2016年5月29日日曜日

ガーディの物語 - 不可思議なマーヤーの働きを体験したバラモン

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年7月、p173~175

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅴ


ガーディの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラーマ!サンサーラと呼ばれる、この幻には、終わりがありません。自制によってのみ、それに終焉をもたらすことができます。その並外れた力を例示する物語をあなたに話しましょう。注意深く聞きなさい。

 コーサラ王国に、ガーディという名のバラモンがいました。彼はかつて家を離れ、禁欲行を修練するために森の中に進みました。鮮やかな褐色のハスが生えた池を見つけ、彼はその中に入り、首まで水に浸かって立ち、禁欲行を修練しました。8か月の終わりに、ビシュヌが彼の前に現れ、言いました。「おお、バラモン!水から出なさい。あなたの欠点のない禁欲行は実を結びました。あなたが好む、どんな願いでも求めなさい」。ガーディは言いました。「主よ!サンサーラと呼ばれる不可思議なマーヤーの本質を私は理解したいと思います」。ヴィシュヌは言いました。「あなたは今や私のマーヤーを見るでしょう。それを見た後、できるならばそれを乗り越えなさい」。このように言い、ビシュヌは姿を消しました。

 これを目にした後、ガーディは水から出てきました。世界の主を目にし、彼はとても幸福でした。彼はバラモンに定められた禁欲行に従事して、その森の中でさらに数日過ごしました。ある日、朝の沐浴をするために彼は湖に行きました。沐浴に先立つ儀式を終えた後、彼は水に足を踏み入れ、ひと浴びしました。まさにその瞬間、彼はつぶやいていたマントラを忘れ、いつものように瞑想することができませんでした。景色が完全に変化しました。大変悲しいことに、気づけば彼は、親族に囲まれ、彼自身の家の中で死んでいました。悲しみに打ちひしがれ、彼の妻は彼の足下に座り、彼の母親は彼のあごを撫でていました。次に彼は、彼の体が死体の残骸が散乱した火葬場に運ばれ、赤々と燃える火の中で燃やされ灰になるのを見ました。

 その後、彼が極めて苦悶したことに、彼が見たのは、村はずれのフナ(低いカースト:フン)の間で生活するスヴァパチャ(犬食い)という低いカーストに属する女性の子宮の中に悲嘆にくれて横たわっている自分自身でした。そのうちに、気づけば彼は、スヴァパチャの黒い顔色の赤子として生まれていました。彼はその家で幼少時代を過ごし、一家の寵児でした。彼は、その後、少年へと成長し、16歳になりました。彼は背丈が高く、肩幅が広く、厚い雲ごとく黒色でした。彼に心魅かれた彼のカーストのある若い女性が、木のつるのように彼にくっついて離れませんでした。彼女の胸は花束のように柔らかく、彼女の手はみずみずしく柔らかな葉のようだと彼は思いました。彼は森の木陰で彼女と戯れ、山の洞窟の中で彼女と共に眠り、葉の茂ったあずまやに彼女と共に座り、茂みの中に彼女と住み、彼の家系を存続するために彼女と子をもうけました。そのように結婚し、裕福な彼は、じきにその若さを失いつつあることに気づきました。彼は、その後、他の人々からいくらか離れた所に葉っぱでできた小さな小屋を自ら建て、隠者のごとくそこで生活しました。彼は自分自身が年を取り、弱り、息子たちが成長していくのを見ました。その後、彼は彼の家族全員が死に奪い去られるのを目にしました。彼は悲嘆にくれ、絶え間なくすすり泣いたことでその顔は腫れあがりました。

 彼は、その後、その国を離れ、深い悲しみと不安に沈んで放浪しました。放浪するうちに、彼はケーラ王国の首都にやって来ました。彼は王の公道に沿って歩み、それは天(スヴァルガ)に通じる道のように見え、高貴な生まれの男女でいっぱいでした。彼は目の前に宝石で装飾された門と山ように巨大な見事な象を目にし、象は亡くなった王の跡継ぎを探してあちらこちらに動き回っていました。彼が象を見ると、象はその美しい鼻を彼に巻き付け、持ち上げ、大変な敬意をもって彼をその背中にのせました。彼はメール山にかかる太陽のごとくに見えました。彼が象に座るや否や、太鼓が四方から鳴り響き、「王に勝利あれ」と言い、歓呼して彼を迎える人々の歓声で空は満たされました。美しい女性たちが、その後、彼を宮殿に連れ行き、王ごとく彼を着飾りました。全ての人々が彼に敬意を払いました。

 かくして、スヴァパチャ(つまり、ガーディ)はケーラ王国を手に入れました。彼の蓮華の御足はその王国の美しい女性たちの柔らかい手でマッサージされました。すぐに彼はその王権を国土のすみずみまで広げ、彼の命令は至る所で遵守されました。彼は王国の秩序を回復し、大臣たちの助けを得て、国をとてもうまく統治しました。彼はガラヴァ王として知られるようになりました。

 美しい少女たちに囲まれ、大臣たちに大いに敬われ、貴人全員に尊敬され、王にふさわしい傘の下に座り、王にふさわしいハエ払いで扇がれて、彼はケーラ王国を8年間統治しました。それから、ある日、王の記章のない普段着で、彼は何気なく宮殿の外に出ました。程なくして彼は、弦楽器を演奏しているスヴァパチャのキャンプに出くわしました。彼らの一人、赤い目をした老人が立ちあがり、彼に近づき、カタンジャと親し気に彼に呼びかけました。彼は言いました。「おお、カタンジャ、私の親族よ、今どこに住んでいるんだい。私は幸運にも、あなたに、私の古い親戚に出会った。森のどこに今まで住んでいたんだい」。

