2016年4月14日木曜日

ラマナーシュマラムのアマンガリ(未亡人)たち-喪失こそが聖者に導く

◇「山の道(Mountain Path)」、2010年7月 p21~23

精神的触媒としての未亡人であること

ラマナーシュラマムの未亡人たち

ヴィジャヤ・ラーマスワーミー
ヴィジャヤ・ラーマスワーミー教授は、ニューデリーのジャワハルラール・ネルー大学の歴史学研究機関で古代インドの歴史を教えています。彼女の家族は何世代にもわたり、シュリー・ラマナーシュラマムと密接なつながりがあります。
   未亡人であることによって引き起こされた社会的および感情的苦悩、そして、その精神的触媒としての役割を例示するために、ラマナーシュラマムにやって来て、そこで生き、働き、死ぬことに決めた女性たちの簡潔な紹介をしましょう。これらの未亡人の多くは、アーシュラムの調理場での奉仕に始まり、今日では、日記作者、随筆家、詩人、翻訳者として記憶されています。

 ラマナーシュラマムに寄る辺を求めにやって来た女性たちの人生における繰り返されるパターンは、窮乏、未亡人であること、大きな個人的な苦しみでした。シュリー・ラマナの存在は、癒しの感触を与え、彼女たちの高潔な感性と人生の目的を取り戻させ、精神性の道へ優しく彼女たちを向かわせました。最初、彼女たちは精神的な悟りよりもむしろ精神的な慰めをシュリー・ラマナの御足に求めにやって来ました。この女性たちの精神性を希求する者への変容は、ゆっくりとしかし確実に起こりました。精神的探求のためにラマナーシュラマムにやって来る女性の例は稀ですが、全く知られていないわけではありません。

 エッチャンマル(マンダコラトゥル・ラクシュミーアンマル)は、悲しい女性でした。25歳になる前に、彼女は夫、息子、娘を矢継ぎ早に失いました。人生の盛りにおいて、彼女は未亡人になり、子供を失い、貧窮しました。彼女の人生には、ただ苦しみと暗闇しかありませんでした。ナラシンハ・スワーミーは、彼女の人生を物語り、彼女は窓を開けることさえ耐えられなかったと言います。なぜなら、そうしたなら、娘が幸せな数年間を学び過ごした学校をすぐに眺めることになったからです。エッチャンマルはその悲嘆を和らげるために巡礼に行き始めました。彼女は多くの賢者に出会いましたが、誰も彼女を助けることはできませんでした。1906年に彼女が村に戻った時、彼女はアルナーチャラ山の若い沈黙のヨーギについて聞きました。

 1906年、エッチャンマルはヴィルーパークシャ洞窟のバガヴァーンのもとへやって来ました。午後6時以降、女性が洞窟に留まることは許されていなかったため、彼女は町に滞在しました。翌日、バガヴァーンを目にするとすぐ、彼女は悲しみの塊が落ちるのを感じました。夫と子供の記憶は、もはや悩み苦しみを引き起こしませんでした。後に、彼女はチェッランマルという女の子を養子にしましたが、悲劇的なことに、ラマナと名付けられる男の子を生んだ後、しばらくして彼女は亡くなりました。ナラシンハ・スワーミーに引用される主クリシュナの言葉の中には、「誰であれ私が祝福せんと望む時はいつでも、彼が彼のものと呼ぶ一切を私は彼から奪い去る」*1とあります。

 エッチャンマルが持っていた妻や母親としての一切の関係性は、今や、彼女が築いたマハルシとの精神的な絆にとって代わられました。1907年、彼女はバガヴァーンに食事を差し上げることを始め、それ以後、その人生を彼への奉仕に捧げました。

