2012年8月28日火曜日

ディヤーナによる思いの排除、ハタ・ヨーガ、プラーナーヤーマ

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』、p350~353

Talks 371. 1937年2月23日 

 アーンドラ出身の3人の中年の一行がバガヴァーンを訪問しました。その中の一人がひざまずき、「私はハタ・ヨーガ、つまり、バスティ、ダウティ、ネティ(*1)などを行っています。私は足首の血管が硬くなっているのに気づきました。これはヨーガの結果でしょうか」と尋ねました。

マハルシ:
 どのような環境でも血管は硬くなったでしょう。そうでなければ、今ほどあなたを悩ませません。ハタ・ヨーガは浄化の過程です。あなたをプラーナーヤーマに導いた後、それもまた心の安らぎの助けになります。

信奉者:
 私はプラーナーヤーマをしてもいいのでしょうか。それは役立ちますか。

マハルシ:
 プラーナーヤーマは、心の制御の助けになります。ただ、あなたはプラーナーヤーマで止まってはいけません。あなたはさらにプラティヤハーラ(*2)、ダーラナー(*3)、ディヤーナ、サマーディへ進まなければなりません。最終的に、最高の結果が収められます。

 その一団の別の人が、「どのようにして渇望、怒り、獲得欲、混乱、高慢、嫉妬に打ち勝つのでしょうか」と尋ねました。

マハルシ:
 ディヤーナによって。

信奉者:
 ディヤーナとは何ですか。

マハルシ:
 ディヤーナとは一つの思いにつかまり、他の一切の思いを追い払うことです。

信奉者:
 何について瞑想すべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたが好む何にでも。

信奉者:
 シヴァ、ヴィシュヌ、ガーヤトリーは同じように効果的だと言われています。どれに瞑想すべきでしょうか。

マハルシ;
 あなたが最も好む誰にでも。彼らの効果はみな同じです。しかし、あなたは一人に専念すべきです。

信奉者:
 どうやって瞑想すべきでしょうか。

マハルシ:
 あなたが一番好きな人に集中しなさい。一つの思いが優勢になるなら、他の一切の思いは追い払われ、最終的に根絶されます。多様性が優勢である限り、悪い思いがあります。(あなたが)好む対象が優勢になる時、良い思いのみが陣地を保持します。ですから、ただ一つの思いにのみつかまりなさい。ディヤーナが主要な修練です。

 少し後で、シュリー・バガヴァーンは続けました。

 ディヤーナは戦いを意味します。あなたが瞑想を始めるや否や、他の思いが押し寄せてきて、力を蓄え、あなたがつかまろうとする、その一つの思いを沈めようとします。その良い思いは、修練を繰り返し行うことによって、徐々に力をつけなければなりません。それが強く成長した後、他の思いは敗走します。

 これは瞑想でいつも起こっているバトル・ロイヤル(大乱戦)です。人は自分自身から不幸を取り除きたいと思います。それには心の安らぎが必要です。心の安らぎとは、あらゆる類の思いによる動揺がないことを意味します。心の安らぎは、ディヤーナのみによってもたらされます。

信奉者:
 では、プラーナーヤーマの必要性とは何ですか。

マハルシ:
 プラーナーヤーマは、思いを直接的に制御できない人のためのものです。それは車にとってのブレーキのように役立ちます。しかし前に言ったように、それで止まるのでなく、プラティヤハーラ、ダーラナー、ディヤーナへ進まねばなりません。ディヤーナの達成の後、心はプラーナーヤーマがない時でさえも制御されます。アーサナ(姿勢)はプラーナーヤーマの助けとなり、プラーナーヤーマが今度はディヤーナの助けになり、結果、心の安らぎが生じます。

 後にシュリー・バガヴァーンは続けました。

 デイヤーナが十分に確立される時、それをやめることはできません。あなたが仕事や遊びや楽しみに従事していても、それは自動的に継続します。それは眠っている間にも続きます。ディヤーナは、それが人にとって自然となるように、深く根付かなければなりません。

