2014年12月25日木曜日

父なる神の御心への委ね - イエス・キリストの系譜

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p27~29


神の御心と委ね

グラディス・デム

 旧約聖書と新約聖書の間に対立を見出すことは賢明ではないでしょう。なぜなら、イエス・キリストは、「私が律法 や預言者を廃する ために来たと思ってはいけません。廃するためではなく、成就するために来たのです 」(マタイ、5. 17)と明確に述べました。

 モーセは十戒を受け取りました。イエス・キリストはそれらの戒めの遵守を繰返し述べました。彼は、「それゆえ、これらの最も小さき戒めの一つでも破り、またそのように人に教えたりする者は誰であれ、天の王国で最も小さき者と呼ばれるでしょう。しかし、これを行い、またそのように教える者は誰であれ、天の王国で大いなる者と呼ばれるでしょう」(マタイ、5. 19)と言いました。

 十戒は魂を浄化に導き、徳のある探求者を「約束の地」に導きます。それをイエスは「まるで理解を超えた平安」(*1)と呼びました。

 それら十戒にキリストのものが加えられました。「私があなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。」(ヨハネ、15. 12)。

 「全ての恐れを追い払う」(*2)その愛は、キリストの中に例証されました。彼は旧約聖書の律法を神の愛で飾りました。

 「あなたは殺してはならない、と昔の人々によって言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。・・・しかし、私はあなたがたに告げます。・・・あなたの敵対者とすみやかに和解しなさい。」 

 「『目には目を、歯には歯を』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたは悪に抗わないように。誰があなたの右頬を打っても、左もまた彼に向けなさい。」 

 「『あなたの隣人を愛し、あなたの敵を憎め』と言われてきたことは、あなたがたの聞くところです。しかし、私はあなたがたに告げます。あなたがたの敵を愛し、あなたがたをののしる彼らを祝福し、意地悪くあなたがたを利用し、虐げる彼らのために祈りなさい。-天にましますあなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」(マタイ、5. 21, 25, 38, 43, 44, 48)

 キリストは神の愛、アッバを全人類の父(なる神)として定めました。徐々に、キリストは、完全な委ね を通じて、父(なる神)の御心への道案内をします。妥協は存在しません。「誰も二人の主人に仕えられません。・・・あなたがたは神と富に仕えることはできません。」(マタイ、6. 24)

 また、「『主よ、主よ』と私に言う者がみな、天の王国に入るのではなく、天にまします我が父(なる神)の御心を行う者が(天の王国に入るのです)!」(マタイ、7. 21)

 ここで、キリストは、自我の意思 神の御心 へ委ねることが、精神的な王国を探す巡礼者に必須であると説きます。

 祈りに関して、イエス・キリストには伝えるべきことがたくさんありますが、一つの必要条件は誠実さです。あるパリサイ人たちが弟子たちをパンを食べる前に手を洗うことを怠ったと非難した時、イエスは彼らを叱責しました。「あなたがた、偽善者よ、イザヤはあなたがたについて適切に予言したものです。『この人々は口でもって私に近づき、口先だけで私を敬うが、彼らの心は私から遠く離れている』。」(マタイ、15. 7)

 イエスの叱責は、律法の外側の遵守のみに固執するが、人に命を与える内なる真理を無視する人々へ向けられています。

 誠実さはキリストの言葉の中で際立ったものであり、彼が人々に祈る方法を教える前に、人々に向けて語られたものです。「あなたがたが祈る時、あなたがたは偽善者たちのようであってはいけません。なぜなら、彼らは人々に見られようとして、ユダヤ教会堂の中や通りの角に立って祈ることを好みます。まさしく私はあなたがたに告げますが、彼らは彼らの報いを受けています。

 「しかし、あなたが祈る時、あなたはあなたの私室に入り、そして、あなたが扉を閉めた時、密やかにまします、あなたの父(なる神)に祈りなさい。密やかにご覧になる、あなたの父(なる神)は、憚ることなくあなたに報いるでしょう。・・・あなたの父(なる神)はあなたがたが要するものを、あなたがたが彼に求める前に、ご存じです。

 「ですから、あなたがたはこの方法にならって祈りなさい。

   天にまします我らの父よ
   あなたの御名が尊ばれますように。
   あなたの王国が来ますように。
   あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように。
   私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与え下さい。
   そして、私たちが私たちの負債者を免じるように、私たちの負債をお免じ下さい。
   そして、私たちを誘惑に導くことなく、私たちを悪からお救い下さい。
   なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです。アーメン。」

    Our Father which art in heaven,
    Hallowed be thy name.
    Thy kingdom come.
    Thy will be done on earth as it is in heaven.
    Give us this day our daily bread.
    And forgive us our debts, as we forgive our debtors.
    And lead us not into temptation, but deliver us from evil.
    For thine is the kingdom, and the power, and the glory, for ever. Amen.

