神と運命
A.デーヴァラージャ・ムダリアール
デーヴァラージャ・ムダリアールは、最古参の信奉者の一人です。彼は小誌の1964年10月号で、我々のために「マハルシと献身の道」という記事を記しました。主に衰えつつある視力のために、彼は1965年の終わりにアーシュラムを離れました。1966年1月号で、我々はアーシュラム広報にお別れの手紙を記しました。今、デーヴァラージャはすでに片目の白内障の手術を受け、再び字を書ことができます。我々は彼からのこの新たな記事をとても喜んで歓迎したいと思います。
(運命なる)動き続ける指は記し、記され
先へと進む。汝のあらん限りの祈りも、知恵も
それを呼び戻し、半行取り消させることあたわず
汝の全ての涙でも、その一語も洗い流せぬ
-ウマル・ハイヤームによるルバイヤートより
私見では、これを記した時、ウマルは冷笑家ではなく、宿命の貫き通せない壁に出くわした熱心な探求者でした。大多数のヒンドゥー教徒もまた、運命に打ち勝つことはできないと信じています。彼らは、神が彼らのひたいに人生における彼らの運命を記し、その結果、全ての出来事は、心地よいものも痛々しいものも、定められたように彼らのもとにやって来るだろうと話します。しかしながら、カルマの問題を学んだ人々は、運命とは独断的な神によって彼らに課されたものではなく、因果法則の結果であり、各人がその過去の行為が引き起こした経験を経なければならないと言明します。人の各々の行為には、心地よいものであろうとも痛々しいものであろうとも、その結果が後に続き、誰もそれから逃れることはできません。一回の人生で行為の全ての結果を使い尽くすことが可能でないなら、カルマを使い尽くすために相次いで人生を経験しなればならないかもしれません。
この教説は思慮深い思想家たちによって歓迎されてきました。なぜなら、それが我々が世界で見出す人と人との間の大きな相違にいくらかの理性的な説明を与えるからです。さもなければ、公明正大な愛情深い神によって創造され、統治された世界における膨大な相違をどうして説明しうるでしょうか。カルマの教説はヒンドゥー教にとってとても基本的なものであるため、我々はそれ抜きにヒンドゥー教を考えることはできせん。
カルマは三つのカテゴリー-プラーラブダ、アーガーミ、サンチッタ-に分類されます。人が生まれるとき、この人生で片づけられる予定の蓄積したカルマの量が、プラーラブダ・カルマと呼ばれ、その残りがサンチッタです。今世で蓄積したものは、アーガーミと呼ばれます。少なくともプラーラブダは全ての人によって経験されなければならず、それからは逃れようがないと一般的に考えられています。私はここで、この事柄に関するバガヴァーンの教えを提供しようと思います。
シュリー・クリシュナがアルジュナに語ること-「マーヤーによって惑わされ、あなたは戦うことを拒むが、あなた自身の本質があなたを戦うように強いるだろう*1」-に関して、ある信奉者がバガヴァーンに我々がいったい自由意志を持つのかどうか尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたには、体とそのプラーラブダとしてそれにやって来る苦楽とあなた自身を同一視しない自由が常にあります」。これに続いて、私は言いました。「私は人の人生の重要な出来事があらかじめ定められていることは理解できますが、まさか人生のあらゆること-例えば、私が手に持つこのうちわを床の上に置くというような、どれほどささいな事でも、すでにあらかじめ定められているということであるはずがありません。まさかあなたは、これこれの日付の一日のこの特定の時間に私があなたの前で床の上にうちわ置くことが私の生まれる前に定められていたと言うのではないでしょうね」。バガヴァーンはためらうことなく答えました。「ええ(、言います)」。
私が彼と交わした他の様々な会話から、これがバガヴァーンの教えであることを私は確信しています。私はここで、彼が若き賢者として彼の母親の一緒に家に戻るようにという涙ながらの願いを断ったときに、彼女に与えた返答にだけ言及しようと思います。「命じる彼が、プラーラブダに応じて各々の人生を形作っている。起こらないと運命づけられていることは、どれほどあなたが試みようとも、起こらないだろう。起こると運命づけられていることは、人がそれを阻止しせんと試みようとも、起こるだろう。これは確実である。そのため、最良の道は、静かにいることである」。
