2013年10月19日土曜日

物質主義者のたどる道のり、神や自らよりも「私」から、さ迷う心の制御

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

 読みやすいように対話形式にするため、訳を多少変えています。(文:shiba)

46年3月24日 (後略)

 私はスワーミー・サンブッダーナンダの最後の質問-神への信仰を失った人々、彼らの源を見つけだすように求められるなら、「我々の両親が我々が生じる源です」と言うかもしれない人々をどう扱うか-について言及しました。

バガヴァーン:
 我々の源が両親と言う人がいるなんて。

私(デーヴァラージャ・ムダリアール):
 しかし、神を信じない純粋な物質主義者についてはどうですか。彼をどのように扱うべきですか。

バガヴァーン:
 「私」の源を見つけだすため、徐々に、一歩一歩、彼は近づきます。はじめに不運な出来事が彼の計画を狂わせ、彼の手に負えない力があると彼に感じさせます。それから、彼は儀式、儀式的崇拝から始め、ジャパ、キールタン、ディヤーナを通り、ヴィチャーラへ進みます。

46年8月17日

 今朝、数人のグジャラート州からの訪問客がここに到着しました。どうやら、15日のポンディチェリーでのダルシャンの後の帰りのようでした。彼らの中の一人がバガヴァーンに尋ねました。

質問者:
 自らの実現とは何を意味しているのですか。物質主義者は、神や自らといったものは存在しないと言います。

バガヴァーン:
 物質主義者や他の人たちが言うことを気にしないように。また、自らや神について思い悩まないように。あなたは存在していますか、存在していませんか。あなた自身についてのあなたの考えは何ですか。あなたは何を意図して、「私」と言いますか。

質問者:
 私は「私」を体ではなく、体の内にある何かと理解しています。

バガヴァーン:
 あなたは「私」が体でなく、その内にある何かであると認めています。では、どこからその「私」が体の内に生じるのか確かめなさい。それが生じ、消えるのか、常に存在するのか確かめなさい。あなたが目覚めるとすぐに現れ、体、世界、その他の全てを見て、あなたが眠る時に存在しなくなる「私」があり、別の「私」が体から離れ、体から独立して存在することをあなたは認めます。それは、例えば眠りにおけるように、あなたにとって体と世界が存在しない時に、あなたと共に独りあります。では、眠りの間とその他の状態の間で、あなたが同じ「私」でないのかあなた自身に問いなさい。二人の「私」がいますか。あなたはいつも同じ一人の人です。さて、どちらが現実になれますか。去来する「私」ですか、いつも留まる「私」ですか。その時、あなたはあなたが自らであると知ります。これが自らの実現と呼ばれています。

  しかしながら、自らの実現はあなたにとって異質であり、あなたからはるか離れていて、あなたによって到達されなければならない境地ではありません。あなたはいつもその境地にいます。あなたはそれを忘れ、あなた自身を心とその創造物と同一視しています。あなた自身を心と同一視するのをやめることが、必要とされる全てです。我々は我々自身を自らでないものとたいへん長く同一視してきたため、我々自身を自らとみなすのが困難であると気づきます。そのような誤った実現を放棄することが、自らの実現が意味する全てです。どのように自らを実現(realize)、つまり、現実にする(make real)のですか。我々は非現実なもの、自らでないものを実現、つまり、現実とみなしています。そのような誤った実現を放棄することが、自らの実現です。

午後、パーラーヤナの後で、訪問客がバガヴァーンに尋ねました。

質問者:
 私は私を悩ませている疑問をバガヴァーンに尋ねたいと思います。どのようにさ迷う心を制御すべきでしょうか。

バガヴァーン:(笑った後)
 それはあなたに限ったことではありません。それは全ての人によっていつも尋ねられ、ギーターのような全ての本で扱われている問いです。ギーターが助言するように、心がさ迷ったり、外へ行くたびに、心をたぐり寄せ、心を自らに定める以外にどんな方法がありますか。もちろん、それを行うのは簡単ではありません。それは修練、すなわち、サーダナと共にのみ、現れます。

質問者:
 心は欲するものだけを追い求め、我々がその前に置いた対象に定まろうとしません。

バガヴァーン:
 全ての人が自分に幸福を与えるものだけを追い求めます。幸福が何らかの対象から来ると考え、あなたはそれを追い求めます。あなたが感覚の対象物からやって来るとみなす幸福を含め、全ての幸福が本当はどこからやって来るのか確かめなさい。あなたは全ての幸福がただ自らのみからやって来るのを理解し、その時、あなたは常に自らに留まります。

