2015年8月25日火曜日

メルセデス・デ・アコスタ(アメリカから来た詩人、劇作家、小説家)の思い出

◇HP : Realizationより (http://realization.org/page/doc0/doc0039.htm#fn2)

私のラマナ・マハルシとの出会い

メルセデス・デ・アコスタ
メルセデス・デ・アコスタは、1920年代および30年代のキューバ系アメリカ人の映画脚本家であり、グレタ・ガルボ、マリーネ・ディートリッヒ、イサドラ・ダンカン、多くの他の美しい有名人との恋愛関係で有名でした。
「私はどんな男性からどんな女性も引き離せるわ」と彼女は友人に話すのを好みました。(ウェブサイトMr. Showbizからの引用)
1938年、彼女はラマナ・マハルシに会うためにアルナーチャラへ旅し、三日間滞在した。彼女は後に自伝の中で、それは人生で最も意義深い三日間だったと記しました。
1962年、彼女はシュリー・ラマナに自伝を一部送りました。この文章はそこから抜粋されたものです。彼女は自伝に以下のように献辞を記しました。
私が今までに知る、ただひとり完全に無我なる、世俗に無執着な、純粋な存在
バガヴァーン・ラマナ・マハルシへ
これは彼女が1938年にアルナーチャラに滞在した時に起こったことの彼女の記述です。

 「A SEARCH IN SECRET INDIA」(ポール・ブラントンによる本)は、私に深い影響を与えました。その中で、私は初めてラマナ・マハルシ、偉大なインドの聖賢について知りました。あたかもそれは、この聖者から発された何かがその本から私に投げかけられたかのようでした。彼について読んだ後、昼も夜も、私は他のことについて考えられませんでした。私は、いわば、彼に取り憑かれました。他のことを話すことさえできませんでした。この聖者に会いに行かねばならないという考えから私の気を逸らすことのできるものは何もありませんでした。この時以来、それについて話しすぎることは止めましたが、私の人生の全ての意識は、インドへと向い、ハリウッドから遠ざかりました。私は必ずそこへ行くだろうと予感しました-この時、そう示唆するものは何も存在しませんでしたが。それでも、私はマハルシに会い、その出会いは人生で最高の体験になるだろうと予感しました。

 私はごくわずかのお金しか持ち合わせていませんでした。危険を冒してインドへ行くにはあまりにわずかでしたが、何かが私をそこへと向かわせました。私は汽船会社へ行き、10月はじめ頃にジェノバからボンベイへ航行するインド船、S.S.ヴィクトリアの一番安い客室の一つを予約しました。その間に、妹に会いに私はダブリンへ飛びました。

 私はセイロンへの航路を予約していました。そこから南インドに渡り、ラマナ・マハルシが住むティルヴァンナーマライへ直接行くつもりでした。しかし、船がボンベイに寄港していた時、ノリナ・マキャベリがメヘル・バーバーからの伝言を携え、私に会いに船上に来ました。伝言は、コンスエロ(メヘル・バーバーの信奉者であった旅仲間の女性)と私は船から降り、ボンベイから2時間ほどのアフマドナガルに彼に会いに行かねばならないという内容でした。私はそうしたくはありませんでした。インドでの私の本来の目的は、マハルシに会うことだったからであり、私は彼のもとへ行きたくて仕方なかったのです。

 (著者はカリフォルニアでメヘル・バーバーに会い、しばらくの間、彼に相当の敬意を示していました。しかしながら、彼女の彼への信頼はインドへ行く前に衰え、そして、一たびそこへ行くと、それはほぼ消えてしまいました。メヘル・バーバーの要望で-それは彼女が同意したわずかの要望の一つでしたが-、彼女は初めにインドを旅してまわり、マハルシへの訪問を遅らせました。)

 マドラスで私は車を借りました。ティルヴァンナーマライに到着したいと切望していたので、床に就くことなく、夜間に移動し、ほぼ11時間車を走らせた後、朝の7時ごろに到着しました。寺院(アルナーチャレーシュワラ寺院)の前の小さな広場で車から降りた時、私はとても疲れていました。運転手は私をこれ以上先に連れて行けないと説明しました。私はアルナーチャラの山へ向き直り、熱い日差しの中、ほこりに覆われた道沿いに、町から2マイルほどある賢者が住む住まいへ急ぎました。その2マイルを走りながら、私が人生で最高の体験に向かって走っていることを私自身の内に深く知っていました。

 感動で満たされ、ぼう然となり、私がはじめて講堂へ入った時、どうすればいいのかよく分かりませんでした。強い日差しの下からいくぶん暗い講堂の中へと来たので、最初、見づらいものでした。それでも、私はすぐにバガヴァーンに気づきました。彼はブッダの姿勢で隅の寝椅子に座っていました。同時に、あたかも目に見えない風が激しく私を押しているかのように、私は講堂の中の何らかの強い力によって圧倒されるのを感じました。一瞬、私はめまいがしました。それから、私は正気に戻りました。大変驚いたことに、「こんにちは、どうぞ入って」と私に呼びかけるアメリカ人の声を突然耳にしました。それは元々はカリフォルニアのロング・ビーチから来たガイ・ハーグという名のアメリカ人の声でした。後で、彼がフィリピン諸島のアメリカ海軍を円満除隊し、その後、次第にインドへ進み、ボンベイに到着した時、ヨーガの勉強を始めたと彼は私に話しました。その時、彼はシュリー・ラマナ・マハルシについて耳にし、大いに彼に惹きつけられ、ティルヴァンナーマライに行こうと決めました。私が彼に出会った時、彼はすでにマハルシと一年間ともにいて、賢者とともに講堂で昼も夜も途切れることなく座っていました。

