バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
46年1月4日 午前
受け取った手紙などの中に、D.C.デーサーイーによるDivine Grace Through Total Self-Surrenderと呼ばれる小冊子がありました。バガヴァーンはそのいくつかの抜粋を私たちに読み上げました。以下の引用はポール・ブラントンからです。「私は全く穏やかで、私が誰で、何が起こっているのか完全に気づいたままいます。自らはいまだ存在しますが、それは変化した輝かしい自らです。私の取るに足りない人格よりはるかに優れた何かが意識に生じ、私になっています。私はきらめく光の大海のただ中にいます。私は聖なる至福の膝の上に座っています」。以下もまた(そうです)。「神聖な恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の(一つの)顕現です。それは、全ての自然法則に優越する独自の知られざる法則を通じて、不可思議な方法で出来事の流れを変更でき、相互作用によって自然法則を変更できます。それは森羅万象の中で最も強力な力です」。
「それは、完全な自らの委ねによって呼び起こされたときにのみ、降り立ち、働きます。それは内から働きます。なぜなら、神は全ての存在のハートに住まうからです。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞けます。」
ポール・ブラントンはその性質を以下のように描きます。「合理主義者はそれを笑い、無神論者はそれをあざけりますが、それは存在します。それは魂の意識の領域への神の降下です。それは予期せぬ予知できない力の訪れです。それは広大無辺な沈黙の声の表明です...それはそれ独自の法則下で本物の奇跡を行える広大無辺な意思です」。
午後
サイード博士が、今月のVisionからバガヴァーンにスーフィーの物語を読み上げました。その教訓は、師の指示への絶対的な、疑わない信頼と服従がなければならない、ということです。
他の全員が彼(ガズニ)の宝石を壊すというムハンマド・ガズニの命令に従おうとしなかったとき、一人の従者が躊躇なくそれを壊し、他の人々にそれを責められたとき、「私の師の命令より私にとって貴重なものは何もありません」と言いました。私はこのことでラーマーヌジャの人生の以下の出来事を思い出し、それをサイード博士たちに話しました。ランガナータ神がシュリーランガムでの行進に持ち出されていたようで、ラーマーヌジャは出てきて、行進を見るよう弟子に呼びかけました。その弟子はラーマーヌジャの牛乳を煮ていて、どれほど呼ばれても出てこようとせず、後で彼の師に説明しました。「ランガナータはあなたの師で、彼はあなたにとって重要です。あなただけが私にとって重要なので、私はあなた(へ)の奉仕、つまり、あなたのために牛乳を煮ることををやめて、ランガナータを見に行くことはできませんでした」。
1946年1月3日の午後のデーサーイー夫人の質問へのバガヴァーンの答えに関連して、私は彼に尋ねました。「本業や専門職というような、人生の中の重要な出来事だけあらかじめ決定されているのですか、それとも、水を一杯飲むや部屋のある場所から別の場所に動くというような、人生の中の取るに足りない行為もまた、あらかじめ決定されているのですか」。
バガヴァーン: ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。
私: では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。
バガヴァーン: では、何のために体は存在するようになりますか。
それはこの人生で遂行するよう運命づけられた様々な物事を行うために用意されています。全てのプログラムが計画されています。「タミル語(わずかなものも彼の意思以外によって動かない)」は、あなたが「タミル語(彼の意思以外によって動かない)」や「タミル語(カルマ以外によって動かない)」と言おうとも、同じ真理を表します。人間にとっての自由に関して言えば、彼は彼自身を体と同一視しない、体の活動の結果起こる楽しみや苦しみによって影響されないことが自由にできます。
46年1月5日 午後
私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは何か質問に答えているところで、「夢が短く、目覚め(の状態)が長いこと以外、夢と目覚めの状態に違いはありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いために、私たちはそれが私たちの真の状態であると想像します。しかし、実際のところ、私たちの真の状態とは、時にトゥリーヤ、第四の状態と呼ばれるものです。それは常にあるがままにあり、3つのアヴァスター、つまり、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。私たちがこれら3つをアヴァスターと呼ぶため、私たちは第四の状態もトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らなる真の自然な状態です。これが実現されるとき、私たちはそれがトゥリーヤ、第四の状態ではなく-なぜなら、第四の状態は相対的でしかありません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的状態だとを知ります」と言いました。
ある訪問者がバガヴァーンに尋ねました。「聖職者は様々な儀式やプージャーを定め、断食やごちそうなどと共にそれらを適切に順守しなければ、罪が生じるだろうなどと人々は言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を順守する必要性はありますか」。
バガヴァーン: ええ。そのような崇拝すべてもまた必要です。それはあなたに必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にも必要ではなく、全く何の役にも立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも彼が幼児教室で習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。
同じ訪問者が、「私はオームカーラ・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いですか」と尋ねました。
バガヴァーン: ええ。どのプージャーでも良いのです。オーム・ラムや他のどの名前でも結構です。要点は、オームやラムや神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラやジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする彼は、ラーマ・マヤになります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を彼は知ります。
