2016年1月20日水曜日

R. O. アミヌ - 若くしてコーランの暗唱を達成したナイジェリア人イスラム教徒

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年10月 p226~227


どのようにして私はバガヴァーンのもとへ行ったのか

R. O. アミヌ著

 私は52年前に生まれたイスラム教徒であり、私の生まれついた信仰の熱心な信者として両親は私を育てました。このことは、神の恩寵により、15歳までにコーランの暗唱をやり遂げるという私の能力によって表わされました。コーランを終える当時の標準的な年齢は25から30歳の間でしたから、これは当時でさえ稀なことでした。

  後の人生において、中等教育の後、「あなたたちはこれこれ規則を守らならければならない。そうでなければ、死後、あなたたちは地獄送りになり、そこで体は火に焼き尽くされる」と我々に話す、イスラム教の指導者たちの主張について深く考えるようになりました。マッラム(*1)たちのこれらの発言により、私は彼らの説教の真実性について幻滅し、私がコーラン全てをそらで唱えることができたにもかかわらず、その意味を理解していなかったという事実によって、これはさらに悪化しました。実際、当時、ヨルバ語(*2)や英語へのコーランの翻訳は存在しませんでした。ナイジェリアの数百万もの人々はイスラム教徒ですが、アラビア語を理解する人は10パーセントを下回ります。これは盲目的信仰と名付けられるであろうものですが、その効き目はあります。

 シュリー・マハルシの恩寵により、私は光栄にも1959年に一冊の本に出会いました。それはヨーギ・ラーマチャラカ(*3)によって記され、『Fourteen Lessons of Yoga』という題名でした。これらの教えの内容-特に、植物と動物と人間が一つの「生命の力」、または、神を所有しているという理解-は、私の心に甚大な影響を与えました。その時以来、私は様々なヨーガの本を読み始めました。それから、私は伝統的な宗教、イスラム教徒、キリスト教徒、ヒンドゥー教徒のそれが、同一の真理を教えていると知り始めました。それは、神の王国が彼らの内にあり、空高い雲の中になく、我々は我々自身の罪、もしくは、カルマによって罰され、神によってでは全くないということです。

 しかしながら、生命についてさらに知りたいという私の望みによって、私は1964年にThe Infinite Wayの生徒になり、ジョエル・ゴールドスミス(*4)の教えを学びました。『Contemplative Life』という本を通して、私はThe Infinite Wayに惹きつけられました。月報の定期購読と継続的な瞑想によって、我々全てが探し求めている真理が我々自身の意識の内にあるということを初めて私は理解しました。
 
 1964年、The Infinite Wayの月報の中で私は「The Mountain Path」について読み、即座に私は終身購読者になり、その時以来、1964年の初期の冊子を含め、定期的に「The Mountain Path」を受け取っています。

 私がその中で読む記事はとても啓発的ではありましたが、バガヴァーンの教えと「私は誰か」という探求の方法に従うことはとても困難であると感じました。1965年、私はA.オズボーン氏の著書、『The Teaching of Ramana Maharshi in His Own Words』(*5)を注文し、彼の教えに従うためにそれを学び、私がその主旨を理解したいと望んだ分だけは知りましたが、依然、私はThe Infinite Wayの方法を好んでいました。

 私は定期的な瞑想を続け、「私と私の父(なる神)は一つである、私が立つ地は聖なる地である、父(なる神)が持つもの全ては私のものである」と唱えることによって、The Infinite Wayの師が教えるようにマントラを使うことにより内なる声に耳を傾けました。この期間中に、私は人生に対する私の態度に改善を認めました。これは私を喜ばせましたが、目覚めと深い眠りの間に私が全身に奇妙な震える感覚を感じ、「いかなる力によってでもなく、私の恩寵によって」と私に告げるはっきりした声を聞いた四年後まで、私はその小さな声を聴きそこなっていました。この状態はとても奇妙であり、意気揚々とさせるものでした。私が起き上がった時、大きな重荷が私から取り除かれているように感じ、数日間、私はとても幸福で満ち足りた気分でいました。そのような体験をさらに持てれば良かったのですが、不運にも、The Infinite Wayの方法による定期的な瞑想にもかかわらず、再び起こることはありませんでした。

