バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
46年2月2日 朝
訪問者が、ハリジャンの向上のために働いていること、その運動の彼の協力者たちがマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得て、彼の祝福を受けたこと、マハートマー・ガーンディーが、もし彼らがハリジャンの娘とより高いカーストの紳士との間に結婚をもたらすことができるなら、そのような結婚は彼の祝福を得るだろうと彼らに言ったこと、彼(訪問者)がこの件についてのバガヴァーンの見解を聞きたいということをバガヴァーンに伝えました。バガヴァーンは、「マハートマー・ガーンディーがそのように言ったのなら、私たちは皆、彼が言ったことに耳を傾けるでしょう。私たちにとってなすべきことがさらに何かありますか。彼は著名な人物で、その分野で働いています。私たちはそれと何か関係していますか」と言いました。私たちのほうに向き、バガヴァーンは言い足しました。「私が口を開けば、誰それもまたこれこれのことを言ったと新聞に何か出るでしょう。翌日にはそれを批判する人々がいるでしょう。私たちの仕事は、静かにしていることです。私たちがこの全てに携わるなら、人々は当然、もっともなことにも、『どうして彼は静かにしていないで、この全てに口出ししているのか』と尋ねるでしょう。同様に、マハートマー・ガーンディーが、全ての活動をわきに置いて静かにしているなら、彼らは、『どうして彼はこの全ての活動に携わらないで、静かしているのか』と尋ねるでしょう。彼は彼が来た目的のことを行わなければいけません。私たちは私たちが来た目的のことを行わなければいけません」。
アーブー山からのアーナンダ・スワーミという人が、質問をして、以下の答えを得ました。
質問: 本の中で、プルシャはアングシュタ・プラマナだと言われています。それは一体、何を意味しているのでしょうか。
答え: 明らかに、本は、その中にプルシャが顕現しているウパーディに言及しているに違いありません。本が、全てに行き渡るプルシャがアングシュタ・プラマナであるということを意味しているはずがありません。
質問: そのプルシャはハートの中にありますか。
答え: あなたが物質的なハート(心臓)のことを言っているのなら、そんなはずがありません。しかし、本は、逆さまの蓮華であるハートを内なる洞窟とその洞窟の中の炎などと表現しています。そのような霊のハートの中に、プルシャが住まうと言われているかもしれず、その炎はそのアングシュタ・プラマナであるかもしれません。
質問: その光を見ることが自らの実現ですか。
答え: それを見ることではなく、その中に住まうこと、それであることが、自らの実現です。
質問: ニルヴィカルパ・サマーディでは、プラーナはどうなりますか。
答え: それが出て来たところに行き、溶け込みます。
質問: その時、呼吸があるのかどうか知りたいのですが。
答え: その時、呼吸の形ではなく、何らかのスークシュマな形であるかもしれません。マハー・プラーナについて話されています。
質問: サハジャ・サマーディとは何ですか。
答え: それは私たちのスワバーヴァ・スティティです。それは私たちの自然な状態にいることです。ニルヴィカルパ・サマーディもまた、私たちのヴィカルパを捨て去ることしか意味しません。私たちがヴィカルパを捨て去るなら、サマーディは私たちの自然な状態です。
質問: スシュプティ・アーナンダとトゥリーヤ・アーナンダの違いは何ですか。
答え: 異なるアーナンダは存在しません。ただ1つのアーナンダしか存在せず、それは目覚めの状態の間に享受するアーナンダ、最も下等な動物から最上のブラフマーまでのあらゆる種類の存在のアーナンダ、自らのアーナンダを含んでいます。眠りの中で無意識に享受される至福は、トゥリーヤでは意識的に享受されます。それが違いです。ジャーグラットの間に享受されるアーナンダは、ウパーディ・アーナンダです。
午後の大部分の間、バガヴァーンは、ヴェンカテーシャ・シャーストリアーがウパニシャッドの中に見出されるリブの全ての言葉をひとまとめにしたノートを熟読していました。
46年2月3日 午前
