崇高なるラマナ
V.ガネーサン
我々の師にまつわる逸話をもう一回分書き留めることができ、うれしく思います
十代のころ、大学で学んでいたとき、私はしょっちゅうマドゥライに行かなければなりませんでした。私はN.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授の家に滞在したものでした。常に活発に大学の仕事をしていましたが、彼が完全にシュリー・バガヴァーンへの思いに夢中であることに私は気づきました。事実、バガヴァーンの級友であった彼の父、N.S.ランガナータ・アイヤルが存命時、父も息子も夜更けまでバガヴァーンとその栄光について大声で話していたものでした!
今や、シュリー・N.R.クリシュナムルティ・アイヤルは老境に入り、公認会計士であり、シュリー・バガヴァーンの忠実な信奉者である次男のシュリー・K.V.ラマナンと共に、ティルヴァンナーマライ自体に滞在しています。彼が奥さんと共にアーシュラムのゲストハウスにひと月過ごしに来たことで、我々みなは大いに喜びました。彼の滞在中、私は彼とより親密な交際をする機会を得ました。彼の本、Essence of Ribhu Gitaはバガヴァーンの命日、4月17日に発売されました。
彼とのそのような喜ばしい会合の一つの間に、私は彼に特別な質問をしました。「バガヴァーンはあなたに何を教えましたか」。N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授は記します:
「私はシュリー・バガヴァーンの個人的な習慣を観察し、彼の例に倣おうと試みました。バガヴァーンの日常生活の中で気づかされることは、
①身ぎれいさ、衣服が整っていること、額にヴィブーティとクムクムを習慣的につけること
②周りの人々と全ての楽しみを分かち合うこと
③タイム・スケジュールの厳格な遵守
④それがどれほど『低く』ても、役立つ仕事を行うこと
⑤いったん手に取った仕事を決してやり残したままにしないこと
⑥あらゆる行為に完璧を追求すること
⑦時間・モノ・お金の厳しい節約
⑧寝ている間やひとしきりの重労働の後の休息を除いた絶え間ない活動
⑨自分自身を他者より優れていると決してみなさないこと
⑩常に真実を話すこと、もしくは
真実を表すことが他者の評判を傷つけたり、下げたりするなら、固く沈黙を守ること
⑪完全な自助、自分自身でできる仕事を別の人にするよう決して頼まないこと
⑫もし(責任が)あれば、他者に責任転嫁せず、失敗の全責任を負うこと
⑬成功と失敗を平静に受け取ること
⑭他者の平安を決して妨げないこと
⑮食事を食べた後、葉っぱやお皿をきれいにしておくこと
⑯他者のことにまったく口出ししないこと
⑰将来についての心配を避けること
これらはシュリー・ラマナが模範を示してその信奉者たちに教えた教訓です。体と心と魂のありったけの力で、我々はマハルシの例に倣おうと試みるべきです。
魂の領域でマハルシが教えたことについて言葉は役に立たないので、私はあえて記しません。」
* * * *
バガヴァーンはウパデーシャ・サーラムを四つの言語で記しています。テルグ語とサンスクリット語版は二行連句であり、タミル語は三行詩ですが、マラヤーラム語は四行詩です。ムルガナールでさえ、ウパデーシャ・サーラムの特定の詩節について疑問があるなら、拡大マラヤーラム語版を参照したものでした。マラヤーラム語版にはクンジュ・スワーミーが以下に指摘するように、別の特徴があります。
「靈的な書物にはたいてい最後にパラスルティがあり、その書物を読むことによって生じるであろう利益を記述しています。ダクシナムールティ・ストートラのように、バガヴァーンはそのようなパラスルティをサンスクリット語原文からタミル語に翻訳しましたが、彼のどの作品にもパラスルティを与えることを避けています。しかし、マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムの中で、彼はパラスルティのつもりで30詩節の後に2詩節を付け足しました。バガヴァーンがそれらの詩節を付け加えたのは、マラヤーリ人の信奉者、バーラクリシュナ・スワーミーの求めに応じたものでした。