 彼は壁を背にして座っていたところから立ち上がり、私のほうへ来ました。私の手を取り、壁を背にした彼のそばの場所に私を連れて戻りました。最初、彼は私に話しかけず、私が気持ちを落ち着けられるようにしました。私は講堂を見回すことができましたが、私の視線はバガヴァーンへ引かれました。彼は正面をまっすぐ見ながら、ブッダの姿勢で完全にまっすぐ座っていました。彼の眼は瞬きせず、また、いかようにも動きませんでした。その眼は光に満ち満ちているように思えたので、眼が灰色であるという印象を受けました。後に、眼は茶色であると知りましたが、彼の眼に関しては様々な意見があります。腰布を除き、彼の体は裸でした。それと杖がただただ彼の唯一の所有物であると、すぐ後で気づきました。彼の体は引き締まり、日に焼けているかのように見えましたが、彼が行う唯一の運動は、午後5時のいつもの20分間の山歩きであり、時々、彼はその足もとに平伏しに来たヨーギたちに挨拶しました。

 彼は厳格な菜食主義者でしたが、彼の前に置かれたものを食べるだけで、どのような類の食べ物を欲することも決してありませんでした。彼がそこに座っている時、彼は彫像のように見えましたが、それでいて、何か尋常ならざるものが彼から発されていました。何らかの目に見えないレベルで、彼から靈的衝撃を受け取っているという感覚を私は持ちましたが、彼の視線は私のほうへ向けられていませんでした。彼は何も見ていないようでしたが、それでも、彼が全世界を見ることができ、意識していると私は感じました。

 「バガヴァーンは、サマーディにいます」とガイ・ハーグは言いました。

 私は周りを見回しました。床にしゃがんで、ブッダの姿勢で座って、もしくは、顔を下にしてうつ伏せになって、多くのインド人が祈っていました-彼らのうちの幾人かは声に出してマントラを唱えていました。小猿たちが何匹か講堂に入り、バガヴァーンに近づきました。彼らは彼の寝椅子によじ登り、陽気にキャッキャと鳴き、静寂を破りました。彼は動物を愛し、アーシュラムでは、どんな種族でも彼によって尊重され、歓迎されました。彼らは人間と同等に扱われ、いつも名前で呼びかけられました。病気の動物はバガヴァーンのもとに連れてこられ、良くなるまで、彼は寝椅子の上か彼のそばの床の上で保護しました。多くの動物が彼の腕の中で亡くなりました。私がそこにいた時、彼には大変お気に入りの牝牛がいて、牝牛は講堂を出たり入ったりし、彼のそばで横になり、彼の手をなめました。彼は動物の善良さについて話しをすることを好みました。動物たちがだれも互いに戦わず、攻撃しないのは、驚くべきことでした。

 一種の内的世界に夢中になって、インド人たちのマントラとハエの絶え間ないブンブンいう音に耳を傾けながら、講堂で数時間座った後、ガイ・ハーグがマハルシのそばに行って座るよう私に勧めました。彼は言いました。「いつバガヴァーンがサマーディから出てくるのか決して分かりません。彼が出てくる時、きっと彼は喜んであなたを見るでしょう。その瞬間、彼のそばに座っているほうが、あなたのためになるでしょう。」

 私はバガヴァーンの近くへ進み、彼の足もとに座り、彼に顔を向けました。ガイの言うとおりでした。この後間もなく、バガヴァーンは眼を開きました。彼は頭を動かし、私を直接見下ろし、彼の眼は私の眼の中を覗きました。この瞬間を言い表すことは不可能でしょう。私はそれを試みようとはしません。私が言えることは、この瞬間、あたかも突如、私の意識状態が相当高い程度まで引き上げられたかのように、私の内的存在が新たなレベルに持ち上げられるのを感じたということだけです。おそらく、このほんの一瞬、私はもはや人間の自分ではなく、自らでした。その後、バガヴァーンは私に微笑みかけました。私が以前に微笑みとは何なのか知らなかったように私には思えました。私は、「あなたに会いにはるばるやってきました」と言いました。

 沈黙がありました。私が彼に尋ねたいと思った多くの質問を記した紙きれを愚かにも私は持ってきていました。私はポケットの中をごそごそ探しましたが、彼の面前にいるだけで質問はすでに答えられていました。質問も答えの必要もありませんでした。それでもなお、私の鈍い知性は質問を言い表しました。

 「教えてください。誰に従えばいいのでしょうか、何に従えばいいのでしょうか。宗教の中に、哲学の中に、教えの中に探すことによって、私はこれを見出そうと何年もの間試みています」。再び、沈黙がありました。数分後、私にとってそれは長い時間に思えましたが、彼は話しました。

 「あなたは本当のことを話してはいません。あなたはただ言葉を使っているだけ-ただ話しているだけです。あなたは誰に従うべきか申し分なく十分に知っています。どうしてそれを私に確かめてもらう必要がありますか。」

