṁ = 光り輝く人、anubhāti =それと共に輝く、yetat =この、samastaṁ =全体、jagat = 世界

6.
めめしく、子供っぽく、見る目がなく、鈍い人々のように、体、生命力、五感、知性、無のみを「私」をとして知る、のぼせあがった無意味に論じる者たちの大いなる混乱によって生じたマーヤーの力を破壊する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

There are those who talk too much, identifying the “I” with the body, breath, senses, the active mind or the void. They are misguided like women, children, the blind or dull people. To the one who destroys the great delusion due to the imaginary play of Māyā Sakti. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       dehaṁ prāṇam-ap-īndriyāṇy-api calāṁ buddhiṁ ca śūnyaṁ viduḥ
       strī-bāl-āndha-jaḍ-opamāstv-aham-iti bhrāntā bhṛśaṁ vādinaḥ |
       māyā-śakti-vilāsa-kalpita-mahā vyāmoha-saṁhāriṇe
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)dehaṁ =体、prāṇaṁ =生命力、api =そして、īndriyāṇi = 感覚器官、calāṁ = 変化する、buddhiṁ =知性、ca =そして、śunyaṁ =無、viduḥ =理解する (2行目)strī =女性、bālaḥ =子供、andhaḥ =盲目、jaḍaḥ =愚か者、upamāḥ =相当する、tu =強調、ahaṁ =私、iti =そのように、bhrāntāḥ =のぼせあがった、bhṛśaṁ =無駄に、vādinaḥ =論じる人 (3行目)māyā =幻、śaktiḥ = 力、vilāsa =戯れ、kalpita =作られた、mahā =偉大な、vyāmoha =のぼせあがり、saṁhāriṇe =破壊者

7.
ラーフにより捕らえられた太陽や月のごとく、マーヤーによる覆いのため個人となり、広がった心が退く時に眠り、心が広がり、目覚める時、「今まで眠っていた」という形で自らの存在を認識する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one who remains as Pure Being in deep sleep, when the senses are withdrawn by Māyā, like the sun and moon are obscured by Rāhu (during an eclipse) and who upon waking recognizes, “It is ‘I’ who have slept till now.” Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       rāhu-grasta-divākar-endu-sadṛśo māyā-samācchādanāt
       san-mātraḥ karaṇ-opa-saṁharaṇato yo'bhūt-suṣuptaḥ pumān |
       prāg-asvāpsam-iti prabodhasamaye yaḥ pratyabhijñāyate
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)rāhuḥ =ラーフの星、grasta =掴まれた、divākaraḥ =太陽、induḥ =月、sadṛśaḥ =似ている、māyā =幻、samācchādanāt =覆われた (2行目)sat =実在 、mātraḥ = ただ一つの、karaṇa =感覚、upa =前につける、saṁharaṇataḥ =よく引き出された、abhūt = なった、suṣuptaḥ =目覚めた、pumān =男性 (3行目)prāk =以前に、asvāpsaṁ =よく眠っていた、iti=そのように、prabodhasamaye =目覚めの時に、yaḥ = ~である彼、pratiayabhijñāyate = 理解する

8.
たとえ幼時や目覚めをはじめとして、あらゆる状態がかわるがわる来ても、「私」として内に変わることなく留まり、常に輝き、吉祥なる手の仕草によって真の自らを彼の崇拝者たちに表わす方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one who reveals to his devotees, by means of the auspicious hand-pose, the ever present “I” pulsating within as one’s own true nature, at all times free from the changing stages of life (childhood, adulthood and old age) and the states of experience (waking, dream and deep sleep). Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       bāly-ādiṣv-api jāgrad-ādiṣu tathā sarvāsv-avasthāsv-api
       vyāvṛttāsv-anu-vartamānam-aham-ity-antaḥ sphurantaṁ sadā |
       sv-ātmānaṁ prakaṭīkaroti bhajatāṁ yo mudrayā bhadrayā
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bālya = 幼時に、 ādiṣu =など、api =そして、jāgrat =目覚めた状態、tathā =のような方法で、sarvāsu = 全ての中で、avasthāsu =状態 (2行目)vyāvṛttāsu =出発、anu =伴った、vartamānaṁ =存在、継続する、ahaṁ =私、iti =そのように、antaḥ =内に、sphurantaṁ =拍動すること、sadā =常に (3行目)sva =自分自身の、ātmānaṁ =自ら、prakaṭīkaroti = 公に現わす、bhajatāṁ =崇拝者へ、yaḥ =~の彼に、mudrayā =しぐさを通じ、bhadrayā =吉兆を通じ


