バガヴァーンとの日々
A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から
45年12月16日
45年12月16日のSunday Timesに、セイロンのV.F.グナラトナによる「In silent adoration of Sri Maharshi」という題の記事が出ました。私は講堂でそれを熟読しました。バガヴァーンは、「サイード博士がそれを読み、それを味気ないと思っています」と発言しました。そこで直ちに、私は、「その中に何も文句をつけるところはありません。実は、ずっと以前に、おそらく去年のジャヤンティの時に、コロンボのラーマチャンドラ氏が私にその原稿を見せ、私はそれを読みました」と言いました。その記事には、すでにバガヴァーンとその教えに詳しい我々に新たに伝えるべきものは何も含まれていませんが、彼の教えを短くとも正確に述べています。
45年12月17日 午前
サイード博士による「The Maharshi who transforms man's life」という題の45年12月16日のSunday Heraldの中の記事が、講堂で読み上げられました。サイード博士は、彼がつけた題名は違うものだったが、編集者がそれを変更したと言いました。バガヴァーンは、45年12月16日のFree Indiaに出たムハッラムの重要性に関するサイード博士による別の記事も熟読しました。
午後
サイード博士は、彼がつけた題名は「Ramana Maharshi's invisible work」だったと言いました。
45年12月19日
ある女性が「スッブが来ました」と言って、もう一人の女性をバガヴァーンに紹介しました。バガヴァーンはこのスッブが誰か見分けられませんでした。しかし、その女性が誰か彼に説明されたとき、彼は、「タミル語」(スッブクッティですか)と言い、彼女が彼を最近訪問したティルチュリのチェッラム・バッタールの妹だと分かりました。この女性は、バガヴァーンが少年時代に遊んだ小さな女の子であったようです。彼は、「この女性には叔母がいて、私が子供のころ、彼女は私を彼女の家に連れていき、私を可愛がってくれたものでした」と我々に言いました。私は、「その女性は今どこにいますか」と尋ねました。バガヴァーンは、「彼女はずっと以前に亡くなりました。彼女の夫は再婚して、7人の子供がいました」と言いました。
サイード博士は年を取り、様々な病気にかかり、そのことは彼が山の周りをまわるのをとても困難にしています。しかしながら、バガヴァーンが彼の弟子たちが山の周りをまわるのを重んじていることに気づいたため、彼と妻は1か月ほど前、それをすることに決めました。彼らはバガヴァーンの許可を取り、周りをまわって、何の困難も不都合な出来事もなく、戻って来ました。今日再び、彼ら二人ともバガヴァーンのもとに来て、山の周りをまわる許可を取りました。バガヴァーンは、もし人が1度か2度山の周りをまわるなら、山自体が再びその周りをまわるよう人を引き付けるだろうと言ったものでした。私はそれが真実であると分かりました。今、それがサイード博士に起こっています。
私の二人の息子とその妻と子供たちと10人以上ぐらいの私の親族が今晩到着し、私が彼らを紹介したとき、私が彼らのための適当な宿泊場所をとれていたかなどバガヴァーンは優しく尋ねました。バガヴァーンはここに来る全ての人の快適さを平等に気遣います。どうして人が彼を愛さずに、彼の御足に捕らわれることなくいられるでしょうか。
45年12月21日
今日はバガヴァーンのジャヤンティ(65回目の誕生日)です。信奉者の参加者がいつもより多く、彼らの多くが遠い場所から来ました。いつもの装飾、音楽、ごちそう、貧しい人々への食べ物の提供がありました。午後、この行事のために特別に作られたバガヴァーンをたたえる多くの祈りや詩節が読み上げられました。(リシケーシュの)スワーミ・シヴァーナンダから送られたメッセージも読み上げられました。
45年12月23日 午後