アンドレア・ボチェッリによる「主の祈り」、アメリカのコダックシアターからのライブ(2009)

 この祈りは「主の祈り」と呼ばれていて、その意味は真理の探求者の受容性に応じて明らかにされます。聖なる知識は多くの段階で授けられます。

 イエス・キリストが祈りを言い表わす前に、彼は感覚‐世界がそれへ続く「扉」を閉めることによって脇へやられねばならないと教えました。「私室」とは我々の魂のかの隠された聖域であり、そこで父(なる神)との密やかな面会が催されます。ここで、目には見えない愛は、すでに我々が必要とするものに気づいており、「私たちが要する 」ものを現わすでしょう。

 父(なる神)の御心への委ねが、内なる聖殿への鍵です。

 主の祈りは、その貴重な知恵を我々の受容性に応じて明らかにします。それは次のように解釈されるかもしれません。

 我らの父よ -「何と素晴らしいことですか、おお、神よ、あなたをアッバ、父(なる神)として知ることは!あなたは創造者であり、守護者、生けるもの全ての最愛の親です。これを知る私たちの心を喜びが満たします」。

 天にまします -「あなたは我々の魂に住まう方です。天の王国は内にあります。あなたの不死なる領域が、私たちの真の住まいです」。

 あなたの名が尊ばれますように -「『私は在る、が私である』があなたです。あなたの名は神聖です!私たちはあなたの御名の神聖な沈黙の内のあなたの在る‐ものの前にお辞儀します」。

 あなたの王国が来ますように -「あなたの王国とは、聖霊のことです。私たちの曇った視界に光がさし、あなたの聖霊が私たちの真中に来ますように」。

 あなたの御心が、天に行われるように、地に行われますように -「私たちの限られた意思があなたへ完全に委ねられますように。なぜなら、ただそうしてのみ、あなたの御心は、あなたの子供たちである私たちを通じ、地に顕れます」。

 私たちの日々の糧を、今日、私たちにお与えください -「あなたは私たちが要する全てをご存じです。魂と体を養うために、あなただけを頼りとするように私たちにお教え下さい。過去を振り返らず、明日を思い悩まず、私たちは私たちの毎日に必要なものを完全にあなたに委ねます。、あなたの内に生きるように私たちにお教え下さい」。

 私たちの負債をお免じ下さい -「あなたは慈悲の泉です。あなたは私たちの弱さをご存じです。私たちはあなたにお願いたします。おお、父(なる神)よ。私たちの頬から後悔の涙をぬぐいさり、私たちの頑なな心をお清め下さい」。

 私たちが私たちの負債者を免じるように -「私たちを不当に扱う人々への寛容と許しで私たちの心を満たして下さい。あなただけが憎しみを愛に変えることができます」。

 私たちを誘惑に導くことなく -「私たちが利己主義を捨て去るなら、試練や災難は乗り越えられる障害です。私たちに慈悲をおかけ下さい、おお、最愛の父(なる神)よ。私たちの力を超えて、私たちが誘惑されないようにして下さい」。

 私たちを悪からお救い下さい -「あなたは全世界における唯一の現実です。私たちの無知な感覚に悪と映るものは、真実は、影に過ぎません-なぜなら、あなただけが全ての支配者であるからです。私たちの自我の邪な傾向に翻弄される時、私たちは自分自身をどうすることもできません。私たちの救い主となって下さい!」

 なぜなら、その王国、その力、その栄光は永遠にあなたのものだからです -「我らの父(なる神)よ。私たちはあなたを賛美する歌を歌います。すなわち、あなたの権威、あなたの栄光と美は、地、海、空を包んでいます。あなたの愛の王国はあらゆるところにあります。あなたは永遠に君臨しています!」

 アーメン -「あなたの御心がなされますように。そうありますように。」

 神の御心への完全な委ねの至高の例は、イエス・キリスト自身でした。この委ねは、愛の委ねでした。「私が父(なる神)を愛し父(なる神)が私に命じる ように私が行うことを世は知るでしょう。」(ヨハネ、14. 31)

