バガヴァーン・ラマナ・マハルシは、シュリー・シャンカラーチャーリヤによるサンスクリット語で記された「ダクシナームールティへの賛歌」をタミル語に翻訳しました。以下の前書きと紹介は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からの翻訳であり、賛歌の英文は、マリー・トンネール(Marye Tonnaire)さんによるものであり、上記の「Mountain Path」に掲載されました。
以下の第2~第11詩節に記されたサンスクリット語の音写と単語の意味は、「Shri Dakshinamurti Stotram」からです。日本語訳は、バガヴァーン自身の賛歌への注釈(「Dakshinamurthy Stotra」)を参考にして、英文通りに訳していない所があります(文:shiba)。
歌:Uma Mohan、以下の賛歌の2詩節から11詩節まで
ダクシナームールティへの賛歌
シュリー・バガヴァーンによる紹介
ブラフマー(四つの顔を持つ神)は、彼の思いの力によって、サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、サナトスジャータという名の四人の息子を生み出しました。彼は世界を創造し、維持するなどの務めに従事するよう彼らに頼みましたが、彼らはそれに興味がなく、まったく無関心でした。彼らは安らぎと静穏を探して放浪しました。彼らの愛着から離れることが極まり、(聖なる教えを受け取るために)適切になったので、偉大なる慈悲の神シヴァは、ダクシナームールティ(南を向く神)という人間の姿でバニヤンの木の下に彼らの前に姿を現しました。彼は彼自身の中に吸収されて静かに座し、彼の右手はチンムドラーとして知られる仕草を表していました。鉄が磁石に引き寄せられるように、四人の探求者は彼に引き寄せられました。彼らは彼の前に座し、彼のように自らに吸収されました。進んだ修行者でさえ、この沈黙の境地を簡単には理解できません。世界、見る者、それが認識されるのを可能にする意識が障害物として立ちはだかっています。しかし、ただ一つの力(シャクティ)こそがそれら三つとして現れ、再びそれ自身にそれらを引き入れるので、一切は自らである、その力です。シャンカラーチャーリヤはこの真理を、以下の賛歌で開示しました。
祈り
偉大な修行者らに安らぎを授けるためにダクシナームールティとして現れ、その沈黙なる真の境地を明らかにし、自らなる本質をこの賛歌の中に表した、かのシャンカラは私の内に住している。
賛歌
1.
永遠に若々しく、完全な知を示す手の仕草(チンムドラー)と晴れやかな顔つきをし、その姿が至福であり、彼自身の自らの内に楽しむダクシナームールティを称賛せん。彼を囲むのは、至高なる自らへの献身に堅固である最も有能な老齢のリシたちである。彼は最上の師であり、沈黙を通じて至高のブラフマンなる本質を明らかにする。
Let us worship Dakṣiṇāmūrti, the eternal youth, with the hand-pose of perfect knowledge (cinmudrā) and a radiant countenance, whose form is bliss and who revels in His own Self. Surrounding Him are the most eminent and aged rishis who are steadfast in their devotion to the Supreme Self. He is the best among teachers, revealing through silence the nature of Brahman.
2.
To the one who sees the universe within Himself like a city that is reflected in a mirror but due to (the play of) Māyā, appears to exist externally as if in a dream, and Who, upon awakening, has the direct experience (of the universe) as His own non-dual Self. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
viśvaṁ darpaṇa-dṛśyamā nanagarītulyaṁ nijāntargataṁ
paśyan-nātmani māyayā bahiriv-odbhūtaṁ yadā nidrayā |
yaḥ sākśāt-kurute prabodha-samaye svātmānam-evādvayaṁ
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)viśvaṁ =全世界、 darpaṇa(ṁ)=鏡、dṛśyamānaṁ=のように見える、nagarītulyaṁ=都市のように、nijāntargataṁ = 彼自身の内にある (2行目)paśyan = 見ている、ātmani = 彼自身の内に、māyayā =幻を通じ、bahiḥ = 外に、iva = ように、udbhūtaṁ = 存在・顕現した存在、yathā = このような方法で、nidrayā =眠りを通じて (3行目)yaḥ = ~である彼、sākśāt =目の前に、kurute=行う、prabodhasamaye = 目覚めている間、sva =自分自身の、ātmanāṁ=自ら、eva =それ自体、advayaṁ =不ニの自ら (4行目)tasmai = 彼に、gurumūrtaye=グルの中に具現化された神、namaḥ =拝礼する、idaṁ =この、dakśiṇāmūrtaye =ダクシナームールティ神へ
3.