信奉者:
 ディヤーナの発展のために必要な儀式や行為は何ですか。

マハルシ:
 ディヤーナ自体が、行為であり、儀式であり、努力です。それは全ての中で最も強烈であり、力強いのです。その他の努力は無用です。

信奉者:
 ジャパは必要ではありませんか。

マハルシ:
 ディヤーナは、ヴァーク(言葉)ではありませんか。どうしてジャパがそのために必要ですか。ディヤーナが得られるなら、その他の何も必要ありません。

信奉者:
 沈黙の誓いは役に立ちませんか。

マハルシ:
 誓いは、誓いでしかありません。それは、ある程度ディヤーナの助けになるかもしれません。しかし、口を閉じ、心を暴れまわるに任せることが何の役に立ちますか。心がディヤーナに従事するなら、言葉の必要性がどこにありますか。ディヤーナほど良いものはありません。仮に人が沈黙の誓いと共に行為にふけるなら、どこにその誓いの利点がありますか。

信奉者:
 ジニャーナ・マールガとは何ですか。

マハルシ:
 私はそれについてずっと話してきました。ジニャーナとは何ですか。ジニャーナは真理の実現です。それはディヤーナよって行われます。ディヤーナは一切の思いを取り除き、あなたが真理につかまるのを助けます。

信奉者:
 とても多くの神がどうして言及されているのですか。

マハルシ:
 体は一つだけあります。それでも、それによってどれほど多くの働きが行われていますか。全ての働きの源は、ただ一つです。それは神々に関しても同様です。

信奉者:
 人はどうして不幸に苦しむのですか。

マハルシ:
 不幸は多種多様の思いによります。思いが統一され、ただ一つのものに集中するならば、不幸はなく、幸福が生じます。その時、「私が何かをする」という思いさえなく、行為の結果を注視することもありません。

(*1)バスティ、ダウティ、ネティ・・・ハタ・ヨーガの浄化法。順に、直腸、内臓や歯やのど、鼻腔を浄化する方法。
(*2)プラティヤハーラ・・・「感覚から退くこと」。プラティ(対抗して、離れて)とアハーラ(食べ物、取り入れるもの)の二つの言葉からなる。
(*3)ダーラナー・・・「心の対象への集中」。ディヤーナとの違いは、ディヤーナのほうが集中が深く継続しているや、瞑想者が集中の対象と一体化しているなど色々な説明があるようです。

2012年8月25日土曜日

サードゥ・ナタナナンダ (「ウパデーシャ・マンジャリー」の編者)の思い出

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』 

47. 
サードゥ・ナタナナンダ(ナテーサ・ムダリアール)(1898-1981)は学者で、彼のシュリー・ラマナとの対話は「ウパデーシャ・マンジャリー(タミル語)」に収められています。彼は『シュリー・ラマナ・ダルシャナム』を著しました。
  1917年から1918年の間、私は教師をしていました。私は信心深い性格で、寺院の神々のダルシャンを得るために、よくあちこちに出かけていました。それを見たある立派な人が、自分からタミル語の2冊の本、つまり、『シュリー・ラーマクリシュナ・ヴィジャヤム』と『ヴィヴェーカーナンダ・ヴィジャヤム』を私に持ってきました。それらを読んだ後、私は神の姿を見たいという願望、そして、その道を私に示してくれるグルを見つけたいという願望に強くとらわれました。この転機に私はバガヴァーンの非凡な偉大さを耳にし、1918年の5月、スカンダーシュラムではじめて彼に会いました。

 「あなたの恵み深い知恵を実際に経験することが、私の大きな望みです。どうぞ私の望みを叶えてください」と言い、私は彼に熱心に懇願しました。その当時、シュリー・ラマナはあまり話しませんでした。それでも、彼は次のように思いやり深く話しました。「私の恩寵を得たいと望むのは、私の前にある体ですか。それとも、その内にある意識ですか。それが意識であるなら、それは今それ自身を体とみなし、この願いをしていませんか。そうであるなら、まずはじめに、その意識にその本質を知るようにさせましょう。その時、それは神と私の恩寵を自動的に知ります。今から後、あなたがしなければならないすべてのことは、あなた自身を体や感覚や心と同一視しないことです。人がその中で形を持たず、独立した無知な深い眠りの状態を、意識的な深い眠りに変えなければなりません。あなたはこの経験が長い修練を通じてのみやってくるということを決して忘れてはいけません。この経験は、あなたの本質が神の本質と異ならないということを明らかにします。」