 模範的な方法でイエス・キリストの足跡をたどった、みなに愛される一人の聖者は、アッシジのフランシスです。かつて、彼は修道士たちに「神の御心への委ね」を説きました。彼は、「ここにいるあなたがたみなに私は言い付けます。聖なる服従と従順を通じて、あなたの肉体的要求、飢えや渇きやあなたの肉体が要求する他の何ものも、まるで気に掛けないように。私はあなたがたに求めます。神を褒め称え、他のことについての思いを彼に委ね、瞑想と祈りにのみ従事するように。彼の神聖な摂理があなたがたが必要なものを取り計らいます。彼はあなたを彼の特別な庇護の下に置いています。あなたがたのそれぞれ全ての人が、この言い付けを喜びに満ちた心で受け取り、幸せな顔つきをしますように」と彼らに語りました。

 別の機会に、聖フランシスが鳥たちに教えを説いた時、彼は弟子たちに彼らもまた鳥たちのように神の摂理に彼ら自身を全託すべきであると説きました。ここで、聖フランシスはキリストが告げた教えに従っていました。「空の鳥を見なさい。彼らは播かず、刈り取ることも、集めて倉に入れることもありません。それでも、あなたがたの天の父は彼らを養って下さいます。」(マタイ、6. 26)

 シリアの聖イサクは、「いったん魂が神に完全に委ねられ、そして、神の助けを幾度も体験したなら、魂はもはやそれ自身のことを気に掛けませんが、驚嘆と沈黙に包まれています・・・魂が神の摂理を拒絶するといけないからと、それ自身の認識手段を当てにするように戻り、それらを運用することは、魂にとって不可能です-委ねによって、魂は神がそれを密やかに絶えず気遣っていることを知っています」と記しました。

 聖イサクはまた「私室」についても語り、その時、彼は、「神との親交を可能とするために、私たちは隠遁を必要とします」と説きました。

 さらに、彼は言います。「あなたがあなたの魂を完全に神の庇護の下に置く時、それで十分であると知りなさい。あなたがこれができる時、あなたはあなたために神によりなされる奇跡を目撃します。あなたは神がいつも身近にいて、彼を愛する人々にどのような援助でも行う用意があることを理解します。目には見えませんが、神の摂理はいつもそこにあり、魂を包んでいます。神がそこにいないと思い、そうであることを決して疑わないように。時に、神は、魂を向上させるために彼の存在を人間に見えるようにします。」

 証聖者マクシモスもまた、完全で、揺らぐことのない信頼を伴う、委ねについて話します。「あなたがた自身を神に投じ、あなたがたは祈りを頼りとしなければなりません。彼は彼の愛によってあなたがたを守り、あなたがたの世話をするでしょう。出エジプト記に、『主があなたがたのために戦います。あなたがたは沈黙を守らねばなりません』(出エジプト、14. 14)と記されてはいませんか。」

「I Surrender All」 歌詞:W. Van DeVenter 歌:Robin Mark

 イエス・キリストが説いたように、聖マクシモスも簡潔に述べます。「全ての善の目的(終わり)が、愛です。」

 愛と慈悲は、全く同じものです。

 イエス・キリストは、「あなたがたの父(なる神)が慈悲深くあるように、あなたがたも、それゆえ、慈悲深く ありなさい」(ルカ、6. 36)と言いました。

 自我は、自らの知を得ようというなら、情熱的な誠実さをもって、神の御心へ身を委ねなければなりません。

 イエス・キリストは、強烈な、活気に満ちた、生き生きとした真理を語りました。彼が発した一文は、私たちが決して無視することのできない言い付けです。「天にまします、あなたがたの父(なる神)が完全であるように、あなたがたも、それゆえ、完全となりなさい。」

 神を愛する者が慕い、それに向けて成長するのは、この完全性です。

(*1)ピリピ人への手紙、4. 4-7・・・「あなたがたは主の中にいつも喜びなさい。繰り返し言いますが、喜びなさい。あなたがたの節度をすべての人に示しましょう。主はすぐ近くにいます。何事も思い煩わないように。ただ、あらゆることの中に、感謝をもって祈りと願いによって、あなたがたの求めるところを神に知らせましょう。そうすれば、まるで理解を超えた神の安らぎが、イエス・キリストを通じ、あなたがたの心と思いとを守るでしょう。」
(*2) ヨハネの第一の手紙、4. 18・・・「愛の中には恐れがありません。完全な愛は恐れを取り除きます。なぜなら、恐れには罰があるからです。恐れる者は、愛において完全となされていません。」