マーヤーによって惑わされ、夢と目覚めにおいて、原因と結果、主人と召使、弟子と師、父と息子のような区別を持つ全世界を見る、至高なる自らへ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the Self Supreme who because of Māyā has roamed about in the waking and dream states, perceiving the world as being split up into relationships such as cause and effect, possession and proprietor, pupil and teacher, father and son etc. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       viśvaṁ paśyati kāryakāraṇatayā sva-svāmi-saṁbandhataḥ
       śiṣy-ācāryatayā taya-iva pitṛ-putr-ādy-ātmanā bhedataḥ |
       svapne jāgrati vā ya eṣa puruṣo māyā-paribhrāmitaḥ
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)viśvaṁ =全世界、; paśyati =見る、kāryakāraṇatayā =結果、sva =自分の、svāmi =主人、saṁbandhataḥ = 関連されたとして(2行目)śiṣya =弟子、ācāryatayā =教師、tathha =このように、iva = 、pitṛ =父親、putra =息子、ādi =など、ātmanā =自らを通じ、bhedataḥ =異なるとして(3行目)svapne =夢に、jāgrati =目覚めている状態の間、vā =または、yaḥ =~な人、eṣaḥ = この、puruṣaḥ =男性、paribhrāmitaḥ =混乱させられた人

10.
地、水、火、風、虚空、太陽、月、個別の生命(ジーヴァ)という「動くもの-動かないもの」として彼の八つの姿が現れている。この至高であり、一切に行き渡る意識を超えて、他の何ものも存在していない。識別力をもって探求する人々は(これを)知る。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one whose eight-fold form appears in all that is moving and unmoving, earth, water, fire, air, ether, sun, moon and the individual soul (jīva). Beyond this supreme and all pervading Consciousness there is nothing else; those who enquire with discrimination know. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       bhūr-ambhāṁsy-anal-o'nil-o'mbaram-aharnātho himāṁśuḥ pumān
       ity-ābhāti car-ācar-ātmakam-idaṁ yasya-iva mūrty-aṣṭakam |
       n-ānyat-kiñcana vidyate vimṛśatāṁ yasmāt-parasmād-vibhoḥ
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bhūḥ =地、ambhāṁsi =水、analaḥ =火、anilaḥ =風、ambaraṁ =虚空、aharnāthaḥ =捧げる人、himāṁśuḥ =月、pumān =人 (2行目)ābhāti = 輝く、cara =動いている、acara =動かない、ātmakaṁ =内に含まれている、idaṁ = この、yasya =その人の、eva =そのように、mūrtiḥ =化身、aṣṭakaṁ =8つの部分 (3行目)na = でない、anyat = その他の、kiñcana =何らかのもの、vidyate =存在する、vimṛśatāṁ =熟考する人、yasmāt =その人から、parasmāt =至高の存在から、vibhoḥ =遍く存在する神の

11.
「一切は自らである」と明確に説く、この賛歌を聞くことによって、その意味を熟考することによって、それを瞑想することによって、それを朗唱することによって、「一切は自らである」という偉大なる達成と共に、神の性質である八つの力(シッディ)も自然と結実する。

Because the all pervasiveness of the Self has been explained in this hymn, by listening to it, reflecting upon its meaning, meditating upon it and reciting it, one will achieve without obstacle the great splendour of Selfhood with its supreme sovereignty and the eight-fold powers (siddhis) that ensue automatically.

