2014年5月28日水曜日

バガヴァーンとデーサーイー氏の対話 - 自らの探求の方法、苦しみ

◇「山の道(Mountain Path)」、1969年10月 p260~263

 以下の対話は、当ブログの2013年8月4日投稿の記事、「バガヴァーンとの対話①」とよく似た内容ですが、より詳しく記録されたものとなっています(文:shiba)。

探求とサーダナ
1944年8月24日午前8時、南インド、ティルヴァンナーマライ、シュリー・ラマナーシュラマムにおいて、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシと南インド鉄道、国際鉄道技術者協会、上級技官、シュリー・D.C.デーサーイーとの間で交わされた質問と答えの報告。
シュリー・デーサーイー:
 探求の間、「私は誰か(コーハム)」などを、ちょうどマントラのジャパのように何度も何度も、それへの感覚と理解をもって心の中で繰り返すべきですか、それとも、それらをはじめに一度か二度尋ね、その後、心を自我の源-ハートに、そして、世俗的な思いや疑いが生じるのを防ぐ努力に集中するべきですか。

シュリー・マハルシ:
 コーハムのジャパは正しくありません。一度だけ質問をして、その後、自我の源を見つけること、思いが再び起こるのを防止することに集中しなさい。

シュリー・デーサーイー:
 探求の間、深く、リズミカルに息を吸い、吐き、このコーハムという文句を息に合わせるように努力すべきですか。

 それとも、コーハムやクトーハム(*1)などの質問を繰り返し言いながら、吸う息と吐く息に注意を払うべきですか。

シュリー・マハルシ:
 それなしで探求に集中できるなら、あなたは呼吸に注意すべきではありません。探求のみに集中できないなら、呼吸に注意しなければならない人もいるかもしれません。探求の間に、ケヴァラ・クンバカ(*2)を修練する人もいるかもしれません。心を安定させ、思いを制御するためにも、秩序だったプラーナーヤーマの助けを必要とする人もいるかもしれません。

 これらすべての修練は、心がそれらの助けなしに探求を修練するほどに十分力強くなった時、放棄されるべきです。プラーナーヤーマは、いつものように注意して修練されるべきです。それはクンバカの力と持続時間を徐々に増します。それは心を一点に集中させます。それなしで集中できないなら、その助けを借りなさい。

 プラーナーヤーマは、心という馬を制御するための手綱、もしくは、思いという車輪を制御するためのブレーキのようです... 「私は誰か」と「私はどこから来たか」は、全く同じです。それらは自我のみに言及しています。現実の自らの場合には、そのような質問が尋ねられるはずはありません。

シュリー・デーサーイー:
 コーハムなどの質問を、「マノー・ブッディ・アハンカーラ・チッタ・ニナーハム(*3)」というようなシュリー・シャンカラによって与えられる答えと交互に行うべきですか。それとも、コーハムという質問それぞれの後に、シヴォーハム(*4)という文句を繰り返すべきでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 探求へのシヴォーハムなどのような示唆的な答えは、瞑想の間、心に与えられるべきではありません。真実の答えは、自然と訪れます。自我が与えるどのような答えも、正しいはずがありません。これらの断言や自己暗示は、他の方法に従う人々にとっては役に立つかもしれませんが、この探求の方法においてはそうではありません。あなたが尋ね続けるなら、答えは訪れます。探求の方法がディヤーナであり、無努力の境地がジニャーナです。

シュリー・デーサーイー:
 私はグルデーヴの教えと著作に従い、グル・マントラ(*5)のジャパにより、サグナ瞑想を修練してきました。私は今、「私は誰か」という探求の方法に従い、瞑想を修練できますか。私がそうしたいと感じるなら、私はこの瞑想を始めるのにふさわしいのでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 「私」もまたグル・マントラです。神の最初の名は、「私」です。オームでさえ後から来ました。アートマ、現実の自らは、いつも「私‐私」です。ジャパをする人、すなわち、アハムなくして、マントラは存在しません。アハムのジャパは、いつも内で続いています。

 ジャパはディヤーナに通じ、ディヤーナはジニャーナに通じます。あなたの好みに応じて、サグナ瞑想、または、探求の方法を修練してかまいません。その人に最も適した方法だけが、その人にとって魅力的に映ります。

シュリー・デーサーイー:
 私は上に述べたサグナ瞑想の他に、ジャパ、マントラの書き取り、キールタナ、バジャン、スワディヤーヤ、聖なる教えの布教、講義、宗教的な出版物の無料配布というような、他の形のサーダナも修練してきました。

 余分な時間があるなら、「私は誰か」という探求に加えて、私はそれらを続けるべきでしょうか。それとも、それらのいくつか、もしくは、全部を削り、探求のみにもっと時間を費やすべきでしょうか。
 上の修練は、探求における私の進歩を早めるのに役立つでしょうか。

シュリー・マハルシ:
 「あなたは誰か」という知(識)を手放さなければ、内なる支配者に促され、全ての活動を行い続けてもかまいません。活動はあなたの努力がなくても続きます。あなたがなすように定められていることを、あなたは避けられません。活動は自発的に起こります。あなたはまた、ジャパやキールタナなどが何を意味するのか理解しなければなりません。あなたであるものになり、留まりなさい。真のジャパはいつも続いています。ジャパと神は、全く同じです。聖者ナームデーヴによって説かれた名についての哲学をご覧なさい。