☆以上の翻訳には聖書から多くの引用がありますが、その英文はおそらく「欽定訳聖書(Kings James Bible)」からです。その聖書の引用と「主の祈り」の解説の英文は文語体で記されていますが、分かりやすさを重視し、上では口語体で訳しています(文:shiba)。

2014年12月12日金曜日

委ねとは何か - もとより、全ては神のものである

◇『A Practical Guide To Know Yourself』 A.R.Natarajan、pp.116-124

25.あなたの重荷をサッドグルに手渡しなさい

 ラマナは、自らの探求、心の源の探索、そして、自らの委ねは、自らの知のためのただ二つしかない効果的な手段であるとよく言いました。委ねは概してより簡単であるとみなされますが、それはその真実の含意を理解し損なっているからです。それはサッドグルの導きと保護への完全で、無条件の信頼を含意します。「悪い」出来事が起こる時、我々はその理由を尋ねます。人は「良い」「悪い」が相対的な言葉、対になる両極の一部であり、他方がなければ一方を持つことはできないことを忘れます。それ以上に、人はカルマ的に良いもの、(心が)内に向かうことに役立つものを最もよく知るのは、サッドグルであるということを無視します。どのような質問や疑問も、委ねが不完全であるということを指し示すでしょう。

 委ねた人はまた、活動を探し求めず、それを放棄しようともしないでしょう。必要とされる行為が何であれ、それは行為のための力と行為の結果がサッドグルに依るという知識と共になされるでしょう。結果として、人は行為やその結果について心配しません。

 サッドグルへの信頼がしっかり根付くにつれ、委ねの精神は徐々に成長します。人が自らの探求を修練するにつれ、自分が行為者であるという概念は腐食します。委ねの道を邪魔するのはこの行為者性という考えであるため、この考えが弱まる時、全ての物事が神によって定められていることをより明確に知ることができます。人は、我々が委ねと呼ぶものが、「ジャッガリーで作られた主ガネーシャの像から少しのジャッガリーをつまみとり、ガネーシャ自身の崇拝において、それをお供えする崇拝者のごとく」であることをはっきり知るようになります。何も自分のものではなく、全てのものをサッドグルが有している時、何を委ねることができますか。この事実の認識は、心配という一切の重荷を取り除きます。それは全世界の重荷を負う者の責任であるとみなされます。

□ □ □

信奉者:
 委ねとは何ですか。

バガヴァーン:
 それは心の制御と同じものです。自らのより優れた権威を認める時に、自我は従います。これが委ねのはじまりです。自らがなければ自我は存在できませんが、しかし、この事実の無知のために、それは反抗的なままいて、自分から進んで、自分の意思によって行為します。

信奉者:
 どうしたら反抗的な自我が服従させられるのですか。

バガヴァーン:
 その源を探し求めることによって、その時、自我は自動的に消えます。もしくは、自発的に全ての行為、動機、決定をサッドグルに委ね、それにより自我を根こそぎにすることによって。習慣によって思考がなくてはならない永続的なしきたりであるという誤った観念が作り出されますが、探求と分別はその誤信を破壊します。

信奉者:
 人々はやグルの前で平伏します。私が思うに、彼らの委ねを証明するためか、少なくともそれを示すために。

バガヴァーン:
 真の委ねは自我をその源、ハートの中で溶かすことです。は外側の行為によって欺かれません。崇拝者の中に彼が見るものは、どれほど自我が十分に制御されているか、どれほど破壊の間際にいるかです(*1)

****

信奉者:
 委ねとはどういう意味ですか。

バガヴァーン:
 人が委ねる時、彼の中に行為者の感覚はなくなります。平静な気持ちがあり、行為やその結果を心配しません。どのような務めも彼自身のために行いません。そのような人は、全ての行為を放棄した者でしょう。(*2)

****

 初めてやって来たパルシー教徒の紳士が尋ねました:

信奉者:
 私は聖なる事柄について初心者です。私の友人の一人は、への委ねが最良の道であると勧めました。私は神に委ねましたが、彼は聖なる道にいる私を教え導いてくれません。どうぞあなたの恩寵を施して下さい。

バガヴァーン:
 ああ!あなたは委ねました、そうですね。それでは、どうしてが何もしていないとあなたは言うのですか。それはただあなたが委ねの真意を理解していないということでしかありません。あなたはあなた自身を完全にの思うままにし、何の見返りも期待すべきではありません。

