2017年8月30日水曜日

第四の状態、トゥリーヤ - 心の消滅後に現れる最終的かつ自然な境地

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年10月、p272~273

トゥリーヤ-自然な境地

N.N.ラジャン

   純粋な意識絶対的」境地は、ヴェーダーンタの用語でトゥリーヤと呼ばれています。それは目覚め・夢・眠り-三つの状態全てに行き渡っているため、通例、第四の状態と呼ばれています。

 バガヴァーン・シュリー・ラマナによれば、それは第四の状態と呼べません。それは自然な境地です。それは常に存在し、存在そのものと同じです。それは新たに得られません。それは無知のために実現されていません。目覚め・夢・深い眠り-三つの状態に言及するとき、分析のためだけに、それは第四の状態と名づけられています。文字通りそのように受け取られるべきでなく、厳密にはそれとして呼ぶことはできません。

 この関与しない意識は、常に存在する目撃者であり、目覚め・夢・深い眠りという変化する状態と対比して、決して変化を経ません。それは三つの状態の下の礎(いしずえ)です。トゥリーヤは、自らの別名です。一人の自ら-実現した賢者は常にトゥリーヤの境地に打ち立てられています。三つの状態は変化し続け、束の間のショーのように見え、最終的にトゥリーヤにのみ溶け込みます。

 心は思いの束でしかありません。トゥリーヤに、心はありません。深い眠りの中にも、心はありませんが、無知のために、我々はトゥリーヤにいるような至福を実現しません。トゥリーヤでは、三つの状態は拭い去られ、誕生と死を引き起こす種は残っていません。

 月はその光を太陽から得ています。同じように、心はその光を自らから得ています。太陽が輝き始めるとき、青白い月の円盤だけが目に見え、太陽の光の中で不要になります。そのようにまた、自らが実現されるとき、心の必要はなく、無用となります。

 全創造物の共通の殻の内に、超越的な礎(いしずえ)、純粋な意識が存在します。眠りの中、我々は理解することなく広大無辺の至福を享受します。それが意識的に体験されるなら、それはトゥリーヤ、自然な境地です。

 反射した意識の光のために、ジーヴァは目覚め・夢・深い眠りの状態を経験しますが、自らは唯一の実体として不変不動のままであり、沈黙の目撃者として留まり、終始一貫して存続します。

 体、心、知性の自覚は、深い眠りの中で消え失せますが、それでも、ジーヴァは存在し、至福ははそこに、認識されずにですが、あります。

 心を失った場合の体験について恐れていた質問者に対して、バガヴァーンは返答しました-「毎日、あなたは眠りに入り、その中であなたは心を失ってますが、それを恐れていません。逆に、あなたは眠りを求め、その後、『気持ちよく眠った』と言います。ヴィチャーラ(探求)によって、心は水晶のように純粋になり、その進んだ状態で、自らに溶け込みます。心の消滅後、明確に現れる至高の意識は、普通の人間の理解を超えています。個人性は、心と関係のない継続的な過程である自らによって支えられています。心の消滅後、『私は体である』という思いを失った意識の、よりいっそう現実的で自然な境地(トゥリーヤ)が現れます。心は自らの反射した光によってそれ自体を投影します。元になるもの、自らそのものが実現されるとき、どうして非現実の影のことを気にしますか。行為と言葉のための指示は、何の媒介もなく独り輝く自ら(スプラナム)から直接、閃光のように湧き出ます。さらに、心のいたずらによってたいてい引き起こされる作りごと、混乱、歪曲はありません。自らのみ留まり、これが最終的かつ自然な境地です」。

 どうして心を信じられますか。対応する外的対象物なく、心が夢の中で考えを抱き、物事を想像し、投影できるなら、どうして目覚めの状態の間にも非現実である対象物を創造できませんか。目覚めの経験もまた、夢の経験ほどに現実的であるということになります。

 真理実現の結果として、一切の二元性は消え去るでしょう。その後、心はそれ自体を自らの中に失い、自らのみ輝きます。

2017年8月24日木曜日

ヴィータハヴヤの物語 - 一切を放棄し、トゥリーヤに自らを打ち立てた賢者

◇「山の道(Mountain Path)」、1976年4月、p116~118

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅷ


ヴィータハヴヤの物語

M.C.スブラマニアンによるサンスクリット語からの翻訳

ヴァーシシュタ曰く:
 おお、ラーマ!人に至高の境地を得させうる別の道、賢者ヴィータハヴヤが着実にたどった道があります。ヴィンディヤ山脈の洞窟に住む、この賢者は、ヴェーダの最初の部分に定められた宗教儀式の遂行をたいそう愛好していました。しかし、長い時間が過ぎ、これらの儀式が恐ろしいサンサーラにかかわる錯覚とぞっとするような身体的および精神的苦しみを作り出しただけであることに気づきました。彼は悲しくなりました。それで、彼は完全に行為を放棄し、ニルヴィカルパ・サマーディを修練するためにバナナの葉でできた小屋に通いました。彼は鹿皮を清潔な場所に広げ、その上に、上向きの足(裏)に(手の)指を乗せて、蓮華座で座りました。彼は徐々に外的および内的対象物から五感を引き戻し、心が様々な方向に出て行くのを止めました。彼は心の安定を保つ様々な方法について考えました。彼は心の中で考えました:

 「なんと奇妙なことか。全てのものから心を引き戻したときでさえ、波にとらわれた木の葉のように、心は何度も何度も不安定になる。それはその壺からその布へ、その布からその荷車へと行く。そのように、木々の間の猿のように、心は一つのものから別のものへと飛び移る。目や他の器官は、心のための五つの通路である。地下世界が地上世界と何の関わりも持たないのとまさしく同様に、それらは自らと異なり、それと何の関わりも持たない」。

 心に呼びかけ、彼は言いました:
 「おお、心なる、さ迷うチャールヴァーカよ!おお、どこにでも物乞いに行く、あなたよ!いたずらに嘆きながら、世界をさ迷うことなかれ。『私には意識がある』というあなたの確信は、誤りである。おお、愚か者よ!純粋な意識と心は同一ではない。それらは全く似通っていない。『私は自らである』というあなたの自己中心的でうぬぼれた概念は、まったく間違っている。自我意識の結果である、この錯覚を捨て去れ。探求しないかぎりにのみ、あなたは存在する。探求するとき、光の前の暗闇のように、あなたは存在しなくなる。あなたは過去に決して存在せず、現在も存在せず、未来も存在しない。私はあなたに別れを告げた。私は今や冷静で、穏やかである。私は幸運にも私の熱病から回復している。私は今や私の自らに、トゥリーヤの境地に住まう。生まれることなく、純粋な意識であるは、目撃者のごとくある。

 五感に向かって、彼は言いました:
 「おお、五感の集団よ!ああ!どうして無意味に自分自身を悩ませるのか。蛇を恐れる旅人のように、プッカサ(とても低いカーストの人々)を恐れるバラモンのように、純粋な意識は五感から距離を置いている。純粋な意識を忘れ、気まぐれな思いに向かうことが、悲しみを作り出すものである。自らが意識のない心の一切の概念を免れていて、体の自覚がないとき、それは純粋な意識として知られている」。

 これらの結論に達した後、ヴィータハヴヤは心を力づくで制御し、絶対的に無欲で、五感の動揺を免れたままありました。燃料を燃やし尽くした燃え盛る火のように、彼の生命力は徐々に彼の内に退きました。蓮華のつぼみが半ば開いたかのような彼のわずかに開いた目は、鼻に向けられました。彼は頭、首、胴体を真っすぐ一直線に保ちました。彼は石から切り出された彫像、絵画の中の人物像のように見えました。彼はこの状態で300年留まりましたが、この年月は半時間(ムフールタ)のように過ぎ去りました。そのうちに、彼の体は雨季の洪水によってもたらされた泥で覆われました。彼はさらに300年後に目覚めましたが、四方八方が泥にすっぽり覆われていたため、体を動かせませんでした。彼は体に気づいていましたが、全ての通路がふさがれていたため、その中には生命力の動きがありませんでした。この状況で、彼は様々な創造物を強く想像し始め、(彼の想像力の力によって)彼は実際にそれを体験しました。彼は、カイラーサ山の森の中のカダンバの木の下で賢者として100年(彼の想像の中で)生きました。彼は次に、ヴィディヤーダラとしてもう100年生き、5ユガの間、インドラとして神々に敬われて生きました。その後、彼は、1カルパ(4ユガ)の間、三日月を頭にかぶる神(つまり、シヴァ)の従者でした。彼はこの全ての人生を想像の中で体験しました。

 ヴィータハヴヤはまた、彼の全ての過去を見たいという望みを抱いていました。即座に、彼は彼の全ての以前の体を、いまだ存在していたヴィータハヴヤとして知られる体さえも見ました。彼はそれを適切に見るためにそれを立ち上がらせたいと望みました。彼は思いました。「この体は泥にすっぽり覆われている。それゆえ、私は太陽神に入り、それを立ち上がらせよう。彼の従者、ピンガラが私のためにそれを立ち上がらせるだろう」。それで、空気が取っ手が2個付いたふいごに入るように、彼は微細な体の形で太陽に入りました。全知のラヴィ(太陽神)が賢者が彼の中に入るのを見たとき、彼は従者ピンガラに適切な指示を出しました。その後、ヴィータハヴヤはピンガラの体に入り、ピンガラはヴィンディヤ山脈の洞窟に向かって進みました。彼はすぐに見事な雨雲が漂う美しいあずまやと洞窟を含む森に到着しました。彼はヴィータハヴヤの体を含む洞窟に入り、彼の爪で掘り、それをすっぽり包んだ泥を取り除き、湖から蓮華の根を引っ張り上げるのとまさしく同様に、それを引っ張り上げました。(ピンガラの内部にあった)ヴィータハヴヤの微細な体は今や彼自身の肉体に入り、ピンガラは彼の天空の住まいに戻りました。