ラジオのニュースが、4、50万の人々がガーンディーに会うためにマドゥラに集まったと知らせました。バガヴァーンは、「そのような群衆を収容する場所はどこですか。おそらく、アラガル寺院に向かう途中でしょう」と言いました。このことはバガヴァーンにマドゥラでの彼の昔の時代について思う気にさせ、言いました。「私には1人親戚がいました。叔父みたいもので、その寺院のマニガルでした。そのため、私は時折そこに行っていて、私たちはそこで大いに尊敬され、注目されていました。そこでは大量のギーで、とても素晴らしいポンガル・プラサードが作られていました。ある時、大きな真鍮のお皿に入ったそのようなプラサードをもらい、他に誰もいなかったので、私はそれをはるばるほぼ2マイル、その叔父の村まで運びました。しかし、その家の人々が結局はあまりそれを欲しがっておらず、その大部分を彼らの召使たちに与えたことに気づきました。彼らはとてもそれに慣れていたため、それは彼らを引き付けませんでした。私はその寺院の敷地によく遊びに行きました。寺院の周りには様々な建物があり、今は顧みられず、廃墟となっていますが、ナーヤクの王たちによって使われていました。ティルマル・ナーヤクはそこに住んだと言われています。当時、このラージャたちは彼らの山々を要塞化し、そこに住みました。例えば、ジンジーを見なさい。ジンジーの要塞は3つの山の上に建てられています。それらは全て廃墟になっています。この地方の近くのパダイヴェードゥは、昔、大都市でした。ハンピは大都市で、帝国の首都でした。その町はシュリー・チャクラをひな型にして造られていること、どこかに何らかのわずかな間違いがあったこと、そしてそのために帝国は一時期繁栄したが、持ちこたえられずに衰退したことが言われています。(以前はハンピのディワーンで、後にシャンカラーチャーリヤの)ヴィドヤラーニャによってなされた予言が、再びその帝国の子孫かムトの彼の後継者がシュリー・チャクラをひな型にして都市を造るなら、その都市を首都にして大帝国が再び繁栄するだろうと言明したという噂があります。現在のシャンカラーチャーリヤがそのような運命のために生まれてきた人物かもしれないとさえ思っている人たちもいます。私たちのナーヤナは、この町(ティルヴァンナーマライ)はもともと、神々自身によって、シュリー・チャクラをひな型にして作られているため、私たちが山のあたり一面に家を建て、その都市を作りさえすれば、これが大帝国の首都になるだろうと思っていました。彼はスワラージについていつも考え、話し、それを夢見、その計画を立て、スワラージが得られるときに彼が何をするつもりか言っていたものでした。古い、古い時代に山の南側のどこかこの辺りに町があったと人々は言います。今後何が起こるのか誰にも分かりません。今ここにある、この全ての家々が建てられることになるのを私たちは想像しましたか」。
バガヴァーンはまた、アラガル寺院が、ティルパティ寺院と共に、シヴァ派によってムルガ(主スブラマンヤ)の寺院としてみなされていること、それはムルガの6つのパダイヴェードゥの1つだということを言いました。
午後
バガヴァーンは、どのように聖スンダラムールティと寺院を結びつける部分が扱われているのか確かめるために、ティルチュリのsthala puranaを読んでいました。彼は私たちにそれをあちこち説明していて、聖者を褒め称える様々な文章を読んでいる間に、バガヴァーンは感極まってものが言えなくなり、ほとんど先に進めませんでした。少なくとも1ダース(12回)は、彼は言葉を詰まらせ、自分を抑えた後で、先に進まなければなりませんでした。
46年2月4日
昨晩、バガヴァーンは、ティルチュリのsthala puranaの中で、ティルチュリでスンダラムールティの前に神がカライヤールとして現れ、彼にカナペルールに来るように求めたことを読みました。このカライという言葉は、牡牛か、比ゆ的には若い精力的な男性のどちらかを意味するかもしれません。その本にはさらに、彼は手に花束とchuzhiyam(三つ又のほこ)と呼ばれる武器を持って現れたと書かれていました。(牛か男性かの)疑問を解消するために、バガヴァーンは、もし手に入れられるなら、そのカナペルールのsthala puranaを調べたほうがいいでしょうと言いました。ムルガナールは、私たちの図書館にその本を一冊贈呈したと言いました。それで、それはすぐに見つけ出され、バガヴァーンに手渡され、彼はその本をくまなく調べました。今日の午後もまた、彼はその本を読んでいました。