2017年6月25日日曜日

バガヴァーンの甥の息子、ガネーサンによる回顧録② - 崇高なるラマナ

◇「山の道(Mountain Path)」、1985年7月、p165~169、Moment Remembered

 崇高なるラマナ

 V.ガネーサン

我々の師にまつわる逸話をもう一回分書き留めることができ、うれしく思います

 十代のころ、大学で学んでいたとき、私はしょっちゅうマドゥライに行かなければなりませんでした。私はN.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授の家に滞在したものでした。常に活発に大学の仕事をしていましたが、彼が完全にシュリー・バガヴァーンへの思いに夢中であることに私は気づきました。事実、バガヴァーンの級友であった彼の父、N.S.ランガナータ・アイヤルが存命時、父も息子も夜更けまでバガヴァーンとその栄光について大声で話していたものでした!

 今や、シュリー・N.R.クリシュナムルティ・アイヤルは老境に入り、公認会計士であり、シュリー・バガヴァーンの忠実な信奉者である次男のシュリー・K.V.ラマナンと共に、ティルヴァンナーマライ自体に滞在しています。彼が奥さんと共にアーシュラムのゲストハウスにひと月過ごしに来たことで、我々みなは大いに喜びました。彼の滞在中、私は彼とより親密な交際をする機会を得ました。彼の本、Essence of Ribhu Gitaはバガヴァーンの命日、4月17日に発売されました。

 彼とのそのような喜ばしい会合の一つの間に、私は彼に特別な質問をしました。「バガヴァーンはあなたに何を教えましたか」。N.R.クリシュナムルティ・アイヤル教授は記します:

 「私はシュリー・バガヴァーンの個人的な習慣を観察し、彼の例に倣おうと試みました。バガヴァーンの日常生活の中で気づかされることは、

   ①身ぎれいさ、衣服が整っていること、額にヴィブーティとクムクムを習慣的につけること
   ②周りの人々と全ての楽しみを分かち合うこと
   ③タイム・スケジュールの厳格な遵守
   ④それがどれほど『低く』ても、役立つ仕事を行うこと
   ⑤いったん手に取った仕事を決してやり残したままにしないこと
   ⑥あらゆる行為に完璧を追求すること
   ⑦時間・モノ・お金の厳しい節約
   ⑧寝ている間やひとしきりの重労働の後の休息を除いた絶え間ない活動
   ⑨自分自身を他者より優れていると決してみなさないこと
   ⑩常に真実を話すこと、もしくは
     真実を表すことが他者の評判を傷つけたり、下げたりするなら、固く沈黙を守ること
   ⑪完全な自助自分自身でできる仕事を別の人にするよう決して頼まないこと
   ⑫もし(責任が)あれば、他者に責任転嫁せず、失敗の全責任を負うこと
   ⑬成功と失敗を平静に受け取ること
   ⑭他者の平安を決して妨げないこと
   ⑮食事を食べた後、葉っぱやお皿をきれいにしておくこと
   ⑯他者のことにまったく口出ししないこと
   ⑰将来についての心配を避けること

 これらはシュリー・ラマナが模範を示してその信奉者たちに教えた教訓です。体と心と魂のありったけの力で、我々はマハルシの例に倣おうと試みるべきです。

 魂の領域でマハルシが教えたことについて言葉は役に立たないので、私はあえて記しません。」

* * * *

 バガヴァーンはウパデーシャ・サーラムを四つの言語で記しています。テルグ語とサンスクリット語版は二行連句であり、タミル語は三行詩ですが、マラヤーラム語は四行詩です。ムルガナールでさえ、ウパデーシャ・サーラムの特定の詩節について疑問があるなら、拡大マラヤーラム語版を参照したものでした。マラヤーラム語版にはクンジュ・スワーミーが以下に指摘するように、別の特徴があります。

 「靈的な書物にはたいてい最後にパラスルティがあり、その書物を読むことによって生じるであろう利益を記述しています。ダクシナムールティ・ストートラのように、バガヴァーンはそのようなパラスルティをサンスクリット語原文からタミル語に翻訳しましたが、彼のどの作品にもパラスルティを与えることを避けています。しかし、マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムの中で、彼はパラスルティのつもりで30詩節の後に2詩節を付け足しました。バガヴァーンがそれらの詩節を付け加えたのは、マラヤーリ人の信奉者、バーラクリシュナ・スワーミーの求めに応じたものでした。

 私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは私にそれらを見せました。そこには、『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、娘たちよ!』というリフレインがありました。私はクンミは女性たちのためだけなのですかと発言しました。バガヴァーンは黙っていました。次の日、ムルガナールが講堂に入ったとき、バガヴァーンは彼に言いました。『彼が異議を唱えたので、私は<娘たち>という言葉を<信奉者たち>に変えました』。そのあと、私のほうを向き、彼は言いました。『さあ満足しましたか』。マラヤーラム語のウパデーシャ・サーラムは各詩節を『さあクンミを行い、手を叩こう。おお、信奉者たちよ』というリフレインで締めくくっています。バガヴァーンは恩寵の大海でした!」

 マラヤーラム語のパラスルティ:(省略)

 さあこれがK.K.ナンビアールによる上の英訳です。

 「(自らなる住まいに)十分に打ち立てられ、手を叩きながらクンミを踊り、このウパデーシャ・サーラムを喜びあふれて歌え。一切の苦しみからの自由と永遠の至福が得られるだろう。これについて疑いは存在しない。」

 「おお、信奉者たちよ!あなたを害することなく苦しみが完全に去るように、至福が得られるように、あなたがみな、このウパデーシャ・サーラムと共に手を叩き、クンミを踊れ」

* * * *

 ロダ・マッキーヴァ夫人は、奇妙ではあるが感動的な出来事を私に語りました。「バガヴァーンの最後の日々において、彼の健康を心配し、信奉者たちはあらゆる類の薬をバガヴァーンに送ったものでした。それらは戸棚に注意深く保管されていました。ある日、彼は大きなガラス製のジャーを求め、全ての小さい瓶をジャーに移し、よく混ぜるように命じました。彼は朝と晩にスプーンひと匙とると知らせました。薬のいくつかはかなり毒性が強かったため、我々は心配していました。『人々は私への愛情からこれらの薬を私に送ります。彼らを喜ばせるために私はそれら全てを取らなければなりません!』とバガヴァーンは主張しました。医者がやって来て、彼も怖がりました。その混合物は異様なものでした-アロパシー、アーユルヴェーダ、ホメオパシー、ハーブ、生化学物質、灰、粉末、毒物の-死に至る調合!バガヴァーンは頑として譲りませんでした。しかし、我々が自身のルールに訴え、我々一人ひとりにひと匙を要求したとき、彼は心やわらぎ、その飲み物を飲むという考えをあきらめました!」。

* * * *

 シュリー・クンジュ・スワーミーは以下の興味深い逸話を語りました。

 「バガヴァーンの存命時、真剣な探求者たち-B.V.ナラシンハ・スワーミー、ポール・ブラントン、ヨーギ・ラーミア、ムルガナール、ムナーガラ・ヴェンカタラーマイアー、S.S.コーエンなど-は隣接するパラコーットゥに滞在ました。かつてドイツ人がそこに滞在していて、精力的にサーダナを行っていました。彼はバガヴァーンのパラコーットゥでの昼の散歩の間に彼に会うことに熱心でした。旧講堂の外で、様々な機会にバガヴァーンが何人かの探求者に個人的な指導と実際的な援助をよくしていたことは多くの人には知られていません。この真剣なドイツ人は彼らの中の一人でした」。

 このようにして、クンジュ・スワーミーはどのようにバガヴァーンが彼を手助けしたのか知ることになりました。「ある日、郵便配達人がドイツ人のコテージの鉄製の扉をドンドン叩いていました。隣接した小屋に住む我々全員の邪魔になるには十分な騒音を長い時間たてていました。我々は郵便配達人に加わり、扉をたたき、ついにバガヴァーンがパラコーットゥ周辺のお昼の散歩をする時間となりました。バガヴァーンはどうして我々全員がドイツ人のコテージの入り口にいるのか尋ねました。ドイツ人に電報(海底電信)があり、彼にこの大音量を聞かせることに成功できていないことを彼に知らせました。バガヴァーンは笑い、言いました。『私が犯人です!彼は長く深い瞑想に入りたがっていて、周りの騒音が彼を邪魔しているとかつて私に不満を言いました。私は蜜蝋を手に入れ、それを綿と混ぜ合わせ、彼への耳栓を作りました。それは完全防音です!』 彼がバガヴァーンと会う時間になり、ドイツ人は耳栓を外しながら出て来ました。当然ながら、彼はバガヴァーンと共に彼のコテージにいる群衆を見て驚きました!