  2年ほど前、スワーミー・チンマヤーナンダ(*6)がインドから私の町、ナイジェリアのラゴスを訪問し、『バガヴァッド・ギーター』の第12章と13章についての2週間の講習を行い、それに私の妻と私自身も参加し、楽しみました。その講習の終わりに、彼は我々に別の瞑想法を教え、以前のThe Infinite Wayの方法にかわり、私はそれを使い始めました。

 昨年、私は休みを取り、研究休暇のためにイギリスに旅行しました。それは2か月ほどで、その間、毎日のジャパにもかかわらず、私は落ち着きのなさと不満足を経験しました。実際、私は夜にほとんど眠れませんでした。不幸にも、私が休暇から家に戻る前に、10年前に治った病気がぶり返しました。つまるところ、自分の精神的進歩について私は不満足を感じ、幻滅しはじめ、何か他の教えに頼ることに決めました。ある日、突然、私はアーサー・オズボーンの『The Teaching of Ramana Maharshi in His Own Words』を再び読みたいという衝動に駆られ、それを注意深く読み直しました。驚いたことに、その時、私は悟りました-私がずっと探し求めていた教えはこれだと。私は一週間の内にその本を隅々まで読み、メモを取り、瞑想において「自らの探求」の方法を修練し始めました。

 数か月後、正確には4か月ほど前、私はバガヴァーンを夢で見ました。私は彼の前に座り、今や彼の教えに従う準備はできているか私に尋ね、私は(間違いないと)確かめました。その夢は短いものでしたが、目覚めた時、終にバガヴァーンに手ほどきされ、受け入れられたことを私はとてもうれしく感じました。

 過去数年間、The Infinite Wayの生徒だった私の妻もまた、突然、バガヴァーンの教えに魅かれました。我々は今や二人ともが「The Mountain Path」の過去の冊子全てを通読しつつあり、その記事と読者からの「編者への手紙」が我々の心の中の質問や疑問のいくつかを晴らしていることに気づきます。また、我々は「どのようにして私はマハルシのもとへ行ったのか」という記事がとても啓発的であることに気づきます。

 上に述べられた私の体験が私にはっきり示すことは、最上であるマハルシの教えを信奉者の魂が心から受け入れるほど十分に成熟するまで、マハルシがその信奉者をゆっくり導くということです。どうぞシュリー・バガヴァーンの恩寵が我々を導き続けますように。

 我々が互いに連絡を取り合い、そして、可能であれば、会って、ジャヤンティを地元で祝うために、私の国、ナイジェリアや西アフリカの他の国々に「The Mountain Path」の定期購読者やバガヴァーンの信奉者がいるのかどうか知りたいと私は思っています。

(*1)マッラム・・・mallam、アフリカのイスラム学者に与えられる敬称。
(*2)ヨルバ語・・・西アフリカのナイジェリア、ペナン、トーゴのヨルバ人によって話される言語。
(*3)本名ウィリアム・ウォーカー・アトキンソン(1862-1932)、アメリカ人、セロン・Q・デュモンなど他にも様々なペンネームがある。
(*4)ジョエル・ソロモン・ゴールドスミス(1892-1964)、アメリカ人、The Infinite Way運動の創始者。
(*5)『The Teaching of Ramana Maharshi in His Own Words』→pdf
(*6)Swami Chinmayanada Saraswati(1916-1993)、アドヴァイタ・ヴェーダーンタ系の人で、1965年に日本を訪れているようです。