私たちの本質はムクティです。しかし、私たちは束縛されていると私たちは想像していて、自由になるための様々な骨の折れる試みを行っています。私たちはその間中ずっと自由なのにもかかわらず。これは私たちがかの段階に達した時になってはじめて理解されるでしょう。私たちは、私たちがいつも私たちであったもの、そして、(今も)私たちであるものを必死に得ようとしていたことに驚くでしょう。一つの例で、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけ、様々な大陸を横切り、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に帰ってきて、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラマムに入り、講堂に歩み入るという夢を見ます。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横になったところで寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今までずっといました。それはまさにそのようです。自由であるのに、どうして私たちは自分たちが束縛されていると想像するのか問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を横切り、世界を冒険中だと想像したのですか。その全ては心、マーヤーです」と答えます。
シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから(来た)と言う別の訪問者が、バガヴァーンに尋ねました。「しかし、我々は世界で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な事実です。それは彼にとってとても現実的です。私たちはそれを夢と呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。
バガヴァーン: ジニャーナ、現実の視点からは、世界と同様に、世界のごくわずかの部分である、あなたが言う苦しみは確かに夢です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのを見ます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、空腹で苦しんでいることに気づいた他の人たちに食事を与えます。夢が続く限り、あなたが今、世界で見る苦しみを現実的だと思うのと同様に、その全ての苦しみは非常に現実的です。目覚めて初めて、夢の中の苦しみが現実ではないことをあなたは発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中、長時間、懸命に働き、疲れて、空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから少しも動いていないことに気付きます。しかし、だからと言って、あなたが夢にいる間に、そこであなたが感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞えると言っているのではありません。夢の中の空腹は夢の中の食べ物で満たされなければいけません。夢の中でとてもお腹が減っているとあなたが気付いた仲間たちには、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混同できません。あなたがジニャーナの境地に達し、そうして、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることで社会奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、私たちに言われるように、アハンカーラなしに、つまり、「私が行為者である」という感覚なしに、「私は主の道具である」と感じながら、それを行うべきです。同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼には助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思い上がってはいけません。そうではなく、その人の中の神を崇拝するための手段として、あなたはその人を助けなければいけません。そのような奉仕すべても自らのためであり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身だけを助けているのです。
T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルが、これに関連して言いました。「エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、『私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒なやつが溝から出ようともがいているのを見ることの自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました』と答えました」。
ジョーシー氏: 私は世帯主です。私には霊的成長の行く手をふさぐ扶養家族と障害物があります。私はどうすべきでしょうか。
バガヴァーン: その扶養家族と障害物があなたの外にあるのか、それらがあなたなしに存在するのか確かめなさい。
ジョーシー氏: 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。
バガヴァーン: あなたは今どこにいますか。どこが目的地ですか。進まなければならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らならざるものと同一視する、長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外側に向けることにより、あなたは世界を、自らならざるものを見つづけています。あなたが心を内側に向けるなら、あなたは自らを見るでしょう。
この会話の後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンがただちに言いました。「母がこの歌をしょっちゅう歌っていました。これは今、私たちが話していた、まさにそのことを繰り返しています」。そこで直ちに、私はバガヴァーンにその歌の作者は誰か尋ねました。
彼は言いました。「アヴダイ・アンマルです。彼女は非常に多くの歌を作りました。それはあれらの地域(マドゥラや近辺の他県)でとても人気があります。そのいくつかは出版されています。それでも、とても多くが出版されないままです。それは世代から世代へ、主に女性を介して、口頭で受け継がれてきました。彼女達は他の人たちから歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」。私はバガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを今、知りました。バガヴァーンは、それにも関わらず、彼女は大変多くの歌を暗記していたと私に言いました。その歌と意味が以下に記されます。
(タミル語の歌)
常に意識かつ至福である
自らがどうして
自らがどうして
どうして今まで、あたかもこれを
忘れていたかのように振る舞ったのか
摩訶不思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私の愛しい人よ
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に?