 それ以来、我々もまたそのような蜜蝋製の耳栓を作り、真剣な信奉者たちはこれが邪魔されずに瞑想をする大きな助けになると分かりました!」

* * * *

 偉大なヴィーナ奏者、カーメーシュワリ・アンマルという音楽界で人気のある女性がいます。彼女は音楽をサーダナとして修練し、アーシュラムに来た時はいつもバガヴァーンの前で演奏したものでした。ある日、講堂の全ての人を感動させる、とても素晴らしい演奏会を開いた後、彼女は尋ねました。「バガヴァーン!これは自らの実現の手段として役立ちますか」。バガヴァーンは沈黙を守りました。しばらく後、彼女は言いました。「トゥヤーガラージャ聖者などは音楽を通じて神を得ていませんか。私も彼らに倣うべきではないのでしょうか。彼ら皆が得たように、私も究極の目的を得ないのでしょうか」。バガヴァーンは一呼吸おいてから、テルグ語で言いました。「彼らは実現の後、偉大な音楽を作りました。彼らは音楽を通じてそれを得ていません!そのために、その音楽は永遠の命を得ているのです」。

* * * *

 これは引退した副登記官、R.ナーラヤナ・アイヤルがかつて私に話したことです。「シュリー・バガヴァーンの肉体的苦痛に対する反応はいつも私にとって謎めいたものでした。(バガヴァーンの古参の付添人から知らされたのですが)彼がかつて煮え立ったおかゆ(カンジ)をそのお尻にこぼし、しばらく後になって初めてバガヴァーンはそれに気づいたということは本当だったのか私は彼に尋ねました。シュリー・バガヴァーンはその出来事を次のように語りました。

 『私は米が茹でられていた容器からカンジを漉し取っていたのです!私は床の上に座っていました。煮え立ったカンジは床の上の小さめの容器に集められる予定でしたが、私は誰かと話していて、知らないうちにカンジが容器の中でなく、床の上に落ちました。床は私のほうに傾斜していたので、それは私のお尻の下にたどり着きました。それが冷えた後ではじめて、私はそれに気づきました。もちろん、水ぶくれになり、Zam Buk(軟膏)が後で塗られました。気づいた後、確かに痛みがありました。でも、だから何ですか』。
 
 自らの実現至福は、おそらく、その他の経験をかき消してしまうのでしょう!」。

* * * *

 バガヴァーン存命時のアーシュラム公認の写真家、T.N.クリシュナスワーミ医師は、素晴らしい信奉者でした。彼がバガヴァーンを撮った数千枚の写真は一枚残らずバガヴァーンの許可を得てのみ撮られたものですが、一枚だけはの許可なく-要するに、こっそりと-撮られたものだったと彼はかつて私に話しました。それは彼の蓮華の御足の写真でした。彼は付添人に花をいくつかの足元に置くよう頼み、あたかもの前で平伏するかのように、カメラをとても上手に配置したので、彼はいい写真を撮ることができました。なんという神聖な遺産をT.N.Kは我々みなに残したのでしょうか!

 我々の会話の一つの中で、彼は言いました。

 「マドラスでの忙しい生活のために、ティルヴァンナーマライに行ったとき、たいてい私はそこで一日だけか一日の一部しか過ごせませんでした。私はいつもカメラを持っていき、マハルシとずっと一緒に過ごし、できるだけ多くの彼の写真を撮りました。が私のしつこさを迷惑がることを私は心配しましたが、は決して迷惑がりませんでした。私はが歩き、座り、食べ、足を拭くところを写真に収めました。私はが微笑み、笑い、話し、沈黙している、そして、サマーディにいるところを捕らえました。かつてが山を登っていると雨が降り出し、は手作りのヤシの葉の傘を勧められ、私はそれを使っているを撮影しました。私は普通の傘を使い、そうしながら満面に笑みを浮かべたの別の写真を撮りました。


 「時々、の教えが『私は体ではない』であるのに、写真にそんなにも注意を払うことは馬鹿げていはしないか思ったものでした。私は影を追っていたのではないか、それを永続させようとさえしていたのではないか。当時、私はの教えにほんのわずかしか注意を払っていませんでした。私はただの人格の美しさと恩寵にだけ魅了されていました。を写真に収めることは計り知れない喜びを私に与えました。の教えよりも重要でした。

 「後に、がもはや肉体的には我々と共にいない時、私はの教えに向かいました。その時、彼の存在恩寵がそれに向けて私を準備していたことに私は気づきました。子供が母親に引き付けられるように、わけも知らずに、私はに引き付けられていました。そして、子供が母親から得るように、私はから栄養を得ていました。それ以後、が肉体的に我々と共にいるときに、彼の存在を十全に享受していたことを私はうれしく思いました!」

* * * *

 「クンバコーナムのアイアンガー・スワーミー」の方でよく知られている、シュリー・ランガスワーミ・アイアンガーは、バガヴァーンのとても忠実な信奉者でした。彼の信愛はとても熱烈なものであったため、彼は師の名、「ラマナ」を口にしようとしませんでした。ラマナ・ストゥーティ・パンチャカムのような賛歌を朗誦しているときでさえ、「ラマナ」という言葉が現れたときはいつでも彼はその言葉について沈黙を守りましたが、残りの詩節を流ちょうに続けました。例えば、アクシャラマナマーライの90詩節では、「あなたが『ラマナ』であるので、私はこの全てを言いました」を「あなたが・・・・であるので、私はこの全てを言いました」と彼は言ったものでした。サット・グル・ラマナへの熱烈なバクティを知り、彼の周りの人々さえ彼の近くでは「ラマナ」という言葉を口にしませんでした!かつて、旧講堂で、とても有名な人がうかつにもバガヴァーンに「ラマナ」と呼びかけました。アイアンガー・スワーミーは自然と彼の頬をピシャリと叩きました!後に、アイアンガー・スワーミーのエーカ・バクティについて知るようになると、腹を立てるのでなく、この紳士はアイアンガー・スワーミーを心から賞賛しました!