私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは私にそれらを見せました。そこには、『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、娘たちよ!』というリフレインがありました。私はクンミは女性たちのためだけなのですかと発言しました。バガヴァーンは黙っていました。次の日、ムルガナールが講堂に入ったとき、バガヴァーンは彼に言いました。『彼が異議を唱えたので、私は<娘たち>という言葉を<信奉者たち>に変えました』。そのあと、私のほうを向き、彼は言いました。『さあ満足しましたか』。マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムは各詩節を『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、信奉者たちよ』というリフレインで締めくくっています。バガヴァーンは恩寵の大海でした!」
マラヤーラム語のパラスルティ:(省略)
さあこれがK.K.ナンビアールによる上の英訳です。
「(自らなる住まいに)十分に打ち立てられ、手を叩きながらクンミを踊り、このウパデーシャ・サーラムを喜びあふれて歌え。一切の苦しみからの自由と永遠の至福が得られるだろう。これについて疑いは存在しない。」
「おお、信奉者たちよ!あなたを害することなく苦しみが完全に去るように、至福が得られるように、あなたがみな、このウパデーシャ・サーラムと共に手を叩き、クンミを踊れ」
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ロダ・マッキーヴァ夫人は、奇妙ではあるが感動的な出来事を私に語りました。「バガヴァーンの最後の日々において、彼の健康を心配し、信奉者たちはあらゆる類の薬をバガヴァーンに送ったものでした。それらは戸棚に注意深く保管されていました。ある日、彼は大きなガラス製のジャーを求め、全ての小さい瓶をジャーに移し、よく混ぜるように命じました。彼は朝と晩にスプーンひと匙とると知らせました。薬のいくつかはかなり毒性が強かったため、我々は心配していました。『人々は私への愛情からこれらの薬を私に送ります。彼らを喜ばせるために私はそれら全てを取らなければなりません!』とバガヴァーンは主張しました。医者がやって来て、彼も怖がりました。その混合物は異様なものでした-アロパシー、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、ハーブ、生化学物質、灰、粉末、毒物の-死に至る調合!バガヴァーンは頑として譲りませんでした。しかし、我々が彼自身のルールに訴え、我々一人ひとりにひと匙を要求したとき、彼は心やわらぎ、その飲み物を飲むという考えをあきらめました!」。
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シュリー・クンジュ・スワーミーは以下の興味深い逸話を語りました。
「バガヴァーンの存命時、真剣な探求者たち-B.V.ナラシンハ・スワーミー、ポール・ブラントン、ヨーギ・ラーミア、ムルガナール、ムナーガラ・ヴェンカタラーマイアー、S.S.コーエンなど-は隣接するパラコーットゥに滞在ました。かつてドイツ人がそこに滞在していて、精力的にサーダナを行っていました。彼はバガヴァーンのパラコーットゥでの昼の散歩の間に彼に会うことに熱心でした。旧講堂の外で、様々な機会にバガヴァーンが何人かの探求者に個人的な指導と実際的な援助をよくしていたことは多くの人には知られていません。この真剣なドイツ人は彼らの中の一人でした」。
このようにして、クンジュ・スワーミーはどのようにバガヴァーンが彼を手助けしたのか知ることになりました。「ある日、郵便配達人がドイツ人のコテージの鉄製の扉をドンドン叩いていました。隣接した小屋に住む我々全員の邪魔になるには十分な騒音を長い時間たてていました。我々は郵便配達人に加わり、扉をたたき、ついにバガヴァーンがパラコーットゥ周辺のお昼の散歩をする時間となりました。バガヴァーンはどうして我々全員がドイツ人のコテージの入り口にいるのか尋ねました。ドイツ人に電報(海底電信)があり、彼にこの大音量を聞かせることに成功できていないことを彼に知らせました。バガヴァーンは笑い、言いました。『私が犯人です!彼は長く深い瞑想に入りたがっていて、周りの騒音が彼を邪魔しているとかつて私に不満を言いました。私は蜜蝋を手に入れ、それを綿と混ぜ合わせ、彼への耳栓を作りました。それは完全防音です!』 彼がバガヴァーンと会う時間になり、ドイツ人は耳栓を外しながら出て来ました。当然ながら、彼はバガヴァーンと共に彼のコテージにいる群衆を見て驚きました!