 その老人がそれらの言葉を話した時、ガラヴァは不快感を示す仕草をしました。しかし、彼の妻たちと彼の臣民のいくらかは、窓際にいて、全てを見ていました。彼らの王がスヴァパチャであったと知ることになった時、彼らは気が動転しました。彼が動揺して宮殿の内にある込み合った部屋に再び入った時、大臣、市民、女性たちは彼に近づかず、触れようともしませんでした。彼らは彼を死体ごとく見なしました。彼は彼の従者たちの真っただ中で孤独を感じました。

 程なくして、市民が内々で話し始めました。彼らは言いました。「私たちはこのスヴァパチャと長い間触れ合うことによって汚されてきた。たとえ大変な苦行をもってしても、我々の清らかさは取り戻せない。それゆえに、火の中に飛び込み、我々自身を破壊しようではないか」。そして、彼らは火を四方に点火し、親族もろとも火の中に飛び込みました。有徳の人々とともに生活した結果として、有徳になっていた王は、深い悲しみに打ちひしがれました。彼は思いました。「私はこの王国に降りかかったこの惨事に責任がある。もはやこれ以上どうして生きねばならないのか。私も死のう」。そのように決意し、わずかの後悔もなく、ガラヴァは蛾のごとく火の中にその身を投げ入れました。

 ちょうどその時、ガーディは火の熱さを感じ、夢から覚めました。彼がその錯覚から脱するのに、数瞬しかかかりませんでした。その後、彼は心の中で考えました。「私は誰だ。私は何を見ているんだ。私は何をしたんだ」。その信じがたい不思議な体験に思いめぐらしながら、彼は水から出てきて、この結論に至りました。「深い森の中の気が狂った虎のように、無数の幻の真っただ中で、全ての具現化した存在の心がこのようにさ迷うのを私は見ているのだ」。

 ガーディは彼のアーシュラムで生活し続けました。その後、ある日、彼の親しい友人が彼に会いにやって来ました。非常に喜び、彼は花を彼に差し出し、果物と美味しい食べ物を彼の前に置きました。彼らの夕方の祈りを終えた後、二人の友人は横たわり、互いに精神的意義を持つ話を語り合いました。会話の最中に、ガーディは友人に尋ねました。「おお、バラモンよ!どうしてあなたはそんなにやつれ、弱っているのですか」。友人は答えました。「この地の北部に、ケーラと呼ばれる有名な大王国があります。その都市の人々に敬われ、私は最近そこで一か月過ごしました。彼らと会話するうちに、彼らの一人が私に以下のように話しました。『おお、バラモン!スヴァパチャがここに8年間君臨していたのです。彼が終に見破られたとき、彼は即座に火に飛び込みました。二百人のバラモンも火に飛び込みました』。私がそれを聞いた時、私はその王国を離れました。私はプラヤガで沐浴し、禁欲行に耐えました。三回目のチャーンドラーヤナ(規定された断食を伴う苦行の一形態)の終わりに断食をやめ、私は直接ここに来ています。そのために私は弱り、やつれているのです。」

 ガーディがこれをバラモンから聞いた時、彼は驚きでいっぱいになりました。彼は思いました。「私の体験はこれと一致している。私は、それゆえ、自分自身でこの話の真実を見出しに行こう」。そこで、彼はアーシュラムを離れ、多くの王国を通り過ぎ、終にフナの国に到着しました。それは彼の幻とそっくりでした。正確な場所に、彼がとてもよく見覚えがあるもので囲まれた彼自身の小屋を見つけました。その時、彼はスヴァパチャとしての前世を全て思い出しました。

 信じられない様子で頭を振り、主の神秘について思い巡らし、彼はフナの国を離れ、ケーラ王国に着きました。そこで彼が見たのは、彼が生き、奇妙な体験を経た都市の中の場所でした。彼はまた、人々から同じ話を聞き、心の中で思いました。「この壮大な幻は主ヴィシュヌによって引き起こされている。私は今やその意義を理解した」。

 そのように熟慮し、ガーディはその王国を離れ、山々の洞窟に入りました。ヴィシュヌをなだめるための禁欲行に従事し、命を保つために日に数口の水のみを取りながら、彼はそこで一年半過ごしました。その期間の終わりに、ヴィシュヌが彼の前に現れ、言いました。「おお、バラモンの中の最上なる者よ!あなたは今や我が偉大なるマーヤーの性質を体験しました。その山々の真ん中で、どうしてあなたは再び禁欲行を修練しているのですか」。この言葉を耳にするとすぐに、ガーディは立ち上がり、主に水と花々を捧げました。全ての手足を地面につけ(つまり、転がりながら)、彼は恭しくヴィシュヌの周りをぐるりと回りました。その後、(雨を降らせるよう)雲に懇願するチャタカ鳥にごとく、彼はヴィシュヌに言いました。「主よ!あなたは私に計り知れないマーヤーの性質を示しましたが、私はその神秘を理解していません。どうして幻が現実になったのでしょうか」。

