2015年9月17日木曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第7章 グルとその恩寵

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p26-30

マハルシの福音

第1巻 第7章 グルとその恩寵

信奉者
 グル・クリパとは何ですか。どのようにそれが自らの実現に通じるのですか。

マハルシ:
 グルは自らです・・・ 時にその人生において人はそれに不満足になり、そして、彼が持つものに満足しなくなり、神への祈りなどを通じ、彼はその望みの満足を求めます。彼の心は徐々に清められ、終に、彼は神を知ることを、世俗的な望みの満足よりもの恩寵を得ることを切望します。その時、神の恩寵が顕れはじめます。神はグルの形をとり、信奉者に姿を現し、彼に真理を説き、さらに交際によって彼の心を清めます。信奉者の心は力を得て、その時、内側に向かうことができます。瞑想によって、それはさらに清められ、わずかの波立ちもなく、静かなままあります。その穏やかな広がりが、自らです。

 グルは「内部」と「外部」の両方にいます。「外部」から、彼は心が内側に向くように後押しし、「内部」から、彼は自らに向かって心を引き寄せ、心を静める手助けをします。それがグル・クリパです。神とグルと自らの間に違いはありません。

信奉者:
 神智学協会では、彼らは彼らを導いてくれる師たちを探し出すために瞑想します。

マハルシ:
 は内にいます。瞑想は、が外側のみにいるという無知な考えを取り除くためのものです。もしがあなたが待ち望む見知らぬ人であるなら、は必ずや姿を消しもするはずです。そのような移ろいゆく存在がどのような点で必要ですか。しかし、あなたが自分は分離しているや自分は体であると思う限り、その限りは「外」のもまた必要であり、彼は体を持っているかのように現れるでしょう。自分自身と体との間違った同一視が止むとき、自らに他ならないと見出されるでしょう。

信奉者:
 グルは、手ほどきなどを通じて、私たちが自らを知るのを手助けしてくれるのでしょうか。

マハルシ:
 グルはあなたの手をとり、耳元でささやきますか。あなたは彼をあなた自身であるものだと想像しているかもしれません。あなたが自分は体を持っていると考えるために、あなたは、もまたあなたに具体的な何かをする体を持つと考えます。の働きは内に、霊的領域にあります。

信奉者:
 どうすればグルは見つかりますか。

マハルシ:
 神は、内在していて、その恩寵によって、愛する信奉者を憐れみ、信奉者の発達に応じてその姿を顕します。信奉者はが人であると思い、2つの肉体の間の関係を期待します。しかし、グルは、神または自らの化身であり、内から働き、その人が内なる自らを実現するまで、彼がその方法の誤りを悟るのを助け、彼を正しい道に導きます。

信奉者:
 では、信奉者は何をすべきですか。

マハルシ:
 彼はただの言葉に従い、次第に内に進みさえすればいいのです。は「内」と「外」の両方にいます。はあなたを内側に駆り立てるための状態を作り出し、同時に、あなたを中心(the Centre)に引き寄せるために「内部」を準備します。そうして、あなたが中心に据えられるために、は「外」から後押しし、「内」から牽引します。

 あなた自身の努力によって世界を征服できるとあなたは考えています。あなたが外面的に挫折し、内側に駆り立てられるとき、あなたは「あぁ!人よりも優れたがあるのだ!」と感じます。

 自我は、ライオンより力が劣る何によっても支配下に置くことができないとても力強い象のようです。ライオンとは、この例えにおいて、グルに他なりません。まさにそのまなざしは、象のごとき自我を震え上がらせ、殺します。

 あなたの栄光があなたが存在しなくなるところにあると、あなたはやがて知るようになるでしょう。その状態を得るために、あなたはあなた自身を委ねなければなりません。その時、はあなたが導きを受けるのにふさわしい状態にいることを見て取り、はあなたを導きます。

信奉者:
 手ほどきも他のどのような具体的な行為も与えないグルの沈黙が、どうしての言葉などよりも力強くなれるのですか。そのような沈黙は、聖典の学習よりもどのように優れているのですか。

マハルシ:
 沈黙は、最も強力な形の働きです。聖典がどれほど膨大で、断固たるものであっても、それらは効果を欠いています。グルは沈黙し、恩寵は全てに行き渡ります。この沈黙は、寄せ集められた全ての聖典よりも膨大で、より断固たるものです。