 「私が私の内なる自分に従うべきだということでしょうか」と私は尋ねました。

 「私はあなたの内なる自分について何も知りません。あなたは自らに従うべきです。従うべき他の何も、誰も存在しません。」

 再び、私は尋ねました。「宗教、教師、グルについてはどうでしょうか。」
 
 「それらが自らの探求に役立つならば。しかし、それらは役立ちますか。あなた自身の外側を見るように教え、あなたの外側の天国や報いを約束する宗教が、それがあなたを手助けできますか。靈的ハートの中へ深く潜ることによってのみ、自らを見出すことができます」。彼は右手を右胸に置き、続けました。「ここにハートがあります。活動的な、靈的ハートです。それはフリダヤと呼ばれ、胸の右側に位置し、靈的な道の熟達者の内なる目には、はっきりと見えます。瞑想を通じ、あなたはこのハートの洞窟の中の自らを見出せるようになります。」

 とても奇妙なことですが、私が幼いころに、イグナシオ・スロアガが私に、「偉大な人々はみんなハートで動くんだ」と言いました。彼は手を私の身体的なハート(心臓)の上に置き、続けました。「ほら、ここにハートがあるよ。いつも忘れずに、それで考え、それで感じ、そして何よりも、それで判断しなさい。」

 しかし、覚者はその助言をさらに高い水準に引き上げました。彼は、「真のハートの中の自らを見出しなさい」と言いました。

 両方ともが、私の人生のちょうどその瞬間に、私に道を示しました。人々はバガヴァーンに、「私は神を見つけたいのです」と言ったものでした。彼の答えは、「まずは自らを見つけなさい。そうすれば、あなたは神について心配する必要はなくなるでしょう」でした。そして、かつて、ある人が彼に、「私はカトリック教徒か仏教徒のどちらになるべきか分かりません」と言いました。

 バガヴァーンは、「今、あなたは何ですか」と彼に尋ねました。

 彼は、「カトリック教徒です」と答えました。

 その後、彼は、「家に帰り、良いカトリック教徒になりなさい。そうすれば、あなたが仏教徒になるべきかどうか分かるでしょう」と言いました。

 バガヴァーンは、真の自らは時間を超越していると私に指摘しました。「しかし、」と彼は言いました。「無知にも関わらず、人は誰も死の事実を真剣に受け取りません。彼は彼の周りに死を見るかもしれませんが、彼は依然と自分は死なないと信じています。彼は信じています、というより、何か奇妙な方法で死は自分にとって存在しないと感じています。体が脅かされた時にだけ、彼は死の恐怖の餌食に陥ります。全ての人は自分自身が永遠であると信じています。そして、これは実際、真実です。この真理は、体が自らであるという人の無知な信念にも関わらず、現れ出ます。」
 
 他の人々のためにどのように祈ればいいのか私は彼に尋ねました。彼は、「あなたが自らの内に留まっているなら、他の人々は存在しません。あなたと私は同じものです。私があなたのために祈る時、私は私自身のために祈り、私が私自身のために祈る時、私はあなたのために祈ります。真の祈りとは、自らの内に留まることです。これがタット・トヴァム・アシ、それが汝である、の真意です。自らの中に分離はあり得ません。自らの内に留まること以外のあなた自身や他の人のための祈りは必要はありません」と答えました。

 「バガヴァーン、あなたはアートマ・ヴィチャーラ、私自身に私は誰かという質問を尋ねることによって自らの探求に着手すべきであると言います。あなたは誰か尋ねてもよろしいでしょうか」と私は言いました。「あなたが自らを知るなら、『私』、『あなた』、『彼』、『彼女』は消え去ります。彼らは純粋な意識に一緒に溶け込みます」とバガヴァーンは答えました。

 ある時、寺院からやって来た、いかにも人相の悪いと私が思った僧侶たちに気づき、バガヴァーンに彼らについての意見を述べました。彼は、「悪いとはどういう意味ですか。私にはあなたが良いや悪いと呼ぶもの違いが分かりません。私にとっては、それらは共に同じもの-コインの表と裏です」と言いました。私はうかつでした。バガヴァーンは、もちろん、二元性を超えていました。彼は愛憎を超え、善悪を超え、一切の対になる両極を超えていました。

 バガヴァーンとのこの体験について記すことは、彼が言った全てのこと、もしくは、彼の沈黙が暗示する全てのことを再現し、記録することは、無限のものを卵立てに入れようと試みるようなものです。

 小さな一つの章では、彼を実物通りに表わすことも、彼の悟りの印象を伝えることもまるでできませんし、私が彼の最上の知を説明しようと試みるほど十分に靈的に進歩している-仮に進歩があるとすればですが-とは考えていません。彼は私に深い影響を与え、そして今も与えています。彼が私の人生を変えたと言うのは僭越なことだと私は感じます。私の人生は、おそらく、それほどに重要ではありませんでした。しかし、私が彼の面前に、ただ「在る」だけで生涯にわたる十分な靈的滋養となる面前にいた後、私は間違いなく人生を違った風に見ました。私がインドから戻った時、見分けのつかない人々は私の中にほとんど変化を認めなかったかもしれません。しかし、私の意識全体には、変化が、変容が存在しました。そうでないことがありえますか。私は無我の、世俗に無執着の、完全に純粋な存在の空気の中にいたのです。