 ヴィシュヌは答えました。「おお、バラモンよ!全創造は心の内に現れ、何ものも外側として存在しません。夢や幻覚において、これは全ての人の体験です。その中に全世界が包含される心がスヴァパチャを映し出すならば、それは何か驚くに値するものですか。あなたの錯覚のために、あなたがスヴァパチャであるという考えをあなたが抱いたのとまさしく同様に、あなたの幻覚のために、来客がやって来たのを見ていたのです。同様に、『私は立ち上がり、行こう。私はフナ国に到着した。これはカタンジャが生活した家だ。私はケーラの都市に今着いた。私の幻覚の後でさえ、スヴァパチャの王の統治について私は知らされ、体験した』という考えを抱いたのです。あなたがスヴァパチャであるという考えがあなたの心にあった時、全てのフナの人々が偶然に同様の考えを彼らの心に抱いたのです。パルミラヤシの木の実の落下が、カラスが木に止まるのと同時に起こることのようです。心の方法は不可解なものです。カタンジャという名のフナ国のこのスヴァパチャは、全くの想像によって存在するようになりました。同様に、彼は、運命に強いられ、外国へ行き、ケーラの王となり、火の中に飛び込みました。その後で、あなたの心の中にある考えが生じ、その考えがあなたにカタンジャの体験を与えました。真の自らを知らない者は、『彼はこの人である、私はこの体である、それは私のものである』といった心の想像に夢中になっています。賢者は、『私は、顕現した万物の背後にある、ただ一つの現実である』と考えます。彼は、それゆえ、苦しみません。おお、バラモンよ!サンサーラと呼ばれる、このマーヤーが、終わりを迎えることは決してありません。自らの探求を通してのみ、それは終わりを迎えます。賢者は、対象物の間の相違という誤った概念を抱きません。それゆえに、彼は錯覚の影響に苦しみません。人が鋭く警戒し、賢明でなければ、心の錯覚に打ち勝つことはできません。心は、マーヤーという車輪のこしきです。それが静止しているなら、問題は全く起こりません。あなたは今や立ち上がり、山の空き地で10年間瞑想を続けなさい。その時、あなたは完全たる知恵を手に入れるでしょう。」

 そのようにガーディを祝福した後、ヴィシュヌは姿を消しました。その識別力を通じて、ガーディは完全な無執着を培いました。概念から完全に離れた心でもって、彼は完全な集中を10年間修練し、それによって自らの知を手に入れました。彼の本質を完全に理解し、一切の動揺と恐怖と悲嘆を免れ、彼は幸福を感じました。彼は一切の世俗の魅力あるものに完全に無関心になりました。彼は生きている間にさえ完全に解放されました。彼は絶対的安らぎの至高なる境地を達成しました。彼の心は満月のごとく完全になりました。

2016年5月21日土曜日

チャガンラル・V・ヨーギ - いかにして懐疑主義者は虎口に落ちたか

◇『The Call Divine(召命)』 Volume Ⅱ、Book 6、p318~323

虎の口の中で

シュリー・チャガンラル・V・ヨーギ著、ボンベイ

虎の口に落ちた獲物が決して逃れることを許されないのとまさしく同様に
グルの恩寵を得た彼は、疑いなく救われ、決して見捨てられることはない
-シュリー・ラマナ、『私は誰か』の中で

 シュリー・ラマナ・マハルシについて私が初めて耳にしたのは、私の人生の中で最も暗たんとした時期でした。当時、私は懐疑主義に向かって足早に進んでいるようでした。世界は私にとって、不正、残酷、貪欲、憎悪や他の邪悪に満ちているように見え、それらの存在は必然的に神への強い不信へと私を導きました。というのも、彼が真に存在していたのなら、何か邪悪なるものがかつて栄えることができたのでしょうか。暗い影のように疑惑に次ぐ疑惑が私を悩ませ、私の足跡をつけ回しました。結果として、私は、サードゥとサンニャーシに対して私が持っていたかもしれない、なけなしの敬意を失いました。気がつけば私は、ゆっくりとしかし確実に、宗教に興味がなくなっていきました。言葉そのものが、私の心の中では、世間の信じやすい人たちを欺くためのずる賢い策略の同意語になっていました。要するに、私は楽観主義と信仰を欠いた人生を送り始めました。私の心は荒れ狂う海の様相を呈しました。私の周り全ては灼熱の炎で燃え盛り、まさに私のはらわたを焼き尽くすようでした。