信奉者:
 今や私は私の委ねの理解が不完全なものであったことを悟りました。私を正しく導いて下さい。

バガヴァーン:
 あなたは恩寵が必要だと言います。導きを期待し、あなたがここに来ること、それ自体がの恩寵です。あなたの委ねが完全で、無条件であるなら、同じ恩寵が継続します。あなたは何も頼む必要はありません。「私」と「私のもの」という思いを取り除こうと努めなさい。何ものもあなたのものであると思わないように。それは全てのものです。(*3)

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信奉者:
 どうして私の安かな状態への妨げが訪れるのですか。

バガヴァーン:
 あなたが良いとみなす物事があなたに訪れる時、あなたがたは喜び、に感謝します。それは正しいことです。しかし、あなたが悪いとみなす物事が訪れる時、あなたは同様に感謝すべきです。そこのところで、あなたは失敗しています。(*4)

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信奉者:
 あなたが哀れな私にわが道を行かせるに任せるなら、どうして私が救われますか。

バガヴァーン: 
 私が何かをしようと、何もしなくても、あなたは委ね、ただ静かにいなければなりません。(*5)

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 才気ある人のように見える品の良い女性が講堂を訪れ、平伏しました。

信奉者:
 (彼女は声を低くして言いましたが、それでも聞きとれました)-私はによって安楽な人生に恵まれています。私は人間が所有したいと望むもの全てを持っています。

バガヴァーン:
 では、あなたは幸福です。さらに何が必要ですか。

信奉者:
 いえ、いえ。私は何かが欠けているのをはっきり感じます。私は完全な心の安らぎを享受していません。

バガヴァーン:
 おや、そうですか。あなたの人生の目的は完了しておらず、そのために、安らぎがありません。

信奉者:
 物質的な安楽があるにも関わらず、私は幸せではありません。私の心はいつも不安で、そして、動揺しています。おそらくは、私の運命によるものでしょう。

バガヴァーン:
 ええ、ええ。あなたは率直に全てのことを話しました。運命とは何ですか。あなたが高き力に委ねるなら、運命がどうしてあなたに影響を及ぼせますか。委ねが答えです。それは全てのものを正しく整えます。

信奉者:
 それが私の悩みです。私は委ねることができません。私の自我が邪魔をします。

バガヴァーン:
 そうかもしれません。ですが、あなたの試みを続けなさい。一点に向けられた集中力を持ちなさい。あなた自身をに委ねなさい。「私はあなたの思いのままです。私は無力です。私はあなたに委ねます。私はあなたの助けを求めます」と言いなさい。それは安らぎをもたらします。

信奉者:
 確かに分かってはいるのですが、私は実践することができません。おそらく、それは私の運命によるものです。

バガヴァーン:
 運命に何ができますか。あなたが完全な委ねを行うなら、それは働かなくなります。あなたは心配から解放されます。心は穏やかになり、安らぎが行き渡ります。(*6)

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「自らの達成の力、あなたの重荷をに委ねよ、すべてのヨーガの真髄」で翻訳済み

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信奉者:
 もし顕現した存在全体が唯一のでしかないなら、いったいどうして放棄が可能なのですか。放棄されるべきものとは何ですか。

バガヴァーン:
 人は以外は何でも存在するという間違った知識を放棄しなければなりません。顕現した見かけがどのように映るのであれ、二元性や複数性が何であれ存在するという概念を放棄しなければなりません。至高なる存在のみが、唯一の現実です。それのみが在り、見かけの複数性を支えています。ですから、以外は何でも存在するという知識を放棄しなさい。言いかえれば、二元性や複数性の感覚を放棄しなさい。

信奉者: 
 聖典が信徒を教え諭し、彼に二元性の概念を放棄させることは疑いなく良いことですが、聖典のこの教えと同様に重要な指示、つまり、への自らの委ねとをどのように調和させられるのですか。何であれ二元性が存在しないなら、自らの委ねの必要性や可能性はどこにありますか。

