2012年7月29日日曜日

シスタ・スッバ・ラオ教授 (目を患ったヒンドゥー大学の英語の先生)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対面(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

133.
シスタ・スッバ・ラオ教授(1909-1980)は、アーンドラ・プラデーシュ州、マチリパトラムのヒンドゥー大学で英語を教えていました。彼は回想記をテルグ語で、後に英語で著しました。
  1936年の初めごろ、靈的な道における私の最初の案内人であるラーマラオ・パントゥルから、私はバガヴァーンについて初めて知るようになりました。彼はアーシュラムでのある出来事を話し、それはよって私はバガヴァーンの神秘的な力を確信しました。1匹のコブラが部屋に這い入って来ました。何人か集まって、追い出そうとしていた時、バガヴァーンがその場面に出くわしました。彼はその蛇に呼びかけ、「どうぞ立ち去ってください。あなたがいることで、この人たちが怖がっていますよ」と言いました。その蛇はすぐに出て行きました。パントゥルは、私がバガヴァーンの祝福を求めるなら、私の衰えつつある視力の問題が治るかもしれないと示唆しました。

 1936年6月3日、私はバガヴァーンの前で平伏し、私の状況を説明しました。バガヴァーンは、私が内なる視力を得るなら、外の視力は良くなるでしょうと述べました。私は理解できず、さらに明確な説明をお願いしました。彼の答えは、「外の視力を持たないということは、内なる視力を持つということです」でした。それから、私は内なる視力を発展させるということに関して私を教え導いてくださいと彼に請い、彼はそうしました。これは私の人生の転換点でした。その瞬間まで、衰えゆく視力は私の頭にこびりついて離れない問題でした。しかし、マハルシのウパデーシャ(教え)は私の見かたに変化をもたらしました。そのときから、視力の回復に関する問題は背景に後退し、私は内なる眼を開くために真剣にサーダナをし始めました。

 ある午後、私は瞑想中に奇妙な体験をしました。私の息が長く、音が響くようになり、蛇のシューという音に似るぐらいになりました。私の体は軽くなり、太ももの上におかれていた両手は空中をぶらぶら揺れはじめました。私は体全体が振動しているのを感じ、一種の表現できない至福を経験しました。しかしながら、私は外の意識を失っていませんでした。私の奇妙な経験はすぐに講堂で座っている人たちの注目を集めました。私の妻は水を持ってくるように頼まれ、私の顔に水が振りかけられました。しばらくして、私の体と呼吸は通常に戻りました。私は講堂から出て、家に帰りました。私が出発してから、信奉者たちはバガヴァーンに私に何があったのか尋ねたようでした。私が内側でサーダナの激しさをこらえることができなかったので、外側に表れたのだと彼は答えたようでした。これは、次の日の朝、私がアーシュラムに来たときに伝えられました。

 私たちは非常に質素な生活をしていたにもかかわらず、家計は苦しくなってきました。私の身体的な目には、改善の兆しが全くありませんでした。見通しはとても暗く見えました。完全に視力を失う可能性が十分にありました。いったいどうして生計を立てればいいのでしょうか。さらに、私は妻という扶養家族がいました。自殺の思いがよく私に押し寄せてきました。丘の周りや上には池がたくさんありました。私たちは闇にまぎれて、どの池にでも簡単に身を投げることができました。

 私はバガヴァーンに事実を申し上げ、解決策を請おうと思いましたが、勇気がでませんでした。第一に、バガヴァーンはいつも講堂で多くの信奉者に囲まれて座っていたためでした。私が彼に会える場所にはプライバシーがありませんでした。第二に、バガヴァーンを世俗的な個人的問題で煩わせることをためらっていたためでした。しかし、選択肢はありませんでした。ある日の午後、私の経済的、身体的、精神的状況の話を紙に書き、彼の恩寵を請い願いました。私は彼にその紙を手渡し、彼のそばに立ちました。彼はそれを読み、私に返しましたが、何も言いませんでした。私は座に戻りました。