 その後まもなく、ヴィータハヴヤは近くにある蓮華で覆われた澄んだ水の湖に進み、そこで沐浴した後、太陽神を崇拝しました。その後、彼は愛着なく以前のように生活し始めました。彼は友情、平静、知恵、満足、慈悲で満ちていました。

 彼は最上の世界を見ていましたが、もう一度、心を制御したいと望みました。彼は心の中で言いました。「五感は以前、私によってよく制御されていた。今や私が思いから得るものはこれ以上何もない。もろいつる草を引きちぎるのとまさしく同様に、私は存在および非存在についての一切の思いを絶とう。そして、後に残るものに没頭し、山の頂上のように、変わらぬままでいよう。私が目覚めているとき、私は眠っているようであり、私が眠っているとき、私は目覚めているようである。私は不変の自覚であり、善悪に無関心である。私は絶対的に純粋である。私自身をトゥリーヤの境地に確立し、今や私は心を完全に制御して留まってる」。彼は次に、6日間サマーディに入りました。彼が目覚めたとき、一瞬間、眠りに落ちていた旅人のように感じました。

 その後、かのシッダであり優れた禁欲行の人、バガヴァーン・ヴィータハヴヤは、ジーヴァンムクティの境地に長い間そこで住まいました。受容と拒絶についての全ての考えを取り除き、彼の心は欲望と無欲を超越しました。サンサーラの一切の痕跡なく、人生の終わりにヴィデーハムクティの境地を得るであろうことを彼は知っていました。かつて、蓮華座で洞窟の中で座りながら、彼は心の中で考えました:

 「おお、愛着よ!離欲せよ。おお、憎しみよ!憎しみであることをやめよ。私はあなたと長年にわたり戯れてきた。おお、世俗の楽しみよ!あなたに敬礼する!両親が子供にするように、私は何十万もの人生の間、あなたに愛撫されてきた。至高の至福なる、この聖なる境地さえ私に忘れさせた喜びに敬礼する!おお、苦しみ(ドッゥカ)よ、あなたに敬礼する!あなたによる刺し傷と促しのために、私は正しい道を探した。おお、好ましい(つまり、良い)行いよ!あなたは長年の間、私の親族であった。私の中に自らの知を作り出した後、あなたは自分自身を滅ぼした。おお、母なる欲望よ、あなたに敬礼する!あなたは独りぼっちになり、やせ、動かなくなった。私のために悲しまないように。主カーマ(愛の神)よ!あなたに対して私が犯した過ちを許したまえ。私は今や独居での静穏を楽しんでいる。私を祝福せよ。おお、善行の神よ、あなたに敬礼する!あなたは以前、私を地獄(ナラカ)から立ち上がらせ、天国(スヴァルガ)を得させた。おお、生命力よ!あなたが祝福されますように!あなたは私の生まれながらの古き友だった。しかし、私はあなたの元を離れ、去って行く」。

 このように、(あらゆるものを放棄しようと)心を決め、彼は完全に思いと欲望がなくなりました。ゆっくりとプラナヴァ(神聖な音、オーム)を発し、彼はヨーガの境地を得ました。彼は、単に想像されただけであった三世界の一切の対象物-内外の、微細な、粗大な-を拒絶しました。長々と続くオームの語末の音節の音が聞こえなくなったとき、彼は五感の一切の対象物を拒絶しました。その後、彼は上りつつある意識を妨害していた暗闇(無知)に打ち勝ちました。彼は一瞬間、突如出現した光輝を観想し、その後、それもまた拒絶し、その結果、暗闇も光もありませんでした。彼は一瞬間、彼の境地にも観想し、その後、それもまた拒絶しました。彼は次に、一瞬にして、傾向性なく出現した生得的な意識を拒絶しました。彼はパシャンティ(文字通りは、見ること)として知られる境地に達し、しばらくの間、純粋な存在として留まった後、深い眠り(スシュプティ)に似た境地へと移り、その中にしっかりと留まりました。自らを堅固にスシュプティに打ち立てた後、彼はトゥリーヤの境地へと移り、その中で至福-それを作り出す対象はありませんでしたが-を経験しました。彼は今や、存在し、かつ、存在していないかのように感じました。この境地で、彼は言葉で表現できないもの-空(くう)を信じる者たち(シューニャヴァーディン)にとっての空、ブラフマンを信じる者たちにとってのブラフマン、意識のみを信じる者たち(ヴィジニャーナヴァーディン)にとっての純粋な意識、サンキーヤ学派にとってのプルシャ、ヨーガ思想学派にとってのイーシュヴァラ、聖典シヴァ派にとってのシヴァ、時(カーラ)のみを信じる者たちにとっての時、アートマンを信じる者たちにとってのアートマン、自らを信じない者たちにとっての自らならざるもの、マーディヤミカ思想学派にとってのマーディヤマ(中)、あらゆるものを等しく扱う者たちにとっての全て、全ての聖典の結論、全ての核心(ハート)に存在し、万物であり、全てに行き渡り、万物の本質であるもの-になりました。彼は、絶対的に変化なきもの、実体験によってのみ理解されうる光輝の中の光輝になりました。彼は多でも一でもあるもの、不浄でも清浄でもあるもの、不完全でも完全でもあるものになりました。彼は誕生と死を超え、始まりも終わりもない、部分を持ちながらも部分を持たない、かの純粋な境地に打ち立てられました。彼は空(そら)よりも純粋なイーシュヴァラになりました。三万二千年間、望むままに生きた後、彼は分離した個人として存在するのを完全にやめたため、彼は再誕の可能性を失いました。