それ以来、我々もまたそのような蜜蝋製の耳栓を作り、真剣な信奉者たちはこれが邪魔されずに瞑想をする大きな助けになると分かりました!」
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偉大なヴィーナ奏者、カーメーシュワリ・アンマルという音楽界で人気のある女性がいます。彼女は音楽をサーダナとして修練し、アーシュラムに来た時はいつもバガヴァーンの前で演奏したものでした。ある日、講堂の全ての人を感動させる、とても素晴らしい演奏会を開いた後、彼女は尋ねました。「バガヴァーン!これは自らの実現の手段として役立ちますか」。バガヴァーンは沈黙を守りました。しばらく後、彼女は言いました。「トゥヤーガラージャ聖者などは音楽を通じて神を得ていませんか。私も彼らに倣うべきではないのでしょうか。彼ら皆が得たように、私も究極の目的を得ないのでしょうか」。バガヴァーンは一呼吸おいてから、テルグ語で言いました。「彼らは実現の後、偉大な音楽を作りました。彼らは音楽を通じてそれを得ていません!そのために、その音楽は永遠の命を得ているのです」。
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これは引退した副登記官、R.ナーラヤナ・アイヤルがかつて私に話したことです。「シュリー・バガヴァーンの肉体的苦痛に対する反応はいつも私にとって謎めいたものでした。(バガヴァーンの古参の付添人から知らされたのですが)彼がかつて煮え立ったおかゆ(カンジ)をそのお尻にこぼし、しばらく後になって初めてバガヴァーンはそれに気づいたということは本当だったのか私は彼に尋ねました。シュリー・バガヴァーンはその出来事を次のように語りました。
『私は米が茹でられていた容器からカンジを漉し取っていたのです!私は床の上に座っていました。煮え立ったカンジは床の上の小さめの容器に集められる予定でしたが、私は誰かと話していて、知らないうちにカンジが容器の中でなく、床の上に落ちました。床は私のほうに傾斜していたので、それは私のお尻の下にたどり着きました。それが冷えた後ではじめて、私はそれに気づきました。もちろん、水ぶくれになり、Zam Buk(軟膏)が後で塗られました。気づいた後、確かに痛みがありました。でも、だから何ですか』。
自らの実現の至福は、おそらく、その他の経験をかき消してしまうのでしょう!」。
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バガヴァーン存命時のアーシュラム公認の写真家、T.N.クリシュナスワーミ医師は、素晴らしい信奉者でした。彼がバガヴァーンを撮った数千枚の写真は一枚残らずバガヴァーンの許可を得てのみ撮られたものですが、一枚だけは彼の許可なく-要するに、こっそりと-撮られたものだったと彼はかつて私に話しました。それは彼の蓮華の御足の写真でした。彼は付添人に花をいくつか彼の足元に置くよう頼み、あたかも彼の前で平伏するかのように、カメラをとても上手に配置したので、彼はいい写真を撮ることができました。なんという神聖な遺産をT.N.Kは我々みなに残したのでしょうか!
我々の会話の一つの中で、彼は言いました。
「マドラスでの忙しい生活のために、ティルヴァンナーマライに行ったとき、たいてい私はそこで一日だけか一日の一部しか過ごせませんでした。私はいつもカメラを持っていき、マハルシとずっと一緒に過ごし、できるだけ多くの彼の写真を撮りました。彼が私のしつこさを迷惑がることを私は心配しましたが、彼は決して迷惑がりませんでした。私は彼が歩き、座り、食べ、足を拭くところを写真に収めました。私は彼が微笑み、笑い、話し、沈黙している、そして、サマーディにいるところを捕らえました。かつて彼が山を登っていると雨が降り出し、彼は手作りのヤシの葉の傘を勧められ、私はそれを使っている彼を撮影しました。私は普通の傘を使い、そうしながら満面に笑みを浮かべた彼の別の写真を撮りました。
「時々、彼の教えが『私は体ではない』であるのに、写真にそんなにも注意を払うことは馬鹿げていはしないか思ったものでした。私は影を追っていたのではないか、それを永続させようとさえしていたのではないか。当時、私は彼の教えにほんのわずかしか注意を払っていませんでした。私はただ彼の人格の美しさと恩寵にだけ魅了されていました。彼を写真に収めることは計り知れない喜びを私に与えました。彼は彼の教えよりも重要でした。
「後に、彼がもはや肉体的には我々と共にいない時、私は彼の教えに向かいました。その時、彼の存在の恩寵がそれに向けて私を準備していたことに私は気づきました。子供が母親に引き付けられるように、わけも知らずに、私は彼に引き付けられていました。そして、子供が母親から得るように、私は彼から栄養を得ていました。それ以後、彼が肉体的に我々と共にいるときに、彼の存在を十全に享受していたことを私はうれしく思いました!」
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「クンバコーナムのアイアンガー・スワーミー」の方でよく知られている、シュリー・ランガスワーミ・アイアンガーは、バガヴァーンのとても忠実な信奉者でした。彼の信愛はとても熱烈なものであったため、彼は師の名、「ラマナ」を口にしようとしませんでした。ラマナ・ストゥーティ・パンチャカムのような賛歌を朗誦しているときでさえ、「ラマナ」という言葉が現れたときはいつでも彼はその言葉について沈黙を守りましたが、残りの詩節を流ちょうに続けました。例えば、アクシャラマナマーライの90詩節では、「あなたが『ラマナ』であるので、私はこの全てを言いました」を「あなたが・・・・であるので、私はこの全てを言いました」と彼は言ったものでした。サット・グル・ラマナへの熱烈なバクティを知り、彼の周りの人々さえ彼の近くでは「ラマナ」という言葉を口にしませんでした!かつて、旧講堂で、とても有名な人がうかつにもバガヴァーンに「ラマナ」と呼びかけました。アイアンガー・スワーミーは自然と彼の頬をピシャリと叩きました!後に、アイアンガー・スワーミーのエーカ・バクティについて知るようになると、腹を立てるのでなく、この紳士はアイアンガー・スワーミーを心から賞賛しました!