2015年3月9日月曜日

『A Search in Secret India』 第8章 ②いざ、第66代シャンカラのもとへ

◇『秘められしインドでの探求(A Search in Secret India)』 邦題:秘められたインド

 軽食、つまり、お茶とビスケットの時間ぐらいに、使用人が大声で訪問者を知らせた。訪問者はインクのしみがついた同業者仲間の一員、すなわち、作家のヴェンカタラマニであると分かった。

 数枚の紹介状が、私がそれらを放った所、トランクの底に置いてあった。私はそれらを使いたいとは思わなかった。これは、そこにいる神々がどんなものでも、彼らに最良を-もしくは、最悪を-尽くす気にさせたほうがいいかもしれないという奇妙な気まぐれに答えたものだった。しかしながら、私の探求を始めるための準備として、一通をボンベイで使い、もう一通をマドラスで使った。それと共に個人的な伝言を伝えるように指示されていたからだ。そのようにして、この第二の手紙はヴェンカタラマニを私の扉まで連れて来た。

 彼はマドラス大学の評議会の一員であるが、村の生活についての優れた随筆と小説の著者としてより良く知られている。彼は英語媒体を使うマドラス管区で最初のヒンドゥー人の作家であり、文学への貢献を理由に、彫刻された象牙の盾を国から授与されている。彼はインドのラビンドラナート・タゴールとイングランドのホールデン卿の高い称賛を得るほどに価値ある繊細な文体で著述する。彼の散文には美しい隠喩が山と積まれているが、彼の小説は見捨てられた村々の物悲しい人生を伝えている。

 彼が部屋に入る時、彼の背が高く細い体、とても小さい髪の毛の房がついた小さな頭、小さな顎と眼鏡をかけた目を私は見た。思想家と理想主義者と詩人が合わさった目をしている。それでいて、苦しむ農夫の悲哀がその悲しげな虹彩に映し出されている。

 我々は共通の興味の対象となる様々な道の上いることにすぐに気づいた。我々がたいていの物事についての原稿を比べた後、我々が政治をさんざんに非難し、我々の大好きな著者の前で敬意のつり香炉を振った後、私は唐突に心動かされ、彼に私のインド訪問の本当の理由を明らかにしたくなった。まったく率直に、私の目的が何であるか彼に告げた。私は証明しうる技能を持つ本物のヨーギの所在について彼に尋ねた。汚れまみれの苦行者や曲芸を演じるファキールに特に興味はないと私は彼に注意した。

 彼は頭を垂れ、その後、それを否定的に振った。

 「インドは、もはやそのような人々がいる国ではありません。我々の国のますます増大する物質主義、一方でのその広汎な堕落、他方での非靈的な西洋文化の衝撃によって、あなたが探している人々、偉大な師らはほとんどいなくなりました。それでも、いくらかは隠所に、おそらくは人里離れた森に存在すると私は固く信じていますが、あなたが全人生をその探求に捧げなければ、彼らを見つけることは困難を極めるでしょう。私と同じインド人があなたがするような探求に着手するなら、今日では彼はほうぼうを放浪しなければなりません。それでは、ヨーロッパ人にとっては、どれほどいっそう大変になるでしょうか。

