2017年1月25日水曜日

シュリー・シャンカラによる「バジャ・ゴーヴィンダム」 1~13、28~31詩節

◇『The Call Divine(召命)』 Volume XIII、Book 9、1960年5月1日、p565~568 & 他のサイト

バジャ・ゴーヴィンダム

シュリー・シャンカラーチャーリヤと14人の弟子

 偉大なる聖者シュリー・アーディ・シャンカラーチャーリヤによって作られた、バジャ・ゴーヴィンダムは、ヴェーダーンタの中で最も明快でありながら、洞察に富む作品の一つです。アーディ・シャンカラーチャーリヤによるヴェーダーンタに関する他の崇高な作品にいくつかは、ヴィヴェーカチューダーマニやアートマボーダです。彼は主題への科学的知見を深い献身と組み合わせ、輝かしい詩文を作り出しました。

 シャンカラの作品は三つの主要なカテゴリーに分類されます。

1.バシャヤ: ウパニシャッド、バガヴァット・ギーター・ブラフマスートラのような聖典への注釈書
2.ストートラ: ダクシナームールティ・ストートラのような献身を表す詩文
3.プラカラナ・グランタス: 靈的学習のための入門的な手引き書

 バジャ・ゴーヴィンダムはストートラの部類に属します。しかしながら、その詩節には深いヴェーダーンタ的思想が含まれているため、プラカラナ、入門的なテキストにしばしば含めます。小さなものですが、それはヴェーダーンタの根本を説くシャンカラの卓越した詩文です。その文体は簡素であり、その旋律はあらゆる年代の人々に訴えかけます。その31詩節それぞれが、我々の人生に関連した珠玉のごとき知恵です。

 このテキストの別名は、モーハ・ムダガラです。モーハという言葉は、サンスクリット語で「迷妄」を意味し、他方、ムダガラは「鉄槌」を意味します。合わせて、モーハ・ムダガラは、迷妄を取り除くもの、破壊するものを意味します。そのように呼ばれるわけは、それが、世界である、このサンサーラに我々が置く過剰な価値に打撃を与えるからです。

由来1

 シャンカラと弟子たちが旅していた昔日のある日、彼らはインドの聖都ベナレスに通りかかりました。道すがら、シャンカラは年を取ったパンディット、学者がパニーニの文法を記憶しているのをふと耳にしました。彼が文法を記憶しながらも、彼が学んでいるものの主旨を受け取りそこなっている様子を見てとり、これがシャンカラによる見事な演説を引き起こしました。それを我々はバジャ・ゴーヴィンダム、または、モーハ・ムダガラと呼びます。

由来2

 アーチャーリヤは、彼の有名なカーシー(ベナレス)への巡礼の間に、バジャ・ゴーヴィンダムを作ったと信じられています。14人の弟子が彼に同行したと言われています。伝えられるところによれば、彼がカーシーの通りを歩いていた時、年配の男性がサンスクリット語の文法を学ぼうと懸命に努力しているのを目にし、彼は心を痛めました。その高齢では、彼の人生の価値ある残りわずかな時間は、言葉を学ぶことに浪費するのでなく、神を崇拝するために使われているべきでした。このことはシャンカラを促し、愚かな生き方への一種の叱責である、この詩文が口をついて出ました。アーチャーリヤは、言葉を学ぶのでなく、神へ向かい、彼の栄光を歌うようその人に迫ります。アーチャーリヤがその人を愚か者(モーダマテー)と呼ぶとき、非難が含意されています。ここで、その魅惑的な詩美と詩作の極致であるにもかかわらず、バジャ・ゴーヴィンダムの調子が全く柔和でなく、いくぶん際立ったものであることが言い添えられてもよいでしょう。これは不思議なことではありません。なぜなら、そのような扱いが人を眠りから起こすのに必要とされるからです。より穏やかなアプローチは、事態を先延ばしにしたでしょう。アーチャーリヤが次の詩節で説明するように、事態は急を要します。なぜなら、何の前触れもなく死の時が近づくとき、懸命に学んだ文法は、哀れな魂を救おうとはしないからです。それゆえ、正しくも歌は、何の前置きもなく始まります。(元の英文