2017年8月12日土曜日

ジョン・A・チャンプニーズ (体に不自由のあるイギリス人)の思い出

◇「山の道(Mountain Path)」、1986年7月、p175~181

 どのように私はバガヴァーンのもとに来たのか

 ジョン・A・チャンプニーズ

 私はかなり変わった子供であったに違いありません。中等学校の時、私のおもちゃの一つが、水に浸かっているとき鮮やかな緑の染料を出していることに気づき、これはまさしく火星の精霊を呼び起こすためのものだと私は決めました。ある日、洗面所で、私はこの緑色の化合物を壁に塗り始め、私の信心の助けとなるように、紙をびりびり破いて火をつけました。黒煙の雲が学校の実験室から出ているのが目撃されると、消防隊が呼ばれました。異教の儀式に歓喜し、うっかり放火をはたらいている、この若い車いすに縛られた変人を目にすることは、校長にとって全く喜ばしいことではなかったはずです。

 10代後半の朝食後のある朝、母が健康雑誌を拾い読みしていたのを私は覚えています。ヨーガの長所を褒めたたえるディスプレー広告が私の注意を引きました。母にその言葉の意味をたずねると、それは体の姿勢の体系-実際、インドの体操の一種-であり、肉体的健康と長寿に資することになっていると彼女は答えました。引き続き彼女は、私の深刻な身体的障害のため、そのテーマへの私の興味は全く不適当であると言い足しました。彼女は正しく、確かにその広告は身体的幸福(健康)を大いに強調していました。

 しかしながら、私が感じていたものは「興味」とは言い難いものでした。なぜなら、何らかの理由から、ヨーガというまさにその言葉は私の胸の中に火を燃え上がらせたからです。食事を済ませることもなく、松葉づえを身に着け、よたよた歩いて外に出て、特別に改造した車まで行き、すぐに地元の貸し出し図書館まで-私自身や他の誰の好みにとってもあまりに速い速度で-運転し、ヨーガに関する本を5冊取り寄せました。

 翌週かそこらの間、私は食卓の前に座り、手を組んで親指をくるくる回しながら、本が到着するのを待っていました。この落ち着かない様子は母をいらだたせ、その訓練はボール一杯分のすりおろしたニンジンをむしゃむしゃ食べる間に逆立ちするような奇異な癖-ウサギによってはるかに効率よく行われうると彼女が正しくも主張した習慣-を身につける結果になるだけだという旨の証拠を(彼女は)提供し続けました。それよりも重要なものがヨーガにはあるはずだという立場を私は熱情的に継続し、私の身体的障害に起因する痛みや不快から解放する神秘的な螺旋や液状の恍惚状態を夢見ていました。

 ある晩、口論を終わらせんとして、父は卓越した良識でもって、その言葉が実際に何を意味しているか知るために辞書を持ち出してはどうかと提案しました。私は乗り気でこの助言に素早く従い、見出し語を見つけました : "yog'a, n. 信奉者の魂と遍在する靈との再結合をもたらすことを目的としたヒンドゥー教の哲学的瞑想および禁欲主義の体系。"

 私が得ていたかもしれない個人的勝利の利己的な感覚は、それが私に人生には確かに目的があるということを証明したという事実によって素早く縮こまりました。本が届いたとき、私は即座にむさぼり読みましたが、定義に関して「正しい」ことによる私の勝利はピュロス王のそれ(割に合わない勝利)
でした。なぜなら、それら(の本)は全てヨーガの目的がサマーディの至福であることに合意していましたが、その目的がニンジンをムシャムシャ食べることや体をもつれ合わせようとすること-重度の身体障害を持つ誰かさんには不可能なこと-なしには得られないということを規定する点においても同意見だったからです。

