2019年4月12日金曜日

バガヴァーンとの日々⑧ - 45年12月16日から45年12月28日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p71~81

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月16日

 45年12月16日のSunday Timesに、セイロンのV.F.グナラトナによる「In silent adoration of Sri Maharshi」という題の記事が出ました。私は講堂でそれを熟読しました。バガヴァーンは、「サイード博士がそれを読み、それを味気ないと思っています」と発言しました。そこで直ちに、私は、「その中に何も文句をつけるところはありません。実は、ずっと以前に、おそらく去年のジャヤンティの時に、コロンボのラーマチャンドラ氏が私にその原稿を見せ、私はそれを読みました」と言いました。その記事には、すでにバガヴァーンとその教えに詳しい我々に新たに伝えるべきものは何も含まれていませんが、彼の教えを短くとも正確に述べています。

45年12月17日 午前

 サイード博士による「The Maharshi who transforms man's life」という題の45年12月16日のSunday Heraldの中の記事が、講堂で読み上げられました。サイード博士は、彼がつけた題名は違うものだったが、編集者がそれを変更したと言いました。バガヴァーンは、45年12月16日のFree Indiaに出たムハッラムの重要性に関するサイード博士による別の記事も熟読しました。

午後

 サイード博士は、彼がつけた題名は「Ramana Maharshi's invisible work」だったと言いました。

45年12月19日

 ある女性が「スッブが来ました」と言って、もう一人の女性をバガヴァーンに紹介しました。バガヴァーンはこのスッブが誰か見分けられませんでした。しかし、その女性が誰か彼に説明されたとき、彼は、「タミル語」(スッブクッティですか)と言い、彼女が彼を最近訪問したティルチュリのチェッラム・バッタールの妹だと分かりました。この女性は、バガヴァーンが少年時代に遊んだ小さな女の子であったようです。彼は、「この女性には叔母がいて、私が子供のころ、彼女は私を彼女の家に連れていき、私を可愛がってくれたものでした」と我々に言いました。私は、「その女性は今どこにいますか」と尋ねました。バガヴァーンは、「彼女はずっと以前に亡くなりました。彼女の夫は再婚して、7人の子供がいました」と言いました。

 サイード博士は年を取り、様々な病気にかかり、そのことは彼が山の周りをまわるのをとても困難にしています。しかしながら、バガヴァーンが彼の弟子たちが山の周りをまわるのを重んじていることに気づいたため、彼と妻は1か月ほど前、それをすることに決めました。彼らはバガヴァーンの許可を取り、周りをまわって、何の困難も不都合な出来事もなく、戻って来ました。今日再び、彼ら二人ともバガヴァーンのもとに来て、山の周りをまわる許可を取りました。バガヴァーンは、もし人が1度か2度山の周りをまわるなら、山自体が再びその周りをまわるよう人を引き付けるだろうと言ったものでした。私はそれが真実であると分かりました。今、それがサイード博士に起こっています。

 私の二人の息子とその妻と子供たちと10人以上ぐらいの私の親族が今晩到着し、私が彼らを紹介したとき、私が彼らのための適当な宿泊場所をとれていたかなどバガヴァーンは優しく尋ねました。バガヴァーンはここに来る全ての人の快適さを平等に気遣います。どうして人が彼を愛さずに、彼の御足に捕らわれることなくいられるでしょうか。

45年12月21日

 今日はバガヴァーンのジャヤンティ(65回目の誕生日)です。信奉者の参加者がいつもより多く、彼らの多くが遠い場所から来ました。いつもの装飾、音楽、ごちそう、貧しい人々への食べ物の提供がありました。午後、この行事のために特別に作られたバガヴァーンをたたえる多くの祈りや詩節が読み上げられました。(リシケーシュの)スワーミ・シヴァーナンダから送られたメッセージも読み上げられました。

45年12月23日 午後

 ポンディシェリの総督の秘書官であり、そこのフランス政府の内閣長官、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットがバガヴァーンのもとに来ました。彼が床の上に楽にしゃがむことができなかったので、バガヴァーンは彼に腰掛けを出すよう我々に頼みました。我々はバガヴァーンの対面に彼のために椅子を置きました。彼はフランス語で書かれた請願書を持参していました。彼と共に来た、タミル語を話す通訳者たちを通じて挨拶を述べた後、彼がフランス語で書いたものを彼は差し出しました。我々のバララム・レッディがそれをバガヴァーンに翻訳しようと試みました。しかし、そのフランス語はかなり格調高かったため、彼はそれがかなり難しいことに気づきました。それで、我々は(その妻と3人の子供が5年近くここに住んでいて、1か月ほど前にシャム(タイの旧名)から戻ってきた)オズボーン氏を呼びに行きました。彼が来て、以下のように要旨を説明しました。「私はほとんど知りません。私はさらに(それ)以下です。しかし、私は私が何について話しているか知っています。私は言葉や説明や議論ではなく、マハルシの霊的影響による積極的な助けを求めています。私はいくらかサーダナを行い、自我がもう少しで消滅されようとする段階に達しました。私は自我に消滅してもらいたいのです。しかし、同時に、私はそれが殺されるのを見るためにそこにいたいと思います。これは相矛盾する望みを持っているように見えます。私が最終段階に達し、自我を殺すことを可能にする、私が完全に信頼する、その影響によって、マハルシが何らかのことを行って下さるよう私は心から願います。私は心に向けて言われた単なる議論や説明でなく、本当の助けを求めています。私のためにマハルシはこれを行って下さるでしょうか」。

 彼は別の質問も書き出していました。「私は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘としてきました。それは問題ないでしょうか、それとも、マハルシは私に他の座右の銘や理想を提案して下さるでしょうか。」