2016年1月16日土曜日

真の沈黙、ラマナ・ダクシナームールティの沈黙の声は録音しえない

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年4月 p71

兄への手紙-2
真の沈黙

ナーガンマ著

 今日の午後3時、私はバガヴァーンの周りの信奉者の集まりに加わりました。彼がシュリー・シャンカラの「ダクシナームールティ・アシュタカム」について以前に話していたことに話は戻り、バガヴァーンは言いました。「シャンカラはダクシナームールティを称賛しようと思い立ちましたが、どうしてモウナを称賛できるでしょうか。それで、彼はスリシュティ(創造)、スティティ(維持)、ラヤ(消滅)を描き、その三つ全ての化身(体現者)であるダクシナームールティに敬礼しました。一体、他のどのような方法で沈黙が称賛できたでしょうか」。

 会話の穂を継いで、ある信奉者が言いました。「何年も前、あるシヴァラートリの日に、バガヴァーンの周りに全ての信奉者が集まって、座り、『今日、バガヴァーンは我々にダクシナームールティ・アシュタカムの意味を説明すべきです』と言ったとダンダパーニ・スワーミーは我々に言いました。しかしながら、バガヴァーンは微笑みながらも、話さずに、長い間沈黙して座りました。その後、バガヴァーンがその継続する沈黙によって、沈黙こそが詩節の真意であると自分たちに理解させたのだと感じながら、彼らは立ち去りました。そうでしょうか」。

 バガヴァーンはそうであると承認しました。その後、私は加えて言いました。「では、それはバガヴァーンが沈黙の注釈を与えたということでしょうか」。そして、バガヴァーンはこれもまた承認しました。

 他の誰かが、「では、真の沈黙とは、自らに住まうことを意味しますね」と言いました。

 バガヴァーン:「ええ、もちろんです。自らがなければ、どうしてそれが沈黙になりえますか。」

 信奉者:「まさしくそれが私の尋ねていることです。自らに住まうことなく、ただ会話を控えることは、沈黙なのでしょうか。」

 バガヴァーン:「どうしてそんなことがありえますか。沈黙を守ることについて話しながら、その間中、紙切れや石板にメッセージを書き続けている人たちもいます。その心の活動は全く同じではありませんか。」

 別の信奉者が、「では、単に会話を控えることには何の益もないのですか」と割って入りました。

 バガヴァーン:「外の世界の障害物を避けるために、人は会話を控えるかもしれませんが、彼はそれが目的そのものであると思うべきではありません。真の沈黙とは、実際、終わりなき会話です。それを得るというようなことはありません。なぜなら、それはいつもそこにあるからです。あなたがしなければならない全ては、それを覆い隠す世俗的な関心事を取り除くことです。それを得ることは断じてありません。」

 その間に、ある放送協会がバガヴァーンの声を録音しようと考えているという知らせが来ました。笑いながら、バガヴァーンは言いました。「おや、そうですか。でも、私の声は沈黙ではありませんか。彼らはどうして沈黙を録音できるでしょうか。在るそれが、沈黙です。誰がそれを録音できるというのでしょうか」。

 信奉者たちは黙って座り、目を見合わせ、講堂は完全な静寂になりました。ダクシナームールティの化身であるバガヴァーンは、モウナ‐ムドラー、沈黙の姿勢で座り、南を向きました。その生き生きとした聖像、彼の体は、アートマの光で輝いていました-今日は何とも良い一日でした!

2016年1月14日木曜日

タパスに最適な聖地、家(心)の中のがらくた(ヴァーサナー)を一掃せよ

◇「山の道(Mountain Path)」、1964年1月 p21~22

兄への手紙-1

あなたがいるところに留まりなさい

ナーガンマ著
ナーガンマは、バガヴァーンの存命時にここで生活していたアーンドラの女性です。彼女の兄もまた優れた信奉者でしたが、マドラスの銀行の支店長であったため、時折ここに訪問することしかできませんでした。そのため、バガヴァーンの言動の報告を彼に書き送ることがナーガンマの習慣になりました。それらの手紙のいくらかは本としてまとめられ、アーシュラムから出版されていますが、以下のものはまだ英語で出版されていないものです。
1947年9月10日