 すぐに私の人生の見かたに変化がありました。私は心の中で思いました。「苦しみは今世や過去世の罪深い行為の結果であり、全ての人が誤った行為の罰を受けねばならない。なぜなら、全ての行為にはその独自の反作用があるのだから。今世を終わらせることで、我々は元金に利息を加えている。過去の罪が元金であり、自殺はその利息になるだろう。全てのカルマの負債は一文残らず清算されねばならない。人生の困難な現実から逃げようとすることは臆病だ」。このように人生への態度が変化したことにより、以前、心に押し寄せていた自殺についての一切の思いは消えました。私は人が変わり、なんとしてでも、どのような境遇であっても人生という戦を戦い抜く覚悟ができました。

 この出来事によって、私はマハートマーの方法をおぼろげに理解しました。彼らは身体的な奇跡や物質的な奇跡をいつも起こすわけではありませんが、信奉者の心の状態に奇跡的な変化をもたらします。

 1940年か1941年のバガヴァーンのジャヤンティ(誕生祭)の数日前、私はバガヴァーンについてのサンスクリット語の詩節を作るための一種の閃きを得ました。私は作詩して、アーシュラムのサルヴァーディカーリー(管理人)にそれを送りました。返事のなかで彼は、詩節はジャヤンティの日に読み上げられ、信奉者たちに非常に高く評価されたと述べました。その詩節は、「アルナーチャラのふもとに住むシュリー・ラマナ、智慧の太陽であり、至福の具現者は、アートマ・ヴィドヤーを苦もなく教えた。私はこの比類なき、量ることのできないグルを絶えず思っている」です。

 しばらく後で、私は王座のような気品ある場所に座したバガヴァーンを夢で見ました。彼の体は溶けた状態の黄金のように輝いていました。彼の前に立って、私は視力を求め懇願しました。彼は、「それは私にはできません。誰か他の人のもとへ行かなければならないかもしれません」と答えました。夢は終わりました。

 信奉者である私の兄弟は、弁護士でした。彼の依頼人はとてもわずかしかいませんでした。彼はもっとうまくいくように業務を別の場所へ移したいと思いました。彼はそれについてバガヴァーンの意見を求めました。バガヴァーンは、「そうですか。それについて占星術師に相談してはどうですか」とやさしく答えました。我々は笑いをこらえられませんでした。

 ある信奉者が、「私は心の平安を得ることができません。それを探しにヒマラヤ行こうと計画しています」と不満を言いました。バガヴァーンは、「あなたはマドゥライから250マイル旅して、ここにやって来ました。どのぐらい心の静けさを得ましたか。そこに行くことであなたが得るであろう幸福を測るために、それ(ここで得た心の静けさ)にここからヒマラヤまでの距離を掛けなさい」と答えました。質問者さえも笑いをこらえられませんでした。

 「私はこれらの家族の問題に飽き飽きしました。私の唯一の頼みの綱はサンニャーサ(遊行期)です」と述べた訪問者への答えとして、バガヴァーンは、「あなたは今、家庭内の悩み事を嘆いています。次に、あなたはサンニャーシ(出家)の問題の分け前をもらうことになります。単に衣を変えても何の助けにもなりません。苦しみがある者は誰か見出しなさい」と述べました。

 心の源に留まろうとする私のあらゆる努力が無駄だと分かったという理由で、ある時、私はバガヴァーンの恵みを求めました。バガヴァーンが、「何が障害ですか」と尋ねた時、私は、「私の深く根付いた傾向です。あなたの恩寵が必要です」と答えました。彼の答えは、「あなたが繰り返し努力することで、必ずそれは消えます。全てのサーダナは、その目的のためだけにあります」でした。彼はさらに述べました。「修練を続けなさい。神に我々の幸福にいつも目を注ぐという彼の仕事を思い出させる必要はありません。犯しやすい間違いは、神の恩寵がないという誤った印象のもとに努力を放棄することです。しかし、怠るべきではありません。なぜなら、神の恩寵は、機が熟す時に必ず働くからです。」

2012年7月26日木曜日

意図的な努力から無努力へ、人の努力(プルシャーカーラム)の必要性

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

46年1月11日 (後略)

コロンボ出身の若者:
 J・クリシュナムルティは、意図的な集中の方法とは違って、無努力で無選択の自覚の方法を教えます。どのように瞑想を行うのが最良なのか、そして瞑想の対象がどのような形をとるべきか、シュリー・バガヴァーンは説明してくださるでしょうか。

