マハルシの福音
第1巻 第7章 グルとその恩寵
信奉者:
グル・クリパとは何ですか。どのようにそれが自らの実現に通じるのですか。
マハルシ:
グルは自らです・・・ 時にその人生において人はそれに不満足になり、そして、彼が持つものに満足しなくなり、神への祈りなどを通じ、彼はその望みの満足を求めます。彼の心は徐々に清められ、終に、彼は神を知ることを、世俗的な望みの満足よりも彼の恩寵を得ることを切望します。その時、神の恩寵が顕れはじめます。神はグルの形をとり、信奉者に姿を現し、彼に真理を説き、さらに交際によって彼の心を清めます。信奉者の心は力を得て、その時、内側に向かうことができます。瞑想によって、それはさらに清められ、わずかの波立ちもなく、静かなままあります。その穏やかな広がりが、自らです。
グルは「内部」と「外部」の両方にいます。「外部」から、彼は心が内側に向くように後押しし、「内部」から、彼は自らに向かって心を引き寄せ、心を静める手助けをします。それがグル・クリパです。神とグルと自らの間に違いはありません。
信奉者:
神智学協会では、彼らは彼らを導いてくれる師たちを探し出すために瞑想します。
マハルシ:
師は内にいます。瞑想は、彼が外側のみにいるという無知な考えを取り除くためのものです。もし彼があなたが待ち望む見知らぬ人であるなら、彼は必ずや姿を消しもするはずです。そのような移ろいゆく存在がどのような点で必要ですか。しかし、あなたが自分は分離しているや自分は体であると思う限り、その限りは「外」の師もまた必要であり、彼は体を持っているかのように現れるでしょう。自分自身と体との間違った同一視が止むとき、師は自らに他ならないと見出されるでしょう。
信奉者:
グルは、手ほどきなどを通じて、私たちが自らを知るのを手助けしてくれるのでしょうか。
マハルシ:
グルはあなたの手をとり、耳元でささやきますか。あなたは彼をあなた自身であるものだと想像しているかもしれません。あなたが自分は体を持っていると考えるために、あなたは、彼もまたあなたに具体的な何かをする体を持つと考えます。彼の働きは内に、霊的領域にあります。
信奉者:
どうすればグルは見つかりますか。
マハルシ:
神は、内在していて、その恩寵によって、愛する信奉者を憐れみ、信奉者の発達に応じてその姿を顕します。信奉者は彼が人であると思い、2つの肉体の間の関係を期待します。しかし、グルは、神または自らの化身であり、内から働き、その人が内なる自らを実現するまで、彼がその方法の誤りを悟るのを助け、彼を正しい道に導きます。
信奉者:
では、信奉者は何をすべきですか。
マハルシ:
彼はただ師の言葉に従い、次第に内に進みさえすればいいのです。師は「内」と「外」の両方にいます。彼はあなたを内側に駆り立てるための状態を作り出し、同時に、あなたを中心(the Centre)に引き寄せるために「内部」を準備します。そうして、あなたが中心に据えられるために、彼は「外」から後押しし、「内」から牽引します。
あなた自身の努力によって世界を征服できるとあなたは考えています。あなたが外面的に挫折し、内側に駆り立てられるとき、あなたは「あぁ!人よりも優れた力があるのだ!」と感じます。
自我は、ライオンより力が劣る何によっても支配下に置くことができないとても力強い象のようです。ライオンとは、この例えにおいて、グルに他なりません。まさにそのまなざしは、象のごとき自我を震え上がらせ、殺します。
あなたの栄光があなたが存在しなくなるところにあると、あなたはやがて知るようになるでしょう。その状態を得るために、あなたはあなた自身を委ねなければなりません。その時、師はあなたが導きを受けるのにふさわしい状態にいることを見て取り、彼はあなたを導きます。
信奉者:
手ほどきも他のどのような具体的な行為も与えないグルの沈黙が、どうして彼の言葉などよりも力強くなれるのですか。そのような沈黙は、聖典の学習よりもどのように優れているのですか。
マハルシ:
沈黙は、最も強力な形の働きです。聖典がどれほど膨大で、断固たるものであっても、それらは効果を欠いています。グルは沈黙し、恩寵は全てに行き渡ります。この沈黙は、寄せ集められた全ての聖典よりも膨大で、より断固たるものです。
信奉者:
しかし、信奉者は幸福を獲得できるのですか。
マハルシ:
信奉者は師に彼自身を委ねます。そして、それは彼によって保たれる個人性のわずかの痕跡もないということです。委ねが完全であるなら、一切の自意識は失われ、その時、苦しみも悲しみもあり得ません。
永遠の存在(Being)とは、幸福に他なりません。それは天啓(思いがけない発見)として訪れます。
信奉者:
どうすれば私は恩寵を獲得できますか。
マハルシ:
恩寵は自らです。それもまた手に入れることはできません。あなたはただそれが存在することを知りさえすればいいのです。
