2014年3月22日土曜日

ラージャラクシュミー (ラマナをおじいさんと呼んだ「孫娘」)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

180.
ラージャラクシュミーはヴェーヌ・アンマルの孫娘です。ヴェーヌ・アンマルは、傑出した信奉者エッチャンマル(No.60)の妹です。彼女は息子と共にチェンナイに住んでいます。
  私の母が亡くなった時、祖母は完全に打ちのめされ、彼女の唯一の娘を失ったことに耐えられませんでした。暗く、さびしい夜の午後11時、彼女ははるばるティルヴァンナーマライの町から遠くのラマナーシュラマムに歩いてゆきました。彼女は抑え切れずに泣き、バガヴァーンの御足に平伏しました。アーシュラムのサルヴァーディカーリー、バガヴァーンの弟は、世俗的な理由からバガヴァーンの御足に平伏することに反対しました。これに対して、バガヴァーンは、「同じような状況で、あなたの妹のアラメールが同じことをするのにあなたは反対しますか」と尋ね、反論しました。バガヴァーンはまねできない方法で彼女と悲嘆を共にし、彼女を慰めました。

 1923年に私がはじめてバガヴァーンに会った時、私は3才でした。アーシュラムで奉仕していた祖母は、毎朝、私を一緒に連れて行き、夕方、家に帰りました。ある時、私はおままごとをして遊んでいて、バガヴァーンに調理された米として石の小さいかけらを差し上げ、彼に食べるようにお願いしました。バガヴァーンはすぐさまそれらの石を口に入れ、食べたふりをしました。祖母はそれに反対しましたが、バガヴァーンは、「その子は楽しそうに私に食べ物として石を差し出しています。私は彼女をがっかりさせたくないのです」と答えました。

 昔、食堂でバガヴァーンの隣に座った時、私は祖母にある特別の食べ物をもっとよそってほしいと頼みました。彼女は断わりました。彼女が再びバガヴァーンにその同じ食べ物をもっとよそおうとした時、彼はその子に当てはまる事は彼にも当てはまるという理由で断わりました。

 バガヴァーンは私にタミル語、テルグ語、サンスクリット語を文字から教えました。彼はまた私に算数を教えました。彼が私に教えた最初のサンスクリットの詩節は、ウパデーシャ・サーラムからでした。私はついには30詩節全てを習い覚え、バガヴァーンの前でそれを暗唱し、彼はとても喜びました。バガヴァーンは、スッダーナンダ・バーラティ(No.101)が著した『ラマナ・ヴィジャヤム』という本を、その上に私の名前を書いた後で、1冊私に下さりました。その本には、バガヴァーンのパーターラ・リンガでの滞在についての話も書かれていました。好奇心に駆られ、私はアルナーチャレーシュワラ寺院のその場所を訪れましたが、あたりを飛ぶ蝙蝠と内部から匂う悪臭のために中に入れませんでした。私はバガヴァーンに私の体験を話し、そんなにも長い間どうして彼があのような場所に留まれたのか尋ねました。彼の答えは、「私はそこでの滞在に気づいておらず、他の人からそれについて知るようになりました」でした。これは彼がパーターラ・リンガの内部にいた時、時間と空間をまったく意識していなかったことを示しています。

 私の学校では、子供たちはコラッタム(2本の木の棒を使う遊び)をしたものでした。私はするための棒を持っていませんでした。祖母は2パイサ(1ルピーの32分の1)を棒のために使いたくありませんでした。私がバガヴァーンに私の困りごとについて話した時、彼は付添人のマードハヴァ・スワーミに木から枝をとって来るように頼み、それから彼は2本の美しいコラッタムの棒を作り、私に下さりました。

 ある人が私にバガヴァーンを「タータ」(おじいさん)と呼ばないように言いました。バガヴァーンは、私が子供のころからアーシュラムにいたので、彼を「タータ」と呼んでも何にも悪くないと答えました。

 1950年の初めごろ、バガヴァーンの具合がとても悪かった時、私はラクナウにいました。アーシュラムで働いていた祖母は、私を訪ね、それからカーシーへ行くための許しをバガヴァーンに請いました。バガヴァーンは、彼女がカーシーのガンジス川で沐浴する時に、彼のためにも儀式を行っていいと言いました。数日間、私と一緒にいた後、彼女はカーシーに行き、ラマナのことを思いながら夕方に沐浴している時に、誰かが彼女に上を見えるように言いました。彼女は大きな光り輝く星が光をたなびかせ、空を横切ってゆくのを見ました。そして、これはバガヴァーンのマハーニルヴァーナのまさにその時に起こりました。

