2015年11月22日日曜日

バリ王の物語-バガヴァーン・ヴィローチャナとバガヴァーン・シュクラの教え

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年10月、p223~225

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅲ


バリ王の物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳(*1)

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラグ族の満月よ、あなたもまた、バリのように、相違(多様性)の知覚を通じ、知恵を得られます。

シュリー・ラーマ曰く:
 主よ!どうぞバリの知恵を得る方法を説いてください。あなたのような聖者らは、へりくだって近づく者たちに寛容です。

ヴァーシシュタ曰く:
 世界のあるところに、パーターラとして知られる王国が地の下にあります。アシュラ(魔)たちに守られる、その巨大な王国に、ヴィローチャナの息子、バリという名の王がいました。全世界をあたかも児戯のごとくに征服し、自分自身を楽しみのあらゆる対象の支配者となし、彼はアシュラ族を数千万年統治しました。無限に長い年月(ユガ)が経過しました。無数のデーヴァとアシュラが生じては、倒れました。絶え間なく楽しみを享受することにより、やがてバリはそれらにうんざりしました。高所にある宮殿のテラスに座っている間、彼は以下のように考え始めました。「三世界の不可思議である我が王国、または、私が享受する多大な楽しみが何の役に立つのか。大きなものであれ、小さなものであれ、その楽しみが甘美であるのは、見せかけだけだ。それらは必然的に終わりを迎える。その中に何の幸福があるのか。人は繰り返し食べ、繰り返し妻を抱擁する。これは児戯のごとくであり、極めて恥じ入らせるものだ。どうして賢者が来る日も来る日も同じことを行うことに恥じ入らないのか。昼の後には夜が続き、行為の後には行為が続く。思うに、これは賢者にとっての関心事であるべきだ。同じ行為を毎日繰り返すことが何の役に立つのか。楽しみ以外の何ものかが、永続的な何ものかが存在するのか。私はこれに思いを凝らそう。」

 このように考え、バリは熟考し始めました。眉を寄せて、彼は座り、思いに沈みました。終に、彼は心の中で思いました。「今や私は思い出した。我が父、自らを実現した人であり、世界の始まりと終わりを知ったバガヴァーン・ヴィローチャナに私はかつて尋ねた。私は彼に尋ねた。『父上、いつ全ての悲しみ、喜び、迷妄が終わりを迎えるのか、どうぞ私にお教えください。それらの限界とは何ですか。いつ心の迷妄は終わりを迎えるのですか。どれが熱情を免れた境地ですか。父上、どこに我々は変わらない安息を得るのですか。人が永遠に平穏に留まれる純粋な至福の境地があるのか、私にお教えください」。我が父は返答した。「我が息子よ、何千もの三世界を含む広大な領域が存在する。大地、空、海、山、森、聖水、川、湖はそこに存在しない。それはまばゆく輝く偉大なる王によって統治され、彼はあらゆることを行い、あらゆる所に行き、まさしく全てであり、全く沈黙している。彼の大臣は聡明に彼の意図を実行する。彼は困難な仕事を成し遂げるが、単純なことでしくじる。彼は何も楽しめない。また、彼は何も知らない。彼は王国のために止むことなくあらゆることを行う。彼は孤独な場所で一人暮らす王の唯一の代理人である』。私は尋ねた。『おお、高貴なる方よ、身体的および精神的病を免れる、その場所はどちらにありますか。一体、どのようにそれは達せられますか。誰かその道を知っていますか。この大臣とは誰で、全ての世界をたやすく征服している我々によって征服されていない王とは誰ですか。』