バガヴァーン:
 これらの地方のある人々の間の主ガネーシャへの深い献身の気持ちに基づいた習慣に我々は親しんでいます。この人々にとって、その地域の全ての寺院に安置されている彼の聖像への日々の崇拝は、彼らの日々の食事の前の不可欠の儀式です。この信条を持つ、ある貧しい旅人が、あまり人の住んでいない国を通りかかっていました。昼食の前の聖像への日々の崇拝を行えるガネーシャの寺院が近くにどこにも見当たらず、彼は少量のジャッガリー(ブラウンシュガー)からその神の像を作ろうと決心しました。ジャッガリーから像を作り、彼は熱心に儀式を続けました。しかしながら、儀式の中で彼がそのへ少しの神饌(しんせん)をお供えしなければならない所に至った時、その像をつくるために彼が持つ全てのジャッガリーを使ったため、彼は鞄の中に何も残っていないことに気づきました。しかし、通例の神饌のお供えがなければ、どのような崇拝も完全なものになりえないため、その単純な旅人はその像そのものからジャッガリーのかけらをつまみとり、それをそのにお供えしました。ジャッガリーのかけらをつまみとるというまさにその行為において、彼が崇拝したいと望んだ、まさにその像を汚し、それゆえに、崇拝と供物を共に無価値なものにしたことに彼は気づきませんでした。

 あなたの自らの委ねの考えは、その旅人によってなされた供物に勝るものではありません。あなたがあなたの存在を至高なる存在から離れた何かとして仮定することによって、あなたはそれをただ汚しているに過ぎません。あなたがあなた自身を委ねても、委ねなくても、あなたがその至高なる存在から離れていたことは決してありません。実際、この瞬間に、まさに過去や未来におけるように、のみが在ります。(*8)

****

信奉者:
 委ねは主要なサーダナですか。

バガヴァーン:
 疑いなく、委ねのサーダナは認められています。しかし、委ねが完全な時、区別は存在しません。弟子がグルからマントラの手ほどきを受け、彼が委ねたと信じる時、しばしば、彼の委ねは本物ではありません。委ねにおいて、人は心を放棄しなければならず、心が引き渡された後、どのような類の二元性も存在しません。から分離したままである彼は、委ねていません。

信奉者:
 全ての行為とその結果が神に委ねられるなら、心は制御されるのでしょうか、されないのでしょうか。

バガヴァーン:
 そのようにすることによって、心は清められますが、それは死んではいません。大酒のみが彼の行為とその結果を神に委ねたと考えたとしましょう。その酔っぱらった状態で、彼が過ちを犯し、その過ちのために誰かが彼を棒で叩くなら、彼はその殴打もまた神に委ねなければなりません。しかし、誰もそのように振る舞いません。彼の様子は彼が殴打を受けた時点で変わります。

信奉者:
 我々がグルやに委ねるなら、個人の現実性は消え去り、それと引き換えに、我々はより大きな現実の支えを得て、の力が我々の内に輝くと信じられています。

バガヴァーン:
 委ねた後に、より大きなの力を受け取ることを期待することは、委ねの真の態度ではありません。(*9)

****

 ある人が母の寺院に鐘のなる時計を寄贈し、それによってバガヴァーンは一連の考えを現わし始めました。

バガヴァーン:
 崇拝には、少量の樟脳で十分です。これが行われないのに、人々はから不釣り合いな賜物(たまもの)を期待します。自分たちがに多くを与えたという思いを抱き、反り返って歩く人もいます。彼らが与える彼らのものとは、実際、何ですか。が有するものの内の少しが返還されました。それだけのことです。思いなきままにいることが、人がに捧げることができる最良の供物です。(*10)

****

信奉者:
 修練のために、カルマを取り除いたり、無効にするように、そして、モークシャの達成を早めるようにに祈ることは正当なことではありませんか。

バガヴァーン:
 正当なことです。あなたが高き力と異なると感じる限り、それに祈りなさい。あなたがあなたの上に重荷があると感じる限り、それに関して祈りなさい。しかし、さらに良いのは、プラパッティ、自らの委ねの境地を得なさい。そして、あなたの全ての重荷をに委ねなさい。その時、はあなたの背中から重荷を取り去り、あなたがの内にあり、と一体であるという実感をあなたに与えます。(*11)

(*1)S.S.Cohen、『Guru Ramana』、p. 59.
(*2)K.R.K.Murti、「My Reminiscences of Sri Ramana Bhagavan」、『The Mountain Path』、July 1985、p. 183.
(*3)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、May 1991、p. 75.
(*4)A.Devaraja Mudaliar、『My Recollections of Bhagavan Sri Ramana』、1960、p. 113.
(*5)同上、p. 118.
(*6)N.N.Rajan、『Leaves from the Diary』、The Ramana Way、Mar. 1991、p. 9.
(*7)Kapali Sastri、『Sat Darsana Bhasya and Talks with Maharshi』、pp. xxiv-xxvi.
(*8)Swami Madhava Thirtha、「A Visit to the Maharshi」、『The Mountain Path』、Oct 1981、p. 225.
(*9)Swami Madhava Thirtha、「Conversations with the Maharshi-I」、『The Mountain Path』、Oct 1980、p. 211.
(*10)A.R.Natarajan (tr.and ed.)、『Unforgettable Years』、「Subbalakshmi Amma」、p. 89.
(*11)B.V. Narasimha Swami、「A Dialogue with the Maharshi-IV」、『The Mountain Path』、Apr. 1983、p. 90.