コラッタム・ダンス

2014年3月16日日曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第1章 自らの探求

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p35-41

マハルシの福音

第2巻 第1章 自らの探求 


信奉者:
 どのように人は自らを実現すればいいのでしょうか。

マハルシ:
 誰の自らですか。見出しなさい。

信奉者:
 私のですが、私は誰ですか。

マハルシ:
 あなた自身を見出しなさい。

信奉者: 
 どうするのか私は知りません。

マハルシ:
 ちょっとその質問をよく考えてみなさい。「私は知りません」と言うのは、いったい誰ですか。あなたの言葉の中の「私」とは誰ですか。何が知られていないのですか。

信奉者:
 私の中の誰かか何かです。

マハルシ:
 その誰かとは誰ですか。誰の中に?

信奉者:
 おそらく、何らかの力です。

マハルシ:
 見出しなさい。

信奉者:
 どうして私は生まれたのですか。

マハルシ:
 誰が生まれたのですか。答えは、あなたの全ての質問に対して同じです。

信奉者:
 では、私は誰ですか。

マハルシ:
 (微笑みながら)あなたは私を調べに来たのでしょうか。あなたは誰か、あなたが言わなければなりません。

信奉者:
 どれほど私が試みようとも、私は「私」を捕らえられないようです。それは明確に認識できさえしません。

マハルシ:
 「私」が認識できないと言うのは、いったい誰ですか。一方がもう一方によって認識できないということは、あなたの中に2人の「私」がいるのですか。

信奉者:
 「私は誰か」と尋ねる代わりに、「あなたは誰か」と私自身に問いかけることはできますか。なぜなら、その時、私の心は、私がグルの姿をした神とみなす、あなたに定められるかもしれないからです。おそらく、「私は誰か」と私自身に尋ねるよりも、私はその問いによって、私の探求の目的に近づくでしょう。

マハルシ:
 あなたの問いがどのような形をとるのであれ、あなたは最終的に唯一の私、自らへ行かなければなりません。

 「私」と「あなた」、師と弟子などの、この全ての区別は、人の無知の表れに過ぎません。「至高なる私(I-Supreme)」のみいます。そう思わないことは、自分自身を欺くことです。

 賢者リブとその弟子ニダーガの『プラーナ』の物語は、この文脈において特にためになります。
 リブは、他を持たない唯一のブラフマンという至高の真理を彼の弟子に説きましたが、ニダーガは、その深い学識と理解力にもかかわらず、ジニャーナの道を選び、従うだけの十分な確信を得られず、儀式的な宗教の遵守に捧げられた生活を送るために故郷に腰を落ち着けました。
 しかし、弟子が師を敬慕するのと同様に深く、賢者は弟子を愛していました。高齢にもかかわらず、弟子が儀式主義からどれほど脱したかを知るためだけに、リブは自ら町にいる弟子のもとへ行ったものでした。時々、賢者は変装して行きました。それはニダーガが師に見られていることを知らない時に、どのように振る舞うかを観察するためでした。
 そのようなある時に、村の農夫に変装したリブは、ニダーガが王の行列を熱心に見つめているのに気づきました。町の住民であるニダーガに気づかれることなく、村の農夫は、このにぎわいはいったい何なのか尋ね、王が行進していると教えられました。
 「ああ!王様かい。彼は行進するもんだ!でも、彼はどこだい」と農夫は尋ねました。
 「ほら、象の上です」とニダーガは言いました。
 「お前さんは王様は象の上だと言うね。ああ、その2つが見えるよ」と農夫は言いました。「でも、どっちが王様で、どっちが象だい」。
 「なんですって!」。ニダーガは声を上げました。「あなたはその2つが見えるのに、上の人が王様で、下の動物が象なのが分からないのですか。あなたのような人と話して何になりますか」。
 「後生だから、わしのような学のねえ者に腹を立てねえでくれよ」。農夫は懇願しました。「でも、お前さんは『上』と『下』と言ったね。それってどういう意味だい」。
 ニダーガはもう我慢できませんでした。「あなたには王様と象、の一方、のもう一方が見えます。それでも、あなたは『上』と『下』がどういう意味か知りたいのですか」とニダーガは声を上げました。「もし見られるものと話される言葉があなたにほんの少ししか伝えられないなら、行為だけがあなたに教えられます。前にかがみなさい。そうすれば、あなたは十分すぎるぐらい分かるでしょう」。
 農夫は言われたようにしました。ニダーガは彼の肩の上に乗り、言いました。「もう分ったでしょう。私は王様としてにいて、あなたは象としてにいます。十分はっきりしてますか」。
 「いや、まだだね」。農夫は静かに答えました。「お前さんはお前さんが王様のように上にいて、わしは象のように下にいると言うね。『王様』、『象』、『上』と『下』、ここまでははっきりしているよ。でも、後生だから、わしに教えてくれよ。お前さんの言う『私』と『あなた』って、どういう意味だい」。
 「私」と離れて「あなた」を定義するという手ごわい問題に、ニダーガがそのように全く唐突に直面したとき、彼の心に光明が差しました。すぐさま彼は飛び降り、師の足元にひれ伏し、「私の敬愛する師、リブ以外の他に誰が、物質的存在という浅薄な物事から自らの真の存在(Being)へと心を引き寄せられたでしょうか。おお、恵み深い師よ、私は御身の祝福を懇願します」と言いました。
   ですから、あなたの目的は、アートマ・ヴィチャーラを通じ、物質的存在というこれら浅薄な物事を今ここで超越することであるのに、体にだけ属する「あなた」と「私」の区別をする余地がどこにありますか。あなたが思いの源を探し、心を内に向ける時、どこに「あなた」があり、どこに「私」がありますか。あなたは全てを包含する自らを探求し、自らであらねばなりません。

