2013年6月12日水曜日

カルマ・サンニャーサ(行為の放棄)の真意、アスラ・ヴァーサナーとは何か

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』 

1949年1月19日

(219) 自ら


 今朝、私がアーシュラムへ行った時には、信奉者が何か尋ねており、バガヴァーンは、「はじめに、あなたが誰か見出しなさい」と答えていました。

信奉者:
 「私は誰か」という自らの探求を始める前に、全ての行為を放棄すること(カルマ・サンニャーサ)は必要ですか。

バガヴァーン:(微笑んで)
 サンニャーサについてのあなたの考えは何ですか。座る、立ちあがる、歩き回る、食べるは、カルマ(行為)です。その内のどれをあなたは放棄するつもりですか。それゆえに、古代の人がカルマ・サンニャーサについて語る時、「はじめに、『私は行為者である』という感覚を放棄しなさい」と言うのです。

信奉者:
 シャンカラーチャーリヤは、カルマ・サンニャーサを重要視しています。

バガヴァーン:
 ええ、そうです。しかし、その時、彼でさえカルマ(行為)を行っていました。彼はあちらこちらへ、村から村へと行き、アドヴァイタ(不ニ)の教義を確立しました。当時、鉄道はありませんでした。彼は徒歩で行きました。その全てはカルマではないですか。その意味は、人がジニャーニになる時、彼が何をなそうとも何も彼に影響しないということです。彼は世界の福利のために全てのことを行います。彼、ジニャーニは、自我、つまり、「私が全てを行っている」という感覚だけを放棄しています。『バガヴァッド・ギーター』で、クリシュナ・バガヴァーンは言いました。

もし私が行為を行わないならば、これらの世界は滅びる
それどころか、私は必ずやカーストの混乱とこれらの人々の滅びを作り出す者となる

If I do not perform action, these worlds will perish; 
nay, I should be the author of confusion of castes and of the destruction of these people.
(Gita, III: 24)

アルジュナよ、賢明でない者が愛着を持って行為するように
賢者も、世界の秩序の維持を求め、愛着なく行為すべきである

Arjuna, as the unwise act with attachment, 
so should the wise man, seeking maintenance of the world order, act without attachment.
(Gita, III: 25)

 その意味は、もし私が行為を行わなければ、他の誰も行為を行わない。カーストの混乱が起こる。どうして私がその原因となるべきなのか。それゆえに、私は全ての行為を行っている。無知な人々は欲望を持って行為するが、私は無欲で行為をなす。それが趣旨です。それゆえ、カルマ・サンニャーサは、人は五感の属性とカルマの属性の違いを知り、その知識により無欲に留まり、同時に全ての行為に無執着で、目撃者としてのみ身を処すべきであるという意味です。これがカルマ・サンニャーサです。上辺だけのサンニャーサは、たいして役に立ちません。

信奉者:
 しかし、主クリシュナは彼がカルタ(行為者)であり、彼がボークター(受楽者)であると言っています。

バガヴァーン:
 そうです。彼はそのように言いました。しかし、マハートマーがカルトゥルトヴァム(行為者性)とボークトゥルトヴァム(受楽者性)について語る時、それは異なります。彼らにとって、アハムは自ら(スワルーパ)を意味します。それは、「私は体である」と言う「私」ではありません。

アルジュナよ、私は全存在のハート(核心)に座す自らである
私は全存在の始まりであり、中間であり、そして終わりでもある

Arjuna, I am the Self seated in the heart of all beings. 
I am the beginning and the middle and also the end of all beings.
(Gita, X: 20)

 「私」と呼ばれるものは、全てに行き渡る自ら(アートマン)です。聖者が「私」として語るものとは、自らのみと体の働きです。無知な人々が語る「私」とは、体についてであり、それはアスラ・ヴァーサナーです。彼らは「私はイーシュワラである。私は崇拝されるべきだ」と言います。彼らがそれを言う時、彼らは困ったことになっています。このアスラ・ヴァーサナーについて、三つのスローカ(詩節)が『ギーター』の16章において簡潔に記されています。『ヴァスデーヴァ・マナナム』では、1章全体がそのテーマに費やされています。古代の人がイーシュワラであると主張する時、彼らはこの体について話していません。自らそのものがイーシュワラです。それがブラフマン、アートマン、その他の一切です。常に存在するものが、アハムです。『ブラフマー・ギーター』によれば、在ること(To be)がブラフマンです。存在しないもの(that which is NOT)が、マーヤーです。あなたが存在しないものを見るならば、在るもの(that which IS)はありのまま留まります。あなたがあなたの自らである在るものを実現する時、それほど多くの質問は起こりません。

1949年4月13日

(238) アスラ・ヴァーサナー


 シュリー・ヨーギ・ラマイアーが一週間前ぐらいにここに来ました。今朝、バガヴァーンの前に座って、彼は「バガヴァーン、ある人々は『我々はジニャーニとなった。我々はジーヴァンムクタの境地にいる』と言います。しかしながら、彼らは1分間さえ静かに座っておらず、いつも歩き回っています。どうして彼らがジーヴァンムクタでありうるのですか」と言いました。バガヴァーンは、「それがどうかしましたか。ナーラダやその他の人はジーヴァンムクタではありませんか。人が世界を巡り歩くならば、ジーヴァンムクタの境地に何か問題があるのですか。全てのことは、人のプラーラブダに応じて起こります」と言いました。