ポンディシェリの総督の秘書官であり、そこのフランス政府の内閣長官、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットがバガヴァーンのもとに来ました。彼が床の上に楽にしゃがむことができなかったので、バガヴァーンは彼に腰掛けを出すよう我々に頼みました。我々はバガヴァーンの対面に彼のために椅子を置きました。彼はフランス語で書かれた請願書を持参していました。彼と共に来た、タミル語を話す通訳者たちを通じて挨拶を述べた後、彼がフランス語で書いたものを彼は差し出しました。我々のバララム・レッディがそれをバガヴァーンに翻訳しようと試みました。しかし、そのフランス語はかなり格調高かったため、彼はそれがかなり難しいことに気づきました。それで、我々は(その妻と3人の子供が5年近くここに住んでいて、1か月ほど前にシャム(タイの旧名)から戻ってきた)オズボーン氏を呼びに行きました。彼が来て、以下のように要旨を説明しました。「私はほとんど知りません。私はさらに(それ)以下です。しかし、私は私が何について話しているか知っています。私は言葉や説明や議論ではなく、マハルシの霊的影響による積極的な助けを求めています。私はいくらかサーダナを行い、自我がもう少しで消滅されようとする段階に達しました。私は自我に消滅してもらいたいのです。しかし、同時に、私はそれが殺されるのを見るためにそこにいたいと思います。これは相矛盾する望みを持っているように見えます。私が最終段階に達し、自我を殺すことを可能にする、私が完全に信頼する、その影響によって、マハルシが何らかのことを行って下さるよう私は心から願います。私は心に向けて言われた単なる議論や説明でなく、本当の助けを求めています。私のためにマハルシはこれを行って下さるでしょうか」。
彼は別の質問も書き出していました。「私は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘としてきました。それは問題ないでしょうか、それとも、マハルシは私に他の座右の銘や理想を提案して下さるでしょうか。」
バガヴァーンは数分間黙っていましたが、その間中ずっとその訪問者をじっと見ていました。数分後、訪問者は、「私は今、マハルシが喜んで送ってくれるであろう影響をすぐに受け取れる状態にいない感じがします。しばらく後、彼の影響や霊的助けを吸収できるであろう、かの高揚した状態に私がいるときに、再び戻ってきましょう」と言いました。彼は、「この通訳の方(オズボーン氏)と少し話して、また別の時にここに来てもよろしいでしょうか」と言い足しました。バガヴァーンは、「ええ、もちろん話しに行って構いません」と言いました。彼ら二人は出て行きました。サルヴァーディカーリがその訪問者に果物とコーヒーを差し上げ、彼はまた別の時にここに来たいという望みを言い表して、いとまごいしました。訪問者が講堂を離れた後、バガヴァーンは、「彼はこの全てについて読み、いくらかサーダナを行っていたようです」と言いました。誰かが、我々の図書館にあるバガヴァーンの教えに関するフランス語の本を訪問者に見せてはどうかと提案しました。本がそれゆえ持ち出され、彼がまだサルヴァーディカーリと共にいて、コーヒーを飲んでいる間に彼に見せられました。彼は本を見て、その全てを読んでいると言いました。
(マドラス公衆衛生の副局長であり、今では数年間バガヴァーンのもとに来続けている)スブラマニア・アイヤルが、スカンダーアシュラマムでのバガヴァーンの(45年11月25日にT.N.クリシュナン医師によって撮られた)41枚の写真を収めたアルバムを持ってきて、アーシュラマムにそれを贈呈しました。バガヴァーンは写真を見ました。太陽光によって少し損なわれた1枚か2枚を除き、写真は全て見事なものでした。
45年12月24日 午前
バガヴァーンは、T.P.ラーマチャンドラ・アイヤル氏に、我々のヴィシュワナータ・ブラフマチャリの兄弟、スブラマニア・アイヤル氏(ディンディグル)によって書かれた手紙を読み上げるよう頼みました。それは今月21日にティルチュリで祝われたバガヴァーンのジャヤンティの盛大な様子を報告していました。スブラマニア・アイヤル氏はS.ドーライスワーミ・アイヤル氏に手紙を書いていて、ジョルジュ・ル・ボットとバガヴァーンの間の会話を報告していました。それは講堂で集まった全員のために読み上げられました。私もまた、この日記に記録された同じ出来事の報告を読み上げました。
ある訪問者が、自分がプラーナーヤーマとディヤーナを両方とも行えるのか尋ねました。バガヴァーンは、「一方は他方の助けになるものです。人がプラーナーヤーマを必要とするかどうかは、人のパクヴァ、適性しだいです」と言いました。
午後