2017年6月15日木曜日

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』のはじまり - ラーマ王子の気高き憂鬱

◇「ヴァーシシュタのヨーガ(Vasistha's Yoga)」、p4(Ⅰ:2)~p20(Ⅰ:32、33)
ヨーガ・ヴァーシシュタの構造は複雑であり、「スティークシュナとアガスティヤの対話」がまず始まり、その対話の中でアガスティヤが「カールンヤとアグニヴェーシャの対話」を語り、その対話の中でアグニヴェーシャが「アリスタネーミとヴァールミーキの対話」を語り、その対話の中でヴァールミーキが「ラーマとヴァーシシュタの対話」を語ります。そのようにとてもややこしいので、その始まりの部分は省略します(文:shiba)

ヴァーシシュタのヨーガ

スワーミー・ヴェンカテーシャーナンダ英訳

第一部 離欲について

 
 彼(アリスタネーミ)はヴァールミーキに尋ねた。「自分自身から誕生と死を取り除くための最良の道とは何ですか」。それに答え、ヴァールミーキは彼にラーマとヴァーシシュタの対話を語った。

ヴァールミーキは言った:
 「私は束縛されている、私は解放されなければならない」と感じる者、完全に無知でも完全に悟ってもいない者は、この聖典(ラーマとヴァーシシュタの対話)を学ぶ資格があります。物語の形式でこの聖典の中に提示される解放の手段を熟慮する者は、(誕生と死の)繰り返す歴史からの解放を確実に得ます。

 以前、私はラーマの物語を記し、それを私の愛弟子バラドヴァージャに伝えました。かつて彼がメール山に行ったとき、バラドヴァージャはそれを創造者ブラフマーに物語りました。これを非常に喜び、ブラフマーはバラドヴァージャに願いごとを許しました。バラドヴァージャは、「全人類が不幸から解放されますように」という願い事を求め、これを達成する最良の道を見つけてくださいとブラフマーに懇願しました。

 ブラフマーはバラドヴァージャに言いました。「賢者ヴァールミーキのもとへ行き、聞き手が無知の暗闇から解放されるようにラーマの気高い物語の続きを話すよう彼に願い求めなさい」。それで満足せず、ブラフマーは賢者バラドヴァージャに同伴し、私の庵(いおり)に到着しました。

 私の手でしかるべき崇拝を受けた後、ブラフマーは私に言いました。「おお、賢者よ。あなたのラーマの物語は、人々がサンサーラなる大海を渡る筏となるでしょう。それゆえ、物語の続きを話し、それを首尾よく完成させなさい」。こう言って、創造者は場面から即座に消えました。

 ブラフマーの唐突な命令によってあたかも困惑したかように、ブラフマーが今言ったばかりのことを私に説明するように私は賢者バラドヴァージャに頼みました。バラドヴァージャはブラフマーの言葉を繰り返しました。「全ての者が悲しみを超え行けるように、ブラフマーはあなたにラーマの物語を明かしてもらいたいのです。私もまたあなたに願います、おお、賢者よ。どのようにラーマやラクシュマナや他の兄弟が悲しみから自由の身となったのか、どうぞ私に詳らかに話してください」。

 それで私は、ラーマやラクシュマナや他の兄弟、同じく彼らの両親や王宮の成員の解放の秘訣をバラドヴァージャに明らかにしました。そして、私はバラドヴァージャに言いました。「我が息子よ。彼らのように生きるなら、今ここで、あなたも悲しみを免れるでしょう」。

ヴァールミーキは続けた:
 空の青さが目の錯覚であるのとまさしく同様に、この世界の外観は混同です。それに心を留めるのでなく、それを無視するほうが良いと私は思います。世界の外観が非現実であるという確信が人の中に生じない限り、悲しみからの自由も、人の本質の実現も可能ではありません。そして、この確信は、人がこの聖典を熱心に学ぶときに生じます。この対象的世界が現実と非現実の混同であるという堅固な確信に達するのは、その時です。そのようにこの聖典を学ばないなら、何百年後さえも真の知は彼の中に生じません。

 モークシャとは、わずかの留保もない、一切のヴァーサナ潜在傾向)の完全な放棄です。ヴァーサナには二種類-清浄なものと不浄なものがあります。不浄なものは誕生の原因であり、清浄なものは人を誕生から解放します。不浄なものは無知と自我意識の性質を帯びています。それらはいわば再誕なる木にとっての種です。その一方で、これらの種が捨て去られるとき、単に体を維持するだけのヴァーサナは清浄な性質を帯びています。そのようなヴァーサナは、生けるうちに解放されている人々の内にさえ存在します。それは現在の意欲によってでなく、過去の勢いによって維持されているだけなので、再誕に通じません。

 どのようにラーマが解放された賢者の優れた人生を送ったのかあなたに話しましょう。これを知れば、あなたは老いと死に関する一切の誤解から解放されるでしょう。

 師の庵から戻ると、ラーマは父の宮殿に住み、様々な方法で戯れました。全国を巡り、聖地を巡礼することを望み、ラーマは父の拝謁を求め、そのような巡礼に着手することを許してくださるようお願いしました。この巡礼の開始のために、王は吉日を選び、一族の年長者たちから祝福を受けた後、その日にラーマは出発しました。

 兄弟と共に、ラーマはヒマラヤ以南、全国を巡りました。その後、彼は首都に戻り、国の人々は大いに喜びました。

ヴァールミーキは続けた:
 宮殿に入るとすぐ、父親、賢者ヴァーシシュタ、他の年長者、聖者たちにラーマは心からお辞儀しました。ラーマの巡礼からの帰還を祝い、八日間、アヨーディヤー全市は祭りの様相を呈しました。

 しばらくの間、ラーマは宮殿に住み、日々の義務をきちんと行っていました。しかしながら、すぐに深刻な変化が彼に降りかかりました。彼はやせ細り、青ざめ、弱りました。ダシャラタ王は、愛息子の外見と振る舞いにおける、この突然の不可解な変化を心配しました。彼がラーマに健康に関して尋ねたとき、ラーマはどこも悪くないと答えました。ダシャラタ王がラーマに、「愛する息子よ、何がお前を悩ませているのか」と尋ねたとき、ラーマは「父上、なんでもありません」と礼儀正しく答え、沈黙を守りました。

 どうしようもなく、ダシャラタは答えを求めて賢者ヴァーシシュタを頼りました。賢者は謎めいた答えをしました。「確かに、ラーマがこのように振る舞う何らかの理由があります。この世界で大きな変化が起こるのに先立ち、その原因、すなわち、宇宙の構成要素が存在するようになるのとまさしく同様に、相応の原因がなければ、怒り、失望、喜びのような変化は高貴な人々の振る舞いに現れません」。ダシャラタはそれ以上追及したいと思いませんでした。

 このすぐ後に、世界に名だたる賢者、ヴィシュヴァーミトラが宮殿に到着しました。聖者の訪問を知らされたとき、王は彼を歓迎するために駆けつけました。ダシャラタは言いました。「ようこそ、ようこそ、おお、聖なる賢者よ!拙宅に来てくださり、うれしく思います。盲目の者にとっての視力、乾き切った大地にとっての雨、不妊の女性にとっての息子、死者の復活、失われた富の回復のように、それは私にとって歓迎すべきことです。おお、賢者よ、どのようなご用事でしょうか。願わくば、どのような望みをもってあなたが私のもとにやって来ようとも、その望みはすでに実現されているものとお考え下さい。あなたは私の尊敬すべき神です。私はあなたの命に従います」。

ヴァールミーキは続けた:
 ヴィシュヴァーミトラはダシャラタの言葉を聞いて大いに喜び、彼の使命を明らかにし始めました。彼は王に言いました。

 「王よ、私が着手した宗教儀式を遂行するためにあなたの助けが必要です。私が宗教儀式を始めるときはいつでも、カラとドゥーシャナの家来である悪魔たちが聖地に侵攻し、それを汚します。その宗教儀式の誓約を受けて、私は彼らを呪うことができません。