構成

 バジャ・ゴーヴィンダムは31詩節からなります。始まりの詩節は、他の詩節の終わりごと唱えられる合唱部分とみなされます。合唱に続く12詩節は偉大なる師、彼自身によって語られたと言い伝えられています。これら12詩節は、バジャ・ゴーヴィンダムの最初の部分であり、ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム、12詩節の花束と呼ばれています。たとえ遠くから見ても生花の花束を観賞できるのとまさしく同様に、バジャ・ゴーヴィンダムもまた、その詩節の美しい調べの詠唱に耳を傾けるだけで、味わえます。花の近くに来る人々は、花から発する香りを体験します。同様に、詩節の意味を理解する人々は、人生についての役立つ教えを得ます。しかしながら、花を真に楽しむ者は、花の中へ深く入り、その蜜を引き出す蜂です。同様に、バジャ・ゴーヴィンダムを真に楽しむ人々は、その真意を吸収する人々です。詩節の中の事柄を検討し、熟考する人々です。その哲学を生き、それを靈的に向上するために使う人々です。

 シャンカラの演説に大いに鼓舞され、彼と共に旅している14人の弟子それぞれが一詩節ごと付け加えました。これら14詩節がチャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラムを形作っています。生徒の言葉に耳を傾けた後、シャンカラは全時代の真の探究者を最後の4詩節で祝福します。

 そのように、合わせて、合唱、ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム、チャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラム、シャンカラの祝福が、バジャ・ゴーヴィンダム31詩節を形作っています。

バジャ・ゴーヴィンダム
a) 第1詩節:合唱
b)第2~13詩節:ドヴァーダシャ・マンジャリカー・ストートラム
c)第14~27詩節:チャトルダシャ・マンジャリカー・ストートラム
d)第28~31詩節:シャンカラの祝福

対をなす動機

 バジャ・ゴーヴィンダムは人生における我々の対をなす動機を扱っています。カーンチャナ、富の獲得、そして、カーミニー、それを楽しむことです。最初の動機によって、我々はドゥッカ・ニヴルッティ、悲しみに対する防衛のために富を蓄積します。二番目の動機によって、われわれはスカ・プラパティ、蓄積した富を楽しむことにふけります。シャンカラは、バジャ・ゴーヴィンダムの中で、世俗的追求の無益さに我々の目を向けさせ、我々が外側の何をどれほど探し求めようとも、真理は(現在)内にあり、(これからも内に)常にあるでしょう。

バジャ・ゴーヴィンダムの精神

 バジャ・ゴーヴィンダムの学習を始めるにあたり、シャンカラのメッセージの精神を理解することが重要です。学びの間、彼の人間の性質への訓戒が少々厳しく感じる時があるかもしれません。しかし、我々はぜひとも彼の言葉から伝わる愛を感じとるべきです。子供にとっての親のようです。彼は我々をけなすつもりではなく、ただ眠りから我々を揺り起こそうとしているだけなのです。些末なことへの執着に打ち勝ち、人生の真の務めに取り掛かり、かの内なる神聖な自らの探求を始めるよう我々に迫ります。我々が靈的体験を経ている人間ではなく、人間的体験を経ている(聖)靈そのものであると我々に思い出させるためです。そのように合わせて、我々は我々の迷妄、モーハからより優れた意識の高みに身を起こすことに向けて励まなければなりません。(由来2以外の上記の元の英文


本文

1.
ゴーヴィンダをあがめよ、ゴーヴィンダをあがめよ
ゴーヴィンダをあがめよ、ああ、愚かな心よ
(死の)時が近くに迫るとき
決して、決して文法規則は救わない

bhaja govindam bhaja govindam
govindam bhaja muudhamate
sampraapte sannihite kaale
nahi nahi rakshati dukrin karane