しかしながら、もし純粋な原因と結果としてのカルマの法則が絶対的に不可侵かつ無慈悲なほどに至高であるなら、人は宗教や神や祈りが何の役に立つのか尋ねるかもしれません。人が彼を罪と苦しみから救い、安らぎと祝福を与えられる全てを愛する全能の神を頼らなかった時代は存在していなかったようです。ヴェーダの時代に始まり、シヴァ派とヴィシュヌ派両方の偉大なバクタたちの時代を通じて、わりあい近代に至るまで、どのような罪を人が犯そうとも憐み深き神が彼を救うことができると全く明確に述べる大量の宗教文献があります。火によって綿が燃やされるように、神の恩寵によって、プラーラブダを含め、全てのカルマを破壊することができるとも彼らは述べています。西洋の聖者と神秘家は同じことを言っていて、神が公平、公明正大であるから、罪びとを救うことができず、その罪のためにまずは彼を罰しなければならないという考えをからかっています。というのも、もしそうであるなら、憐みや愛、父性や母性といった神の他の属性はどうなるでしょうか。ヴィシュヌ派の信奉者は、神の中のヴァーッサリャ、つまり、慈愛の性質を強調し、牝牛のヴァーッサリャによって説明しています。子牛が生まれるやいなや、牝牛はその全身をなめ始め、子牛が不潔であるという事実を気に留めません。彼らは言います。神は罪びとを救いうるに先立って、彼が清らかになるのを待たず、見つけるとすぐに彼を救う-ただ人が救いを望み、それを求めて叫び、哀願するなら。苦しんでいる人が、「神は私を助けることができる」と十分に信頼して、助けと安らぎを求めて神を頼りとするなら、彼は確かに救われる。それが聖典の言うことであり、無数の聖者が言明することです。キリストは言いました。「労苦し、重荷を背負う汝ら皆よ、私のもとに来きなさい。そうすれば、私はあなた方に安息を与えよう。恐れるなかれ」。主クリシュナはほぼ同じことを言いました。アルジュナが、解放を手に入れうる全ての異なる種類のヨーガについてクリシュナが話さなければならなかったこと聞いた後、これら全ての指導で混乱し、それらに従うことができないと感じたと彼が不満を言ったとき、クリシュナは言いました。「では、全てのダルマを放棄し、私だけに寄る辺を求めなさい。嘆くなかれ。私があなたの全ての罪からあなたを救いましょう*2」。ここで要求されるものは、神への完全な委ねです。しかし、自分自身を完全に神の憐みに身を委ね、自分自身のために何も望まず、あらゆることを全てを愛する全知なる神に託すことは、思われるほど簡単ではありません。しかしながら、ここで私が主張したいことは、恩寵は全能であり、いかなる例外もなく人は蒔いたものを刈り取らねばならないと言われるカルマの法則にさえ打ち勝つことができるということです。私は気質的にこれを強く信じる傾向にあり、バガヴァーンが私のためにそれを裏付けてくれたと信じています。私はここで、私の小さな本 My recollections of Bhagavan Sri Ramana の101、102ページ上に、そのテーマに関して私が記したことを引用しようと思います。
「私が一度ならずバガヴァーンと論じ合った別の点は、恩寵がプラーラブダ、つまり、運命をくつがえすことができる程度です。徹頭徹尾、私の言い分の主だった趣旨は、神は全能であり、彼にとって不可能なことは何もなく、もし人がそのために努力し、値するものだけを得るなら、得ることができるなら、恩寵にまるで居場所はないだろうということでした(そして、それは相変わらず私の今の確信です)。自分一人でか、他の人々と私がそのような議論に携わっていた時-私に味方する人いれば、反対する人もいました-、バガヴァーンは黙っていました。しかし、彼がいろいろな機会にした様々な発言や所見から、私は以下がこの事柄に対する彼の態度であるという結論に至りました-『もちろん、神に不可能なことは何もありません。しかし、あらゆることが神の意志、または、計画によって定められた秩序に従って、起こり、例外はほとんどありません。我々のプラーナにマールカンデーヤが何人いますか』」。
他方で、多くの権威ある書籍では、ジニャーニからの一目が、過去、現在、プラーラブダを含めた我々の全てのカルマの結果から我々を救うことができると明確に述べられています。そして、シュリー・ジャナキ・マータ*3が彼女のタミル語の日記の中で公表したことですが、彼女がこの疑問をかつてバガヴァーンと議論し、彼の恩寵が人がプラーラブダに打ち勝つ手助けさえすると主張したとき、彼は彼女に言いました。「あなたがそのような信仰をもっているなら、そうなるでしょう」。
私はこの引用に何も有益な付け加えができないことを分っていますが、マールカンデーヤへの言及を説明すべきかもしれません。プラーナに書かれていることですが、マールカンデーヤは16年間しか生きられないよう運命づけられていて、彼はシヴァに祈り、永久に16歳であるという恩恵を授かりました。バガヴァーンはそれに言及し、神聖なる恩寵の明白で劇的な介入はとても例外的であるという彼の趣旨を強調しました。
いつ、なぜ、誰に恩寵が訪れるか人は言うことはできないとウパニシャッドの中で述べられています。それが選ぶ者にだけそれは到来すると言われています。百人が努力するかもしれませんが、その中の一人か二人だけが選ばれるのかもしれません。恩寵について、それが予測不可能であるということ以外、誰も何も予測できません。
ここで、私の本 Day by Day with Bhagavan に記載されたポール・ブラントンからの以下の引用文に目を向けるのは興味深いでしょう。
「神聖なる恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の一つの顕現です。一切の自然法則に優越し、自然法則を相互作用にによって変更しうる、それ独自の未知の法則を通じ、それは物事の成り行きを不可思議な方法で変更できます。それは宇宙の中で最も力強い力です。」