 バガヴァーンは誰に対しても決して規則を定めませんでした。彼の特徴は、聖なる道を目指す者に定められている行為の規則に彼自身が従うことによって指導することでした。ある人がバガヴァーンがある信奉者たちの行いを非難しないと不平を言った時、「誰が誰を正さねばならないのですか。すべての人を正す権限を持っているのは、主のみではないですか。私たちができることすべては、私たち自身を正すことです。それ自体が他者を正すことです」と彼は言いました。

 シュリー・ラマナは、彼の信奉者にはバガヴァーンやマハルシとして、そしてある人たちには神聖な化身として敬愛されていましたが、他の人たちには彼自身を普通の人として表しました。しかしながら、彼の外側の姿を見ること自体が、安らぎの至福を経験するためには十分でした。彼は自分の本質に気づいているだけでなく、他者の真理も明確に知っていました。数千人の信奉者の真っただ中にいた時でさえ、彼は至高の自らの自覚にいつもしっかりと留まり、彼の境地から少しも外れませんでした。

 シュリー・ラマナは常に自らに住まうことにより真理を指し示しましたが、同時に、神の化身として目に見える形で多くの人に表れました。バガヴァーンのダルシャンを求めてはるばるやって来たポ-ランドの女性の話はその例として役立つはずです。

 ある時、その女性はスカンダーシュラムを見に一人で出かけました。その帰り、とてものどが渇いていると感じはじめました。渇きを潤す方法がまるで見つからず、「バガヴァーンが全能なる遍在する自らであることが真実なら、どうして彼がここに現れて、私の渇きを取り除けないでしょうか」と考え始めました。次の瞬間、シュリー・バガヴァーンが彼の水入れを持って現れ、彼女の渇きを満たしました。これが起こった時、バガヴァーンはアーシュラムでいつもの彼の場所に座っており、山で展開していたドラマにまったく気づいていませんでした。

  そのポーランドの女性は純粋な愛と信仰心を共に備えており、人が超自然的な力を表したなら、その人はキリストのような人であるとただ信じる傾向のある敬虔なクリスチャンでした。まったくもって慈悲深いバガヴァーンは、(彼女の)信仰心に捕らえられ、彼女の信仰にあわせて彼女の前に現れ、彼女の望みを満たしました。

 このような出来事は信奉者の信仰心と信頼を強めるのに大変役立ちましたが、バガヴァーンは人々がそのような現象を意図的に作り出そうとするのをいつも思い留まらせました。

 バガヴァーンは、「本質的に汚れのない空気が、関わるものによって臭気や良い香りを持つようになるのとまさしく同様に、賢者との交際は変容をもたらすための手段です」とよく言っていました。この真理を理解して、信奉者はバガヴァーンに、「バガヴァーンの前では苦もなく経験される安らぎの状態が、たいへんな努力によってさえも、どこであっても得られませんでした」とよく話したものでした。バガヴァーンは「ええ、ええ。真珠母貝がそれが受ける雨粒を真珠に変えるのとまさしく同様に、成熟した者は恩寵としてサッドグルの神聖なまなざしによって救われます。しかし、未熟な者は、グルの前にたとえ長い間いてさえも、何も理解しません。彼らはその価値に気づかずに貴重な樟脳(しょうのう)を運ぶロバのようです。不純な心はグルの恩寵の利益を得ることができません」とよく言いました。
 
 バガヴァーンは、グルへの奉仕がタパスの最良の形であるという信念をもって彼に仕えて時間を過ごしている信奉者たちの精神的な福利に特別な関心を持っていました。バガヴァーンは、「いつでも自らに注意を払おうとしなさい」と信奉者たちに熱心に勧めました。食堂の近くに置かれていた使い終わった葉っぱのお皿を掃き集めていた西洋から来た紳士に彼は言いました。「使い終わった葉っぱのお皿を掃除することが、救済を得るための手段ですか。このタパスをするために、あなたははるばるやって来たのですか。中に入りなさい。あなたの心を浄化するという奉仕が、最高の奉仕です。それのみがあなたを救えます」。

 ある女性がバガヴァーンに平伏し、彼の足に触れ、バガヴァーンの足に触れた手を目にあてました。彼女が毎日これをするのに気づき、ある日、バガヴァーンは彼女に、「内なる照明として輝いている純粋な意識が、グルの慈悲深い御足です。それ(内なる聖なる御足)との接触のみが、あなたに真の救いを与えられます」と言いました。