 ある日、いつものように電車に乗って事務所へ向かう間に、私は突然、ヨーロッパとアメリカで10年以上過ごしていた友人に偶然に出会いました。私はとても長い間彼に会っておらず、時々、彼はどこに姿を消したのか心の中で思いめぐらしたものでした。彼はシュリー・ラマナーシュラマムに行っていたのだと言い、マハルシのダルシャンの体験を私に説明しようとしながら、ポケットから小さな袋を取り出し、私に差し出しました。私はそれに何が入っているのだろうと思いました。彼はそれに極めて貴重なもの-アーシュラムからもたらされた灰、ヴィブーティが入っていると説明しました。彼は私がそれを受け取るよう強く要求しました。彼の親切な誘いは、少しも私の関心を引き起こしませんでした。一方で、それは私を面白がらせました。「失礼だけど、こういった類のものは全てインチキやペテンに過ぎないと思っています。だから、私がそれを拒んでも、あなたが私を誤解しないと信じています」。私の拒絶に対する彼の唯一の主張と私の理性に対するアピールは、ヴィブーティでなくとも、それを受け取らないことで、私が彼を侮辱したというものでした。私は、「では、もしそうであるなら、あなたを喜ばせるために、灰をひとつまみ取りましょう。私がそれでしたい気がするかもしれないことをするのをあなたが許すという条件で、ですが」と言いました。何の疑いもなく、彼は同意してうなづき、小袋を私に手渡しました。私が小袋からひとつまみ取り出すのを彼が見る間、微笑みが彼の唇に浮かびました。彼の微笑みは、シュリー・マハルシと彼の奇跡的な偉大さの熱心な詳細な説明の前触れでした。彼が伝道の熱狂に没頭している間に、私は密かに灰を客車の床に落としました。全く率直に言って、当時、私がはなはだ幼稚で不必要な講義だとみなしたものを友人が終えた時、ホッとしました。その最後に、「私はそれらのいわゆる聖者を全く軽蔑してます」と私は述べました。シュリー・ラマナ・マハルシは「いわゆる」聖者でなく、「本物の」賢者であり、世界中の優れた学識者から認められていると彼は私にどうしても印象づけたがり、私自身の利益のために、いくらかの書籍はとても簡単に手に入るからと、彼に関する本を読むことを勧めました。彼は私がそれによって第一歩を踏み出すかもしれない一冊の本-マドラス、サンデー・タイムズの故シュリー・カマス著の『Sri Maharshi』-を私にくれました。

 その本が私の中にマハルシへの関心を呼び起こしたことを私は認めざるを得ません。別の友人から、ほとんど間髪を入れずに『Self-Realization』(第二版)を一冊借りました。私がそれを意識することさえなく、私の関心は高まりました。何かが私に英語で手に入れられるマハルシに関する全ての著作をシュリー・ラマナーシュラマムに手紙で注文させました。私はそれをむさぼるように学び、私の人生観と世界観が微妙に変化し始めたことに気づきました。それでも、私の心の背後には、増しゆく輝きを汚す雲にも似た、重苦しい疑いが潜んでいました。私の古くからの懐疑主義は、私の心の中に植えつけられつつあるらしい、新たなる信仰にそうやすやすと場所を明け渡そうとはしませんでした。それはその信仰に戦いを挑みました。けれども、その信仰は明らかに生き残ることとなり、その後すぐに成長しました。私は心の中で論じました。とても多くの本が読むには素晴らしいが、その著者はたいがい同様に知るには素晴らしいわけではない。人々にとって彼ら自身が生きることができない真理を教えることは可能だ。では、どれほど素晴らしくても、本が何の役に立つのか。私はマハルシと文通しようと決心しました。私は数か月間文通し、それはますます頻度を増しました。私の手紙への返事は稀に見る迅速さで私のもとに届き、師の教えの息吹を放っていました。しかし、それらが彼によって生きられる日常生活の性質を私に垣間見せることはほとんどありませんでした。アーシュラマムを訪問し、自分自身で物事を見たいという説明しがたい願望が私を捕え始めました。

 その願望を満たすため、1938年のクリスマスに、私はシュリー・ラマナーシュラマムを訪問しました。それは私の最初の訪問であり、もちろん、最後の訪問ではありませんでした。アーシュラマムに到着した時、私はひどい失望を経験しました。なぜなら、何も私が期待していたように私の心を打たなかったからです。マハルシは、動きも話しもしない彫像と同じように静かに寝椅子の上に座っていました。彼の存在もまた、並外れたものを何ら発していないようでした。彼の態度全てが私に対していかに興味がないかに気づいた時、私はひどく悲しくなりました。私は温かみと親密さを期待していたのです。しかし、ああ、私は両方を欠いた誰かの前に立っているようでした。朝から晩まで、ボンベイからはるばるやって来た見知らぬ人である私の中に、彼の恩寵、彼の関心を垣間見ようと待ちながら座りました。しかし、彼は冷たく、心動かされないようでした。私の心はぽっかりと穴があき、私の胸は絶望のあまり張り裂けんばかりでした。以前よりいっそう懐疑的でかたくなになり、私はまさにその夜に去ろうと決めようとしていました。彼の面前では毎晩ヴェーダ・パーラーヤナが唱えられていて、それはアーシュラマムの日課の最も魅力的な項目の一つとみなされるものでしたが、私の耳には単調なものに聞こえました。悲しい別れの挨拶のように太陽は沈みゆき、暗闇がゆっくりと山と私の心に忍び寄りました。それは深まり、ついには我々の周り全てが大きな黒い染みとなりました。私はその雰囲気に耐えられませんでした。私の心は深い苦悩を経験していました。師の講堂は、空気の通りが悪く、息が詰まるようでした。私は外で新鮮な空気を吸うために、講堂から立ち去りました。