「それは完全な自らの委ねによって発動されたときにのみ、降りてきて、働きます。神は全ての存在のハートに住んでいるため、それは内から働きます。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞くことができます。」
上の二つの引用文は、D.C.デーサーイーという人による Divine Grace through total self-surrender と名づけられた本の中に含まれ、バガヴァーン自身が、その本に通読するとすぐ、それらを我々に読み上げました。
神の恩寵は予測不可能であり、罪を免じ、カルマを消す力を持つという私の発言は、この恩寵が努力なしに得ることができること意味すると受け取られるべきではありません。逆に、大変な努力が必要です。人は、独力で自分自身を高めることができないことを認め、神の御足にくずれ落ち、叫ばなければなりません。「主よ、私は弱く、無力です。あなただけが私を救えます。私はあなたを寄る辺とします。あなたが私に望むことを行ってください」。これがなすべき努力です。我々自身のちっぽけな努力の無益さを理解した後の無努力の達成に向けての努力です。タゴールが言うように、「おぉ、汝自身の肩に汝自身を担わんとする、愚か者よ!おぉ、汝自身の門戸に物乞いをしに来る、乞食よ!一切を担うことができ、後悔して後ろを振り返ることのない彼の手に汝の一切の重荷を委ねよ」。我々がこれをするとき、神が責任をとるとタゴールは言います。「私が舵(かじ)を手放すとき、御身がそれを手にする時期が来たことを私は知る。なすべきことは即座になされるだろう。このあがきは無駄である」。
宗教とは、私見では、人間の心に狼狽と絶望でなく、慰めと安堵をもたらすものであるべきです。もしそれができないなら、他の点においてどれほどあっぱれなものでも、知識人の称賛を勝ち取るためにどれほど哲学的思索にふけっていても、私はそれに用はありません。もし信奉者が神に保護を求めて近づくなら、「親愛なる息子よ、私はあなたを愛してますが、あなたを抱き上げ、私の保護下にあなたをかくまってあげたいのはやまやまなのですが、私の王国のおきては、あなたが戻ってきて、あなたの罪を取り除くか、もしくは、カルマを使い果たすまで、あなたを助けられないというものなのです」と言う神なるものに私は用はありません。むしろ私は神のことをキリストの放蕩息子のたとえ話の父親、道に迷った息子を絶えず注意深く捜していて、彼が引き返し、家路につくのを見た瞬間に、彼がまだ遠くにいるときでさえ、彼のもとに駆け寄り、抱擁し、家に連れ帰って、彼を洗い、真新しい衣服を与え、ごちそうのために太った子牛を屠った父親のようにみなすことを好みます。私は神がそのようであると本当に信じています。フランシス・トンプソンが The Hound of Heaven の中で言うように、神の恩寵こそが我々を追い求めていて、我々こそが逃げていっているのです。我々が世界の安っぽい目を引く飾りから背を向け、(「放蕩息子」のたとえのように)豚たちとの付き合いと我々が豚たちと分かち合ってきたもみ殻や皮の食事を断ち、神の方に向くのなら、その時、我々が神に向かって歩む一歩ごとに、神が我々に向かって十歩歩むと言われています。キリストと他の霊性の師たちはこう述べており、私はカルマの法則のもとに肉を一ポンド要求するシャイロックよりもむしろ彼らを信じることを好みます。バガヴァーンは Who am I? の中で言いました。「どれほど人が罪深くても、『あぁ、私は罪びとだ。どうして私が解放を得られるのか』と悲しみに沈んで泣き叫ぶのをやめ、自分が罪びとであるという思いすら捨て去り、熱心に自らへ瞑想を続けるなら、彼は間違いなく改められます」。
映画「ナザレのイエス」から放蕩息子のたとえ話
私の信条は次のようです。「神聖なる恩寵を信じなさい。完全に自らを委ねて、それを請い求めなさい。そうすれば、あなたは救われるでしょう。一切の哲学的論争をいたずらに学識ある人々に任せなさい。あなたがただ彼のほうに向き、彼を寄る辺とするなら、あなたを迎え入れたいと切に願っている神に満足しなさい」。
バガヴァーンは救いへの一つの確かな道として完全な自らの委ねの道を推薦し、献身を「ジニャーナの母」と呼んでいます。かのよく知られた初期のバガヴァーンの信奉者、シヴァプラカーシャム・ピッライ-彼のために Who am I? が書かれたのですが-は、彼の詩の一つの中で言います。「あなたと私、他の全てを動かす力があります。あなたの自我をその母の足元に置きなさい」。バガヴァーンの様々な行為と発言から、委ねの道を私にとって最良の方法だと彼がみなしていたことにわずかの疑いもありません。解放は自らの知-それは、自らでいることです、なぜなら、知ることとはいることだからですーを通じてのみ可能であると彼がはっきりと明言したことは真実です。けれども、それがもたらされるのは、必ずも、完全に委ねた者に、です。
(原注)
*1 バガヴァッド・ギーター、18章、59詩節
*2 同上、18章、66詩節
*3 彼女に関する記事について、小誌の1966年6月号、p105参照