 「では、あなたはほとんど希望を抱かせてはくれないのですね」と私は尋ねた。

 「う~ん、何とも言えません。あなたは幸運かもしれませんし。」

 何かが私に唐突な質問をするよう駆り立てた。

 「北アルコットの山々に住む師について聞いたことがありますか。」

 彼は頭を振った。

 我々の会話は横道にそれ、文学の話題に戻った。

 私は彼にたばこを勧めたが、彼は喫煙を辞退した。私が自分でたばこに火をつけ、トルコ産の刻みたばこの香りのよい煙を吸いこむ間、ヴェンカタラマニは急速に消えつつある古きヒンドゥー文化の理想を情熱的に褒め称えて彼の心情を吐露した。彼は生活の簡素さ、共同体への奉仕、余裕のある生活、靈的目的というような考えに言及した。彼はインド社会の主要部で成長する寄生的な愚かな行いを取り除きたいと思っていた。しかしながら、彼の心の中の最大の問題は、インドの50万の村々が工業化された大都市の貧民街にとっての単なる求人センターになることから救うという彼の未来像だった。この脅威は現実からは遠いものであったが、彼の預言的な洞察と西洋産業史の記憶はこれを現代的風潮の一定の結果とみなしていた。ヴェンカタラマニは、彼が南インドの最古の村の一つの近くの資産ある家庭に生まれたと私に言い、村の生活が陥った文化的退廃と物質的貧困を大いに嘆いていた。彼は素朴な村の人々の(暮らしの)改善のための計画を立てることを好み、彼らが不幸でいるのに幸福でいることを彼は拒否していた。

 彼の見解を理解しようとして私は静かに聞いていた。ついに、彼は立ちあがって去り、背が高く細い彼の姿が道を下って消えてゆくのを私はじっと見ていた。

 翌日の早朝、私は彼の予期せぬ訪問を受けて驚いた。彼の馬車があわてて門まで押し寄せてきた。というのも、彼は私が外出するかもしれないと危惧していた。

 「昨晩遅く、私の最大の後援者がチングレプットに一日滞在するという伝言を私は受け取りました」と彼は唐突に言い出した。

 呼吸を整えた後、彼は続けた。

 「クンバコーナムの聖下シュリー・シャンカラ・アーチャールヤは南インドの靈的指導者です。何百万の人々が神の教師の一人として彼を敬っています。偶然にも彼は私に大変興味を持ち、私の文芸活動を奨励しました。もちろん、彼は私が靈的な助言を求める人です。昨日、私が言及を避けたことを今やあなたに話してもいいでしょう。我々は彼を最高の靈的達成をなした師とみなしています。しかし、彼はヨーギではありません。彼は南部ヒンドゥー世界の大主教、真の聖者、偉大な宗教哲学者です。彼は我々の時代の靈的潮流の大部分に十分気づいているために、そして、彼自身の達成のため、おそらく彼には本物のヨーギについて並外れた知識があります。村から村へ、都市から都市へと、彼はたいそう旅します。その結果、彼はそのような事柄にとりわけ精通しています。彼がどこへ行こうと、聖者が敬意を表するために彼のもとへやって来ます。彼はおそらくあなたに何らかの有益な助言を与えられるでしょう。彼を訪問してはいかがですか。」

 「とてもご親切にありがとうございます。喜んで参ります。チングレプットはどれぐらいの距離ですか。」

 「ここからたったの35マイルです。でも、待って下さい-」

 「何でしょうか。」

 「聖下があなたの謁見を許すかどうか疑わしく思えてきました。もちろん、私は彼を説得するようできる限りのことをするつもりです。ですが-」

 「私はヨーロッパ人です!」 私は彼にかわって文を完成させた。「分かっています。」

 「あなたはすげない拒絶の危険を冒すのですね?」 彼は少し心配そうに尋ねた。

 「もちろんです。行かせてください。」

 軽い昼食の後、我々はチングレプットへ出発した。私は私の文筆仲間に私が今日会いたいと望む人についての質問を浴びせた。シュリー・シャンカラが食事と衣服に関してほとんど苦行者のような質素な生活を送っているが、彼の崇高な役目の品位によって、旅する時、彼は壮麗な装いで移動するように求められていることを私は知った。たいてい、彼にはその時、人が乗った象とらくだ、パンディットとその弟子たち、お触れ役と支持者のお供が伴っている。彼がどこに行っても、周辺地域からの大勢の訪問者を引きつけることになる。彼らは靈的、精神的、身体的、経済的援助を求めてやって来る。毎日、お金持ちから何千ルピーものお金が彼の足元に置かれるが、彼は清貧の誓いを立ているため、この収入は価値ある目的に充てられる。彼は貧しい者を救援し、教育を援助し、朽ちゆく寺院を修繕し、南インドの川のない地域でとても役立つ寺院の人工の天水池の状態を改善する。しかしながら、彼の使命は、主に靈的な事柄に関する。立ち寄る場所すべてで、彼は人々の心を高めるだけでなく、人々にヒンドゥー教の彼らの遺産をより深く理解するように鼓舞する。彼はたいてい地元の寺院で教えを説き、その後、彼のもとに集まる大勢の探求者に個人的に応じる。

