神の御心と委ね
グラディス・デム
旧約聖書と新約聖書の間に対立を見出すことは賢明ではないでしょう。なぜなら、イエス・キリストは、「私が律法 や預言者を廃する ために来たと思ってはいけません。廃するためではなく、成就するために来たのです 」(マタイ、5. 17)と明確に述べました。
モーセは十戒を受け取りました。イエス・キリストはそれらの戒めの遵守を繰返し述べました。彼は、「それゆえ、これらの最も小さき戒めの一つでも破り、またそのように人に教えたりする者は誰であれ、天の王国で最も小さき者と呼ばれるでしょう。しかし、これを行い、またそのように教える者は誰であれ、天の王国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ、5. 19)と言いました。
十戒は魂を浄化に導き、徳のある探求者を「約束の地」に導きます。それをイエスは「まるで理解を超えた平安」(*1)と呼びました。
それら十戒にキリストのものが加えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ、15. 12)。
「全ての恐れを追い払う」(*2)その愛は、キリストの中に例証されました。彼は旧約聖書の律法を神の愛で飾りました。
「あなたは殺してはならない、と昔の人々によって言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。・・・しかし、私はあなたがたに告げます。・・・あなたの敵対者とすみやかに和解しなさい。」
「『目には目を、歯には歯を』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたは悪に抗わないように。誰があなたの右頬を打っても、左もまた彼に向けなさい。」
「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたの敵を愛し、あなたがたをののしる彼らを祝福し、意地悪くあなたがたを利用し、虐げる彼らのために祈りなさい。-天にましますあなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」(マタイ、5. 21, 25, 38, 43, 44, 48)
キリストは神の愛、アッバを全人類の父(なる神)として定めました。徐々に、キリストは、完全な委ね を通じて、父(なる神)の御心への道案内をします。妥協は存在しません。「誰も二人の主人に仕えられません。・・・あなたがたは神と富に仕えることはできません。」(マタイ、6. 24)
また、「『主よ、主よ』と私に言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天にまします我が父(なる神)の御心を行う者が(天の王国に入るのです)!」(マタイ、7. 21)
ここで、キリストは、自我の意思 を神の御心 へ委ねることが、精神的な王国を探す巡礼者に必須であると説きます。
祈りに関して、イエス・キリストには伝えるべきことがたくさんありますが、一つの必要条件は誠実さです。あるパリサイ人たちが弟子たちをパンを食べる前に手を洗うことを怠ったと非難した時、イエスは彼らを叱責しました。「あなたがた、偽善者よ、イザヤはあなたがたについて適切に予言したものです。『この人々は口でもって私に近づき、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている』。」(マタイ、15. 7)
イエスの叱責は、律法の外側の遵守のみに固執するが、人に命を与える内なる真理を無視する人々へ向けられています。
誠実さはキリストの言葉の中で際立ったものであり、彼が人々に祈る方法を教える前に、人々に向けて語られたものです。「あなたがたが祈る時、あなたがたは偽善者たちのようであってはいけません。なぜなら、彼らは人々に見られようとして、ユダヤ教会堂の中や通りの角に立って祈ることを好みます。まさしく私はあなたがたに告げますが、彼らは彼らの報いを受けています。
「しかし、あなたが祈る時、あなたはあなたの私室に入り、そして、あなたが扉を閉めた時、密やかにまします、あなたの父(なる神)に祈りなさい。密やかにご覧になる、あなたの父(なる神)は、憚ることなくあなたに報いるでしょう。・・・あなたの父(なる神)はあなたがたが要するものを、あなたがたが彼に求める前に、ご存じです。
「ですから、あなたがたはこの方法にならって祈りなさい。
天にまします我らの父よ
あなたの御名が尊ばれますように。
あなたの王国が来ますように。
あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように。
私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与え下さい。
そして、私たちが私たちの負債者を免じるように、私たちの負債をお免じ下さい。
そして、私たちを誘惑に導くことなく、私たちを悪からお救い下さい。
なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン。」
Our Father which art in heaven,
Hallowed be thy name.
Thy kingdom come.
Thy will be done on earth as it is in heaven.
Give us this day our daily bread.
And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
And lead us not into temptation, but deliver us from evil.
For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.