バガヴァーン:
 無努力で無選択の自覚は、我々の本質です。我々がそれを得られるか、または、その状態にいられるならば結構です。しかし、人は努力、意図的な集中の努力なくして、それに到達できません。古くからある一切のヴァーサナーは、心を外に運び、外側の対象物に向けます。そのような一切の思いは放棄され、心が内に向けられねばなりません。そのためには、大部分の人にとって努力が必要です。

 もちろん、全ての人が、全ての本が「スンマ・イル(*1)」、つまり、「静かにありなさい、または、じっとしていなさい」と言います。しかし、それは簡単ではありません。ですから、この一切の努力が必要なのです。「スンマ・イル」で示されるマウナ、または、至高の境地を即座に達成した人がいても、必要な努力がすでに前世で終わっていたのだと考えられます。

 したがって、無努力で無選択の自覚は、意図的な瞑想の後のみに到達されます。その瞑想はあなたが最も気に入るどんな形をとってもよいのです。他の一切の思いを近づけないために何があなたの助けになるか見つけ、その方法をあなたの瞑想として採用しなさい。

 これに関連して、バガヴァーンは聖者ターユマーナヴァル(*2)の「ウダル・ポイ・ユラヴ(タミル語)」から5詩節と52詩節を、「パヤプ・プリ(タミル語)」から36詩節を引用しました。要旨は次のようになります。

 「あなたがじっとしていれば、至福が付き従う。しかし、あなたが心に何度この真理を伝えても、心は静かにしていない。静かにしようとしないのは、この心である。『静かにありなさい、そうすればあなたは至福を得る』と心に言うのは心である。全ての聖典がそれを言い、我々は毎日、偉大な人々からそれについて耳にし、我々のグルでさえもそれを言うが、我々は決して静かにおらず、マーヤーと感覚の対象物の世界へさ迷い入る。それゆえ、意識的で意図的な努力が、マウナの境地、すなわち、静かに在る境地を得るために必要とされる。」

(*1)スンマ・イル・・・タミル語。スンマは「静かに、動かないで」、イルは「在れ、留まれ」を意味する。
(*2)ターユマーナヴァル・・・18世紀前半に生きたタミルの詩聖。シャイヴァ・シッダーンタ(聖典シヴァ派)の哲学を表した。

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1947年2月12日 (後略)

(93)グルの面前でのサーダナ 

 今日、私は午後3時ごろに講堂に到着しました。バガヴァーンは手が空いており、信奉者に尋ねられた質問に答えていました。質問の中の一つが次のものでした。

 「スワーミー、バガヴァーンの面前で行われたジャパとタパ(*1)は通常より大きな結果を生じると言われています。そうであるなら、あなたの面前で行われた悪い行為についてはどうですか。」

 バガヴァーンは、「良い行為が良い結果を生じるなら、悪い行為は悪い結果を生じるに違いありません。ベナレスでの牝牛の贈り物が贈り主に大きなプニャ(徳)を生じるなら、そこで牝牛を殺すことは大きなパーパ(罪)になります。あなたが神聖な場所で行われた小さな徳のある行為が多大な利益を生み出すというなら、罪深い行為は同じく多大な害を生み出すはずです。自分が行為者であるという感覚がある限り、良い行為であれ、悪い行為であれ、あなたは自分の行為の結果に向き合わねばなりません」と答えました。

 その人が続けて、「悪い癖を捨て去りたいという望みがあるのですが、ヴァーサナーの力がとても強いのです。我々は何をすべきでしょうか」と言いました。

 バガヴァーンは、「それを捨て去るためには、人の努力がなければなりません。良い仲間、良い交際、良い行為、そのような全ての良い習慣がヴァーサナーを除去するために獲得されなければなりません。努力し続けるにつれ、心の成熟と神の恩寵と共に、終にはヴァーサナーは消滅し、努力が実ります。それはプルシャーカーラム(人の努力)(*2)と呼ばれています。それを求めて励むことなくして、神があなたに対して好意的であることをどうして期待できるでしょうか」と言いました。

 別の人が話の穂を継ぎ、「全世界は神のチドヴィラーサム(*3)で、一切のものはブラフマーマーヤム(*4)であると言われています。それでは、我々はどうして悪い癖や悪い習慣を捨て去らねばならないのですか」と言いました。