  ちょうどその時、少年-ゴーパランが彼の名前でした-が私のもとまでやって来て、私がどこから来たのかについて私に尋ねました。「ボンベイです」と私は言いました。そして、私が師に紹介されたのか、彼は尋ねました。私は「いいえ」と言いました。彼は驚きました。直ちに、彼は私を事務所に連れ行き、サルヴァーディカーリとシュリー・モウニスワーミーに私を紹介し、私と共に講堂に進み、そこで私をマハルシに紹介しました。マハルシが私の名前を耳にした時、彼の目はまっすぐに私の目をのぞき込み、星々のように瞬(またた)きました。恩寵で輝く微笑みをもって、彼は私がグジャラート人であるか私に尋ねました。そうですと私は言いました。即座に、彼は「Upadesa Sar」のシュリー・キショールラル・マシュルワラによる翻訳を一冊取りに行かせました。その数冊がちょうどその時、到着したばかりでした。それから、彼は私にその本からのグジャラート語の詩節を歌うように頼みました。「私は歌手ではありません」と言い、一瞬、私は躊躇しました。私は躊躇を乗り越え、本から詩節を歌い始めました。その15詩節を歌うか歌わないうちに、夕食の鐘が鳴りました。私が歌っている間、私はシュリー・バガヴァーンが私を鋭く注視しているのを感じることができました。彼の目の光は、私がそれに気づくことさえなく、いわば、私の意識を満たし、私の上に微妙ではあるがはっきりとした変容をもたらしました。しばらく前に重苦しく耐えがたく思えた暗闇は、徐々に光りがさし、幸福感に溶け込みました。私のかつての悲しみは完全に消え去り、私の心に説明のつかない歓喜の感情を残しました。私の四肢は、自由の大海の潮流の中で洗われたようでした。

 私は夕食時にシュリー・バガヴァーンのそばに座り、食べる間、その一口一口が並外れたこの世のものとは思われない味をしているようでした。これは実際の体験でしたが、朝の軽食や正午の昼食の間には、それを垣間見ることさえありませんでした。文字通り、私は、神の直接の面前において、天上の食事を取っているように感じました。その夜にアーシュラムを離れるという思いは、消え去りました。すでに始まっていた神聖な並外れた体験-精神的解放の感覚の明白な実感へ通じる神聖な恩寵の体験-を広げるために、私はもう三日長く滞在しました。

 私が神聖なる師のそばで三日間滞在する間、真の洞察の目を縛る鎖のようでさえある先入観と偏見に束縛された昔の自分を思い出すことができない程度にさえ、私の見方全体が完全に変わったことに気づきました。私の心は、その本質的性格を以前のそれからいくらか異こと)にしさえするほどの素早い変化を経験しました。私にとって世界の色そのものが変わり、日の光はこの世のものとは思えない様相を呈しました。私はそのまなざしを人生と世界の暗い側面にのみ向けることの愚かさと無益さに気づき始めました。

 神聖なる魔術師は、輝きと希望と喜びの未知なる新世界を私の前に広げました。地上に彼が存在するという事実そのものが、その頑固な無知のために苦しみ傷を負っている人類にとって十分な証しであり、約束でした。その時初めて私は理解しました-ダルシャン、目にすることの意義を。

 アーシュラマムの来客用寝室のベッドに横になっている間、閉じたまぶたの背後に、私が事務所へ行き帰りするボンベイの電車の全光景が現れました。私が友人と出会った、当時、私があざ笑い、私の残りの人生の間、祈り続けることになった聖なる者について彼から初めて耳にした、あの重要な機会が。鉄道客車の床上に極めて神聖なヴィブーティ-プラサードを軽蔑して落とすように駆り立てた盲目的なふてぶてしさを私は思い出しました。今日では、そのようなプラサードのひとかけらでさえ、私にとって全世界を意味します。師から受け取ったプラサードは、どんな地上の富も買えはしない恩寵の形です。人はそれをまぶたまで持ち上げ、それで額に筋をつけるのに値しないとさえ感じます。

 おお、師よ、何という変容の奇跡なのですか。私があなたに出会えるまでに、どうして人生の半分を要したのですか。しくじりに次ぐしくじりの半生!しかし、私は思うのですが、我が師よ、それは年、月、日、瞬間で計られる時間という心の概念でしかありません。あなたにとって、あなたのバクタは、時代を通じて、あなたと共に、あなたの近くに、あなたの側にいつもいます。

 これらの思いは次第に私を深い眠りに入らせ、翌朝、私は四肢に新たな活力を満たし、心に新たな光を満たし、眠りから目覚めました。三日目、沈んだ心で私はシュリー・バガヴァーンに別れを告げました。いまだ人間であるため、時間と空間の感覚に捕えられ、距離と別離は自然と心に虚無感と痛みを与えました。しかし、私に関する限り、私が想像しうるよりさえ早く師の足下に戻ることになると何かが私に請け負いました。私の直感は、ほぼ正しいよりもはるか上でした。というのも、翌年、訪問に次ぐ訪問が、奇跡的かつ容易に師によって手配されたようでした。折に触れ身体的に師の近くにいる必要性を彼は私の中に気づいていました。訪問を重ねるたびに、私の中の光は深まり、私の活力は強まり、増しゆく歓びに向けて私の意識をかき立てました。

 師が彼の子供たちに働きかける、名状しがたい意識下の方法は、驚くべきものです。彼の導きを必要とする時に、彼の手、私に差し出された力強い彼の手をはっきりと見た回数は、数知れません。これについては、将来いつか記すつもりです。