信奉者:
 しかし、信奉者は幸福を獲得できるのですか。

マハルシ:
 信奉者はに彼自身を委ねます。そして、それは彼によって保たれる個人性のわずかの痕跡もないということです。委ねが完全であるなら、一切の自意識は失われ、その時、苦しみも悲しみもあり得ません。

 永遠の存在(Being)とは、幸福に他なりません。それは天啓(思いがけない発見)として訪れます。

信奉者:
 どうすれば私は恩寵を獲得できますか。

マハルシ:
 恩寵は自らです。それもまた手に入れることはできません。あなたはただそれが存在することを知りさえすればいいのです。

 太陽はただ輝きだけです。それは暗闇を見ません。それでも、あなたは太陽が近づくや否や暗闇は消え失せると話します。そのようにまた、信奉者の無知は、暗闇という幻影のように、グルを見ることで消え去ります。あなたは太陽光に囲まれています。それでも、あなたが太陽を見たいのなら、その方向に向き、それを見なければいけません。そのようにまた、恩寵は今ここにありますが、あなたが行う適切なアプローチによって見出されます。

信奉者:
 恩寵は探求者の成熟を早められませんか。

マハルシ:
 その全てをに任せなさい。無条件でに委ねなさい。2つのことの内の1つが行われなければいけません-あなたが己の無力を悟り、あなたを助けてくれる高き力を必要とするために、あなた自身を委ねるか、もしくは、苦しみの原因を吟味し、そのの中へ入り、自らに溶け込むことです。どちらの道でも、あなたは苦しみから解放されるでしょう。神またはグルは、彼自身を委ねた信奉者を決して見捨てません。

信奉者:
 グルまたは神への平伏の意義とは何ですか。

マハルシ:
 平伏とは、自我が鎮まることを意味します。そして、それはそのに溶け込むということです。神またはグルは、表向きの跪拝(きはい)お辞儀、平伏によって欺かれません。彼は自我がそこにあるかないかを見ます。

信奉者:
 バガヴァーンはその恩寵のしるしとして、の葉っぱからいくらかプラサードを私に下さらないのでしょうか。

マハルシ:
 自我について思うことなく、食べなさい。その時、あなたが食べるものは、バガヴァーンのプラサードになります。

信奉者:
 学のある人は、グル・クリパを必要としていないという意味において、悟り(Enlightenment)により適しているのではないのですか。

マハルシ:
 学識者でさえ、学のない賢者の前でお辞儀しなければなりません。無学は無知であり、教養は博学な無知です。共に真の目的について無知です。賢者は異なる方向において無知です。にとって「他」がいないため、は無知です。

信奉者:
 贈り物がグルに捧げられるのは、の恩寵を獲得するためではありませんか。そのため、訪問者はバガヴァーンに贈り物を捧げます。

マハルシ:
 どうして彼らは贈り物を持ってくるのですか。私がそれを欲しがりますか。たとえ私が拒んでも、彼らは贈り物を私に押し付けます!何のために?魚を捕まえるために餌を与えるようではありませんか。釣り人はぜひとも魚に食べ物を与えたいと思っていますか。いいえ、彼はぜひとも魚を食べたいと思っています!

信奉者:
 モークシャを得る前に順々に手ほどきを与えるという神智学の考えは真実ですか。

マハルシ:
 モークシャをある人生で達成する人々は、その過去生で全ての手ほどきを経たに違いありません。

信奉者:
 必ずしもこの世界においてではありませんが、ジニャーニは死後に4種か5種の仕事を選ばなければならないと神智学は言います。

マハルシ:
 仕事に従事する人もいるかもしれませんが、全て(の人がそうするの)ではありません。

信奉者:
 あなたは目に見えないリシたちの僧会を意識していますか。

マハルシ:
 目に見えないなら、あなたはどうやって彼らを見れるのですか。

信奉者:
 意識の中で。

マハルシ:
 意識の中に、外側のものは何もありません。

信奉者:
 私は彼らを実現できますか。

マハルシ:
 あなたがあなた自身の現実を実現するなら、リシやのそれもあなたに明らかになるでしょう。ただ1人のしかおらず、それは自らです。

信奉者:
 輪廻転生は真実ですか。

マハルシ:
 無知がある限りのみ、輪廻転生は存在します。

 実際は、今も昔も、輪廻転生は全くありません。今後も、まるでないでしょう。これが真理です。

信奉者:
 ヨーギはその過去生を知ることができますか。

マハルシ:
 あなたは過去を知りたいと思っていますが、現在を知っていますか。現在を見出しなさい。そうすれば、残りはそれに倣うでしょう。私たちの現在の限られた知識でもってさえ、あなたは非常に苦しんでいます。どうしてあなたはあなた自身にさらなる知識を背負わせなければならないのですか。さらに苦しむためですか。