太陽はただ輝きだけです。それは暗闇を見ません。それでも、あなたは太陽が近づくや否や暗闇は消え失せると話します。そのようにまた、信奉者の無知は、暗闇という幻影のように、グルを見ることで消え去ります。あなたは太陽光に囲まれています。それでも、あなたが太陽を見たいのなら、その方向に向き、それを見なければいけません。そのようにまた、恩寵は今ここにありますが、あなたが行う適切なアプローチによって見出されます。
信奉者:
恩寵は探求者の成熟を早められませんか。
マハルシ:
その全てを師に任せなさい。無条件で彼に委ねなさい。2つのことの内の1つが行われなければいけません-あなたが己の無力を悟り、あなたを助けてくれる高き力を必要とするために、あなた自身を委ねるか、もしくは、苦しみの原因を吟味し、その源の中へ入り、自らに溶け込むことです。どちらの道でも、あなたは苦しみから解放されるでしょう。神またはグルは、彼自身を委ねた信奉者を決して見捨てません。
信奉者:
グルまたは神への平伏の意義とは何ですか。
マハルシ:
平伏とは、自我が鎮まることを意味します。そして、それはその源に溶け込むということです。神またはグルは、表向きの跪拝(きはい)、お辞儀、平伏によって欺かれません。彼は自我がそこにあるかないかを見ます。
信奉者:
バガヴァーンはその恩寵のしるしとして、彼の葉っぱからいくらかプラサードを私に下さらないのでしょうか。
マハルシ:
自我について思うことなく、食べなさい。その時、あなたが食べるものは、バガヴァーンのプラサードになります。
信奉者:
学のある人は、グル・クリパを必要としていないという意味において、悟り(Enlightenment)により適しているのではないのですか。
マハルシ:
学識者でさえ、学のない賢者の前でお辞儀しなければなりません。無学は無知であり、教養は博学な無知です。共に真の目的について無知です。賢者は異なる方向において無知です。彼にとって「他」がいないため、彼は無知です。
信奉者:
贈り物がグルに捧げられるのは、彼の恩寵を獲得するためではありませんか。そのため、訪問者はバガヴァーンに贈り物を捧げます。
マハルシ:
どうして彼らは贈り物を持ってくるのですか。私がそれを欲しがりますか。たとえ私が拒んでも、彼らは贈り物を私に押し付けます!何のために?魚を捕まえるために餌を与えるようではありませんか。釣り人はぜひとも魚に食べ物を与えたいと思っていますか。いいえ、彼はぜひとも魚を食べたいと思っています!
信奉者:
モークシャを得る前に順々に手ほどきを与えるという神智学の考えは真実ですか。
マハルシ:
モークシャをある人生で達成する人々は、その過去生で全ての手ほどきを経たに違いありません。
信奉者:
必ずしもこの世界においてではありませんが、ジニャーニは死後に4種か5種の仕事を選ばなければならないと神智学は言います。
マハルシ:
仕事に従事する人もいるかもしれませんが、全て(の人がそうするの)ではありません。
信奉者:
あなたは目に見えないリシたちの僧会を意識していますか。
マハルシ:
目に見えないなら、あなたはどうやって彼らを見れるのですか。
信奉者:
意識の中で。
マハルシ:
意識の中に、外側のものは何もありません。
信奉者:
私は彼らを実現できますか。
マハルシ:
あなたがあなた自身の現実を実現するなら、リシや師のそれもあなたに明らかになるでしょう。ただ1人の師しかおらず、それは自らです。
信奉者:
輪廻転生は真実ですか。
マハルシ:
無知がある限りのみ、輪廻転生は存在します。
実際は、今も昔も、輪廻転生は全くありません。今後も、まるでないでしょう。これが真理です。
信奉者:
ヨーギはその過去生を知ることができますか。
マハルシ:
あなたは過去を知りたいと思っていますが、現在を知っていますか。現在を見出しなさい。そうすれば、残りはそれに倣うでしょう。私たちの現在の限られた知識でもってさえ、あなたは非常に苦しんでいます。どうしてあなたはあなた自身にさらなる知識を背負わせなければならないのですか。さらに苦しむためですか。
信奉者:
バガヴァーンは、他者に自らを実現させるために超常的な力(神通力)を使いますか。それとも、そのためにはバガヴァーンの実現という単なる事実で十分ですか。
マハルシ:
自らの実現の霊的な力は、全ての超常的な力の使用よりも遥かに力強いものです。賢者の中には自我がないため、彼にとって「他者」はいません。あなたに授けることができる最高の利益とは何ですか。それは幸福であり、幸福は安らぎから生まれます。安らぎは妨げがないところにだけ君臨でき、妨げは心に生じる思いによります。心自体が存在しないとき、完全な安らぎがあるでしょう。人が心を消し去っていないなら、彼は安らぎを得て、幸福でいることはできません。そして、彼自身が幸福でないなら、彼は「他者」に幸福を授けることはできません。しかしながら、心を持たない賢者にとって「他者」はいないため、彼の自らの実現という単なる事実、それ自体が、「他者」を幸福にするのに十分です。