信奉者:
 しかし、「私」が「私」を探し求めていなければならないとは奇妙ではありませんか。「私は誰か」という問いは結局は空虚な決まり文句になりませんか。それとも、私はそれをマントラのように繰り返し、延々と自分自身に質問すべきですか。

マハルシ:
 自らの探求は、決して空虚な決まり文句ではありません。それはどのようなマントラの復唱以上です。仮に「私は誰か」という問いが心の中の質問に過ぎないならば、それに大した価値はないでしょう。自らの探求のまさにその目的は、心全体をその源に集中させることです。ですから、それは一人の「私」がもう一人の「私」を探しているというわけではありません。

 ましてや、自らの探求は空虚な決まり文句ではありません。なぜなら、それは心を純粋な自らの認識にしっかり定着させ続けるという心全体の強烈な活動を伴うからです。

 自らの探求は、本当のあなたである、制限のない絶対的存在(Absolute Being)を実現するための、ただ一つの間違いのない手段、唯一、直接的な手段です。

信奉者:
 どうして自らの探求だけが、ジニャーナへの直接的な手段とみなされるべきなのですか。

マハルシ:
 なぜなら、アートマ・ヴィチャーラというサーダナ以外の全ての種類のサーダナは、サーダナを行うための道具として心の保持を前提とし、心がなければそれを修練できないからです。修練の様々な段階において、自我は様々なより微細な形をとるかもしれませんが、それ自体は決して破壊されません。

 ジャナカが、「今や私は、私をずっと破滅させてきた泥棒を見つけた。彼を直ちに処分しよう」と声を上げた時、王は本当は自我または心に言及していたのです。

信奉者:
 しかし、他のサーダナで泥棒が捉えられることもありそうです。

マハルシ:
 自我または心をアートマ・ヴィチャーラ以外のサーダナで破壊しようする試みは、警官を装った泥棒が泥棒を、つまり自分自身を捕まえようとすることも同然です。アートマ・ヴィチャーラのみが、自我も心も実際には存在していないという真理を明らかにでき、自らまたは絶対者(the Absolute)の純粋な未分化の存在を人が実現することを可能にします。

 自らを実現した後、知られるべきものは何も残りません。なぜなら、それは完全な至福であり、全てであるからです。

信奉者:
 この制限に囲まれた人生において、いったい私は自らの至福を実現できるのですか。

マハルシ:
 その自らの至福は常にあなたと共にあるため、あなたがそれを熱心に探し求めようとするなら、あなたは自分自身でそれを見つけるでしょう。

 あなたの苦しみの原因は、外側の人生にありません。それは自我としてあなたの中にあります。あなたは制限を自分自身に課し、その後、それを乗り越えようと無益に奮闘します。全ての不幸は自我のせいです。それと共に、全てのあなたの問題がやって来ます。実際はあなたの内にある苦しみの原因を人生の出来事のせいにすることが、あなたの何の役に立ちますか。あなた自身の外側にある(と無関係の)ものから、あなたはどのような幸福を得られますか。あなたがそれを得るとき、それはどれほど続くでしょうか。