 バガヴァーンは数分間黙っていましたが、その間中ずっとその訪問者をじっと見ていました。数分後、訪問者は、「私は今、マハルシが喜んで送ってくれるであろう影響をすぐに受け取れる状態にいない感じがします。しばらく後、彼の影響や霊的助けを吸収できるであろう、かの高揚した状態に私がいるときに、再び戻ってきましょう」と言いました。彼は、「この通訳の方(オズボーン氏)と少し話して、また別の時にここに来てもよろしいでしょうか」と言い足しました。バガヴァーンは、「ええ、もちろん話しに行って構いません」と言いました。彼ら二人は出て行きました。サルヴァーディカーリがその訪問者に果物とコーヒーを差し上げ、彼はまた別の時にここに来たいという望みを言い表して、いとまごいしました。訪問者が講堂を離れた後、バガヴァーンは、「彼はこの全てについて読み、いくらかサーダナを行っていたようです」と言いました。誰かが、我々の図書館にあるバガヴァーンの教えに関するフランス語の本を訪問者に見せてはどうかと提案しました。本がそれゆえ持ち出され、彼がまだサルヴァーディカーリと共にいて、コーヒーを飲んでいる間に彼に見せられました。彼は本を見て、その全てを読んでいると言いました。

 (マドラス公衆衛生の副局長であり、今では数年間バガヴァーンのもとに来続けている)スブラマニア・アイヤルが、スカンダーアシュラマムでのバガヴァーンの(45年11月25日にT.N.クリシュナン医師によって撮られた)41枚の写真を収めたアルバムを持ってきて、アーシュラマムにそれを贈呈しました。バガヴァーンは写真を見ました。太陽光によって少し損なわれた1枚か2枚を除き、写真は全て見事なものでした。

45年12月24日 午前

 バガヴァーンは、T.P.ラーマチャンドラ・アイヤル氏に、我々のヴィシュワナータ・ブラフマチャリの兄弟、スブラマニア・アイヤル氏(ディンディグル)によって書かれた手紙を読み上げるよう頼みました。それは今月21日にティルチュリで祝われたバガヴァーンのジャヤンティの盛大な様子を報告していました。スブラマニア・アイヤル氏はS.ドーライスワーミ・アイヤル氏に手紙を書いていて、ジョルジュ・ル・ボットとバガヴァーンの間の会話を報告していました。それは講堂で集まった全員のために読み上げられました。私もまた、この日記に記録された同じ出来事の報告を読み上げました。

 ある訪問者が、自分がプラーナーヤーマとディヤーナを両方とも行えるのか尋ねました。バガヴァーンは、「一方は他方の助けになるものです。人がプラーナーヤーマを必要とするかどうかは、人のパクヴァ、適性しだいです」と言いました。

午後

 パーラーヤナの後、オズボーン氏が、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットが去る前に以下のことを言ったと言いました。「私は私が言い表した体験を2度しました。最初は私自身の努力によって、2度目は、今は亡きフランス人哲学者の静かな影響下で。彼は私の腰を持ち、私の側の何の努力もなしに同じ段階に私を連れて行きました。2度とも、私は限界点に波のように近づき続けましたが、しり込みしました。マハルシが私を再びあの地点に連れて行くことができると私が決心したのは、その2度目の体験のためでした。

 プラーナーヤーマに関する質問を続けた訪問者に、バガヴァーンは言いました。「目的は、心を一点に向かわせることです。そのためのプラーナーヤーマは助けとなるもの、一つの手段です。ディヤーナのためだけでなく、我々が心を一点に向かわせなければならない、あらゆる場合に、それは純粋に世俗的もしくは物質的な目的のためでさえあるかもしれませんが、プラーナーヤーマを行い、その後、他の仕事を始めるのは良いことです。心とプラーナは同じもので、同じ源を持ちます。一方が制御されるなら、他方も同時に制御されます。人がプラーナーヤーマの助けなしで心を一点に向かわせることができるなら、プラーナーヤーマを気にする必要はありません。しかし、心をすぐさま制御できない人は呼吸を制御してもよく、それは心の制御に通じるでしょう。それは馬を手綱で引き、一方向に行かせるようなものです」。

 バガヴァーンは、ムッシュ・ル・ボットによって言及された体験を彼が得る手助けをしたフランス人哲学者の名前を彼が口にしたかオズボーン氏に尋ねました。オズボーン氏は名前を言うことができませんでしたが、今は亡きその哲学者は、古代ギリシャ哲学に長け、それを奉じる人であったようだと言いました。バガヴァーンは、「その哲学者は亡くなっていると言われているので、それは(ルネ・)ゲノンではないでしょう」と述べました。

 バガヴァーンは続けました。「彼は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘にしていると言います。でも、どうして何か座右の銘がなければいけないのですか。解放は私たちの本質そのものです。私たちはそれです。私たちが解放を望むという事実こそが、全ての束縛からの自由が私たちの本性であることを示しています。それは新たに獲得されなくていいのです。必要である全ては、私たちが束縛されているという誤った概念を取り除くことです。私たちがそれを成し遂げるとき、どのような類の望みも思いもなくなるでしょう。人が解放を望む限り、その限りは、人は束縛されているとあなたたちは信じるかもしれません」。彼はまた言いました。「人々は、自我や心が殺される時、その結果は単なる空白で、幸福ではないかもしれないと心配します。実際に起こることは、思う人、思いの対象、思うこと、全てがただ一つの源に溶け込むことです。その源は意識かつ至福そのものであり、従って、その境地は不活発でも、空白でもありません。どうして人々が、全ての思いが存在しなくなり、心が殺される、その境地を恐れなければならないのか私は分かりません。眠るとき、心や思いは存在しません。人が眠りから起きるとき、『幸せに眠った』と言います。眠りは全ての人にとってとても大切であるため、誰も、王子も乞食も、それなしで済ますことはできません。そして、人が眠りたいとき、全ての世俗の楽しみの範囲内でどれほど上等なものでも、たいそう望まれる眠りから彼を誘惑することはできません。例えば、王様が眠りにつきたいと思うとしましょう。他の全ての物事以上に彼にとって大切な彼の妃がやって来て、彼の邪魔をします。しかし、彼女でさえ、彼はその時払いのけ、眠りにつくことのほうを好みます。それは、全ての思いがやむ、その境地において得られうる至高の幸福の表れです。人が眠りにつくことを恐れていないなら、どうしてサーダナによって心や自我を殺すことを恐れなければならないのか私は分かりません」。バガヴァーンはまた、上の談話の間に、自我なる雲がジニャーナなる月を隠す限り、自らなるユリは花開かないだろうと言い終える(この日記ですでに引用された)タミル語の詩節を引用しました。