 「あなたは私を手助けできます。あなたの息子、ラーマはたやすくその悪魔たちに対処できます。そして、この手助けのお返しに、私は彼に数多くの恩恵を施しましょう。それはあなたに無比なる栄光をもたらすでしょう。息子への愛着によって義務への献身が打ち負かされることなきように。この世界において、高貴な人々はどのような贈り物も身分不相応だとみなしません。

 「あなたが『はい』と言う瞬間、まさにその瞬間に、私は悪魔たちが死んでいるものと考えます。なぜなら、私はラーマが何者か知っています。この宮廷の賢者ヴァーシシュタや他の聖者たちさえも知っています。王よ、ぐずぐず引き延ばすことなきように。遅滞なくラーマを私のもとに遣わしなさい。」

 この極めて歓迎しがたい頼みを聞き、王はしばらく茫然となり、黙ったままでしたが、その後、答えました。「おお、賢者よ。ラーマは16歳でさえなく、それゆえに、戦(いくさ)を行う資格がありません。宮殿内部の奥の部屋で行われることを除いて、彼は戦いを目にしたことさえありません。あなたに随行するよう私に命じてください。悪魔を根絶やしにするためにあなたに随行するよう私の巨大な軍勢に命じてください。しかし、私はラーマと離れられません。生きとし生ける者にとって、子供を愛することは自然ではありませんか。賢者でさえ子供への愛情から並々ならぬ活動に従事しませんか。人々は子供よりもむしろ、幸せや配偶者や富を捨て去りませんか。だめです、私はラーマと離れられません。

 「私は強力な悪魔ラーヴァナについて耳にしています。あなたの宗教儀式に妨げをもたらす者とは彼のことですか。その場合、あなたを助けるために何もできません。なぜなら、神々ですら彼に対して無力であることを私は知っています。幾度となく、そのような力強い存在はこの地に生まれます。そして、やがては、この世の舞台を去ります」。

 ヴィシュヴァーミトラは怒りました。これを見て、賢者ヴァーシシュタが間に入り、王に約束を反故にせず、ラーマをヴィシュヴァーミトラのもとに遣わすよう説得しました。「王よ、約束を反故にすることはあなたにふさわしくありません。王は正しい行いの模範であるべきです。おびただしい無敵の飛び道具を持ち、極めて力強いヴィシュヴァーミトラの保護の下、ラーマは安全です」。

ヴァールミーキは続けた:
 師ヴァーシシュタの望みに従い、ダシャラタ王は従者にラーマを呼んでくるよう命じました。従者が戻り、ラーマがすぐに後からやって来ることを知らせ、「王子は意気消沈しているようで、人付き合いを避けています」と言い足しました。この申し立てに当惑し、ダシャラタはラーマの侍従のほうを向き、ラーマの心と体の状態に関する真相を知りたがりました。

 侍従は目に見えて動揺し、言いました。
 
 「主よ、巡礼から帰って以来、大きな変化が王子に降りかかりました。沐浴や神の崇拝にさえ彼は興味がないようです。奥の部屋で彼は従者との付き合いを楽しみません。彼は装身具や宝石に興味がありません。喜ばしく魅力的なものが捧げられた時でさえ、彼はそれらに悲しげなまなざしを向け、興味を示しません。彼は王宮のダンサーを追い払い、彼らを拷問官とみなしています!耳が聞こえず口がきけない者のように、彼は自動人形のごとく食べる、歩く、休む、沐浴する、座るという動作を経ています。しばしば彼はひとり呟きます。『富と繁栄が何の役に立つのか。災難や家が何の役に立つのか。この全ては非現実だ』。ほとんどの時間、彼は沈黙し、娯楽を面白がりません。彼はただ孤独のみを楽しんでいます。四六時中、彼は物思いにふけっています。我々の王子に何が降りかかったのか、彼が何を心の中で考え込んでいるのか、彼が何を求めているのか、我々には分かりません。日に日に、彼はますますやせ細って行きます」。

 「何度も何度も、彼は歌を口ずさみます。『ああ、至高なるものに達っせんと努めることなく、我々は様々な方法で人生を浪費している!我々は苦しんでいる、我々は困窮していると人々は泣き叫ぶが、誰もその苦しみと困窮の源から真剣に背を向けようとはしない!』。この全てを見て、この全てを聞き、彼の忠実なしもべである我々はひどく心を痛めています。我々はどうすべきか分かりません。彼は希望を失っています。彼は欲望を失っています。彼は何ものにも愛着せず、何ものにも依存していません。彼は惑わされても気が狂ってもいません。そして、彼は悟りを開いてもいません。しかしながら、時に彼は失望感に駆り立てられ、自殺念慮に打ちのめされているかのように見えます。『富や母や親族が何の役に立つのか。王国が何の役に立つのか。この世で野望が何の役に立つのか』。主よ、あなただけが王子のこの状態の適切な治療法を見つけられます」。

 -ヴィシュヴァーミトラは言いました
 「それが事実であるなら、ラーマをここに来くるようにしてください。彼の状態は迷妄の結果でなく、知恵と離欲に満ちており、悟りを指し示しています。ここに彼を連れてきなさい。我々が彼の落胆を追い払いましょう」。

ヴァールミーキは言った:
 そこで直ちに、王はラーマを宮廷に招くよう侍従に促しました。しばらくして、ラーマ自身、父親に会う支度ができました。遠くからでさえ、彼は父親と賢者たちを目にすると、敬礼しました。彼らは、彼が若いにもかかわらず、その顔が成熟性の安らぎで輝いているのを目にしました。彼は王の足元にひれ伏し、王は彼を抱擁し、身を起こさせ、彼に言いました。「何がお前をそんなに悲しませるのか、我が息子よ。失意は多くの苦難の呼び水になるものだ」。賢者ヴァーシシュタとヴィシュヴァーミトラは王に同意しました、

 -ラーマは言いました
 「尊者よ、あなたの質問に十分に答えましょう。私は父の住居で幸福に育ちました。私は立派な先生がたに指導を受けました。近頃、私は巡礼に出かけました。その期間にある思考の流れが私を捕らえ、私からこの世の一切の希望を奪い去りました。私の心は疑問を感じ始めました-人々は何を幸福と呼び、そして、それはこの世の常に変化する事物の中に得られうるのか。この世の全ての存在は生まれては死に、死んでは生まれます!苦しみと罪過の根源である、これら一切の移ろいゆく現象の中に私は何らの意義も認めません。無関係の存在が同時に生じます。そして、心はその間の関係性を思い浮かべます。この世の万物は心に、人の心の持ちように依存しています。調べてみれば、心自体が非現実であるように思えます!しかし、我々はそれに魅了されています。我々は渇きを満足させるために砂漠の蜃気楼を追いかけ続けているようです!