種の中の芽のごとく初めは(自らの中に)分化せずに存在していた世界を、マーヤーのため虚偽に現れる空間、時間、行為の下で、魔術師や偉大なるヨーギのごとく、自分自身の意思によって、「不可思議な多数のもの」として外側に広げる方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
In the beginning the world is undifferentiated, but it blossoms forth like a sprout within a seed through the illusion (Māyā) that gives rise to time and space. By His own desire, like a magician or a great yogi, He projects this world which becomes manifold, as if changed into a picture of variegated names and forms. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
bījasy-āntar-iv-āṅkuro jagad-idaṁ prāṅ-nirvikalpaṁ punaḥ
māyā-kalpita-deśa-kāla-kalanā-vaicitrya-citrīkṛtam |
māyāv-īva vijṛmbhayaty-api mahāyog-īva yaḥ sv-ecchayā
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)bījasya=種の、antaḥ =内に、iva =のように、aṁkuraḥ=芽、jagat =世界、idaṁ =この、prāṅ =初めは、nirvikalpaṁ=顕現しない、punaḥ =再び (2行目)māyā =幻、kalpita =作られた、deśa =空間、kālaḥ=時間、kalanā=計算、vaicitṛya =様々な、citrīkṛtam =絵の形で置かれた (3行目)māyāvīḥ =魔術師、 iva =のように、vijṛmbhayati =輝かしく表す、api =そして、mahāyogī =偉大なるヨーギ、yaḥ =~である彼、sva =自分自身の、icchayā =欲望により
4.
その方の光輝のみが虚偽に生じる事物の中で明瞭に輝き、彼を頼りとする人々に「汝はそなり」というヴェーダの言葉を示し、彼を直接に見ることによって、生と死の無限の大海へ決して再び落ちることがない方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティーへ礼拝いたします。
To the one whose real effulgence shines forth even through unreal, non-existent objects. And who teaches the great Vedic injunction, “tattvamasi,” “That thou art,” leading to immediate and direct experience (of Truth). Those who seek refuge in Him will never again fall into the endless ocean of births and death. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
yasya-iva sphuraṇaṁ sad-ātmakam-asat-kalp-ārthakaṁ bhāsate
sākśāt-tat-tvam-as-īti vedavacasā yo bodhayaty-āśritān |
yat-sākśāt-karaṇād-bhaven-na punar-āvṛttir-bhav-āmbho-nidhau
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)yasya =その人の、sphuraṇaṁ =拍動する状態、sāda =いつも、ātmakaṁ =いつも内にいるそれ、asat =非現実な、kalpa =架空の、arthakaṁ =概念、bhāsate =輝く (2行目)sākśāt =目の前に、tat =それ、tvaṁ = 汝、 asi = である、iti = そのように、vedavacasā = ヴェーダの言葉を通じて、yo =~の彼、bodhayati =教える、āśritān =避難した人 (3行目)yat =~のあの物、sākśāt =目の前に作ることにより、karaṇāt =、bhavet =起こるだろう、na =ない、punaḥ = 再び、āvṛttiḥ =くり返し、bhava =誕生のサイクル、ambhasya =水、nidhau =大変な量の
5.
多くの穴が開いた壺の中に置かれた炎の輝きのごとく、その方の知が、目をはじめとする感覚器官を通じて、「私は知る」という意識として輝き出て、自ら光り輝く方である彼のみに従い、この全世界が輝く。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
To the one whose effulgence is like the light of a great lamp inside a pot with many holes, pulsating outward through the gates of the five senses, shining forth as the awareness “I know” and reflecting the appearance of the entire world. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
nānā-cchidra-ghaṭ-odara-sthitahā-dīpa-prabhā-bhāsvaraṁ
ñānaṁ yasya tu cakśur-ādi-karaṇa-dvārā bahiḥ spandate |
jānāmīti tam-eva bhāntam-anubhāt-yetat-samastaṁ jagat
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)nānā = 様々な、cchidraṁ =穴、ghaṭaḥ =壺、udaraṁ =お腹、stithaḥ =立っている、dīpaṁ =灯、prabhā =光、bhāsvaraṁ =明るい光 (2行目)jñānaṁ =知、yasya =その人の、tu =強調、cakśuḥ = 目、ādi =ここで、karaṇaḥ =感覚器官、dvārā = 通じて、bahiḥ =外に、spandate =振動する (3行目)jānāmi =知る、taṁ =彼、eva =のみ、bhāntaṁ = 光り輝く人、anubhāti =それと共に輝く、yetat =この、samastaṁ =全体、jagat = 世界
6.