45年12月25日 午後

 私が山の周りをまわる許しをバガヴァーンから得ようと講堂に行ったとき、我々の調剤士、N.ピシャロティ氏がマラヤーラム語で彼によって最近作られたいくつかの詩節を読み上げていました。

 チンタ・ディークシトゥル氏のテルグ語の作詩、Ramana Gopalaが講堂で読み上げられました。皆が大いにそれを楽しみました。バガヴァーンもまたそれを高く評価し、それは皆に読み上げられる価値があると思いました。それゆえ、それが行われました。

45年12月26日 午後

 (バガヴァーンを数年前に初めて訪問し、テルグ語の雑誌Bharatiに友人への手紙の形式でその体験の報告を記したソウリスという女性の父)ヴェンカタチャラム氏を指して、バガヴァーンは言いました。「彼は今朝来ました。私はすぐにシュリニヴァーサ・ラオ医師にも来て、ヴェンカタチャラム氏のそばに立つように頼み、誰も今後は一方を他方だと間違わないように彼らを皆に見せました。彼らはとても良く似ています。2、3年前は、さらに良く似ていました」。最近バガヴァーンはある本を受け取り、その中には1年間(1938か1939年?)のヴェンカタチャラム氏のC.ディークシトゥル氏への手紙が公表されています。講堂で、その手紙の中でバガヴァーンに関係する部分が、ヴェンカタチャラム氏によって読み上げられました。

45年12月27日 午前

 バガヴァーンは、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの訪問についてナーガンマによって書かれた彼女の兄への報告を読んでいました。皆がそれを聞くために、読み上げてはどうかと私が提案した時、バガヴァーンは少しだけしか読んでいませんでした。それゆえ、それはナーガンマによって読まれ、ヴェンカタチャラム氏によって翻訳されました。我々は皆、それを高く評価しました。


 エチャンマが三日間重い病にかかっていて、二日間意識がないことがバガヴァーンに報告されました。バガヴァーンは、「タミル語」(しばしば彼女はそのようでした。彼女は眼を閉じてそのようにいたものでした)と言いました。この言葉から、彼女が回復するということを意味してバガヴァーンが言ったと私は想像しました。

45年12月28日

 エチャンマルが午前2時30分ごろに亡くなったようで、講堂でつい午前8時ごろに、その事がバガヴァーンに報告されました。会話は自然とエチャンマルについて、どのように1907年から彼女が全く途切れなくバガヴァーンに食べ物を差し上げることをやりぬいたか、になりました。バガヴァーンは、彼が大寺院のイルッパイ樹の下にいたとき、彼に食べ物を与えた他の3人もまた思い出しました。一人はダーシ・ラージャンバルであり、バガヴァーンに食べ物を与える前に食べないという誓いを立ていたようで、彼がグルモールタムに移る前の2か月ほどの間、彼に食べ物を与えていました。彼女は1日か2日、グルモールタムにさえ食べ物を送り続けていたようです。しかし、バガヴァーンは彼女にそれをやめるよう頼みました。この女性はごく最近亡くなったようです。バガヴァーンはカンマラ(?)の女性、ミーナクシ・アンマルにも言及し、言いました。「彼女はラークシャシーのようでした。彼女は毎日山の周りを回り、その後料理しに来て、私に食べ物を持ってきました。しばらく後、彼女はパラニスワーミを含む全ての人に対する支配権を掌握し始めました。他の人々が食べ物などを持って来たなら、彼女は私にいくらか与え、余りは何でも持って行ったものでした」。(バガヴァーンは午後、「私たちのナーガッパの母、ラトナンマも当時食べ物をよく持ってきました」と言いました)。定期的に供給される食べ物、バガヴァーンが言うところのkattalai(カッタライ、「命令」の意)について、彼は言いました。「あなたたちはそういった全ての定期的な供給がどんな問題を伴うのか知りません。それを行う人々はあなたたちに対していくらか支配権を期待します。それはまた彼らの中にいくらかアハム(私)を作り出します。彼ら全員があなたたちに何か食べることを期待します。「タミル語」(ほら、あなた自身の手で何か取り分けなさい)と言って、その後、それぞれが何かを取り分けるでしょう。その量はあまりにも多くなるでしょう。いくらでも人々がいくらでも物を持ってきます。それも、いつでも。そして、あなたたちはそれを食べなければなりません。時々、私たちは受け取った全てのもの、牛乳、食べ物、おかゆなどを混ぜ合わせて、結果としてできた混合物が液体であるかのようにそれを飲み込んだものでした。『スワーミでいること』はとても困難です。あなたたちはそれを理解できません。私は50年間の経験から話しています。グルモールタムでのそのような経験の後、私は一つの場所に留まらないことでそれを避けたいと思いました」。

午後

 シャンタンマが来て、エチャンマが安らかに息を引き取り、人々はいつこの世を去ったかさえも正確に分からなかったと、そして、彼女はほぼ二日間意識がなかったが、その二日間に1度少し意識があったとき、彼女が尋ねた唯一の質問が「バガヴァーンに食べ物は送られましたか」だったとバガヴァーンに報告しました。(後に、私はナーガンマから、これが完全には正確ではないと知りました。誰かが、エチャンマの心がはっきりしていて、ぼうっとしていないかどうか調べるために、「今日、食事はバガヴァーンに送られましたか」という質問を尋ね、エチャンマルはすぐにそれに気づいた様子を示したようです)。彼女の遺体は火葬されました。私はそこで直ちに、「そのような人々の場合、火葬されるべきなく、埋葬されるべきだと言われていますが」とバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「彼女自身が、体は火葬されるべきで、骨だけ拾われ、彼女の村に埋葬されるべきだと口にしたようです」と答えました。私はまた、昨夜のバガヴァーンの「彼女はよく眼を閉じたままいたものでした」という発言が意味するところは何か彼に尋ねました。彼は、「彼女は頭の中心に集中する修練をしていて、呼吸を完全に制御して二日や三日間でさえ昏睡状態のような状態でいたものでした。私は彼女にそれはラヤでしかなく、それに満足するべきではなく、それから出て、それを越えなければならないと言いました」と説明しました。