  シュリー・ナーガンマは、子供の未亡人でした。10歳の時、彼女は孤児となり、12の時に未亡人になりました。まだ十分に成長していない子供であるにも関わらず、彼女は伝統的なヒンドゥー教の未亡人の生活-家族に奉仕し、苦行を修練し、聖典を読むこと-を送るよう強いられました。彼女は自分の存在そのものが不吉であると感じ、それゆえ、人との接触を断ちました。彼女自身の言葉では、「手を枕にして、破れたマットの上で私はいつも床に横たわっていて、壁にしがみつくトカゲに似ていました」*2。彼女は読み書きができず、それゆえ、読書の楽しみは彼女に与えられませんでした。彼女が一切を委ねようと欲したヨーガの姿勢をした賢者のヴィジョンを得たのは、1913年のことでした。彼女がバガヴァーンの内にグルを発見したのは、ほぼ30年後のことでした。

 1918年、ベザワーダで、文学に通じた女性、インドゥマティから彼女はテルグの読み書きを習いました。本質的に彼女自身の心に呼びかけられた問答であるマナーサ・シャタカムと呼ばれる構成の108詩節の中に彼女の心を注ぎ込むために、彼女は新たに獲得した技能を使いました。瞑想と読書の生活を追求するためにヴィジャヤワーダにナーガンマが移った時、伝統的なバラモン共同体の女性たちは、伝統的な全ての未亡人が通常したように彼女が頭を剃っていないため精神生活にふさわしくないと言い、彼女を非難しました。しかし、ナーガンマは決して頭を剃りませんでした。なぜなら、ヴェンカターチャラ・マーハートミャムの作詞者であるタリコンダ・ヴェンカマンバという輝かしい例が彼女の前にあったからです。この女性は子供の未亡人でもあった偉大な聖者であり、彼女の親族が無理やり彼女の頭を剃ろうとした時、血がどっと流れ出し、彼らはやめざるを得ませんでした。この物語の別のバージョンに記されているには、新しく剃髪したヴェンカマンバが必要とされる川の中でのひと浴の後に出てきた時、彼女の髪はすでに腰まで伸びていました!

 ナーガンマが強烈な憂うつを乗り越えるのを助けるために、アーシュラムの調理場で奉仕していた彼女の親族であるデーブラパッリ・スッバンマ(スッバラクシュミーアンマ)と共に、ティルヴァンナーマライに短期間滞在することを彼女の兄は提案しました。このようにして、1941年6月、カーラハスティとティルパティで祈りをささげた後、彼女はラマナーシュラマムに到着する次第となりました。バガヴァーンの光輝く両目からの集中したまなざしによって、彼とのまさにその最初の出会いで彼女の心の中の無知は全て洗い流されたと彼女は記しました。彼女はこれを手ほどきとみなし、彼の足下での彼女の「委ね」を意味するサラナガティと呼ばれる8詩節を自然と作りました。
 
 ラマナーシュラマムにシュリー・ナーガンマを先導した、彼女の親戚、スッバラクシュミーアンマは、未亡人であることと貧窮という同様の背景を持っていました。16歳の時に未亡人になり、彼女が言うには、未亡人が生きるべく生きるために彼女はネルールの彼女の母の家に送り返されました。様々な聖地に行った後、スッバラクシュミーアンマはヴァーラナシーに定住しようと計画していました。しかしながら、彼女の運命は彼女をラマナーシュラマムに連れ行き、調理場の助手になりました。ラマナもまた、アルナーチャラ・アシュタカムの多数の手書きの写しを作るといった仕事を彼女に任せました。

 サンプルナンマの人生は、スッバラクシュミーアンマのそれをぴったり再現しています。子供のいない未亡人、彼女の人生は寂しさと絶望の終わりなき無駄話となりました。彼女の人生の転換点は、マドゥライで彼女が礼拝していた時にやって来ました。年配のバラモンが彼女に近づいてきて、「私のために食事を作ってくれませんか」と頼みました。彼女は礼拝の後に彼を彼女の家に連れていくことを申し出ましたが、寺院から戻ると、彼が姿を消していることに気づきました。1932年、彼女がシュリー・ラマナを見た時、彼女は彼を彼女が見た光景と同一視しました。彼女は調理場を担当し、シュリー・ラマナ自身が手伝いました。彼女は次のように言います。