2014年12月7日日曜日

委ねの真意 - 主に『Talks~』と『Day by Day~』からの引用

◇「山の道(Mountain Path)」、1977年1月 p4~6

バガヴァーン自身の言葉による委ねの真意
シュリー・バガヴァーンはしばしば委ねを効果的な方法だと述べましたが、彼はその用語の含意についての一般的な誤解を取り除くように気を付けました。彼自身の言葉で以下に複写される彼の教えは、『バガヴァッド・ギーター』におけるの保証-の恩寵により、汝は至高の安らぎ、永遠の住まいを得る(18‐62)-の真の意義を明らかにします。
  人は個人が世界の重荷を担っているという誤った思い込みを取り除くべきである:
 「が世界の重荷を担っている。それを担っていると思う、偽の自我は、(寺院のてっぺんで)それを支えているように見える、歯を食いしばる彫像のようである。(鉄道)客車の中で旅する人が、彼の荷物を車両の中に置かずに、頭の上に乗せ、不快を感じるならば、それは一体誰の過ちなのか。
 -「40詩節への補遺」、第17詩節
バガヴァーン: あなたがあなた自身を高き力に委ねるならば、万事うまくいきます。その力があなたのことを最後まで面倒見ます。ただあなたが「私は行為の主体である」と思うかぎりは、あなたはあなたの行為の結果を受け取らざるを得ません。一方、あなたがあなた自身を委ね、あなた個人を高き力の道具でしかないと認めるなら、その力が行為の結果と共にあなたのことを引き受けます。あなたはもはやそれらに影響されず、務めは妨げなく進み続けます。あなたがその力を認めても、認めなくても、物事のあり方は変わりません。(物の)見かたが変わるだけです。あなたが列車で旅行している時、どうしてあなたの荷物を頭の上で支えなければならないのですか。あなたの荷物が頭の上にあっても、列車の床の上にあっても、列車はあなたとあなたの荷物を運びます。それを頭の上に置くことによって、あなたは列車の負担を減らしているわけではなく、ただあなた自身に不必要に負担をかけているだけです。世界における個々人の持つ行為者の感覚についても同様です。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 478

 完全な委ねは、解放の別名である:
サイード博士: 全面的、または、完全な委ねは、自分の中に解放やへの望みさえも残すべきでないということを求めますか。
バガヴァーン: 完全な委ねは、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないこと、の御心のみがあなたの望みであり、あなたがあなた自身の望みをまるで持たないということを求めます。
サイード博士: 今や私はその点について満足したので、私が委ねを達成しうるための手段とは何であるのか知りたいと思います。
バガヴァーン: 二つの道があります。一つは「私」の源を調べ、その源に溶け込むことです。もう一つは、「私は独りでは無力だ。のみが全能であり、を完全に頼りとする以外、私には他に安全は存在しない」という感情であり、そうして、のみが存在し、自我は重要でないという確信を徐々に育てます。両方の方法は、同じ目的に通じます。完全な委ねは、ジニャーナ、もしくは、解放の別名です。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 176

 委ねはジニャーナと異ならない:
質問3: 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。
バガヴァーン: どの道を通ってあなたが行っても、一者の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「御身は全てである」や「御身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハム(「私はである」)には、ドゥヴァイタ(ニ元性)が存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷をへ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死は、ジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。
-『Day by Day with Bhagavan』、p. 32

 真の委ねにおいて、人はの御心に従わねばならない:
シュリー・ラーガヴィア: 我々は委ねます。しかし、いまだ助けはありません。
バガヴァーン: ええ。あなたが委ねたのなら、あなたはの御心に従うことができなければならず、あなたの気にいらないかもしれないことについて不平を言ってはいけません。物事は見かけの上で見られるものとは異なっていると分かるかもしれません。苦悩は、の信仰に人をしばしば導きます。
シュリー・ラーガヴァイア: しかし、我々は世俗的です。妻、子供たち、友人、親族がいます。彼らの存在を無視し、我々の中にいくらか少しの人格を保つことなく、の御心に身を任せることはできません。
バガヴァーン: それは、あなたによって明言されたように、あなたが委ねていないということを意味します。あなたはのみを信頼しなければなりません。
-『Talks with Sri Maharshi Maharshi』、p. 49
マハルシ: が現れても消え去っても、に委ね、の御心に従いなさい。の望みを待ち受けなさい。あなたがにあなたが気にいるように行うよう頼むなら、それは委ねではなく、への命令です。あなたはをあなたに従わせることはできませんし、あなたが委ねたと思わせることもできません。が何が最善なのか、いつどのようにそれを行うべきか知っています。全てのことをに任せなさい。重荷はのものです。あなたにはもはや何の心配もありません。全ての心配はのものです。委ねとは、そういうものです。
ー『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 425

