2014年3月22日土曜日

ラージャラクシュミー (ラマナをおじいさんと呼んだ「孫娘」)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

180.
ラージャラクシュミーはヴェーヌ・アンマルの孫娘です。ヴェーヌ・アンマルは、傑出した信奉者エッチャンマル(No.60)の妹です。彼女は息子と共にチェンナイに住んでいます。
  私の母が亡くなった時、祖母は完全に打ちのめされ、彼女の唯一の娘を失ったことに耐えられませんでした。暗く、さびしい夜の午後11時、彼女ははるばるティルヴァンナーマライの町から遠くのラマナーシュラマムに歩いてゆきました。彼女は抑え切れずに泣き、バガヴァーンの御足に平伏しました。アーシュラムのサルヴァーディカーリー、バガヴァーンの弟は、世俗的な理由からバガヴァーンの御足に平伏することに反対しました。これに対して、バガヴァーンは、「同じような状況で、あなたの妹のアラメールが同じことをするのにあなたは反対しますか」と尋ね、反論しました。バガヴァーンはまねできない方法で彼女と悲嘆を共にし、彼女を慰めました。

 1923年に私がはじめてバガヴァーンに会った時、私は3才でした。アーシュラムで奉仕していた祖母は、毎朝、私を一緒に連れて行き、夕方、家に帰りました。ある時、私はおままごとをして遊んでいて、バガヴァーンに調理された米として石の小さいかけらを差し上げ、彼に食べるようにお願いしました。バガヴァーンはすぐさまそれらの石を口に入れ、食べたふりをしました。祖母はそれに反対しましたが、バガヴァーンは、「その子は楽しそうに私に食べ物として石を差し出しています。私は彼女をがっかりさせたくないのです」と答えました。

 昔、食堂でバガヴァーンの隣に座った時、私は祖母にある特別の食べ物をもっとよそってほしいと頼みました。彼女は断わりました。彼女が再びバガヴァーンにその同じ食べ物をもっとよそおうとした時、彼はその子に当てはまる事は彼にも当てはまるという理由で断わりました。

 バガヴァーンは私にタミル語、テルグ語、サンスクリット語を文字から教えました。彼はまた私に算数を教えました。彼が私に教えた最初のサンスクリットの詩節は、ウパデーシャ・サーラムからでした。私はついには30詩節全てを習い覚え、バガヴァーンの前でそれを暗唱し、彼はとても喜びました。バガヴァーンは、スッダーナンダ・バーラティ(No.101)が著した『ラマナ・ヴィジャヤム』という本を、その上に私の名前を書いた後で、1冊私に下さりました。その本には、バガヴァーンのパーターラ・リンガでの滞在についての話も書かれていました。好奇心に駆られ、私はアルナーチャレーシュワラ寺院のその場所を訪れましたが、あたりを飛ぶ蝙蝠と内部から匂う悪臭のために中に入れませんでした。私はバガヴァーンに私の体験を話し、そんなにも長い間どうして彼があのような場所に留まれたのか尋ねました。彼の答えは、「私はそこでの滞在に気づいておらず、他の人からそれについて知るようになりました」でした。これは彼がパーターラ・リンガの内部にいた時、時間と空間をまったく意識していなかったことを示しています。

 私の学校では、子供たちはコラッタム(2本の木の棒を使う遊び)をしたものでした。私はするための棒を持っていませんでした。祖母は2パイサ(1ルピーの32分の1)を棒のために使いたくありませんでした。私がバガヴァーンに私の困りごとについて話した時、彼は付添人のマードハヴァ・スワーミに木から枝をとって来るように頼み、それから彼は2本の美しいコラッタムの棒を作り、私に下さりました。

 ある人が私にバガヴァーンを「タータ」(おじいさん)と呼ばないように言いました。バガヴァーンは、私が子供のころからアーシュラムにいたので、彼を「タータ」と呼んでも何にも悪くないと答えました。

 1950年の初めごろ、バガヴァーンの具合がとても悪かった時、私はラクナウにいました。アーシュラムで働いていた祖母は、私を訪ね、それからカーシーへ行くための許しをバガヴァーンに請いました。バガヴァーンは、彼女がカーシーのガンジス川で沐浴する時に、彼のためにも儀式を行っていいと言いました。数日間、私と一緒にいた後、彼女はカーシーに行き、ラマナのことを思いながら夕方に沐浴している時に、誰かが彼女に上を見えるように言いました。彼女は大きな光り輝く星が光をたなびかせ、空を横切ってゆくのを見ました。そして、これはバガヴァーンのマハーニルヴァーナのまさにその時に起こりました。

コラッタム・ダンス

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