          sarv-ātmatvam-iti sphuṭīkṛtam-idaṁ yasmād-amuṣmin stave
          tenā-sya śravaṇāttad-artha-mananād-dhyānāc-ca saṅ-kīrtanāt |
          sarv-ātmatv-mah-vibhūti-sahitaṁ syād-īśvaratvaṁ svataḥ
          siddhyettat-punar-aṣṭadhā pariṇataṁ c-aiśvaryam-avyāhatam

(1行目)sarvaḥ = 全て、ātmatvaṁ = 自らにより顕現した、成り立った、iti = そのように、sphuṭīkṛtaṁ = 明白に話された、yasmāt = ~の人から、amuṣmin = この中に、stave = 賛歌 (2行目)tena = その人を通じ、asya =この人を通じ、śravaṇāt = 聞くことから、artha(sya) = 意味の、mananāt = 心の中で熟考し、 dhyānāt = 瞑想する、ca = そして、saṁ =よい、kīrtanāt = それを朗読することにより (3行目)sarva = 全ての、ātmatvaṁ = アートマンの性質、 mahā = 偉大な、vibhūti = 灰、富、sahitaṁ = それと共に、syāt = あるだろう、 īśvaratvaṁ = 神自身の性質、svataḥ = 自動的に (4行目)siddhyet =崇拝者のために物質化する、punaḥ = 再び、aṣṭadhā = 8つの、pariṇataṁ = 完全に顕現する、ca = そして、aiśvaryaṁ = 神聖な富、力、 avyāhatam= 妨げなく

・色々な英訳のリンク
http://nonduality.com/shankr13.htmhttp://www.shaivam.org/english/sen-sk-dakshina.htm
http://www.sacred-texts.com/hin/dast/http://stotraratna.sathyasaibababrotherhood.org/s15.htm
http://greenmesg.org/mantras_slokas/sri_shiva-dakshinamurthy_stotram.php

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

1945年10月11日 (抜粋)

バガヴァーン:
 ダクシナームールティ、つまり、偉大なシヴァ自身が、沈黙による以外は唯一なる現実という真理を表現できませんでした。しかし、この沈黙は、とても進んだ者以外には理解することができませんでした。その他の人々には語られなければいけませんでした。ですが、神自身が表現できなかったそれをどうやって言葉で言えますか。それゆえ、シャンカラはダクシナームールティを褒め称えるという方法を勧め、見かけの上の目的としてのそれと共に、実際は「全てはブラフマンである」ということを説こうと努めています。初めの4詩節(*1)で、彼は世界の性質を説きます。我々が現実を知ることを妨げていているものが世界であるため、その(つまり、世界の)性質が理解されるならば、真理を悟る道における障害は取り除かれるでしょう。次の4詩節(*2)では彼はジーヴァの性質を説きます。それから、両者の関連性を説き、「全ては自らである」と教えます。シャンカラのダクシナームールティ・ストートラの構成と要旨を説明しようとして、私は上の短い前書きを書きました。

(*1)上の賛歌の2詩節から5詩節まで
(*2)上の賛歌の6詩節から9詩節まで

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk.569 1938年11月7日 (前略)

バガヴァーン: 
 沈黙は真のウパデーシャです。それは完璧なウパデーシャです。それは最も進んだ探求者にのみ適しています。他の人々はそれから十分な洞察(閃き)を得られません。ですから、彼らは真理を説く言葉を必要とします。しかし、真理は言葉を超越しています。それは説明を許しません。できることすべては、それを指し示すだけです。どのようにそれが行われるべきですか。

 人々は幻の下にいます。魔法が取り除かれるなら、彼らは真理を悟ります。彼らに幻の虚偽性を理解するように説かねばなりません。その後、彼らはその罠から逃れようと試みます。その結果、ヴァイラーギャが生じます。彼らは真理を調べる、つまり、自らを探求します。それによって、彼らは自らとして留まります。シュリー・シャンカラは、シヴァのアヴァターラであり、堕落した存在への慈悲に満ちていました。彼は彼らみなに彼らの至福に満ちた自らを実現して欲しいと思いました。彼は沈黙によって彼らみなの心を動かすことができませんでした。それで、彼は人々が読み、真理を悟るように、賛歌の形式でダクシナームールティ・ストートラを作りました。