 人は自らの存在の根源の原因に身を委ねるべきである:
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、それで十分です。委ねとは、自らの存在の根源の原因へ身を委ねることです。そのような源があなたの外側の何らかのであると想像することで、思い違いをしないように。自らの源は、自分自身の内にあります。それに身を委ねなさい。あなたがあなた自身がそれの外にいると想像するため、あなたは「どこにその源があるのか」という質問を提起します。砂糖はそれ自体の甘さを味わえず、味わう人がそれを味わい、楽しまねばならないということを主張する人もいます。同様に、個人は至高者になりえず、その境地の至福を享受することはできない。それゆえ、喜びが生じるためには、一方では個人性が、他方では神性が保持されねばならない!は砂糖のように意識がありませんか。いったいどのようにして、自分自身を委ね、それでもなお、至高の喜びのために個人性を保つことができるのでしょうか。さらに、彼らはまた、人はの領域に達し、そこに留まり、至高の存在に奉仕すると言います。「奉仕」という言葉の響きは、を欺けますか。は知ってはいませんか。はそれらの人々の奉仕を待っていますか。純粋な意識-は代わりに尋ねはしないでしょうか-「大胆にも私に奉仕すると言う、私から離れたあなたとは誰ですか』。 
 人が原初の根源から離れていると言うこと、それ自体、自惚れです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、pp. 175-6

 部分的な委ねは、完全な委ねに通じる:
信奉者: 委ねは不可能です。
マハルシ:ええ。はじめは、完全な委ねは不可能です。部分的な委ねは、間違いなく、みなにとって可能です。やがては、それは完全な委ねに通じます。さて、委ねが不可能なら、何ができますか。心の安らぎがありません。それをもたらすには、あなたは無力です。それは委ねによってのみ、なしえます。
信奉者:部分的な委ね-なるほど-それは運命を取り消せますか。
マハルシ: ええ、そうです!できます。
信奉者: 運命は過去のカルマによるのではありませんか。
マハルシ: 人がに委ねるなら、がその面倒を見ます。
信奉者: それがの摂理であるなら、いかにしてがそれを取り消すのでしょうか。
マハルシ: 全てはの中にのみあります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 195
信奉者: 委ねは努力の後に訪れます。
マハルシ: ええ、それはやがて完全になります。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 405

 委ねは、実現(悟り)への二つの主要な手段の内の一つである:
信奉者: 私は私の自らを実現するにはあまりに弱すぎます。
マハルシ: それなら、あなた自身を無条件で委ねなさい。そうすれば、高き力が自らを啓示します。
信奉者: 無条件の委ねとは何ですか。
マハルシ: 人が自分自身を委ねるなら、質問を尋ねる、もしくは、考えに入れられるべき人は存在しません。「私」という根本の思いにつかまることによって思いが排除されるか、高き力に自分自身を無条件に委ねるか。実現には、その二つの道しかありません。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、pp. 284-5

 委ねた者には矛盾は生じない:
信奉者: (祝福のために)おそばに行ってもよろしいでしょうか。
マハルシ: そのような疑問があなたの中に起こるべきではありません。それはあなたの委ねの声明と矛盾します。
信奉者: あなたはジニャーナ・ヨーガについて話すようですが。
マハルシ: ええ、そうです。
信奉者: しかし、委ねはバクティ・ヨーガではないですか。
マハルシ: 両者は同じものです。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi]』、p. 405

 委ねた者には質問は起こらない:
信奉者: 私は3か月間待ち、助けがやって来るのか確かめます。さて、私はその保証を得られますか。
マハルシ: それは委ねた者によって尋ねられたことですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 406
信奉者: 委ねた後の心の流れはどうなりますか。
マハルシ: 委ねた心がその質問を提起してるのですか。
-『Talks with Sri Ramana Maharshi』、p. 334