 あなたが自我を無視することによって、それを否定し、枯れさせようとするなら、あなたは自由になるでしょう。あなたがそれを受け入れるなら、それはあなたに制限を課し、それを乗り越えるための無益な奮闘へとあなたを陥らせるでしょう。そのようにして泥棒はジャナカ王を「破滅」させようとしたのです。

 本当のあなたである自らいることが、常にあなたのものである至福を実現するための唯一の手段です。

信奉者:
 自らのみが存在するという真理を悟っていないため、サーダナの目的により適しているとして、ヴィチャーラ・マールガよりも、バクティやヨーガ・マールガを私は採用すべきでないですか。人の絶対的存在の実現、すなわち、ブラフマ・ジニャーナは、私のような世俗の者には全く達成できないのではないですか。

マハルシ:
 ブラフマ・ジニャーナとは、それを獲得して幸福を得るために、獲得される知識のようなものではありません。人が放棄しなければならないのは、その無知な見かたです。あなたが知ろうと努める自らは、まさしくあなた自身なのです。あなたの想像された無知は、決して失われていなかった10人目の男の「喪失」を嘆く10人の愚かな男の悲嘆のように、あなたに不必要な悲嘆をもたらします。
 喩え話の中の10人の愚かな男は川を歩いて渡り、対岸に到着するとすぐに彼ら全員が本当に無事に川を渡ったということを確かめたいと思いました。10人の中の1人が数え始めましたが、他の人を数えている間に、彼自身をぬかしました。「9人しか確かめられない。思った通り、我々は1人失った。いったい誰なんだ」と彼は言いました。「正しく数えたのか」と別の人が尋ね、彼自身が数えました。しかし、彼もまた9人しか数えませんでした。次々に10人それぞれが自分自身を見落とし、9人だけ数えました。「我々は9人しかいない」と彼ら全員が同意しました。「しかし、いなくなった者は誰なんだ」と自問しました。彼らは「いなくなった」人を発見するため のあらゆる努力をしましたが、失敗に終わりました。「おぼれ死んだ者はいったい誰なんだ」と10人の愚か者の中で一番感傷的な者が言いました。「我々は彼を失った」。そのように言って、彼はわっと泣き出し、残りの9人もそれにならいました。
 彼らが川岸で泣いているのを見て、情け深い旅人が事情を尋ねました。彼らは何が起こったのか話し、何度も自分たちで数えた後でさえ、9人しか見つけられないと言いました。話を聞き、しかし、彼の前に10人全員を見るとすぐ、旅人は何が起こったのか見当をつけました。彼らが実際10人であり、彼ら全員が無事に渡り終えたことを彼ら自身によって彼らに知らせるため、「あなたたちそれぞれに自分で、1・2・3というように、次々と順番に数えさせましょう。その間、あなたたち全員が数に含まれている、それも一度だけ含まれていることをあなたたちが確信できるように、私があなたたちをそれぞれ一回ずつ叩きましょう。その時、10人目の『いなくなった』人が見つかるでしょう」と言いました。これを聞き、彼らは「失われた」仲間が見つかるという見込みに喜び、旅人が提案した方法を受け入れました。
 親切な旅人が10人それぞれをかわるがわる一回叩く間、叩かれた人は自ら声に出して数えました。番にあたって最後に叩かれた時、「10」と最後の人が言いました。困惑し、お互いに顔を見合わせ、一斉に「我々は10人だ」と言い、彼らの悲嘆を取り除いてくれたことを旅人に感謝しました
   それが喩え話です。どこから10人目の人が連れて来られましたか。彼はかつて失われましたか。彼がその間ずっとそこにいたと知ることによって、彼らは何か新たなことを学びましたか。彼らの悲嘆の原因は、10人の内の誰かの本当の喪失ではなく、彼ら自身の無知、むしろ、彼らが9人しか数えなかったために(誰かは見つけられなかったにも関わらず)彼らの1人が失われたという彼らの単なる推測です。

 あなたの場合もそのようです。実のところ、あなたがみじめで、不幸でいる理由はありません。あなた自身が無限の存在(Infinite Being)という、あなたの真の本質に制限を課し、その後、「私は有限の創造物でしかない」と嘆きます。その後、あなたは存在しない制限を超越するために、あれやこれやのサーダナを始めます。しかし、あなたのサーダナ自体が制限の存在を当然のこととするなら、どうしてそれがあなたが制限を超越する助けになれますか。