シュリー・デーサーイー:
 「私は誰か」という探求において、「私」は自我のことを指しているのですか、それとも、アートマンのことですか。

シュリー・マハルシ:
 探求において、「私」は自我のことを指しています。

シュリー・デーサーイー:
 信仰、謙虚さ、委ねの私の現在の性質は、十分に熱心なものですか。それとも、未だとても不完全であり、さらなる発展を必要としますか。

 そうであるなら、恩寵とアートマンの実現における早期の成功に値するために、どうすれば素早くそれらを完成へと発展できますか。

シュリー・マハルシ:
 そのような不完全、資質の欠如などの思いを抱かないように。あなたはすでに完全です。不完全と発展の必要性という考えを取り除きなさい。実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何ものもありません。あなたは自らです。自我は存在していません。探求を続け、実現されるべき、もしくは、消滅させられるべき何かがあるのか確かめなさい。制御されるべき心があるのか確かめなさい。努力さえも、存在しない心によってなされています。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間、背筋を真っ直ぐに保ち、鹿の皮やクシャーサナ(*6)などの上に座り、シッダーサナ(*7)で座ることは探求において役立ちますか。それとも、それらは全く必要ありませんか。それらは進歩を早めませんか。

シュリー・マハルシ:
 真のアーサナは、自らという現実、または、源に「打ち立てられていること」です。あなたの自らに座りなさい。自らがどこに座りに行けますか。あらゆるものが自らに座しています。「私」の源を見つけだし、そこに座りなさい。自らがアーサナなどの助けなしには実現できないという考えを持たないように。それらは全く必要ありません。主要なことは、自我の源を探求し、それに到達することです。姿勢などのようなそれらの細かなことは、心をそらし、それらや体に向けるかもしれません。

シュリー・デーサーイー:
 (探求のための心の素早い鍛練のための)余分な時間のあいだのスワディヤーヤに最も役立つ書籍はどれですか。

シュリー・マハルシ:
 あなたが好きなどの本を読んでもかまいません。自ら(アートマン)が、真の本です。あなたが好きな時にいつでも、それに目を通せます。誰もそれを取り去れません。それはいつも読まれるように手元にあります。余分な時間にも、あなたの自らにつかまりなさい。その後、どんな本でも読めます。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間に疑い、恐怖、心配が私を悩ませるなら、どうしたらそれらを最も効果的に取り除けますか。

シュリー・マハルシ:
 あなた自身に「それらの疑い、恐怖、心配が誰に起こるのか」尋ねなさい。そうすれば、それらは消えます。それらに注意を払うのをやめなさい。内なる自らに注意を払いなさい。恐怖などは、二人いる時、つまり、あなたと別に、あなたと離れて、あなたの外側に誰か他の人がいる時にのみ起こり得ます。あなたが心を内に自らに向けるなら、恐怖などは消えます。

 あなたが疑いや恐怖を一つ取り除くなら、別の疑いや恐怖が生じます。それに終わりはありません。それらを全滅させる最良の方法は、「それらが誰に起こるのか」尋ねることです-そうすれば、それらは消えます。葉を一枚一枚摘むことによって木を枯らすのは、不可能です。あなたが少しの葉を摘むころに、他の葉が成長します。木の根-自我-を取り除きなさい。そうすれば、その葉や枝と共に木全体が枯れます。予防が治療より優れています。

シュリー・デーサーイー:
 私は体の内の源を探すべきですか。

シュリー・マハルシ:
 自我は体の内に生じます。それゆえ、まずは、その源を体の内に探してもかまいません。あなたが源に達する時、内も外もありません。なぜなら、源、または、自らはすべてに行き渡っています。実現の後、あらゆるものは自らの内にあります。

シュリー・デーサーイー:
 源は胸の中央線の右側にありますか。

シュリー・マハルシ:
 ハートは、「私」という思いが生じる場所として定義されています。ハートは、(意識の)中心を意味します。それは肉体のどの部分とも同一視できません。

シュリー・デーサーイー:
 講堂に座っている間、あなたの聖なる響きへの心の受容性を高めるために、そして、講堂での努力の頻度と持続時間を増すため、もしくは、そのような努力をやめるために、私に何ができますか。

シュリー・マハルシ:
 心を静かに保ちなさい。それで十分です。この講堂に座ることはあなたの役に立ちます。努力の目的は、一切の努力を取り除くことです。静寂が達成される時、力は明確に感じられます。聖なる響きは、あらゆる所に存在します。それは心が静まった時に現れます。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想時の努力の間、折に触れ、あなたの目や顔を見つめるなら、それは役立ちますか。それとも、私は目を閉じておくべきですか。閉じるなら、私は目をアージニャー・チャクラ(*8)に集中するべきですか、それとも、ハートの奥深くに集中すべきですか。自分の部屋で探求を修練している時、目を閉じるべきですか、それとも、何らかの献身の対象に定めるべきですか。