 「調理場は当時小さく、私が動く必要があった時はいつでも、私は彼の周りの回り、彼が私の右手側にいるように十分注意したものでした。そうして、私は日中に無数のパラダクシナムを行ったものでした。彼は私の神ではありませんでしたか。私の調理場の真っただ中に彼を迎えることができて、私は幸運ではありませんでしたか。」*3

 ローカンマ、シャンカランマ、ブリハダンバルの物語はとても似通っています。ラマーナータプラムのブリハダンバルはそれを見事に要約し、「スマンガリ(「吉祥な」結婚した女性)でなく、アマンガリ(未亡人)だけがここに来ます」*4と言いました。シュリー・ラマナの足下に寄る辺を見出す前、ラマナーシュラマムの女性の人生を際立たせたものは、火の試練に等しき強烈な苦しみであり、彼女たちはラマナーシュラマムで計り知れない精神的喜びと平穏を見出しました。

 スッバラクシュミーアンマの感動的な言葉で締めくくることにします。

 「すりつぶすことの恍惚、調理の歓喜、信奉者にイドゥリーを給仕する喜び、心がハートの中にあり、ハートがの中にあり、が仕事の中にいる時の状態を体験していない人は誰であっても、人間のハートがどれほどの至福を含んでいるのか知ることはできません」。*5

*1 B.V.Narasimha Swami, Self-Realization. Reprint first edition, 1931. p.102. Yasyanugraham ichchami tasya sarvam haramyaham
*2 Nagamma, Suri, My Life at Sri Ramanasramam, 1974. p. 1.
*3 Ramana Smrti, Part Two. ‘Bhagavan in the Kitchen’ by Sampurnamma.1980. Trans. G.Venkatachalam.
*4 Interview dated 24.3.1994.
*5 Ramana Smrti, op.cit., ‘My Light, My Light’ by Subbalakshmiamma

2016年4月7日木曜日

時々聞きたくなる御経 - 修験道 読経 

修験道 読経




大日如来真言
アービラウンケン・バーサラ・ダートーバーン

釈迦如来真言
ナマク・サマンダ・ボダナン・バー

阿弥陀如来真言
オン・アミリタ・テイセイ・カラウン

薬師如来真言
オン・コロコロ・センダリ・マトウギ・ソワカー

地蔵菩薩真言
オン・カーカーカ・ビサマエイ・ソワカー

文殊菩薩真言
オン・アラハシャーナー

普賢菩薩真言
オン・サンマヤ・サタバーン

観世音菩薩真言
オン・アロリキャー・ソワカー

弥勒菩薩真言
オン・マイタレイヤ・ソワカー

勢至菩薩真言
オン・サンザンザンサク・ソワカー

龍樹菩薩真言
オン・キャダウン・バッター

法起菩薩真言
オン・ダルマー・ウチター・ソワカー

愛染明王真言
オン・ウン・ダキ・ウン・ザー・ウン・シッチー・ソワカー

孔雀明王真言
オン・マユラギ・ランテー・ソワカー

金剛童子真言
オン・キャニドニ・ウン・バッター

降三世明王真言
オン・ニソンバ・バサラ・ウン・バッター

蔵王権現真言
オン・バギリユー・ソワカー

三宝荒神真言
オン・ケンバヤ・ケンバヤ・ソワカー

毘沙門天真言
オン・ベーシュラマダヤー・ソワカー

弁財天真言
オン・ソラソバテイエイ・ソワカー

大黒天真言
オン・マカキャラヤー・ソワカー

歓喜天真言
オン・キリク・ギャク・ウン・ソワカー

不動明王・慈救真言
ナーマク・サーマンダー・バーサラナ
センダー・マーカロシャーナー・ソワタヤ・ウン・タラター・カン・マ(ー)ン

不動明王・火界真言
ナーマク・サールヴァ・ターター・ギャーテー・ビャーケ
サールヴァ・モッケー・ビャーケ・サールヴァ・ターター・ターター
センダー・マーカロシャーナー・ケーン・ギャーキ・ギャーキ
サールヴァ・ビギナー・ウン・タラター・カン・マーン