 それゆえに私は言います。あなたが本当は、無限者(the Infinite)純粋な存在(Pure Being)絶対の自ら(the Self Absolute)であると知りなさい。あなたは常に自らであり、その自ら以外の何ものでもありません。ですから、あなたは決して自らを本当に知らないわけではありません。あなたの無知は、「失われた」10人目の男についての10人の愚か者の無知のように、形だけの無知に過ぎません。彼らに悲嘆をもたらしたのは、この無知なのです。

 ですから、真の知は、あなたのために新たな存在を創造しないと知りなさい。それはただあなたの「無自覚の無知」を取り除くだけです。至福は、あなたの本質につけ加えられません。それは永遠かつ不滅の、あなたの自然な真の境地として明らかにされるに過ぎません。あなたの悲嘆を取り除く唯一の道は、自らを知り、自らでいることです。これが達成できないわけがありません。

2014年3月4日火曜日

ジャナカ王の物語 - 速やかに真理を悟った賢明な王について

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年4月 p103~105

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅰ


ジャナカ王の物語  

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』は、アドヴァイタ哲学を最高の形で詳説する古代の作品です。数年前、「The Mountain Path」で、我々はこの作品の要諦を連載しました(1968年1月号~1970年4月号を参照)。我々は今、原文の真意に忠実な意訳において、数多くの物語のいくつかをのせます。それらを通じて教えが伝えられます。以下のジャナカ王の物語は、『Maharshi's Gospel』の中でシュリー・バガヴァーンによって対話の間に言及されました。
ヴァーシシュタ曰く:
 ラーマ!仮設された建物が頑丈な柱により支えられているのとまさしく同様に、この永続的なサンサーラを作り出すマーヤーもまた、その性質が激情(ラジャス)、もしくは、遅鈍(タマス)である人々によって絶え間なく維持されています。生まれつき純粋(サットヴァ)である、あなたのような人々は、蛇がその皮を脱ぎ去るのとまさしく同様に、容易くそれを捨て去れます。この全ては、実のところ、ブラフマンです。この広大な(全世界)は、自ら(アートマン)です。おお、純粋な人よ!「私はそれであり、これは別のものである」という形のあなたの迷妄に打ち勝ちなさい。かの永遠であり、同質的なブラフマンにおいて、海の中に(泡や波などのように)本来的なものが存在しないのとまさしく同様に、相違(カルパナ)(*1)は存在しません。(実のところ)苦しみはなく、迷妄はなく、誕生はなく、誰も生まれていません。実際に存在するもののみが存在します。

 これを悟り、うろたえずにいなさい。(火や熱のような)二元性を超越しなさい。自らに常に住まい、ものを得ないように。もしくは、あなたが所有するものに愛着しないように。苦しみのない不ニの自らのままありなさい。うろたえないように。自らを頼りとし、堅固に、つつましく、穏やかにいなさい。静かに、思い患うことなく、光り輝く宝石のように純粋でいなさい。うろたえないように。偶然にやって来るものを楽しみ、何ものをも渇望せず、受容と拒絶についての一切の考えを捨て、うろたえずにいなさい。

 真珠(のようなもの)が十分に成長した竹の中に見つかるのとまさしく同様に、真正な知恵もまた、これが最後として生を受けた者の中に見出されます。行いの品位、喜びを与える性質、慈悲、平静、無執着、堅固な知恵、この全ては、淑女が家の内部に見出されるように、彼の中に見出されます。森の野生動物が風の中で竹が発する甘美な調べを好むのとまさしく同様に、全ての人々は善良で優しい行いの人との同伴を好みます。

 解放を達成する二つの道が、この世界(サンサーラ)で具現した存在にとって開かれています。一方はグルの教えに従い、一回かそれ以上の人生の流れの中でゆっくり目的を達成するものです。他方は、識別力ある人々のみに開かれており、空から落ちてくる果実のように速やかに偶然に知を得るものです。この古い物語に耳を傾けるなら、どうして空から落ちてくる果実のように知が得ることができるのかあなたは理解するでしょう。

 一切の栄枯盛衰に打ち勝ち、偉大な繁栄を成し遂げた高貴な人、ジャナカと名付けられるヴィデハの勇敢な王がいました。彼は助けを求める人々にとって望みを叶える木(カルパ・ヴリクシャ)のようでした。蓮華を花開かせる太陽のごとく、彼は友人たちを繁栄させました。