 我々のチャガンラル・ヨーギによって紹介された、ジョーシー氏という人が以下の質問をして、バガヴァーンが以下のように答えました。

 質問1: 私が「私は誰か」と考えるとき、「私はこの死すべき運命の体でなく、私はチャイタンニャ、アートマ、もしくは、パラマートマである」という答えがやって来ます。そして、突然、別の質問が起こります-「どうしてアートマはマーヤーに入ったのか」、もしくは言い換えれば、「どうして神はこの世界を創造したのか」。

 答え: 「私は誰か」と尋ねることが本当に意味するのは、自我もしくは「私」なる思いの源を見出そうとすることです。あなたは「私はこの体ではない、など」といった、別の思いについて考えるべきではありません。「私」の源を追及することが、他の全ての思いを取り除く手段として役立ちます。私たちは、あなたが口にしたような他の思いに機会を与えるべきではなく、(それぞれの思いが生じれば)誰にその思いが生じたのかと尋ねることによって、そして、その答えが「私がその思いを得る」であるなら、この「私」とは誰か、その源はどこからかとさらに尋ねることによって、「私」なる思いの源を見出すことに注意を定め続けなければなりません。

 質問2: アートマはサークシャートカーラの対象でしょうか。

 答え: アートマはあるがままにあります。それはいつもサークシャートです。一人は知る、一人は知られるという、二人のアートマ(自分)はいません。それを知ることとは、それでいることです。それは人が他の何かを意識している状態ではありません。それは意識そのものです。

 質問3: 私は「ブラフマ サティヤム ジャガット ミティヤム」(ブラフマンは現実であり、世界は非現実である)の意味が理解できません。この世界は実在しているのでしょうか、していないのでしょうか。ジニャーニは世界を見ないのでしょうか、それとも、彼はそれを別の形で見るのでしょうか。

 答え: 世界にその現実性や虚偽性について悩ませておきましょう。あなた自身の現実性についてまずは見出しなさい。そうすれば、全ての事がはっきりするでしょう。どのようにジニャーニが世界を見ても、どうだっていいでしょう。あなたがあなた自身を実現しなさい。そうすれば、あなたは理解するでしょう。ジニャーニは、名と形からなる世界が自らを制限していないこと、自らが名と形を超えていることを知っています。

 質問4: 私はどうやって崇拝するのか分かりません。どうか私に崇拝する方法をお示し下さい。

 答え: 「崇拝する者」と「崇拝されるもの」が存在しますか。崇拝する者なる「私」を見出しなさい。それが最良の方法です。いつも見る者が追跡されなければなりません。

<巻末にある用語集から>
・パーラーヤナ(parayana):ヴェーダの朗誦
・ムハッラム(moharrum):イスラム教の祭り
・ラヤ(laya):溶解、吸収
・チャイタンニャ(chaitanya):意識、感じうるもの
・サークシャート(カラ)(sakshat(kara)):直接的知覚

2019年4月3日水曜日

バガヴァーンとの日々⑦ - 45年12月7日から45年12月12日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p59~71

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月7日

 Visionの1937年9月号に、ナーム・デーヴによるThe Philosophy of the Divine Nameに関する論説が含まれています。バガヴァーンはそれに賛成して頻繁に言及しています。今日もシュリニヴァーサ・ラオ医師がそれを持ってきて、バガヴァーンは彼に説明しました。バガヴァーンは、「この全ては、ナーム・デーヴが完全な悟りを得た後、ヴィトバー(神)が彼に悟りを得させるためにそのもとへと遣わしたヴィショーパケサルの足に触れた後、彼によって発されたに違いありません」と述べました。バガヴァーンは、その後、以下の物語を話しました。

 「ヴィトバーはナーム・デーヴがいまだ至高の真理を悟っていないことに気づき、彼に教えたいと思っていました。ジニャーネーシュワルとナーム・デーヴが巡礼から戻った時、ゴーラ・クンバルは彼の住まいにいる全ての聖者にごちそうしました。その中にジニャーネーシュワルとナーム・デーヴがいました。その祝宴で、ジニャーネーシュワルはゴーラと共謀して、ゴーラに公然と言いました。「あなたは陶工です。壺を作り、どれがきちんと焼けていて、どれがそうでないか確かめるために壺を吟味することに毎日従事しています。あなたの前のこれらの壺(つまり、聖者たち)は、ブラフマーの壺です。その内のどれがしっかりしていて、どれがそうでないのか確かめて下さい」。そこで直ちに、ゴーラは、「ええ、スワーミ。そうしましょう」と言い、彼がその堅固さを吟味するために壺を軽く叩くのに使う棒を手に取りました。それを手に持って高く掲げ、彼の来客一人ひとりのところに行き、彼がいつも壺にするように、各々の頭を軽く叩きました。来客はそれぞれ慎ましく甘んじて叩かれました。しかし、ゴーラがナーム・デーヴに近づいたとき、後者は憤然として叫びました。「この壺焼きめ、その棒で私を叩きに来るとは、どういうつもりだ」。ゴーラはそこで直ちにジニャーネーシュワルに言いました。「スワーミ、他の全ての壺はきちんと焼けています。この壺(つまり、ナーム・デーヴ)だけがまだきちんと焼けてません」。集まった来客全員がどっと笑いました。ナーム・デーヴは非常に恥ずかしい思いをし、ヴィッタラ(ヴィトバーの別名)のもとに駆け込みしました。彼はヴィッタラととても親しい間柄で、彼と共に遊び、彼と共に食べ、彼と共に眠ったりしていました。ナーム・デーヴは、ヴィッタラの最も近しい友であり仲間である、彼の身に起こったこの不面目について愚痴を言いました。(もちろん、この全てを知っていた)ヴィッタラは彼に同情するふりをし、ゴーラの家で起こったことの一部始終を尋ね、何もかも聞いた後で言いました。「一体どうして他の全員がしたように、黙ったまま、甘じて叩かれなかったのですか。それがこの全ての問題が起こった理由です」。すると直ちにナーム・デーヴはよりいっそう嘆き、「あなたも他の人たちに加わって、私を辱めたいと思っています。どうして私が他の人々のように甘受すべきだったのですか。私はあなたの親友では、あなたの子供ではないのですか」と言いました。ヴィッタラは、「あなたはまだ適切に真理を理解していません。それに、私があなたに伝えても、あなたは理解しないでしょう。でも、これこれの森にある荒れ果てた寺院にいる聖者のところに行きなさい。彼はあなたに悟りを与えることができるでしょう」と言いました。ナーム・デーヴはそれに従いそこに行き、シヴァ・リンガムに足を乗せた、寺院の隅で眠っている気取りのない老人を見つけました。ナーム・デーヴは、彼-ヴィッタラの仲間-が、この人から悟りを得るようになることをまるで信じられませんでした。しかしながら、そこには他に誰もいなかったので、ナーム・デーヴはその人の近くに行き、手を叩きました。その老人ははっとして目を覚まし、ナーム・デーヴを見て、「あぁ、あなたはヴィッタラがここに送ったナーム・デーヴですね。来なさい!」と言いました。ナーム・デーヴは唖然として、「この人は偉大な人に違いない」と思い始めました。それでも、誰であっても、どれほど偉大であろうとも、足をリンガムの上に乗せるのはぞっとするようなことだと彼は思いました。彼はその老人に、「あなたは偉大な人物のようです。しかし、あなたの足をリンガムの上に置くことはあなたにとって適切なことですか」と尋ねました。その老人は、「えぇ、私の足がリンガムの上にありますか。それ(リンガム)はどこですか。どうぞ私の足をどこか他に移してください」と答えました。ナーム・デーヴは足を動かし、様々な場所に置きました。足がどこに置かれても、シヴァ・リンガムがありました。ついに、彼はそれを彼の膝の上に乗せ、彼自身がシヴァ・リンガムになりました。その時、彼は真理を悟り、その年を取った紳士は、「もう帰って構いません」と言いました。バガヴァーンは言い足しました。「注目すべきは、彼がその身を委ね、グルの足に触れたときにのみ、悟りが訪れたということです。この最終的な悟りの後、ナーム・デーヴは家に戻り、数日間、寺院のヴィッタラのところに行きませんでした。ヴィッタラを毎日訪問するだけでなく、寺院でヴィッタラと共に自分の時間のほとんどを過ごすことは彼の習慣だったのにです。そのため、数日後、ヴィッタラはナーム・デーヴの家に行き、ナーム・デーヴが彼を忘れ、一度も彼を訪問しないのはどういわけか無邪気な人のように尋ねました。ナーム・デーヴは、「私をかつぐのはもう結構。私はもう知っています。あなたのいない場所がどこにありますか!あなたと共にいるために、私は寺院に行かなければいけませんか。私はあなたから離れて存在してますか」と答えました。それで、ヴィッタラは言いました。「では、あなたは今や真理を理解しています。そういうわけで、この最後の教えのためにあなたを遣さなければなりませんでした」。