2013年10月16日水曜日

瞑想の進歩の印 - アスッダ ⇒ ミスラ ⇒ スッダ・サットヴァ ⇒ グナティータへ

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 73. 1935年9月27日

 技術者であるエーカンタ・ラオ氏が尋ねました。「師の恩寵はもちろん、師から何の励みになるものを得られないという落胆についてはどうなのでしょうか」。

マハルシ:
 それは無知でしかありません。落胆などをしているのは誰かについて探求が行わなければなりません。そのような思いの餌食となるのは、眠りの後に生じる自我という幻影です。深い眠りにおいて、その人は苦しんでいませんでした。今、目覚めている間、苦しんでいるのは誰ですか。眠りの状態は、正常な状態の近くにあります。彼に探させ、見出させましょう。

信奉者:
 しかし、励みになるものが不足しているため、やる気が起きません。

マハルシ:
 瞑想の中で、ある種の安らぎを見出しませんか。それが進歩の印です。安らぎは、継続した修練によって、より深く、より長くなります。それはまた目的へも通じます。『バガヴァッド・ギーター』第14章の最後の詩節(*1)は、グナティータ(グナを超越した者)について語っています。それが最終的な段階です。

 前の段階はアスッダ・サットヴァ、ミスラ・サットヴァ、スッダ・サットヴァ(*2)です。その中で、アスッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスによって圧倒されている時です。ミスラ・サットヴァは、サットヴァが断続的に現れる状態です。スッダ・サットヴァは、(サットヴァが)ラジャスとタマスを圧倒しています。この連続した段階の後、グナを超えた境地が訪れます。

(*1)ギーターの14章25詩節で、グナティータについて語られています。シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第37詩節にも採用されています。
(*2)英文では、サットヴァが「being(存在、実在)」と言いかえられているのですが、色々考慮した結果、省いて訳しています。アスッダ・・・不純な、ミスラ・・・混ざった、スッダ・・・純粋な。

Talk 103.

マハルシ:
 この人々は何らかのジャパ、ディヤーナ、ヨーガ、または、似たような何かを求めます。彼らがこれまでに行っていることを言わなければ、彼らにそれ以上何を言えるでしょうか。また、ジャパや、そのパラ・スルティ(*)などがどうして(必要なのですか)。ジャパをするのは一体誰ですか。その結果をそれから得るのは誰ですか。彼らは自らに目を向けられないのですか。あるいはまた、たとえ他の人からジャパやディヤーナをするように指導されても、彼らはしばらくの間それをしますが、常に何らかの結果、つまり、ヴィジョンや夢や奇跡的な力に目を向けています。それらを見出さなければ、彼らは「私たちは進歩していない」、「タパスは効果的でない」と言います。ヴィジョンなどは、進歩の印ではありません。単なるタパスの実践が、その進歩でもあるのです。必要とされることは、着実さです。さらに、彼らはマントラや神に身を委ね、その恩寵を待たなければなりません。彼らはそのようにしません。たとえジャパを一回だけ口にしても、それ独自の良い結果があります-それに人が気づいていても、いなくても。

(*)パラ・スルティ・・・スルティ(聖典)を読むことで得るパラ(結果)。

Talk 427. (抜粋)

信奉者:
 瞑想の修練において、自らの実現に向かう大志を抱く者の進歩を指し示す、主観的な経験の特徴か何かといった印はあるのですか。

マハルシ:
 望ましくない思いから解放されている程度、そして、一つの思いへの集中の程度が、進歩を判断する尺度です。

Talk 565. (抜粋)

信奉者:
 どのように心を正しい方法で保つ(守る)べきですか。

マハルシ:
 修練によって。心に良い思いを与えなさい。心は良い方法で鍛えられねばなりません。

信奉者:
 しかし、心は安定していません。

マハルシ:
 バガヴァッド・ギーター曰く、sanaih sanair uparamed (徐々に、徐々に退き);atma-samstham manah krtva (心を自らに確立し)(*1)abhyasa-vairagyabhyam (修練と離欲により)(*2)

 修練が必要です。進歩はゆっくりです。

(*1)引用の最初の2つは、ギーターの6章25詩節からで、シュリー・ラマナ編集の「バガヴァッド・ギーターの精髄」の第27詩節にも採用されています。
(*2)この最後の引用にぴったりあてはまるのは、ヨーガ・スートラの1章12詩節「abhyasa-vairagyabhyam tan nirodhah(修練と離欲により、この止滅が(もたらされる)」ですが、ギーターの6章35詩節にも「・・・mano・・・abhyasena・・・vairagyena ca grhyate(心は修練と離欲により、制御されうる」とあります。

Talk 618. 1939年2月1日 (抜粋)

