2013年5月12日日曜日

「ダクシナームールティへの賛歌(Dakshinamurti stotra)」

◇「山の道(Mountain Path)」、2013年6月 p79~84
 バガヴァーン・ラマナ・マハルシは、シュリー・シャンカラーチャーリヤによるサンスクリット語で記された「ダクシナームールティへの賛歌」をタミル語に翻訳しました。以下の前書きと紹介は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からの翻訳であり、賛歌の英文は、マリー・トンネール(Marye Tonnaire)さんによるものであり、上記の「Mountain Path」に掲載されました。
 以下の第2~第11詩節に記されたサンスクリット語の音写と単語の意味は、「Shri Dakshinamurti Stotram」からです。日本語訳は、バガヴァーン自身の賛歌への注釈(「Dakshinamurthy Stotra)を参考にして、英文通りに訳していない所があります(文:shiba)。
歌:Uma Mohan、以下の賛歌の2詩節から11詩節まで

ダクシナームールティへの賛歌

シュリー・バガヴァーンによる紹介

 ブラフマー(四つの顔を持つ神)は、彼の思いの力によって、サナカ、サナンダナ、サナトクマーラ、サナトスジャータという名の四人の息子を生み出しました。彼は世界を創造し、維持するなどの務めに従事するよう彼らに頼みましたが、彼らはそれに興味がなく、まったく無関心でした。彼らは安らぎと静穏を探して放浪しました。彼らの愛着から離れることが極まり、(聖なる教えを受け取るために)適切になったので、偉大なる慈悲の神シヴァは、ダクシナームールティ(南を向く神)という人間の姿でバニヤンの木の下に彼らの前に姿を現しました。彼は彼自身の中に吸収されて静かに座し、彼の右手はチンムドラーとして知られる仕草を表していました。鉄が磁石に引き寄せられるように、四人の探求者は彼に引き寄せられました。彼らは彼の前に座し、彼のように自らに吸収されました。進んだ修行者でさえ、この沈黙の境地を簡単には理解できません。世界、見る者、それが認識されるのを可能にする意識が障害物として立ちはだかっています。しかし、ただ一つの力(シャクティ)こそがそれら三つとして現れ、再びそれ自身にそれらを引き入れるので、一切は自らである、その力です。シャンカラーチャーリヤはこの真理を、以下の賛歌で開示しました。

祈り

偉大な修行者らに安らぎを授けるためにダクシナームールティとして現れ、その沈黙なる真の境地を明らかにし、自らなる本質をこの賛歌の中に表した、かのシャンカラは私の内に住している。

賛歌

1.
永遠に若々しく、完全な知を示す手の仕草(チンムドラー)と晴れやかな顔つきをし、その姿が至福であり、彼自身の自らの内に楽しむダクシナームールティを称賛せん。彼を囲むのは、至高なる自らへの献身に堅固である最も有能な老齢のリシたちである。彼は最上の師であり、沈黙を通じて至高のブラフマンなる本質を明らかにする。

Let us worship Dakṣiṇāmūrti, the eternal youth, with the hand-pose of perfect knowledge (cinmudrā) and a radiant countenance, whose form is bliss and who revels in His own Self. Surrounding Him are the most eminent and aged rishis who are steadfast in their devotion to the Supreme Self. He is the best among teachers, revealing through silence the nature of Brahman.

2.
To the one who sees the universe within Himself like a city that is reflected in a mirror but due to (the play of) Māyā, appears to exist externally as if in a dream, and Who, upon awakening, has the direct experience (of the universe) as His own non-dual Self. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        viśvaṁ darpaṇa-dṛśyamā nanagarītulyaṁ nijāntargataṁ
        paśyan-nātmani māyayā bahiriv-odbhūtaṁ yadā nidrayā |
        yaḥ sākśāt-kurute prabodha-samaye svātmānam-evādvayaṁ
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)viśvaṁ =全世界、 darpaṇa(ṁ)=鏡、dṛśyamānaṁ=のように見える、nagarītulyaṁ=都市のように、nijāntargataṁ = 彼自身の内にある (2行目)paśyan = 見ている、ātmani = 彼自身の内に、māyayā =幻を通じ、bahiḥ = 外に、iva = ように、udbhūtaṁ = 存在・顕現した存在、yathā = このような方法で、nidrayā =眠りを通じて (3行目)yaḥ = ~である彼、sākśāt =目の前に、kurute=行う、prabodhasamaye = 目覚めている間、sva =自分自身の、ātmanāṁ=自ら、eva =それ自体、advayaṁ =不ニの自ら (4行目)tasmai = 彼に、gurumūrtaye=グルの中に具現化された神、namaḥ =拝礼する、idaṁ =この、dakśiṇāmūrtaye =ダクシナームールティ神へ

3.
種の中の芽のごとく初めは(自らの中に)分化せずに存在していた世界を、マーヤーのため虚偽に現れる空間、時間、行為の下で、魔術師や偉大なるヨーギのごとく、自分自身の意思によって、「不可思議な多数のもの」として外側に広げる方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

In the beginning the world is undifferentiated, but it blossoms forth like a sprout within a seed through the illusion (Māyā) that gives rise to time and space. By His own desire, like a magician or a great yogi, He projects this world which becomes manifold, as if changed into a picture of variegated names and forms. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        bījasy-āntar-iv-āṅkuro jagad-idaṁ prāṅ-nirvikalpaṁ punaḥ
        māyā-kalpita-deśa-kāla-kalanā-vaicitrya-citrīkṛtam |
        māyāv-īva vijṛmbhayaty-api mahāyog-īva yaḥ sv-ecchayā
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bījasya=種の、antaḥ =内に、iva =のように、aṁkuraḥ=芽、jagat =世界、idaṁ =この、prāṅ =初めは、nirvikalpaṁ=顕現しない、punaḥ =再び (2行目)māyā =幻、kalpita =作られた、deśa =空間、kālaḥ=時間、kalanā=計算、vaicitṛya =様々な、citrīkṛtam =絵の形で置かれた (3行目)māyāvīḥ =魔術師、 iva =のように、vijṛmbhayati =輝かしく表す、api =そして、mahāyogī =偉大なるヨーギ、yaḥ =~である彼、sva =自分自身の、icchayā =欲望により