 わが父は返答した。『我が息子よ!たとえ何十万のデーヴァとアシュラが突如として襲い掛かろうとも、その大臣を征服することはできない。彼に対して使われる剣、きね、投石器、ヴァジュラ、円盤、こん棒のような武器は、岩に向かって投げられた花のように崩れ落ちる。その大臣は山のように揺らぐことがないが、王が彼を征服することを望むなら、たやすくそうすることができる。我が息子よ!彼はある策略によってのみ征服しうる。というのも、怒った有毒なコブラのごとく、彼は彼に直接近づく誰をも滅ぼす。聞きなさい、わが息子よ!この王国の名を私はお前に告げよう。それは一切の悲しみを終わらせるモークシャ(解放)である。その王とは、一切の状態を超越する自ら(アートマン)である。大臣である賢者は、心である。感覚対象物への欲望が止むことが、その征服のための至高の策略である。それはまた、心である発情期の象を素早く制御するための策略でもある。もし人がすでに適切に指導を受けておらず、知恵を獲得したいならば、人はその心の四つの部分の二つを楽しみの享受に充て、第三の部分を聖典の学習に、第四の部分をグルへの奉仕に充てるべきである。すでに何らかの指導を受けている者は、一つの部分を楽しみに、二つの部分をグルへの奉仕に、一つの部分を聖典の意味の熟慮に充てるべきである。十分に指導されている者は、常にその心の二つの部分を聖典の学習と離欲の修養に、他の二つの部分を観想とグルへの奉仕に充てるべきである。そのように知恵と観想によって、わが息子よ、人は心の制御を獲得し、欲望を断ち、自らを実現すべきである。感覚的喜びの中の邪悪を認識は、人を観想に導き、観想から感覚的喜びの中の邪悪の認識が生じる。海と雲のごとく、それらは互いに補い合っている。愛する者よ!お前の国の習慣に従い、もっとも非難されない方法を通じて富を獲得せよ。有徳の人々との交際を真摯に培うために、それを使え。彼らとの交際と注意深い思考により培った、感覚的楽しみに対する離欲の助けによって、お前は自らを実現する』」。

 バリは心の中で思いました。「深遠な思索家であった父から、私はこれを以前に教わっていた。今や幸運にもそれを思い出し、私は真理を知った。私は今や五感の楽しみに対する完全な離欲を培った。幸運にも、私は神酒のごとき涼やかな静穏の喜びを得た。喜びと悲しみが平然と眺められる内なる静穏の境地の美しさは、素晴らしいものだ。私は誰か。この自ら(アートマン)とは何か。私は自らを実現したグル、ウシャナス(*2)に尋ねよう」。

 それに従い、バリは天空の寺院に住むシュクラについて黙想しました。やがて、バールガヴァ(*2)の姿をした全てに行き渡る無限の意識が、バリの館の宝石で飾られた窓に現れました。バリは貴重な宝石と香り高い花々の贈り物で彼を歓迎し、彼の足もとに平伏しました。彼は言いました。「太陽の光が人々が仕事を行えるようにするのとまさしく同様に、あなたの恩寵もまた私に、ある問題についてあなたに尋ねさせます。ここに実際存在するのは何ですか。そして、その限界とは何ですか。この体とは何ですか。この人とは誰ですか。私は誰ですか。あなたは誰ですか。これらの世界とは何ですか。どうぞ私にお教えください」。

 シュクラは答えました。「長々と話すべき何がありますか。私は天界へ行く途中なのです。おお、全アシュラの王よ!私はあなたに精髄を簡潔に告げましょう。お聞きなさい!意識のみが存在します。この世界は意識に他ならず、あなたは意識であり、私は意識であり、(様々な)世界は意識です。あなたが賢明であるなら、この確信を通じ、あなたはあらゆるものを得ます。そうでないなら、何度それを繰り返し言われても、(供儀の火の)灰の上に置かれた供物のごとく、それは無駄になります。思いによってかき乱された心が、束縛です。思いからの自由が、解放です。思いのない意識が、自ら(アートマン)です。これがヴェーダーンタの教えの全てです。この結論を受け入れ、真理を悟った理解でもって、あらゆるものを観察しなさい。あなたは無限の自らの境地を自動的に得ます。今、私は天界に行くところで、そこには七人の賢者が集っています。デーヴァ族に関連した務めのために、私はそこに出席しなければなりません」。

 こう述べた後、バガヴァーン・シュクラは空に立ち上りました。バリは、「この世界は意識である」という言葉に思いを凝らしました。彼は心の中で思いました。「バガヴァーンによって言明されたことは、理に適っている。三世界は意識でしかない。私は意識であり、これらの世界は意識である。この住まい(方位、地域?)は意識であり、行為は意識である。私は対象物とその知覚についての一切の考えを確かに免れている。私は絶対的に純粋である。私は常に知性である。私は別の知性に依存していない。私はあらゆるものを認識する至高の主である。私は一切の概念を免れた意識である。私は全世界に内に外に行き渡っている。私の一切の知覚対象は終わりを迎えた。私はまさに偉大なる意識である!」