 バガヴァーンは、「なぜでしょうか?あなたに言いましょう。人間の体があります。その中に何らかの傷があると仮定しなさい。それが体の小さな部分に過ぎないという前提の下に、あなたがそれを無視するなら、それは体全体に痛みを引き起こします。一般的な治療でそれが治らないならば、医者がやってきて、メスで傷のある箇所を切り取り、汚れた血液を取り除かねばなりません。病気にかかった部分が切り取られなければ、それは膿みます。術後にそれを包帯しなければ、膿がでます。それは行いに関して同じことです。悪い癖と悪い行いは、体の中の傷のようです。人がそれらを捨て去らなければ、彼は奈落の底に落ちます。ですから、全ての病気に適切な治療が与えられねばなりません」と答えました。

(*1)タパ・・・タパス(苦行、宗教的修練・訓練)と同じ意味。
(*2)プルシャーカーラム・・・プルシャは「人、もしくは自ら」、カーラムは「行い、努力」。
(*3)チドヴィラーサム・・・「心の想像、遊び、暇つぶし」。
(*4)ブラーマーマーヤム・・・「ブラフマンの力、エネルギー」。

2012年7月25日水曜日

落ち着きのない心に打ち勝つには努力を要する - 象の鼻と牛の喩え

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 326. 1937年1月13日 (p302~304)

 長い間(アーシュラムに)住んでいる付添人による質問への答えとして、シュリー・バガヴァーンが言いました。

 全ての人が心の落ち着きのなさに不満を言います。彼らに心を見つけさせましょう。そうすれば、彼らは知ります。確かに、瞑想するために座る時、思いがいくらでも湧き上がってきます。心とは思いの塊でしかありません。思いの弾幕を突き進むもうとする企ては成功しません。どんな手段によってでも自らに住まうことができれば良いのです。

 そのようにできない人のために、ジャパ(*1)やディヤーナ(*2)が定められています。それは、鼻を制御するために象に鎖を与えるようなものです。象の鼻はいつも落ち着きがありません。街路に連れ出された時、鼻はあらゆる方向に動きます。持ち運ぶ鎖が与えられるなら、(鼻の)落ち着きのなさは抑えられます。

  落ち着きのない心も同様です。ジャパやディヤーナに従事させるなら、他の思いは取り除かれます。そして、心は一つの思いに集中します。そうして、心は安らかになります。これは安らぎが長い間の厳しい努力なしに手に入るという意味ではありません。他の思いに打ち勝たなければなりません。

 別の例があります。雌牛が悪事を働き、草を食べるために隣の家の牧草地に入り込んだとしましょう。彼女はその内緒の癖から簡単には離れられません。どうしたら彼女を小屋に留めておけるのか考えてください。無理やり牛舎の中につないでも、彼女は悪事を働く機会を待っているだけです。牛舎の中で彼女をおいしい草で誘うなら、最初の日は一口食べ、再び逃げ出す機会を待っています。次の日は二口食べます。日がたつにつれ、彼女はどんどん食べるようになり、終には自分の悪い傾向から離れます。悪い癖がすっかりなくなる時、彼女を自由にしておいても大丈夫です。隣の牧草地に入って行きません。たとえ牛舎で叩かれても、その後はその場所を離れません。

 心も同様です。思いとして現れている潜在するヴァーサナー(*3)の力によって、心は外をさ迷うことに慣れています。内に含まれているヴァーサナーがある限り、ヴァーサナーは外へ出て、それ自体を消費しなければなりません。思いが心を構成しています。心とは何か探求し、思いが退き、探求者は思いが自らから生じていることを知ります。

 我々が「心」と呼ぶのは、これらの思いの塊です。思いが自らから生じていると悟り、思いの源に留まるなら、心は消えます。今、人が一切の思いを排除することが難しいと気づくのと同様に、心が存在するのをやめ、安らぎの至福が実現された後、その時、人は思いを引き出すことが難しいことに気づきます。ここで、心とは、悪事を働く雌牛です。思いとは、隣の家の牧草地です。思いのない人の根源の存在とは、牛舎です。