マハルシ:
 その思いがどこから起こったのか確かめなさい。それは心です。誰にとって心や知性が働くのか確かめなさい。自我にとってです。知性を自我に溶け込ませ、自我の源を探求しなさい。自我は消え去ります。「私は知っている」、「私は知らない」は、主体と対象を暗示します。それらは二元性のためです。自らは純粋で、絶対的であり、ただ一者のみです。一方が他方を知る二人の自分は存在しません。それでは、二元性とは何ですか。それは、ただ一者のみである自らではあり得ません。それは自らならざるものに違いありません。二元性は自我の特徴です。思いが生じる時、二元性が存在します。それを自我であると知り、その源を探求しなさい。

 思いの消失の程度が、自らの実現へのあなたの進歩の尺度です。しかし、自らの実現そのものは進歩を許しません。それは常に同じです。自らは常に実現されたままあります。妨げるものは思いです。自らが常に実現されているという理解を妨げるものの除去の程度によって、進歩は測られます。ですから、誰に思いが起こったのか探求することによって、思いは制御されなければなりません。そのようにして、あなたは思いが生じない思いの源へ行きます。

2013年10月7日月曜日

ブラフマ・ジニャーナ、サンスカーラとの戦い、感情の征服

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

 読みやすいように対話形式するため、訳を多少変えています。(文:shiba)

45年3月31日 午後

 訪問客、ウッタル・プラデーシュ州のシヴァガル(?)のラージャ(*1)が、「私は私自身をバガヴァーンに委ねます。バガヴァーンは私にジニャーナを下さるべきです」と言ったようでした。バガヴァーンは1937年9月号の「Vision」のナームデーヴ(*2)が主の名の重要性を強調した文章に言及しました。そこでは、「私」、自我が委ねられた時のみに、主の名の意義が理解されると指摘されていました。
 私が講堂に入った時、上述のラージャと他の訪問客のために、どのようにして『アシュターヴァクラ・ギータ』が説かれるようになったのかという話が英語で詳しく話されていました。話を読み終わった後、バガヴァーンは言いました。

バガヴァーン:
 ブラフマ・ジニャーナ(*3)は、遠くのどこかにあり、行って得られる外側にある何かではないため、それを得るためにはとても長い時間がかかるや、とても短い時間で済むということは言えません。それはいつもあなたと共にあります。あなたはそれです!『アシュターバクラ・ギータ』の物語の意図するところは、「ブラフマ・ジニャーナを得るために必要な全てのことは、あなた自身を完全にグルへ委ねること、『私』および『私のもの』なる概念を放棄することである」と説くことです。それらが放棄される時、残るものが現実です。その時、ブラフマ・ジニャーナを得るためにさらにどれほどの時間がかかると言うことは不可能になります。一方の足を階段の1段目に置いた後、もう一方の足を2段目に置くのに要する時間と同じぐらいかかると言うのは間違いでしょう。自我が完全に放棄された瞬間、自らが輝きます。

(続いて、バガヴァーンは『ヨーガ・ヴァーシシュタ』から引用しました)
意識の虚空(チダーカーシャ)なる月を覆う「私」、「自我」なる雲が取り除かれないなら
「私」という感覚(アハンカーラ)をまるで知らないハートなるユリの花は満開にならない

 我々は長年のサンスカーラ(*4)と戦わなければなりません。それは全てなくなります。ただ、過去にサーダナをすでに行った人々の場合には、比較的すぐなくなり、他の人々の場合には遅くなります。

デーヴァラージャ・ムダリアール:
 サンスカーラは段階的になくなるのですか、それとも、ある日突然に消えるのですか。私がこれを尋ねるわけは、私はかなり長い間ここに留まっているにもかかわらず、私の中に段階的な変化を何も感じないからです。

バガヴァーン:
 太陽が昇る時、暗闇は段階的に消えますか、それとも、いっぺんに消えますか。

別の訪問客:
 どのようにして感情を征服するのですか。

バガヴァーン:
 感情が我々の外にある何かであるなら、武器と弾薬を手に取り、それを征服できます。それは我々の内側から出てきます。それが出てくる源を調べることによって、我々はそれが我々から出てこないことを理解し、それを征服するでしょう。世界とその中にある対象物こそが、我々の感情をかき立てます。しかし、世界とこれらの対象物は我々の心によってのみ創造されています。それらは我々の眠りの間に存在しません。

(*1)ラージャ・・・藩主、地方の領主
(*2)ナームデーヴ・・・ヒンドゥー教のヴァールカリー派に属する詩聖。1270年にマハラーシュトラで誕生。
(*3)ブラフマ・ジニャーナ・・・「ブラフマンを直接に知ること、全てをブラフマンであると知ること」など
(*4)サンスカーラ・・・心の過去の傾向、印象