シュリー・マハルシ:
 他のどこよりもむしろ、あなたの自ら、アートマを見なさい。目は開いたままでも、閉じたままでもかまいません-それは些細なことです。あなたがそれを「私(I)」や「目(EYE)」と綴ろうとも、ただ一人の私だけがいます。目を開けたり、閉じたりしても意味はありません。注意は、内なる私に集中すべきです。あなたは開いたり、閉じたりできる「私」ではありません。あなたの好みや気持ちに応じて、目を閉じたり、開いたりしてもかまいません。それは些細なことであり、重要ではありません。あなたが自らについて思う時、あなたは世界について思わなくなります。あなたが部屋にいて、目を閉じ、外を見ないなら、窓を閉じても、開いたままにしても、それは些細なことです。体が部屋であり、目が窓です。

 アージニャー・チャクラなどを見ることは、この方法では必要ありません。それは心が外に出て、外側の対象に向かうのを防ぐのに役立つかもしれません。自らに集中しなさい。自らなくしてチャクラは存在しません。それらはあなたなくして存在しません。あなたはそれら全てです。全ての中心(チャクラ)は、ハートにあります。ハートは、アナーハタ・チャクラ(*9)ではありません。後者は、脊髄に存在します。ハートは、「私」です。

シュリー・デーサーイー:
 瞑想の間やそれ以外の時間に、私はとても無知であるか、もしくは、とても無邪気であり、この世界で耐えがたい痛みや拷問に苦しむ何百万の人々についての思いによって困惑し、気が重くなります。つまり、(a)干ばつ、貧困、失業による貧しい人々の飢餓; (b)衛生の習慣への無知、食事、貧困によって引き起こされた無知な人々の病による痛みと苦しみ; (c)罪のない女性や子供への空爆; (d)洪水、地震などによる罪のない貧しい人々の苦しみ; (e)食べ物のために動物を殺すこと; (f)自然において上位の動物によって虫や下位の動物が食べられていること、など。

 私はこの全ては過去世の彼らの邪悪なカルマのせいにちがいないと自分自身を納得させようと努めるのですが、どのように、そして、誰によって彼らにそのような行為を犯すよう強いるほどに彼らの自由意思が向けられたのかということについて疑問が依然として生じます。それが欲望のせいであるなら、どうして、もしくは、どのように彼らは欲望やそのような傾向をそもそも抱くようになったのですか。それがアヴィドヤーやデーハードヤーサ(*10)などのせいであるなら、どうして彼らにその責任がありますか。

シュリー・マハルシ:
 まずは、自我が存在するのかどうか、それらの思いによって気が重くなるのは誰か見出しなさい。体についての考えをどのようにしてあなたが得たのか見出しなさい。あなたの自我というこの問題を解決しなさい。その後で、解決すべき何かが残っているのか確かめなさい。

「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」、歌:S.P.バラスブラマニヤン

(*1)クトーハム・・・「私はどこから来たか」
(*2)ケヴァラ・クンバカ・・・クンバカは「呼吸の停止」。ケヴァラは「~だけ、純粋な」など。
(*3)シュリー・シャンカラ作、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の第1詩節、「マナスでも、知性でも、自我でも、チッタでも私はない」。マナスは「知覚する働き」、知性は「判断する働き」、チッタは「印象、記憶の貯蔵庫」など。
(*4)同じく、「アートマ(ニルヴァーナ)・シャトカム」の各詩節の最後に繰り返される文句。「シヴァは私である」。
(*5)グル・マントラ・・・「グルはブラフマー、グルはヴィシュヌ、・・・」というマントラ。
(*6)クシャーサナ・・・クシャ草で編まれた敷物。
(*7)シッダーサナ・・・達人座という座り方。
(*8)アージニャー・チャクラ・・・表面的な活動場所は、眉の間やおでこ辺り。
(*9)アナーハタ・チャクラ・・・表面的な活動場所は、胸の中央。
(*10)デーハードヤーサ・・・デーハは「体」。アドヤーサは「付加」。自分を体と同一視すること。

2014年5月24日土曜日

バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの年表

◇「山の道(Mountain Path)」、1979年1月 p23~25

 ookuwaさんの「マハルシの年表」(http://ookuwablog.blog94.fc2.com/blog-entry-6.html)もぜひ参考にして下さい。とても詳しくのっています。(文:shiba)

- マハルシの人生における重要な出来事 -


1879年 

12月30日、月曜日-タミル暦のプラマディ年、マールガリ月、16日に相当-プナルヴァス星-アールドラ・ダルシャン日-ティルチュリで午前1時に生誕(「シュリー・スンダラ・マンディラム」)。

1891年

   初等教育をティルチュリで修めた後、ディンディグルに移動。

1892年 

2月18日 : 父スンダラム・アイヤルの死。マドゥライへ移動。スコット中学校とアメリカン・ミッション高校で学ぶ。

1895年 

   11月1日 : ある年配の親戚の人が彼に言った「アルナーチャラ」を耳にする。

1896年 

(6月半ばごろ) : 完全で、永久的な自らの実現に帰着するマドゥライでの「死の体験」(「シュリー・ラマナ・マンディラム」)。-8月29日、土曜日 : マドゥライを離れ、アルナーチャラへ-9月1日、火曜日 : アルナーチャラに到着-寺院の敷地内の千柱講堂、イルッパイ樹の下、パーターラ・リンガ(地下室)の中、時にはゴープラムに滞在。

