カルマ、輪廻転生、世界の苦しみ
アラン・ジェイコブス
(イギリス・ラマナ協会会長)
今日、人々の心は、テロリズム、地域武力紛争、飢餓、病気、自然災害、不景気による地球上で目下のところ経験される苦しみについての多大な苦悩や不安で占められています。多くの現代の福音主義的無神論者や不可知論者は、神の存在についての彼らの懐疑論を「恵み深く、情け深い愛の神はとても存在しえない、そうでなければ、彼はこんなにも多くの世界の苦しみを許さないだろう」という言葉に基礎づけています。
聖者らによれば、世界の宗教の最上の教えは、我々がみな「一つ」であるという考え、多くの名前が与えられている同一の神聖な源から我々が来たという考えに包含されています。
シュリー・ラマナは、「神は愛の実際の姿である」(*1)と言いました。それでは、なぜ世界には、そんなにも多くの苦しみが存在するのでしょうか。我々自身の教え、至高なる聖者、シュリー・バガヴァーン・ラマナ・マハルシの教えの立場から、我々ははじめに、「この存在の次元は、人間の進化のための計画が組み込まれたカルマの領域として見られるほうが良い」ということを理解しなければなりません。
『バガヴァッド・ギーター』やシュリー・ラマナ・マハルシが指摘するように、人間は、自分自身の精神的発達のために、イーシュワラ、全能の神によってあらかじめ定められたカルマ、もしくは、運命をもって、この惑星に生まれます。このことはラマナとポール・ブラントンとの対話の中で彼に述べられ、『Conscious Immortality』と『Be As You Are』に記録されています。
バガヴァーンは言います。「個人々々が彼らのカルマを経験しなければなりませんが、イーシュワラは彼の目的のために彼らのカルマを最大限うまく活用します。神はカルマの結果を操作しますが、それに加えたり、取り除いたりしません。人の無意識は、善悪のカルマの貯蔵庫です。心地よいものであれ、苦しいものであれ、イーシュワラは各人のその時の精神的進化に最適であると彼が分かるものをこの貯蔵庫から選びます。そのため、勝手気ままなものは何も存在しません」。(*2)
『バガヴァッド・ギーター』は我々に「誰も実際には死なない」と教えます。主クリシュナはアルジュナに、「嘆くなかれ!」と言いました。合間の休息の後、魂またはジーヴァは新たな命に生まれ変わり、それは過去世において蓄積された潜在的傾向から、彼または彼女の精神的成長のために、再び選ばれます。この循環は、徳のある行為の結果として、恩寵を通じ、自らの実現に然るべく彼らを導く、この教えに最終的に彼らが連れ行かれるまで続きます。その時、カルマ的全計画は崩れ落ち、神の本質、もしくは、現実‐意識‐愛としての実在が実現されます。
シュリー・ラマナの見解は以下に十分によく表わされています。
信奉者:
神は完全です。彼はどうして世界を不完全に創造したのですか。御業は創造者の性質を共有しています。しかし、この点で、そうではありません。
マハルシ:
その質問を提起したのは、いったい誰ですか。
信奉者:
私-個人です。
マハルシ:
あなたがこの質問を尋ねる神から、あなたは離れていますか。あなたがあなた自身を体であるとみなす限り、あなたは世界を外側(にある)とみなします。不完全さがあなたにとって現れます。彼の御業もまた完全です。しかし、あなたの誤った同一視のために、あなたはそれを不完全であるとみなします。
信奉者:
どうして自らが悲惨な世界として顕現したのでしょうか。
マハルシ:
あなたがそれを探し求めるために。あなたの目は、目そのものを見ることはできません。その前に鏡を置けば、目は目を見ます。創造についても同様です。「まずは、あなた自身を見なさい。その後、全世界を自らとして見なさい」。
信奉者:
では、つまりはこういうことです-私はいつも内を見なければなりません。
マハルシ:
ええ。
信奉者:
私は世界をまったく見るべきではないのでしょうか。
マハルシ:
あなたは世界から目を閉ざすように教えられているわけではありません。あなたはただ、「まずは、あなた自身を見て、その後、全世界を自らとして見る」べきです。あなたがあなた自身を体とみなすなら、世界は外側にあるように見えます。あなたが自らであるなら、世界はブラフマンとして現れます。(*3)
バガヴァーンは簡潔に、より高い視点からは、世界、神、個人という三つ組に関する質問は心の作りごととしてみなされるべきであると述べました。より低い視点からは、世界について思い悩まずに、我々は「それを創造した彼にその面倒を見」させておくべきです。
このことが受け入れられるなら、人々が忍受する苦しみは、それが魂の精神的発達のためにあらかじめ定められたカルマであるという意味において、恵み深いものです。バガヴァーンはスワーミー・ヨーガーナンダに、「なぜ神はこの世の苦しみを許すのですか。彼はその全能の力でもって一遍にそれを取り除き、神の普遍的な実現を定めるべきではありませんか」と尋ねられました。バガヴァーンは、「苦しみは神の実現のための道です」(*4)と答えました。魂の高潔さやとても多くの美徳は、ただ苦しみのみから生まれます。浄化と清めの時である、このサンサーラは、退廃的で堕落した文化の享楽主義の中にぐずぐず居残るのではなく、その子供たちを真の価値観へ立ち帰らせるために苦しみを活用します。
ハーフィズが記すように、「とても柔らかく、棘のないバラを摘んだ、最も偉大な者は決して生まれなかった。我々は対立する二極の法則にもとづく世界に住んでおり、我々はそれを乗り越えねばならない」。
地球上には苦しみがいつも存在しています。二つの世界大戦において忍受された苦しみと比較すれば、現代の苦しみはほとんどごく僅かなものです。同時に、我々は決してどんな苦しみにも無情で、無関心でいるべきではなく、いつも慈悲を持って行動しなければなりません。バガヴァーンが説くように、苦しみが我々の行く手にやって来るなら、我々はそれを和らげるために最大限のことをしなければなりません。ジニャーニは全く慈悲深くあり、それは人間にとってだけでなく、動物や植物についても同様です。我々が人類にもたらすことのできる最大の助けは、我々自身の自らの実現であり、それは信仰者と無信仰者いずれもの間のこの世の苦しみを和らげます。
よく尋ねられる質問は、「苦しみが起こった時、それにどう対処すればいいのか」です。まずはじめに、人は何であれそれを「受け入れ」なければならず、結局は、それが一番良い結果になります。人間の心はより優れた知恵を理解できません。この委ねの形と共に、人は苦しみから学ぶことになっていた教訓を徐々に理解します。毎日の生活は緊張、不安、喪失、失望でいっぱいです。私が述べた受容の後、委ねの行為として、我々は我々の人生の全ての重荷を神、もしくは、我々のハートの中のサット‐グルに手渡さなければなりません。その後、彼が我々の重荷を運び、我々の心配はすべて彼のものです。
最終的に、銀河系から原子に至るまでに起こる、あらゆることは神の御心の許しなくして動かないということを我々は受け入れなければなりません。個人的な心地よい満足に基づき、取るに足りない自己中心的な人間的な認識でもって、遠目に推し量ることさえも我々の知性を超えている全世界の主の行為を問う資格が我々にありますか。
シュリー・バガヴァーンが苦しみの問題について尋ねられた時、彼はそれを取り除く方法を提案しました。他のたいていの人は枝を刈り取ります。シュリー・バガヴァーンは問題の根に取り組みました。どれほど苦しみが重大なものであっても、深い眠りの中ではそれを意識しないと彼は言いました。ひどく歯が痛む時、その痛み以外何も考えられません。しかし、痛みは深い眠りの中で感じられません。深い眠りの中で、我々は体を意識せず、それゆえに、痛みも存在しません。心が自らに溶け込む時、体の意識は存在せず、それゆえに、痛みは存在しません。シュリー・バガヴァーンは身体的苦痛は体の意識の後にだけ起こると言いました。それは体の意識と楽しみがない時にありえません。痛みは自我に依存しています。それは「私」なくしてありえませんが、「私」はそれなくして存続できます。
