2017年8月30日水曜日

第四の状態、トゥリーヤ - 心の消滅後に現れる最終的かつ自然な境地

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年10月、p272~273

トゥリーヤ-自然な境地

N.N.ラジャン

   純粋な意識絶対的」境地は、ヴェーダーンタの用語でトゥリーヤと呼ばれています。それは目覚め・夢・眠り-三つの状態全てに行き渡っているため、通例、第四の状態と呼ばれています。

 バガヴァーン・シュリー・ラマナによれば、それは第四の状態と呼べません。それは自然な境地です。それは常に存在し、存在そのものと同じです。それは新たに得られません。それは無知のために実現されていません。目覚め・夢・深い眠り-三つの状態に言及するとき、分析のためだけに、それは第四の状態と名づけられています。文字通りそのように受け取られるべきでなく、厳密にはそれとして呼ぶことはできません。

 この関与しない意識は、常に存在する目撃者であり、目覚め・夢・深い眠りという変化する状態と対比して、決して変化を経ません。それは三つの状態の下の礎(いしずえ)です。トゥリーヤは、自らの別名です。一人の自ら-実現した賢者は常にトゥリーヤの境地に打ち立てられています。三つの状態は変化し続け、束の間のショーのように見え、最終的にトゥリーヤにのみ溶け込みます。

 心は思いの束でしかありません。トゥリーヤに、心はありません。深い眠りの中にも、心はありませんが、無知のために、我々はトゥリーヤにいるような至福を実現しません。トゥリーヤでは、三つの状態は拭い去られ、誕生と死を引き起こす種は残っていません。

 月はその光を太陽から得ています。同じように、心はその光を自らから得ています。太陽が輝き始めるとき、青白い月の円盤だけが目に見え、太陽の光の中で不要になります。そのようにまた、自らが実現されるとき、心の必要はなく、無用となります。

 全創造物の共通の殻の内に、超越的な礎(いしずえ)、純粋な意識が存在します。眠りの中、我々は理解することなく広大無辺の至福を享受します。それが意識的に体験されるなら、それはトゥリーヤ、自然な境地です。

 反射した意識の光のために、ジーヴァは目覚め・夢・深い眠りの状態を経験しますが、自らは唯一の実体として不変不動のままであり、沈黙の目撃者として留まり、終始一貫して存続します。

 体、心、知性の自覚は、深い眠りの中で消え失せますが、それでも、ジーヴァは存在し、至福ははそこに、認識されずにですが、あります。

 心を失った場合の体験について恐れていた質問者に対して、バガヴァーンは返答しました-「毎日、あなたは眠りに入り、その中であなたは心を失ってますが、それを恐れていません。逆に、あなたは眠りを求め、その後、『気持ちよく眠った』と言います。ヴィチャーラ(探求)によって、心は水晶のように純粋になり、その進んだ状態で、自らに溶け込みます。心の消滅後、明確に現れる至高の意識は、普通の人間の理解を超えています。個人性は、心と関係のない継続的な過程である自らによって支えられています。心の消滅後、『私は体である』という思いを失った意識の、よりいっそう現実的で自然な境地(トゥリーヤ)が現れます。心は自らの反射した光によってそれ自体を投影します。元になるもの、自らそのものが実現されるとき、どうして非現実の影のことを気にしますか。行為と言葉のための指示は、何の媒介もなく独り輝く自ら(スプラナム)から直接、閃光のように湧き出ます。さらに、心のいたずらによってたいてい引き起こされる作りごと、混乱、歪曲はありません。自らのみ留まり、これが最終的かつ自然な境地です」。

 どうして心を信じられますか。対応する外的対象物なく、心が夢の中で考えを抱き、物事を想像し、投影できるなら、どうして目覚めの状態の間にも非現実である対象物を創造できませんか。目覚めの経験もまた、夢の経験ほどに現実的であるということになります。

 真理実現の結果として、一切の二元性は消え去るでしょう。その後、心はそれ自体を自らの中に失い、自らのみ輝きます。

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