 幻の性質とは何ですか。すべての者が楽しみ、つまり、ボークター、ボーグヤム、ボーガ(*1)の支配下にいます。これはボーグヤ・ヴァースツ(楽しみの対象物)が現実であるという間違った概念のためです。自我、世界、創造者は幻の基礎となっている根本のものです。それらが自らと別でないということが知られるなら、もはや幻はありません。

 初めの四詩節は世界を扱っています。世界は、その自らが探求者のそれである師、もしくは、探求者が自分自身を委ねた師と同じであると示されています。次の四詩節は個々人を扱っており、その自らが師の自らであると示されています。第九詩節(上の第十詩節)はイーシュワラを扱っていて、第十詩節(上の第十一詩節)はシッディ、もしくは、実現を扱っています。ストートラの構成はそのようです。

 ここでどれがダルパナ(鏡)ですか。我々が知る鏡とは、光を反射する感覚のない物です。個々人の中で鏡に対応するものは何ですか。自ら輝く自らの光はマハータットヴァ(*2)の上で反射します。反射した光は心の虚空、もしくは純粋な心です。これは個々人のヴァーサナーを照らし、それゆえに「私」の感覚と「これ」が生じます。

 また、詩節を上辺だけ読むことは、束縛、解放など、すべてが師、つまり、ダクシナームールティに関わってると思わせます。それは馬鹿げています。彼への委ねが意図されています。

(*1)ボークター、ボーグヤム、ボーガ・・・「楽しむ者、楽しまれるもの、楽しみ」
(*2)マハータットヴァ・・・「偉大な原理、普遍的知性である原理」

2012年4月20日金曜日

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・ダクシナームールティによる沈黙の教え

◇『At the Feet of Bhagavan - Leaves from the Diary of T.K.SUNDARESA IYER』、p31
 『At the Feet of Bhagavan』は、T.K.スンダレーサ・アイヤル氏の日記を編集したものです。彼は1908年に初めてバガヴァーンを訪問し、1926年からティルヴァンナーマライに留まり、実質、アーシュラムを家としていました。1965年に68歳で亡くなるまで、ほぼ50年間、バガヴァーンの親密な信奉者でした。(文:shiba)
9.沈黙の中の教え

 それはシヴァラートリ(*1)の日でした。母の霊廟での午後の礼拝が終わりました。信奉者たちは、シュリー・バガヴァーンと共に夕食をとりました。は今やその座に着き、信奉者たちはの足元で、を囲んで座っています。

 午後8時に、サードゥの1人が立ち上がり、プラナーム(*2)をし、手を合わせ、願いました。「今日はシヴァラートリの日です。シュリー・バガヴァーンがダクシナームールティへの賛歌(ストートラ)の意味を私たちに解説することによって、私たちはきっと大いに祝福されることでしょう」。シュリー・バガヴァーンが言うに、「ええ。座りなさい」。

 そのサードゥは座り、皆はシュリー・バガヴァーンを熱心に見て、シュリー・バガヴァーンは彼らを見ました。シュリー・バガヴァーンは、いつも通りの姿勢(pose)で、いえ、落ち着き(poise)で座り続けました。言葉なく、動きなく、全ては静寂でした!は静かに座り、皆は待ちながら静かに座りました。時計は鐘を打ち続けました。9時、10時、11時、12時、1時、2時、3時。シュリー・バガヴァーンは座り、彼らは座りました。静寂、平安、不動-体を、時間や空間を意識せずに。

 そうして、そのまま8時間が、安らぎの中で、沈黙の中で、存在の中で過ぎ去りました。そうして、神聖な現実が、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・ダクシナームールティによって、沈黙なる言葉を通じて教えられました。

 午前4時の鐘を打ったとき、シュリー・バガヴァーンは静かに言いました。「さあ今や、ダクシナームールティへの賛歌の精髄が分かりましたか」。全ての信奉者は立ち上がり、彼らの存在の歓喜の中で、グルの聖なる姿にプラナームをしました。