 今朝の10時15分前、バガヴァーンが午前半ばのいつもの短い散歩に出かけようと立ち上がろうとしたちょうどその時に、アーンドラの若者が寝いすに近づき、言いました。「スワーミー、私がここにやって来たのは、タパスを行いたいと思い、そのための良い場所はどこなのか知らないからです。その目的のために、あなたが私に言うところどこにでも私は行きます」。

 バガヴァーンは答えませんでした。彼は前かがみになりながら、足と膝をこすりました。それは足と膝のリューマチのために、散歩を始める前に彼がしばしばすることでした。彼は静かに一人微笑んでいました。我々は、もちろん、彼は何を言うのだろうかと心待ちにしていました。少しして、彼は散歩の時に体を支えるために使う杖を手に取り、若者を見て、言いました。「どこに留まるべきかどうしてあなたに言えるでしょうか。あなたがいるところに留まることが最良です」。そして、微笑みながら彼は外に出ました。

 若者は困惑しました。「これはどういう意味ですか」と彼は声を上げました。「年長者であるため、私が留まることのできるどこかの聖地を彼が教えてくれると思っていましたが、そうするどころか、彼は私がいるところに留まるよう私に言いました。私は今、この寝いすのそばにいます。それは私がここに留まるべきだということですか。私が彼に近づいたのは、そのような返答を受け取るためでしたか。これは冗談か何かですか」。

 信奉者の一人が彼を講堂から連れ出し、説明しました。「バガヴァーンが軽い調子で何か言うときでさえ、その中にはいつも何か深い意味があります。『私』という実感が生じるところが、人の自らです。タパスとは、自らがどこにあるか知り、そこに留まるという意味です。そのために、人は自分が誰か知らなければなりません。それでは、人がどこに留まるかが問題になりますか。それが彼が意図したことです」。彼はそうして若者をなだめ、彼を追い払いました。

 同じように、ある人が昨日、尋ねました。「スワーミー、どうすれば我々はアートマを見つけられますか」。

 「あなたはアートマの中にいます。ですから、それを見つけることにどうして困難があるでしょうか」とバガヴァーンは返答しました。

 「あなたは私がアートマの中にいると言いますが、アートマは一体どこにあるのですか」と質問者は食い下がりました。

 「あなたがハートの中に留まり、辛抱強く探すなら、あなたはそれを見つけます。」

 質問者はまだ満足していないようで、彼のハートの中には彼が留まるための空き場所がないという、ずいぶん興味深い異議を唱えました。

 バガヴァーンはそこに座っている信奉者の一人のほうを向き、微笑みながら言いました。「彼がアートマがどこにあるのかどれほど心配しているのか御覧なさい。彼に何が言えるでしょうか。アートマとは何ですか。それは全てに行き渡っています。それは『ハート』と呼ばれていると私が彼に言うと、その中には自分が留まるための空き場所がないと彼は言います。私に何ができるでしょうか。ハートをヴァーサナーでいっぱいに満たした後、ハートの中に空き場所がないと言うことは、セイロン島ほども大きな家の中に座るための空き場所がないと不平を言うことのようです。全てのがらくたが投げ捨てられるなら、空き場所はありませんか。体そのものが、がらくたです。この人たちは、家の全ての部屋をその体に必要のないがらくたできっしり満たし、その後で家の中に体のための空き場所がないと不平を言う人たちのようです。同じように、彼らは心をあらゆる類のヴァーサナーで満たし、その後、その中に自らのための空き場所がないと言います。あらゆるヴァーサナーが一掃され、投げ捨てられるなら、十分な空き場所があり、それは全てアートマとなります。その時、分離した『私』というようなものは存在しません。それでは、空き場所がどうして必要ですか。誰がその空き場所を占拠するのでしょうか。目を閉じて、太陽がないと言うのとまさしく同様に、自らを探求をせずに、彼らは『空き場所がない、空き場所がない!』と言います。私に何ができるでしょうか」。