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗い波が深淵なる至福の海に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもない、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、特性がない
分離がなく、それゆえ、恐れがない
おお、摩訶不思議、夢の中のように見える物事!
内も外も、高きも低きも、十方すべても
光の中に失われた-無限に広大で
壊れえず、支えられず、完全で穏やかな(光の中に)
純粋な意識、不変の至福
かつては遠く遥かなもの、目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜、歓喜が!
46年1月6日 朝
(「Who」として知られる)ラクシュマナ・サルマ氏が来ました。バガヴァーンは、サルマ氏が彼の(サンスクリット語の)ヴェーダーンタ・サーラムの英訳を書き出したノートに目を通していました。私はこのヴェーダーンタ・サーラムが何を扱っているのか知りたくなり、サルマ氏の息子、カメーシュワランにそれについて尋ねていました。バガヴァーンがこれを聞き、私のほうを向き、「これはマハー・ヨーガと同じです」と言いました。
サルマの誕生日について会話があり、バガヴァーンが「彼はいつも、日々生まれていると言っています」と言い、Reality in Forty Versesという題で英語に翻訳されているタミル語のUlladu Narpaduへの補遺の第11詩節に言及しました。この歌を調べるために、彼は「タミル語」(タミル語のCollected Works)を彼のそばの回転棚から取り出し、それを戻す前に、虫食いが表紙の上で仕事をしていたことを見つけました。彼は、「私たちはこれらの本を学んでいませんでした。それで、この虫たちがそれを咀嚼(食べる、読む)していました」と述べました。
午後
L.サルマ氏が来て、私の隣に座りました。今朝、私は彼から3フィートぐらいしか離れていなかったのに、彼は私だと分かりませんでした。そのため、私は彼に白内障の手術を受けるよう勧めていました。彼は、この病気などの進行を遅らせることができていて、将来もまたそのようにできるなら、手術の危険を冒すよりも部分的な視野で残りの人生をやっていくだろうと言いました。それで、私は彼にそれは全く彼にさらにどれだけ寿命があるか次第だと言い、これに関連して、この件に関する彼のホロスコープの解釈はどうなのか尋ねました。そうして、私たちは占星術について話し、私はバガヴァーンに占星術についての見解を尋ねました。彼は、「問題ありません(タミル語)。どうしていけませんか。人がカルマの理論を受け入れるなら、占星術やホロスコープの理論も受け入れなければならないでしょう」と言いました。この後、サルマ、サイード博士、G.スッバラオと私自身は、占星術の科学について、私たちの未来などを知ることが役立つのか、意義があるのか話しました。そして、スッバ・ラオ氏は、占星術の関する書籍の中でホロスコープに従って起こると定められていることは、償いのためのプージャーなどによってある程度変更されうると明確に主張されていると私たちに言いました。S.ラオ氏はさらに続けて、どのようにバガヴァーンのような人々の御足のチリさえもが、どのように彼らからの一瞥が私たちの全ての罪などを焼き払えるのか言いました。これについて私は、「私もまた、サット・サンの美徳を称揚する、これらの著作の中のいくつかを目にしました。私はこれらの著作が文字通り真実として理解されるべきなのか、その中にはいくらか誇張がないのか知りたい思うのですが」と尋ねました。S.ラオ氏は、それらは文字通り真実だが、人は信仰を持たなければならないと言いました。そこで、私は、もしそうであるなら、サット・サンについてのそれらの聖句に責任がある人たちは、どうして彼ら自身で但し書きを付け加えずに、S.ラオ氏のような注釈者たちにそれを加えるのを任せるのか彼に尋ねました。そうして、私たちの幾人は数分間論争しましたが、そのような機会にいつもそうであるように、バガヴァーンは慎重に黙ったままでした。その後、私たちも黙りました。前に一度、Reality in Forty Versesへの補遺の中のサット・サンに関する5つの詩節に関連して、私はその質問をバガヴァーン自身にして、バガヴァーンは「タミル語」、つまり、「私は(サンスクリット語の)その詩節を見つけたから翻訳したんです。分かりません!」と言っただけでした。