 私は三日三晩バガヴァーンとともに講堂で座りました。時々、彼は私に話しかけました。他の時は彼は沈黙していて、私は彼の沈黙を邪魔しませんでした。しばしば、彼はサマーディにいました。私はそこに彼ととも居続けたいと思いましたが、最後に彼は私にアメリカに帰るべきだと言いました。彼は、「『戦争』と呼ばれることになるものが起こりますが、実のところ、それは世界の大改革になります。全ての国と全ての人がその影響を受けます。あなたはアメリカに戻らねばなりません。今のところ、あなたの運命はインドにありません」と言いました。アーシュラムを発つ前、バガヴァーンは彼がヨーガ・ヴァーシシュタから選んだ数詩節を私に授けました。それには清浄な生活の道のための精髄が含まれていると彼は言いました。

 「一切の欲望が放棄される時に輝く、完成の境地に堅固にあり、そして、命あるうちに解放の境地に安らぎ、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「内面的には一切の欲望を免れ、平静で、無執着であるが、外面的には四方八方に活動的で、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「自我性を免れ、眠りにいるように心を無執着に保ち、空ごとく純粋で、常にけがれなく、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「柔和に気高く身を処し、外面的には慣習に従い、しかし、内面的には一切を放棄し、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 「心の底では全く無執着であるが、いかにも愛着を持つかのごとく振る舞い、内面的は冷静で、外面的には熱意に満ちて、世界で陽気に振る舞え、おお、ラーガヴァ!」

 私はバガヴァーンに悲しげに別れを告げました。私が去ろうとする時、彼は「あなたはここに再び戻ってきます」と言いました。どうなのでしょうか。彼の身体的存在は去ってしまっているため、私は戻ることになるのでしょうか。それでも、あたかも私を引き戻すかのようなアルナーチャラの引力をしばしば私は感じます。彼がもはやその一部と化していた、彼の体が埋葬されている、あの聖なる山の引力を私は感じます。

 アーシュラムを去る前に、私自身で質問する機会がなかったいくつかの質問をガイ・ハーグがバガヴァーンに尋ねるために書き留めました。私は非常に多くの聖者や覚者が肉体的に病んでおり、苦しんでいたという事実に悩まされていました。私は、「彼らは完全な体を持つべきではないですか。どうして彼らは自分自身を治療しないのですか」と尋ねました。ヨーロッパで、私はガイから手紙を受け取り、彼は私の質問をバガヴァーンと議論したと記していました。彼は以下のように記していました。「靈的に完全は人は必ずしも完全な体を持つ必要がないとあなたに伝えるようにバガヴァーンは私に話しました。その理由は、彼がそれを説明するには、とても単純なものです。

 「自我と体と心は同じものです。バガヴァーンのように靈的に完全な人は、その三つのものを超えています。したがって、彼は癒すべき体を持たず、体を癒すための心や自我も持ちません。彼はその一切を超えています。なぜなら、それは幻だからです。彼は現実の中に生きています。クリスチャン・サイエンス教徒は心をつかみ、体を癒すことができます-というのも、それらは同じものだからです。アメリカインディアンもまた、この方法で癒します。それは信仰療法です。

 「しかし、靈的に完全な人の体が病気であるなら、それは体がそのカルマを使い果たしつつあるからです。バガヴァーンは実例を挙げてカルマを説明し、それは扇風機のようであり、自然の経過をたどらねばならず、電源が切られた後でさえゆっくりとしか止まらないと言いました。心が幻の中へ生まれ、それに見合った体と世界、つまり、それが(そのカルマによって)受けるに値する世界を築くと彼は言います。バガヴァーンは体と心が幻であると知っているため、どのような肉体的疾患や不快も経験するばずがありません。我々は彼に痛みや、体重の低下などを経験させます。それは我々の心の中にあり、彼の心の中にはありません。彼は実際は体を持ちません。あなたと私はこれを事実として実感できませんが。」

 別の手紙の中で、ガイは私の質問に答え、それは他の質問へとつながりました。私の質問とバガヴァーンの答えを彼は書き留めました。

質問:
  輪廻転生は事実ですか。
バガヴァーン:
 あなたは今、体を与えられているのではないですか。では、再びそうなります。しかし、体は幻であるがゆえに、その幻は繰り返し現れ、あなたが真の自らを見つけるまで、繰り返し現れ続けます。

質問:
 死とは何ですか、誕生とは何ですか。
バガヴァーン:
 体だけが死と誕生を持ちます。そして、それ(体)は幻です。現実の中には、誕生も死も存在しません。

質問:
 死と誕生の間には、どれほど時間の経過があるのでしょうか。
バガヴァーン:
 人は一年、もしくは三年、もしくは数千年後に生まれ変わるかもしれません。誰にも分かりません。ともあれ、時間とは何ですか。時間は存在しません。

質問:
 どうして私たちには過去生の記憶がないのですか。
バガヴァーン:
 記憶は心の一つの機能、幻の一部です。どうしてあなたは同じく幻である他の人生を思い出したいのですか。あなたが自らの内に留まるなら、過去も未来もなく、現在さえ存在しません。なぜなら、自らは時間-無時間の範囲外にあるからです。

質問:
 世界、心、自我、体は、全く同じものですか。
バガヴァーン:
 ええ。それらは全く同一のものです。心と自我は、一つのものですが、これを説明する言葉がありません。世界は心がなければ存在できず、心は我々が自我と呼ぶものがなければ存在できず、自我は体がなければ存在できません。

質問:
 では、私たちがこの体を去る時、つまり、自我が体を去る時、それ(自我)は他の体をすぐさまつかむのですか。
バガヴァーン:
 ええ、そうです。必ずつかみます。それは体がなければ存在できません。

