12.辞職と放棄
信奉者:
私は勤めを辞め、常にシュリー・バガヴァーンと共に留まる気が大いにあります。
バガヴァーン:
バガヴァーンはいつもあなたと共に、あなたの内にあり、あなた自身がバガヴァーンです。これを悟るために、職を辞したり、家を飛び出す必要はありません。放棄とは、習慣、家族の絆、家などから見かけの上で逃れることではなく、欲望と愛着の放棄を意味します。職を辞す必要はありませんが、すべて(の者)の重荷を背負う方である彼(神)にあなた自身を譲り渡しなさい。
欲望などを放棄した者は、実のところ、世界に溶けこみ、その愛を全世界に広げているのです。神のまことの信奉者にとって、愛の広がりのほうが放棄よりもはるかによい言葉でしょう。なぜなら、身近な絆を捨てた者は、実際、カーストや信条や人種を超え、より広い世界に愛の絆を広げているからです。見かけの上で衣を投げ捨て、家を去ったサンニャーシは、身近な関係への嫌悪からではなく、彼の周りの他の人々へ愛を広げたからそのようにしたのです。
この(愛の)広がりにいたる時、彼は家から逃げ出していると感じず、熟した果実が木から落ちるように、彼は家から落ちます。その時まで、家や職を去るのは愚かなことでしょう。
信奉者:
すべての人が神を見れますか。
バガヴァーン:
ええ。
信奉者:
私は神を見れますか。
バガヴァーン:
ええ。
信奉者:
神を見るための私の導き手は誰ですか。私には導き手が必要ではないでしょうか。
バガヴァーン:
誰がラマナーシュラマムへのあなたの導き手でしたか。誰の導きによって、あなたは世界を日々見ていますか。神とは、体と心と知性を超えるあなた自身の自らです。あなた自身が世界を見ることができるのとちょうど同じように、熱心に努力するならば、あなたの自らも見ることができます。あなたの自らのみが、その探求においても導き手なのです。
◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』
Talk 164. (p144 抜粋)
信奉者:
放棄とは何ですか。
マハルシ:
自我を捨て去ること。
信奉者:
所有物を捨て去ることではないのですか。
マハルシ:
所有者も。
信奉者:
他者の利益のために人々が所有物を捨て去るならば、世界は変わります。
マハルシ:
はじめに、あなた自身を捨て去り、それから、後のことを考えなさい。
Talk 251. (p217、218)
信奉者:
サンサーラ(*1)にいながらでさえも、私は聖なる修練に取り組めますか。
マハルシ:
ええ、もちろん。そのようにすべきです。
信奉者:
サンサーラは妨げになるものではありませんか。すべての聖典は放棄を提唱していませんか。
マハルシ:
サンサーラは、あなたの心の中だけにあります。世界は、「私が世界である」と言って、大声で話しません。そうでなければ、あなたが眠る時を除外せずに世界は常にそこにあるはずです。世界は眠っている時に存在しないため、永続的ではありません。永続的でないため、持久力がありません。持久力がないため、自らによって容易く征服されます。自らのみが永遠です。
放棄とは、自らと非‐自らの非同一化です。無知が消滅すると同時に、自らでないものは存在しなくなります。それが本当の放棄です。
信奉者:
では、あなたはどうして青年時代に家を離れたのですか。
マハルシ:
それは私のプラーラブダ(*2)です。今生での人の行為の経過は、プラーラブダにより決定されています。私のプラーラブダはこのようです。あなたのプラーラブダはそのようです。
信奉者:
それでは、私もまた放棄すべきではないのですか。
マハルシ:
仮にそれがあなたのプラーラブダであったならば、その疑問は起こらないでしょう。
信奉者:
それでは、私は世俗に留まり、聖なる修練に取り組むべきです。では、私は今世で悟りを得られますか。
マハルシ:
それはすでに答えられています。あなたはいつも自らです。熱心な努力はけっして失敗しません。成功が必ず訪れます。
信奉者:
マハルシが私にも恩寵を施して下さりますように!
マハルシは微笑み、「ウム!ウム!」と言いました。祝福の言葉と挨拶をもって、対話は終わりをむかえ、一行はすぐに出発しました。
(*1)サンサーラ・・・サンスクリット語。文字どうりの意味は、「継続した流れ」で、生まれ・生・死・転生の繰り返されるサイクルを表す。一般的な使用法では、人間が従事しなければならないさまざまな世俗的活動と、そこから生まれるさまざまな苦しみを意味する。
(*2)プラーラブダ(カルマ)・・・今世で働くように割り当てられた過去のカルマ(行為)の結果。
Talk 581. 1938年11月19日 (p556)
子供が両親からシュリー・バガヴァーンに差し上げられるためのものを手に持っていた時、彼らはその子にうまく言ってシュリー・バガヴァーンに差し上げさせました。子供は喜んでそうしました。シュリー・バガヴァーンは言いました。
「ご覧なさい!子供がジェジャ(神)にもの差し上げることができる時、それはトゥヤーガ(*1)です。何という影響をジェジャが子供にも与えるのかご覧なさい!すべての贈り物は、無私性を暗に意味します。それはニシュカーマ・カルマの真意そのものです。それは真の放棄を意味します。与える性質が発達するなら、それはトゥヤーガになります。何かが喜んで与えられるなら、それは与える者と受け取る者にとって喜びになります。同じものが盗まれるなら、両者にとって苦しみになります。ダーナ(*2)、ダルマ(*3)、ニシュカーマ・カルマ(*4)はすべてトゥヤーガのみです。「私のもの」が放棄される時、それはチッタ・スッディです。「私」が放棄される時、それはジニャーナです。放棄するという性質が発達する時、それはジニャーナに帰着します」。
また少し後で、男の子が両親に付き添われず、ひとりっきりでやって来ました。彼はチェンガムからバスでやって来ました。シュリー・バガヴァーンは、「その男の子はここに来るために両親から離れました。これもまたトゥヤーガの例です」と言いました。
(*1)トッヤーガ・・・放棄
(*2)ダーナ・・・布施、与えること
(*3)ダルマ・・・正しい行い、義務など
(*4)ニシュカーマ・カルマ・・・無欲の行い