 このように思い、極めて賢明なバリは、オームのアルダ・マートラ(*3)に黙想し始めました。何らの心の概念や想像、思う者‐思い‐思いの対象という観念もなく、バリは風のない場所に置かれた灯火のごとく真理を悟ったまま留まり、しばらくして至高の境地を得ました。その一切の欲望を消し去り、その心は一切の思いを免れ、バリは雲によって覆い隠されない秋空のごとく純粋な意識になりました。

 バリの配下であったアシュラたちが彼の宮殿に行った時、彼らは彼が概念のない瞑想に没頭しているのを見つけました。しかし、長い時間たって、彼は目覚めました。それから、「私」、もしくは、「私のもの」という考えをまるで持たずに、彼は全ての王の義務に従事し始めました。彼は平等なまなざしで成功と不運を見ました。彼の知恵は、喜びや悲しみのために、増すことも減ることもありませんでした。彼は何千もの希望と失望を抱き、何百もの利益と損失を得ましたが、彼は何も気にかけませんでした。

 今世と来世の物事を追い求める、この心を制御し、そして、世俗の活動に没頭しなさい。心をハートの洞窟に留めなさい。それは子供のようです。それが何かに夢中になる時はいつも、その場で直ちにそれを引き起こし、それを現実に定めなさい。このように心という野生の象を訓練し、四方八方でそれを縛ることによって、人は無上の至福を得ることができます。

原注↓
(*1)この連載の以前の回もまた、彼によって翻訳されました。
(*2)アシュラ族のグル、シュクラーチャーリヤの別名。
(*3)オーム、つまり、ブラフマンの最後の聞こえない音。
  

2015年11月8日日曜日

種族を超えた愛の光景を目撃した、T.R.A.ナーラーヤナ の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年4月 p98~100

どのようにして私はマハルシのもとへ行ったのか

T.R.A.ナーラーヤナ

 その年は1948年でした。

 私は当時、39歳でした。私は妻と四人の子供と共にマドラスに住んでしました。私はイギリスの大会社の支店長であり、幸せな環境にいたので、宗教的修練、または、靈的探求の必要性を何ら見出しませんでした。私は人生の望ましい物事を楽しむことに満足していました。

 私の部下の視察員の一人、シュリー・パールタサーラティと共に、私は小さな町々を旅していました。それは4月のある暑い日でした。シュリー・パールタサーラティと私はティルヴァンナーマライに行くためにヴィルップラムで列車に乗り込もうとしていた時、25歳ぐらいの若者が隣のドアを通って一等客車に入ろうとしていることに我々は気づきました。その人はとても太っていたため、あの手この手でそのかさばる体を持ち上げ、その一方で、明らかに彼の召使いであるプラットホームのもう一人の人がドアの向こうへと彼を押し込んでいました。シュリー・パールタサーラティと私自身を含め、プラットホームにいる人々が彼の苦境をじっと見る詮索好きな様子を彼は恥ずかしがってもいました。彼は何とか乗り込み、我々の隣の小部屋を占拠しました。

 列車が数分走った時、その人が我々の客室にやって来て、ラティラル・プレームチャンド・シャーと自己紹介し、話し始めました。 

 シュリー・ラティラルはサウラーシュトラ・ヴァイシャであり、ゴンダルで生まれ育ち、その土地の裕福な商人である父の一人息子でした。彼は6年前に結婚していました。10歳から体の中のあまりに多くの脂肪に悩まされ、今や25歳の彼は肉と苦しみの巨大な塊でした。脂肪を取り除いて、男らしくなりたいと、どれほど彼は望んだことでしょうか!

 3月の最後の週、シュリー・ラティラルは夜眠っている間にあるヴィジョンを得ました。彼は苦行者が微笑み、彼に手招きしているのを見ました。その微笑みと手招きは長い間続き、シュリー・ラティラルが目覚めた時、彼の心の目の前にはっきりとしたままでした。彼はそのヴィジョンについて誰にも話しませんでした。二日後、彼の妻はグジャラート語の雑誌を読んでいました。彼女の肩越しに見て、彼はヴィジョンの中で見た苦行者の写真を見ました。彼はその苦行者がバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシであると知るようになりました。彼はすぐさま父親のもとへ行き、信頼できる一家の召使いを伴ってのティルヴァンナーマライへの旅の手配をしました。バガヴァーンについて彼が知っていたこと全ては、グジャラート語の記事に載っていたことでした。それでも、彼は、バガヴァーンのもとへたどり着くや否や自分の苦しみは終わるだろうと確信していました。バガヴァーンのヴィジョンの微笑みと手招きは、彼にそのような確固とした確信を与えていました。