1897年

町外れにあるグルムールタムに移動(その年の初めごろ)。その寺院に隣接するマンゴー果樹園に滞在(1年半)。

1898年 

5月 : 叔父のネッリアッパ・アイヤルがマンゴー果樹園にいるバガヴァーンを訪問。
9月 : パヴァラ・クンドルへ移動。
12月 : 母アラガンマルがパヴァラ・クンドルにいるバガヴァーンを訪問。

1899年

2月 : アルナーチャラ山へ移動。山の上の様々な洞窟に滞在するが、ヴィルーパークシャ洞窟にほとんど滞在する。マンゴーの木の洞窟を夏の住居として使う。

1901年

シヴァプラカーシャム・ピッライによって尋ねられた質問に答える(「私は誰か」)。

1902年

ヴィルーパークシャ洞窟で、ガンビーラム・セーシャイヤーによって尋ねられた質問に答える(「自らの探求」)。

1905年

ペスト流行の6ヶ月間、パチャイアンマン・コーリに移動-山に戻る。

1907年

11月18日 : バガヴァーンとカーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニとの重要な出会い。バガヴァーンはムニにウパデーシャを授ける。

1908年

(1月から3月) : (ガナパティ・ムニと他の人と共に)パチャイアンマ・コーリに滞在し、再びヴィルーパークシャ洞窟に戻る。
アーディ・シャンカラ作の「ヴィヴェーカ・チューダーマニ」と「ディルク・ディクシャ・ヴィヴェーカ」をタミル語の散文に翻訳。

1911年

11月 : 最初の西洋人であるF.H.ハンフリーがバガヴァーンに出会う。

1912年

ヴァスデーヴァ・シャーストリーと他の人の面前において、亀岩での2回目の死の体験。

1914年

母の病からの回復のために、アルナーチャラへ祈り(歌)を捧げる。

1915年

「ポッパドムの歌」が母のために書かれる。以下のものも、ヴィルーパークシャの日々の間に書かれる。
「アルナーチャラ・アクシャラ・マナ・マーライ」、「アルナーチャラ・パディカム」、「アルナーチャラ・アシュタカム」、「デーヴィーカ・ロッタラ」の翻訳、アーディ・シャンカラ作の「ダクシナームールティへの賛歌」・「グル・ストゥーティ」・「ハスターマラカ・ストートラ」の翻訳。

1916年

スカンダーシュラムへ移る。

1917年

サンスクリット語で「アルナーチャラ・パンチャラトナム」を作る。
母がスカンダーシュラムに定住。「シュリー・ラマナ・ギーター」がガナパティ・ムニによりサンスクリット語で著される。

1922年

5月19日、金曜日 : 母のマハー・サーマディ。
12月半ば : シュリー・ラマナーシュラマムが現在ある場所に移動。

1927年

「ウパデーサ・サーラ」をタミル語、サンスクリット語、マラヤーラム語で作る。
4月24日 : 「アートマ・ヴィドヤ」を作る。

1928年

「ウラドゥ・ナルパドゥ」(40詩節)をタミル語とマラヤーラム語で作る(「サット・ダルシャナム」)。

1930年

サンスクリット語の「サット・ダルシャナム」(ガナパティ・ムニによるタミル語からの翻訳)。

1933年

アーガマ、「サルヴァジニャーノータラム」の中の「アートマ・シャークシャートカーラ」をタミル語に翻訳。

1936年

「シュリー・ラマナ・ギーター」をマラヤーラム語に翻訳。

1939年

9月1日、火曜日 : バガヴァーンによりマトゥルブーテーシュワラ寺院のために基礎が置かれる。

1940年 

「バガヴァッド・ギーター」から42詩節を選び、タミル語とマラヤーラム語に翻訳。

1946年

9月1日 : バガヴァーンのアルナーチャラ到着、50周年記念式典。

1947年

2月 : 「エーカートマ・パンチャカム」をテルグ語とタミル語で作る。

1948年

1月18日 : 牝牛のラクシュミーがニルヴァーナを得る。
アーディ・シャンカラ著の「アートマ・ボーダ」をタミル語に翻訳。

1949年

3月17日、火曜日 : バガヴァーンの面前で、マトゥルブーテーシュワラ寺院のクンバービシェーカム。

1950年

4月14日、金曜日 : 午後8時47分、バガヴァーンのブラフマ・ニルヴァーナ。その瞬間、鮮やかに輝く流れ星が、南(現在のニルヴァーナ・ルーム)から出て、空を横切り、ゆっくり北側に動き、アルナーチャラ山頂の背後に消えるのがインドの様々な場所で多くの人に目撃される。

2014年5月20日火曜日

プニャとパーヴァナの物語 - 輪廻転生(サンサーラ)の克服について

◇「山の道(Mountain Path)」、1974年7月 p170~173

『ヨーガ・ヴァーシシュタ』からの物語-Ⅱ


プニャとパーヴァナの物語


ヴァーシシュタ曰く:
 誤った概念が全ての迷妄の種であり、全ての不運の起源です。人が至高の存在を見る(つまり、実現する)瞬間、人はそれを抱かなくなります。ジャナカのように常に瞑想にふけり、世界の移ろいやすさを見る者には、自らがやがては現れます。サンサーラを恐れる者たちは、神々や儀式的行為、富、親族によって救われません。本人の努力が必要です。