めめしく、子供っぽく、見る目がなく、鈍い人々のように、体、生命力、五感、知性、無のみを「私」をとして知る、のぼせあがった無意味に論じる者たちの大いなる混乱によって生じたマーヤーの力を破壊する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
There are those who talk too much, identifying the “I” with the body, breath, senses, the active mind or the void. They are misguided like women, children, the blind or dull people. To the one who destroys the great delusion due to the imaginary play of Māyā Sakti. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
dehaṁ prāṇam-ap-īndriyāṇy-api calāṁ buddhiṁ ca śūnyaṁ viduḥ
strī-bāl-āndha-jaḍ-opamāstv-aham-iti bhrāntā bhṛśaṁ vādinaḥ |
māyā-śakti-vilāsa-kalpita-mahā vyāmoha-saṁhāriṇe
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)dehaṁ =体、prāṇaṁ =生命力、api =そして、īndriyāṇi = 感覚器官、calāṁ = 変化する、buddhiṁ =知性、ca =そして、śunyaṁ =無、viduḥ =理解する (2行目)strī =女性、bālaḥ =子供、andhaḥ =盲目、jaḍaḥ =愚か者、upamāḥ =相当する、tu =強調、ahaṁ =私、iti =そのように、bhrāntāḥ =のぼせあがった、bhṛśaṁ =無駄に、vādinaḥ =論じる人 (3行目)māyā =幻、śaktiḥ = 力、vilāsa =戯れ、kalpita =作られた、mahā =偉大な、vyāmoha =のぼせあがり、saṁhāriṇe =破壊者
7.
ラーフにより捕らえられた太陽や月のごとく、マーヤーによる覆いのため個人となり、広がった心が退く時に眠り、心が広がり、目覚める時、「今まで眠っていた」という形で自らの存在を認識する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
To the one who remains as Pure Being in deep sleep, when the senses are withdrawn by Māyā, like the sun and moon are obscured by Rāhu (during an eclipse) and who upon waking recognizes, “It is ‘I’ who have slept till now.” Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
rāhu-grasta-divākar-endu-sadṛśo māyā-samācchādanāt
san-mātraḥ karaṇ-opa-saṁharaṇato yo'bhūt-suṣuptaḥ pumān |
prāg-asvāpsam-iti prabodhasamaye yaḥ pratyabhijñāyate
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)rāhuḥ =ラーフの星、grasta =掴まれた、divākaraḥ =太陽、induḥ =月、sadṛśaḥ =似ている、māyā =幻、samācchādanāt =覆われた (2行目)sat =実在 、mātraḥ = ただ一つの、karaṇa =感覚、upa =前につける、saṁharaṇataḥ =よく引き出された、abhūt = なった、suṣuptaḥ =目覚めた、pumān =男性 (3行目)prāk =以前に、asvāpsaṁ =よく眠っていた、iti=そのように、prabodhasamaye =目覚めの時に、yaḥ = ~である彼、pratiayabhijñāyate = 理解する
8.
たとえ幼時や目覚めをはじめとして、あらゆる状態がかわるがわる来ても、「私」として内に変わることなく留まり、常に輝き、吉祥なる手の仕草によって真の自らを彼の崇拝者たちに表わす方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
To the one who reveals to his devotees, by means of the auspicious hand-pose, the ever present “I” pulsating within as one’s own true nature, at all times free from the changing stages of life (childhood, adulthood and old age) and the states of experience (waking, dream and deep sleep). Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
bāly-ādiṣv-api jāgrad-ādiṣu tathā sarvāsv-avasthāsv-api
vyāvṛttāsv-anu-vartamānam-aham-ity-antaḥ sphurantaṁ sadā |
sv-ātmānaṁ prakaṭīkaroti bhajatāṁ yo mudrayā bhadrayā
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)bālya = 幼時に、 ādiṣu =など、api =そして、jāgrat =目覚めた状態、tathā =のような方法で、sarvāsu = 全ての中で、avasthāsu =状態 (2行目)vyāvṛttāsu =出発、anu =伴った、vartamānaṁ =存在、継続する、ahaṁ =私、iti =そのように、antaḥ =内に、sphurantaṁ =拍動すること、sadā =常に (3行目)sva =自分自身の、ātmānaṁ =自ら、prakaṭīkaroti = 公に現わす、bhajatāṁ =崇拝者へ、yaḥ =~の彼に、mudrayā =しぐさを通じ、bhadrayā =吉兆を通じ
9
マーヤーによって惑わされ、夢と目覚めにおいて、原因と結果、主人と召使、弟子と師、父と息子のような区別を持つ全世界を見る、至高なる自らへ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
To the Self Supreme who because of Māyā has roamed about in the waking and dream states, perceiving the world as being split up into relationships such as cause and effect, possession and proprietor, pupil and teacher, father and son etc. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
viśvaṁ paśyati kāryakāraṇatayā sva-svāmi-saṁbandhataḥ
śiṣy-ācāryatayā taya-iva pitṛ-putr-ādy-ātmanā bhedataḥ |
svapne jāgrati vā ya eṣa puruṣo māyā-paribhrāmitaḥ
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)viśvaṁ =全世界、; paśyati =見る、kāryakāraṇatayā =結果、sva =自分の、svāmi =主人、saṁbandhataḥ = 関連されたとして(2行目)śiṣya =弟子、ācāryatayā =教師、tathha =このように、iva = 、pitṛ =父親、putra =息子、ādi =など、ātmanā =自らを通じ、bhedataḥ =異なるとして(3行目)svapne =夢に、jāgrati =目覚めている状態の間、vā =または、yaḥ =~な人、eṣaḥ = この、puruṣaḥ =男性、paribhrāmitaḥ =混乱させられた人
10.