2016年1月12日火曜日

バガヴァーン・ラマナ選出、ヴィヴェーカチューダーマニからの10詩節 

◇「山の道(Mountain Path)」、1973年4月 p99、100

ヴィヴェーカチューダーマニ

知恵の至宝
バガヴァーンはかつて、シュリー・シャンカラーチャーリヤによる「ヴィヴェーカチューダーマニ」、即ち、「知恵の至宝」として知られるアドヴァイタ哲学に関する有名な作品から重要な10詩節を選びました。以下はそれらの詩節の意訳です。かっこ内の番号は、原文の詩節番号を示しています。
1.
解放を得るための最良の鍛錬とは、人の本質の絶え間ない想起として定義されてきたバクティである。

The best discipline for attaining Liberation is Bhakti which has been defined as the constant recollection of one's real nature. (31)

2.
至高なるものとは、永続的で途切れのない自覚である。それは比類なく、存在とも非存在とも描きえない。それは知性などの目撃者である。それは我々が「私」について話すときに暗示されるものである。それは永続的で完全な至福であり、我々自身の内に存在する。

The Supreme (Being or Self) is constant and unbroken awareness. It is unique and cannot be described either as being or non-being (since it transcends all concepts). It is the witness of our faculty of understanding (buddhi), etc. It is what is implied when we speak of ' I '. It is constant and perfect bliss and exists within ourselves. (351)

3.
至高なる自らは、プラクリティともその変形体とも異なる。それは存在と非存在についての全ての概念を可能にする純粋な自覚である。目覚めや他の状態の間、「私」-「私」の形で、それは明確に現れる。それは知性の目撃者である。

The Supreme Self is distinct from Prakriti (primal world stuff) as well as its modifications. It is the pure awareness which makes all ideas of being and non-being possible. It clearly manifests itself in the form of ' I '-' I ' during waking and other states (i.e. dream and deep sleep). It is the witness of our faculty of understanding (buddhi). (135)

4.
「私」-「私」の形をした、ただ一つの継続的な内なる自覚として、目覚め、夢、深い眠りの状態において、自らは明瞭に現れる。それは自我、知性などをその様々すべての形と変化において認識する。それは永続的な自覚かつ至福である。これをあなたのハートの内に実現せよ。

The Self clearly manifests itself in the states of waking, dream and deep sleep as a continuous single inner awareness in the form of ' I ', ' I ' . It cognizes the ego, the intellect, etc., in all their various forms and changes. It is constant awareness and bliss. Realize this within your Heart. (217)

5.
制御された心と明瞭な知性の助けによって、「私はこれである」と直接的にあなた自身の自らを実現せよ。生死波立つサンサーラなる無限の海を渡り切り、ブラフマンとして留まれ。(その時)あなたの人生の目的は達成される。

Realize your own Self directly as 'I am this' with the help of a controlled mind and clear intellect and, crossing over the boundless sea of samsara whose waves are births and deaths, abide as Brahman, the goal of your life attained. (136)

6.
この自ら輝くもの、全ての目撃者は、我々の知性の中で永遠に輝く。それは非存在ではない。それをあなたの目的とし、それを絶え間なく思うことにより、それをあなた自身の自らとして実現せよ。

This self-luminous (Being), the witness of all, shines constantly in our intellect(vijnanamaya kosa). It is not non-being. Make it your goal and realize it as your own Self by thinking of it incessantly.(380)

7.
至高なる存在の本質を理解することは非常に難しい。感覚的対象のように、心によってそれを思い描けない。その理解が明瞭である賢者によってのみ、それは知られうる。心の概念が実際に存在しないとき、サマーディの状態において彼らはそれを実現する。

It is very difficult to understand the nature of the Supreme Being. It cannot be conceived by the mind like sense objects. It can be known only by wise souls (Aryas) whose understanding is clear. They realize it in states of Samadhi when there are practically no mental concepts. (360)

8.
このように絶え間ない修練を通じて、心が完全となり、ブラフマンに溶け込むとき、サマーディはサヴィカルパでなくなる。その状態において、人は不二なるものの純粋な至福を体験する。