 初代シャンカラからの直系継承において、シュリー・シャンカラがその称号の第66代目の担い手であることを私は知った。頭の中で彼の役目と力を正しい視点から把握するため、私はヴェンカタラマニにその系列の創始者についていくつか質問を尋ねざるをえなかった。初代シャンカラは千年以上前に活躍し、彼は歴史上のバラモンの賢者の中で最も偉大な人の一人であったようだ。彼は理性的な神秘主義者として、そして、一流の哲学者として評されるかもしれない。彼の時代のヒンドゥー教が混乱し、老朽化した状態で、その靈的活力が急速に衰えつつあることに彼は気づいた。彼はある使命のために生まれたようだ。18歳の時から、彼はインドをくまなく放浪し、彼が通り過ぎる、あらゆる地方の知識階級や僧侶と論じ合い、彼自身が創始した教説を説き、相当の支持者を得た。彼の知性はとても鋭かったため、たいてい彼は彼が会った人々の手に余る相手だった。彼は、彼の喉から命が消えた後でなく、存命時に預言者として受け入れられ、敬われるという幸運に恵まれた。

 彼は多くの目的を持った人だった。彼は彼の国の主要な宗教を擁護したが、それを口実にして発達した有害な慣習を強く非難した。彼は人々を徳行の道に連れてこようと試み、飾り立てた儀式に頼るだけの無益さを暴いた。彼は実の母の死に際して葬儀を行うことによってカーストの決まりを破り、そのために僧侶たちは彼を破門した。この恐れを知らない若者は、最初の有名なカーストの破壊者である仏陀の後継者にふさわしかった。僧侶たちに反対し、彼は全ての人が、カーストや肌の色に関係なく、神の恩寵に、そして、最高の真理の知に達することができると説いた。彼は特殊な教義を創設せず、誠実に守られ、その神秘主義的な内なる本質まで辿られるなら、全ての宗教が神への道であると考えた。彼はその論点を証明するために完全で、精緻な哲学体系を念入りに作りあげた。彼は多くの文学的遺産を残し、それは国中の聖典を学ぶ全ての都市で敬われている。パンディットたちは彼の哲学的、宗教的遺産を非常に大切にしている。当然ながら、彼らはその意味についてつまらない議論をし、言い争っているが。

 シャンカラは、黄土色のローブを身につけ、巡礼の杖を携え、インドをくまなく旅をした。彼は賢明な方策の一つとして、周囲四地点に四つの巨大な施設を設立した。北部のバドリーナートに一つ、東部のプリーに一つ、という具合に。総本山は、寺院と僧院と共に、彼が務めをはじめた南部に設立された。今日まで、それはヒンドゥー教の至聖所のままある。これらの施設から、雨季が終わると、訓練された僧の一団が出て、シャンカラの教えを伝えるために国を旅したものだった。この驚嘆すべき人物は32歳という若さで亡くなったが、ある伝説は彼はただ消え去ったと表現している。

 今日、私が会うであろう彼の後継者が同じ務めと同じ教えを継承していることを私が知った時、この情報の価値は明白となった。これに関連して、奇妙な伝統が存在する。初代シャンカラは、彼の心が弟子たちの所に今までどおり留まるだろうこと、そして、彼の後継者に「影を投げかける」不可思議な過程によってこれを達成するだろうことを彼らに約束した。いくぶん似たような理屈は、チベットのダライ・ラマの役目にも結びつけられている。役目の前任者は、彼の死の最後の瞬間に、彼の後を継ぐにふさわしい者を指名する。選ばれる者は、たいてい幼い子供であり、得られうる最良の教師たちから指導され、彼の高い地位に彼をふさわしくするために徹底した訓練が行われる。彼の訓練は宗教的および知的なだけでなく、高度なヨーガと瞑想の系統に従ってもいる。この訓練の後には、彼の信徒たちに奉仕する非常に活動的な人生が続く。この系列が打ち立てられていた何世紀もの間中ずっと、この称号の保持者で、最も気高く、最も無私なる人格を持つと知られていない人は今まで誰一人としていない。