 シュリー・パールタサーラティはバガヴァーンのダルシャンを何回も得ており、彼に関する文献も相当読んでいました。丸々二時間の旅の間、彼とシュリー・ラティラルはバガヴァーンについて話しました。私は英語の小説を読んでいるという体(てい)でしたが、彼らの会話を興味深く、注意して聞いていました。

 ティルヴァンナーマライ駅で、シュリー・ラティラルは父親が彼が共に滞在するために手配した地元の商人に迎え入れられました。シュリー・パールタサーラティと私は、旅行者用のバンガローに向かいました。

 我々が入浴し、昼食をとった時、4時でした。シュリー・パールタサーラティは私がとてもビジネスライクであり、一分も無駄にはしないことを知っていました。市場を視察できますが、と彼は私に言いました。彼は私の返答にとても驚きました。「いいえ、パルタサラティー!最初にマハルシのダルシャンを得に行きます。その後、時間が許せば、寺院に行きます。仕事は後にしましょう!」

 シュリー・パールタサーラティと私がアーシュラムに入った時、5時ごろでした。バガヴァーンの母のサマーディの周りを歩き、我々はそのそばのベランダにやって来ました。50人ぐらいの人々がそこに座っていて、シュリー・ラティラルと彼のホストと彼の召使いも含まれていました。バガヴァーンは、いつものようには寝椅子にいませんでした。訪問者たちはひそひそ声で話し、彼がどこにいるのか見つけ出そうとしていました。

 十分ほど待って、バガヴァーンが彼の座に来ていないことを知った後、シュリー・パールタサーラティは合間にゴーシャラ(牛舎)や他の場所を見て回ってはどうかと私に提案しました。

 視察を終え、我々が別の側を通ってベランダに戻ろうとした時、我々は子供のような声を聞きました。「チェー、アサッテ(こら、お前というやつは!)」。我々の周りに子供は見当たりらず、そのため、その声の源を見つけ出そうとのぞきました。ベランダ近くの家庭菜園の中のナスの葉っぱ、女性の指、そして、他の植物の間の動きに我々は目をとめました。さらにじっと見ると、小さなヤギと小さなサルとリス-そして、バガヴァーン・ラマナ・マハルシが見えました!バガヴァーンはお尻をついて座り、その足は組まれて胸まで上がっていました。ヤギは彼の膝の間に身をすり寄せ、サルは頭を彼の右ひざにもたれさせ、リスは彼の左ひざに腰かけていました。左の手のひらに紙の小箱を持ち、バガヴァーンは右手の指で一つずつそこからピーナッツを取り出し、ヤギ、サル、リス、そして、彼自身に順に与えていました。彼の発言は、リスの唇の間に彼が置こうとしていたナッツをひったくろうとしたサルに向けられたようでした。我々がじっと見る間、四人の仲間は食べることを楽しみ続けていました。四人全員が等しく幸せなように見えました。彼らが互いを見つめ、一緒に離れずにいた様子はとても感動的でした。ヤギとサルとリスとバガヴァーンは、明らかにその種の違いを忘れていました!そして、我々も眺めながら、彼らの姿形の違いにもかかわらず、四人全員をただの親友として見ました。言葉では、それを見て、私の存在を通り抜けた感情を描くことはできません。稲妻の閃光のごとく超越的なるもののビジョンが現れ、存在、意識、至福、サット‐チット‐アーナンダの本質を私に示現しました。

 ナッツはなくなりました。バガヴァーンは紙を投げ捨て、年寄りが孫に話しかけるのとちょうど同じように、「ポンコダ!(みんな、行きなさい!)」と言いました。ヤギとサルとリスは去りました。バガヴァーンは立ち上がろうとしました。シュリー・パールタサーラティと私は急いで立ち去り、神聖なるものに立ち入ったことに罪の意識を感じましたが、-後悔はしませんでした。

 シュリー・パールタサーラティと私がベランダで再び座ったすぐ後、バガヴァーンが寝椅子にやって来ました。私は彼が我々を見たとは言えません。彼は我々に顔を向けて立ち、彼の目は、地上の何物をもはるか超えた上の何かに定められていました。その目は、その目の背後で輝いている光から物質的世界を遮断するスクリーンのようでした。時折、スクリーンの繊維を通って閃光が放たれ、その閃光は注がれた人々の目を冷まし、粗大な覆いを貫通し、彼らの内なる燈心に火をともしました。