 バガヴァーンは、シュティタ・プラジニャに関する1945年12月のVisionの中の論説に、そして、その論説の中で引用されたサット・ダルシャナからの数行に言及しました。サイード博士はそこで直ちにバガヴァーンに、いつReality in Forty Versesがバガヴァーンによって作られたのか尋ねました。バガヴァーンは言いました。「それはつい1928年ごろでした。ムルガナールがどこかに様々な日付を書き留めています。ある日、ムルガナールが、様々な機会に折に触れて私が作るはぐれた詩節が失われることを許すべきではなく、一緒に集められるべきであり、総数を40にするためにさらにいくつか加え、全40(詩節)を適切なタイトルがついた本にするべきだと言いました。彼はそれゆえ30以下ほどの詩節を集め、それを計40にするために残りを作るよう私に求めました。私はそのようにして、その気分がやって来るとき、様々な機会に数詩節作りました。数が40に達したとき、ムルガナールは、それらが手元の主題にあまり直接関係していないや、そうでなければあまりふさわしくないという名目で、30以下の古い集まりから次々削除しはじめ、削除したものの代わりに新たなものを作るよう私に求めました。この過程が終わり、ムルガナールが要求したように40詩節になったとき、40の中で古いものからは2詩節しかなく、残りすべてが新たに作られていたことに気づきました。それは決まった計画に従ってでなく、一気にでもなく、系統だって作られたのでもありません。私は様々な機会に様々な詩節を作り、ムルガナールたちがその後、その主題、つまり、現実を一貫して規則的に取り扱っているようにいくらか見せるために、その中で表された考えに従ってある順序で並べました」。(古い集まりに含まれ、ムルガナールによって削除された詩節は、20ほどでした。これはその後、上述の作品の補遺として付け加えられ、その補遺も今や40詩節あります)。

 バガヴァーンはまた言いました。「Marital Garland of Lettersは、一部はヴィルーパークシ洞窟で、一部は私が山の周りを歩いている時に作られました。ウパデーシャ・サーラムだけが計画、決まった目的をもって、一気呵成に書かれました。そのわけは、ムルガナールが詩の全体のテーマのために100詩節の限度を設け、その中でウパデーシャという特定の主題は30詩節に制限されるべきだと計画したからです。その上、彼はすでに3詩節作っていたため、残りは27詩節だけで、私はその短い範囲の中でテーマ全体を扱うよう求められました」。

 午後、バガヴァーンはシュリニヴァーサ・ラオ医師にラーマという名前の重要性を説明しました。「『ラ』は自らを、『マ』は自我を意味します。『ラーマ』、『ラーマ』と繰り返し唱え続けるとき、『ラ』の中に溶け込み、『マ』は消え去り、その後、『ラ』のみが残ります。その状態には、ディヤーナでの意識的な努力はなく、それはそこにあります。というのも、ディヤーナは私たちの本質だからです」。

45年12月8日 午前

 シュリニヴァーサ・ラオ医師がこのノートを手に取り、昨日の記入を読み上げました。そこで直ちにバガヴァーンは、ムルガナールたちが様々な詩節が作られた日付を書き留めたノートを取り出すようクリシュナスワーミに頼みました。我々はReality in Forty Versesが作られたのは1928年にだけであることに気づきました。

 バガヴァーンはタミル語の新聞、Hindustanを私に見せました。その中には、45年11月25日のスカンダーシュラマムへのバガヴァーンの訪問についてのティラク・シャーストリによる記事が含まれ、とりわけその名前の由来を説明していました。