 人が狭い了見、すなわち、「私はこの人である」を抱かなくなる時、シヴァ、広大な遍く行き渡る存在がしかるべき位置につきます。「私は確かにこの人である」という考えの夜が終わりを迎える時、その人自身の遍く行き渡る光輝である夜明けが現れます。ある物事を受け入れ、他を拒絶することが、心の束縛を構成しており、その他の何ものでもありません。捨てさられるべき物事を悲しまず、受けいられるべき物事を愛好しないように。受容と拒絶についての全ての考えをわきに置き、堅固に、心落ち着いていなさい。無欲、無畏、永遠の自らの内にあること、平等の気持ち、堅固な知恵、全てのものに平然とあること、快活さ、全生命への友情、満足、親切、好ましい言葉-これらの性質は、潜在的傾向(ヴァーサナー)と同様に受容と拒絶についての一切の考えがない聖者の内に見出されます。思いの糸で編まれた潜在的傾向の網が、不注意な者という魚を捕らえるためにサンサーラという大海に広げられています。親愛なる者よ!理解の剣でもってそれをばらばらに切断し、風によって散り散りとなる雲のごとく、その断片を追い散らしなさい。次いで、自らの内にありなさい。斧でもって切り倒される木のように、心でもって心を切り倒した後、純粋な境地を得て、そこにしっかりと留まりなさい。あなたが何をしていようとも、立っていようが、歩いていようが、寝ていようが、息をしていようが、昇っていようが、下りていようが、この世界が非現実であるといつも心に留め、あらゆる欲望を放棄しなさい。しきりに肉を欲しがる猫が森にいるライオンに依存しているように、心は本来的に意識なく、知性である自らに依存しています。ライオンを追う者は、ライオンの勇敢さにより獲得される肉を食べます。同様に、心は純粋な知性の力によって示される対象物を把握します。

 あなたが感覚の対象を渇望するなら、あなたは心の所有者となり、束縛に従属します。あなたがそれを気にしないなら、あなたは心を持たず、自由になります。「私は知識の対象ではない」と思い、堅固に至高なるハートに留まりなさい。無限で、純粋な空間のようにありなさい。「私はいつも見る者と見られる世界の間にある純粋な意識である」と知りなさい。味覚の対象、味わう者、その二つの間にある味覚を拒絶しなさい。あなたが(真に)あるものでありなさい。経験者、経験の対象、その二つの間にある経験する行為を拒絶しなさい。あなたが(真に)あるものでありなさい。邪悪な「私」という概念を「私ではない」という明晰さの剣でもって切り落としなさい。悲しみと喜びによって影響されないように。サンサーラをそれらの方法で超越しなさい。

シュリー・ラーマ曰く:
 おお、バガヴァーン!あなたの言葉はとても賢明です。なぜなら、あなたは自我という概念を抱かないように私に求めています。私が「私」という概念を拒絶するなら、私は「私は体である」という概念を放棄することにもなるでしょう。「私」という概念が消滅する時、根がのこぎりで切り落とされた巨木のように体の意識は必然的に消えます。

ヴァーシシュタ曰く:
 潜在的傾向(ヴァーサナー)の放棄には、おお、蓮華の目をした者よ、2種類、すなわち、概念の放棄と知覚対象の放棄があります。「私はこれらの物の所有者であり、それらは私にとって必要不可欠であり、私はそれらなくして存在できず、それらも私なくして存在できない」-このようなしっかり根付いた概念が、「私は何ものにも属さず、何ものも私に属さない」という思いに取って代わられる時、そして、落ち着いた心でもって楽しげな様子で行為を行う時、人は知覚対象と結び付いた傾向を捨て去ります。

 概念と同様に自我意識という連れ合いを戯れに(つまり、楽しげに)捨てる者は、生きているうちに解放された人(ジーヴァンムクタ)であると言われます。潜在的傾向をその根本の原因と共に取り除き、平静を得た者、おお、ラーガヴァ、彼を知覚対象から解放された人であると知りなさい。おお、ラーガヴァ!これら2種の放棄それぞれが人を解放に導きます。このどちらかを達成した人々は、ブラフマンの境地を得て、苦しみがありません。楽しみと悲しみが次々にやって来る時に、喜びも嘆きもしない彼は、解放された人と言われます。好ましい対象と好ましくない対象に対して好悪を持たず、眠っている人のごとく遊行する彼は、解放された人と言われます。喜び、嫉妬、恐れ、怒り、欲望、吝嗇によって本当に影響されない人は、生きている内にさえ解放された人であると言われます。深い眠りにおけるように、目覚めている状態において心の概念がなく、満月のようにいつも快活である人は、解放された人とみなされます。

 おお、ラーガヴァ!外的対象に結び付いた潜在的傾向から生じる欲望が、束縛を構成しています。そのような傾向のないもの(欲望)が、解放を構成しています。「これを私のものにしよう」という欲望は、おお、ラーガヴァ、かぎ爪のようであり、束縛です。