アンドレア・ボチェッリによる「主の祈り」、アメリカのコダックシアターからのライブ(2009)
この祈りは「主の祈り」と呼ばれていて、その意味は真理の探求者の受容性に応じて明らかにされます。聖なる知識は多くの段階で授けられます。
イエス・キリストが祈りを言い表わす前に、彼は感覚‐世界がそれへ続く「扉」を閉めることによって脇へやられねばならないと教えました。「私室」とは我々の魂のかの隠された聖域であり、そこで父(なる神)との密やかな面会が催されます。ここで、目には見えない愛は、すでに我々が必要とするものに気づいており、「私たちが要する 」ものを現わすでしょう。
父(なる神)の御心への委ねが、内なる聖殿への鍵です。
主の祈りは、その貴重な知恵を我々の受容性に応じて明らかにします。それは次のように解釈されるかもしれません。
我らの父よ -「何と素晴らしいことですか、おお、神よ、あなたをアッバ、父(なる神)として知ることは!あなたは創造者であり、守護者、生けるもの全ての最愛の親です。これを知る私たちの心を喜びが満たします」。
天にまします -「あなたは我々の魂に住まう方です。天の王国は内にあります。あなたの不死なる領域が、私たちの真の住まいです」。
あなたの名が尊ばれますように -「『私は在る、が私である』があなたです。あなたの名は神聖です!私たちはあなたの御名の神聖な沈黙の内のあなたの在る‐ものの前にお辞儀します」。
あなたの王国が来ますように -「あなたの王国とは、聖霊のことです。私たちの曇った視界に光がさし、あなたの聖霊が私たちの真中に来ますように」。
あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように -「私たちの限られた意思があなたへ完全に委ねられますように。なぜなら、ただそうしてのみ、あなたの御心は、あなたの子供たちである私たちを通じ、地に顕れます」。
私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与えください -「あなたは私たちが要する全てをご存じです。魂と体を養うために、あなただけを頼りとするように私たちにお教え下さい。過去を振り返らず、明日を思い悩まず、私たちは私たちの毎日に必要なものを完全にあなたに委ねます。今、あなたの内に生きるように私たちにお教え下さい」。
私たちの負債をお免じ下さい -「あなたは慈悲の泉です。あなたは私たちの弱さをご存じです。私たちはあなたにお願いたします。おお、父(なる神)よ。私たちの頬から後悔の涙をぬぐいさり、私たちの頑なな心をお清め下さい」。
私たちが私たちの負債者を免じるように -「私たちを不当に扱う人々への寛容と許しで私たちの心を満たして下さい。あなただけが憎しみを愛に変えることができます」。
私たちを誘惑に導くことなく -「私たちが利己主義を捨て去るなら、試練や災難は乗り越えられる障害です。私たちに慈悲をおかけ下さい、おお、最愛の父(なる神)よ。私たちの力を超えて、私たちが誘惑されないようにして下さい」。
私たちを悪からお救い下さい -「あなたは全世界における唯一の現実です。私たちの無知な感覚に悪と映るものは、真実は、影に過ぎません-なぜなら、あなただけが全ての支配者であるからです。私たちの自我の邪な傾向に翻弄される時、私たちは自分自身をどうすることもできません。私たちの救い主となって下さい!」
なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです -「我らの父(なる神)よ。私たちはあなたを賛美する歌を歌います。すなわち、あなたの権威、あなたの栄光と美は、地、海、空を包んでいます。あなたの愛の王国はあらゆるところにあります。あなたは永遠に君臨しています!」
アーメン -「あなたの御心がなされますように。そうありますように。」
神の御心への完全な委ねの至高の例は、イエス・キリスト自身でした。この委ねは、愛の委ねでした。「私が父(なる神)を愛し、父(なる神)が私に命じる ように私が行うことを世は知るでしょう。」(ヨハネ、14. 31)
模範的な方法でイエス・キリストの足跡をたどった、みなに愛される一人の聖者は、アッシジのフランシスです。かつて、彼は修道士たちに「神の御心への委ね」を説きました。彼は、「ここにいるあなたがたみなに私は言い付けます。聖なる服従と従順を通じて、あなたの肉体的要求、飢えや渇きやあなたの肉体が要求する他の何ものも、まるで気に掛けないように。私はあなたがたに求めます。神を褒め称え、他のことについての思いを彼に委ね、瞑想と祈りにのみ従事するように。彼の神聖な摂理があなたがたが必要なものを取り計らいます。彼はあなたを彼の特別な庇護の下に置いています。あなたがたのそれぞれ全ての人が、この言い付けを喜びに満ちた心で受け取り、幸せな顔つきをしますように」と彼らに語りました。