午後

 バガヴァーンの依頼で、私があるサンスクリット語の本をとりにパータシャーラーに行っていた時、講堂で、以下に記録される出来事が起こりました。カムディン嬢(現マッキーヴァー夫人)が、ある女性の隣に座っていました。その女性は恍惚状態に入り、ナーラーヤナ、つまり、神から氷砂糖を受け取ったと主張しました。彼女は、その中にインチキは全くなかったと、その氷砂糖は不可思議にその女性の手の中に入って来たと思っています。私もまたその氷砂糖を少しいただきました。

 その出来事はK.A.マハタニ氏によってこのように記録されています。

 1945年12月8日、午後3時45分ごろ、講堂の女性用側の前列に、8才と10才ぐらいの二人の女の子と共に、50才ぐらいのグジャラート人の未亡人が座っているのを目にしました。私は彼女がサマーディにいるのを見て取れました。

 数分後、彼女は足を延ばさずにサマーディの姿勢で静かにあおむけに倒れました。講堂にいる人々は彼女がヒステリーの発作に襲われていると思いましたが、その二人の女の子は彼女がサマーディにいると、それは彼女にしばしば起こることだと言いました。その後、その二人の女の子はグジャラート語のバジャンを見事な旋律で歌い始めました。(その歌は「Haji mare gher thaya lila ler」と始まります)。

 バガヴァーンはずっとその女性を注意深く見ていて、手で膝を叩いて拍子を合わせながら、その旋律を楽しんでいました。バガヴァーンが歌にそれほど興味を示していることに私が気付いたのは、これが初めてでした。

 数分後、その女性は誰の助けもなく起き上がり、同じ姿勢でサマーディの状態で座り、グジャラート語でなにかつぶやき始めました。私は何かヴィジョンを見たかどうか彼女に尋ねました。彼女はヒンドスタニー語で「ええ」と言い、シュリー・ナーラーヤンが講堂の皆にメッセージを与えると言い足しました。「彼らに目を閉じさせ、何のプラヴリッティもなく(つまり、何の思いや動きもなく)、静かにいさせよう。そうすれば、私は誰にも彼にもダルシャンを与えるだろう」。

 私は彼女が言ったことをバガヴァーンに通訳しました。2、3分間、彼女はバガヴァーンに向けて両手を握り合わせて頭を下げていました。その後、彼女の近くに座る二人の女の子の内の一人に氷砂糖のかけらを彼女が手渡したことに我々は気づきました。

 その前、彼女の開いた両手が全くからっぽであったのを我々は見ていました。私はその女の子にその氷砂糖は何で、どのように彼女の手の中に入って来たのか尋ねました。

 その女の子は、「これはバガヴァーン・ナーラーヤンからその女性に与えらえたプラサードです。彼女がサマーディに入るときはいつでも、彼女は様々な機会に(果物、花、花輪、ビャクダン、クムクム、お菓子といった)様々なものを得ます」と答えました。

 その後、その女性は、6才の時からそのような状態によくなると言いました。その女の子は氷砂糖のかけらをバガヴァーンに差し上げました。彼はその少しを手に取り、残りは講堂にいた他の人々の間で分けられました。
 
 私はこれはとても奇跡的ですと述べました。バガヴァーンは手のしぐさだけで、「ええ」と示しましたが、何も言いませんでした。数分後、その女性は二人の女の子と共に講堂を後にしました。立ち去る前、彼女はバガヴァーンに深くお辞儀し、彼の祝福とボンベイに戻る許可を求めました。

 私は彼女がその日の午前中に来て、同じ日の夕方に立ち去ったと聞きました。彼女は事務所で、ボンベイ、オペラ・ハウスの向かいのプルショーッタム・ビル、R.G.ラヴァル様方、マタジ・マニベン・サマーディワッラーと名前を言いました。

 45年12月9日 午前

 昨日、バガヴァーンがHindustanの中のティラクの記事に言及したとき、私は、「我々のナーガンマも45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマム訪問とそこでの出来事についてテルグ語で記事を書いています」と言いました。ナーガンマは以前、これについて私に話していました。今朝、ナーガンマは書いたものを持ってきて、バガヴァーンに見せました。彼は少し読んで、その後、「彼女に読ませましょう。私たちは皆で聞きましょう」と言い、書類を彼女に返しました。彼女が読み上げる前に、バガヴァーンは他の事柄について我々に話し始めました。バガヴァーンは、古くからの弟子、カンダスワーミがバガヴァーンのための独立したアーシュラムを建てたいと切望していたと言いました。彼は敷地を選ぶために山上と森の中の様々な場所を詳しく調べ、ついに現在のスカンダーシュラマムの敷地を提案し、バガヴァーンもそれを了承しました。そこで直ちに、カンダスワーミは山裾にあるウチワサボテンの密林であったものを改造し始めました。その時の誰の手も借りない彼の労働の結果が、我々が今見るアーシュラムです。彼は、「あなたたちはその敷地の当初の状態を想像できません。カンダスワーミはほとんど超人的な努力で働き、4人が協力してさえなしえなかったことを彼自身の手で成し遂げました。彼はウチワサボテンを全て取り除き、地面を平らにするために岩や巨石を減らし、庭を造り、アーシュラムを立ち上げました。私たちは植えるためにココナッツの木を4本手に入れました。それを適切に植えるために、カンダスワーミは10フィートほどの深さの巨大な四角い穴を掘りました。そのことで、あなたたちは彼が引き受けた仕事に彼が投じた労力の量がどれほどであったか分かるでしょう。彼は力強く、がっちりした体格の人でした」と言い足しました。その後、バガヴァーンは、上述のカンダスワーミ、ペルマールスワーミ、パラニスワーミ、ナーラーヤナ・レッディ、イーシュワラ・スワーミなどがバガヴァーンと共に座っているSelf-Realizationの中の集合写真を我々に見せました。その写真はヴィルーパークシ洞窟背後の岩の上でとられました。彼はその後、「この写真で、カンダスワーミは弱々しく痩せた人のように見ます。そのわけは、彼が1か月以上私たちから離れて、「タミル語」(7つの泉)でタパスを行っていて、意図的に十分な食事をとっていなかったからです。それ以前は、彼は筋肉質で、がっちりした体格の人でした。彼はいくらかの小麦粉と少しの粗糖だけ持って7つの泉に出かけ、そこで1か月半ほど住み、この乏しい食料だけをとって生活しました。ある夜、午後7時ごろ、ペルマールスワーミとナーガッパー・チェッティとおそらく他に一人か二人で、カンダスワーミを探しに行き、7つの湖の岩壁の中で彼が眠っているのを見つけました。ペルマールスワーミは中に入り、カンダスワーミのほら貝を持ち出しました。カンダスワーミとペルマールスワーミは、ほら貝で長く途切れない音を鳴らすことに長けていました。ペルマールスワーミは、洞窟の外で大きく長い音を鳴らしました。カンダスワーミは目を覚まし、ほら貝を吹いているのがペルマールスワーミであると分かり、出てきました。私を見て、彼は平伏しました。私たちは皆、そこで夜を過ごしました。私たちは彼が持っていた小麦粉と粗糖の残り物を平らげ、彼が集めた薪を燃やし、彼がそこに引き続きとどまることを不可能にして、私たちと共に立ち去るよう説得しました。写真の中で彼が痩せて見えるのは、彼の断食とタパスのためです」と言い足しました。