 バガヴァーンは寝椅子の枕にもたれ、頭を左の手のひらで支えました。我々みなは座り、彼の顔を見ました。我々は座り続け、見続けました。誰も話さず、何の音も立てませんでした。しかし、その対面は重苦しい沈黙ではありませんでした。それは我々各人の最奥の存在が、バガヴァーンである至高なる意識と心通わせる生き生きとした体験でした。

 その美しさは、ヤギとサルとリスと共に親しげにピーナッツを食べるという、数分前に私が見た愚かしさの中にあるものと同じだという恐るべき気づきによって、私は呆然としました。私の心はその光景をずっと思い出していました。どのようにヤギが自分へのバガヴァーンの愛情を完全に信頼して彼の胸にすり寄ったのか。共にナッツをかむ時に、どのようにサルが嬉しそうににっこり笑い、どのようにバガヴァーンがにっこり笑い返したのか。どのようにリスがそのピンの頭のような目で夢を見ているかのようなバガヴァーンの目を見つめ、彼の鼻をその小さな左手でやさしくひっかいたのか。感覚的知覚の根底にあり、それを超えてある至高なる靈のヴィジョンは、家庭菜園のピーナッツ・パーティという控えめな光景によって味わいを添えられていました。

 バガヴァーンは寝椅子から立ち上がりました。我々はみな立ち上がりました。立ち去るべきだと暗黙の内に全員に了解されたようでした。我々は立ち去りました。私は今まで知らなかった安らぎと喜びを私の内側で感じました。他の人々の顔つきもまた、同じような様子を示していました。

 アーシュラムの門のところでシュリー・ラティラルと彼のホストと彼の召使いが牛車に乗り込むのを私は目にしました。シュリー・ラティラルの動作には新たな軽快さがありました。その若者のヴィジョンの中でのバガヴァーンの約束は、成就し始めたように見えました。

 私の人生において、あの日以来、多くのことが起こりました。私の物質的な状況は悪化しました。しかし、私の内面生活は、あの日以来、いつも、幸福でした。というのも、私はバガヴァーンのヴィジョンをとても多く得たからでした-とりわけ、私が非常に意気消沈していた時には。

 1953年、私はラージコートにいて、ロッジに一人で滞在していました。ある日、食堂にいた時、30歳ぐらいの人が私に近づいて来て、話しかけました。「私に見覚えありませんか」。「いいえ、すみません」と私は正直に返答しました。その人は続けました。「私はゴンダルのラティラルです!5年前のバガヴァーン・ラマナ・マハルシのダルシャンを覚えていませんか」。私はその人を再び見ました。彼は細く、筋張っていて、彼の顔は健康と幸福で輝いていました。私は愛情をこめて彼の手を握りました。彼は再び話しました。「シュリー・バガヴァーンは、素晴らしく完璧に彼の約束を果たしました。私を見てください。私は今や家業を経営していて、父は全く休んでいます。私には2歳になる息子がいて、1か月か2か月後、妻にもう一人子供が産まれることになっています」。

 私の心は即座にヤギとサルとリス-そして、バガヴァーン・ラマナ・マハルシに戻って来ました。バガヴァーンだけを思うことは決してできませんでした!

 長い間、そんな具合なのです。その光景はしばしば私の心の目にやって来ます。四人の友人がピーナッツ・パーティをする家庭菜園。

 そして、その美しき光景に私を導いてくれたシュリー・ラティラルとシュリー・パールタサーラティに私は感謝しています!

2015年11月3日火曜日

シヴァプラカーシャム・ピッライの遺産 「シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム」

◇「山の道(Mountain Path)」、1984年10月 p229~230

シュリー・ラマナの言葉の精髄

シヴァプラカーシャム・ピッライ

 シヴァプラカーシャム・ピッライは、バガヴァーンに重要な質問、「私は誰か」を尋ね、沈黙の賢者の答えをその際立った教えとして保存した、幸運なバクタです。この知恵の宝庫は、今や、世界中の無数の探求者を導いています。