2.
愚か者よ、富の到来への渇望を放棄せよ
正しく決意し、心に渇望なくあれ
何であれ得たもの、あなたの行為により獲得した
金銭、それにより心喜ばせよ

mudha jaheehi dhana agama trishnaam
kuru sad buddhim manasi vitrishnaam
yal labhase nija karmopaatam
vittam tena vinodaya chittam

3.
女性の豊満な胸やへそあたりを
目にし、迷妄に憑りつかれるな
それは肉や脂肪などの変形である
幾度も幾度も、心の中で思い巡らせ

naarii stana bhara naabhii desham
drishhtvaa maa gaa moha avesham
etan maamsaa vasa adi vikaaram
manasi vichintaya vaaram vaaram

4.
蓮葉に落ちた水滴は非常に不安定である
同様に、命は極めて不確実である
知れ、病のごとき高慢に捕われ
全世界は悲嘆に暮れていると

nalinii dala gata jalam ati taralam
tadva jjiivitam atisaya chapalam
viddhi vyaadhy abhimaana grastam
lokam soka hatam cha samastam

5.
金銭を稼ぎうる限り
その限りは、あなたの取り巻きは慕う
その後、弱った体で生きる時
健やかなのか誰も家で尋ねない

yaavad vitt opaarjana saktah
taavan nija parivaaro raktah
pashchaa jiivati jarjara dehe
vaartaam kopi na prcchati gehe

6.
体に命がある限り
その限りは、幸せなのか家で尋ねる
呼吸が消え、体から離れる時
妻がその体を恐れる

yaavat pavano nivasati dehe
taavat prichchati kushalam gehe
gatavati vaayau deha apaaye
bhaaryaa bibhyati tasmin kaaye

7.
幼少期は遊びに夢中で
青年期は女性に夢中で
老年期は心配事に夢中である
至高なるブラフマンに誰も夢中でない

baalas taavat kriidaa saktah
tarunas taavat tarunii saktah
vriddhas taavat chintaa saktah
pare brahmani kopi na saktah

8.
あなたの妻とは誰か。あなたの息子とは誰か
この生死流転はまったく奇妙である
あなたは誰のものなのか。どこからあなたは来たのか
ここに、この真理を思え、兄弟よ

kaa te kaantaa kas te putrah
samsaaro ayam atiiva vichitrah
kasya tvam kah kuta aayaatah
tattvam chintaya tadiha bhraatah

9.
賢者との交際により、執着が減り
執着の減少により、迷妄からの解放が生じ
迷妄からの解放の生起により、真理に定着し
真理への定着により、生けるうちの解放が得られる

satsangatve nissangatvam
nissangatve nirmohatvam
nirmohatve nischalatattvam
nischalatattve jiivanmuktih

10.
若さが去るとき、愛の情熱とは何か
水が蒸発するとき、湖とは何か
金銭が失われるとき、取り巻きとは何か
真理が実現されるとき、生死流転とは何か

vayasi gate kah kaamavikaarah
sushke niire kah kaasaarah
ksiine vitte kah parivaarah
gyaate tattve kah samsaarah

11.
富や氏族、若さを驕るな
時によって、全ては瞬く間に奪い去られる
幻に満ちた、この全世界を捨て去り
ブラフマンの境地を知り、あなたは(それに)入れ

maa kuru dhana jana yauvana garvam
harati nimeshaat kaalah sarvamh
maayaa mayam idam akhilam hitvaa
brahma padam tvam pravisha viditvaa

12.
昼夜、朝晩
冬と春は再びやってくる
時は戯れ、寿命は過ぎ行く
それでもなお、欲望の風は弱まらない

dina yaminyau saayam praatah
sisira vasantau punara ayaatah
kaalah kriidati gachchhaty aayuh
tad api na munchaty aasaa vaayuh