地、水、火、風、虚空、太陽、月、個別の生命(ジーヴァ)という「動くもの-動かないもの」として彼の八つの姿が現れている。この至高であり、一切に行き渡る意識を超えて、他の何ものも存在していない。識別力をもって探求する人々は(これを)知る。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。
To the one whose eight-fold form appears in all that is moving and unmoving, earth, water, fire, air, ether, sun, moon and the individual soul (jīva). Beyond this supreme and all pervading Consciousness there is nothing else; those who enquire with discrimination know. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.
bhūr-ambhāṁsy-anal-o'nil-o'mbaram-aharnātho himāṁśuḥ pumān
ity-ābhāti car-ācar-ātmakam-idaṁ yasya-iva mūrty-aṣṭakam |
n-ānyat-kiñcana vidyate vimṛśatāṁ yasmāt-parasmād-vibhoḥ
tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye
(1行目)bhūḥ =地、ambhāṁsi =水、analaḥ =火、anilaḥ =風、ambaraṁ =虚空、aharnāthaḥ =捧げる人、himāṁśuḥ =月、pumān =人 (2行目)ābhāti = 輝く、cara =動いている、acara =動かない、ātmakaṁ =内に含まれている、idaṁ = この、yasya =その人の、eva =そのように、mūrtiḥ =化身、aṣṭakaṁ =8つの部分 (3行目)na = でない、anyat = その他の、kiñcana =何らかのもの、vidyate =存在する、vimṛśatāṁ =熟考する人、yasmāt =その人から、parasmāt =至高の存在から、vibhoḥ =遍く存在する神の
11.
「一切は自らである」と明確に説く、この賛歌を聞くことによって、その意味を熟考することによって、それを瞑想することによって、それを朗唱することによって、「一切は自らである」という偉大なる達成と共に、神の性質である八つの力(シッディ)も自然と結実する。
Because the all pervasiveness of the Self has been explained in this hymn, by listening to it, reflecting upon its meaning, meditating upon it and reciting it, one will achieve without obstacle the great splendour of Selfhood with its supreme sovereignty and the eight-fold powers (siddhis) that ensue automatically.