普段でさえ、痛みが心の持ちように関連していることに我々は気づきます。何かの激しい痛みがあり、好感を持つ人が入って来るなら、痛みはある程度和らぎます。好きではない人が入って来るなら、痛みはひどくなります。言いかえれば、特定の瞬間の心の状態に応じて、痛みは増減します。シュリー・バガヴァーンは、痛みをまったく感じないように、心を完全に取り除くよう求めます。彼は言います。「ですから、内に向き、自らを探求しなさい。そうすれば、世界とその苦しみは共に終わります... 体の意識が去る時、苦しみも去ります。祈りは、それが至高の存在への観想の中に我々自身を失わさせるという点において、良いのです。心が観想の中に失われる時、少なからぬ痛みの軽減が起こります。しかし、祈りは苦しみを完全に取り除きません。心が祈りに従事していない時、個人は苦しみを感じます。プージャー、ジャパ、祈りは、それらが心から一時的に苦しみを取り除いてくれる点において、全て良いのです」。(*5)
それらは一時的な手段として全て良いのですが、苦しみを取り除くことは体の意識の排除を通じてのみ可能です。シュリー・バガヴァーンは、「もしそのように苦しみのないままにあるなら、どこにも苦しみは存在しません。今の問題は、あなたが世界をあなた自身の外側に見て、その中に苦しみがあると考えるためです。世界と苦しみは共にあなたの内にあります。あなたが内に向かうなら、苦しみは存在しません」(*6)と言います。
そのように苦しみを排除する人たちは利己的であり、他者を気に掛けないという非難に対して、シュリー・バガヴァーンは、「世界はあなたの外側にありません。あなたが誤ってあなた自身を体と同一視しているため、あなたは世界をあなたの外側に見て、その苦しみがあなたにとって明らかになります。しかし、世界とその苦しみは現実ではありません。現実を探求し、この非現実の感覚を取り除きなさい。自分自身の理解が、苦しみの終焉です。その境地において、自らのみがあらゆる人、あらゆるものの中に見られるため、利己性についての質問は起こりません」(*7)と言います。
しかし、シュリー・バガヴァーンは我々が他者の苦しみに無関心でいるべきだとは言いません。我々が体の意識を持つ限り、我々は我々の苦しみと他者の苦しみを意識し、それを取り除くことに関心があるでしょう。慈悲とは、実際、私の心の中のあなたの痛みです。我々が他者の苦しみを取り除く時、我々はより自分中心でなくなります。しかし、この方法では、我々は世界の一切の苦しみを取り除けません。苦しみは自我に依存しているため、シュリー・バガヴァーンは自我を取り除くことを勧めます。そして、苦しみもまた消えます。
これは単なる理屈ではありません。シュリー・バガヴァーンは彼が述べたことの良い例となりました。彼が癌を患った時、彼はそれが他人のものであるかのように振る舞いました。彼は相変わらず落ち着いていて、まさにその最後の時まですべての人にダルシャンを与えました。彼の表情にはかすかな痛みの痕跡もありませんでした。彼の体への無執着は完全でした。
原注:
(*1)Muruganar、『Guru Vachaka Kovai』、652、p277。T.V. Venkatasubramanian,、D. Godman、R. Butler訳。
(*2)Brunton Paul、『Conscious Immortality』(1996)、p130。David Godmanは、「この引用の一部は、不注意にも出版されたバージョンから取り除かれています。ここに記載される引用は直接この本の原稿から取られたものです」と記しています。『Be As You Are』(Penguin Books India, 1992)、21章、注釈3、p237参照のこと。
(*3)Venkataramiah, M.(編集)、『Talks with Sri Ramana Maharshi』(1996)、§. 272、1936年10月23日、p226~228
(*4)同書、§.107、1935年11月29日、p103
(*5)Subrahmanian, K、『Uniqueness of Sri Bhagavan』(2007)、p58
(*6)同書、p58
(*7)同書、p58