13.
あなたの妻とは誰か。富に向けられた思いとは
何か、風狂人よ。あなたに支配者はいないのか
三世界において、有徳の人との交際のみが
生の大海を渡る船となる

kaa te kaantaa dhanagata chintaa
vaatula kim tava na asti niyantaa
trijagati sajjan sangatir ekaa
bhavati bhava arnava tarane naukaa

(14~27は、また後で翻訳するかもしれませんが、今は省略します)

28.
楽しみゆえ、美しい女性に耽溺し
その後、ああ、体には病が
世界は死を住まいとするにもかかわらず
それでもなお、悪行を離れない

sukhatah kriyate raamaabhogah
paschaadd hanta sariire rogah
yadyapi loke maranam saranam
tadapi na munchati paapa acharanam

29.
常に思え-財は禍(わざわい)をもたらし
まこと、そこにわずかの楽しみもない、と
息子さえ、富を持つ者は恐れる
常々、これが世の定めである

artham anartam bhaavaya nityam
na asti tatah sukaha lesah satyam
putraad api dhanabhaajaam bhiitih
sarvatra ishaa vihitaa riitih

30.
プラーナーヤーマに、プラティヤーハーラに
恒常・無常の分別の探求に
ジャパに伴われたサマーディの成就に
専念せよ、大いに専念せよ

praanaayaamam pratyaahaaram
nitya anitya viveka vichaaram
jaapya sameta samaadhi vidhaanam
kurv avadhaanam mahad avadhaanam

31.
蓮華のごとき師の御足の熱心な信奉者が
生死流転より、すぐさま解放されますように!
そのように、感覚器官と心の制御によって
あなたのハートに住まう神をあなたは体験するだろう

guru charana ambuja nirbhara bhaktah
samsaaraad achiraad bhava muktah
sendriya maanasa niyamaad evam
drakshyasi nija hridayastham devam
(shiba注)サンスクリット語に詳しくないため、日本語訳は「適当」です。英語サイトに単語の格変化まで記載されているものがなく、正直、文法的にわからないとこだらけです。翻訳の参考にさせていただいた主な他のサイトは、などです。

2017年1月12日木曜日

ライオンに捕らわれしウサギたちへの保証-バガヴァーンは「ここ」にいる

◇『The Call Divine(召命)』 Volume XVI、Book 5、1968年1月1日、p318~319

論文集-預言者と詩聖

. バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシ

G.V.クルカルニ著 文学修士、博士

 私は肉体的な目でバガヴァーン・ラマナ・マハルシを見る機会はありませんでしたが、幸運にも彼の最も近しい信奉者たちの幾人かと交流があります。「建築請負人・アタヴァレ」として知られる、シュリー・バウサヘブ・アタヴァレは、彼らの中の一人です。彼は親切にもバガヴァーンの人生における、これまで記録されてこなかった興味深い出来事を教えてくれます。

 信奉者と訪問者は、バガヴァーンの面前でとても幸せに感じたものでした。彼らは彼への愛で満ちていました。とりわけアーシュラマムでの安らかな滞在の後の別れの時、彼らは非常に残念に思ったものでした。シュリー・アタヴァレもまた、かつてバガヴァーンと別れなければならなかった時、同じ気持ちを抱きました。目に涙が押し寄せ、彼の前で平伏し、自分が見捨てられないよう、また自分が見捨てられたとも感じないよう彼は懇願しました。バガヴァーンは、いつものように、優雅に微笑み、彼がいつも信奉者と共にいることを彼に請け負いました。彼は言いました。「なにしろ、ライオンがウサギたちを捕まえているのですから。ウサギはあちらこちら自由に動き回れますが、今やライオンから逃れられません。ライオンはウサギを見張り、その手の届く範囲から出ることを決して許しません。あなたはそのウサギで、私はライオンです。どうして心配するのですか」。シュリー・アタヴァレは非常に安心し、元気よくバガヴァーンに別れを告げました。

