46年3月22日 午後
昨夜、ボーズ氏、彼の母親のC.V.ラーマン女史、ラーマクリシュナ・ミッションのスワーミー・サンブッダーナンダがここに到着しました。スワーミーは、千人に一人がタットヴァ、もしくは、実体を確かに知るのに成功すると述べている『バガヴァット・ギーター』からの1詩節を引用しました。しばらくの間、バガヴァーンは黙っていました。スワーミーが答えを求めた時、我々の中の何人かは、「あなたの質問は何ですか。どんな答えを期待しているのですか」と言わざるを得ませんでした。マサラワーラー博士は、はっきりと、「あなたのその質問の背後にある動機は何ですか」と尋ねさえしました。そこですぐに、スワーミーは、「私は我々のバガヴァーンが自らの実現を得たと思います。そのような人は歩くウパニシャッドです。それで、私は彼自身の口から、自らの実現の体験を聞きたいのです。あなた方みなはどうして口をはさみ、私の質問の要点と目的から我々の気をそらすのですか」と言いました。
この後で、バガヴァーンは、「私が自らの実現を得たと思うとあなたは言います。あなたが自らの実現ということによって意味するものを私は知っているはずです。あなたはそれについてどのような考えを心に思っているのですか」と言いました。スワーミーはこの質問返しを快く思いませんでしたが、少し後で、「アートマンがパラマートマンに溶け込むことです」と言い足しました。
(以下では、読みやすくするために「~はこのように言った」などを省略し、対話形式で翻訳しています。)
バガヴァーン:
我々はパラマートマンや普遍的な魂などについて知りません。我々は、我々が存在することを知っています。人は神の存在を疑うかもしれませんが、誰も自分が存在することを疑いません。ですから、人が自分自身の真理、もしくは、源を見つけ出すなら、それが必要とされる全てです。
スワーミー:
それゆえに、バガヴァーンは「汝自身を知れ」と言います。
バガヴァーン:
それさえも正確ではありません。というのも、我々が自らを知ることについて話すならば、二人の自らがいるはずです。一方は、知る自らで、他方は知られる自ら、そして知る過程です。我々が実現(悟り)と呼ぶ境地は、ただ自分自身であることであり、何かを知ることや、何かになることではありません。人が悟るなら、彼は在るそれのみであり、いつも存在しているそれのみです。彼はその境地を言い表せません。ただそれで在ることができるだけです。もちろん、適切な用語の不足のため、我々は大雑把に自らの実現(Self-realization)について話します。ただ現実であるだけのものを、どのように「現実化(real-ise)」、もしくは、現実にする(make real)のですか。我々みながしていることは、非現実であるものを「現実化」する、もしくは、現実とみなすことです。我々のこの癖が放棄されなければなりません。全ての思想体系の下の全てのサーダナは、この目的のためにのみあります。我々が非現実のものを現実とみなすことをやめる時、現実のみが残り、我々はそれであります。
スワーミー:
その解説は、アドヴァイタに関しては結構なことです。しかし、トリプティス(知識の三つの要因)の消失を自らの実現のための条件として主張しない他の学派もあります。二つの実体や、三つの実体さえ信じている学派があります。たとえば、バクタがいます。バクティ(献身)を行うために神が存在しなければなりません。
バガヴァーン:
人がそのような分離した神を必要とする限り、崇拝する神を持つことにいったい誰が反対するのですか。 バクティ(献身)を通じて彼は自分自身を高め、神のみが存在し、バクタである彼は重要でないと感じるようになります。彼は「私でなく、あなたです」、「私の意思でなく、あなたの意思です」と言う段階にやって来ます。バクティ・マールガで完全な委ねと呼ばれる、その段階に達する時、人は自我の消失が自らの達成であると気づきます。
我々は二つの実体があるのか、それ以上あるのか、ただ一つだけなのか言い争う必要はありません。ドゥヴァイティス(*1)によってさえも、バクティ・マールガによっても、完全な委ねが定められています。それを最初に行い、ただ一つの自らのみが存在するのか、二つかそれ以上の実体があるのか、あなた自身で確かめなさい。
様々な人の様々な能力に合わせて何が言われていようとも、実際は、自らの実現という境地はトリプティスを超えているに違いありません。自らは、ジニャーナやアジニャーナと断言できるものではありません。それは、アジニャーナとジニャーナを超えています。自らは、自らです。それについて言えることは、それが全てです。