 ある時、春の季節に、ナンダナ(*2)へ入るインドラのように、彼は交尾するカッコウの鳴き声で騒がしい彼の美しい庭園に行きました。蓮華の香りがする、その美しい庭園の木立の間を、従者たちから離れ、彼はぶらつきました。突然、ターマラ樹の木立からやって来る声を耳にしました。その声は、山の洞窟の間の隠遁所に住んでいた目に見えないシッダ(解放された人々)からやって来ました。会話の流れで、彼らは自らの本質を説く以下の歌を歌いました。
 主体が対象に接触する時に至福を生じる、不変の自らに我々は瞑想する 
 過去の潜在的欲望(ヴァーサナー)と共に、見る者‐見られるもの‐視覚という概念を捨て、視覚のもととなる原初の光、自らに我々は瞑想する    

 存在と非存在という二つの概念の間にある光の中の光、自らに我々は瞑想する

 ハムサ・マントラ(*3)を絶えず繰り返し、全存在に住まう自らに我々は瞑想する

 ハートに住まう主を無視し、他の神々を崇拝する人々は、神聖な宝石カウストゥバ(*4)を捨て去り、並みの宝石を探し求める人々のようである

 一切の欲望の放棄により、人は欲望なる毒のつるの絡まった根を切り払う

 世俗的対象物が人を欺くものであると知る後にさえ、それらをいまだ思う邪な者はロバ(馬鹿者)であり、人ではない

 ハリ(*5)がヴァジュラ(*6)によって山々を打つのとまさしく同様に、この五感という敵が活発である時はいつでも、人は識別力というこん棒でそれらを繰り返し繰り返し打ち倒すべきである

 手を握り押し合い、歯をくいしばり、身をよじることより(*7)、まずは心を征服せよ 
 サーダカは、まずは喜びをもたらす感覚の制御を達成すべきである。五感が制御される時、心は落ち着いている。心が落ち着いている者は、彼自身の自らなる至福の内に、堅固に、絶えず留まる
  王がシッダのこの歌を聞いた時、彼は戦(いくさ)の音におびえる臆病者のように恐ろしくなりました。従者全員を後に残し、山に登る獅子のように一人で宮殿に入りました。世界の活動が、空を飛ぶ鳥の羽根のように不安定であることを悟り、彼は大変な苦悩に嘆きました。

 「ああ!ある石が別の石に転がって行くように、私はこの不安定な世界に無目的に暮らしている。我が人生の時間は、無限の時の中のなんとわずかな部分なのか!私がそれに望みをかけるのは何と哀れなことか!我が生涯の間だけ楽しめる、この王国が何の役に立つのか。私は愚かだ、どうしてこのように無駄に生きられるのか。

 この世界には何もない-現実のものも、美しいものも、高貴なものも、純粋に自然なものも。喜ぶべき何があるのか。力強い者どもを率いる人々は数日経つうちに倒れ伏す。ああ!我が心よ、お前はどうして栄華に信頼を置けるのか。彼らは大いなる繁栄と楽しみを享受していた。彼らには愛する親族がいた。この全ては単なる記憶の対象になってしまった。どうして現在の状態に信頼を置けるのか。王たちの財宝はどこにあるのか。ブラフマーにより創造された世界はどこにあるのか。一切のものは過ぎ去ってしまった。どうして私が現在の状態に信頼を置けるのか。何百万のブラフマーが去って行った。天界も同様に消え去ってしまった。王たちは細かな塵のように過ぎ去ってしまった。どうして私がこの生に信頼を置けるのか。

 欲望が私をサンサーラなる悪夢に縛りつけるなら、私が存在しない体なる迷妄にしがみつくなら、我が状態は真にみじめなものだ。数えきれない日々が過ぎ去り、いまだ過ぎ去りつつある。私は今まで終わりを迎えない日を目にしたことがない。初めに、中ほどに、終わりに美しいものは何であれ、究極的な破壊という邪悪によって汚されている。愚かな人々は日々よりいっそう罪深くなり、よりいっそう残酷になり、よりいっそう悲惨になる。愚かな男は少年期は無知に打ち倒され、青年期には女性への欲望に打ち倒され、その後はその妻を心配する。いつ彼は何か善きことを行うのか。