sarv-ātmatvam-iti sphuṭīkṛtam-idaṁ yasmād-amuṣmin stave
tenā-sya śravaṇāttad-artha-mananād-dhyānāc-ca saṅ-kīrtanāt |
sarv-ātmatv-mah-vibhūti-sahitaṁ syād-īśvaratvaṁ svataḥ
siddhyettat-punar-aṣṭadhā pariṇataṁ c-aiśvaryam-avyāhatam
(1行目)sarvaḥ = 全て、ātmatvaṁ = 自らにより顕現した、成り立った、iti = そのように、sphuṭīkṛtaṁ = 明白に話された、yasmāt = ~の人から、amuṣmin = この中に、stave = 賛歌 (2行目)tena = その人を通じ、asya =この人を通じ、śravaṇāt = 聞くことから、artha(sya) = 意味の、mananāt = 心の中で熟考し、 dhyānāt = 瞑想する、ca = そして、saṁ =よい、kīrtanāt = それを朗読することにより (3行目)sarva = 全ての、ātmatvaṁ = アートマンの性質、 mahā = 偉大な、vibhūti = 灰、富、sahitaṁ = それと共に、syāt = あるだろう、 īśvaratvaṁ = 神自身の性質、svataḥ = 自動的に (4行目)siddhyet =崇拝者のために物質化する、punaḥ = 再び、aṣṭadhā = 8つの、pariṇataṁ = 完全に顕現する、ca = そして、aiśvaryaṁ = 神聖な富、力、 avyāhatam= 妨げなく
・色々な英訳のリンク
http://nonduality.com/shankr13.htm、http://www.shaivam.org/english/sen-sk-dakshina.htm
http://www.sacred-texts.com/hin/dast/、http://stotraratna.sathyasaibababrotherhood.org/s15.htm
http://greenmesg.org/mantras_slokas/sri_shiva-dakshinamurthy_stotram.php
◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』
1945年10月11日 (抜粋)
バガヴァーン:
ダクシナームールティ、つまり、偉大なシヴァ自身が、沈黙による以外は唯一なる現実という真理を表現できませんでした。しかし、この沈黙は、とても進んだ者以外には理解することができませんでした。その他の人々には語られなければいけませんでした。ですが、神自身が表現できなかったそれをどうやって言葉で言えますか。それゆえ、シャンカラはダクシナームールティを褒め称えるという方法を勧め、見かけの上の目的としてのそれと共に、実際は「全てはブラフマンである」ということを説こうと努めています。初めの4詩節(*1)で、彼は世界の性質を説きます。我々が現実を知ることを妨げていているものが世界であるため、その(つまり、世界の)性質が理解されるならば、真理を悟る道における障害は取り除かれるでしょう。次の4詩節(*2)では彼はジーヴァの性質を説きます。それから、両者の関連性を説き、「全ては自らである」と教えます。シャンカラのダクシナームールティ・ストートラの構成と要旨を説明しようとして、私は上の短い前書きを書きました。
(*1)上の賛歌の2詩節から5詩節まで
(*2)上の賛歌の6詩節から9詩節まで
◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』
Talk.569 1938年11月7日 (前略)
バガヴァーン:
沈黙は真のウパデーシャです。それは完璧なウパデーシャです。それは最も進んだ探求者にのみ適しています。他の人々はそれから十分な洞察(閃き)を得られません。ですから、彼らは真理を説く言葉を必要とします。しかし、真理は言葉を超越しています。それは説明を許しません。できることすべては、それを指し示すだけです。どのようにそれが行われるべきですか。
人々は幻の下にいます。魔法が取り除かれるなら、彼らは真理を悟ります。彼らに幻の虚偽性を理解するように説かねばなりません。その後、彼らはその罠から逃れようと試みます。その結果、ヴァイラーギャが生じます。彼らは真理を調べる、つまり、自らを探求します。それによって、彼らは自らとして留まります。シュリー・シャンカラは、シヴァのアヴァターラであり、堕落した存在への慈悲に満ちていました。彼は彼らみなに彼らの至福に満ちた自らを実現して欲しいと思いました。彼は沈黙によって彼らみなの心を動かすことができませんでした。それで、彼は人々が読み、真理を悟るように、賛歌の形式でダクシナームールティ・ストートラを作りました。
幻の性質とは何ですか。すべての者が楽しみ、つまり、ボークター、ボーグヤム、ボーガ(*1)の支配下にいます。これはボーグヤ・ヴァースツ(楽しみの対象物)が現実であるという間違った概念のためです。自我、世界、創造者は幻の基礎となっている根本のものです。それらが自らと別でないということが知られるなら、もはや幻はありません。
初めの四詩節は世界を扱っています。世界は、その自らが探求者のそれである師、もしくは、探求者が自分自身を委ねた師と同じであると示されています。次の四詩節は個々人を扱っており、その自らが師の自らであると示されています。第九詩節(上の第十詩節)はイーシュワラを扱っていて、第十詩節(上の第十一詩節)はシッディ、もしくは、実現を扱っています。ストートラの構成はそのようです。
ここでどれがダルパナ(鏡)ですか。我々が知る鏡とは、光を反射する感覚のない物です。個々人の中で鏡に対応するものは何ですか。自ら輝く自らの光はマハータットヴァ(*2)の上で反射します。反射した光は心の虚空、もしくは純粋な心です。これは個々人のヴァーサナーを照らし、それゆえに「私」の感覚と「これ」が生じます。
また、詩節を上辺だけ読むことは、束縛、解放など、すべてが師、つまり、ダクシナームールティに関わってると思わせます。それは馬鹿げています。彼への委ねが意図されています。
(*1)ボークター、ボーグヤム、ボーガ・・・「楽しむ者、楽しまれるもの、楽しみ」
(*2)マハータットヴァ・・・「偉大な原理、普遍的知性である原理」
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