この本でもほとんど同じ言葉が使われていたため、疑問を解消することはできませんでした。彼は私たちにいくつかの部分を、特に、一般的に知られていない以下の出来事も載ったSundaramurti Padalamを読み上げました。シヴァが「カライヤール」として現れ、聖スンダラールに、「どうしてあなたは私たちについて歌っていないのですか。私たちはカナペルールに住んでいます」と尋ねたときに、その聖者は彼がその時いたティルチュリでさえ歌い始め、カナペルールに向かって歌い続けたようです。途中、彼はティルプナイヴァーサルで止まりました。そこに、神と女神が老人とその妻としてスンダラムールティのところに来て、とてもお腹がが減っていると言い、彼に食べ物を求めました。彼は急いで彼らのために食べ物を調理しましたが、用意できたとき、客を見つけることはできませんでした。スンダラムールティは村の中で彼らを探しましたが、彼らを探し出すことはできませんでした。彼が家に戻ると、用意した食べ物もまた消えていることに気づきました。その時、スンダラムールティは、これは主のリーラーだと思いました。すると、声がしました。「カナペルールの私たちのところに来ずに、あなたはここで何をしているのですか」。スンダラムールティは、「どうすればいいのでしょうか。あなたはどこかの森の中に行き、住んでいます。私はそこへの正しい道をほとんど知りません」と答えました。その声が、「私は牡牛に乗ってあなたの前を行くでしょう。その牡牛の足跡をたどりなさい」と言い足しました。それで、スンダラムールティはしばらく足跡をたどりました。しばらくすると、足跡が見つかりませんでした。スンダラムールティは再び祈りました。すると、再び足跡が見え、それをたどりました。かなりの距離の後、足跡はなくなり、彼がどこを見てもリンガムがありました。全てはリンガ・マヤ、ジョーティ・マヤでした。それでも、スンダラムールティは一方向に進み、寺院のヴィマーナムを見つけました。
彼とその一行は、外の貯水池で体を洗い、寺院に入りたいと思いました。すると、見よ!寺院が消え去りました。その時、スンダラムールティは、「我が主が私に腹を立てているのは、私が最初にここに来なかったからだろうか」と心の中で思い、祈り始めました。すると直ちに、ヴィマーナムの頂上が1つ1つ現れ、寺院がそこにありました。バガヴァーンはこの全てを私たちに物語り、最後に言及された情感や祈りがそこに見つかるか確かめるために、聖スンダラールのテヴァーラムに目を向けました。それは見つかりませんでした。しかし、バガヴァーンはテヴァーラムを読み上げ、一度ならず、それらの歌のバーヴァと共鳴し、大いに心動かされ、感極まってものが言えなくなりました。しかし、感動に圧倒されたときに時々彼がするようにその本をわきにはやらず、大いに努力して自分を抑え、テヴァーラム全編を(読み)終えました。彼は特に、その聖者が神は全てのバーヴァを超えている(タミル語)ハートの中で実際に彼に瞑想する人々にとって花の蜜のようだと言った詩と、その聖者が神を彼の友、主、師と呼ぶ詩もまた指摘しました。彼はその本をわきに置き、ムルガナールが講堂に入ったすぐ後、バガヴァーンは、「彼は今着ました」と言い、私はどうしてバガヴァーンがそう言ったのかムルガナールに説明しました。すぐ後、バガヴァーンは、私が上に記録したほとんど全ての物語をムルガナールに話し始めました。
今日の午後、タレヤーカン婦人が言いました。「バガヴァーン、私は、私がティルコイルールでした体験を報告しなければいけません。私は前に何回もティルコイルールに行っていますが、バガヴァーンが訪れた寺院などをこれまで目にしていませんでした。そのため、今回、私は必ずその全てを訪れることにし、私を全ての場所に案内するために、わざわざ私たちのヴィシュワナータに同行してもらいました。私たちは最初、アライヤニ・ナッルール寺院に行きました。46年2月2日に私たちがその寺院に到着したのは、午前8時ごろでした。がっかりしたことに、寺院の巨大な扉が大きな錠前で閉じられていることに気づきました。寺院の内側にも外側にも人が見当たりませんでした。私はどうすればいいのか分かりませんでした。どうにかバガヴァーンの最初の旅に関係する全ての寺院とその中のいくつかの場所を必ず見られますようにと、私は熱心にバガヴァーンに祈り続けていました。ヴィシュワナータが、『外側のプラカラを回って、何をなすべきか考えましょう』と私に言いました。