When, in this manner, through constant practice, the mind becomes perfect and is merged in Brahman Samadhi ceases to be savikalpa (i.e., becomes nirvikalpa or entirely free from thoughts). In that state one experiences the pure bliss of the non-dual (Brahman). (362)

9.
この種のサマーディを修練することにより、結び目のごとき一切の欲望は終わりを迎え、一切の行為は後に何も残さない。人は自分自身があらゆるところに存在すると自ずと知る。

By practising this kind of Samadbi all one's knot-like desires come to an end and all one's actions leave no residue. One spontaneously knows oneself as existing everywhere. (363)

10.
至高なるブラフマン、唯一なる現実は、存在とも非存在とも描きえない。それはハートの洞窟に存在する。それに内在する者は、親愛なる人よ、再び生まれはしないであろう。

The Supreme Brahman, the sole Reality, cannot be described either as being or non-being. It exists in the cavern of the Heart (i.e., it can be realized within ourselves). One who inheres in It, my dear, will not be born again. (266)

2016年1月1日金曜日

バガヴァーンはどのように平伏を受け取るか - 彼らは「私自身」である

◇『The Call Divine(召命)』 Volume XII、Book 2、1963年10月1日、p41~42 

バガヴァーンと平伏

ラマナーシュラマム  T.K.S著

 バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシへの平伏について、彼の見識ある信奉者たちの間には、あらゆる種類の話があります。バガヴァーンは人々が彼の前で平伏することを決して好まず、その種の献身は全て見せびらかしに過ぎないと言う人もいます。その一方で、サードゥ・アルナーチャラ(故A.W.チャドウィック少佐)の常なる持論では、バガヴァーンへのどの平伏もみな「自我の棺へ打ち込まれた釘」であるため、彼はそのような平伏を歓迎した、とのことでした。平伏は、平伏する者に師の恩寵を受け取りやすくします。あなたがあなた自身を恩寵に開放しなければ、恩寵があなたに思いがけず訪れることも、あなたを祝福することもありません。

 長年にわたり途切れなく、信奉者から来る日も来る日も数千の平伏を受けるためには、バガヴァーンはバガヴァーンでなければなりません。日に数千の平伏を受けうることは、他の「教師」にとっては人間業ではないでしょう。

  この時点で私に思い起こされるのは、平伏を受けることがいかに危険であるか、厚かましい王の前で偉大なタパスヴィンが実演した物語です。彼はカマンダル(水差し)を地面に置き、その前で平伏し、その結果、器は複数の破片に割れました。その教訓とは、その前で平伏が行われる者は、それにふさわしくあらねばならないということです。そうでなければ、それを受ける者に害となるでしょう。

 これらのことを念頭に置き、来る日も来る日もバガヴァーンの前で行われる何千もの平伏を彼がどのように受け取るのか、ある日、私はバガヴァーンに気さくに尋ねました。バガヴァーンは(以下のように)答えました。「あなたにその秘密を教えましょう。彼らが私に平伏する前に、私は彼らに平伏します。私のもとへ来る人々は、謙遜の徴として地面に体を投げ出すだけです。心の中身は、等しく良くないかもしれません。心の中身が何であれ、私が彼らを見る時、私は心をのぞき込むことなく、そこにチャイタンヤ、すなわち、アートマンをのぞき込みます。それは私の自らであり、彼らはそれに気づいていません。私は彼らと一つですが、彼らはそれに気づいていません。すなわち、クタシュタとブラフマンは不可分です。私にとって「他者」はいません。のみ在ります。そのさらなる言外の意味は、彼らは平伏していると思っていますが、彼らは真の平伏(プラニダーナ)をしていないということです。その一方で、私は身体的にお辞儀しませんが、私のエーカ・バーヴァはあらゆる方法で彼らを手助けします。そのように、全ての人の中の私はクタシュタであり、私は私自身の実在を彼ら全ての中に見ます。私は数千(の平伏)を受け取れるのでなく、幾千(の平伏)を受け取れます。私は彼ら全てですが、彼らは彼らが私自身であることを知りません」。