信奉者:
 バガヴァーンは、他者に自らを実現させるために超常的な力(神通力)を使いますか。それとも、そのためにはバガヴァーンの実現という単なる事実で十分ですか。

マハルシ:
 自らの実現の霊的な力は、全ての超常的な力の使用よりも遥かに力強いものです。賢者の中には自我がないため、にとって「他者」はいません。あなたに授けることができる最高の利益とは何ですか。それは幸福であり、幸福は安らぎから生まれます。安らぎは妨げがないところにだけ君臨でき、妨げは心に生じる思いによります。心自体が存在しないとき、完全な安らぎがあるでしょう。人が心を消し去っていないなら、彼は安らぎを得て、幸福でいることはできません。そして、彼自身が幸福でないなら、彼は「他者」に幸福を授けることはできません。しかしながら、心を持たない賢者にとって「他者」はいないため、自らの実現という単なる事実、それ自体が、「他者」を幸福にするのに十分です。

2015年9月13日日曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第6章 自らの実現

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p22-25

マハルシの福音

第1巻 第6章 自らの実現

信奉者:
 どうすれば私は自らの実現を達成することができますか。

マハルシ:
 実現は新たに得られなければならないものではありません。それはすでにそこにあります。必要である全ては、「私は実現していない」という思いを取り除くことです。

 静寂や安らぎが、実現です。自らがいないときは片時もありません。疑いや非‐実現の感覚がある限り、自分自身からそれらの思いを取り除こうという試みが行われなければなりません。それらは自ら自らでないものとの同一視のためです。自らでないものが消え去るとき、自らのみが残ります。場所を空けるためには、邪魔なものが取り除かれればそれで十分です。どこかから場所が持ち込まれるわけではありません。

信奉者:
 ヴァーサナー・クシャヤなしには実現は可能ではないため、ヴァーサナーが効果的に破壊される状態を私はどのように実現すればいいのでしょうか。

マハルシ
 今、その状態(State、境地)にあなたはいます!

信奉者:
 それは自らにつかまることにより、ヴァーサナーが生じるその時に破壊されなければならないということですか。

マハルシ:
 あなたがあるがままにいるなら、それらは自ずから破壊されるでしょう。

信奉者:
 どうすれば私は自らに達するのでしょうか。

マハルシ:
 自らに達することはできません。仮に自らが達されるなら、自らが今ここになく、いまだ得られていないということを意味するでしょう。新たに得られるものは、失われもするでしょう。そのため、それは永続的ではなくなるでしょう。永続的でないものは、求め励むに値しません。そのため、自らは達されないと私は言います。あなた自らです。あなたはすでにそれなのです。

 事の真相は、あなたの至福に満ちた状態にあなたが無自覚であるということです。無知が起こり、至福である純粋な自らを覆い隠します。

 試みは、間違った知識に過ぎない、この無知の覆いを取り除くためだけに向けられます。間違った知識とは、自らと体や心などとの誤った同一視です。この誤った同一視は去らなければならず、その後、自らのみが残ります。

 ですから、実現は全ての人にとってあります。志高き人々の間で実現に差はありません。自分が実現できるのかどうかという、まさにその疑い、そして、「私は実現していない」という概念が、それ自体、障害物です。それらの障害物からも自由になりなさい。

信奉者:
 サマーディは何の役に立ちますか。その時、思いは存続しますか。

マハルシ:
 サマーディだけが真理を明らかにできます。思いは現実を覆い隠し、そのため、サマーディ以外の状態で、それはそれとして実現されていません。

 サマーディでは、「私はいる(I AM)」という意識のみがあり、思いはありません。「私はいる」という体験は、静かにいることです。

信奉者:
 ここで私が得たサマーディや静寂の体験をどうすれば私は再び経験できますか。

マハルシ:
 あなたの現在の体験は、あなたがいるところの雰囲気の影響によるものです。この雰囲気の外で、あなたはそれを体験できますか。その体験は断続的です。それが永続的になるまで、修練が必要です。