 絶望の時期に、私のヨーガへの情熱が身体的健康の強調によってどのように挫(くじ)かれつつあるのか図書館長に話し、精神的および靈的な道のりの輪郭を示す何か読むべきもの-端的に言えば、ハンディキャップのある人を分け隔てすることのない実現の方法-を私のために探してもらえるか彼女に尋ねました。彼女は自分が調べられるものは調べましょうと約束し、驚くほど短期間の内に、私への本が到着したという伝言が私の家に伝えられました。

 私はオースチン・ミニに乗って図書館へと馳せ参じ、図書館員は私にアーサー・オズボーンによるRamana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを差し出しました。習慣どおり、私は素早く遊び紙を探し、読みました-「知恵と理解のヨーガ(の修練)は・・・・煩雑な運動や無理して体をもつれさせる必要は・・・・ありません』。それはあたかも私の内部に閉じ込められた蝶が今まさに解き放たれたかのようでした!

 私は本を読みながら、私の魂の前庭で気分を浮き立たせる恋愛関係が展開されつつあるような感覚を覚えました。私の注意はアルナーチャラに釘づけにされ、奇妙にも本のページ自体がティルヴァンナーマライの香り、色、雰囲気を放っていました。別世界の使命に乗り出すためにティルチュリという村を離れた若者について読みました。私をまっすぐに見通し、私をのぞき込み、私をからかい、私と戯れる、この非常に美しい少年の写真を見つめながら、私の心臓が鋭い音をたてるように感じました。そして、私が年を取った年配の男性としてのマハルシの写真を熟視したとき、彼の慈悲が私の悪癖と弱点を理解し、一瞥でそれらを覆い隠したことを私は知りました。その後、その顔は私の全存在に浸透し、バガヴァーンは私の心を溶かしました。

 「マハーサマーディ」の章を読むや否や、両親が気付くといけないから、私は涙が顔から流れ落ちないようにしなければいけませんでしたが、両目をうるませないようにすることはできず、その抑圧の試みのせいでまぶたの背後がチクチク痛むのは、無数の針や星で刺されるようでした。

 その本の総合的な影響は、呆然とした方向感覚の喪失のそれでした。なぜなら、私の家庭生活なる小さな宇宙は、今やあまり重要でないように思えたからです-事実、それはほとんど重要でないように思えました。肝心であったのは、この信頼できる(credible)人-ラマナ・マハルシ-が、ニルヴァーナ、すなわち、自らの実現という信じがたい(incredible)境地を達成したこと、ごく最近まで我々の間で生活していたことでした。

 その頃、私は鮮明な夢を見ました。夢の中、砂砂漠で、私はバガヴァーンを前にして足を組んで座っていました。その後、私の自我が身体的に完全な体を帯びたことに気づきましたが、ほとんど全ての夢で私のスクシューマ・シャーリアは目覚めている時の体と同様にハンディキャップがあるように見えました。いつものように、バガヴァーンは沈黙していましたが、あまりにも輝きを放っていたために空気そのものが黄金のオーラをまとっていました。3人目の男が私の右に足を組んで座っており、しばらく後、彼は口を開き、バガヴァーンに質問しましたが、バガヴァーンは返答を差し控えました。数分経過後、その男は再び質問し、今回はその声に切迫した様子がありました。そのうちにバガヴァーンの唇から返答が発されましたが、彼はとても静かに話したので、彼が言っていたことを私は聞き取れませんでした。その男は文句を言い始め、まもなく彼の話し方は口汚くなりました。次の瞬間、彼はバガヴァーンから顔をそむけ、あまりに不機嫌に立ち去ったために彼の足は土煙と砂ぼこりを蹴り上げました。土の一部が私にかかりましたが、その大部分はバガヴァーンにかかり、彼は顔を私の方向に向け、静かではあるがとても強調して言いました。「あなたの怒りよりも、むしろ、あなたの愛をもらいたいですね」。

 私の即座の反応は驚愕のそれでした。「私はあなたに対して怒ったことは決してありません。あなたを罵ったのは別の人です-私でありません!」と言おうと試みましたが、その言葉は喉から出てこようとせず、この息の詰まる感覚は夢が消えつつ、終わりつつあることを意味するのを私は知っていました。私はまた知っていました-虚構の存在なる、この(夢の)世界の崩壊が、私の無言の訴えへの答えは私自身で解かなければならないであろう何かであることを意味することを。