 上に述べられた欲望を常に放棄することにより、偉大なる人々は最高の境地を達成します。束縛と解放、悲しみと喜び、存在と非存在についての一切の考えを捨て去り、穏やかな時の大海のように留まりなさい、おお、ラーマ!考える人の心の中に、4種の確信が生じます。一つは、「頭から足まで、私は父母によって形作られている」です。これは誤った考えによるもので、束縛につながります。「私は一切の概念を超え、髪の毛の先端よりも微小である」が2番目のものです。この確信は善良な人々に生じ、彼らを解放に導きます。「私は世界の全対象物の不滅の自らである」が3番目の確信です。おお、ラーガヴァ、これもまた解放に通じます。「この世界はいつも非現実であり、虚空のごとく対象物を欠いている」が4番目の確信です。これもまた解放に通じます。

 これらの中の1番目のものは、束縛に通じる欲望(つまり、確信)です。その他の三つは、生きている内にさえ解放された人々の内に見出される純粋な欲望(つまり、真実の確信)です。おお、高貴な人よ!「私自身が全てのものである」という確信を持ち続けなさい。そうすれば、あなたは再び嘆き悲しむことはありません。空(スンニャ)、自然(プラクリティ)、マーヤー、ブラフマン、意識、シヴァ(吉祥なるもの)、人(位格、プルシャ)、主(イーシュワラ)と呼ばれるものは、永遠の自ら(アートマン)です。

 唯一の至高の存在の力が、二元と非二元として現れ、戯れに世界を創造します。あなた自身の、もしくは、他者の得失、悲喜によっていかなる時も影響されないように。超越的な境地に寄る辺を求めた者、満月のようにその心が穏やかで、興奮することも得意気になることもない者は、サンサーラの中で不幸を感じません。何ものにも喜ばず、憎まず、嘆き悲しまず、欲せず、快・不快についての一切の思いのない者は、サンサーラの中で不幸を感じません。全ての人に適切に、優しく話し、全ての存在の気持ちを理解する者は、サンサーラの中で不幸を感じません。

 おお、ラーガヴァ!あらゆる瞑想の対象の放棄によって特徴づけられる包括的な知見を持ち、生きている内にさえ解放された生来のあなた自身に住まい、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。心の中で一切の欲望を放棄し、愛着と潜在的傾向なく、外見上は全てのことをなし、そのように世界であなたの役割を演じなさい。外見上は活発であり、しかし、心の中で不活発でありなさい。外見上は行為者であり、しかし、心の中では非行為者であり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。自我意識を捨て、心を空のように純粋に、明瞭に保ち、あたかも眠ってるかのごとくあり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。あなたの行為を親切で、心地よいものにさせましょう。世間的な慣習に従い、しかし、心の中で一切のものを放棄し、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。心の中で無欲を養い、しかし、外見上は欲望を持つかのように見え、心の中で冷静であり、外見上は熱く(つまり、動揺して)あり、そのようにして世界であなたの役割を演じなさい。「これは私の親族であり、あれは見知らぬ人である。私はこの人であり、あなたはあの人である」というような虚偽の概念を抱かないように。偏狭な心の人だけが、「これは私の親族であり、あの人はそうでなはない」と思います。広い心の人々は全世界を彼らの家族とみなします。この世界での多くの様々な前世により引き起こされる迷妄のため、親族と見知らぬ人という考えが生じます。実のところ、三世界すべては人に関連しても、関連してなくもあります。古い物語がこれを例示するために語られています。それはガンガー川の岸辺に住んだ賢者の二人の息子の間に起こった議論に関連しています。

 ジャンブーディーパとして知られるこの広大な土地に、マヘンドラという名の森に覆われた山があります。宝石が埋め込まれた装身具のように美しい(この山の)幅の広い峡谷に、大変な禁欲行を行う賢明で、高貴な賢者が住んでいました。ディールガタパーという名のこの賢者は、禁欲行の体現者であり、月のように美しい二人の息子がいました。プニャ(文字通りの意味は、徳)とパーヴァナ(文字通りの意味は、神聖な)という名を受け、彼らはブリハスパティのそれぞれがカチャと名づけられた2人の息子のようでした。長年、賢者は彼らと共に住んでいました。そのうちに、二人の内で年の上でも、高貴な性質の上でも年長者であるプニャは、賢者となりました。パーヴァナは、夜明けの蓮華のように、不十分に真理を理解したままいました。彼はとても愚かで、目的を達成することができず、ブランコのようにいつも揺らいでいました。

 やがて、賢者ディールガタパーは、全ての物事の原因である時間に追いつかれました。彼は生きることに何の喜びも感じませんでした。彼は年老い、巣を捨てる鳥や、荷を下ろす運搬人のように、終には山の洞窟の中で体を捨てました。空に溶け込む花の香りのように、彼はあらゆる欲望と思いを超えた概念のない心に特有である境地に溶け込みました。

 父親の死にあたり、プニャは落ち着いて葬儀に専心しましたが、パーヴァナは悲嘆に暮れていました。彼は泣きながら、兄のことを気に留めず、森の中の空き地をさ迷いました。父親の葬儀を行った後、極めて徳のある行いをする人、プニャは、森の中に入り、悲嘆に沈んだパーヴァナに近づきました。彼を見て、プニャは言いました。