別の機会に、聖フランシスが鳥たちに教えを説いた時、彼は弟子たちに彼らもまた鳥たちのように神の摂理に彼ら自身を全託すべきであると説きました。ここで、聖フランシスはキリストが告げた教えに従っていました。「空の鳥を見なさい。彼らは播かず、刈り取ることも、集めて倉に入れることもありません。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養って下さいます。」(マタイ、6. 26)
シリアの聖イサクは、「いったん魂が神に完全に委ねられ、そして、神の助けを幾度も体験したなら、魂はもはやそれ自身のことを気に掛けませんが、驚嘆と沈黙に包まれています・・・魂が神の摂理を拒絶するといけないからと、それ自身の認識手段を当てにするように戻り、それらを運用することは、魂にとって不可能です-委ねによって、魂は神がそれを密やかに絶えず気遣っていることを知っています」と記しました。
聖イサクはまた「私室」についても語り、その時、彼は、「神との親交を可能とするために、私たちは隠遁を必要とします」と説きました。
さらに、彼は言います。「あなたがあなたの魂を完全に神の庇護の下に置く時、それで十分であると知りなさい。あなたがこれができる時、あなたはあなたために神によりなされる奇跡を目撃します。あなたは神がいつも身近にいて、彼を愛する人々にどのような援助でも行う用意があることを理解します。目には見えませんが、神の摂理はいつもそこにあり、魂を包んでいます。神がそこにいないと思い、そうであることを決して疑わないように。時に、神は、魂を向上させるために彼の存在を人間に見えるようにします。」
証聖者マクシモスもまた、完全で、揺らぐことのない信頼を伴う、委ねについて話します。「あなたがた自身を神に投じ、あなたがたは祈りを頼りとしなければなりません。彼は彼の愛によってあなたがたを守り、あなたがたの世話をするでしょう。出エジプト記に、『主があなたがたのために戦います。あなたがたは沈黙を守らねばなりません』(出エジプト、14. 14)と記されてはいませんか。」
「I Surrender All」 歌詞:W. Van DeVenter 歌:Robin Mark
イエス・キリストが説いたように、聖マクシモスも簡潔に述べます。「全ての善の目的(終わり)が、愛です。」
愛と慈悲は、全く同じものです。
イエス・キリストは、「あなたがたの父(なる神)が慈悲深くあるように、あなたがたも、それゆえ、慈悲深く ありなさい」(ルカ、6. 36)と言いました。
自我は、自らの知を得ようというなら、情熱的な誠実さをもって、神の御心へ身を委ねなければなりません。
イエス・キリストは、強烈な、活気に満ちた、生き生きとした真理を語りました。彼が発した一文は、私たちが決して無視することのできない言い付けです。「天にまします、あなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」
神を愛する者が慕い、それに向けて成長するのは、この完全性です。
(*1)ピリピ人への手紙、4. 4-7・・・「あなたがたは主の中にいつも喜びなさい。繰り返し言いますが、喜びなさい。あなたがたの節度をすべての人に示しましょう。主はすぐ近くにいます。何事も思い煩わないように。ただ、あらゆることの中に、感謝をもって祈りと願いによって、あなたがたの求めるところを神に知らせましょう。そうすれば、まるで理解を超えた神の安らぎが、イエス・キリストを通じ、あなたがたの心と思いとを守るでしょう。」
(*2) ヨハネの第一の手紙、4. 18・・・「愛の中には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除きます。なぜなら、恐れには罰があるからです。恐れる者は、愛において完全となされていません。」
☆以上の翻訳には聖書から多くの引用がありますが、その英文はおそらく「欽定訳聖書(Kings James Bible)」からです。その聖書の引用と「主の祈り」の解説の英文は文語体で記されていますが、分かりやすさを重視し、上では口語体で訳しています(文:shiba)。