(*1)シヴァラートリ・・・シヴァ神に敬意をあらわして祝われるお祭り。シヴァラートリは「シヴァの夜」を意味する。ヒンドゥー暦のマーガかパルグナの月(太陽暦の2月、3月)の後半の第13日の夜と14日に行われる。
(*2)プラナーム・・・相手の足に触れることにより、敬意を表す挨拶。

ラマナ・マハルシの教え-沈黙の力

2012年3月31日土曜日

ダクシナームールティと四人の弟子 - シュリー・バガヴァーン独自の解説

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

 元々は、『The Silent Power』に収録されたサードゥ・オームによって書かれた文章(p48、49)のようですが、それと以下の文章には多少違いがあります。(文:shiba)

ダクシナームールティ

-偉大なる沈黙のグル、シヴァ神の化身-(付録5)

 シヴァ神は、4人の行者を指導し、真理の光を与えるためにダクシナームールティとして顕現したと言われています。この話の伝統的な形式では、彼はバニヤン樹の下に座っている若い少年の姿で現れました。4人の行者は、ダクシナームールティの沈黙の伝播を受けとった結果、悟りを得ました。アーディ・シャンカラの「シュリー・ダクシナームールティ・ストートラ」からの1詩節では、次のように言われています。「バニヤン樹の下の奇跡を見よ。弟子たちは年をとり、白髪交じりの髪であるが、師は若々しく輝やいている。師の言葉は簡素な沈黙であるが、弟子の疑問はすべて解かれた」。

 ダクシナームールティは「南を向く神」を意味し、この姿の主シヴァは南インドのシヴァの寺院の南の外壁に見られます。シュリー・ラマナの信奉者は、一般的に、マハルシがダクシナームールティの顕現であったと信じています。彼はアルナーチャラ山の南側に居を定め、彼自身をアルナーチャラ・シヴァと同一視し、沈黙を通じて教えるのをいつも好みました。

 マハルシはムルガナールにダクシナームールティについての以下の話を語りました。

 4人の年をとったサナカーディ・リシ(サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、サナトスジャータ)が、バニヤン樹の下に座っている若々しいダクシナームールティをはじめて見た時、彼らは即座に魅了され、彼が真のサッド・グルであると理解しました。

 彼らは彼に近づき、彼のまわりを3回のプラダクシナをし、彼の前で平伏し、彼の足もとに座り、現実の性質とそれを得る手段について、とても鋭く、適切な質問を尋ね始めました。年をとった弟子に大変な憐れみと父親のような愛情(ヴァーツァリヤ)を感じたため、若いダクシナームールティは、彼らの熱意と知恵と成熟性を見て大いに喜び、彼らの質問それぞれに適切な返答をしました。

 彼が次々になされる質問それぞれに答えるにつれ、さらなる疑問が彼らの心に生じ、彼らはさらに質問しました。そのようにして、彼らはダクシナームールティに丸1年質問し続け、彼は慈悲深い答えを通じて疑問を晴らし続けました。

 ついにダクシナームールティは、「私が質問に答え続けても、さらなる疑問が彼らの心に生じ、彼らの無知(アジニャーナ)に終わりはないだろう」と思いました。それゆえに、彼の内に湧き出ていた慈悲の感情と父親のような愛情を抑え、彼自身を至高なる沈黙に溶け込ませました。(サッド・グルとの1年にわたる交際によって成熟した)彼らの優れた成熟性のため、ダクシナームールティが沈黙を帯びるとすぐに、彼らも至高なる沈黙、自らなる真の境地に溶け込みました。

 話を聞いていたムルガナールが、どの本にもダクシナームールティがかつて何か話したという言及がないことを述べると、シュリー・ラマナはそっけなく、「しかし、これが実際に起こったことです」と答えました。シュリー・ラマナが有無を言わせぬ様子で反応したことから、ムルガナールはシュリー・ラマナがダクシナームールティ自身に他ならなかったのだと悟りました。