4.
その方の光輝のみが虚偽に生じる事物の中で明瞭に輝き、彼を頼りとする人々に「汝はなり」というヴェーダの言葉を示し、彼を直接に見ることによって、生と死の無限の大海へ決して再び落ちることがない方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティーへ礼拝いたします。

To the one whose real effulgence shines forth even through unreal, non-existent objects. And who teaches the great Vedic injunction, “tattvamasi,” “That thou art,” leading to immediate and direct experience (of Truth). Those who seek refuge in Him will never again fall into the endless ocean of births and death. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        yasya-iva sphuraṇaṁ sad-ātmakam-asat-kalp-ārthakaṁ bhāsate
        sākśāt-tat-tvam-as-īti vedavacasā yo bodhayaty-āśritān |
        yat-sākśāt-karaṇād-bhaven-na punar-āvṛttir-bhav-āmbho-nidhau
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)yasya =その人の、sphuraṇaṁ =拍動する状態、sāda =いつも、ātmakaṁ =いつも内にいるそれ、asat =非現実な、kalpa =架空の、arthakaṁ =概念、bhāsate =輝く (2行目)sākśāt =目の前に、tat =それ、tvaṁ = 汝、 asi = である、iti = そのように、vedavacasā = ヴェーダの言葉を通じて、yo =~の彼、bodhayati =教える、āśritān =避難した人 (3行目)yat =~のあの物、sākśāt =目の前に作ることにより、karaṇāt =、bhavet =起こるだろう、na =ない、punaḥ = 再び、āvṛttiḥ =くり返し、bhava =誕生のサイクル、ambhasya =水、nidhau =大変な量の

5.
多くの穴が開いた壺の中に置かれた炎の輝きのごとく、その方の知が、目をはじめとする感覚器官を通じて、「私は知る」という意識として輝き出て、自ら光り輝く方である彼のみに従い、この全世界が輝く。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one whose effulgence is like the light of a great lamp inside a pot with many holes, pulsating outward through the gates of the five senses, shining forth as the awareness “I know” and reflecting the appearance of the entire world. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

        nānā-cchidra-ghaṭ-odara-sthitahā-dīpa-prabhā-bhāsvaraṁ
        ñānaṁ yasya tu cakśur-ādi-karaṇa-dvārā bahiḥ spandate |
        jānāmīti tam-eva bhāntam-anubhāt-yetat-samastaṁ jagat
        tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)nānā = 様々な、cchidraṁ =穴、ghaṭaḥ =壺、udaraṁ =お腹、stithaḥ =立っている、dīpaṁ =灯、prabhā =光、bhāsvaraṁ =明るい光 (2行目)jñānaṁ =知、yasya =その人の、tu =強調、cakśuḥ = 目、ādi =ここで、karaṇaḥ =感覚器官、dvārā = 通じて、bahiḥ =外に、spandate =振動する (3行目)jānāmi =知る、taṁ =彼、eva =のみ、bhāntaṁ = 光り輝く人、anubhāti =それと共に輝く、yetat =この、samastaṁ =全体、jagat = 世界

6.
めめしく、子供っぽく、見る目がなく、鈍い人々のように、体、生命力、五感、知性、無のみを「私」をとして知る、のぼせあがった無意味に論じる者たちの大いなる混乱によって生じたマーヤーの力を破壊する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

There are those who talk too much, identifying the “I” with the body, breath, senses, the active mind or the void. They are misguided like women, children, the blind or dull people. To the one who destroys the great delusion due to the imaginary play of Māyā Sakti. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       dehaṁ prāṇam-ap-īndriyāṇy-api calāṁ buddhiṁ ca śūnyaṁ viduḥ
       strī-bāl-āndha-jaḍ-opamāstv-aham-iti bhrāntā bhṛśaṁ vādinaḥ |
       māyā-śakti-vilāsa-kalpita-mahā vyāmoha-saṁhāriṇe
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)dehaṁ =体、prāṇaṁ =生命力、api =そして、īndriyāṇi = 感覚器官、calāṁ = 変化する、buddhiṁ =知性、ca =そして、śunyaṁ =無、viduḥ =理解する (2行目)strī =女性、bālaḥ =子供、andhaḥ =盲目、jaḍaḥ =愚か者、upamāḥ =相当する、tu =強調、ahaṁ =私、iti =そのように、bhrāntāḥ =のぼせあがった、bhṛśaṁ =無駄に、vādinaḥ =論じる人 (3行目)māyā =幻、śaktiḥ = 力、vilāsa =戯れ、kalpita =作られた、mahā =偉大な、vyāmoha =のぼせあがり、saṁhāriṇe =破壊者

7.
ラーフにより捕らえられた太陽や月のごとく、マーヤーによる覆いのため個人となり、広がった心が退く時に眠り、心が広がり、目覚める時、「今まで眠っていた」という形で自らの存在を認識する方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one who remains as Pure Being in deep sleep, when the senses are withdrawn by Māyā, like the sun and moon are obscured by Rāhu (during an eclipse) and who upon waking recognizes, “It is ‘I’ who have slept till now.” Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       rāhu-grasta-divākar-endu-sadṛśo māyā-samācchādanāt
       san-mātraḥ karaṇ-opa-saṁharaṇato yo'bhūt-suṣuptaḥ pumān |
       prāg-asvāpsam-iti prabodhasamaye yaḥ pratyabhijñāyate
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)rāhuḥ =ラーフの星、grasta =掴まれた、divākaraḥ =太陽、induḥ =月、sadṛśaḥ =似ている、māyā =幻、samācchādanāt =覆われた (2行目)sat =実在 、mātraḥ = ただ一つの、karaṇa =感覚、upa =前につける、saṁharaṇataḥ =よく引き出された、abhūt = なった、suṣuptaḥ =目覚めた、pumān =男性 (3行目)prāk =以前に、asvāpsaṁ =よく眠っていた、iti=そのように、prabodhasamaye =目覚めの時に、yaḥ = ~である彼、pratiayabhijñāyate = 理解する