 彼は残りの人生をバガヴァーンの教えの観想に捧げました。時折、彼は数詩節記したものでした。この偉大なバクタは、1949年1月に亡くなりました。その後、彼の甥であり、彼の称賛者であるマニカム・ピッライがアーシュラムにやって来た時、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの晩年について尋ねました。彼は「ピッライヤヴァルガル」(このようにバガヴァーンのシヴァプラカーシャム・ピッライを呼んでいました)が何か詩を後に残していないか尋ねました。甥はためらいがちに答えました。「バガヴァーン!確かに彼は私にいくらか原稿を残しましたが、彼の死後にそれを燃やし、他の人々に見せてはいけないという指示と共にでした」。「おや、そうですか!問題ありません。それを私に見せてみなさい!」。束からバガヴァーンは一枚手に取り、「この一枚で十分です」と言い、残りを返しました。

 後に、これは「ラマナ・ヴァチャナ・サーラム」の題で、ウッラドゥ・ナールパドゥへのシヴァプラカーシャム・ピッライのタミル語の注釈の前書きとして含められました。(サードゥ・オームとマイケル・ジェームズによる)その英訳が以下に記載されます。

シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム

1-2
これが精髄である。これが精髄である。これがシュリー・ラマナの言葉の精髄である。

This is the essence, this is the essence, this is the essence of Sri Ramana's sayings.

3-4
言え、真の「あなた」とは誰か。あなた自身に専心せよ。実に、あなたは悪臭漂う肉体ではない。

Say who the real ' you ' are ; attend to yourself; truly you are not the foul-smelling flesh.

5-6
体は生まれ、体は死ぬ。体に意識はなく、眠る時、それは存在しない。

The body is born and the body will die ; the body is insentient and in sleep it does not exist.

7-8
意識こそが、あなたである。あなたこそが、意識である。意識こそが、生まれることもなく、死ぬこともなく存在するものである。

Consciousness alone is you ; you alone are consciousness; consciousness alone is that which exists without being born and without dying.

9-10
眠る時、意識はあるが、体はない。眠る時、体は存在しなかったと知る者が、あなたである。

In sleep there is consciousness but there is no body ; he who knows that the body did not exist in sleep is you .

11-12
体が生まれるのを知らない者が誰かいるのか。しかし、意識の誕生を知った者が誰かいるのか。

Is there anyone who does not know that the body is born? But is there anyone who knew the birth of consciousness?

13-14
上に述べられたことから、あなたは体ではない。あなたが体であるという邪悪な概念を破壊せよ。

From what is said above , (it is clear that) you are not the body ; (therefore) destroy the evil notion that you are the body.

15-16
あなたの本質とは何か常に思え。他の何をも思うな。

Always think what your real nature is; do not think of anything else.

17-18
「私は体である」という一つの思いが、根本である。それが退くなら、一切の思いは退く。

The one thought 'I am the body' is the root (of all thoughts); if it subsides, all thoughts will subside.

19-20
「この体は、意識ある『私』なのか」という探求こそが、「私は体である」という思いを破壊する。

The enquiry "Is this body the sentient 'I' ? " alone will destroy that thought 'I am the body' .

21-22
「私は体である」という錯覚を持つ者は、衣服や食べ物などのために精神的に苦しむ。

He who has the delusion 'I am the body' will mentally suffer for clothing, food and so on .

23-24
「私は体である」という錯覚を破壊する者は、衣服や食べ物などのために苦しまない。

He who destroys the delusion 'I am the body' will not suffer for clothing, food and so on .

25-26
たとえ死が近づいても、落胆するな。神により全てがなされていると知りて、在れ。

Even though death approaches, be not disheartened; knowing that all is done by God , be (in the actionless and care-free state of Self).

27-28
体は一つか、二つか、それとも、三つなのか知ることに、わずかの利益もない。

There is not the least benefit in knowing whether the body is one or two or three (that is, it is useless to try to know whether or not the body has three forms — the gross, subtle and causal).

29-30
我々が鋭く吟味し、それにより、この体を捨て去るならば、他のどの体も存在する余地はない。

If we keenly scrutinize (the feeling 'I' ) and thereby set aside this body (the gross body which we now identify as 'I'), there will be no room for any other body (to exist).

31-32
他と見なされる全ての現象(見せかけ)を「私」でないとして捨て去れ。

Set aside as not 'I' all the appearances which are seen as other (anya).

33-34
他である、がらくたのごとき原理の群れをまとめて捨て去れ。

Set aside collectively the garbage-like crowd of principles (tattvas) which are other (anya).

35-56
あなたが「私は誰か」とさらにさらに思う時、その思いのみが残り、他の一切の思いは灰に帰すだろう。

When you think more and more ' who am I', that thought alone will remain and all other thoughts will be reduced to ashes.