 間違いなく、我々は主人へ売り払われた囚われの奴隷ではありません。それでも、我々は何ら自由もなく、奴隷身分の生活を送っています。真理を知ることなく、我々は世界と呼ばれるこの鬱蒼とした森の中を無目的にさ迷っています。この世界とは何ですか。何が生まれ、成長し、死ぬのですか。どうすればこの苦しみは終わりを迎えるのですか。友人たちの気持ちに敬意を払い、私は涙を流しませんが、私の心は深い悲しみを覚えています。

 -ラーマは続けました
 無知な者を惑わす富も、おお、賢者よ、同様に無益です。定まることなく、素早く過ぎゆく、この富は無数の心配事を生み出し、より多くを求める飽くことなき渇望を招きます。富はえこひいきしません。善人も悪人も裕福になれます。しかしながら、人々が善良で、情け深く、友好的であるのは、彼らの心が富の熱心な追及によって冷淡になるまでだけです。賢明な学者、英雄、感謝の気持ちを忘れない人、穏やかな話し方をする才気ある人の心さえ、富は堕落させます。富と幸福は同居しません。中傷する競争相手や敵対者がいない富裕な者は稀です。正しい行いなる蓮華にとって、富は夜です。(夜に咲く)悲しみなる白蓮華にとって、それは月の光です。明瞭な洞察力なる灯火にとって、それは風です。敵意なる波にとって、それは洪水です。混乱なる雲にとって、それは追い風です。落胆なる毒にとって、それは増悪因子です。それは邪悪な思いなる蛇のようであり、苦悩に恐怖を付け加えます。離欲なる這う動物(つる性植物)にとって、それは破壊的な降雪です。邪悪な欲望なるフクロウにとって、それは夜の訪れです。それは知恵なる月の食です。その存在によって、人の善良な性質はしなびます。実に、すでに死によって選ばれている者を富は探し求めます。

 寿命さえも同様です、おお、賢者よ。その持続期間は葉の上の水滴のそれのようです。自らの知を持つ人々にとってのみ寿命は実り多きものです。我々は風を取り囲むかもしれません。我々は空間を切り裂くかもしれません。我々は波に糸を通し首飾りにするかもしれませんが、寿命をあてにはできません。人はいたずらに寿命を延ばそうと努め、それによってさらなる悲しみを得て、苦しみの期間を延ばします。この世で唯一得る価値があり、それによってさらなる誕生に終止符を打つ、自らの知を得ようと努める者のみが生きています。他のものはロバ(阿呆)のようにここに存在しています。賢明でない者にとって、聖典の知識は重荷です。欲望で満ちた者にとっては、知恵ですら重荷です。落ち着きのない者にとって、彼自身の心は重荷です。そして、自らの知を持たない者にとって、体(寿命)は重荷です。

 時なるネズミは、休みなく寿命をガリガリかじります。病なるシロアリは生ける者のまさにその急所を食べます。ネズミを捕まえることに熱中する猫が、大変注意深く自ら進んでネズミに目を向けるのとまさしく同様に、死はこの寿命から常に目を離しません。

 -ラーマは続けました
 尊者よ、自我として知られる知恵の恐るべき敵の生起を熟慮するとき、私は当惑し、恐ろしくなります。それは無知の暗闇の中に生じ、無知の中で栄えます。それは終わりなき罪深い傾向性と罪深い行為を引き起こします。全ての苦しみは確かに自我の周りを回っています(それは苦しむ「私」です)。そして、自我は精神的苦痛の唯一の原因です。自我は私の最悪の病であると私は感じます!世俗的な快楽の対象の網を広げ、生ける者を罠にかけるのは、この自我です。実に、この世の全ての恐ろしい災難は自我から生まれます。自我は自制心を減退させ、美徳を破壊し、平静を霧散させます。『私はラーマである』という自我意識を放棄し、一切の欲望を放棄し、私は自らに休らうことを望みます。私が自我意識をもって行ったことは何であれ無駄だったと悟りました。無我のみが真理です。私が自我の影響下にいるとき、私は不幸です。私が自我から自由であるとき、私は幸福です。この自我のみが、わけも理由もなく、家族や社会関係の網を広げ、不用心な魂を捕らえます。私は自我から自由であると思います。しかし、私はみじめなのです。どうか私を教え導いてください。

 聖者たちへの奉仕を通じて獲得された恩寵を奪われ、不浄な心の要素は風のように落ち着きのないままです。それは得る何ものにも満足せず、日に日によりいっそう落ち着かなくなります。ふるいを水で満たすことはできず、どれほど世俗的な対象物を得ようとも、心が満ち足りた状態に達することも決してありません。心は四六時中あらゆる方向に飛び回りますが、どこにも幸福を見つけることができません。地獄で大きな苦しみを受ける可能性を気に留めず、心はここで楽しみを追い求めますが、それさえ得ません。檻の中のライオンのように、心は常に落ち着きなく、その自由を失い、現在の状態に満足してもいません。おお、聖者よ、私は心によって広げられている網への渇望の結び目に束縛されています。川の奔流が川岸の木々を根こそぎにするのとまさしく同様に、落ち着きのない心は私の全存在を根こそぎにしています。風の中の枯葉のように、私は心によって漂い流されています。それは私をどこにも休ませてくれません。心のみが世界の全対象物の原因です。三世界は心の要素のために存在しています。心が消え去るとき、世界も消え去ります。

 -ラーマは続けました
 心の要素が渇望に包まれるときにこそ、無知の暗闇の中に無数の過ちが次のように生じます。この渇望は、気質の優しさや穏やかさのような心の善良で気高い性質を干上がらせ、私をかたくなで冷酷にします。その暗闇の中、様々な形をした渇望は小鬼のように踊ります。

 私はこの渇望を抑制するために様々な方法をとりましたが、大風が藁(わら)を運び去るのとまさしく同様に、渇望は瞬く間に私を圧倒し、どうしようもなく私を堕落させます。離欲やそのような他の性質を養おうという希望をたとえ私が抱こうとも、ネズミが糸を噛みちぎるように、渇望はその希望を切り払います。そして、私は渇望の輪の中に捕らわれて、どうしようもなく回転します。網に捕らわれた鳥のように、我々には羽があるのに、自らの知なる我々の目的地、住まいまで飛んで行くことができません。たとえ私が神酒をがぶ飲みしようとも、この渇望は決して満たされもしません。この渇望の特徴とは、それが方向性を持たないことです。気が狂った馬のように、今、それはある方向に私を駆り立て、次の瞬間には別の方向に私を連れ去ります。それは我々の前に息子、友人、妻や他の親族なる、とても広い網を広げます。

 私は勇士であるのに、この渇望は私を怯えた臆病者にします。私には見るための目があるのに、それは私を盲目にします。私は喜びで満たされているのに、それは私をみじめにします。それは恐ろしい小鬼のようです。この恐ろしい小鬼なる渇望こそが、束縛と不運の原因になるのです。それは人を悲嘆に暮れさせ、彼の中に錯覚を作り出します。この小鬼につかまり、人は手の届くところにある楽しみさえさえ享受できません。渇望は幸福のためにあるかのように見えますが、この渇望は幸福にも実り多き人生にも通じません。逆に、それには無駄な努力が伴い、あらゆる類の不吉に通じます。様々な幸不幸の状況が演じられる人生と呼ばれる舞台を占拠するときでさえ、年老いた女優のように、この渇望は、良いことや気高いことを何も行えずに、ことあるごとに敗北と挫折をこうむります。それでも、それは舞台の上で踊ることをやめません!