 安らぎの至福は、妨げるにはあまりにもったいないものです。ぐっすり眠る人は起こされ、用事を気にするように命じられるのを嫌います。眠りの至福は、思いから生まれる働きの犠牲にするにはあまりに魅力的なものです。思いのない境地は自分の根源的な境地であり、至福に満ちています。そのような境地を離れ、思いに縛られた不幸せな状態に向かうのは惨めなことではないですか。

 思いのない境地に留まりたいと思うなら、厳しい努力は避けられません。人の本来の根源的な境地を取り戻す前に、戦って道を切り開かねばなりません。この戦いに勝利し、目的に達するなら、敵、つまり、一切の思いは自らの内に退き、完全に消えます。思いが敵です。思いは、万物の創造に等しいのです。思いがなければ、世界もなく、創造者である神も存在しません。自らの至福が、唯一在るものでしかありません。

(*1)ジャパ・・・神の名や聖なる文句などを声に出して復唱すること。
(*2)ディヤーナ・・・瞑想。心の中でジャパをすること、など
(*3)ヴァーサナー・・・心の潜在的傾向。

Talk 563. 1938年10月22日 (p540)

 ある一団がシュリー・バガヴァーンを訪問しにやってきました。彼らの内の一人が、「どうしたら心を正しく保てますか」と尋ねました。

マハルシ:
 言うことを聞かない雄牛は、牧草によって牛舎に誘い込まれます。同じように、心は善い思いによって誘い込まれなければなりません。

信奉者:
 しかし、心は落ち着いたままでいません。

マハルシ:
 うろつき出ることに慣れた雄牛は、うろつくことに喜びを覚えます。しかしながら、彼はおいしそうな牧草で牛舎に誘い込まれなければなりません。それでも、彼は隣人の牧草地に侵入し続けます。同じようなおいしい牧草が、自分の場所で食べられると徐々に理解させなければなりません。しばらく後、彼はうろつき出ることなく、牛舎に留まります。後に、牛舎から追い出されても、隣人の牧草地に入り込むことなく牛舎に帰ってくる時がやってきます。そのように、心もまた、正しい道へ行くように鍛練されねばなりません。心は徐々に正しい道に慣れてゆき、間違った道に戻らないでしょう。

信奉者:
 心に示されるべき善い道とは何ですか。

マハルシ:
 神についての思いです。

2012年7月20日金曜日

マーヤーの本質、マーヤーへの六つの問い、マーヤーと現実(自ら)の関係

◇「ウパデーシャ・マンジャリー(タミル:Upadesa Manjari、英:Spiritual Instruction)」 

第2章 修練(アバヤーサ)

質問5:
 マーヤーの本質とは何ですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは、あらゆる所に常に存在し、全てに行き渡り、自ら輝いている自ら、現実を我々に存在していないとみなさせ、あらゆる時、あらゆる所で存在していないと決定的に証明されている個々の生命(ジーヴァ)、世界(ジャガット)、神(パラ)を我々に存在しているとみなさせます。

◇『バガヴァーンと日々をともにして(Day by Day with Bhagavan)』 (p99、p238~239))

1946年1月7日 

マハータニ氏:
 『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』で、心と同一化した至高の自らは変化に富むように見えると言われています。自らから出るマーヤーから出ている心が、どうして不変の自らを変化させられるのですか。

バガヴァーン:
 実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、「この創造はどのように生じたのか」と尋ねる人のために、上述の説明が与えられています。

1946年5月29日 

ボーズ:
 ウパニシャッドが全てはブラフマンであると言う時、どうしてシャンカラのように、この世界がミティヤ、すなわち、幻であると我々が言えるのですか。

バガヴァーン:
 シャンカラもまた、世界がブラフマン、すなわち、自らであると言います。彼が異議を唱えるのは、自らが世界を構成する名と形によって制限されていると想像することです。彼は世界がブラフマンと別に存在していないと述べているだけです。ブラフマン、すなわち、自らはスクリーンのようであり、世界はその上にある映像のようです。あなたはスクリーンがある限りにのみ、映像を見ることができます。しかし、見る者自身がスクリーンになる時、自らのみが残ります。『カイヴァルヤ・ナヴァニータ(*1)』には、マーヤーに関す六つの質問と答えが書かれています。それらは有益です。