質問:
 では、どんな種類の体をそれはつかむのですか。
バガヴァーン:
 物質的な体か、微細な心の体のどちらか。

質問:
 あなたは現在の物質的な体を粗大な体と呼びますか。
バガヴァーン:
 それを区別するためだけ、会話の中でそれを見分けるために。それは実際、微細な心の体でもあります。

質問:
 何が原因で我々は生まれ変わるのですか。
バガヴァーン:
 欲望。あなたの満たされていない欲望が、あなたを連れ戻します。そして、それぞれの場合、それぞれの体において、あなたの欲望が満たされる時、あなたは新しい体を作り出します。一者(一なるもの)に吸収され、そうして転生を終わらせるためには、あなたは欲望を克服しなければなりません。

質問:
 転生で性別が変わることはありますか。
バガヴァーン:
 ええ、もちろんです。私たちは何度もずっと両方の性別でいました。

質問:
 罪を犯すことは可能ですか。
バガヴァーン:
 幻を作り出す体を持つことが、唯一の罪です。体が私たちの唯一の地獄です。しかし、私たちが道徳律を守ることは正しいのです。罪についての議論は、あまりに難しいので、数行では言い表せません。

質問:
 自らを実現した人は、「私」の感覚を失うのですか。
バガヴァーン:
 もちろんです。

質問:
 では、あなたにとって、あなた自身と私自身の間に区別はありませんか。あそこにいるあの人、私の召使いなどはすべて同じものですか。
バガヴァーン:
 全ては同じものです。その猿たちも含めて。

質問:
 しかし、猿は人間ではありません。猿は違うのではありませんか。
バガヴァーン:
 猿は人間と全く同じものです。一なる意識の中で、全ての生物は同じものです。

質問:
 私たちが自らに溶け込む時、私たちは個人性を失うのでしょうか。
バガヴァーン:
 自らの中に個人性は存在しません。自らは、一なる至高のものです。

質問:
 では、個人性と自己同一性は失われるのですか。
バガヴァーン:
 深い眠りの中で、あなたはそれらを保持できないのではありませんか。

 質問:
 しかし、私たちはそれらをある誕生から別の誕生へと保持するのではありませんか。
バガヴァーン:
 ええ、そうです。「私」という思い(自我)は繰り返し再び生じ、ただそれぞれの時に、あなたは異なる体と体の周りの異なる環境をそれと同一視します。古い体を支配していたのとまさしく同様に、過去の行為(カルマ)が新たな体を支配します。あなたにその特定の体を与え、それを特定の家族、人種、性別、環境などの中に置いたのは、カルマです。

 バガヴァーンは言い足しました。「これらの質問は良いのですが、デ・アコスタ(彼はいつも私をデ・アコスタと呼んでいました)にこれらのことにあまりに頭を使いすぎてはいけないと伝えなさい。靈的ハートの洞窟の中の自らに心を静かに安らわせましょう。じきに、それは自然となり、質問の必要はなくなります。それが不活発であるということだと想像してはいけません。沈黙とは、唯一、真の活動なのです」。その後、ガイは、「バガヴァーンは、彼があなたに祝福を送ったとあなたに伝えるように言いました」と言い足しました。

 この伝言は大いに私を慰めました。

 ヨーロッパへの帰り道の途中、私の船はポートサイドに停泊しました。私はそこで下船し、砂漠を横切り、カイロへ車で移動し、そこで三日間滞在し、その後、船がアレキサンドリアで埠頭につけられていた時、再び乗り込みました。

 カイロで、私は古く有名なシェパード・ホテルに滞在しました。私はツタンカーメンの収蔵品を見ながら博物館の中で一日を過ごし、2日目はラクダにまたがり、スフィンクスと大ピラミッドを見に行きました。私がピラミッドに到着した時、ほとんど日は沈んでいました。私のガイドと膝をついたラクダに寄りかかって寝ている一人、二人のアラブ人をのぞいて、周りには誰もいませんでした。私はピラミッドの頂上に登ろうと決めました。それは空に向かってだんだんと細くなりながら、私の上にそびえ立ち、恐ろしく高く見えていましたが、登り始めるまで、それがどれほど高いのか分かっていませんでした。私は元気よく出発しましたが、ある程度距離を行くと疲れてきて、私のペースは落ちました。ピラミッドの踏み段は幅が狭く、浸食されていましたが、私は頂上にたどり着くことを決意していました。疲労困憊していましたが、私はついにやりました。太陽はすでに沈んでいました。私は振り返り、ピラミッドの険しく、畏怖の念を起させる斜面を見下ろしました。突如、私は非常に恐ろしいめまいに圧倒されました。頭がクラクラし、死へと陥りつつあると感じました。私は狭い踏み段にしゃがみ込み、ピラミッドの頂上にとても強くしがみついたので、私の爪は石にあたって割れ、指から出血しました。とても再び下を見る気にはなれませんでした。苦痛をもたらす恐怖が私を捕えました。私は冷たい汗が顔と首と背中一面に吹き出しているのを感じました。私はヒステリックになりました。どうすることもできませんでした。私は手を放せば落ちるだろうことを知っていましたが、長くはつかまっていられないことも知っていました。私は目をつむりました。私はマハルシが言ったこと-聖なるハートへ深く沈み込むことをを思い出しました。私の内のあらゆる能力、全ての力を奮い起こし、私はハートに集中しました。心の眼に、強い光のごとく、突然、私はそれを見ました。中心に、私に微笑みかけるマハルシの顔を見ました。即座に、私は落ち着きました。私は振り向き、下を見下ろしました。はるか下に、人が私に向かって手を振っているのを見ました。私は片手をゆるめ、頭上に掲げ、手を振り返しました。その人は誰か他の人を呼び始めました。別の人が彼に駆け寄ってきました。迅速に、彼らは登り始めました。彼らは巧みに、素早く登りましたが、私にとっては何時間にも思えました。おそらく、彼らが私にたどり着くまで35分ほどかかったでしょう。一人は縄を持っていました。彼はそれを私の腰回りに結び、やさしく私の顔を撫でました。彼は私には分からない言葉を何かつぶやきましたが、それが私を励ます親切な言葉であることは分かっていました。彼らに挟まれ、あたかも山を登っているかのように各人が縄を握りながら、私たちは降りはじめました。ついに、私たちは安全に下にたどり着きました。このしばらく後、ある覚者から、大ピラミッドを登ることは古代エジプトでは、偉大な宗教上の秘法の手ほどきを受けるために生徒が通らねばならない「恐怖の試練」の一つとみなされていると聞かされました。大志を抱く者は、ピラミッドのまさにその頂上に登ることを求められ、その頂上にたどり着くと、彼らは恐怖を克服することができ、この特別の試練に勝利しました。