 「そうではないのです、バガヴァーン。ナーラダのような人々は、ジーヴァンムクタになった後、世界の福利のために神々の歌を歌いながら世界を巡り歩きました。その人たちは、そのようではありません。彼らはラーガ(欲)とドヴェシャ(怒り)に満ちたあらゆる世俗的な事柄に関わり、ジニャーニやジーヴァンムクタであると主張します。どうしてそんなことがありえますか」とその信奉者は言いました。

 「それがあなたの尋ねることですね」とバガヴァーンは言いました。「分かりました。それは全てアスラ・ヴァーサナー(悪魔的傾向)として知られています。それはユーモアたっぷりに『ヴァスデーヴァ・マナナム』に記されています。待ってください。それを読んでもらいましょう」。そのように言って、バガヴァーンは『ヴァスデーヴァ・マナナム』の写しをヴェンカタラトナムに持ってくるように頼みました。アスラ・ヴァーサナーに関する章を取り出し、彼に読むように頼み、バガヴァーンは、「いいですか。あなたは注意して、笑わないで読まなければいけません。あなたはまた独り言をつぶやくのではなく、声に出して読まねばなりません。さあどうぞ。もう笑い始めましたね。笑わないで読むように」と言いました。彼はどうにか笑いをこらえ、読み始めました。私はその要約だけを書き留めます。

 サーダカにとってアスラ・ヴァーサナーに関連する障害は、彼がそれを取り除いたと感じても頻繁に現れる。例えば、彼は(次のように)言うだろう。

 「あなたは堕落したヨーギである。無用な人よ。それが儀式を行う方法なのか。それに疑いの余地はない。これらの儀式をあなたに教えたグルさえもブラシュタ(堕落した人)である。明日から私の前に来るな。去れ。

 君よ!私の前で平伏し、あなた自身を救え。我々の蓮華の足から聖なる水をとり、あなた自身を救え。我々に仕える以外に、どのようなヴェーダについての探求が必要なのか。あなたが我々を崇拝するならば、あなたの全ての望みは満たされる。我々以外の他の誰にも仕えるな。君よ、あなたが持っている全てのものをここの人々の内の1人に与えないならば、我々のもとに来るな。見よ!ある人は我々を世話しなかった。それゆえ、我々は彼が長く生きられないと言った。そこで直ちに、彼は灰に帰した。同じように、別の人は一切の富を失った。また別の人は我々からウパデーシャを受け、我々を世話しなかった。それゆえ、その後、灰に帰した。我々のように偉大な人々以外、いったい誰が我々の偉大さを知ることができるのか。我々は過去、現在、未来を知っている。我々は常に世界を守護している。我々は沢山お金をかせぎ、それを施しに使った。我々は各々すべての個人の心の中にある望みを知っている。それらの望みはやってきて、我々の前に立つ。我々はいつある人が問題に巻き込まれるか、いつ別の人が莫大な富を得るか知っている。この方法で、我々は確実に未来に起こることを知るようになる。私はシッダである。私はイーシュワラである。誰が私より優れているのか。全ての人が私に仕えねばならない。私を通じてのみ、人々は望みを満たせる。彼らが我々を通じて望みを満たそうとしないならば、彼らは罪の井戸へと落ちる。彼らはすぐにグルにそむく罪を犯す。気をつけよ。」

 そういうことがもう少し記され、その章は「ラーガとドヴェシャのような感情は、聖なるものを熱望する者たちの進歩を妨げる原因であり、モークシャを得ようと熱望する者たちは『自らの探求』を修練し、それらの感情を捨て去らねばならない。シュラヴァナ、マナナなどのような修練を保つならば、彼は今世の間にモークシャを得ないかもしれないが、その修練は無駄にならない。彼はそれを通じてウッタマローカ(より高い生)へ入り、シュラヴァナ、マナナやそのような修練を繰り返すことにより、やがてはジニャーナを得る」と述べ、締めくくっています。

  ヴェンカタラトナムがこの章を読み終えた後、バガヴァーンは始めに質問を尋ねた信奉者の方を見て、「さあ今や、あなたは全てを聞いたのではないですか」と笑って言いました。信奉者は、「はい。聞きました。しかし、障害がある時、シュラヴァナ、マナナなどを修練しても、モークシャを得ることはないと述べられています。それらの修練が無駄になることはなく、より高い生へと導くとも述べられています。しかし、シュラヴァナ、マナナなどを修練せず、不正な行いを続けるならば何が起こるのですか」と尋ねました。

 「それは彼の破滅の原因となります。自らの帝国を失い、1万年の間、アジャガラ(大蛇)のままであったナフシャについて聞いたことはありませんか」とバガヴァーンは答えました。

0 件のコメント:

コメントを投稿