<五大尊明王の勧請>
東方に降三世夜叉明王
南方、軍荼利夜叉明王
西方、大威徳夜叉明王
北方、金剛夜叉明王
中央に大日大聖不動明王

今上天皇・玉体安穏

天下泰平・五穀成就

講中安全・業運繁栄

家内安全・息災延命

七難即滅・七福即生

法力成就・法満ボーロン

所願成就・皆令満足

天魔偈
天魔外道皆仏性
四魔三障成道来
魔界仏界同如理
一相平等無差別

<不動明王の誓願>
見我身者 発菩提心
聞我名者 断悪修善
聴我説者 得大智恵
知我心者 即身加持

三部総真言
オン・アサバー・ソワカー

諸天総真言
オン・ロキャロキャ・キャラヤー・ソワカー

一字金輪真言
ナマク・サマンダ・ボダナン・ボローン

南無神変大菩薩

2016年4月4日月曜日

『シュリー・ラマナ・ギーター』 第七章 自らの探求-適性と構成要素

◇『シュリー・ラマナ・ギーター(Sri Ramana Gita)』、Sri Vasistha Ganapati Muni著

第七章 自らの探求-適性と構成要素

1.
バーラドヴァージャ族のカルシュニとアーチャールヤ・ラマナとの間の
素晴らしき対話が、この第七章で語られる

This seventh chapter records the excellent conversation 
between Karshni of Bharadvaji line and Acharya Ramana.

In this seventh chapter, is told the excellent interchange 
between Karshni of the Bharadvaja clan and the Master Ramana.

2.カルシュニ曰く
自らの探求の特徴とは何ですか。何がその目的ですか
自らの探求によって得られうるよりも優れた成果を出しうるものが他にありますか

What is the nature of Self-enquiry? What is its purpose? 
Is there any greater good obtainable by the other means?

What is the form of Self enquiry? What is the use? 
Is there any other that can give greater result than can be obtained by Self-enquiry?

3.バガヴァーン曰く
全ての思いの集合体であると言われる
「私」なる思いの誕生の地が探求されねばならない

The 'I'-thought is said to be the sum-total of all thoughts. 
The source of the 'I'-thought has to be enquired into.

Deliberate on the birth place of the I-activity 
which is said to be the aggregate of all activities.

4.
これが自らの探求であり、聖典の学習ではない
その起源の地が探される時、自我は溶け込む

This is Self-enquiry, and not the study of scriptures. 
When the source is searched for, the ego gets merged in it.

This will be the Self enquiry, not an investigation into the Shastras. 
When the original place is searched, the I-concept gets merged.

5.
自らの反射でしかない自我が完全に消え去る時
真の自らが、あらゆる面で完全に、絶対的に、残る

When the ego, which is mere reflection of the Self, totally disappears, 
what remains is the true Self alone in all its plenitude and perfection.

The I-concept appears as the Self. When it gets lost, 
the true Self, complete all around remains as the absolute.

6.
自らの探求の成果とは、あらゆる苦しみの終焉である
これがあらゆる成果の中で最上のものである。これより優れた成果は存在しない

The result of Self-enquiry is freedom from all suffering. 
This is the highest of all fruits. There is nothing higher than this.

The result of Self enquiry will be the turning away from all miseries. 
This will be the climax of all results. There is no other result greater than this.

7.
驚くべきシッディ*が他の手段によって得られるやもしれないが
最終的に、あなたは探求によってのみ幸福(解放)を得る

Marvellous occult powers may be had through other means. 
But in the end Freedom can come only through Self-enquiry.

Though a person gets wonderful siddhis accomplished by other means, 
finally he is happy only by enquiry.
*達成、ここでは、「超常的な力」

8.カルシュニ曰く
この自らの探求に適した者であると誰が言われていますか
適性を獲得したことを自ら知ることはできますか

Who is considered fit for this enquiry? 
Can one by oneself know one's own fitness?