8.
たとえ幼時や目覚めをはじめとして、あらゆる状態がかわるがわる来ても、「私」として内に変わることなく留まり、常に輝き、吉祥なる手の仕草によって真の自らを彼の崇拝者たちに表わす方へ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one who reveals to his devotees, by means of the auspicious hand-pose, the ever present “I” pulsating within as one’s own true nature, at all times free from the changing stages of life (childhood, adulthood and old age) and the states of experience (waking, dream and deep sleep). Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       bāly-ādiṣv-api jāgrad-ādiṣu tathā sarvāsv-avasthāsv-api
       vyāvṛttāsv-anu-vartamānam-aham-ity-antaḥ sphurantaṁ sadā |
       sv-ātmānaṁ prakaṭīkaroti bhajatāṁ yo mudrayā bhadrayā
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bālya = 幼時に、 ādiṣu =など、api =そして、jāgrat =目覚めた状態、tathā =のような方法で、sarvāsu = 全ての中で、avasthāsu =状態 (2行目)vyāvṛttāsu =出発、anu =伴った、vartamānaṁ =存在、継続する、ahaṁ =私、iti =そのように、antaḥ =内に、sphurantaṁ =拍動すること、sadā =常に (3行目)sva =自分自身の、ātmānaṁ =自ら、prakaṭīkaroti = 公に現わす、bhajatāṁ =崇拝者へ、yaḥ =~の彼に、mudrayā =しぐさを通じ、bhadrayā =吉兆を通じ


マーヤーによって惑わされ、夢と目覚めにおいて、原因と結果、主人と召使、弟子と師、父と息子のような区別を持つ全世界を見る、至高なる自らへ。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the Self Supreme who because of Māyā has roamed about in the waking and dream states, perceiving the world as being split up into relationships such as cause and effect, possession and proprietor, pupil and teacher, father and son etc. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       viśvaṁ paśyati kāryakāraṇatayā sva-svāmi-saṁbandhataḥ
       śiṣy-ācāryatayā taya-iva pitṛ-putr-ādy-ātmanā bhedataḥ |
       svapne jāgrati vā ya eṣa puruṣo māyā-paribhrāmitaḥ
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)viśvaṁ =全世界、; paśyati =見る、kāryakāraṇatayā =結果、sva =自分の、svāmi =主人、saṁbandhataḥ = 関連されたとして(2行目)śiṣya =弟子、ācāryatayā =教師、tathha =このように、iva = 、pitṛ =父親、putra =息子、ādi =など、ātmanā =自らを通じ、bhedataḥ =異なるとして(3行目)svapne =夢に、jāgrati =目覚めている状態の間、vā =または、yaḥ =~な人、eṣaḥ = この、puruṣaḥ =男性、paribhrāmitaḥ =混乱させられた人

10.
地、水、火、風、虚空、太陽、月、個別の生命(ジーヴァ)という「動くもの-動かないもの」として彼の八つの姿が現れている。この至高であり、一切に行き渡る意識を超えて、他の何ものも存在していない。識別力をもって探求する人々は(これを)知る。グルの姿をした彼へ、シュリー・ダクシナームールティへ礼拝いたします。

To the one whose eight-fold form appears in all that is moving and unmoving, earth, water, fire, air, ether, sun, moon and the individual soul (jīva). Beyond this supreme and all pervading Consciousness there is nothing else; those who enquire with discrimination know. Salutations to Him, Sri Dakṣiṇāmūrti, in the form of the Guru.

       bhūr-ambhāṁsy-anal-o'nil-o'mbaram-aharnātho himāṁśuḥ pumān
       ity-ābhāti car-ācar-ātmakam-idaṁ yasya-iva mūrty-aṣṭakam |
       n-ānyat-kiñcana vidyate vimṛśatāṁ yasmāt-parasmād-vibhoḥ
       tasmai śrīgurumūrtaye nama idaṁ śrīdakśiṇāmūrtaye

(1行目)bhūḥ =地、ambhāṁsi =水、analaḥ =火、anilaḥ =風、ambaraṁ =虚空、aharnāthaḥ =捧げる人、himāṁśuḥ =月、pumān =人 (2行目)ābhāti = 輝く、cara =動いている、acara =動かない、ātmakaṁ =内に含まれている、idaṁ = この、yasya =その人の、eva =そのように、mūrtiḥ =化身、aṣṭakaṁ =8つの部分 (3行目)na = でない、anyat = その他の、kiñcana =何らかのもの、vidyate =存在する、vimṛśatāṁ =熟考する人、yasmāt =その人から、parasmāt =至高の存在から、vibhoḥ =遍く存在する神の

11.
「一切は自らである」と明確に説く、この賛歌を聞くことによって、その意味を熟考することによって、それを瞑想することによって、それを朗唱することによって、「一切は自らである」という偉大なる達成と共に、神の性質である八つの力(シッディ)も自然と結実する。

Because the all pervasiveness of the Self has been explained in this hymn, by listening to it, reflecting upon its meaning, meditating upon it and reciting it, one will achieve without obstacle the great splendour of Selfhood with its supreme sovereignty and the eight-fold powers (siddhis) that ensue automatically.