 渇望は時には空に昇り、時には地下世界の深みに潜ります。それは常に落ち着きません。それは心の空虚感に基づいているからです。ほんの一瞬、心の中で知恵の光が輝きますが、次の瞬間には迷妄があります。自らの知なる剣でもって、賢者らがこれを切断しうるのは驚きです。

 -ラーマは続けました
 動脈、静脈、神経からなる哀れな体もまた苦しみの源です。不活発であるのに、それは知性があるように見えます。人はそれが感覚を持つのか感覚を持たないのか知らず、そして、それは迷妄のみを発生させます。少しの楽しみに大喜びし、わずかの不運に悩まされ、実にこの体は大いに卑しむべきものです。

 私は体を木にしか例えられません。枝は腕、幹は胴体、穴は目、果実は頭、葉は無数の病-それが生ける者にとっての休憩場所です。それが自分のものであると誰が言えますか。それに関係する希望や絶望はむなしいものです。それは誕生と死のこの大海を渡るために与えられた船です。しかし、人はそれを己の自らとみなすべきではありません。

 体であるこの木は、サンサーラとして知られる森の中に生まれ、落ち着きのないサル(心)がその上で戯れます。それはコオロギ(心配事)の住処であり、それは(終わりなき病なる)虫に絶え間なく食べられています。それは(渇望なる)毒蛇をかくまい、(怒りなる)野生のカラスがそこに住みます。その上には(笑いなる)花があり、その果実は善と悪であり、(生命力なる)風によって活発であるように見え、(五感なる)鳥を支え、それが快楽なる日陰を提供するゆえに(愛欲なる)旅人に頼られ、(自我なる)手に負えないハゲワシがその上に座り、その中は空っぽの空洞です。体は幸福に寄与するようになっていません。長く生きても、短い間で死んでも、それは以前として役に立ちません。それは血肉から成り、老いと死に従属しています。私はそれに魅惑されません。それは不浄な物質でいっぱいに満たされ、無知に苦しめられています。どうしてそれが私の希望を叶えられますか。

 この体は病の住処であり、精神的苦悩、変化する感情、精神状態にとっての畑です。私はそれに魅惑されません。富とは何ですか、王国とは何ですか、体とは何ですか。この全ては時(死)によって無慈悲に切り倒されます。死によって、この恩知らずな体はその中に住まい、それを守っていた心を捨てます。それに何の望みをかければいいでしょうか。恥もせず、それは何度も何度も同じ行為にふけるのです!その唯一確かな目的は、最後に燃やされることであるようです。富者と貧者に共通する老いと死を気に留めず、それは富と力を追い求めます。無知のワインに幻惑され、この体に束縛されている人々は、なんとみっともないのですか!

 -ラーマは言いました
 人々が愉快で幸福だと何も知らずにみなしている人生の一部、幼少期でさえ、悲しみに満ちています、おお、賢者よ。無力、不運な出来事、渇望、自己表現できないこと、まったくの愚かさ、遊び好き、移り気、弱々しさ-これら全てが幼少期を特徴づけています。子供はたやすく機嫌を損ね、たやすく怒りをかき立てられ、たやすくわっと泣き出します。実際、子供の苦悶は、死につつある人、年老いた人、病人や他のどの大人のそれよりひどいものだと人は大胆にも言うかもしれません。なぜなら、幼少期の人の状態は、他者のなすがままに生きている動物の生態のそれにまさしく類似しています。
 
 子供はその周囲の無数の出来事にさらされています。それは子供を悩ませ、子供を混乱させ、子供の中に様々な空想や恐怖をかき立てます。子供は感じやすく、悪人にたやすく影響されます。その結果、子供は親の支配と罰に従属しています。幼少期は従属の期間のようであり、他の何ものでもありません!

 子供は無邪気なように見えるかもしれませんが、日中、暗い穴の中にフクロウが隠れているように、あるゆる類の欠点、罪深い傾向性、神経質な態度がその中に隠れ、眠っているということが、その真相です。おお、賢者よ、幼少期が幸せな時期であったと愚かにも想像する人々を私は気の毒に思います。

 落ち着きのない心よりひどい苦しみがあり得ますか。そして、子供の心は極めて落ち着きがないのです。子供は毎日何か新しいものを得なければ、不幸を感じます。泣き叫ぶことは子供の主だった活動のようです。子供が欲しいものを得られないとき、心が打ち砕かれたかのように見えます。
 
 子供が学校に行くとき、教師たちの管理下で罰を受けます。この全ては不幸を増加させます。

 子供が泣くとき、親はなだめるために子供に世界を与える約束をします。その時から、子供は世界を値踏みし始め、世俗的な対象物を欲します。親は、『おもちゃに月をあげましょう』と言い、子供は、その言葉を信じ、その手に月をつかめると思います。そうして、迷妄の種が小さな心にまかれます。

 子供は暑さ寒さを感じても、それを避けることができません。では、どうして木よりもましでしょうか。鳥獣のように、子供は欲しいものを得ようとしていたずらに手を伸ばします。そして、家の年長者全員を恐れています。

 -ラーマは続けました
 この幼少期の時期を置き去りにして、人は青年期に進みますが、彼は不幸を置き去りにはできません!そこで彼はおびたたしい心の変化に従属し、悲惨からより大きな悲惨へと進みます。なぜなら、彼は知恵を捨て、愛欲として知られる彼の心に住まう恐ろしい小鬼を抱擁するからです。彼の人生は欲望と不安でいっぱいです。若かりし頃に知恵を奪われていない彼らは、どんな猛攻にも耐えられます。

 束の間の楽しみの後に長きにわたる苦しみが速やかに付き従う、はかない青年期に私は魅了されません。それによって幻惑され、人は変化するものを不変であるとみなします。さらに悪いことに、他の多くの人々に不幸をもたらすような行為にふけるのは、青年期なのです。

 木が森林火災によって焼き尽くされるのとまさしく同様に、若者の心は、愛する者が彼を捨てるとき、愛欲の火に焼き尽くされます。どれほど彼が心の清らかさを養おうと努めようが、若者の心は不浄で汚れています。彼の愛する者が近くにいないときでさえ、彼は彼女の美しさへの思いに気を散らされます。渇望で満ちたそのような人は、当然、善人から高い評価を得ません。

 青年期は病と精神的苦悩の住処です。それは鳥にたとえられます。その両翼は善悪の行為です。青年期は良い性質を吹き散らし、霧散させる砂嵐のようです。青年期は心にあらゆる類の邪悪を呼び起こし、そこに存在するかもしれない良い性質を抑圧します。そのように、それは邪悪の助長者です。それは迷妄と愛着を生ぜしめます。若々しさは体にとってはとても望ましく見えますが、心にとっては破壊的です。青年期、人は幸福の蜃気楼に誘惑され、その追及の中で彼は悲しみの井戸に落ちます。それゆえ、私は青年期に魅了されません。

 ああ、青年期が体から去ろうという時でさえ、青年期に呼び起こされた情欲はさらに猛烈に燃え、速やかな破滅を人にもたらします。この青年期に喜びを感じる者は、きっと人ではなく、人間の衣をまとった動物です。

 彼らは崇敬に値します。彼らは偉大な方々です。彼らだけです。青年期の邪悪によって打ち負かされず、その誘惑に屈服することなくその人生の段階を生き延びた人々は。なぜなら、大海を渡ることは簡単ですが、青年期の好悪に打ち負かされることなく、その彼岸に達することは実に困難であるからです。

 -ラーマは続けました
 青年時代、人は性的魅力の奴隷です。血肉、骨、髪、皮膚の集合物でしかない体の中に、彼は美と魅力を感じます。仮にこの『美』が永続的であるなら、その想像にもいくらか正当性があるでしょう。しかし、ああ、それはそう長くは続きません。逆に、すぐに、その魅力に貢献したその肉は、最愛の人の魅力と美は、まずは老年期のしなびた醜さに姿を変え、後には火や虫やハゲワシに食い尽くされます。にもかかわらず、それが持続する間、この性的魅力は人の心と知恵を食い尽くします。この魅力がやむとき、このサンサーラもやみます。

 子供がその幼少期に不満なとき、青年期が引き継ぎ、青年期が欲求不満に悩まされているとき、老年期がそれを打ち負かします-なんと人生は残酷なのですか。風が葉から露をはじき出すのとまさしく同様に、老年期は体を破壊します。一滴の毒が体に入ればすぐに広がるのとまさしく同様に、老いはすぐに全身に広がり、それを破壊し、それを他の人々の物笑いの種にします。