1番目の質問:
 マーヤーとは何ですか。

答え:
 アニルヴァチャニーヤ、言い表すことができません。

2番目の質問:
 それは誰に起こりましたか。

答え:
 自分が分離した存在であると感じ、「私がこれをなす」や「これは私のものである」と考える心、もしくは、自我に。

3番目の質問:
 どこから来ましたか、どのように始まりましたか。

答え:
 誰も答えられません。

4番目の質問:
 どのように生じましたか。

答え:
 ヴィチャーラの欠如(*2)を通して。「私は誰か」と尋ねることの怠りを通して。

5番目の質問:
 自らとマーヤーが共に存在するなら、これはアドヴァイタ(*3)の理論を無効にするのではありませんか。

答え:
 必ずしもそうではありません。というのも、スクリーン上に映像があるように、マーヤーは自らに依存しています。映像は、スクリーンが現実であるという意味において、現実ではありません。

6番目の質問:
 自らとマーヤーが一つであるなら、自らが幻というマーヤーの性質を持つと論じられるのではありませんか。

答え:
 いいえ。自らは幻になることなく、幻を作り出すことができます。魔術師(奇術師)は我々を楽しませるために、人々や動物や物体の幻をつくるかもしれません。そして、我々は我々が彼を見るのと同じようにはっきりとその全てを見ます。しかし、そのパフォーマンスの後、彼だけが残り、彼が作り出した一切の映像は消えます。彼は幻の一部ではなく、現実であり、確かなものです。

(*1)カイヴァルヤ・ナヴァニータ・・・16世紀にタミル語で書かれたアドヴァイタの古典。ターンタヴァラーヤ・スヴァーミの著作。タミル語:Kaivalya Navaneeta、英語:The Cream of Emancipation。
(*2)ヴィチャーラの欠如・・・「non-vichara」の訳。ヴィチャーラは「探求」を意味する。
(*3)アドヴァイタ・・・不ニ、「ブラフマン(=アートマン、自ら)のみが存在する」という教え。

◇『グル・ラマナ(GURU RAMANA-memories and notes)』、p58~59 抜粋

第2部-対話  9章 マーヤー

<1> 1937年4月15日

 C氏はこの巨大な世界の幻の謎を知りたいと思いました。

C氏:
 我々は世界を幻として話しますが、その中の全てのものは厳密な法則に従っており、それは世界が十分に計画され、十分に統制されていることを証明しています。

バガヴァーン:
 そうです。幻を投影した彼が、秩序としっかりした計画という外観を世界に与えました。

C氏:
 アドヴァイタ的なもの以外の一切の宗教的組織は、それらが神と名付ける現実の創造的側面を重要視しています。それらは預言者、聖者、聖典などについて話します。それらは全て、幻ですか。

バガヴァーン:
 その全ては、質問者であるあなたと同じように存在しています。あなたは相対的な世界におり、それらもまたそのようです。そうでなければ、あなたはそれらについて知らなかったでしょう。夢の中でもまた、人は聖者や聖典などを伴う十分に統制された世界を見ますが、目覚めるとすぐにそれらは全て消え去ります。そのようにまた、この夢の世界から至高の意識に目覚めることにより、その全ては消え去ります。

C氏:
 しかし、どのようにして真理から幻、虚偽が生じるのですか。

バガヴァーン:
 マーヤーは虚偽ではありません。それは虚偽の外観を持ちますが、現実の活動的側面なのです。それは意識の中の形の作り手であり、形は多様性を意味し、それは幻を引き起こします。とは言え、この全ての多様性は意識の中にあり、その他のどこにもありません。それは心の中にのみあります。あるジーヴァ(A)が他のジーヴァ(B)を見て、それ(B)との同一性を忘れ、それ(B)をそれ自身(A)から異なっていると思います。しかし、それ(A)がその注意を形としてでなく、その意識としての本質に向けるとすぐに、多様性、もしくは分離性という幻は、夢が目覚めが起こる時に消えるように消えます。