          sarv-ātmatvam-iti sphuṭīkṛtam-idaṁ yasmād-amuṣmin stave
          tenā-sya śravaṇāttad-artha-mananād-dhyānāc-ca saṅ-kīrtanāt |
          sarv-ātmatv-mah-vibhūti-sahitaṁ syād-īśvaratvaṁ svataḥ
          siddhyettat-punar-aṣṭadhā pariṇataṁ c-aiśvaryam-avyāhatam

(1行目)sarvaḥ = 全て、ātmatvaṁ = 自らにより顕現した、成り立った、iti = そのように、sphuṭīkṛtaṁ = 明白に話された、yasmāt = ~の人から、amuṣmin = この中に、stave = 賛歌 (2行目)tena = その人を通じ、asya =この人を通じ、śravaṇāt = 聞くことから、artha(sya) = 意味の、mananāt = 心の中で熟考し、 dhyānāt = 瞑想する、ca = そして、saṁ =よい、kīrtanāt = それを朗読することにより (3行目)sarva = 全ての、ātmatvaṁ = アートマンの性質、 mahā = 偉大な、vibhūti = 灰、富、sahitaṁ = それと共に、syāt = あるだろう、 īśvaratvaṁ = 神自身の性質、svataḥ = 自動的に (4行目)siddhyet =崇拝者のために物質化する、punaḥ = 再び、aṣṭadhā = 8つの、pariṇataṁ = 完全に顕現する、ca = そして、aiśvaryaṁ = 神聖な富、力、 avyāhatam= 妨げなく

・色々な英訳のリンク
http://nonduality.com/shankr13.htmhttp://www.shaivam.org/english/sen-sk-dakshina.htm
http://www.sacred-texts.com/hin/dast/http://stotraratna.sathyasaibababrotherhood.org/s15.htm
http://greenmesg.org/mantras_slokas/sri_shiva-dakshinamurthy_stotram.php

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

1945年10月11日 (抜粋)

バガヴァーン:
 ダクシナームールティ、つまり、偉大なシヴァ自身が、沈黙による以外は唯一なる現実という真理を表現できませんでした。しかし、この沈黙は、とても進んだ者以外には理解することができませんでした。その他の人々には語られなければいけませんでした。ですが、神自身が表現できなかったそれをどうやって言葉で言えますか。それゆえ、シャンカラはダクシナームールティを褒め称えるという方法を勧め、見かけの上の目的としてのそれと共に、実際は「全てはブラフマンである」ということを説こうと努めています。初めの4詩節(*1)で、彼は世界の性質を説きます。我々が現実を知ることを妨げていているものが世界であるため、その(つまり、世界の)性質が理解されるならば、真理を悟る道における障害は取り除かれるでしょう。次の4詩節(*2)では彼はジーヴァの性質を説きます。それから、両者の関連性を説き、「全ては自らである」と教えます。シャンカラのダクシナームールティ・ストートラの構成と要旨を説明しようとして、私は上の短い前書きを書きました。

(*1)上の賛歌の2詩節から5詩節まで
(*2)上の賛歌の6詩節から9詩節まで

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk.569 1938年11月7日 (前略)

バガヴァーン: 
 沈黙は真のウパデーシャです。それは完璧なウパデーシャです。それは最も進んだ探求者にのみ適しています。他の人々はそれから十分な洞察(閃き)を得られません。ですから、彼らは真理を説く言葉を必要とします。しかし、真理は言葉を超越しています。それは説明を許しません。できることすべては、それを指し示すだけです。どのようにそれが行われるべきですか。

 人々は幻の下にいます。魔法が取り除かれるなら、彼らは真理を悟ります。彼らに幻の虚偽性を理解するように説かねばなりません。その後、彼らはその罠から逃れようと試みます。その結果、ヴァイラーギャが生じます。彼らは真理を調べる、つまり、自らを探求します。それによって、彼らは自らとして留まります。シュリー・シャンカラは、シヴァのアヴァターラであり、堕落した存在への慈悲に満ちていました。彼は彼らみなに彼らの至福に満ちた自らを実現して欲しいと思いました。彼は沈黙によって彼らみなの心を動かすことができませんでした。それで、彼は人々が読み、真理を悟るように、賛歌の形式でダクシナームールティ・ストートラを作りました。

 幻の性質とは何ですか。すべての者が楽しみ、つまり、ボークター、ボーグヤム、ボーガ(*1)の支配下にいます。これはボーグヤ・ヴァースツ(楽しみの対象物)が現実であるという間違った概念のためです。自我、世界、創造者は幻の基礎となっている根本のものです。それらが自らと別でないということが知られるなら、もはや幻はありません。

 初めの四詩節は世界を扱っています。世界は、その自らが探求者のそれである師、もしくは、探求者が自分自身を委ねた師と同じであると示されています。次の四詩節は個々人を扱っており、その自らが師の自らであると示されています。第九詩節(上の第十詩節)はイーシュワラを扱っていて、第十詩節(上の第十一詩節)はシッディ、もしくは、実現を扱っています。ストートラの構成はそのようです。

 ここでどれがダルパナ(鏡)ですか。我々が知る鏡とは、光を反射する感覚のない物です。個々人の中で鏡に対応するものは何ですか。自ら輝く自らの光はマハータットヴァ(*2)の上で反射します。反射した光は心の虚空、もしくは純粋な心です。これは個々人のヴァーサナーを照らし、それゆえに「私」の感覚と「これ」が生じます。

 また、詩節を上辺だけ読むことは、束縛、解放など、すべてが師、つまり、ダクシナームールティに関わってると思わせます。それは馬鹿げています。彼への委ねが意図されています。