 ヴェンカタラマニは、第66代シャンカラが保持する驚くべき天分についての物語で彼の語りを潤色した。彼自身の従弟の奇跡的な治癒についての話がある。従弟はリューマチのために不自由な体になっており、何年も床に伏せっていた。シュリー・シャンカラは彼を訪れ、彼の体に触れ、3時間の内に病人はずっと良くなり、床を離れた。すぐに彼は全快した。

 さらなる主張では、聖下は他者の考えを読む力を持つと信じられている。いずれにせよ、ヴェンカタラマニはこれが真実であると完全に信じていた。

§

 ヤシの木に囲まれた公道を通り、我々はチングレプットに入り、しっくい塗りのもつれ合った家々、乱雑に密集した赤い屋根、細い道々を見た。我々は下車し、大群衆が集まっている都市の中心部へ向かって歩いた。私はある家に連れて行かれ、そこでは秘書の一団がクンバコーナムの本山から聖下に伴ってきた膨大な書状の処理に忙しそうに携わっていた。ヴェンカタラマニが秘書の一人にシュリー・シャンカラへの伝言を渡す間、私は椅子のない控えの間で待った。半時間以上たって、その人は私が求める謁見は許されないという答えを持って帰って来た。聖下がヨーロッパ人を歓迎できるように思えない。その上、2百人の人が会見を待っている。多くの人が会見の約束を取り付けるために町に泊まりがけで滞在している。秘書はしきりに弁明した。

 私は諦観して状況を受け入れたが、ヴェンカタラマニは特権を持つ友人として聖下の面前に出られるよう努力してみると言い、その後、私の理由を訴えた。群衆の数人は、あこがれの家に順番ぬかしで入ろうとする彼の意図に気づくと、不愉快な様子でぶつぶつ言った。たいそう話し、ぺちゃくちゃ説明した後、彼は成功を収めた。微笑み、勝ち誇って、ついに彼は戻って来た。

 「あなたの場合に、聖下は特別の例外をもうけます。1時間ほど後、彼はあなたに会います。」

 主要な寺院へと延びる、絵のように美しい小道をあてもなくぶらついて、私はその時間をつぶした。灰色の象と黄褐色がかった茶色の大きならくだの行列を水飲み場まで連れてゆく、従者たちに出会った。旅する時に南インドの靈的指導者を運ぶ見事な動物を、誰かが私に指し示した。彼は壮麗な装いで乗り、背の高い象の背中の上の豪華絢爛な天蓋つきの御輿に空高く支えられている。それは豪華な装飾、高級な織物、黄金の刺繍に美しく覆われている。年老いた威厳ある生き物が道沿いに歩を進めるのを私はじっと見ていた。それが通り過ぎる時、その鼻は巻き上がり、再び垂れ下がった。

 靈的な人物を訪問する時に、果物や花や砂糖菓子の捧げ物を少し持って行くことを人に要求する古びれた慣習を思い出し、私は威厳ある主人の前に置くための贈り物を手に入れた。オレンジと花が目に映る唯一のものであり、私は便利に運べる精一杯の量を集めた。

 聖下の仮住まいの外に押し掛ける群衆の中で、私はもう一つの重要な慣習を忘れていた。「靴を脱いで」とヴェンカタラマニは即座に私に思い出させた。私は靴を脱ぎ、通りに置いていった。私が戻った時に、まだそこに靴があることを願いながら!

 私は小さな玄関口を通りぬけ、がらんとした控えの間に入った。突きあたりに薄暗く照らされた囲いがあり、そこで私は影の中に立つ背の低い人物を見た。私は彼に近づき、私の小さな捧げ物を置き、低くお辞儀をして挨拶した。この儀式には、敬意の表現として、そして、害のない礼儀としての必要性と別に、私の心に強く訴えかける芸術的な価値があった。私はシュリー・シャンカラが教皇的存在ではないことを良く知っていた。ヒンドゥー教にそういったものは存在しないからだ。しかし、彼は莫大な規模の宗教的集団の教師であり、鼓舞する人である。南インド全土が、彼の指導に従う。

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