C氏:
 形を生じる神、無形のものは想像し難いです。

バガヴァーン:
 どうして難しいのですか。例えば深い眠りや、サマーディや、気絶した状態において、あなたが知覚したり、考えたりしない時、あなたの心は無形のままにありませんか。そして、心が考え、あなたの体を働くよう駆り立てる時、心は空間や関係性を創造しませんか。一つの同質的で、自動的な行為において-非常に自動的であるのでほとんどの人々はその過程に気づかないのですが-、あなたの心が考え出し、あなたの体が実行するのとまさしく同様に、神の知性も考え出し、計画し、彼の力は自動的で、自発的に働き、その思いと行為は一つの完全に統合されたものです。純粋な知性の中に暗に示されている、この創造的な力は、様々な名前で呼ばれています。その中の一つがマーヤー、もしくはシャクティであり、形や映像の創造者です。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 20. 1935年1月30日 (抜粋)

信奉者:
 マハルシは普遍的な幻(マーヤー)の理論をどう思いますか。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。それは現実に過ぎません。

信奉者:
 マーヤーは幻ではないのですか。

マハルシ:
 マーヤーは現実の顕現を表すために使われています。そのように、マーヤーは現実に過ぎません。

Talk 477. (抜粋)

信奉者:
 心もまたマーヤーであると私は思います。

マハルシ:
 マーヤーとは何ですか。心が現実から分離されているという知(識)が、マーヤーです。心は現実の中だけにあり、離れていません。この知(識)がマーヤーの除去です。

◇『彼の机から落ちる(パンの)かけら(Crumbs From His Table)』 p40 抜粋

11)夢、眠り、サマーディ 

信奉者:
 世界の存在は虚偽、幻、マーヤーであると言明されていますが、我々は来る日も来る日も世界を見ます。どうしてそれが虚偽となりうるのですか。

マハルシ:
 虚偽ということで、暗闇(無知)の中で縄という現実の上に蛇という考えが付加されるように、世界という概念が現実に付加されたものであるということを意味しています。

信奉者:
 マーヤーとは何ですか。幻ですか。

バガヴァーン:
 氷が水であるのを知らずに、氷を見ることが幻、マーヤーです。それゆえ、心を殺すや、何かそのようなことを言うのもまた意味はありません。なぜなら、結局のところ、心もまた自らの重要な部分であるからです。自らに安らうこと、または、自らの内にあることがムクティ、マーヤーを取り除くことです。マーヤーは分離した存在ではありません。光の欠如が暗闇と呼ばれるように、知、輝きなどの欠如が無知、幻、マーヤーと呼ばれています。

2012年7月13日金曜日

神の最初の名であり、最も偉大なマントラ - 「私」の復唱という修練

◇『DAY BY DAY WITH BHAGAVAN From the Diary of A.DEVARAJA MUDALIAR』、p223、p265、p344

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年5月8日

 午後に、北インドからの若いサードゥとの以下の対話がありました。

サードゥ:
 私は、私は誰か知りたいのです。アーリヤ・サマージ派は、私はジーヴァートマ(*1)であると、私が心とブッディ(*2)を浄化するなら、神を見ることができると言います。私は何をすべきか分かりません。バガヴァーンがふさわしいと思うなら、何をすべきか私に教えて頂けないでしょうか。

バガヴァーン:
 あなたは多くの用語を使っています。ジーヴァートマ、心、ブッディ、神とは、どういう意味ですか。そして、あなたは神に会いに行きたいのですが、神はどこにいて、あなたはどこにいますか。

サードゥ:
 私はそれら全ての用語がどういう意味か分かりません。

バガヴァーン:
 では、アーリヤ・サマージ派があなたに言うことを気にしないように。あなたは神や他の物事について知りませんが、あなたが存在することをあなたは確かに知っています。あなたはそれについて疑いを抱けません。ですから、あなたは誰か見出しなさい。

サードゥ:
 それが私の知りたいことです。どうすれば私は見出せますか。

バガヴァーン:
 他の全ての思いを遠ざけ、あなたの体のどの場所に「私」が生じるのか見出そうとしなさい。

サードゥ:
 しかし、私はそれについて考えることができません。

バガヴァーン:
 どうしてですか。あなたが他の物事について考えられるなら、あなたは、「私」について、そして、あなたの体のどこにそれが生じるかについて考えられます。他の思いがあなたの気を逸らすということであるなら、唯一の方法は、あなたの心がさ迷うたびに引き戻し、それを「私」に定めることです。それぞれの思いが生じるときに、あなた自身に「誰に、この思いがあるのか」尋ねなさい。答えは「私に」となるでしょう。それから、その「私」にしっかり捉まりなさい。