 マハルシのダルシャンのためにやってきた者の中には、アシュタンガ・ナマスカーランを行うものがよくいました。バガヴァーンは、そのような信奉者に呼びかけて、「グルにナマスカーランを行う利益は、自我を取り除くことだけです。自らの実現は体をかがめることによっては得られず、自我をかがめることによってのみ得られます」と言いました。

 1938年8月、ラージェンドラ・プラサード(後のインド初代大統領)がジャムナラール・バジャジ(*1)と共にアーシュラムを訪問しました。バガヴァーンにいとまごいをする時、バジャジが、「マハートマジ(マハートマー・ガーンディー)が私をここに遣わしました。私が彼に言づけられることが何かありますか」と言いました。バガヴァーンは、「ハートがハートと話す時、何の言づけが必要ですか。ここで働いているのと同じシャクティ(強大な力)がそこでも働いています」と答えました。

 サロージニー・ナーイドゥ(*2)は、バガヴァーンのダルシャンを得た後に、「今日、我々の中に2人の偉大な人物がいます。彼らのうち1人は誰にも1分間でさえ静かにいるのを決して許しません。もう1人は誰にもその『私』を一瞬でさえもたげるのを決して許しません」と言いました。この簡潔な言明は、「私のもの」を欠く自己犠牲であるマハートマーの人生、そして、「私」(自我)を欠くジニャーナであるマハルシの人生を表現しています。

 バガヴァーンに近づいたほとんどすべての人は、彼から何らかの特別なウパデーシャ(教え、導き)を得たいと望んでいました。バガヴァーンは、「ジニャーナは外側からも、他の人からも与えられません。すべての人がそれを自分自身のハートの中で実現できます。ウパデーシャ(ウパ+デーサム)という言葉の意味は、ただ『自らの中にある』、もしくは、『自らとしてある』ことなので、人が外側から自らを探している限り、自らの実現は得られません」と言いました。

 これはほとんどの時に採用された一般的な立場でしたが、例外として、バガヴァーンはかつてハリジャンの信奉者にマントラを授けたことがありました。彼はバガヴァーンを大変な信仰心をもって崇拝しており、一般の社会的慣習にあわせて、遠くのほうからバガヴァーンのダルシャンを毎日得ていました。バガヴァーンは、何日もの間そうしていること気づき、ある日、彼に近くにくるよう招きました。彼のすばらしい信仰心のために大変な哀れみに溶け、バガヴァーンは彼に慈悲深いまなざしを与え、「シヴァ、シヴァと常に瞑想し続けなさい。夢の中でさえこれを忘れないように。これそのものがあなたを祝福します(清めます)」と言いました。

 ある日、バガヴァーンは1冊の本にするために、アーシュラムの出版の校正刷りのページをまとめていました。裕福な信奉者がこの骨折りを不必要であると感じ、「来週、私が来た時には、新品の装丁したその本を1冊持ってきましょう」と言いました。バガヴァーンは、「どうしてそれが必要ですか。我々が必要なのは中身だけです。中身はその本とこれらのページで同じでしょう」とほほ笑んで答えました。

 ある時、マハーラージャがバガヴァーンのダルシャンのためにやって来ました。彼が帰りつつある時、ある住み込みの信奉者がアーシュラムのための寄付を得ようと思い、彼のあとにつづきました。バガヴァーンはこれを認めず、「サンニャーシにとっては、王さえもただの藁(わら、無価値なもの)に過ぎません」と言い、ある物語を話すことでこれを例示しました。「あるムスリムの聖者が、アクバル皇帝がサードゥと交際することをとても好んでいることを知り、彼の信奉者たちのために恩恵を得ようと宮殿に行きました。彼はアクバルがお祈りをして、神からの恩恵を求めているのを目にしました。即座に、彼は宮殿を後にしました。アクバルがその聖者の来訪を耳にした時、彼は聖者を招き、どうしてに会わずに帰ったのか尋ねました。聖者は、『私の信奉者たちの小さな必要を満たすために、私はあなたに近づこうと思いました。しかし、あなた自身に必要とするものがあり、それを満たすために神に祈りを捧げていました。その光景は、神のみが全ての人の必要を満たせるという真理を私に思い出させたので、私は宮殿を後にしました』と答えました」。