パーラーヤナの後、オズボーン氏が、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットが去る前に以下のことを言ったと言いました。「私は私が言い表した体験を2度しました。最初は私自身の努力によって、2度目は、今は亡きフランス人哲学者の静かな影響下で。彼は私の腰を持ち、私の側の何の努力もなしに同じ段階に私を連れて行きました。2度とも、私は限界点に波のように近づき続けましたが、しり込みしました。マハルシが私を再びあの地点に連れて行くことができると私が決心したのは、その2度目の体験のためでした。
プラーナーヤーマに関する質問を続けた訪問者に、バガヴァーンは言いました。「目的は、心を一点に向かわせることです。そのためのプラーナーヤーマは助けとなるもの、一つの手段です。ディヤーナのためだけでなく、我々が心を一点に向かわせなければならない、あらゆる場合に、それは純粋に世俗的もしくは物質的な目的のためでさえあるかもしれませんが、プラーナーヤーマを行い、その後、他の仕事を始めるのは良いことです。心とプラーナは同じもので、同じ源を持ちます。一方が制御されるなら、他方も同時に制御されます。人がプラーナーヤーマの助けなしで心を一点に向かわせることができるなら、プラーナーヤーマを気にする必要はありません。しかし、心をすぐさま制御できない人は呼吸を制御してもよく、それは心の制御に通じるでしょう。それは馬を手綱で引き、一方向に行かせるようなものです」。
バガヴァーンは、ムッシュ・ル・ボットによって言及された体験を彼が得る手助けをしたフランス人哲学者の名前を彼が口にしたかオズボーン氏に尋ねました。オズボーン氏は名前を言うことができませんでしたが、今は亡きその哲学者は、古代ギリシャ哲学に長け、それを奉じる人であったようだと言いました。バガヴァーンは、「その哲学者は亡くなっていると言われているので、それは(ルネ・)ゲノンではないでしょう」と述べました。
バガヴァーンは続けました。「彼は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘にしていると言います。でも、どうして何か座右の銘がなければいけないのですか。解放は私たちの本質そのものです。私たちはそれです。私たちが解放を望むという事実こそが、全ての束縛からの自由が私たちの本性であることを示しています。それは新たに獲得されなくていいのです。必要である全ては、私たちが束縛されているという誤った概念を取り除くことです。私たちがそれを成し遂げるとき、どのような類の望みも思いもなくなるでしょう。人が解放を望む限り、その限りは、人は束縛されているとあなたたちは信じるかもしれません」。彼はまた言いました。「人々は、自我や心が殺される時、その結果は単なる空白で、幸福ではないかもしれないと心配します。実際に起こることは、思う人、思いの対象、思うこと、全てがただ一つの源に溶け込むことです。その源は意識かつ至福そのものであり、従って、その境地は不活発でも、空白でもありません。どうして人々が、全ての思いが存在しなくなり、心が殺される、その境地を恐れなければならないのか私は分かりません。眠るとき、心や思いは存在しません。人が眠りから起きるとき、『幸せに眠った』と言います。眠りは全ての人にとってとても大切であるため、誰も、王子も乞食も、それなしで済ますことはできません。そして、人が眠りたいとき、全ての世俗の楽しみの範囲内でどれほど上等なものでも、たいそう望まれる眠りから彼を誘惑することはできません。例えば、王様が眠りにつきたいと思うとしましょう。他の全ての物事以上に彼にとって大切な彼の妃がやって来て、彼の邪魔をします。しかし、彼女でさえ、彼はその時払いのけ、眠りにつくことのほうを好みます。それは、全ての思いがやむ、その境地において得られうる至高の幸福の表れです。人が眠りにつくことを恐れていないなら、どうしてサーダナによって心や自我を殺すことを恐れなければならないのか私は分かりません」。バガヴァーンはまた、上の談話の間に、自我なる雲がジニャーナなる月を隠す限り、自らなるユリは花開かないだろうと言い終える(この日記ですでに引用された)タミル語の詩節を引用しました。
45年12月25日 午後
私が山の周りをまわる許しをバガヴァーンから得ようと講堂に行ったとき、我々の調剤士、N.ピシャロティ氏がマラヤーラム語で彼によって最近作られたいくつかの詩節を読み上げていました。