サードゥ:
 「私は誰か」をマントラにするために、私はそれを繰り返し言い続けるべきですか。

バガヴァーン:
 いいえ。「私は誰か」は、マントラではありません。それは、その他の一切の思いの源である「私という思い」が、あなたの中のどこに生じたかあなたは見出さなければならない、という意味です。しかし、このヴィチャーラ・マールガがあなたにとってあまりに難しすぎると感じるなら、あなたは「私、私」と繰り返し言い続けてもかまいません。それはあなたを同じ目的地に導くでしょう。「私」をマントラとして使っても差し支えありません。それは神の最初の名です。

 神はあらゆる所にいますが、その側面においてを思い描くことは困難です。それで聖典には、「神はあらゆる所にいる。はあなたの内にもいる。あなたはブラフマンである」と書かれています。ですから、「私はブラフマンである」と思い出しなさい。「私」の復唱は、終には、あなたを「私はブラフマンである」と悟るように導くでしょう。

(*1)ジーヴァートマ・・・「個々の生命である自分」。パラマートマ(至高の自ら)と対比される。
(*2)ブッディ・・・「知性、分別する機能」。

46年6月28日

 午後に、カンナの妻が、書面でバガヴァーンに懇願しました。「私は聖典に通じていませんし、私にとって自らの探求の方法はあまりに難し過ぎると感じます。私は、7人の子どもがいて、たくさんの家事がある女性であり、それは瞑想のための時間を私にほとんど残しません。バガヴァーンが私に、何かより単純で、簡単な方法を授けてくれることを願います。」

バガヴァーン:
 自分自身を見るために誰も鏡を必要としないように、自らを知るために聖典の学習や知識は必要ありません。一切の知識は、自らでないとして、終には、ただ放棄されることだけを求められます。家事労働や子供の世話もまた、必ずしも障害ではありません。あなたがそれ以上何もできないなら、あなたがどのような仕事をしていても、あなたが座ってようと立っていようと歩いていようと、『私は誰か』の中で勧められるように、少なくともその間ずっと「私、私」と心の中で言い続けなさい。「私」は神の名です。それは全てのマントラの中で最初の、最も偉大なマントラです。オームでさえ、それに次ぐものです。

46年11月24日

 チェノイ婦人は、本(『私は誰か』)の中の「たとえ『私』『私』と言い続けても、それはあなたを自ら、もしくは、現実に連れて行くでしょう」と書かれている箇所に言及して、それがなされるべき適切なことではないのかどうか尋ねました。私(ムダリアール氏)は、「その本には、思いを内側に向け、全ての思いの根源である『私』がどこから起こったか見出そうとすることからなる探求の方法に従おうとしなければならないと書いてあります。もし、そうすることができないと感じたら、ジャパで人々が使う『クリシュナ』や『ラーマ』のようなマントラであるかのように、単に『私』『私』と繰り返し言い続けてもかまいません。その狙いは、他の全ての思いを排除するために、1つの思いに集中することです。そうすれば、終には、その1つの思いさえ消えるでしょう」と説明しました。これに関して、チェノイ婦人は、「人がただ単に『私』『私』と機械的に繰り返しても、それは役に立つのでしょうか」と私に尋ねました。私は、「人が『私』や、『クリシュナ』のような他の言葉を使うとき、『私』や他の何かの名前で人が呼ぶ神についての何らかの考えを確かに心に抱きます。人が『ラーマ』や『クリシュナ』を繰り返し唱え続けるとき、木をその背後にある意味として考えていることはできません」と答えました。この全ての後で、バガヴァーンが言いました。「あなたは今、私は努力していて、『私』『私』や他のマントラを口にしていて、瞑想を行っていると思っています。しかし、あなたが最終段階に達するとき、瞑想はあなたの側のなんらの努力なしに続いて行くでしょう。あなたはそれから逃れることも、それを止めることもできません。というのも、瞑想、ジャパは、あなたがそれを他の何と呼ぼうとも、あなたの本質だからです」。