バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
45年12月29日 午前
ヴィシュワナータ・ブラフマチャリ氏が、C.ディークシトゥル氏のRamana Gopalaのタミル語訳を持ってきて、バガヴァーンはそれを熟読しました。
夜
P.C.デーサーイ氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻るところで、そこで哲学会議の一部門を主宰していました。デワンジ氏はバガヴァーンに、「心の一方向性を得るための最も簡単な方法とは何ですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「最良の方法は、心の源を見ることです。心のようなものが存在するのか確かめて見なさい。心が存在する場合にだけ、それを一方向に向かわせるという問題が生じるでしょう。内側に向かうことによってあなたが探求するとき、心のようなものが存在しないことにあなたは気づきます。
その後、P.C.デーサーイ氏は、「あなたが心の性質を継続的に、途切れなく探求するとき、あなたは心のようなものは存在しないと気づく。これが皆にとって真っすぐな道である」という趣旨のサンスクリット語のバガヴァーンのウパデーシャ・サーラを引用しました。その訪問者は再び尋ねました。「私たちの聖典には、全てを創造し、維持し、破壊するのは神であり、彼は全てに遍在していると書いてあります。もしそうであるなら、もし神が全てのことを行い、私たちが行う全てが神のニヤティ(おきて、法)に従っていて、すでに広大無辺な意識の中で計画されていたのなら、個々人の性格とそれに対する責任はあるのでしょうか」。
バガヴァーン: もちろん、あります。外ならぬその聖典が、人がすべきこと、すべきでないことに関する規則を定めています。もし人に責任がないなら、ではどうしてそのような規則が定められなければならないのですか。あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたがなぜこの創造や何やかやが(あるのか)と神に尋ねるなら、それはあなたのカルマに従ってあると再び彼はあなたに言うでしょう。あなたが神とあらゆることを注意深く計画する彼のニヤティを信じているなら、あなた自身を彼に完全に委ねなさい。そうすれば、あなたに責任はなくなるでしょう。そうでなければ、あなたの本質を見出し、そうして自由を得なさい。
スンダレーサ・アイヤル氏が「kandar Anubhuti」(カンダル・アヌブーティ)を2冊バガヴァーンに持ってきて、それらは、母の遺徳に敬意を表して無償配布するためにその本を500冊出版した、ダーシ・ラージャンバルの息子(シャンムガ・スンダラム、ここの学校の教師)から送られたと言いました。バガヴァーンはこれに関連して、「彼女は若い女性で、あのカーストの生まれでしたが、私に食べ物を与える前に食事をとらないという誓いを立てていました」と再び言いました。
45年12月30日
Ramana Gopalaがタミル語に翻訳され、今朝、校正刷りが講堂で読み上げられました。
午後
ある信奉者がThe Bombay Chronicleからの切り抜きを持ってきて、バガヴァーンに差し上げました。その中で、ラマナ・サッチダーナンダ・サンガによって、ラマナ・ジャヤンティが今年、ボンベイのマトゥンガで祝われた様子、そして、マンナールグディのヴィジャヤラーガヴァー・バーガヴァタルという人とその一行がバガヴァーンとその人生と教えについての素晴らしいカーラクシェーパムを行った様子が報告されています。その切り抜きは皆のために講堂で読み上げられました。その中にはラマナについてのハリカンタが催されたと書かれていました。バガヴァーンは、「ラマナについてのハリカンタは誤った名称です。カーラクシェーパムのほうが適当だったでしょう」と言いました。
ティラク・シャーストリが、エチャンマルについて新聞社に記事を送るために、彼女についてバガヴァーンから知りたがりました。バガヴァーンは、「あなたが好きなことを書いて構いません。ヴィジャヤムや他の本には、彼女への言及が含まれています」と言いました。バガヴァーンは、「私たちのヴェンカタクリシュナイヤーの母も同じ夜に亡くなったようです。今日のテルグ語の新聞、Zamin Ryotでそれを見つけました」と言いました。
R.ナーラヤナ・アイヤルが、エチャンマルは最後まで意識があったのかどうかバガヴァーンに尋ねました。(私自身を含め)人々は、エチャンマルが、彼女の周りの人々を認識できておらず、最後の二日間は彼女(自分)の存在に気づいていなかったとバガヴァーンに伝えましたが、バガヴァーンは返事として、「ええ、彼女は(意識が)ありました。彼女はサマーディにいるように、亡くなりました。彼らは正確にいつ命が尽きたのか知らないとさえ言われています」と言いました。マイソールのラーマチャンドラ・ラオが、「遺体は全然遺体のように見えませんでした。それは彼女がここにいた時とそっくりに見えました」と言い足しました。
45年12月31日 午前