それで、私は彼と共に回り始めました。しかし、私はずっと心の中で、私が気落ちして送り戻されませんようにと、私が訪問の目的を必ず全うしますようにと、バガヴァーンに強く祈っていました。私たちが回っているときに、私はある場所で水と牛乳が寺院の内側から滴り落ちているのを見て、寺院の中に誰かいるにちがいないとヴィシュワナータに言いました。しかし、ヴィシュワナータは、アビシェーカムの水が滴り落ちてるのかもしれないと言いました。私が4番目の角を回っているとき、驚いたことに、扉がほんの少し開いていることに気づきました。私たちが静かにこっそりと入ってくるように誰かが求めているかのようでした。私たちは回ることをやめ、寺院に入りました。中で、私たちは愛嬌のある顔つきの年を取った僧侶を見つけました。彼は、しかしながら、私たちがそこにいる間中、私たちと一言も話しませんでした。彼は私たちのためにアーラティ、アルチャナ、全てのことをを行い、そこは暗かったので、私たちの要望でランプをつけ、私たちに全ての場所を案内しました。私たちは外に出て、再び寺院の周りを回りました。私たちが回り終えるまでに、扉は再び閉められていて、その老人はいなくなりました。その日、扉を開け、私たちにダルシャンを与えたのは、バガヴァーンの恩寵でしかないと私は思います」。バガヴァーンはヴィシュワナータに、「その老人は誰か尋ねて、調べなかったのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「いえ、しませんでした」と答えました。
46年2月5日
午前も午後も、バガヴァーンはKalaiyarkoil Puranamを読んでいて、その中の様々な部分を私たちに説明していました。彼はとてもその歌と物語に夢中であったため、今朝、新聞が届いた後でさえ、私たちに説明し続けていました。いつものようにラジオを聴くことを認められなかったために残念がっていた、付添人のクリシュナスワーミは、「そのような物語まで、バガヴァーンが取り上げるなら、全くきりがないでしょう」と発言しました。話を聞いていて、そうしてある意味バガヴァーンが話し続けるように励ましていた私たちを自分は非難しているのだと彼は思っていました。彼は、バガヴァーンが得ていたような、人が他の人々と分かち合たいと思う文学上の小旅行の楽しみを理解できませんでした。バガヴァーンは私たちに、どのようにその詩人が彼の技を示しているのか、どのようにたった一節がその詩人に何日も不安な思いをして過ごさせたかもしれないかを私たちに説明していました。
46年2月6日
昨晩、ここの副行政長官で、転任のためカダルールに発つ、ラージャラトナ・ムダリアールが、いとまごいをしにバガヴァーンのもとに来ました。私の要請を受けて、彼は、ここでタミル語と呼ばれる祭りにおいて祝われる神と女神の間のタミル語(愛の口論)に関連して寺院の僧侶に使われる歌や会話などの写しを手に入れていて、私にそれを渡しました。昨晩、私は吟味してもらうためにそれをバガヴァーンに預けました。7時45分ごろに私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは上記のものを読んでいて、それを彼の近くの人々に説明していました。私が入ってくるのを見て、バガヴァーンは、「今来たばかりですか」と言いました。ちょうどその時に説明していた箇所を終えた後、彼は再び私のために初めから読んで説明しはじめ、最後まで読み続けました。私たちはラージャラトナム氏が手に入れた写しが完全でないことに気づきました。私に届けられた写しの中に含まれていないものが寺院の僧侶のもとにあるのかどうか突き止めることを私は約束しました。
本日、午前10時から11時の間に、寺院の前のバガヴァーンの新しい講堂のための基礎が築かれ、バガヴァーンはその式典に出席しました。その仕事を担当するシュタパティ(シュリー・ヴァイダヤナータ・シュタパティ)が、簡単なスピーチを行い、その中で、全ての仕事を1年以内に完了するように取り計らうことが彼の目標であり、努めであること、彼が全てのバガヴァーンの信奉者の協力と善意を求めることを彼は言いました。多くの信奉者もまた、様々な金額を寄付しました。はじめにある未亡人が来て、サルヴァーディカーリにいくらかお金を差し出しました。彼はそれを受け取り、「このお金をその女性が寄付金として提供してくれました」と言いながら、地面の上のお盆にそれを置きました。すると直ちに、様々な信奉者が様々な金額を置き始めました。その場所に差し出された額は、2000ルピー以下のはずはなかったと思います。ティルコイルール出身のラジオの歌手が、バガヴァーンを称える2、3の歌を歌い、その式典は私たち、入居者のためのご馳走で終わりました。