 老人は欲望を身体的に満たすことができませんが、欲望そのものは繁茂し、増大します。人生の流れを変えるには、生活態度を変えるには、人生をより意義深いものにするにはあまりにも遅すぎるとき、彼は自問し始めます-「私は誰なのか。私は何をすべきなのか」など。老いの始まりとともに、せき、白髪、息切れ、消化不良、やつれど、全ての身体的衰弱の痛ましい兆候が現れます。

 おそらく、死を統括する神が塩をまぶしたメロンのような老人の白い屋根付きの頭を見て、それを手に入れようと駆けつけるのでしょう。洪水が川岸の木々の根を切り払うように、老いは命の根を力いっぱい切断します。後には死が続き、それを運び去ります。老いとは、死なる王を先導する国王の従者のようです。

 ああ、それはなんと不可思議で、なんと驚くべきことなのですか!敵に打ち負かされておらず、到達しがたい山頂に居を構えている彼ら-彼らでさえ老いと衰退なる女悪魔に悩まされています。

 -ラーマは続けました
 狂人が感じる鏡に映った果物の味の楽しみのように、この世界の全ての楽しみは錯覚です。この世の人の全ての希望は、時によって終始破壊されています。時のみが、おお、賢者よ、この世の万物をすり減らします。創造の中で、時の手の届かない物は何もありません。時のみが無数の世界を創造し、瞬く間に万物を破壊します。

 年月、年代、時代としての部分的な現れを通じて、時はそれ自身を垣間見ることを許しますが、その本質は隠されています。この時は万物を圧倒します。時は冷酷無情で、欲深く、飽くことを知りません。時は最も優れた奇術師であり、人を欺く手品でいっぱいです。この時は分析できません。なぜなら、どれほど分割されようとも、それは依然破壊されずに存在し続けるからです。それは万物に対して飽くことを知らない食欲を持ち-最も小さな虫、最も大きな山々、そして天界の王さえ、それは食べ尽くします!少年が気晴らしにボールで遊ぶのとまさしく同様に、時は気晴らしに太陽と月として知られる二つのボールを使います。まさにこの時のみが、宇宙の破壊者(ルドラ)、世界の創造者(ブラフマー)、天界の王(インドラ)、富の主(クベーラ)、宇宙の消滅の無として現れます。まさにこの時が、何度も何度も世界を次々に創造し、解消します。力強い巨大な山でさえ大地に根を下ろしているのとまさに同じように、この力強い時もまた絶対的存在(ブラフマン)に打ち立てられています。

 時は無限の宇宙を創造しますが、うんざりすることも、喜ぶこともありません。それは行くこともなく、生じることもなく、沈むこともありません。

 美食家である時は、この世の対象物が太陽の炎によって熟されているのを知っています。そして、完全に熟していると分かれば、それを食い尽くします!時の楽しみのために、いわば、色とりどりの存在なる可愛らしい宝石によってそれぞれの時の時代は装飾されており、時はその全てを戯れに一掃します。

 若々しさなる蓮華にとって、時は夕暮れです。寿命なる象にとって、時はライオンです。この世界には、高いものであれ、低いものであれ、時に破壊できないものは何もありません。この全てが破壊されたときでさえ、時は破壊されません。あたかも無知の中にいるように、一日の活動の後、人が眠りにつくように、宇宙の解消の後、時もまたその中に隠された創造の潜在性とともに眠りにつきます。誰もこの時とは何か分かりません。

 -ラーマは続けました
 私が今説明した時に加えて、誕生と死の原因となる別の時があります。人々は死を統括する神とそれを呼びます。

 さらにまた、クルターンタ-行為の終わり、行為の必然的結果、結実として知られる、この時の別の側面があります。このクルターンタはダンサーのようであり、その妻としてニヤティ(自然法則)を伴っています。二人は連携して、全ての存在にその行為の必然的結果を授けます。世界の存在過程の間、彼らはその勤めに倦むことなく、瞬きもせずに警戒し、その熱意は衰え知らずです。

 そのように時がこの世で踊り、万物を創造し、破壊しているとき、どのような希望を我々は抱けますか。クルターンタは信仰心が篤い人々にさえ幅を利かせ、彼らを落ち着きなくさせます。このクルターンタのために、この世の万物は絶え間なく変化を経験しています。ここに不変のものはありません。

 この世の全ての存在は邪悪に汚染されています。全ての関係性は束縛です。全ての楽しみは大病です。そして、幸福への望みははかない夢でしかありません。自分自身の五感が自らの敵です。現実は非現実になっています。自分自身の心は自らの最悪の敵になっています。自我は邪悪の第一の原因です。知恵は乏しく、全ての行為は不快に通じます。そして、楽しみは性的に方向づけられています。知性が自我を支配するのでなく、知性が自我に支配されています。それゆえに、心に安らぎも幸福もありません。青年期は衰えゆきます。聖者との交際は稀です。この苦しみから抜け出る道はありません。真理の実現は誰の中にも見られません。誰も他人の繁栄と幸福を喜ばず、誰の心の中にも慈悲は見つかりません。人々は日ごとにますます卑しくなっていきます。弱さが強さに打ち勝ち、臆病が勇気を圧倒しています。邪悪な交際はたやすく得られ、良き交際は手に入れるのが困難です。時はいずこに人類を追いやろうというのか私は不思議に思います。

 聖者よ、この創造を支配する、この不可思議な力は、力強い悪魔さえ滅ぼし、永遠であると思われていたものからその永続性を奪い、神々ですら殺害します。では、私のような無知な者に何か希望がありますか。この不可思議な存在は全てに住しているようであり、その個人化された側面が自我としてみなされ、それによって滅ぼされないものは何もありません。全宇宙はその支配下にあり、その意思のみがここにはびこっています。

 -ラーマは続けました
 おお、賢者よ、そのように幼少期にも、青年期にも、老年期にも人は幸福を享受できません。この世の対象物はどれも誰にも幸福を与えないようになっています。この世の対象物の中にそのような幸福を見つけようと心はいたずらに努めます。自我を免れ、感覚的快楽への渇望に揺り動かされない者のみが幸福です。しかし、そのような人はこの世で極めて稀です。実に、強力な軍勢とうまく戦うことができる者を私は英雄とみなしません。心と五感として知られる大海を渡ることができる者のみを私は英雄とみなします。

 私はすぐ失われるものを『獲得』とみなしません。失われないもののみが獲得であり-どれほど努力しようとも、この世界でそのような獲得は手に入れられません。その一方で、探し求めずとも、つかの間の獲得と一時的な災難は人に訪れます。尊者よ、一日中、人があちらこちらをうわべは忙しそうに歩き回り、四六時中、利己的な活動に従事し、日中、善行の一つも行わないのに、依然、夜眠ることができることに私は当惑します!

 それでも、たとえその忙しい人が彼の地上の敵全員に打ち勝ち、富と豪奢で彼自身を囲っても、そして、自分は幸福だと彼が自慢するときでさえ、死は彼に忍び寄ります。どのようにそれが彼を見つけるのかは、神のみぞ知るところです。

 無知の中、人は自分自身を妻、息子、友人に縛り付けます。この世は巨大な巡礼地であり、そこで無数の人々が偶然に集まったということを彼は知りません。そして、彼が妻や息子や友人と呼ぶ者たちは、彼らの中にいます。

 この世界は陶工のろくろのようです。恐ろしい速さで回転していても、ろくろは静止しているかのように見えます。そのように、惑わされた人にとっても、絶え間なく変化しているという事実にもかかわらず、この世界は安定しているように見えます。この世界は毒のある木のようです。それに接触する人は殴られて気絶し、麻痺します。この世界の全ての見方は汚れています。この世界の全ての国は邪悪の領土です。世界の全ての人々は死に従属しています。全ての行為は欺瞞的です。

 多くの劫(こう、カルパ)がやって来ては去ります。それは時の中で瞬間でしかありません。なぜなら、ユガと瞬間の間に本質的な違いはなく、両方とも時間の尺度であるからです。神々の視点からは、ユガでさえ瞬間でしかありません。そのように、全大地は土の要素の変形でしかありません!それに信頼や希望を託すのはなんとむなしいことなのでしょうか!