チンタ・ディークシトゥル氏がここにいます。バガヴァーンは、「昨日、私たちはチンタ・ディークシトゥルについて話していました。今、彼はここにいます」と言いました。後に、別の紳士が到着しました。パンジャーブ出身のムスリムで、彼は生まれつき盲目でしたが、アラビア語、ペルシャ語、ウルドゥー語と英語を習得し、コーラン全文を暗記しています。彼は、英語のWho am I?の本をウルドゥー語で彼に通訳もした、ある友人からバガヴァーンについて聞き、そこで直ちにバガヴァーンを訪問しに行くことを決めたようです。それゆえ、彼は一人っきりで、パンジャーブからはるばるやって来ました。誰かが彼にバガヴァーンの他の著作を聞いてはどうかとここで提案しました。彼は、「いえ。その必要はありません。あの一冊で十分です」と答えました。
1946
46年1月2日 午後
バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものをジョーシー氏が提出し、バガヴァーンがそれに答えます。
はじめに、ジニャーニが心を持たずに仕事を行うことについて:「心が殺されるなら、人は仕事を行えないとあなたは想像します。人に仕事を行わさせられるのは心だけであるとどうして思うのですか。活動を同じく生み出せる他の原因があるかもしれません。例えば、この時計を見なさい。心なしに動いています。また仮に、私たちがジニャーニは心を持つと主張するとしましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は、何か遠くの物のことばかり思って、語られる話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、仕事を行っていても、仕事を行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、たとえ体が活動的でも動いていなくても、それは仕事を行っています。」
質問2: ソーハムは「私は誰か」と同じでしょうか。
バガヴァーン: アハムだけがそれらに共通しています。一方はソーハムで、他方はコーハムです。それらは異なります。どうして私たちはソーハムと言い続けなければならないのですか。人は真の「私」を見出さなければなりません。「私は誰か」という質問の中で、「私」が意味するのは、自我です。それを追跡し、その源を見つけようとするなら、それが分離して存在せず、真の「私」に溶け込むことを私たちは悟ります。
質問3: 私は委ねのほうが簡単だと感じます。私はその道を採用したいと思います。
バガヴァーン: どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたは一者の中にあなた自身を失わなければならないでしょう。委ねは、「貴方は全てなり」や「貴方の意志が果たされんことを」という段階にあなたが達してはじめて、完成です。
その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。現実には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは簡単に見えます。なぜなら、人々は、いったん口で「私は委ねます」と言い、その重荷を主に負わせれば、自由になって、好きなことができると想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後、あなたは好き嫌いをまるで持てず、あなたの意思は完全に存在しなくならなければならず、主の意志がそれに取って代わります。そのような自我の死は、ジニャーナと何も異なりません。ですから、どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性(oneness)へと至らなければなりません。
質問4: どのように感情を取り扱うべきでしょうか。私は感情を抑えるべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「誰にこれらの感情があるのか」尋ねるなら、それらは消滅せずに、より強まるようです。
バガヴァーン: それは、あなたが適切に私の方法に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は、全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それを取り除くことです。あなたが感情を抑えるなら、しばらくの間は抑制されるかもしれませんが、再び現れるでしょう。あなたが感情を満たすなら、しばらくの間だけ満たされ、再び満足を渇望するでしょう。欲望を満たし、それによって欲望を根絶しようとすることは、灯油を上から注いで火を消そうとすることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。
別の訪問者がバガヴァーンに、「私が『私は誰か』という探求をしようとするなら、私は眠りに落ちます。どうするべきでしょうか」と尋ねました。
バガヴァーン: あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが眠りに落ちるまで探求をし続けるなら、探求は眠る間も続くでしょう。目覚めればすぐ探求を再開しなさい。
別の訪問者がバガヴァーンに、国が進歩しうるとすれば、ヴァルナーシュラマの違いが無くなることが必要ではないのか尋ねました。