(*1)ボークター、ボーグヤム、ボーガ・・・「楽しむ者、楽しまれるもの、楽しみ」
(*2)マハータットヴァ・・・「偉大な原理、普遍的知性である原理」

2013年5月5日日曜日

「アートマ・ボーダ(Atma Bodha、自らの知)」、シャンカラーチャーリヤ著

 最初の2つの文章は、http://nonduality.com/shankr10.htmからの日本語訳ですが、段落分けを変えています。もともとはSmt.Kanakamal氏の文章で、それをR.K.Shankar氏が英訳したもののようです。 
 以下の「アートマ・ボーダ」本文の英文は、『Collected Works of Sri Ramana Maharshi』からのもので、おそらくアーサー・オズボーン氏の英訳です。日本語訳にはSwami Chinmayanandaによる英訳(http://www.swamij.com/shankara-atma-bodha.htm)も参考にさせていただいています。(文:shiba)

アーディ・シャンカラーチャーリヤの生涯の手短な紹介

 アーディ・シャンカラーチャーリヤはジニャーニです。彼はたった7歳の時に僧となりました。彼のグルは聖者ゴーヴィンダでした。もちろん、そのグルは彼自身ジニャーニでした。シャンカラは16歳ごろに自らの実現を達成しました。

 グルはシャンカラにヴェーダの宗教を全インドに再確立するように命じました。彼は多くの学者と討論し、彼らを打ち負かし、彼の弟子としました。彼は初めてアドヴァイタ・ヴェーダーンタを確立しました。

 彼は『バガヴァッド・ギーター』、『ウパニシャッド』、『ブラフマ・スートラ』の注釈書を著しました。彼はまた、「アートマ・ボーダ」やその他のいくつかの作品ように彼独自のサンスクリット語の聖典を著しました。

シュリー・バガヴァーンが「アートマ・ボーダ」を偶然にサンスクリット語からタミル語へ翻訳するようになった次第の手短な物語

 サンスクリット語をほとんど知らないムスリムのタミル人の学者がいました。このムスリムはサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」をタミル語に翻訳しました。ある日、これらのタミル語の翻訳が含まれた2冊の本が郵便で届きました。M.S.Rという名のある信奉者は、その日の郵便物と一緒に、これら2冊の本をシュリー・バガヴァーンに手渡しました。シュリー・バガヴァーンはいつものようにその日に届いたすべての郵便物を読みました。その後、彼はくり返しムスリムの学者のこれら2冊の本を熟読し始めました。その時、シュリー・バガヴァーンは何らかの内からの衝動に促されて、そのようにしているようでした。その後、シュリー・バガヴァーンはそれら2冊の本を手渡し、図書館に保管されました。

 その後、彼はV.Rという名の信奉者に「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の原文を持ってくるように頼みました。彼はくり返しサンスクリット語の原文を拾い読みし始めました。彼は自発的に「アートマ・ボーダ」のはじめの2詩節をタミル語の(タミル語の4行詩の一種、英語の14行詩のソネットのような)ヴェンパに翻訳し、それらを紙に書き留めました。

 信奉者のK.Sはこれを見ていて、シュリー・バガヴァーンに、「シュリー・バガヴァーンはくり返し何かの本を熟読しているようですが、それはどの本ですか」と尋ねました。シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」の最初の2詩節の「タミル語の4行詩訳」を見せました。それを見て、K.Sは、「同じように残りの(66)詩節も書かれるなら、良いですね」と言いました。バガヴァーンは、「結構、結構。一体これはどういうわけですか」と答えました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、いつも彼は何をするにも決して率先して行うことがなかったからです。彼の本質は常に、肉体的にさえも、静かにいることでした。

 しかし、何かが内側から彼を促しているに違いありませんでした。二日後に、彼は「アートマ・ボーダ」の次のサンスクリット語の数詩節をタミル語の詩節に翻訳し、V.Rに見せました。彼はV.Rに「なぜ私が書かねばならないのかと思って静かにしているなら、これは私から離れようとしないみたいです。次から次へとこれらがやって来て、私(私の心)の前に立ちます。私はどうすればいいのですか」と言いました。もう数詩節を書いた後、彼はV.Rに「この先、これは私を離れようとしないでしょう!これらのタミル語の翻訳を書きとめるために私にノートを持ってきて下さい」と言いました。そのように言って、彼はV.Rに導入の詩節さえも見せました。

 非常にわずかな日数で、シュリー・バガヴァーンは「アートマ・ボーダ」のサンスクリット語の68詩節すべてを68のタミル語の4行詩に翻訳しました。それから彼はそこにいる人たちを見て、「40年前、マラヤーラム語(南インドの言語)の文章を含む小冊子がここに届きました。その冊子の中に、これらのサンスクリット語の「アートマ・ボーダ」の詩節がのっていました。その時は、(私の中に)それらをタミル語に翻訳しようという何の思いも生じませんでした」と言いました。ある信奉者が、「すべてのことにとって、(適切な)時期がくるはずではないのですか」と答えました。それに対して、シュリー・バガヴァーンは、「そうです、そうです!今、私が4行詩を一つ書くと、別の4行詩が(私の心の前に)現れます」と言いました。

 彼はさらに、「私はこの『アートマ・ボーダ』を以前に読んだようにも感じます。以前に、誰かこの『アートマ・ボーダ』をタミル語の4行詩で書きませんでしたか」と言いました。「今まで誰もこれらをタミル語の4行詩として書いていません」とシュリー・ムルガナールは言いました(シュリー・ムルガナールはタミル人の教師で、タミル語の偉大な詩人であり、もちろんシュリー・バガヴァーンの偉大な信奉者です)。そして、彼はさらに続けて、「これらの詩節が次から次へとシュリー・バガヴァーンの前に現れることに何の驚きがありますか。これは創造の周期の始まりに、ブラフマー(創造神)の心の前にヴェーダが現れるのとただ似通っているだけです」と言いました。ヒンドゥー教の信仰では創造は創造神、つまり、ブラフマーを通じて起こります。そして、ブラフマーはヴェーダどおりに世界を創造します。それらのヴェーダは、創造のそれぞれの周期のはじめに彼の前に自動的に現れ、彼にヴェーダの規定に従って世界を創造することを可能にします。それに対して、シュリー・バガヴァーンは笑いながら、「そのとおりです!しかし、自分だけがこれらのタミル語の4行詩を作ったと言い、私と戦いに誰も来なければいいのですが」と言いました。シュリー・バガヴァーンがそのように言ったのは、インドでは虚偽の理由でさえ、嫉妬心のため、もしくは、神聖な歌が最初に彼らによって作られたという名声を得ようとして人々が戦うことは一般的であるからです。