 -ラーマは続けました
 おお、聖者よ!この世で永続するように、もしくは、移ろいやすく見えたりするものは何であれ-それは夢も同然です。今日、噴火口であるものは、以前は山でした。今日、山であるものは、間もなく大地の穴になります。今日、鬱蒼とした森であるものは、すぐに大都市に姿を変えます。今、肥沃な土壌であるものは、不毛の砂漠になります。人の体における、生活様式における、運勢における変化も同様です。
 
 この生と死の循環は熟練のダンサーのように見えます。彼女のスカートは生ける生命で作られ、その踊りの身振り手振りは、生命を天に持ち上げ、地獄に投げ落とし、この地に連れ戻すことから成り立ちます。全ての素晴らしい行為、人々がここで行う重要な宗教儀式さえ、すぐに記憶でしかなくなります。人間は動物として生まれ、その逆もまた然りです。神々はその神聖さを失います-ここで何が変化していないのですか。創造者ブラフマー、保護者ヴィシュヌ、救済者ルドラなどでさえ容赦なく破壊に向かってるのを見ます。彼がこの不可避の破壊を思い出すまでだけは、この世で感覚対象は人にとって心地よく見えます。土遊びをする子供が土の塊で様々な作品を作るのとまさに同じように、全世界の支配者は新たなものを作り続け、すぐにそれを壊し続けます。

 世界の欠陥のこの認識は私の心の中の望ましくない傾向を破壊しました。それゆえに、蜃気楼が水面上に現れないのとまさしく同様に、感覚的快楽への欲望は私の心に生じません。この世とその喜びは私にとって苦々しく思われます。私は快楽の園(その)をさまようことを好みません。私は女の子たちとの交際を楽しみません。私は富の獲得を評価しません。私は私自身の内に安らかなままありたいと思います。私は絶えず尋ねています。『どうすれば私は世界と呼ばれるこの常に変化する幻影について思うことからさえ私の心を引き離せるのか』。私は死を熱望せず、生きたいとも熱望しません。愛欲の熱を免れ、私はあるがままにあります(『私はある』として留まります)。王国や楽しみや富を私はどう扱えばいいのでしょうか。その全ては私の内にはない自我の遊び道具です。

 私が今、知恵に打ち立てられないなら、いつ別の機会が生じるでしょうか。なぜなら、感覚的快楽への耽溺は、その効果が複数の生涯にわたり続くような形で、心を毒すからです。自らの知を持つ者のみがこれを免れています。それゆえに、おお、賢者よ、あなたに願い求めます。私が苦悶、恐怖、悲嘆を永遠に免れるよう私を教え導いでください。あなたの教えの光でもって、私の心の中の無知の暗闇を滅ぼしてください。

 -ラーマは続けました
 そのように悲しみの恐るべき落とし穴に落ちた、この生ける者の哀れな定めを熟慮することによって、私は深い悲しみでいっぱいです。私の心は混乱し、ぞっと身震いし、一歩ごとに恐れています。私はあらゆるものを放棄しましたが、私は自分自身を知恵に打ち立てていません。それゆえに、私は一部分は捕われ、一部分は解放されています。私は伐られてはいるが、根っこから断たれていない木のようです。私は心を抑制したいと思いますが、そうするための知恵がありません。

 それゆえ、どうぞお教えください。人がどのような悲痛も経験しない、かの境地とは何ですか。私のように世界とその活動に巻き込まれた人が、どうすれば安らぎと至福の至高なる境地に達せられますか。様々な種類の活動と経験よって影響されないことを人に可能にする態度とは何ですか。どうぞお教えください。あなたがた悟りを開いた人々はどのようにこの世で生きるのですか。どうすれば心を愛欲から解放でき、世界を自分自身の自らと、同時にまた一本のわらと同程度の価値しかないと心にみなさせることができますか。知恵の道を学ぶために偉大なる方の伝記を学べばいいのでしょうか。この世で人はどのように生きるべきでしょうか。尊者よ、私の落ち着きのない心が山のように安定することを可能にするであろう、かの知恵を私にお教えください。あなたは悟りを開いた存在です。二度と私が悲痛に沈まぬように私を教え導いてください。

 明らかにこの世は苦しみと死で満ちています。心を酩酊させなければ、どうしてそれが喜びの源になるでしょうか。心は明らかに不浄で満ちています。どうすればそれは清められますか。どの偉大な賢者によって処方された、どの洗剤によってですか。愛憎なる対をなす流れの餌食になることがないように、どのように人はここで生きるべきですか。水銀が火の中に投げ込まれたときに影響されないのとまさしく同様に、明らかに、この世の悲痛と苦しみによって影響されないままでいることを可能にする秘訣があります。その秘訣は何ですか。この世界の形をとって広げられた心の習慣を打ち消す秘訣とはなんですか。

ヴァールミーキは言った:
 そのように言った後、ラーマは沈黙を守りました。

ヴァールミーキは言った:
 宮廷に集まっていた全ての人々は、心の迷妄を払いのけうる燃えるようなラーマの知恵の言葉に触発されました。彼らは自分自身が一切の疑いと思い違いから脱しているかのように感じました。彼らは大いに喜んで神酒のごときラーマの言葉を飲みました。ラーマの言葉を聞きながら彼らが宮廷に座ったとき、彼らはもはや生き物ではなく、彩色された彫像であるかのように見えました。彼らは一心不乱で、とても静かにいたからです。

 誰がラーマの談話に耳を傾けたのでしょうか。ヴァーシシュタやヴィシュヴァーミトラのような賢者、大臣、ダシャラタ王を含む王族の成員、市民、聖者、召使、籠の中の鳥、ペットの動物、王家の馬小屋の馬、そして、完成された賢者と天界の音楽家を含む天人たちです。確かに、天界の王や地下世界の首長たちさえもラーマの言葉に耳を傾けました。

 ラーマの演説を聞いて感激し、彼ら皆は声をそろえて「あっぱれ、あっぱれ」と喝采を送り、この喜ばしい声は大気を満たしました。ラーマを祝うために、天から花々が降り注ぎました。宮廷に集まった全員が彼を喝采しました。確かに、離欲に満ちたラーマ以外の誰も-神々の師でさえ-彼が表した言葉を発することはできなかったでしょう。彼の言葉に耳を傾けられるとは、我々は実に極めて幸運でした。我々が彼に言葉に耳を傾けている間、我々は天界にさえ幸福は存在しないという感情で満たされたかのように思えました。

 -集会の中の完成された賢者たちは言いました
 聖者らがラーマの重みのある賢明な問いに与えようとする答えは、確かに、世界の生きとし生けるものに聞かれるにふさわしい。おお、賢者らよ、来たれ、来たれ。至高の賢者、ヴァーシシュタの答えに耳を傾けるために、ダシャラタ王の宮廷にみな集ろうではないか。

ヴァールミーキは言った:
 これを聞き、世界の全ての賢者は宮廷に馳せ参じ、ふさわしく歓迎され、讃えられ、宮廷に座しました。確かに、我々の心の中でラーマの気高い知恵が熟慮されないなら、我々はまさしく敗北者になるでしょう。我々の能力や才能が何であれ、我々が知性を失っていることをそれによって我々は証明するでしょう!