バガヴァーン: どうしてそれが必要であるか、必要でないか人に言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に「誰それもこれこれの意見です」と発表しに行きます。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた、他ならぬその聖典が、全生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディを唯一の現実として示してもいます。全生命の合一性、一体性より優れた真理を教えることが誰にできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後、彼が国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタは、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改めんとする改革者」と広告を出しました。世界のどの二人も等しくなれず、等しく振る舞うこともできません。どれほど懸命に我々が消し去ろうとしようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだした、そのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだし、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えただけです。各人にとって唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。
別の訪問者が、「ジニャーニは一般的に、活動的な生活から退き、どのような世俗的活動にも従事しません」と言いました。
バガヴァーン: そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治する人たちもいれば、森の中に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控える人たちもいます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、世間から退くと私たちは言えません。
訪問者: 我々の本の中で言及される肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、世間で普通の日々の仕事を行っているジニャーニの具体的な例をバガヴァーンが挙げられるのか私は知りたいと思います。
バガヴァーンは答えませんでした。
訪問者: 自らの実現のために放棄は必要ですか。
バガヴァーン: 放棄と実現は同じものです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らならざるものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、自らの実現です。唯一の同じ真理の、一方は消極的な、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、私たちの本質である自らの実現、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段のように見えます。それらは終には目的になります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続ける私たちの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらが私たちの側の何の努力もなく進む時、私たちは目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々が行っていることとは、我々が非現実を実現している、つまり、非現実を現実とみなているということです。我々はそれを捨て去らなければなりません。それが求められる全てです。
訪問者: どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるでしょうか。
バガヴァーン: それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界や何やかやが存在しますが-を追跡しようとする時、あなたは自我がまるで存在せず、この全創造も同様であると分かります。
46年1月3日
私が講堂に入った時、バガヴァーンはすでに質問に答えているところでした。私が推測するに、質問の趣旨は「進化論は真実でしょうか」で、バガヴァーンは言いました。「私たちみなの困った点は、私たちが過去を、私たちであったものを、そしてまた、私たちが未来にどうなるのかを知りたがることです。私たちは過去についても未来についても何も知りません。私たちは現在を、私たちが今、存在していることを確かに知っています。昨日も明日も、存在するのは、今日に関連してだけです。昨日はその時点では『今日』と呼ばれ、明日は、あした、私たちに『今日』と呼ばれるでしょう。今日は常に存在しています。常に存在するものは、純粋な実在です。それには過去も未来もありません。今現在、常に存在する実在なる本質を見出そうとしてみてはどうですか。」