 この夢は私にティルヴァンナーマライのラマナーシュラマムに手紙を書かせました。自由にコミュニティーに滞在してよいということを手紙でガネーサンから聞いたとき、私の熱意は高まり、インドに行こうとする私の決意は増しました。しかしながら、私はアーシュラムに私の身体的障害を知らせることを怠っており、私の家族は、公正を期してそれについて絶対伝えるべきだと指摘しました。それで私は再びガネーシュに手紙を書き、彼に完全に状況を説明しました。しかし、私の心が私が得るかもしれない返答への悪い予感で一杯であったことを認めざるをえません。しばらくして、手紙がインドから舞い戻ってきました。それは私が恐れていた答えを含んでいました。それは極めて思いやり深い手紙でしたが、私が意図した旅行を思いとどまらせようとしていました。シュリー・バガヴァーンの恩寵は時間と空間を超越すること、彼の愛には際限がないこと、そして、彼のサニッディ、彼の存在の直接的な体験を得るためには、ただ彼について瞑想し、考しなければならないだけであるとそれは指摘していました。もちろん、アーシュラム当局は全くもって正しかったのです。シュリー・バガヴァーンは、ティルヴァンナーマライにその身で旅することができない人々にとって恵み深さそのものです。実際、時折、彼はそこに行くことができない人々によりいっそう恵み深くさえあると大胆にも付け加えさせていただきたいと思います。しかし、遠い昔である1970年に、二十(はたち)の未熟な若者として、私はそのように見ることはできませんでした。なぜなら、夢にバガヴァーンが現れたことは、まい進し、付き添いなしで旅をする力を私に与えたからです。しかし、これは行うには非常に愚かなことであったかもしれないことを今や私は分かっています。

 私は何が起ころうとも到着する予定であることをアーシュラムに知らせ、ルシア・オズボーン夫人がアーシュラム近くの彼女の家で私の世話をすることを親切にも了承しました。それは、(夫の)アーサー(・オズボーン)が亡くなったばかりであることを考慮すれば、彼女の側の極めて思いやりのある行為でした。

 ティルヴァンナーマライへの旅は行われ、それはとても美しく、興味深いものでしたが、私は根本的な間違いをしていました。若いヴェンカタラーマンが、一気に自らの実現を得た後、16の年でアルナーチャラヘ赴いたために、同じことが私にも起こるだろうと私は自然に思い込んでいました。私はアーサーの本に深く心動かされていて、バガヴァーンは夢の中で私のもとに現れました。今やただ一つのことだけが残っていました-私はティルヴァンナーマライに行き、私と車いすが旧講堂に入る手助けを誰かがしてくれます。次に、私は瞑想し、ラマナの顔つきを見るとすぐに彼はしかるべく私を手ほどきし、その後、私に完全な自らの実現が与えられ、ニルヴァーナの至福に浸ります。おしまい、おしまい。

 しかしながら、私は確かにアルナーチャラに行き、彼らは確かに旧講堂に(そこのかなりやっかいな踏み段にもかかわらず)私を入れてくれましたが、バガヴァーンは私に手ほどきせず、やすやすと実現を私に手渡しもしませんでした。私は希少疾患に苦しんでいるときに、専門家に会うために地球を半周旅する患者のように感じました-あいにく彼がついに待合室に入ると、医者はほんの少しもその症例に関心をがないようなのです。

 私はティルヴァンナーマライを愛していましたが、バガヴァーンからサークシャートカーラムを得なかったために、憂鬱の波が私を圧倒したものでした。実際、最も優れた靈的体験は、イングランドの頃にあったのです。

 後に私が発見したのは、実のところ、バガヴァーンはその専門の医者であり、悪い時は彼がその気遣いを引っ込めたことを意味しないということです。患者が治療のために医者に行くとき、彼はその患者に多大な痛み苦しみを引き起こす養生法を課すかもしれません。しかし、彼がその苦しみ、苦悩を負わせるとき、彼は患者自身のためにそれを行っています。なぜなら、長い目で見れば、それが最良の治療形態であり、最後にはそれが患者を元気にするであろうことを彼は知っているからです。

 私が1970年にインドを離れたとき、私は「正しく理解していなかったのだ」と感じていました。そして、自らの実現は最もシンプルなものではあるが、達成するのは最も難しいものであることも私はもう分かっていました。私は大学での生活を始めました。そして、バガヴァーンの教えは自我を小さくすることを目指していますが、大学の授業がそれを大きくすることを直接的に推奨していることに気づき、幾分ぞっとしました。他の自我とのあまり穏やかでない口論と論争の技術のために、それは手入れされ、水を与えられ、耕され、愛情深く整えられました。バガヴァーンの恵み深い写真は私の部屋に留まっていました。学生たちの意見は時に思いやりのあるものでしたが、残念ながら大抵、彼らは私の深く根付いた信念をからかい、それを原始的と呼びました。挙句の果てに、母が病気になり始めました。