午後
バガヴァーンはもう、カライヤールコイル神殿についての本の大半を読んでいて、「カライヤール」は、若くたくましい男性だけを意味し、雄牛ではないという、つまり、彼はティルチュリの近くに若い男性として聖スンダラの前に現れたというのが彼の意見です。
夜
パーラーヤナの後、ある人がやって来て、「私たちは明日の朝、私たちの村に行きます」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「分かりました」と言い、その人は去りました。付添人のほうを向き、「タミル語(彼らに与えられていますか)」と言いました。付添人は出ていき、尋ね、戻ってきて、「彼らにまだ与えられていません。しかし、彼らに与えられるものが取っておかれています」と報告しました。私はこの全ては何についてなのかと思っていました。バガヴァーンは、「私が山のアーシュラム(つまり、スカンダーシュラマム)にいたとき、アンナーマライ・スワーミという人がいました。彼は1922年のタイの月に亡くなり、エーサンニャ・マト近くに埋葬されました。これは彼のグル・プージャー、命日法要です。彼の親族が来て、毎年それを祝います。彼らはそこで貧しい人々に食事を与え、お米などをここに置いていきます。私たちは彼らに私たちのプラサーダム(ヴァダイ、ポンガルなど)を与えます。そのようなグル・プージャーの日には、私たちのタミル語のパーラーヤナと共に、そのアンナーマライ・スワーミによって作られた歌を歌うのが通例です。私は彼らが今日何をするつもりなのか知りません」と私に言いました。私は、「それが慣習であったなら、私たちは今日ぜひとも同じことをすべきでしょう。それについてどうして疑問があらねばならないのしょうか」と言いました。そうしているうちに、バララムが、そのアンナーマライ・スワーミとは誰かバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンはそこで直ちに、111枚の挿絵が載ったカマスによって出版されたバガヴァーンの伝記を取り出し、アンナーマライ・スワーミが写真の右端に立っている集合写真を私たちに見せました。バガヴァーンは、「母は彼をとても気に入っていました。彼はタイの月に亡くなりました。彼女はヴァイカーシの月に亡くなりました」と言いました。その写真を見てすぐ、私たちは皆、バガヴァーンが写真の中でとても細く痩せていると言いました。バガヴァーンは、「それは当時私が一日一食で生活していたからです。およそ1年ぐらい、私は一日に一食しか食べていませんでした。しかし、写真の中の私の状態は何でもありません。あなたたちはグルムールタムでの私を見るべきでした。私は骨と皮だけで、どこにも肉はありませんでした。お腹は見当たりませんでした。それは背中に張り付いていて、そこまで引っ込んでいました。ですから、写真のこの状態はそれほど悪いわけではありません」と言いました。私たちはこの写真がいつ撮られたのかバガヴァーンに尋ねました。1921年のジャヤンティごろだと彼は言いました。このことから、会話は、バガヴァーンがここで最初に撮影された時期に移りました。すると直ちに彼は言いました。「それは1900年か1901年でした。政府が、ここの捕虜たちを写真に撮るために写真家を連れてきました。当時、ここに写真家はいませんでした。この写真家は、クンバコーナム・マウナ・スワーミの弟子で、私について耳にしていたようです。それで、彼はここへの旅をうまく利用して、私を訪問しました。彼は私たちにクンバコーナム・マウナ・スワーミの写真をくれて、私の写真を撮りました。集合写真が最初に撮られたのは、1906年かそこらです。その中で私たちは6人いました。私、パラニスワーミ、シヴァイヤ(彼は当時、コータラムのモウナ・スワーミになっていませんでした)、(当時、ここの衛生査察官だった)パチャイ・ピッライ、ランガ・スワーミ・アイヤンガー(Best & Co's agent?)