 「かくして、私は、虎口に捕われたのだ!」

2016年5月13日金曜日

プラフラーダの物語② - ヴィシュヌの信奉者になったアシュラの王

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月、p101~103

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅳ


プラフラーダの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

 プラフラーダは続けました。「私の不可分の自らに敬礼を!おお、一切世界を照らす宝石よ!やっとのことで、私はあなたを得た。私はあなたについて注意深く考えた。私はあなたを明確に理解した。あなたは明確にあなた自身を顕した。あなたは私によって達された。いつもあったごとく、あなたは(今も)ある。あなたに敬礼を!吉祥たる至高なる自ら、主の中の主たる、あなたと異ならない私に敬礼を!雲が立ち去った満月のごとく、それを隠したものを取り除くや否やその真の姿を再び帯びた、私の自らに私は敬礼する。それは純粋なる至福として住し、独りで立ち、己の支配下に留まる。それは座しているように見えるかもしれないが、実際には座っていない。それは行くように見えるかもしれないが、実際には行かない。それは不活発なように見えるかもしれないが、活動的である。それが行う時でさえ、それは影響されない。風が木の葉を揺り動かすように、それは心を活動的にする。二輪戦車を駆る者がその馬を導くのとまさしく同様に、それは五感を導く。人は自らのみを探求し、それのみを思い、それのみを称賛すべきである。そうすれば、人は誕生と死なる錯覚を超え行き、自由になることができる。蓮華の上の蜂のごとく、それはハートの蓮華の中に明確に見られうる(つまり、体験されうる)。親しい身内のごとく、それに自由に近づくことができる。私はもはや感覚的快楽への何らの欲望も持たない。しかし、私は意図的にそれを断ったりもしない。何が去来しようとも、私は気にかけない。今まで、私は私の敵、独りいる私を悩ませていた無知によって識別力を奪われていた。私は心を心によって切り倒し、自我意識から自由になった。私は真の知の助けによって一切の誤った概念を取り除いた。私は今や私の真の境地に住する。私の体は、概念、自我意識、心、欲望を欠く、純粋かつ不変なる自らの内に存在する。縛りつけていた欲望なる紐を引きちぎり、自我なる鳥は私の体なる鳥かごから飛び去った。私はそれがどこへ行ったのか知らない。人がのぼせ上がらないなら、女性の美が盲目の人にとって存在しないのとまさしく同様に、その貴重な所有物は存在していないも同然である。

 「万歳!恐ろしい容貌をした、あなたよ!万歳!平和を愛する者である、あなたよ!万歳!一切の聖典を超える、あなたよ!万歳!一切の聖典の基礎となる、あなたよ!万歳!傷ついている、あなたよ!万歳!傷ついていない、あなたよ!万歳!存在する、あなたよ!万歳!存在しない、あなたよ!万歳!征服されうる、あなたよ!万歳!征服しえない、あなたよ!」

 プラフラーダ、敵の殺害者は、その後、無概念かつ至福に満ちた境地に入りました。五千年間、絵画の中の人物のごとく動きなく、彼はサマーディに留まりました。彼の王国は混乱に陥りました。魚類の掟(つまり、弱肉強食)がはびこりました。その時、乳海の中で蛇シェーシャによって形作られた寝椅子に横たわり、三世界なる蓮華にとって太陽のごとくあり、全世界の秩序を保つという務めを持つ、ヴィシュヌは思いました。「プラフラーダは自らに没頭している。パーターラの王国には統治者がいなくなった。もはやアシュラがいないため、創造は完全ではなくなる。アシュラがいなくなれば、デーヴァには誰をも征服する機会がない。彼らは平和を愛する者となり、解放を達成する。彼らが解放を達成する時、供儀のごとき宗教儀式や苦行は無意味になり、じきに終わりを迎える。それらが終わりを迎える時、世界は終わりを迎え、サンサーラの問題はもはや存在しなくなる。その時、太陽、月、星々を欠くこの世界において、私は静寂の境地を達成し、その境地に留まる。このように世界が時ならず終わりを迎えるのは、よろしくない。それゆえに、アシュラを繁栄させよう。彼らが繁栄する時、デーヴァは活動的になる。その時、供儀や苦行、サンサーラも再び働き始める。プラフラーダは現カルパの終焉まで、彼の体に留まるべきである。これが我が節理である。」

 こう決心して、至高なる主は乳海を離れ、プラフラーダの都市へやって来て、彼の宮殿に入りました。彼のそばでチャマラ(ハエ払い)を振るラクシュミーと共に、彼はガルーダの上に乗っていました。彼には武装した付添人と彼を称賛する神々しい賢者たちが同伴していました。彼はプラフラーダに「おお、偉大なる魂よ!目覚めよ」と言い、とても大きな音でほら貝を吹いたので、その地域には音が響き渡りました。ヴィシュヌの生命の息によって作り出された音を耳にするとすぐに、プラフラーダはゆっくりと目覚めました。彼の生命力はブラフマランドラ*1から生じ、ゆっくりと体の全てのナーディに行き渡りました。それが入口を通って五感に入った時、彼の心は内なる生命力の鏡に映し出され、知覚対象物に向けられました。鏡に映った顔がもう一つの顔のように見えるのとまさしく同様に、知覚対象物に向けられた心は対象物の形を帯びました。心が生じ始めた時、青蓮華のごとき眼もまた開き始めました。プラーナとアパーナの作用により、意識が入口を通り、ナーディ中に行き渡った時、風の中の蓮華ごとく、ナーディが活動し始めました。瞬間に、心が活動的になり、眼が開き、体が機能し始めました。