 シュリー・バガヴァーン自身の意思により書かれた本はほとんどありません。大部分の本は何らかの内側の促しにより書かれました。しかし、不運なことに、どのように内側から彼が促されたかはシュリー・バガヴァーンのわずかな本の中にしか記録されていません。

◇『シュリー・ラマナ・マハルシの全集(Collected Works of Sri Ramana Maharshi)』


アートマ・ボーダ(自らの知)

シュリー・バガヴァーンによる祈りの詩節

自らの啓示者であるシャンカラが、自分自身の自らと異なりうるのか
彼以外の誰が、今日、私の中の最奥の自らとして住まい、タミル語でこれを話すのか

本文

1.
これ-アートマ・ボーダ-は、長きにわたるタパスにより、すでに自分自身から不純物をとり除き、心安らかで、欲望がなくなった解放の探求者の望みを満たすためのものである。

2.
料理に火が必須であるのと同様に、解放へのあらゆる手段の中で、唯一、知のみが直接的なものである。それなくして、解放を得ることはできない。

3.
無知に対抗していないため、カルマはそれを破壊しない。一方、光が闇を破壊するのと同じく確実に、知は無知を破壊する。

4.
無知ゆえに自らは覆われているかのように見える。無知を取り除くや否や、雲が去った後の太陽のごとく、純粋な自らがひとりでに輝きだす。

5.
ジーヴァは無知と混ざり合っている。絶え間ない知の修練により、ジーヴァは純粋になる。カタカの木の実の粉(*1)が水の中の汚れと共に消えるように、知は(無知ともに)消える。

しかし、ここに世界があります。どうして自らのみが現実であり、不二でありうるのですか。

6.
サンサーラは好悪(こうお)、その他の対立する二組に満ちている。夢のごとく、しばらくの間、それは現実のように見える。しかし、目覚めるや否や、非現実であるがゆえに、それは消え去る。

夢は目覚めるとすぐに打ち消されるので、私はそれが非現実であると知っています。しかし、世界は存続し、私はそれを現実であるとしか気づいていません。

7.
全ての根底(礎)である不二のブラフマンが見られない限り、世界は現実のように見える。真珠母貝の偽りの銀色のように(*2)

しかし、世界はとても多様です。それなのに、あなたはただ一者のみあると言います。

8.
大海の表面に生じている泡のごとく、全世界は全ての支えであり、根本の原因である至高なる存在(パラメーシャ)から生じ、その中に留まり、その中に溶け込む。

9.
存在‐意識‐至福、全てに行き渡る永遠のヴィシュヌの中に、それら多様な全てのものや個々人が、黄金から作られる様々な宝飾品のごとく(現象として)現れる。

分かりました。しかし、無数の個々人の魂についてはどうですか。

10.
遍く行き渡るアーカーシャ(虚空)が(穴や、瓶や、家や、劇場の中のように)様々なものの中でばらばらになっているように見えるが、その制限が抜け落ちるや否や分かたれないままにあるのとまさしく同様に、五感の唯一、不二の支配者も同様である(神々や、人間や、牛などとして活動するように見えている)。

しかし、個々人は異なる特性を持ち、異なる条件に従い行動します。

11.
特性なども付け加えられたものである。(それ自体は味のない)純粋な水は、それに加えられたもの(ウパーディ)にしたがい、甘くなったり、苦くなったり、塩辛くなったりする。同様に、人種、名前、地位などはみな、万物の不二の自らに付け加えられたものである。自らにそのようないたずらをするこれらのウパーディとは何か。それらは、ここに粗大なもの、微細なもの、非常に微細なものとして示される。

12.
五つの粗大な要素(地、水、火、風、虚空)から成り立つ粗大な体は、苦楽の形で過去の行為の結果を受けるためにある。

13.
五つの気、心、知性、十種の感覚器官から構成され、微細な要素から成り立つ微細な体もまた、(夢にいるように)楽しみのためにある(*3)

14.
表現しえない始まりなき無知は、(深い眠りにいるように)原因となる体と言われている。自らは、これら三つのウパーディと異なると知れ。

15.
(それ自体は色のない)透明な水晶が背景に従い、赤や青や黄色などのように見えるのとまさしく同様に、純粋で汚れなき自らもまた五つの鞘(*4)と一体のように見える。

16.
稲の殻を取ることで中にある米があらわになるのとまさしく同様に、人は思慮深く、純粋なアートマンをそれを覆っている鞘から分離すべきである。

アートマンはあらゆる所に存在すると言われています。それでは、なぜそれが五つの鞘の中に思慮深く探されるべきなのですか。

17.
あらゆる所に常に存在するが、自らはあらゆる場所には輝き出ない。光が透明な媒介の中でのみ反射するのとまさしく同様に、自らは知性の中にのみ明確に見られる。

18.
王がその臣下と関わるように、自らは知性の中に体、感覚、心、知性、粗大な性質(プラクリティ)の活動の目撃者として、しかし、それらから離れ、実現されている。

自らはそれらの活動に関与しているように見えます。ですから、彼はそれらと異なるものではないし、目撃者でもありえません。

19.
周囲にある雲が動く時、月が動くように見えるのとまさしく同様に、識別しない者には、実際には感覚が活動的な時、自らもまた活動的に見える。

活動するには、体などにも知性がなければありませんが、それらは不活発であると言われています。それらはその活動に関与する知性ある自らがなければ、どうして活動できますか。