、そして、監督官セーシャ・アイヤルです。その写しは手に入れられません。アイヤンガーの家族が持っているかもしれません。私たちは見つけ出せていません」。この段階で、タレヤーカン婦人が、「子供のころのバガヴァーンの写真はないのですか」と尋ねました。バガヴァーンは言いました。「当時、ティルチュリのような場所に写真家はいませんでした。しかし、私が7、8才のころに、ヨーロッパ人の写真家が、ティルチュリの副治安判事などの集合写真を撮るためにそこに来ました。彼は病院の後ろに滞在していました。彼が副治安判事の集合写真を撮った後、私の叔父のネリアッパ・アイヤルが自分の写真を撮ってもらいたいと思いました。彼はその写真の中で私も彼のそばに置きたがりました。それで、私は学校から呼ばれました。
「私は急いで来ました。ちょうどその時、私は最近きれいに剃られた広い額で(つまり、上に突き出た頭のてっぺんで)ほとんど(髪の毛の)房を後ろに隠していて(shiba注)、ボタンはなく、私の周りにだらりとぶら下がっている私のジッバなど、全般的に見てパチリと撮られるには準備ができていませんでした。私が到着するまでに、叔父は病院の敷地で椅子に座っていて、そこにはいい背景のためにクロトン(変葉木)があり、写真家がカメラを調節するのに忙しくしていました。私は叔父の左に立たせられ、右手を叔父の椅子の左手に置きました。病院から大きな本が持ってこられ、私は左側のわきの下でそれを持つように頼まれました。そのように配置され、私はパチリと撮られることになっていました。しかし、ついてないことに、ちょうど写真が撮られようとするときに、ハエが私の顔の上にとまり、私はそのハエを追い払うために手を上げました。その結果として、写真の中では私の右手が空中で揺れているのを見ることができます。私たちはこの写真もまた手に入れることができていません。私の子供時代、少年時代に撮られた他の私の写真はありません」。
(原注)
・プルシャ・・・人、または、自ら
・アングシュタ・プラマナ・・・親指の大きさの
・ウパーディ・・・付加物、付属物
・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・その中で個別の自分とブラフマンとの間の全ての相違が存在しなくなったサマーディ
・スークシュマ・・・微細な
・マハー・プラーナ・・・重要な生命の力
・サハジャ・サマーデイ・・・自然で、絶え間のないサマーディ
・スワヴァーバ・スティティ・・・自然な状態
・ヴィカルパ・・・疑い、または、誤った概念
・スシュプティ・・・深い、夢を見ない眠りの状態
・トゥリーヤ・アーナンダ・・・ブランフマン、第四の状態、トゥリーヤの状態で経験される至福
・ウパーディ・アーナンダ・・・付加物によって引き起こされたアーナンダ
・マニガル・・・公共機関、施設の責任者、管理人
・ポンガル・プラサード・・・神に捧げられるポンガル
・ポンガル・・・米、豆、木の実、ギーなどからなる南インドの料理
・プラサード・・・神やグルなどに捧げられた後、信奉者に配られる食べ物
・パダイヴェードゥ・・・神々と悪魔が戦った戦地に建てられた寺院、神殿
・sthalapurana・・・聖地の伝説、言い伝え
・リーラー・・・冗談、戯れ
・リンガ・マヤ・・・リンガで満ちた
・ジョーティ・マヤ・・・光輝で満ちた
・ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、または、天の車
・バーヴァ・・・感情、気分
・プラカラ・・・寺院の中の神殿を囲む舗装された庭
・アビシェーカム・・・神に差し上げられる、水、牛乳、凝乳などからなる聖なる沐浴
・アーラティ・・・聖像のまえで灯火を振ること
・アルチャナ・・・聖像に花を捧げること
・シュタパティ・・・寺院や他の神聖な建築物の建築家
・ヴァダイ・・・南インドの、油で揚げられたケツルアズキのパン生地の料理
・ジッバ・・・襟とカフスのない長いゆったりとしたシャツ
(shiba注)
シカー(shikha)という、伝統的なヒンドゥー教徒、特に、バラモンや僧侶の剃られた頭の上に残された毛の房があります。web検索して写真で見ると、辮髪のように後頭部にだけ髪の毛が残っています。バガヴァーンは当時この髪型をしていて、バガヴァーンの特徴的な突き出た頭頂部(智慧の頭頂と言われるようです)が、その毛の房を隠していたということだと思います。