 非存在が存在の、醜さが美の、悲しみが喜びの頂きに座っている。私は何を寄る辺にできるのか。その目を開くことで全世界を有らしめ、閉じることでその消滅をもたらす(ブラフマーのような)人々がいる。私のような者たちは何と取るに足らないのか。心が安らかな時、幸運は喜びの源である。しかし、心が苛立つ時、それは不運となる。同様に、心が苛立つ時、不運は悲嘆の源である。心が安らかな時、それは幸運である。サンサーラは苦しみの極致である。どうしてその真っただ中に存在する体の内に喜びを見い出せるのか。心は無数の芽、枝、葉、実からなる根である。それは想像に過ぎない。私は想像することをやめ、そうして、それに終止符を打とう。その時、サンサーラなる木は枯れる。

 私は目覚めた、私は目覚めた。我が自らを盗む泥棒を私は見た。彼は心である。私は今や彼を殺そう。長らく私は彼の被害者だった。今まで、我が知性なる真珠は穴を開けられないままであった。それは今や穴を開けられ、糸のみを必要としている。善良で賢明なシッダたちによって、私は完全に目を覚ました。今や、私は我が自ら、至高なる至福という目的を探しに行こう。私は「これが私である」や「これは私のものである」のような執拗に生じる誤った概念を放棄しよう。私は強力な敵、この心を殺し、安らぎを達成しよう。おお、識別力よ!私は御身に敬礼する!」

 そのように沈思し、ジャナカは完全に沈黙しました。彼の心の動揺はやみ、彼は絵画の中の肖像のようになりました。長い間、黙ったままいた後、国民の指導者であった彼は、心を完全に律して立ち上がりました。彼は心の中で思いました。

 「獲得すべき何があるのか。私は努力を通じて何を達成しようというのか。私は絶え間のない純粋な意識である。どうして私が何かを想像しなければならないのか。私は得てないものを渇望せず、得たものも拒絶しまい。何があろうとも、私は我が純粋なる自らのままあろう。」

 そのように考え、ジャナカはいつもの流れで彼にやってきた務めに従事し始め、日中(を作り出す)太陽にように冷静に働きました。彼は未来を期待せず、過去を思いませんでした。彼は現在の瞬間を快活に生きました。他のどのような手段を通じてでなく、彼自身の思いの力によって、彼が得たいと思ったものを得ました。

 おお、ラーマ!人は行為によってでなく、自らの優れた明晰な知性と成熟した知恵によって、この境地を得ます。人々が外側の対象物を得ようとする努力は、まずは彼らの知恵の発達に向けられねばなりません。知恵の欠如が、全ての悲しみの中で最大のもの、全ての不運の源、サンサーラなる木の種です。人は、それゆえ、知恵を獲得すべきです。知性ある人々のハートに住まう、この知恵は、望みを叶える宝石(チンターマニ)(*8)です。それはまた、望み通りの果実を実らす、望みを叶える蔓です。弓が鎧を身につけた人に何の害もなさないのとまさしく同様に、様々な方角からやって来る邪悪は、賢明であり、迷妄のない人に影響しません。

 自我は意識なく、愚かで、束縛に従属しています。それは至高なる太陽(すなわち、自ら)を隠す雲のようです。それは知恵なる風によって吹き払われます。収穫を得ようとする農夫が、はじめに彼の畑を耕さなさければならないのとまさしく同様に、この優れた比類ない境地を得ようとする者は、はじめに、この知恵を心に抱かねばなりません。

(*1)カルパナは一般的には「想像」と訳されています。
(*2)ナンダナ・・・インドラ神の庭園。
(*3)ハムサ・マントラ・・・ソーハム、「彼は私である」と同じようです。
(*4)カウストゥバ・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%82%A6%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A5%E3%83%90
(*5)ハリ・・・ヴィシュヌ神
(*6)ヴァジュラ・・・インドラ神の武器ですが、『プラーナ』ではヴィシュヌ神に作り方を聞いて作られたようです。
(*7)直訳は、「手で手を押し付け、歯で歯をきしらせ、手足で手足をねじり」となります。
(*8)チンターマニ・・・http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A6%82%E6%84%8F%E5%AE%9D%E7%8F%A0