 バガヴァーン・ラマナ・マハルシは、1950年4月14日に亡くなりました。彼は、「私は去って行くのでしょうか。一体、どこに私が行けますか。私はここにいます」と言いました。「ここ」という言葉によって、彼はどのような制限も暗示していません。むしろ彼が意図したことは、自らは「在る」ということです。不変かつ普遍的であるそれの中には、行くことも、来ることも、変化することも存在しません。私が彼の死を精神的打撃と思ったのはうかつなことでした。一体、どうして私が彼を失うことができますか。どうして人が誰かを失えますか。どうして人が永遠であるものを失えますか。最初のショックの中だけで、死という幻の中に捕えられて、人は身体的存在の死を嘆き悲しみます。それでも、インドで数百万の人々がマハルシの死を悼みました。ニューヨークタイムズの中の彼の死についての長い記事は、「ここインドでは、何千ものいわゆる聖者が無限者(神)との親密な関係を主張するが、シュリー・ラマナ・マハルシについて最も驚嘆すべきことは、彼が驚嘆すべきことを何も自分のものだと決して主張しなかったにも関わらず、みなの中で最も愛され、尊敬される者になったことであると言われている」と締めくくられています。

メルセデス・デ・アコスタを思い出して



 メルセデスの遺産(動画8:11から)
 メルセデスを研究した後、彼女について書かれた多くのものが、彼女と彼女の一生の仕事を公平に評価していないことが、全く明らかになりました。
 彼女が交際した女性たちは、メルセデスよりも、自分たちの名声をより気にかけたため、彼女の側の言い分が聞き入れられることはめったにありませんでした。
 メルセデスは聡明な芸術家であり、彼女がお金持ちの家の出であるために、彼女のたいへんな努力はしばしば見過ごされました。
 メルセデスは同時代の勇敢なレズビアンであり、新たな考え、芸術、創造性の促進を終始手助けしようと試みました。
 私たちの世代および未来の世代にとって、メルセデス・デ・アコスタを思い起こすことは、重要なことです。なぜなら、他者の承認を得るために自分自身を変えないことの重要性を彼女がまさに体現したからです。
 真実を話し、自分のセクシュアリティを隠さないことで、メルセデスは友人や恋人を失ったかもしれません。しかし、彼女は自らの人生を正直に生き、自分の夢を追い求めました。アコスタの人生の物語は、興味深いと同時に、洞察に満ち、歴史にその名が刻まれる権利を得ました。
「私が全く征服されてしまうことも 私の本当の秘密が理解されることも決してないでしょう。 情熱的に乱暴に、私の体は抱かれるかもしれません。けれども、私の霊は常に処女であり、抱かれることなく永遠にさすらい続けるでしょう!」

2015年8月13日木曜日

24年にわたる信奉者、M.G.シャンムカム の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、2010年10月 p31~35、FROM THE ARCHIVES

いかにしてシュリー・バガヴァーンはその聖なる御前に私を引き寄せたのか

M.G.シャンムカム
以下の文章は、記録保管所で発見されました。何かの不可解な理由から、それはこの雑誌に一度も掲載されていませんでした。
  彼のマハー・ニルヴァーナの日まで、1926年から24年間にわたり、シュリー・バガヴァーンと交際するという幸運に恵まれていたのにも関わらず、以前にこの文章を記さなかったことを、私は「The Mountain Path」の読者にお詫び申し上げねばなりません。その理由とは、誰にも知られることなくアートマ・ヴィチャーラを修練することが常により望ましいとかつてシュリー・バガヴァーンが私に語ったからです。

 故シュリー・デーヴァラージャ・ムダリアールとシュリー・T・P・ラーマチャンドラ・アイヤルとシュリー・バガヴァーンの他の信奉者たちは、後世の人々がそれを失うといけないからと、シュリー・バガヴァーンとの私の思い出と体験を記すように私に求めました。この頃、シュリー・バガヴァーンご自身が私の夢に現れ、この文章を書くように、また、タミル語の本、「Sri Bhagavan’s Life and His Sayings」を改訂するように私に命じました。その本は、彼の限りない恩寵を通じて私によって記され、早くも1930年に出版されました。さらにまた、その本が手に入れやすくなければならないと彼は私に言いました。