 卒業すると、ぱちんこで放たれた石のように私は家から放り出されました。私は仕事と生活する場所を見つけなければなりませんでした。運命がこのように重度障害のある人を扱うとき、人生はとても、とても厳しいものですが、最も辛く、最も悲しいことは、私がバガヴァーンを手放したことでした。

 三年の「独立した生活」の後、一本の濡れたひものように私はかみ砕かれ、吐き出されているように感じていました。76年の秋、母が自殺し、私は自動車事故で足を骨折しました。全ては三日の間の内でした。それから回復した後、私はケンブリッジ大学出版局で専門の校正係として働きました。しかしながら、障害に加えての2年間のこの常勤の仕事と一人での生活は、私の健康を損ない始めました。私はきちんと食事をとれず、骸骨のように見え始めました。

 1979年のある日、私はある男に会い、彼は私が一人で悪戦苦闘しているのを見たくないと言い、私の面倒を見ることができないか私に尋ねました。彼が私と同居するようになり、私の物理的な負担を手助けしてくれた、その日から、私の健康は改善し始めました。

 そのデイビッドは強硬な無神論者であり、辛辣な反キリスト主義者であり、そのため控えめに言って我々はいつも見解が一致するわけではなかったと言わなければなりません。しかし、あなた自身の家をはじめに整頓せよ、というバガヴァーンの言明に私が従っていたなら、物事は我々両者にとってずっと良いものになっていたでしょう。

 1984年2月の終わりごろのある日、私は落胆の真っただ中に陥って、デイヴィッドが食料雑貨類をもって帰ってくるのを待ちながら、ケンブリッジのミル・ロードで車の中に座っていました。私は彼が入った店を見上げると、ARJUNA WHOLEFOODSという言葉を読みました。そして、霧に包まれた歳月と絶望の瘴気を通じて、私は次の言葉を聞きました。「ヨーガの目的、クリシュナがいる時はいつでも、弓に熟達するアルジュナがいる時はいつでも、美が、勝利が、喜びが、全ての正義がある」(第18章78節)。そして、私は主クリシュナが私に命綱を投げているのを感じました。我々が家に帰ると、飢えた犬が食べ物に覆いかぶさるように、私はギーターに覆いかぶさりました。そして、(全)18章が終ったとき、私は声をあげて泣きました。私はバガヴァーンについて改めて読みたいと思いましたが、アーシュラムの本を開くことさえできませんでした。なぜなら、私はバガヴァーンを手放していて、彼が私に対して怒り、非難していると思っていたからです。もちろん、当時、私はバガヴァーンとクリシュナの間に本質的な違いがないことを理解していませんでした。

 ついに、私は勇気を奮い起こし、Ramana Maharshi and the Path of Self-Knowledgeを開き、それを再度読むにつれ、同じ喜びと涙が私の存在に押し寄せ、同じ切望が、過ぎ去りし日々に私の魂を包んでいた、かのまったく同じ熱情が私を圧倒しました。私は全てのアーシュラムの本を読み、それらを徹底的に吟味し、守銭奴がその金銭を守るようにそれらを守りました。

 私のサーダナの最初、バガヴァーンがなかなか私に体験を与えなかったとすれば、彼は今その埋め合わせをしていました。たびたび、私は彼の美しい存在と一つでいたいと切望しました。しかし、私のサーダナは方向性を欠き、全く率直に言って、瞑想は相変わらず困難でした。

 1984年6月12日の夕方、強情で手に負えない心と一日中戦い、疲れ切って、ベッドに横たわっていました。その後、一瞬、焼けつくような不協和音が私の頭の中を荒れ狂っていましたが、次の瞬間には、全てのものが完璧に穏やかに落ち着きました。

 この静寂の深みから、私は歌を聞きました。とても美しい歌であり、それは私の心を鷲掴みにし、私に泣きたいと、それと同時に、笑いたいと思わせました。私は音量を上げるためにラジオのほうを見ましたが、ラジオはスイッチが切れていました。しかし今や、音量を上げる必要はありませんでした。なぜなら、壁自体が歌い始めたからです。私は開いているフランス窓に視線を向け、あたかも夜気が、星々が呼んだかように、耳を傾けました。

オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ ア-ウ-ム
オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム・シヴァ オーム

 私にとって、この恍惚の踊りに加わらないことは、火に燃えないように頼むようなものだったでしょう。そして、ナタラージャとしてバガヴァーンが長年待ち焦がれていた手ほどきを私に与えたとき、喜びと驚嘆と共に、私は魂を歌に合わせ、その存在にうち震えました。私は歌を歌って私自身を寝かしつけ、翌朝、バガヴァーンの前で十字を切り、心の中で彼にそのマントラを伝えました。私は真夜中の恋人を得たばかりの恥ずかしがりやの少女のように感じました。この気恥ずかしさの感情は本当に馬鹿げたものでした。なぜなら、これはシュリー・バガヴァーンが私に授けたギートーパデーシャ、教えの歌だったからです。私はとても値しないと感じ、感謝の念から、私のサーダナの助けになるようにノート、the Diary of a Devoteeをつけ始めました。