 バガヴァーンは、ペルマールスワーミとカンダスワーミが一斉にほら貝を鳴らした様子、そして、バガヴァーンがヴィルーパークシ洞窟にいた時、ペルマールスワーミとカンダスワーミとパラニスワーミが通りに食べ物を乞いに出かけ、それを山の上に持って来て、そこにいる全員でそれを分け合った様子を続いて話しました。ペルマールスワーミが彼らに加わる前、パラニスワーミとアイヤスワーミとカンダスワーミはチャットラムに行き、そのマニガルが皆のための食べ物を与えていたものでした。しかし、ペルマールスワーミも加わったとき、マニガルはどうして追加のものが必要なのか疑問視し始めました。そこで直ちに、ペルマールスワーミは、もはやそのチャットラムに行ったり、マニガルの意のままになるべきでなく、街に乞食に行くことを主張しました。それに応じて、4人以上の一行は、この用事のために洞窟を後にしたものでした。洞窟を出発する時、彼らはほら貝で長い音を鳴らしました。これはバガヴァーンの一行が乞食の役目で洞窟を出発したということを町の人に知らせるものでした。一行が山のふもとに着いたとき、もう一度音を鳴らしました。3度目の合図は、通りの入り口で鳴らされました。通りの住民全員がお供えを持って準備し、一行はシヴァナーマーヴァリを歌い、お供えを集めながら、通りに沿って行進したものでした。集められた食べ物は、バガヴァーンの近くに集まった全員と全サルなどにとって十分にあったようです。Marital Garland of Lettersは、乞食の一行が使うために特別に作られました。バガヴァーンはおどけて、「Marital Garland of Lettersは長年、私たちを養いました」と言い足しました。

45年12月10日

 昨日か一昨日、午前中に、バガヴァーンの講堂近くのアーシュラムの敷地のどこかで、チンナスワーミたちがヘビを目にしました。我々は、「ヘビの種類は何だ」「叩け、叩け!」という叫び声を耳にしました。我々が実際に叩く音を聞いたとき、バガヴァーンは「タミル語」「タミル語」(「誰が叩いているのですか」と大きな声を上げました。このバガヴァーンの抗議は一行の耳に届かなかったようで、そのヘビは殺されました。バガヴァーンは、「タミル語」(この人たちがそのように叩かれるならば、彼らはそれがどういう意味かを知るでしょう)と言い足しました。


 P.C.デーサーイー氏が、アルナーチャラ・マーハートミャに関するM.ヴェンカタラマ・アイヤル氏によって用意された原稿を講堂で読み上げました。

45年12月11日

 午後6時30分ごろ、数か月前にここに来て、一日か二日滞在し、映画撮影機でバガヴァーンを撮影した、ハイデラバード(デッカン)、ベガンペット出身の若者、ラーマチャンドラ・レッディ氏が、彼が100フィートほどのフィルムを用意していて、許されるなら、バガヴァーンの前でそれを映写するとバガヴァーンに話しました。バガヴァーンに異議はなく、それで彼は講堂の西の端で二人の人に白いシーツを持たせ、そのスクリーン上に彼が撮影した映像を映しました-バガヴァーンが講堂から出てきて、末っ子を抱いているナーラーヤナ・アイヤルの息子ラマナタンに会い、杖で触れ、彼に話しかける場面や、バガヴァーンが牛小屋から出てきて、山を登り、その後、タレヤーカン婦人とソーナ・ドラブジー嬢を後ろに伴って、そこから戻ってくる場面や、他のいくつかの場面。我々は皆、その映像を高く評価しました。しかし、バガヴァーンはそれをはっきり見ることができませんでした。彼の視力がどれほど弱っていたのかは、我々にとって驚くべき新事実でした。それで、彼のために、スクリーンがバガヴァーンのソファー対面の南窓近くに掲げられ、再び映像が映されましたが、その時でさえ彼はそれをはっきり見ることができませんでした。

 バガヴァーンはこれに関連して、昔、グラント・ダフ氏か他の誰かがハリウッドでバガヴァーンの映画を見たとアーシュラムに手紙を書いたと言いました。バガヴァーンは、「私たちはそれについて何も知りませんでした。でも、私が山の上を移動していたときに、おそらく誰かが私を撮りに来たのでしょう」と言いました。

 K.K.ナンビアール氏も6か月ほど前に100フィートぐらいの映画を撮影しました。しかし、それは失敗だったようです。我々のヴェンカトーが、数年前、ジャヤデヴラルの友人が映画撮影機でいくらか撮影したが、彼らはそれについて何も聞いてなかったので、それも失敗だったに違いないと講堂で話しました。