 プラフラーダの目が開き、彼の心が活動的になった時、雨雲が孔雀に語りかけるように(つまり、雷によって)、ヴィシュヌは彼に語りかけました。彼は言いました。「おお、偉大なる魂よ!あなたの偉大さとあなたの体を思い出しなさい。どうして適切な時節の前に、このようにそれを捨て去るのか。あなたはどのようなものにも受容や拒絶の概念をもはや持たない。では、どうしてあなたが体への好悪によって影響されているのか。サマーディから立ち上がり、現カルパの終わりまでこの体と共に留まりなさい。解放された魂のごとく、あなたの王国で煩わされることなく生きなさい。おお、善良なる魂よ!12の太陽は登っておらず、山々は地に沈んでおらず、世界は大火の中にない!*2では、どうして体を捨て去ることをを望むのか。死が歓迎されるのは、『私はやせ衰えた、私は惨めだ、私は愚かだ』と思う者にとってのみである。欲望の紐によってあちらこちらに引っ張られる心を持つ者にとって、それは魅力的になる。その心が何物によっても煩わされず、全生命に等しくある、自我意識を持たない彼は、栄光に満ちた人生を送る。愛憎を免れ、世界を見物人のごとく眺める、穏やかな彼は、栄光に満ちた人生を送る。何物も受容せず、拒絶せず、その心がそれ自体の内に安定している、自らの本質を知った彼は、栄光に満ちた人生を送る。知覚者と知覚されるものという一切の概念の終焉を伴う、心の安らぎが、解放(モークシャ)と呼ばれている。それゆえに、おお、アシュラ族の王よ、立ちて、あなたの玉座に登れ。私自らあなたに冠をかぶせよう。ここに集いしシッダ、サーディヤ、デーヴァたちにあなたを祝福させよう」

 そのように言い、ヴィシュヌは、乳海などやガンジス川のような川から持ってきた聖水によって、プラフラーダに清らかな沐浴をさせました。デーヴァとアシュラの喝采の真中でプラフラーダに冠をかぶせた後、ヴィシュヌは彼に言いました。「おお、罪なき者よ。大地、メール山、太陽、月が存続する限り、王として君臨せよ。あなたの美徳は皆によって称賛されるであろう」。そのように述べ、蓮華の目をした神は、彼に同伴していたデーヴァ、キンナラ、人間と共に、もう一人のシヴァごとく姿を消しました。

ラーマはヴァーシシュタに尋ねた:
 どのようにヴィシュヌのほら貝の音が、その心が至高なる存在に変容していた高貴なプラフラーダを目覚めさせたのですか。

ヴァーシシュタは答えた:
 生きている内にさえ解放された者たちの純粋な傾向は、芽吹かない煎られた種のごとくに彼らのハートの中に住しています。それは純粋なサットヴァ(知)の産物であり、自らのみに属しているため、それは純粋であり、至福に満ちています。彼らが深い眠りの中にいるのとまさしく同様に、それは解放された人々の中に留まっています。千年の隔たりの後でさえ、体が存在するならば、それは活動的になり、成長します。

原注
*1 頭頂にある開口部。それを通じて、魂が体を離れる時、抜け出ると言われている。
*2 これらの出来事は、世界が終わりを迎える時に起こることになっている。

2016年5月10日火曜日

プラフラーダの物語① - ヴィシュヌの信奉者になったアシュラの王

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年1月、p29~30

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅳ


プラフラーダの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラーマ!知恵を獲得し、解放を達成するために、アシュラの王、プラフラーダによって採られた方法を私は説きましょう。デーヴァの敵、ヒランヤカシプ(彼の父)が、(主ヴィシュヌ)によって殺害された時、プラフラーダはとても悲しくなりました。彼は思いました。「世界に終わりが訪れる時に嵐によって破壊されつつあるクーラの山々のように、我が父とアシュラの首長らは皆、ヴィシュヌによって滅し尽くされた。ヴィシュヌは我が先祖と多くの戦を交えた。彼は決して戦から身を引いたことがない。今や、彼が私を恐れるのか。ただ彼に委ねることによって、心の底から彼に完全な寄る辺を求めることによってのみ、私は彼を征服できる。彼は私の唯一の寄る辺である。この時より、私は彼を寄る辺としよう。実際、私はすでにヴィシュヌになっている。オーム・ナモー・ナーラーヤナーヤ(ナーラーヤナ、つまり、ヴィシュヌに礼拝いたします)というマントラは、我々皆の望みを満たす。大気が空中で震えるのとまさしく同様に、それは私のハートの中で震えることを決して止めない。ヴィシュヌでない者は、ヴィシュヌの形式的な崇拝によって、真の崇拝の結果を得ない。人はヴィシュヌになる後に、ヴィシュヌを崇拝すべきである。私は今やヴィシュヌとなった」。

 そのように、プラフラーダは彼の体をヴィシュヌの体であると想像し、彼を崇拝する適した方法について考えました。彼は心の中で思いました。「至高なる存在、ヴィシュヌは、出入りする息の形で、この体の外に存在している。然るべき儀式によって、私はこの息を心の中で崇拝しよう」。それに応じて、宝石がはめ込まれた器、サンダルペーストや他の香り、香料、灯、様々な類の装飾のような神聖な全ての道具一式が彼の前にあると想像し、プラフラーダは心の中で崇拝しました。次に、彼は崇拝に必要とされる実際の用具を含む寺院の中で(宮殿内で)ヴィシュヌを崇拝しました。そのように、彼は毎日、至高なる主を献身的に崇拝しました。彼の例にならい、彼の臣民、アシュラたちもまたヴィシュヌを崇拝し始めました。