Who is said to be a fit person for the practice of this Self enquiry? 
Can a person know by himself that he has acquired fitness?

9.バガヴァーン曰く 
神の崇拝や他の手段によって、もしくは、過去生での善行によって浄められ
その心が体と感覚対象物に欠陥を感じる者

He whose mind has been purified through upasana and other means 
or by merit acquired in past lives, 
who perceives the imperfections of the body and sense-objects,

One who has been purified by waiting upon God and by other things 
or by good deeds in earlier births, 
one whose mind perceives the deficiencies in the body and sensory objects.

10.
その心が感覚対象物の中をさ迷うことに強い嫌悪を感じ
体が無常であると理解する者、彼は適した者であると言われる

and feels utter distaste whenever his mind has to function among sense-objects 
and who realises that the body is impermanent, he is said to be a fit person for Self-enquiry.

They call him a fit person whose mind wandering in sensory objects 
becomes completely disgusted and who thinks about the impermanence of the body.

11.
体の儚さへの理解、感覚対象物への離欲
これら二つの徴によって自分自身の適性を知りうる

By these two signs, that is by a sense of the transitoriness of the body
 and by non-attachment to sense-objects, one's own fitness for Self-enquiry can be known.

One's fitness can be inferred from these two signs, the thought of evanescence
in the body and a sense of dispassion in sensory objects.

12と13.カルシュニ曰く 
スナーナ、サンディヤー、ジャパ、ホーマ、スワーディヤーヤ、デーヴァ・プージャー*
サンキールタナ、ティールタ・ヤートラ、ヤジュニャ、ダーナ、ヴラタ*

これらは、離欲と識別によって探求に適した者にとって
役立ちますか、それとも、単に時間の無駄でしかないのでしょうか

When one is fit for Self-enquiry, by his non-attachment for sense-objects 
and by discrimination, are ceremonial baths, sandhya, repetition of mantras, 
oblations poured into the fire, chanting of Vedas, worship of Gods, bhajan, pilgrimage, 
sacrifice, giving in charity, and observance of special spiritual practices, 
of any use or are they a mere waste of time?

Sacred bath, japa in the Sandhyas, oblations in the sacred fire, Vedic recital, worship of
 the gods, singing the holy names, pilgrimage to sacred spots, sacrifice, charity, vows 
- all these, are they useful to a person empowered for enquiring 
by dispassion and discrimination? Or, are they intended simply to while away the time?
順に*沐浴*日に三度の勤行*神の名などの復唱*火の供儀*聖典読誦*神々の崇拝
順に*集団で音楽にのせて行うジャパ*聖地巡礼*祭式、崇拝*与えること、布施*誓戒

14.バガヴァーン曰く 
進取の気性に富む、欲望弱まりゆく適格者にとって
これら全ての行為は大いに心の浄化のためとなる

For competent beginners with waning attachments
 all these aids will make the mind increasingly pure.

For beginners and for all those eligible, with declining desires, 
all these actions contribute to a great deal of mental purification.

15.
心、口、体から生じる善い行為は
心、口、体から生じる逆の行為を破壊する

Virtuous activity of mind, speech and body 
destroys the contrary activity of mind, speech and body.

An action which is said to be a good deed arising out of mind, speech and body 
vanquishes another action arising out of mind, speach and body.

16.
完全に清浄な心の成熟した適格者にとって
この行為の網は世界の利益のためにある

All this (virtuous) activity of competent persons, mature 
and endowed with minds of highest purity, benefits the world.

For those fit mature persons, of utmost purity in mind, 
this network of actions is for the benefit of the world.

17.
他者の教化のため、福利のため、賢者は
成熟している時でさえ行為を行う。聖典の命(めい)への恐れからではない

Men of mature wisdom perform action for helping (by example) and for the welfare of others,
 not out of fear of (violating) scriptural injunctions.