 「子よ、どうしてあなたはこのように過度に、むやみに嘆くのですか。賢者の中でも最も優れた者であったあなたの父は、解放として知られる彼自身の至高の境地を得ました。彼が彼の真の境地を得ているのに、どうしてあなたは彼のことを嘆き悲しむのですか。あなたには前世で何千もの父、母、息子、親族がいました。全ての人には人生において彼らがいます。あなたが今世の父母や誰かの喪失を嘆くなら、どうして前世の人々の喪失を嘆かないのですか。

 無知という広大な砂漠において、人の潜在的傾向という熱い蜃気楼の水は、善悪の行為という波によって揺り動かされ、無数の形をとります。この世界は、親族、友人、息子、愛、憎しみ、迷妄というような概念によって維持されています。それらは名称に過ぎません。あなたが人を親族とみなすなら、彼は親族になり、見知らぬ人とみなすなら、彼は見知らぬ人になります。束縛は、神酒と混ぜ合わされた毒のようです。それは人の思いに依存しています。ただ一つの遍く行き渡る自らのみが存在する時、どうして『これは私の親族で、あれは見知らぬ人である』というような概念が生じうるのですか。

 「子よ、骨格や血肉などの集まりである体をはじめとし、あなた自身の内に『私は誰か』探求しなさい。実のところ、あなたも私も存在していません。プニャとパーヴァナという概念は虚偽です。あなたは様々な聖地で鹿の中に生まれ、多くの親族を持ちました。どうして彼らのことを嘆かないのですか。あなたは山の高い頂きでライオンの間に多くの親族を持ちました。どうして彼らのことを嘆かないのですか。あなたはダシャルナ国で黄褐色の野生の猿として生まれ、ツシャラ国では王子として、プンドラ国では密林のカラスとして、ハイハヤ国では象として、トリガルタではロバとして、シャルヴァでは犬として、再びシャララ木の鳥として生まれました。ジャンブーディーパと呼ばれる、この国で、あなたはすでに何十万ものそのような生をすでに生きました。このサンサーラにおいて、無数の父と母が木の葉のように亡くなります。自らは、老年と死と同様に、存在と非存在についてのあらゆる考えを超越していると思い出しなさい。愚者のように嘆き悲しまないように。子よ、欲望の汚れのない高貴な心の助け、そして、ハートの蓮華の中で経験される純粋な自らの想起により、即ちに、この迷妄という汚れを脱ぎ捨てなさい。そのようにするなら、あなたは幸福になります。」

 パーヴァナがプニャによりこのように忠告された時、彼は日の出の地上のように完全に真理を悟りました。この二人の賢者は、知識と知恵の彼岸に達し、その後は生涯の終りまで森の中を放浪ました。上に述べたように、人の前世に属する無数の親族がいます。我々は彼らを愛し続けるべきですか、それとも、我々は彼らを愛さなくなるべきですか。

 火が燃料によって大きくなるように、思いは思いによって成長します。人が思うのをやめる時、燃料のない火のように思いは消えます。立ちなさい、あなた自身を目覚めさせなさい、おお、ラーガヴァ!無概念という二輪戦車にまたがり、悲しみに満ちた世界を寛大な憐れみの目で見なさい。

 ブラフマンの境地は、自分自身の内にあります。それは欲望と苦しみから解放されていることです。おお、力強い腕を持つ者よ!これを悟る者は、たとえ彼が愚者であっても、再び惑わされません。識別力を友として選び、理性を高貴な女王として選ぶ者は、空想によって惑わされません。自分自身の勇気、そして、俗事や親族への無執着以外の何も、人を(サンサーラという)悲しい境遇から引き上げるのに役立ちません。それゆえに、人はその心を適切な方向に向け、離欲、聖典の学習、高貴な性質の修養という助けによって、一切の障害を乗り越えなければなりません。

 高貴な性質で満ちた心の助けによって達成されうるものは、三世界の全ての富や、宝石で満たされた宝物庫によって達成することはできません。心が(至福で)満ちている時、世界は神酒で満ちあふれているように見えます。確かに、その足が靴によって守られている者にとって、地上は皮で覆われています。欲望によって気をそらされない心は、愛着から解放されている時、完成を得ます。秋の湖水のように、それは欲望によって増大します。

 欲望によって気をそらされた者の心は、木の空洞のように無価値になります。それはアガスティヤにより飲み干された大海のように干からびます(つまり、冷酷になります)。欲望のない心よりも、満月は明るくなく、乳海は満ちておらず、ラクシュミー(美と繁栄の女神)の顔は美しくありません。月を横切る雲の線や、白い石膏の上のインクの飛沫のように、欲望という悪霊は人を駄目にします。おお、高貴な者よ!あなたのあらゆる欲望を克服し、サンサーラという束縛なくあり、心の中で解放されなさい。愚かな思いからなる心という束縛が壊れるなら、誰が自由にならないのですか。