それから、スワーミーはジニャーニが自らの実現を達成した後、体と共に留まれるのか尋ねました。
スワーミー:
自らの実現はとても力強いので、弱い身体は最長でも21日以上は耐えられないと言われています。
バガヴァーン:
ジニャーニについてのあなたの考えは何ですか。彼は体ですか、それとも、他の何かですか。彼が体から離れている何かであるなら、どのように体によって影響を受けうるのですか。書籍は、(体を持たない)ヴィデーハ・ムクティや、(体を持つ)ジーヴァン・ムクティという様々な種類のムクティについて語ります。サーダナには様々な段階が存在するかもしれません。しかし、実現(悟り)において段階は存在しません。
スワーミー:
自らの実現のための最良の手段は何ですか。
バガヴァーン:
「私は存在する」は、全ての人が持つ唯一の永続的で、自明な経験です。他の何も「私は在る」より自明(プラトヤクシャ)ではありません。人々が「自明」と呼ぶもの、すなわち、感覚を通じて得る経験は、自明とはほど遠いのです。自らのみがそれです。プラトヤクシャは、自らの別名です。そのため、自らの検討を行い、「私は在る」であることが、唯一のなすべきことです。「私は在る」が現実です。私はこれやそれであるは非現実です。「私は在る」が真理であり、自らの別名です。「私は神である」は真実でありません。
スワーミー:
ウパニシャッドそのものに「私はブラフマンである」と記されています。
バガヴァーン:
その聖句はそのように理解されるべきではありません。それは単に、「ブラフマンは『私』として存在する」を意味し、「私はブラフマンである」を意味していません。人が「私はブラフマンである」、「私はブラフマンである」と思いふけるように助言されていると思われるべきではありません。人が「私は人間である」、「私は人間である」と考え続けますか。彼はそれであり、彼が動物であるのか、木であるのかと疑問が生じたとき以外、「私は人間である」と断言する必要はありません。同じように、自らは自らであり、全ての物と全生命の中に、ブラフマンは「私は在る」として存在します。
スワーミー:
バクタは彼がバクティ(献身)を行える神を必要とします。彼に唯一の自らのみがいて、崇拝する者と崇拝されるものはいないと教えるべきでしょうか。
バガヴァーン:
もちろん、神はサーダナのために必要です。しかし、サーダナの目的は、バクティ・マールガにおいてさえ、完全な委ねの後にのみ得られます。自我の消滅がいつものようにある自らに帰着すること以外に、それは何を意味しますか。人がどのような道を選択しようとも、「私」は避けられません。それはニシュカーマ・カルマ(*2)をなす「私」であり、それが分離したと感じる神との合一に思い焦がれる「私」であり、それ自身の本質から滑り落ちたと感じる「私」などです。この「私」の源が探し出されなければなりません。その時、一切の疑問は解消されます。『バガヴァット・ギーター』の中では全ての道が是認されていますが、そこにはジニャーニが最良のカルマ・ヨーギ、最良の信奉者(バクタ)、最高のヨーギなどであると記されています。
スワーミー:
自らの検討がなすべき最良のことであると言うのは結構なことです。しかし、実際には、大部分の人にとって神が必要であると我々は気づきます。
バガヴァーン:
もちろん、神は大部分の人にとって必要です。彼らと神が異なっていないと見出すまで、彼らは神と共に進むことができます。
スワーミー:
実際の修練において、真摯なサーダカでさえ、ときどき落胆し、神への信仰を失います。どのようにして彼らの信仰を取り戻すべきしょうか。彼らのために私たちは何をすべきでしょうか。
バガヴァーン:
人が神を信じられないなら、それは構いません。彼は彼自身、彼自身の存在を信じていると思います。彼がやって来た、その源を彼に見出させましょう。
スワーミー:
そのような人は、「私がやって来たその源は、私の両親です」と言うだけです。
バガヴァーン:
すでにあなたが「彼はサーダカである」と言ってこの(話の)流れを始めたので、彼はそのような無知な者ではあるはずがありません。
(*1)ドゥヴァイティス・・・マドヴァチャーリヤにより説かれた神と個々人が分離した実体であるとするヴェーダーンタの学派のドゥヴァイタ(二元論)を信仰する人々。
(*2)ニシュカーマ・カルマ・・・「無欲の行い」