For teaching others and for their welfare, the learned ones, 
even when mature, perform actions, not out of fear of the injunctions of the Shastras.

18.
徳行は探求に反しない、おお、人中(にんちゅう)の雄牛よ
愛着なく行われることにより、相違の認識を破壊するため

Virtuous actions, performed without a sense of difference and without attachment 
do not stand, O best of men, in the way of Self-enquiry.

O best amongst men, all that done without attachment,
 destroying the notion of division are sacred. They do not run counter to enquiry.

19.
自らを探求する成熟した人にとって、行為を行わないことも罪にならない
自らの探求が、最大の徳行、神聖の中の神聖であるがゆえに

The non-performance of prescribed actions by a mature person pursuing Self-enquiry is no sin. For, Self-enquiry is itself the most meritorious and most purifying (of actions).

For a mature person deliberating on his Self, non-performance of action does not lead to sin. Deliberation on one's Self is the most meritorious act, the sacred of sacreds.

20.
成熟した適格者のあり方は二通りあると見られている
ヨーガへの専念のための放棄、そして、他者のための配慮ある行為

Two ways of life are seen in the mature among competent seekers; 
renunciation of action for solitary communion and action for the good of others.

The poise of the mature fit persons is seen to be of two kinds: 
a rejection for one-pointed yoga and a regard for work for the sake of others.

21.カルシュニ曰く
ニルヴァーナへの自らの探求以外の道があるならば
一つですか、それとも、複数ですか。どうか私にバガヴァーンがお教え下さいますように

If besides Self-enquiry there be another way to nirvana, is it one or varied? 
May Bhagavan be pleased to tell me.

If there is a way other than Self enquiry for salvation, is it one or many? 
Bhagavan may kindly explain.

22.
一方は得るために努力し、他方は得る者へ向かう
長い間、前者は歩み、終には自らを得る

One strives to attain something; the other seeks the one who strives to attain. 
The former takes longer time and in the end attains the Self.

One strives to attain; the other reaches the attained. 
The first one traverses for long and finally attains the Self.

23.
瞑想する者の心は、ただ一つの形になる
心がただ一つの形であることは、本質に住まうことに通じる

The mind of one meditating on a single object becomes one-pointed. 
And one-pointedness of mind leads to abidance in the Self.

For the one, the mind becomes of one form through meditation. 
And the one form of the mind contributes to its stationing in one's true form.

24.
たとえ望まなくとも、瞑想する者は、自らへの安住を得る
しかし、探求者は、理解の上、自らに安住する

One who meditates attains, even without dersiring it, abidance in the Self. 
The seeker, on the other hand, knowingly abides in the Self.

Meditating even without desire, one gets stationed in the Self. 
On the other hand, the enquirer, with knowledge is established in the Self.

25.
神、マントラ、もしくは、他の優れた目標に瞑想する者にとって
瞑想の対象は、自らの偉大なる輝きの中に溶け込みうる

The deity, mantra, or any other excellent object on which one meditates 
merges in the end in the great effulgence of the Self.

For the one who meditates on a deity, Mantra or any other worthy goal, 
the object of meditation will finally get lost in the great effulgence of the Self.

26.
瞑想する者と自らを探求する者にとって共に、目的はそのように同一である
瞑想によって一方は安らかになり、知によって他方は静められる

The goal is thus same both for the one who meditates and the one who practises Self-enquiry. One attains stillness through meditation, the other through knowledge.

Thus the one who meditates and the one who deliberates on the Self,
both have the same goal. By meditating one has the peace and the other knowing appeased.

これがラマナの弟子、ヴァーシシュタ・ガナパティによって作られたブラフマンの知とヨーガの聖典
シュリー・ラマナ・ギーターの「自らの探求-適性と構成要素」と題される第七章である

This is the seventh chapter entitled 'Self-enquiry; competence and constitutes'
in Sri Ramana Gita, the Science of Brahman, and the Scripture of Yoga
composed by Ramana's disciple Vasishta Ganapati.