20.
人間が太陽の光の中で務めを果たすのとまさしく同様に(しかし、太陽はそれに関与しない)、体や五感なども、自らの関与なく、自らの光の中で機能する。

確かに、自らのみが知性です。私は私自身が生まれ、成長し、衰え、幸福になり、不幸になったりなどすることを知っています。正しいでしょうか。

21.
そうではない。(誕生、死などの)体の特性や五感は、空にある青色のごとく、識別しない者たちによって存在‐意識‐至福に付け加えられたものである。

22.
水面に映る月の上の水の動きのごとく、行為の主体などのような心の特性もまた、無知によってアートマンに付け加えられたものである(*5)

23.
知性が現れる時にのみ、好悪、苦楽が感じられる。深い眠りにおいて、知性は潜在しており、それらは感じられない。それゆえに、それらは知性のもので、アートマン(自ら)のものでない。ここにアートマンの本質がある。

24.
光がまさに太陽であり、冷たさが水であり、熱が火であるように、永遠の純粋な存在‐意識‐至福がまさに自らである(*6)

いつかしら、全ての個々人は「私は幸せです」と感じており、それゆえに存在‐意識‐至福の経験は明白です。どうすれば、この経験を永続的で、不変のものにできるのでしょうか。

25.
存在‐意識は自らのものである。「私」という形態または変形体は、知性のものである。これらは明確に二つである。しかしながら、無知によって個人はそれらを混合し、「私が知る」と思い、それに従い行為をなす。

26.
アートマンの中にはいかなる変化(もしくは、行為)もなく、知性の中に知識もない。ジーヴァのみがそれ自身を知る者、行為者、見る者と誤って考えている。

27.
縄を蛇と見紛(まが)うように、ジーヴァを自らと間違え、人は恐怖に陥りやすい。それに対し、自分自身をジーヴァでなく、至高なる自らとして知るならば、人は完全に恐怖を持たない。

28.
壺のごとき対象を灯火が照らすように、自らのみが五感や知性などを照らす。それらは不活発なため、自らはそれらによって照らされない。

もし自らが知性によって知ることができないならば、自らを知るための知る者がおらず、自らを知ることはできません。

29.
光を見るために、その他の光を必要としない。そのようにまた、自らは自ら輝くゆえ、知るための他の方法を必要としない。それは独り輝く。

もしそうであるならば、全ての人が自らを実現しているはずですが、そうではありません。

30.
「これでない、これでない」というヴェーダの教えの力に基づき、一切の付加物(ウパーディ)を取り除き、マハーヴァーキャ(*7)の助けによりて、ジーヴァートマン(個別の自分)とパラマートマン(至高なる自ら)の一致を実現せよ。

31.
体のような外界すべては無知から生まれ、水面の泡のように移ろいやすい。自らはそれと異なり、ブラフマン(至高者)と同一であると知れ。

32.
粗大な体と異なるため、誕生、死、老年、衰弱などは私に属していない。五感でないため、私は音などの五感の対象と何の関わりも持たない。

33.
スルティは言明している。「私は生命の気(プラーナ)でなく、心でなく、純粋な(存在)である」。心でないため、私には好悪、恐怖などがない。

34.
「私は属性がなく、動きなく、永遠であり、分かたれず、汚されず、不変であり、無形であり、常に自由で純粋である。

35.
「虚空のごとく、私は常に全ての内に外に行き渡り、揺るぎなく、全ての中に常に等しくあり、純粋であり、汚されず、澄み渡り、不動である。

36.
「変わらずに永遠であり、純粋であり、常に自由であり、ただ独りのままあるそれ、不滅の至福、不二の存在‐意識‐至福、超越的なブラフマンが私である」。

37.
効き目ある治療薬(ラサーヤナ)が病を根絶するように、「私はブラフマンのみである」という絶え間ない長き修練は、無知から生まれる一切のヴァーサナー(潜在的傾向)を破壊する。

38.
冷静であり、五感を支配下に置き、心をさ迷わないようにせよ。人のいない場所に座り、自らを無限で、ただ独りのみとして瞑想せよ。

39.
心を純粋に保て。鋭い知性により、外界にある一切を自らに溶け込まし、自らを虚空ごとく澄みわたり、ただ一者のみとして常に瞑想せよ。

40.
一切の名と形を捨て去ったため、あなたは今や至高なる存在を知る者であり、完全な意識‐至福のままある。

41.
意識‐至福と同一であるため、知る者と知られるものというような分かれはもはやない。自らはそれ自身として輝き出ている。

42.
このように絶え間ない瞑想の過程により、二片の木切れ、すなわち、自らと自我はこすり合わされ、知の火からの炎は無知の一切を焼き払う。

43.
このように知が無知を破壊する時、夜明けの光が夜の暗闇を追い払うように、自らは太陽のごとく、そのまったき栄光で昇る。

44.
確かに、自らはいつも今ここにある。しかし、それは無知ゆえに明らかでない。無知が破壊されるや否や、(無くしたと思っていた)自分の首にある首飾りのごとく、自らはあたかも得られたかのように見える。

45.
暗闇の中で郵便箱が人と見紛われるのとまさしく同様に、無知の中でブラフマンもジーヴァと見紛われる。しかしながら、ジーヴァの本質が見られるなら、幻は消え去る。

46.
現実の体験に基づき生じる知は、「私」および「私のもの」なる無知な認識を即座に破壊する。その認識は、暗闇の中で方向を間違う思い違いに似ている。

47.
自らを完全に実現したヨーギであるジニャーニは、知恵の目によって外界の全現象が自らの中にあり、自らから出現し、従って、自らのみが唯一の存在であると見る。

それでは、どのように世界で振る舞えばいいですか。

48.
粘土がそこから様々な道具(壺、瓶などのような)が作られる唯一の素材であるのとまさしく同様に、彼は自らもまた全世界であり、自ら以外に何も存在しないと見る。

49.
生きているにもかかわらず解放されるためには、蜂へ変わる蛆(うじ)のごとく(*8)、聖者は付加物(ウパーディ)を完全に遠ざけ、存在‐意識‐至福なる本質を得なければならない。