チンタ・ディークシトゥル氏のテルグ語の作詩、Ramana Gopalaが講堂で読み上げられました。皆が大いにそれを楽しみました。バガヴァーンもまたそれを高く評価し、それは皆に読み上げられる価値があると思いました。それゆえ、それが行われました。
45年12月26日 午後
(バガヴァーンを数年前に初めて訪問し、テルグ語の雑誌Bharatiに友人への手紙の形式でその体験の報告を記したソウリスという女性の父)ヴェンカタチャラム氏を指して、バガヴァーンは言いました。「彼は今朝来ました。私はすぐにシュリニヴァーサ・ラオ医師にも来て、ヴェンカタチャラム氏のそばに立つように頼み、誰も今後は一方を他方だと間違わないように彼らを皆に見せました。彼らはとても良く似ています。2、3年前は、さらに良く似ていました」。最近バガヴァーンはある本を受け取り、その中には1年間(1938か1939年?)のヴェンカタチャラム氏のC.ディークシトゥル氏への手紙が公表されています。講堂で、その手紙の中でバガヴァーンに関係する部分が、ヴェンカタチャラム氏によって読み上げられました。
45年12月27日 午前
バガヴァーンは、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの訪問についてナーガンマによって書かれた彼女の兄への報告を読んでいました。皆がそれを聞くために、読み上げてはどうかと私が提案した時、バガヴァーンは少しだけしか読んでいませんでした。それゆえ、それはナーガンマによって読まれ、ヴェンカタチャラム氏によって翻訳されました。我々は皆、それを高く評価しました。
夜
エチャンマが三日間重い病にかかっていて、二日間意識がないことがバガヴァーンに報告されました。バガヴァーンは、「タミル語」(しばしば彼女はそのようでした。彼女は眼を閉じてそのようにいたものでした)と言いました。この言葉から、彼女が回復するということを意味してバガヴァーンが言ったと私は想像しました。
45年12月28日
エチャンマルが午前2時30分ごろに亡くなったようで、講堂でつい午前8時ごろに、その事がバガヴァーンに報告されました。会話は自然とエチャンマルについて、どのように1907年から彼女が全く途切れなくバガヴァーンに食べ物を差し上げることをやりぬいたか、になりました。バガヴァーンは、彼が大寺院のイルッパイ樹の下にいたとき、彼に食べ物を与えた他の3人もまた思い出しました。一人はダーシ・ラージャンバルであり、バガヴァーンに食べ物を与える前に食べないという誓いを立ていたようで、彼がグルモールタムに移る前の2か月ほどの間、彼に食べ物を与えていました。彼女は1日か2日、グルモールタムにさえ食べ物を送り続けていたようです。しかし、バガヴァーンは彼女にそれをやめるよう頼みました。この女性はごく最近亡くなったようです。バガヴァーンはカンマラ(?)の女性、ミーナクシ・アンマルにも言及し、言いました。「彼女はラークシャシーのようでした。彼女は毎日山の周りを回り、その後料理しに来て、私に食べ物を持ってきました。しばらく後、彼女はパラニスワーミを含む全ての人に対する支配権を掌握し始めました。他の人々が食べ物などを持って来たなら、彼女は私にいくらか与え、余りは何でも持って行ったものでした」。(バガヴァーンは午後、「私たちのナーガッパの母、ラトナンマも当時食べ物をよく持ってきました」と言いました)。定期的に供給される食べ物、バガヴァーンが言うところのkattalai(カッタライ、「命令」の意)について、彼は言いました。「あなたたちはそういった全ての定期的な供給がどんな問題を伴うのか知りません。それを行う人々はあなたたちに対していくらか支配権を期待します。それはまた彼らの中にいくらかアハム(私)を作り出します。彼ら全員があなたたちに何か食べることを期待します。「タミル語」(ほら、あなた自身の手で何か取り分けなさい)と言って、その後、それぞれが何かを取り分けるでしょう。その量はあまりにも多くなるでしょう。いくらでも人々がいくらでも物を持ってきます。それも、いつでも。そして、あなたたちはそれを食べなければなりません。時々、私たちは受け取った全てのもの、牛乳、食べ物、おかゆなどを混ぜ合わせて、結果としてできた混合物が液体であるかのようにそれを飲み込んだものでした。『スワーミでいること』はとても困難です。あなたたちはそれを理解できません。私は50年間の経験から話しています。グルモールタムでのそのような経験の後、私は一つの場所に留まらないことでそれを避けたいと思いました」。
午後