  いかにしてシュリー・バガヴァーンがその聖なる御前に私を引き寄せたのかを示すためには、私の初期の人生の手短な描写が必要です。

 私はマヤバラムに生まれ、14の歳から宗教的な気質を持っていました。当時、私はプージャーを行い、マントラを復唱し、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターはもちろん、アドヴァイタに関するほとんど全ての宗教書を読んでいました。幼少期からの私の熱烈な願いとは、アドヴァイティンになることであり、今世でジーヴァンムクタのダルシャンを得るほと十分に恵まれているようにと心から願い、私は涙を流しながらスワーミ・ヴィヴェーカーナンダの写真の前で座ったものでした。

 私の最初のグルは、ティルチェンゴードゥのムルガッパ・デーシカルという名の人で、1922年に私は眉間の瞑想の手ほどきを受けました。いつものプージャーに加え、私はそれを日に三度、それぞれ一時間修練しました。これをいくらか修練した後、一種の脳の疲労と心に不快な状態が現れました。この時、ヒマラヤで12年間苦行を行ったスワヤムプラカーシャ・ヨーギニ・アンマルという名の人が父の招待で家にやってきました。私の父、故K.ゴーパラ・ピッライは、警部補であり、非常に敬虔でした。父とヨーギニは宗教的な議論をいくらか行い、それに私は加わりたいと思いましたが、父は私が若すぎるという理由で参加することを許しませんでした。私は苛立ち、大変に気落ちしました。ヨーギニが一人でいる時、私は彼女に私の精神生活と体験を語り、彼女の導きを懇願しました。彼女は大いに私を気に入り、眉間の瞑想は狂気(精神異常)に至ることもあるかもしれない。瞑想はハートで修練されねばならないと言いました。彼女は私にシュリー・ヴェンカタチャラパティのルーパ・ディヤーナの修練を手ほどきして下さいました。さらにまた、彼女は親切にも私の精神的探求のすべてにおいて父が私を手助けするように頼んで下さいました。

 三人目のグルは、マハーンミヤマチ・スワーミアールという名の人であり、ティルチェンゴードゥの山の斜面の洞窟の一つに住んでいました。私は彼からシュリー・バガヴァーンについて知りました。父と私は週に一度、スワーミアールを訪れたものでした。ある日、私が彼のアーシュラムへ行った時、あいにく3週間、彼が不在であると分かりました。彼が戻った後、このところずっと彼がどこに行っていたのか尋ねました。彼はティルヴァンナーマライに行き、シュリー・ラマナ・マハルシという名の偉大なジーヴァンムクタのダルシャンを得るという大変な幸運に恵まれ、(マハルシが)2、3語彼に話しかけたと言いました。そのような偉大な人物のダルシャンは、これ以後、生を受けない資格を人に与える、と。私は驚愕しました。その時以来、ティルヴァンナーマライへ行きたいという望みは頭から離れなくなりました。当時、私はセーラムの市立大学で財政法の授業を学んでいました。4か月が過ぎ去りました。大変驚いたことに、1926年に父が警部補としてティルチェンゴードゥからティルヴァンナーマライに転勤になりました。どうしていいか分からずに、私は困惑していました。ティルヴァンナーマライへ行きたいという私の望みは大変に強かったため、父のそばに行き、私が数学が苦手であるという口実で、勉強を中断して、シュリー・バガヴァーンのダルシャンを得るために彼とともにティルヴァンナーマライへ行くことを許してくれるように頼み、来年、チダンバラムのシュリー・ミーナークシ大学に入り、歴史を選択科目にとると話しました。私は拒絶を予期していました。なぜなら、どんな父親も息子が一年間勉強を無駄にすることを許さないでしょうから。しかし、信じられないことに、シュリー・バガヴァーンの恩寵がそこにはありました。父は快く私の願いをかなえ、ティルヴァンナーマライへ彼に同行することを許しました。

 父と家族の他のメンバーとともに、私はティルチェンゴードゥを離れ、ティルヴァンナーマライへ向いました。カートパーディで、我々は広軌からメーターゲージへ乗り換えなければなりませんでした。列車に乗ってすぐ後、私は半ば眠り、半ば目覚めているように感じました。その状態で、私は次のようなヴィジョンを得ました。「私はティルヴァンナーマライへ旅をし、道を尋ね、小屋がある場所にやってきた。小屋の内部で、私は背の高い男性が長椅子に横たわっているのを目にした。彼の前にはクムムディ(水差し)があった。私が小屋に入るとすぐに、クムムディの中に燃え立つようなジョーティ(光)があった」。私は目覚めました。

 ティルヴァンナーマライに到着してすぐ後、誰にも、愛する父にさえ告げずに、私はラマナーシュラマムへの道を尋ね、多少苦労してそこに到着しました。アーシュラムに入った時、驚愕したことに、私は同じ小屋、同じ背の高い男性を目にしました-彼が長椅子に座っていたことを除いてですが。そして、ヴィジョンの中で私が目にしたように彼の前にはクムムディがありました。