 1924年のある夜、数人の泥棒がアーシュラムにやって来て、中に入るために窓を壊そうとしていました。バガヴァーンは彼らに、「部屋に入るためにどうしてそんなに手間をかけているのですか。あなたたちが欲しいものを何でも持って行けるように、戸をあけましょう」と言いました。そして、彼は戸を開けました。それにもかかわらず、泥棒は肉体的にバガヴァーンに暴行を加えました。これに我慢できなかったある信奉者は仕返しすることを望みました。バガヴァーンは割って入り、「忍耐!忍耐!これはどういった類の行為ですか。彼らは泥棒です。彼らは職業として盗みを選んでいます。目的を達成するために、必要なことを何でもする用意があります。もしサードゥもまた善悪を気にしない人々の悪い行いを繰り返すならば、彼らと我々の間の違いはいったい何ですか」と言いました。そのような分別ある助言によって、彼はその信奉者をなだめ、サードゥはどのような状況下でもサンニャーサ・ダルマ(*3)から外れるべきでないと言いました。
 
  バガヴァーンの人生の終わりの近くに、偉大なる人々の全能性を固く信じていたある信奉者は、病気のためにマハルシが弱っているのを見ることに耐えられませんでした。彼は大変な思いやりをもって、病気を自分に移し、他の多くの無力な信奉者たちを救うために今しばらく体に留まるようにマハルシに懇願しました。その信奉者の子供のような無邪気さに驚きながら、バガヴァーンは思いやりを持って彼を見て、「この病気を誰がつくりましたか。それを変える自由を持つのは、(神)だけではないですか。(いったん死ぬなら)四人で運ばなければならないこの肉体という重荷を私が今日まで自分一人で支えてきたことで十分ではありませんか。私はそれを今後も支え続けなければなりませんか」と慈悲深く返答しました。これらの言葉を通じて、物質的な世界において運命の法則は曲げられないということを彼は明確にしました。ジニャーニは、彼の自然な境地に確立した目撃者とし留まるだけです。

 バガヴァーンは信奉者たちに、「あなたは体ではありません。あなたは自分を身体的形態と同一視すべきではありません」と言うことに飽くことはありませんでした。よく知られている出来事がこれを例示しています。ある信奉者がバガヴァーンのダルシャンのためにはじめてやって来ました。バガヴァーンはいつもの座におらず、何かの活動に従事していました。彼がバガヴァーンであると知らずに、信奉者は「どこにラマナはいますか」と尋ねました。即座に、シュリー・ラマナは、「ラマナですか?ほら、彼はここにいますよ」とほほ笑んで答え、ラマナという名前が刻まれていた真鍮製の容器を指し示しました。バガヴァーンは新来者がこの発言に困惑しているのを見て、彼の体とその器を交互に指し示し、「これ(体)もまたその器のように形です。少なくとも、ラマナという名前がそれ(器)にはついています。それさえも、ここ(体)にはありません」と説明しました。それから、彼は活動を再開しました。

 バガヴァーンの体との非同一視は、彼が癌に侵された彼の人生の最後の数か月間に彼と会った人々によって目撃されました。彼は信奉者が用意した治療に無関心なままで、信奉者たちの望みに応じて医者たちが仕事をするのを許していました。彼は「我々の務めは、起こることすべての目撃者のままいることです」と言い、「この体だけがバガヴァーンであると思い、彼らはバガヴァーンが病気のために苦しんでいると悲嘆に暮れています。どうすればいいのですか。彼らはスワーミが去りつつあると心配しています。どこに行けばいいのですか。どのようにして行けばいいのですか」と言い足しました。

(*1)彼はインド国民会議の会計係であった。ガンジーは彼の要請によって彼のアーシュラムをサバルマティからワルダに移した。彼はかつて、彼によって考案されたすべての質問がマハルシに問いかける前にさえ、何らかの形で答えを得たと、編集者の近い親戚の者に述べた。
(*2)彼女はインドの自由闘争に深くかかわっており、Congress Working Committeeの一員であった。よく知られた女性詩人であり、インドのナイチンゲール(鳥の名前)と呼ばれていた。
(*3)世俗を放棄した人の義務
 