 国の他の地方からの信奉者がマハルシを訪ねた時はいつでも、彼はその地方の聖者たちの偉大さに言及しました。彼はシュリー・アタヴァレがマハーラーシュトラ出身であることを知っていました。そのため、かつてバガヴァーンは彼に言いました。「マハーラーシュトラは我々にとても偉大な聖者たちを授けています。ジニャーネーシュワル、トゥカーラム、ラームダースなどに関して、我々はマハーラーシュトラに多大なる恩義があります。我々は彼らの偉大な靈的達成の影の下にいます」。大変な関心を持ってジニャーネーシュワルの「アムリターヌバヴァ」(不死なる体験)を読んだ後、歓喜の念をもって、彼はその作品を頭に乗せ、述べました。「ジニャーネーシュワルは正しくも聖者らの母と呼ばれています。なんと絶妙に素晴らしく、偉大なのですか、その作品は!」また別の機会に、シュリー・アタヴァレは彼の前で聖者トゥカーラムの有名な歌(アバング)を朗唱しました-Mana Kara re Prasanna, Sarva Siddheeche Karana(心を快活に保て。それは全ての靈的達成の原因である)。バガヴァーンはそれをたいそう気に入ったので、彼はシュリー・アタヴァレに何度も何度も復唱するよう求めました。バガヴァーンはたいそうこの歌に夢中だったので、彼自身がそのマラーティ語の歌から数詩節を朗唱しました!

「エーカ・タットヴァ・ナーマ」、ジニャーネーシュワル・マハラジのマラーティー語のアバング

 バガヴァーンは形式主義のから騒ぎを決して好みませんでした。シュリー・アタヴァレは、他の多くの人のように、彼の前でしばしば平伏する癖がありました。バガヴァーンは言いました。「あなたが一度平伏すれば、私はあなたの謙遜と尊敬の念を理解できます。どうして再びそのようにするのですか。それは悪い癖です。誰が誰の前で平伏しているのか、はじめに知りなさい。そうでなければ、それはある丸太の前で地面に置かれた別の丸太のようです」。シュリー・アタヴァレは、以来、平伏の真意を知り、その「悪い癖」は治りました。

  「どこに私が行くのですか。私はここにいます」は、体の死が近づいた時のバガヴァーンの有名な発言です。そして、訪問者は彼の神殿で彼の力強い存在を確かに感じます。彼のマハー・サマーディの後、この存在を感じただけでなく、実際に彼本人に会うという幸運に恵まれた信奉者たちもいます。シュリー・アタヴァレはその中の一人です。バガヴァーンのマハー・ニルヴァーナの日、彼はラマナーシュラマムにいました。奇妙な陰鬱な気持ちと入り混じり、沈黙が至る所に行き渡っていました。その日の間、全ての人がその悲劇的光景と肉体的別離に耐えることができました。シュリー・アタヴァレもまたできました。しかし、真夜中に、ベッドの上に座り、彼が瞑想しようとした時、彼は耐えられず、バガヴァーンの肉体的別離の苦悶を激しく感じました。彼の目から涙がしたたり落ち、彼は無力感を覚え、見捨てられたと感じました。何もかも彼の力の及ぶところではありませんでした。突然、足音が聞こえ、誰かが近づいてきました。そして、カーテンを開け、手提げランプを掲げ、優しい愛情のこもった声で彼に言いました。「どうしてそんなふうに泣いているのですか。私はここにいるとあなたに言いませんでしたか」。それはバガヴァーン・ラマナ自身でした!こうして、そのヴィジョンによって、バガヴァーンはシュリー・アタヴァレを祝福し、安心させました。

同じくジニャーネーシュワルによる「エーカ・タットヴァ・ナーマ」、映画から