 私は彼の前で平伏し、彼は即座に私に尋ねました-「いつ来ましたか」、そして、「右手はどんな具合ですか」と。信じられない!シュリー・バガヴァーンが私の折れた右手について知る機会は全くありませんでした。さらにまた、シュリー・バガヴァーンによって私になされた最初の質問自体が、彼が私がやってくるのを知っていたことを示しています。彼はうなずき、身ぶりで私に座るように求めました。彼との私の最初の交際は、彼の聖なる御前における一時間の滞在の間に起こり、それは私に完全な平安、心の安らぎ、神経の落ち着きを与え、体は一本の藁のように軽く感じました。
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 その日以来、1926年から1950年まで私と彼との交際は途切れることなく、彼は私の精神的進歩に大いに良い結果をもたらし、私のこの世界の見かたを完全に変え、私は純粋なアドヴァイティンになりました。彼の恩寵によって、私はアートマ・ヴィチャーラという彼の方法を修練することができました。彼の深遠な沈黙によって、様々な聖典からの引用によって、その場ですぐに彼は私の疑問をすべて晴らしました。

 私の家族全員は、シュリー・バガヴァーンを信奉していました。彼は外見上は全く普通の人のように我々の中で行動しましたが、我々は多くの体験と奇跡を経験しました。シュリー・バガヴァーンの偉大さと全能性と彼の最上の純粋な意識(サハジャ・サマーディの境地)を示すためには、2つの例だけ挙げれば十分です。それはおよそ1935年か1936年であったと思います。早朝、私はシュリー・バガヴァーンに質問しました。「ニルヴィカルパ・サマーディの本質と境地とは何ですか」。彼は黙っていました。なぜ私がこの質問をしたのか、私は不思議に思いました。夕方、私は自らの探求という彼の方法を彼の目の前で非常に集中して修練しました。「私は誰か」という絶え間ない探求によって、私の心にはゆっくりと思いがなくなり、ゆっくりと心は「私」という思いのみに自覚的に瞑想し始めました。没入が始まり、心は内観的になり、「私」という思いに瞑想しながら、さらに深くに進みました。ハートは穏やかな振動によって感じられ、呼吸はとても浅くなりました。心は私を外側に連れ出そうと試みましたが、その瞬間、突然、何らかの力が私を完全に内側に引っ張り、その結果、自我は崩れ落ちました。その瞬間、体と世界の意識は完全に消え去り、それらに代わり、言葉で表現しえない形容しがたい至福と結びついた、深い「私」「私」という意識を伴う広大なものが存在しました。シュリー・バガヴァーンの咳の音によって、私はその最上の体験から目覚めました。膝をマッサージしているシュリー・バガヴァーンを除いて、講堂には誰もいませんでした。バガヴァーンは、「さあ、食事にしましょう」と言いました。私は最上の心の安らぎを感じました。食後、我々は講堂に戻り、バガヴァーンは、「あなたの体験はどうですか」と尋ねました。私は私の体験のすべてを物語りました。それから、シュリー・バガヴァーンは、それはアートマ・ヴィチャーラの絶え間ない修練によって得られる境地であり、それがサハジャになるまで継続的に修練し続けねばならないと言いました。彼はこの最上の境地について様々な聖典から引用しました。

 別の例は、脳充血のために弱り、ゆっくりと死へ向かっていた私の妹の例でした。彼女は今や意識がなくなりました。医者たちは最善を尽くしましたが、回復の見込みはないと明言し、親族全員に知らせるように父に頼みました。シュリー・バガヴァーンを非常に信奉していた母は、泣きながら叫びました。「おお、バガヴァーン。私たちはあなたの聖なる御前を離れたばかりです。なんという災いでしょうか!娘をお救いください!」 即座に、シュリー・バガヴァーンがカマンダラム(水差し)を携え、妹のそばを通り過ぎるのを母は目にしました。すぐに、妹は眠りからのように目覚め、水を求めました。

 少しの聖典の知識も持たず、彼に手ほどきをするグルを持ちませんでしたが、シュリー・バガヴァーンは16歳の時に死の恐怖を体験することによって自らの実現を得ました。彼は天性のジニャーニであり、アティアーシュラミとして知られる最高の部類のジニャーニに属していました。そのようなジニャーニは、何らかの忘れられた真理を説くために世界にまれに現れます。シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナという伝統的な方法に反し、バガヴァーンはアートマ・ヴィチャーラという直接的な方法を開示しました。それは何らの制約も要求せず、カーストや信条に関わらず、皆が修練できます。

 シュリー・バガヴァーンは具現化した魂(人)であるにもかかわらず、54年間、純粋な意識として我々とともに行動しました。そして、彼はいまだ我々の間で生きていて、彼の存在は真摯なすべての信奉者に強く感じられます。これは実際の体験です。ティルムーラルが、ジニャーニの影響は彼のサマーディで千年間継続すると言うように、彼は遍在し、全知ですが、現ラマナーシュラマムはシュリー・バガヴァーンの真の住まいであり、そこで彼はいつも純粋な絶対的意識としていつも力強く存在し、恩寵を全ての信奉者と訪問者に注いでいます。

 信奉者と訪問者は、バガヴァーンの住まい、ティルヴァンナーマライの現シュリー・ラマナーシュラマムを訪れることによって、この絶好の機会をどうぞ役立て、彼の豊かな恩寵を受け取って下さい。一たび訪れるならば、必ずや誰もが確信するでしょう。