2014年3月1日土曜日

バガヴァーンの言葉 - 1918年、C.V.スブラマニア・アイヤルの記録

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年7月 p157~158

 バガヴァーンの言葉


 1918年6月、チットゥール県のC.V.スブラマニア・アイヤルにより記録されました。
  1. 心を内に向け、あなた自身の自らに安らいなさい。
  2. 心が束縛の原因です。
  3. 一つまた一つと放棄し、安らぎに留まりなさい。
  4. 我々が得るものを我々は失います。それゆえに、欲するなかれ。
  5. 二種類の瞑想があります。一つは進んだサーダカによって修練されるニルグナ・ディヤーナであり、彼は瞑想する者自身を知ろうと努めます。もう一種類は、それより進んでいない人々により修練されるサグナ・ディヤーナであり、いくぶん回り道です。そこでは、瞑想者、瞑想、瞑想の対象が究極的には一つに溶け込みます。
  6. 「私は決して生まれていなかった」と知るようになる時、私は決して死にません。死は生まれる者にとってあります。私は決して生まれませんでした。私は体を持たず、それゆえ、私は決して死にません。私はあらゆる所にいます。私がどこに行くことができ、どこに来ることができますか。
  7. 心が死んでいる時、彼は再び死にません。
  8. ジャグラート(目覚め)においてスシュプティ(眠り)を得なさい。そうすれば、あなたはジニャーニとなります。
  9. 心を内に向け、見る者を探しなさい。そうすれば、あなたはあなたが見る者であり、対象的世界は存在しないということを見出します。
  10. 心はそれ自身を主体と対象-見る者と見られるもの-に分けました。それゆえ、名と形からなる外側の世界は独立して存在しません。
  11. ジーヴァは、心に映ったブラフマンの影です。
  12. 人は前世において多くのカルマを行ったかもしれません。その中の少しだけ、今世のために選ばれ、彼は今世においてその結果を享受しなければなりません。それは幻灯機による興行のようであり、興行師は上映で披露されるスライドを少しだけ選び、残りのスライドは他の上映のためにとっておかれます。しかし、自らの知を得ることにより、カルマを滅ぼすことは可能です。カルマは過去の経験の結果であり、様々なカルマはスライドです。そして、心が投影機です。カルマは破壊されねばならず、そうすれば、映像もなく、サンサーラもありません。
  13. 私は心の支配者です。私は心ではありません。たいていの人々は心を自らとみなし、彼ら自身に苦しみをもたらします。
  14. グルは人にとって必要です。彼は実現への道の導き手として役立ちます。しかし、導くグルなくして真理を知った人々もいます。そのような人々は過去の転生において学んだに違いありません。一言か、二言で実現の道に向けるのに十分な人々もいれば、一方、どのような進歩をしうる前に何年も努力して進まなければならない人々もいます。
  15. ディヤーナは真理の実現のために必要です。全ての人が目的に達するために敷かれた道-ヨーガ、バクティ、ジニャーナ-の中で、彼らに合うものを選ばねばなりません。ヴィチャーラもまたヨーガであり、単なる書籍の学習ではありません。
  16. ジーヴァが彼自身をパラブラフマンとして知り、安らぎに留まる時、それが至高の沈黙(モウナム)です。
  17. 自らは不変です。全ての変化は心の変化です。アヴィドヤー(無知)を通じ、心の変化がアートマンに帰せられます。
  18. 砂糖でできたお菓子を見てみなさい。ナスの形のものもあれば、マンタパムや馬のように形作られているのもありますが、それら全ては一つの材料、砂糖からできています。同じように、この世界の対象物は様子や大きさ、または名や形は様々ですが、全てはブラフマン以外の何ものでもありません。
  19. アーシュラマ(グリハスタやブラフマチャーリヤのような人生の段階)は肉体に関連してのみ存在します。アートマンにはアーシュラマはありません。
  20. 「どうして人は幻の支配下にいなければならないのですか」という質問にバガヴァーンは、「幻を持つのは誰か探求しなさい。そうすれば、あなたは幻が存在しないことを見出します」と答えました。
  21. あなたは恐怖を持つべきではありません。なぜなら、アートマンはあらゆる所にあり、あなたはアートマンだからです。分離の感覚がある時に、恐怖が生じます。
  22. アドヴァイタ哲学のみが全ての試験に首尾よく耐えられます。他の学派は、それら自身の理論に合わせるためにヴェーダの聖句を無理に曲げています。
  23. 人は超常的な力を望みますが、彼らが得るものを彼らはいつの日か失わなければなりません。その力を求めることは、あなたがその力を得ようと試みる力よりも、あなたが劣っていることを暗示します。心の全ての働きは、あなたを束縛の状態に留めようとします。それゆえ、欲望を放棄し、何ものにも依存しないように。なぜなら、あなた自身が力と至福の貯蔵庫であるからです。他の一切のものを放棄し、あなたの心を安らぎに留めなさい。