信奉者:
 人は時に、その中心が普段の自分外側にあり、全てを包含しているように思える、ある種の意識の鮮明な閃きを経験します。哲学的概念に関わることなく、その稀な閃きを得ること保つこと拡大することを目指して努力するために、どのようにバガヴァーンは私に助言されるのでしょうか。そのような体験の中でのアバヤーサは、隠遁を必要としますか。

マハルシ:
 外側に!誰にとって内や外がありますか。それらは、主体と対象がある限りのみ、存在できます。再び、誰にとってその2つがありますか。吟味すれば、あなたはそれらが主体のみに溶け込むことを発見するでしょう。誰が主体なのか確かめなさい。この探求は、主体を超える純粋な意識にあなたを導きます。

 普段の自分とは心です。この心は制限を伴っています。しかし、純粋な意識は制限を超えてあり、上に概説された吟味によって達されます。

 得ること自らは常にそこにあります。あなたはただ自らの啓示を妨げる覆いを取り除きさえすればいいのです。

 保つこと-あなたがいったん自らを実現するなら、それはあなたの直接的な即座の体験になります。それは決して失われません。

 拡大すること自らが拡大することはできません。というのも、収縮や拡張なく、それは変わらずにいるからです。

 隠遁自らに住まうことが独居です。なぜなら、自らに相容れないものはありません。隠遁は、ある場所や状態から別のものへとなるに違いありません。自らと離れて、一方も他方も存在しません。全て自らであるため、隠遁は不可能で、思いもよらないことです。

 アバヤーサは、本来の安らぎへの妨げの防止でしかありません。あなたがアバヤーサをしてもしなくても、あなたはいつもあなたの自然の状態にいます・・・ 質問も疑いもなく、あるがままでいることが、あなたの自然な状態です。

信奉者:
 サマーディを実現すると同時に、人はシッディも獲得しますか。

マハルシ:
 シッディを見せるためには、それらを認識する他者がいければなりません。それは、それらを見せる者の中にジニャーナがないことを意味します。ですから、シッディは一考の価値もありません。ジニャーナのみが目指され、得られなければいけません。

信奉者:
 私の実現は他者を助けますか。

マハルシ:
 ええ、しかもそれは、あなたがおよそ他者になしうる最高の助けです。偉大な真理を発見した人々は、自らの静かな深みで、そのようにしました。しかし、実際、助けられるべき「他者」はいません。というのも、金細工師が、金で作られた様々な宝飾品の中の金の価値をはかる間、金のみ見るように、自らを)実現した存在自らのみを見るからです。あなたがあなた自身を体と同一視するとき、名と形がそこにあります。しかし、あなたが体の意識を超越するとき、「他者」もまた消え去ります。自らの)実現者は、世界を彼自身と異なっていると見なしません。

信奉者:
 聖者らが他者と交わるなら、より良いのではないのでしょうか。

マハルシ:
 交わるべき「他者」はいません。自らが唯一の現実です。

信奉者:
 私は苦しむ世界を助けようとすべきではないのですか。

マハルシ:
 あなたを創造した力が、世界もまた創造しました。それがあなたの面倒をみれるなら、それは同様に世界の面倒もまたみれます・・・ 神が世界を創造したのなら、その世話をするのはの仕事であり、あなたの(仕事)ではありません。

信奉者:
 愛国者でいることは我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 あなたの義務はいること(to be)であり、あれやこれやでいることではありません。「私はいる、が私である(I AM THAT I AM)は、全ての真理を要約しています。その方法は「静かにいる(be still)」に要約されます。

 では、静寂とはどういう意味ですか。それは「あなた自身を滅ぼす」という意味です。なぜなら、全ての名と形が問題の原因だからです。「私‐私」が自らです。「私はこれである」が自我です。「私」が「私」のみとして保たれるとき、それは自らです。それが脇道にそれ、「私はあれこれである、私はだれそれである」と言うとき、それは自我です。

信奉者:
 神とは、では、誰ですか。

マハルシ:
 自らが神です。「私はいる」が神です。神が自らと離れているなら、自らのない神でなければならず、馬鹿げています。自らを実現するために必要とされる全ては、静かにいることです。それより何が簡単になれますか。それゆえ、アートマ・ヴィドヤーは最も達成し易いのです。