別の訪問客が、「現在は過去のカルマのためだと言われています。私たちは今、自由意思によって過去のカルマを乗り越えられるのでしょうか」と尋ねました。
バガヴァーン: 私が(前)あなたに言ったように、現在とは何か確かめなさい。その時、あなたは過去や未来によって影響される、もしくは、(それらを)持つものを(理解し)、そして、常に存在し、常に自由であり、過去にも未来によっても、どんな過去のカルマによっても影響されないものを理解するでしょう。
別の訪問客が、「ある人は別の人の中に何かへの衝動を引き起こせますか。グルは、あたかも魔法によるかのように、弟子を変容できますか」と尋ねました。
バガヴァーン: グルについてのあなたの考えは何ですか。あなたは彼を人の姿で、ある寸法や色などをした体として考えています。ある弟子が悟った後でグルに言いました。「私の無数の生まれ全てにおいて、あなたがただ一つの現実として私の最奥のハートの中に住まい、今、人間の姿で私の前に来て、この無知の覆いを取り去ったことを今や私は悟りました。そのような恩情へのお返しに、私はあなたに何ができますか」と言いました。そして、グルは言いました。「何もする必要はありません。あなたがあなたの真の境地にあるがままにいる(「私はいる」として留まる)なら、それで十分です」。これがグルについての真理です。
ジョーシー氏が5つの質問をしました。以下に、その質問とバガヴァーンの答えを記します。
質問1: 答えることなく、「私は誰か」と尋ね続けるべきでしょうか。誰が誰に尋ねるのですか。探求の時、どのバーヴァナー(態度、概念)が心にあるべきですか。「私」とは何ですか、自らですか、自我ですか。
答え: 「私は誰か」という探求における、「私」とは自我です。その質問が本当に意味するのは、この自我の源、起源とは何か、です。心の中にどんなバーヴァナーも持つ必要はありません。必要とされる全ては、あなたがこれこれの様子の、これこれの名前などを持つ体であるというバーヴァナーを放棄しなければならない、ということです。あなたの本質についてバーヴァナーを持つ必要はありません。それは現に常に存在しています。それは現実であり、決してバーヴァナーではありません。
質問2: 私はいつもこの探求に従事できません。というのも、私にはするべき他の仕事があって、そのような仕事をする時、この探求を忘れるからです。
答え: あなたが他の仕事をする時、あなたは存在しなくなりますか。あなたは常に存在します。違いますか。
質問3: 行為者の感覚-「私が行なっている」という感覚-なしに、仕事は行えません。
答え: 行えます。愛着なく働きなさい。あなたが行為者であるという感覚を伴って働いた時よりも、仕事はより良く運びさえするでしょう。
質問4: 私は何の仕事をすべきで、何(の仕事)をすべきでないのか分かりません。
答え: 気にしないで結構。今世で、あなたによって行われるべき仕事として定められていることは、あなたがそれを好んでも、好まなくても、あなたによって行われるでしょう。
質問5: どうして悟ろうとしなければならないのですか。夢から目覚めるように、私はこの状態から出でくるでしょう。眠る間、私たちは夢から出ようと試みません。
答え: 夢の中で、あなたはそれが夢であると少しも気づかないので、あなたの努力によって夢から出ようとする義務をあなたは負っていません。しかし、この人生では、あなたの眠りの経験によって、読んだり、聞いたりして、この人生が夢のようなものであるという何らかの直感をあなたは得ていて、それゆえに、努力し、それから出るという義務があなたに投げかけられています。けれども、あなたが求めていないなら、誰があなたに自らを実現して欲しいのですか。あなたがその夢の中にいることを好むなら、そのままいなさい。
質問4に関連して、P.C.デーサーイー婦人が、バガヴァッド・ギーターを引用しながら、バガヴァーンに尋ねました。「(アルジュナに告げられたように)各々によって行われるよう定められている、ある仕事があり、私たちがどれほどそれを行いたくないと思っても、(どれほど)それを行うのを拒んでも、私たちが結局それを行うことになるなら、自由意志は存在するのですか」。
バガヴァーン: 私たちによって行われることになっている仕事が、我々によって行われるであろうことは、本当です。しかし、私たち自身を体と、仕事を行うものと同一視しないことによって、仕事の喜びや苦しさ、好ましい、もしくは、好ましくない結果を免れていることは、私たちに開かれています。あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行うのはあなたではないことを知るなら、運命や過去のカルマや神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぶのであれ、それに従って体が従事する仕事が何であっても、あなたはその結果に影響されないでしょう。あなたはいつも自由であり、その自由に限界はありません。
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