46年1月7日 午前
マハタニ氏がバガヴァーンに尋ねました。「Advaita Bodha Deepikaでは、心とそれ自体を同一視した至高の自らは、変化に富むように見えると言われています。それ自体が自らに由来するマーヤーに由来している心が、どうして不変の自らを変更、変化させることができるのですか」。バガヴァーンは、「実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、『この創造はどのように生じたのか』と尋ねる人たちのために、上の説明が与えられています」と答えました。
午後
バンンガロールのラーマチャンドラ・ラオ氏が、The Ramana I have knownという題の作られたばかりの彼のカナラ語の著作をバガヴァーンの前で読みました。彼が読み終えた後、彼が初めてバガヴァーンのもとに来たのはいつか私は彼に尋ね、彼は「1918年です」と言いました。それから、私は、彼がそれ以降の彼の全ての体験を話しているのか、彼が何かメモや備忘録の助けでそのようにしているのか彼に尋ねました。彼は1918年以来起こった全てについて書いていて、記憶のみからだと彼は返答しました。私はそのような記憶力に驚嘆していました。バガヴァーンは、「ナーヤナ(カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ)なら、彼が居合わせたあらゆる出来事の日時を覚えていて、あなたに教えるでしょう」と言いました。
夜
G.L.サルマ氏は、ギータ・サーラムに関する原稿を用意したようです。バガヴァーンは、バララム・レッディ氏にそれを読み上げるよう頼みました。その中で、「完全な献身があるときにのみ、主は応え、信奉者を完全に引き受けるだろう」と言われていたので、(オウロビンドーの(アーシュラム)での滞在の後、最近やって来た)P.バナージ氏がバガヴァーンに尋ねました。「人が完全に献身的でなければならないというのは、主が恩寵を示すための先行条件なのでしょうか。献身的であろうとなかろうと、主は自然にその恩寵において彼の子供全員に対して恵み深いのではないのでしょうか」。
バガヴァーン: どうして人が献身的でなくいれますか。全ての人が彼自身を愛しています。それが体験です。仮に自らが彼の最愛の対象でないなら、人はそれを愛するでしょうか。自ら、主はどこか別の場所にいるのでなく、私たち各々の内側にいます。自分自身を愛することで、人は自らのみを愛しています。
その訪問者は、どうしてこれが彼の質問への答えなのか理解できませんでした。私は、「バガヴァーンは一度ならず、『主の恩寵はいつも流れています。それが流れていない時は、それが注がれていない人は存在しません。しかし、それを受け取れるのは、その能力を育てた人たちだけです。献身が先行条件であるのは、主からの恩寵の流れにとってではなく、そこで常に流れている恩寵をあなたが受け取り、取り込みうることにとって、です。
これに関連して、サイード博士が、主は、罪びとも聖者も等しく、全ての友であるが、彼は特別、彼を心に抱く人たちのハートにいて、そのような人々は彼にとって愛しい、と書いてあるバガヴァッド・ギーターの詩節を引用しました。
46年1月8日 午後
マハタニ氏が、(46年1月7日の項目に記録されているのが認められる)彼の質問についてバガヴァーンに再び尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたが引用する、まさにその文が、心が上重ねであると、それが現実性を持たず、縄の中の蛇の幻のようであると言っています。その聖句はまた、至高の自らは、心と同一視されたとき、変化に富むように見えると言います。見る者、自我にとって、自らは変化に富むように見えます。しかし、自らは常に同一、不変、不可変です。それはこのようです。スクリーンがあります。そのスクリーン上に、はじめ王様の姿が現れます。彼は玉座に座っています。その後、その同じスクリーンの中の彼の前で、様々な人物と物とともに劇が始まり、スクリーン上の王様は同じスクリーン上のその劇を観ます。見る者と見られるものはスクリーン上の影に過ぎず、スクリーンがそれらの映像を支えている唯一の現実です。世界の中でも、見る者と見られるものはともに心を構成していて、その心は自らによって支えらえ、自らに基盤を置いています」。