2012年8月19日日曜日

心を清めるという苦しみの目的、過去世のカルマによる幸福と苦しみ

◇『バガヴァーンの言葉に添って生きて(Living by the Words of Bhagavan)』、p237~239

バガヴァーンとの対話:18

 バガヴァーンは、自らには苦しみがないので、苦しみは心の産物であるとよく言っていました。かつて、私が「この世の苦しみから逃れる道はないのですか」と彼に尋ねた時、彼は典型的な返答をしました-「唯一の治療薬は、自らの境地に留まり、自らの自覚を失わないことです」。

 苦しみの問題は、講堂での会話の一般的な話題でした。なぜなら、バガヴァーンを除き、我々の誰もが折に触れ起こる心の混乱から免れていなかったからです。以下の質問と答えは、さまざまな時にメモしたもので、苦しみを理解したり、乗り越えたいと望んだ信奉者へのバガヴァーンの典型的な答えを集めたものとなっています。

質問:
 バガヴァーン、生涯を通じて、私は苦しみしか経験していません。これは私の過去生の罪深いカルマのせいでしょうか。かつて、私は母に彼女の子宮の中で私が幸福であったのか尋ねました。彼女は、その当時、非常に苦しんだと言いました。私がこんなにも多くの罪を得たのは、いったいどうしてですか。私はどうしてこんなにたくさん苦しむのですか。

バガヴァーン:
 我々はそれをプールヴァ・カルマ(過去の行為の結果)のためであると言うことができるでしょう。しかし、このプールヴァ・カルマが、例えば、最後(今)より前の生まれのカルマのためであると考える代わりに、この現在の生まれが誰に生じているのか見出しなさい。この体が生を受けたものであるなら、それに質問させましょう。あなたは常に苦しみを経験していると言います。それはあなたの思いでしかありません。幸福のみが存在します。去来するものが苦しみです。

質問:
 道徳的に振舞う人々に、とても多くの苦しみが生じるのは、いったいどうしてですか。

バガヴァーン:
 苦しみが信奉者に生じるならば、それは良いことです。ドービ(洗濯夫)は、衣服を洗う時、それを岩にはげしく打ちつけます。しかし、彼がそのようにするのは、ただ衣服から汚れを取り除くためだけにです。同様に、一切の苦しみは信奉者の心を清めるという唯一の目的のために与えられています。我々が辛抱強くいるなら、幸福が後に続くでしょう。

 次の二つの質問は、私(アナマライ・スワーミー)によって別々の機会に尋ねられたものです。

質問:
 幸福と苦しみは、過去のカルマによって起こります。もし出来事がある特定の方法で起こるように望んだら、そのようになりますか。

バガヴァーン:
 人が過去に多くのプニャ(善行)を行ったならば、まさにこの瞬間にも彼の考えたことは起こりるでしょう。しかし、彼は定められていることを変えようとしているのではありません。ともかくも、なんであれ起こると定められていることに、彼が望むことが一致するようになります。彼の望みが、至高者(*1)の望みや意思によってすでに決定されていたことに一致するようになるでしょう。

 もし大量のパーパム(悪行)があるならば、それらの行為の結果もまた今すぐに実現するでしょう。過去世から持ち越された過剰なプニャとパーパムの結果は、この生で実現します。ヴィドヤーラニャ・スワーミー(*2)には、黄金が降り注ぎました。

質問:
 ある人が善い行為を行った時、苦しみが彼に生じます。しかし、多くの悪い行為をなす他の人がまったく苦しまないことがあります。これはどうしてですか。

バガヴァーン:
 全ての人が、前の生まれから持ち越されたカルマの結果として、幸福と苦しみを得ています。その両方を忍耐強く受け入れ、自らに留まり、、何であれ偶然に従事する行為を行い、幸福や苦しみをその中に探さないこと、それのみが善いのです。

 「私は誰か」という探求は、苦しみの終焉と最上の至福の達成に通じます。

(*1)至高者・・・the Supremeの訳。
(*2)ヴィドヤーラニャ・スワーミー(マーダヴァ・ヴィドヤーラニャ)・・・アドヴァイタの提唱者。南インドのヴィジャヤナガラ帝国(14世紀~)の宰相として、ブッカ王に仕えたといわれている。もっとも有名な著作は、『パーラーサラ・マーダヴィーヤ』と『サルヴァ・ダルシャナ・サングラハ(全哲学綱要)』である。 後者の著作では、16の思想学派をアドヴァイタ・ヴェーダーンタを頂点にして、階梯状に並べ、説明している。