 私はシュリー・バガヴァーンが人々を確かに助けることを示したいと思いましたが、私とは違い、彼はとても辛抱強く、その人が必要とし、それを受け取る用意があるときにのみ助けます。そしてまた、バガヴァーンからの手ほどきや直接的な手助けは、人生の全ての問題が終わりを迎えることを意味しないということを私は理解しました。事実、サーダカの人生は、しばしば、困難で汚されています。かつて、ある人が冗談交じりに、「SRI RAMANA MAHARSHI」は「I AM A HARSH MAN, SIRRA!(君よ、私は厳しい人である!)」のアナグラムであると私に指摘し、冗談の中に多くの真実があると私は答えました。実に、シュリー・バガヴァーンがその子供たちを真っすぐな狭い道へと導き、彼らに良いことだけでなく悪いことも受け入れるように教えるとき、彼はとても厳しくなりえます。けれども、仮に我々が時に人生について不平を言わないならば、我々は人間ではないでしょう。それゆえ、間違いなくサーダカではないでしょう。

 1985年の秋、私の世話をする私の忠実な付添人であり仲間のデイヴィッドを連れて、ティルヴァンナーマライに再び旅しました。彼はアーシュラムでの生活をこれっぽっちも楽しみにしていませんでした。私は彼の見解を理解し、彼が私の身体的要求を手助けするために、そして、それが世界で何よりも私がしてほしいことであると彼が知っているために私に付き添っていることをよく分かっていました。

 滞在二日目の夜、数分間の黙とうのために、彼は私を新講堂に押し上げました。私がじっと見ていたとき、彼がバガヴァーンの肖像画を見上げているのを目にしました。その時、驚いたことに、彼の目から涙が流れ出ていることに私は気づきました。そして、その後、驚きは驚嘆へと変わりました。デイヴィッドが、無神論者で反キリスト主義のデイヴィッドが、無意識的な服従の行為として前のめりに倒れたのです!人々の心を盗み、搾り上げる方を見て、私もまた泣いていることに気づきました。

 ガネーシュが北インドの旅から戻った時、15年の長い別離の後、我々は両手を広げて相会い、大いに心喜ばせて思い出を語り、いつものように師について話しました。

 デイヴィッドと私はアーシュラム向かいの訪問客用の立派な住居に宿泊し、食堂で食事をとることは我々にとって大きな喜びでした。我々の胃は体質的にやや弱く、我々に面倒をかけていましたが、ティルヴァンナーマライにいて、バガヴァーンのプラサードであるアーシュラムの食べ物をとっている間、我々が病気に苦しまなかったのは奇妙なことです。アーシュラムのスタッフは親切そのものであり、我々が欲しいものがあれば何でも、ただ頼みさえすればよく、我々の頼みは聞き入れられました。

 私が経験したThe Mountain Pathの編集長、シュリー・V・ガネーサンとの愛の絆は、親愛の情の響きを私の存在の核心の内にとても深く触れさせたため、折に触れ、私である(I AM)万物のまさにその本質が、一言も話さずに踊るアルナーチャラの喜びに打ち震え、共鳴しました。どうして彼がそんなにも私に親切だったのか私は理解できませんでしたし、依然、私はそれを理解できていません。そんな具合に、バガヴァーンへの私の愛は毎分ごとに増していますが、依然、私が彼を理解していないことを私はまた分かっています。どうして私に(理解)できるでしょうか。なぜなら、理解することは、対象化すること、測ること、制限することであるからです。ティーカップの中にある水が大海の広大さを測ることを一体どうして望めるでしょうか。

 私が知る全ては、私の中には邪悪なものがいまだ多くあり、私は悪いこと行いますが、何かの理由でバガヴァーンは今や私を愛したいと決意したということです。このサーダナのようなものによって、彼は私の人生を裏返し、上下逆さまにし、前後逆にしました。彼は私の心を拾い上げ、あたかも濡れたスポンジのように、それから涙を絞り出しました。しかし、涙と信愛を通じて、全世界の物質的盛衰を超越し、包摂する、全く異なった完全に澄み切った現実を私は垣間見ました。人生が進むにつれ、私は目を瞑(つむ)り、決定をますますバガヴァーンに任せています。なぜなら、彼は私のグルであり、私が称賛する方、私が非難する方、私の苦しみであり喜び、私のプルショーッタマ、私を助けるのに最もふさわしい人であるからです。