45年12月12日 午前

 午前10時ごろ、デーサーイー氏は朗読を続けました。40年ほど前、足が不自由だったが、その後に足が使えるようになったクッパイヤルという人について彼が読み、バガヴァーンが、彼がその出来事について知っていて、クッパイヤルが良くなった後、彼を目にしたと言った時、私は、「タミル語」(つまり、それは本当はバガヴァーンによって行われたようですが、彼はそれについて私たちに話しません。それは彼の人目をはばかる方法です)と言いました。私がそう言ったのは、それについて知っていると信用できるバガヴァーンの旧友のランガ・アイヤルと少なくとももう一人が、バガヴァーンがその出来事について彼らに話したことから、彼らがその奇跡を起こしたのはバガヴァーンだけだったと確信していると私に請け負っていたからです。講堂で私が上述の発言をバガヴァーンの面前で、彼の聞こえるところで私の近くの人々にしたとき、彼は私の憶測を否定しませんでした。バガヴァーンはかつて、彼が山上に住んでいた時に起こった以下の出来事を私に話しました。「ある夜、この町をよく知らない女性が、ある通りに連れて行ってもらうために御者を雇いました。その御者はわざと山の近くの道から外れた場所に女性を連れて行き、宝石目当てに彼女を襲うか、彼女に乱暴しようとしました。その時、二人の巡査がその場に現れ、その御者を脅し、女性を適切な目的地まで送り届けました。その女性は巡査の番号(札)を書き留め、その後彼らについて尋ねましたが、その夜にそのような職務を行った人間の警察官は一人もいないことが確認されました」。ランガ・アイヤルは、これもまた本当はバガヴァーンの仕業だったと信じています。今、私は彼と意見が一致しています。というのも、バガヴァーンはその出来事をアルナーチャラに帰しましたが、バガヴァーンがその出来事を物語る様子から、彼の口からそれについて初めて聞いたときでさえ、私は同じ感じを受けたからです。我々はバガヴァーンを嘘のかどで咎められません。なぜなら、彼がしたことをアルナーチャラによってなされたと彼が言ったのは、彼とアルナーチャラが一つであるからです。

午後

 午後2時50分ごろ、私が講堂に入ろうとしていたとき、バガヴァーンはタミル語のArunachala Puranamから詩節を読み上げていました。詩節の中で、ガウリは、アルナーチャラムのいくつかの通りを横切った後、ガウタマのアーシュラムに着いたと言われています。バガヴァーンが、ガウリが彼のアーシュラムに来ることによるガウタマの喜びを扱う詩節まで来た時、バガヴァーンは先に進むことができませんでした。というのも、涙が彼の目からあふれ、感動が彼の声をつまらせたからでした。それで、彼は本をわきに置き、デーサーイーは原稿の朗読を続けました。バガヴァーンがテーヴァーラムやターユマーナヴァルの献身的な賛歌のようなタミル語の著作の深く献身的などの部分も読み進めることができない様子を、私が過去に一度のみならず気づいたことを私がここに記録しても構わないでしょう。今日の午後、私が上述のArunachala Puranamをバガヴァーンから受け取り、彼を深く感動させた場所に言及し、要するに、彼が我々皆から隠そうとした彼の苦境に私が気づいていたことを彼に伝えると、彼は、「カーラクシェーパムを行い、聴衆にそういった一節を説明する人々が、どうやって泣き崩れることなくどうにかそれをやり遂げるのか私は分かりません。彼らは仕事を始める前に、はじめに岩のように心を固くしなければならないと思います」と発言しました。

 デーサーイー氏の原稿の朗読の途中、彼は聖なる山が8つの顔を持つことについて読みました。事実としてこの山が8つの顔を持つのかという私の質問に、バガヴァーンは答えました。「プラーナには、ブラフマーの前でうぬぼれたアシュタ・ヴァスが全ての功徳を失い、それを取り戻すため、彼らはここアルナーチャラの辺り一帯で苦行を行いに来たと書かれています。この山で、彼らは8つの顔を帯びたシヴァによって全く同時にダルシャンを授けられました。その8人のヴァスはいまだこの山の周りで8つの尾根の形でいます。このヴァスたちがいまだ山としてここにいて、この聖なる山の周りで苦行を行っていると言うのはどういう意味かは、理解することが困難です。それは彼らが(今)この山に住んでいて、苦行を行っていることだけを意味するのでしょうか、それとも、彼ら自身がこの山なのでしょうか」。彼は言い足しました。「どこにアシュタ・ディク・パーラカが実際に見張りとして立ったのか突き止めることは私たちにとって今や困難です-アシュタ・ディク・リンガムが今見つかる場所にでしょうか、それとも、そのリンガムは彼らによって設置され、崇拝されたものなのでしょうか。正確にはどこでガウリが苦行を行ったのか、どこでガウタマがアーシュラムを構えたのか私たちは確信を持てません。しかし、ガウリはパヴァラクンルとドゥルガー寺院とパチャイアンマン・コーリによって覆われる地域で苦行を行ったと、そして、ガウタマのアーシュラマムもまたその地域の近くにあったに違いないと考えても差し支えないでしょう」。

 バガヴァーンはまた、パヴァラクンルかその辺りに元々は存在していたかもしれないどの寺院も、おそらくティップの侵攻のために消滅したようだと、そこにある現在の寺院はほんの50年ほど前に建てられたと、そして、彼はかつてパヴァラクンルと大寺院の北壁の間で古い大砲の残骸を発見したと言いました。ティップ・スルターンはパヴァラクンル近くに大砲を設置し、当時要塞として使われていた寺院の北壁を攻撃したようです。北壁はいまだに大砲の砲撃の跡を残しています。バガヴァーンが与えた情報は政府に伝えられ、その大砲は運び去られ、遺物として保管されているようです。


 11日の夜にバガヴァーンの映画を見られなかった人々のために、本日午後6時30分ごろ、食堂で再び上演されました。我々がそこに行く前、バガヴァーンは、ヨーガーナンダとアメリカ人女性(ノイエ婦人)のグルであったシュクラという人もバガヴァーンの映画を撮り、後者の映像が最終的にハリウッドに届き、アーシュラムに手紙を書いたグラント・ダフなどの知るところになったかもしれないと言いました。

<巻末にある用語集から>
・シュティタ・プラジニャ(sthita prainya):知性において安定した者、自らを実現した賢者。
・パータシャーラー(pathasala):学校、特に少年たちがヴェーダの朗読を教わる学校。
・チャットラム(chattram):巡礼者や旅行者のための無料の宿泊所。時々、食べ物も無料で提供される。
・マニガル(manigar):施設の管理人。
・カーラクシェーパム(kalakshepam):ところどころに歌が織り込まれた宗教的講話。
・アシュタ・ヴァス(Ashta Vass):8人の天人。
・アシュタ・ディク・パーラカ(Ashta Dik Palakas):8つの方角の守護者。
・アシュタ・リンガム(Ashta lingam):8つのリンガム