 アシュラたちがもはやヴィシュヌに憎しみを抱いておらず、彼の信奉者になったという知らせが、天空の住まいに届きました。インドラ、デーヴァたち、マルト神群、皆が危惧しました。すぐさま彼らは乳海の上の蛇にもたれかかるヴィシュヌのもとへ行きました。彼らは祈りました。「バガヴァーン!いつもあなたに敵対していたアシュラたちが今やあなたの信奉者になったのは、一体どういうことですか。邪悪で、無情なアシュラたちが、最後の生においてのみ生じ、培われる、あなたへの献身と何の関わりがあるのですか。悪人が善人に変わる時、世界にとって悲しみと苦悩に終わると言われています。それは季節外れに咲く花々のようです」。

 これに対して、ヴィシュヌは言いました。「おお、デーヴァたちよ!プラフラーダの私への献身についてうろたえないように。これは彼の最後の生まれです。彼は今や解放に適しています。善人が善人でなくなる時、それは危険の徴です。しかし、悪人が善人に変わる時、それは良い徴です。デーヴァたちよ!あなたがたの住まいに戻りなさい。プラフラーダの善性は、誰にとっても害となりません」。こう述べて、タマラ花をつけた大きな枝のように、主は海の波間に消え去りました。

 しかるべく彼を称賛した後、デーヴァたちは天界に戻りました。彼はプラフラーダの友となり、彼をヴィシュヌの信奉者と見なしました。

 その間、プラフラーダはヴィシュヌの崇拝に夢中でした。彼は感覚的楽しみへの欲望を抱いていませんでしたが、安らぎを得られませんでした。彼の心は揺れ動き、不安定でした。ヴィシュヌはこれをその全知によって知り、彼の従者と共にパーターラ(の世界)にあるプラフラーダの寺院に行きました。主が実際に彼のもとへやって来たのをプラフラーダが見た時、彼は非常に喜び、より一層の献身を持って彼を崇拝しました。大変な熱意と意義を備えた言葉で持って、彼は前に立つ主を称賛しました。

 彼の称賛の言葉を耳にするとすぐに、ヴィシュヌは雨雲を目にした孔雀のごとく満足しました。彼はプラフラーダに言いました。「おお、アシュラ族の宝石、彼らの宝物庫よ!あなたの誕生と死に終焉をもたらす恩恵を求めなさい」。プラフラーダは答えました。「主よ、あなたは我々の一切の欲望を満たす者です。あなたは永遠に遍在しています。あなたが思う、私にとって最良なる恩恵を私に授けたまえ」。これに対してヴィシュヌは言いました。「おお、罪なき魂よ!ブラフマンを達成し、それに留まるまで、自らの探求を修練しなさい。あなたの迷妄は終わりを迎え、あなたは最高の善を達成します」。このように言い、ヴィシュヌは静かに姿を消しました。プラフラーダは送別の花を捧げ、蓮華座で床に座りました。適切な讃歌を唱えた後、彼は次のように熟慮しました。「ヴィシュヌによって定められたように、私は自らの探求を修練しよう。この広大な世界の中で、話し、歩き、立ち、進み、働く、私とは誰か。私は樹木、草木、草地を伴う、この大地ではない。外側にあるものは、全く意識がない。どうして私がそれでありうるのか。生まれる前、この体は独力で存在しなかった。それは生命の流れ(プラーナ)によって命を吹き込まれている。それはじきに存在しなくなる。私がこの意識のない体であるはずがない。

 また、私は、形を持たず、永続性を持たない音でもない。私は、意識のおかげで存在する、永続的でなく、意識のない触覚でもない。また、私は、対象物に依存して存在する、変わりやすく、意識のない味覚でもない。形に関して言えば、それは視覚と意識のない知覚対象物との接触に依存している。それは独力で存在せず、それゆえ、私は意識のない形でない。また、私は、断続的に経験される、意識のない嗅覚でもない。

 『これは私のものである』のような、一切の心の概念もまた私は欠く。私は、変わりやすい五感と異なる、一切の対象性のマーヤーを免れた、純粋なる意識である。純粋なる光輝として、私は万物の内に外に行き渡る。私は、汚れなく、不可分の純粋なる実在である。ああ!私自身が全世界であることを今や私は確かに知っている。私は、あらゆる概念を欠く、全てに行き渡る自ら、光り輝く意識である。太陽から壺や衣服のごとき些細なものにいたるまで、万物は私によって、私のみによって照らされている。私はブラフマーの住まいすらも超え、未来永劫も存在し続ける。私は今もこれからも永遠に広大無辺である。自らは、『私』なる概念を超えている。その(概念)は私を有限に見せるが、私は無限である。私は今や完全な平静として打ち立てられている。私は万物をとても喜ばしく見ている。私は純粋なる意識である。

 私は、完全に概念を欠く、全生命の内なる意識、私自身に敬礼する。(世界の創造のごとき)全ての素晴らしき偉業は、私によって、絶対的に純粋で、汚れなき、不可分かつ不変の、この至高なる意識によって行われている。過去、現在、未来を思い煩わない、一切の概念を欠き、相違を見ない、その心は、完全なものである。そのような心を描写したり、定義することは不可能である。自らなる現実を理解しない人々には、それは虚無のように見えるかもしれない。愛憎という垢により汚された心は、決して自由になれない。それはその足が紐につながれた鳥のごとくである。愛憎なる対になる両極によって惑わされ、全生命は、暗く不潔な穴の中を這う、惨めな芋虫のごとくである。
(続く)