シャンタンマが来て、エチャンマが安らかに息を引き取り、人々はいつこの世を去ったかさえも正確に分からなかったと、そして、彼女はほぼ二日間意識がなかったが、その二日間に1度少し意識があったとき、彼女が尋ねた唯一の質問が「バガヴァーンに食べ物は送られましたか」だったとバガヴァーンに報告しました。(後に、私はナーガンマから、これが完全には正確ではないと知りました。誰かが、エチャンマの心がはっきりしていて、ぼうっとしていないかどうか調べるために、「今日、食事はバガヴァーンに送られましたか」という質問を尋ね、エチャンマルはすぐにそれに気づいた様子を示したようです)。彼女の遺体は火葬されました。私はそこで直ちに、「そのような人々の場合、火葬されるべきなく、埋葬されるべきだと言われていますが」とバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「彼女自身が、体は火葬されるべきで、骨だけ拾われ、彼女の村に埋葬されるべきだと口にしたようです」と答えました。私はまた、昨夜のバガヴァーンの「彼女はよく眼を閉じたままいたものでした」という発言が意味するところは何か彼に尋ねました。彼は、「彼女は頭の中心に集中する修練をしていて、呼吸を完全に制御して二日や三日間でさえ昏睡状態のような状態でいたものでした。私は彼女にそれはラヤでしかなく、それに満足するべきではなく、それから出て、それを越えなければならないと言いました」と説明しました。
我々のチャガンラル・ヨーギによって紹介された、ジョーシー氏という人が以下の質問をして、バガヴァーンが以下のように答えました。
質問1: 私が「私は誰か」と考えるとき、「私はこの死すべき運命の体でなく、私はチャイタンニャ、アートマ、もしくは、パラマートマである」という答えがやって来ます。そして、突然、別の質問が起こります-「どうしてアートマはマーヤーに入ったのか」、もしくは言い換えれば、「どうして神はこの世界を創造したのか」。
答え: 「私は誰か」と尋ねることが本当に意味するのは、自我もしくは「私」なる思いの源を見出そうとすることです。あなたは「私はこの体ではない、など」といった、別の思いについて考えるべきではありません。「私」の源を追及することが、他の全ての思いを取り除く手段として役立ちます。私たちは、あなたが口にしたような他の思いに機会を与えるべきではなく、(それぞれの思いが生じれば)誰にその思いが生じたのかと尋ねることによって、そして、その答えが「私がその思いを得る」であるなら、この「私」とは誰か、その源はどこからかとさらに尋ねることによって、「私」なる思いの源を見出すことに注意を定め続けなければなりません。
質問2: アートマはサークシャートカーラの対象でしょうか。
答え: アートマはあるがままにあります。それはいつもサークシャートです。一人は知る、一人は知られるという、二人のアートマ(自分)はいません。それを知ることとは、それでいることです。それは人が他の何かを意識している状態ではありません。それは意識そのものです。
質問3: 私は「ブラフマ サティヤム ジャガット ミティヤム」(ブラフマンは現実であり、世界は非現実である)の意味が理解できません。この世界は実在しているのでしょうか、していないのでしょうか。ジニャーニは世界を見ないのでしょうか、それとも、彼はそれを別の形で見るのでしょうか。
答え: 世界にその現実性や虚偽性について悩ませておきましょう。あなた自身の現実性についてまずは見出しなさい。そうすれば、全ての事がはっきりするでしょう。どのようにジニャーニが世界を見ても、どうだっていいでしょう。あなたがあなた自身を実現しなさい。そうすれば、あなたは理解するでしょう。ジニャーニは、名と形からなる世界が自らを制限していないこと、自らが名と形を超えていることを知っています。
質問4: 私はどうやって崇拝するのか分かりません。どうか私に崇拝する方法をお示し下さい。
答え: 「崇拝する者」と「崇拝されるもの」が存在しますか。崇拝する者なる「私」を見出しなさい。それが最良の方法です。いつも見る者が追跡されなければなりません。
<巻末にある用語集から>
・パーラーヤナ(parayana):ヴェーダの朗誦
・ムハッラム(moharrum):イスラム教の祭り
・ラヤ(laya):溶解、吸収
・チャイタンニャ(chaitanya):意識、感じうるもの
・サークシャート(カラ)(sakshat(kara)):直接的知覚