50.
幻影の海を渡り、好悪なる悪魔を殺し、ヨーギは今やシャーンティ(安らぎ)とつながり、自らの中に喜びを見出し、そのまったき栄光のままにある。

51.
ジーヴァンムクタは移ろいゆく外的な一切の楽しみから解放され、彼自身の自らに喜び、壺の中の灯のごとく明瞭で、堅固なままある。

52.
その中に含まれている対象物によって汚されないアーカーシャ(虚空)のように、ムニ(聖者)は彼を覆っている付加物(ウパーディ)によって汚されない。全てを知る者であるが、相変わらず彼は知らない者のようであり、触れる対象物により汚されない空気のごとく動く。

53.
付加物(体、五感など)が消滅する時、水の中に水が、虚空の中に虚空が、火の中に火が溶け込むがごとき、今や特異性から解放された聖者は遍く行き渡る存在(ヴィシュヌ)に溶け込んでいる。

54.
この利得を超える利得はなく、この至福を超える至福はなく、この知を超える知はない-これをブラフマンと知れ。

55.
それを見るとき見るものが何も残らず、それになるときサンサーラへもはや戻らず、それを知るとき知るものが何も残らない-それをブラフマンであると知れ。

56.
上に、下に、周りに、万物を満たすもの、存在‐意識‐至福そのもの、不ニであり、無限であり、永遠であり、唯一なるもの-それをブラフマンであると知れ。

57.
不変不滅の至福として、唯一なるものとしてあるもの、聖典さえも「それでない、それでない」と除外する過程により間接的に示している、それ-他ならぬそれがブラフマンであると知れ。

58.
アートマンの尽きることなき至福のかけらに依存し、ブラフマーといった全ての神々はそれぞれの段階に従い、至福を楽しむ。

59.
牛乳の中のバターのごとく、全世界はその中に含まれている。全ての活動はそれのみに基づいている。それゆえ、ブラフマンは遍く行き渡っている。

60.
微細でも粗大でもなく、短くも長くもなく、作りだされず、消費されないもの、形、属性、カースト、名前を欠くもの-それがブラフマンであると知れ。

61.
その光によって太陽と他の輝くものが輝き出すが、それ自体はそれらによって照らされず、その光の中でこの全てが見られる-それがブラフマンであると知れ。

62.
赤熱した鉄の破片の中の火のごとく、ブラフマンは内に外に、終始、全世界に行き渡り、それを輝かせ、それ自体も独り輝く。

63.
ブラフマンは全世界と異なるが、ブラフマンから離れて何ものも存続しない。もしブラフマン以外のものが現れるとすれば、それは蜃気楼の水のように幻に過ぎない。

64.
見られるもの、もしくは聞かれるものは何であれ、ブラフマンと異なりえない。真の知はブラフマンを存在‐意識‐至福であり、唯一、不ニであると見出す。

65.
知恵の目のみが遍く存在する存在‐意識‐至福を見ることができ、無知の目は見ることができない。なぜなら、盲目は太陽を見ることができない。

66.
浮きかすを除いた黄金のごとく、ジーヴァ(サーダカ)は、シュラヴァナ、マナナ、ニディディヤーサナにより煽られ、突如として燃えだす知の炎により彼の一切の不純を焼き払い、今や彼は独り輝き出る。

67.
暗闇を追い払う者である知の太陽が昇ったため、アートマンが全てに遍在する維持者としてハートの広がりの中に輝き、全てを照らしている。

68.
あらゆる場所で今ここに得られる、澄み渡り、温かく、常に清涼なアートマンなる水に沐浴する彼を特別な中心地や時節の中に探す必要はない。そのような人は行為なきままある。彼は全てを知る者である。彼は全てに行き渡り、常に不死である。

(*1)英訳にはカタカという言葉は出てきませんが、他訳ではカタカという木の実の名前が出てきます。この実の粉を泥水の上にかけると、膜状になり、汚れを除きながら下に沈んでいきます。雨季に川の水が泥と混ざるときに泥を除くために使われるようです。
(*2)真珠をつくる真珠母貝の内面は美しい銀色の光沢をもちますが、本当の銀ではありません。
(*3)「五つの気(パンチャ・プラーナ)」は「プラーナ、アパーナ、ウダーナ、サマーナ、ヴャーナ」。「十種の感覚器官(ダシャ・インドリヤ)」は、「眼、耳、舌、鼻、皮膚の五つの感覚器官と舌、手、足、肛門、生殖器という活動の器官」。また、他訳では「楽しみのためにある」は「経験のための道具である」となっています。
(*4)五つの鞘・・・パンチャ・コーシャ。粗大な体は「アンナマヤ・コーシャ」、微細な体は「プラーナーマヤ・コーシャ、マノマヤ・コーシャ、ヴィジナーナマヤ・コーシャ」、原因となる体は「アーナンダマヤ・コーシャ」に対応しているようです。
(*5)他訳では、「水に属している揺らぎが、無知を通じて水面で踊っている月のものとされる」とあります。
(*6)他訳では「輝きが太陽の本質であり、、」というように「本質」という言葉が使われています。
(*7)マハーヴァーキャ・・・たいてい4つのヴェーダからとられた真理を表す言葉を意味する。バガヴァーンとの対話では、チャンドーラギャ・ウパニシャッドからの「tat tvam asmi(汝はなり)」とブリハダーランヤカ・ウパニシャッドからの「aham brahmasmi(私はブラフマンである)」がよく引用されてています。
(*8)ここではウジ(maggot)が使われ、他訳では虫(worm)が使われています。幼虫(larva)は使われていません。