37-38
その思いすら灰に帰した時に残るであろう、思いのない境地、それのみが真の「あなた」であると知れ。

Know that the thought-free state which will remain when even that one thought (' Who am I') has been reduced to ashes, alone is the real 'You'.

39-40
生ずることも退くこともなく存在する、それが、あなたの真の自らであり、おのずから輝き出るだろう。

That which exists without rising and subsiding is your real Self, which will shine forth spontaneously.

41-42
太陽のごとく自らがそのように輝き出るまで、このように間違いなく追求せよ。

Until Self thus shines forth like the sun, pursue (the enquiry 'Who am I') in this manner without fail .

43-44
これが精髄である。これが精髄である。これがシュリー・ラマナの言葉の精髄である。

This is the essence, this is the essence, this is the essence of Sri Ramana's sayings.


◇「シュリー・ラマナーシュラマム公式HP、シヴァプラカーシャム・ピッライ」(、他

シュリー・ラマナの言葉の精髄

シヴァプラカーシャム・ピッライ

 シヴァプラカーシャム・ピッライは幸運な信奉者であり、バガヴァーンに重要な質問、「私は誰か」を尋ね、彼の答えを保存しました。この知恵の宝庫は、今や、世界中の無数の探求者を導いています。

 彼は残りの人生をバガヴァーンの教えの観想に捧げました。時折、彼は数詩節記したものでした。シヴァプラーカシャム・ピッライは1949年1月に亡くなりました。その後、彼の甥、シュリー・マニカム・ピッライがアーシュラムにやって来た時、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの晩年について尋ねました。彼は「ピッライヤヴァルガル」(このようにバガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライを呼びました)が何か詩を後に残していないか尋ねました。甥はためらいがちに答えました。「バガヴァーン!確かに彼は私にいくらか原稿を残しましたが、彼の死後にそれを燃やし、他の人々に見せてはいけないという指示と共にでした」。「おや、そうですか!問題ありません。それを私に見せてみなさい!」。束からバガヴァーンは一枚手に取り、「この一枚で十分です」と言い、残りを返しました。

 シュリー・ピッライヤヴァルガルの追悼の神聖な日に、我々はバガヴァーンによって選らばれた彼の詩の英訳を提供します。

シュリー・ラマナ・ヴァチャナ・サーラム

信奉者らによる翻訳

これが精髄である。これが精髄である!
これこそがシュリー・ラマナの言葉の精髄である!
真のあなたは誰か、私に教えよ。真のあなたを探せ!
まさか、あなたが悪臭を放つ肉体であろうか
体は生まれ、体は死ぬ
深い眠りの中、体はそれ自体を知らない
あなたはである。があなたである
永遠なる知は決して生まれず、死にもしない
眠りの中、自ら自覚はあるが、体のそれはない
あなたのみが体の意識の欠如を目撃する
全ての者が体が生まれることを知っていないか
意識の誕生に気付く者が誰かいるのか
上に言明されたように、あなたは体ではない
あなたが体であるという虚偽の概念を破壊せよ
あなたの本質を絶え間なく探求せよ
他の思いを思うな
「私は体である」という根本の思いが退くなら
その時、他の全ての思いも退く
「体に気付いているのは誰か」-この探求のみが
「私は体である」という概念を取り除く
「私は体である」と思う、欺かれた者は
食べ物、衣服、その上、望みの物を渇望するだろう
「私は体である」という錯覚から解放されている彼-
彼の心は食べ物、衣服、膨大な望みの物を渇望しないだろう
死が近づいても、慌てふためくな
平静であれ、それは全て神の御業である
体が一つか、二つか、三つかと思いふけるな
そのような探求は無益である
あなたが注意深く観察するなら
体の意識の余地はまるでない
(あなたから)別れて見える全ての外観を拒絶せよ
「私でない」として拒絶せよ
他の全ての教義・信条はがらくたのごとき収集物である
それら全てを取り除け
繰り返し「私は誰か」探求すれば
私なる思いのみが留まり
残りは灰になるだろう
私なる思いが燃え尽きたとき
思いは奪われ、「真のあなた」を知るだろう
生ずることもなく、沈むこともない、それが真のあなたであり、燦然と輝いている
まばゆく輝く太陽のごとく、自らが輝くように
決して後退することなく、それであれ
これが精髄である、これが精髄である!
これこそがラマナの教えの精髄である!