2014年5月13日火曜日

理論から痛みを伴う実践へ - 全ての人はその本質において神聖である

◇「山の道(Mountain Path)」、1975年7月 p176~177

浄化の痛み
  
フィリップ・ペグラー

 不二という究極的なヴェーダの立場からは、このテーマについての議論はありえません。中心(*1)において、真理は存在する全てであるとして実現されています。浄化とそれに伴う痛みの問題は、我々がこの在るという中心から離れ、二元性の幻の中をさ迷う時にだけ生じます。我々は自らからの誤った分離の感覚から清められねばなりません。それが我々の前にある唯一の務めです。

 それは単純に聞こえますが、このテーマの単なる知的な把握だけでは明らかに十分でなく、人を誤らせることになり得ます。シュリー・バガヴァーンが疑問を晴らすために、根本へ戻るように質問者の受容性に応じて導く前に、いつも恵み深く質問者の理解の水準に下りてきていたことが思い起こされるべきです。与えられる助言は、実践されるべき真理の極めて重要な表現でした。単なる机上の学問-言葉だけを見て、その真意を見ない-は眉をひそめられます。師は全ての見解を相対的に妥当であると認めており、我々もまたそうすべきです。

 しかし、経験的知識がない時さえも、知的な明快さは物事を正しい視点-少なくとも、問題が明確に理解されうる-から捉える助けになります。

 それで、現実において、我々のそれぞれは生命の完全な表現です。生命には確かに浄化の必要はありませんが、無知な個人性を構成する多数の人間の層が、いわば我々の神聖な本質の上に横たわっています。これが清め落とされるべき不純物です。自らと離れて見られる時、個人は架空の存在ですが、自らとしてその本質を表す限りにおいて、それは現実であると我々は教えられています。問題は、我々が頑に「自らならざるもの」の層と同一化し、内で輝く中心の光を忘れていることです。バガヴァーンは、真理は新たに得られる必要はなく、自らが知られるためには、ただ体(すなわち、我々の思いと感覚)との同一化という誤った感覚を放棄すべきであると繰り返し指摘しています。簡単に言われますが、実際、我々が長いあいだ心から可愛がっていた個人性の印象への愛着を断ち切るのは非常に骨の折れる仕事です。

 それ自身の苦闘と痛みを犠牲にして、死ななければならないのは、利己性です。しかし、それは永遠の自由と引き換えに支払われるべき途方もない代価です。簡単な道はありません。最も必要とされることは、受け取るよりもむしろ与えることを求める-人生から自己中心的な満足を一滴も漏らさず絞り出すのでなく、人生に喜びをもたらす-という新たな基本的な態度の方向付けです。我々は他者を犠牲にして、我々自身の利益の面からすべてのものに取り組みます。それが我々の根本的な不快感なのです!しかし、別の道があります。アッシジの聖フランシスの有名な祈りを思い出してください。
アッシジの聖フランシス:

 主よ、私をおん身の平和の道具にしてください
 憎しみのあるところに、私に愛の種を蒔かせてください
 侮辱のあるところに、許しを
 疑いのあるところに、信頼を
 絶望のあるところに、希望を
 悲しみのあるところに、喜びを
 暗闇のあるところに、光を


 そのようにして、我々は真理が流れるの許すために我々の心を開きます。そうして、我々は浄化の理論から実践に-理想主義から現実主義に-移ります。着実な修練のみが、思索を生き生きとした真実へ移すことができます。重要なのは実際の内なる変容であり、それについての中身のない話ではありません。そして、その最も重要な点については、シュリー・バガヴァーン自身が妥協を許しませんでした。彼はサーダナの問題を苦闘する信奉者達の視点から思いやり深く見ました。『ラマナ・マハルシとの対話』からの以下の対話は、それをよく例示しています。
1.(*2)  
信奉者: 我々が瞑想を試みる時、他の思いがより力強く生じます! 
バガヴァーン: ええ。あらゆる類の思いが瞑想において生じます。それはまったく結構なことです。あなたの中に潜在しているものが持ち出されています。思いが上がって来ないなら、どうして破壊できますか。それゆえ、思いはやがては消滅するために自然と上がって来て、そうして心を強くします。 
2.(*3) 
信奉者: どうすれば反抗的な心を制御できますか。 
バガヴァーン: 心が消えるように、その源を探すか、もしくは、心が打ち倒されるように、委ねなさい。 
信奉者: しかし、心は我々の制御から抜け落ちます。 
バガヴァーン: それでもかまいません。そのことについて考えないように。心が落ち着く時、心をつれ戻し、内に向けなさい。それで十分です。誰も努力なくして成功しません。心の制御は、その人の生得権ではありません。成功したわずかな人たちは、彼らの忍耐おかげで成功しています。
  おそらく、このテーマのもっとも簡潔で、鮮やかな要約は、ポール・ブラントンが師と交わした会話の中に見出されるでしょう。対話は、ブラントンが密林の中の隠者の住処への忘れがたい訪問について語る『秘められたインドにおける探求』に記録されています。
 「しかし、マハルシ、この道は困難に満ちており、私は自分自身の弱さをよく承知しています」と私は弁解しました。 
 「それが自分自身を不利な立場に置くための最も確実な道です」と彼は動じないで答えました。「この心を失敗への恐れや自分の欠点への思いによって悩ませることは」。 
 「しかし、もし、それが真実であったら?」と私は食い下がりました。 
 「真実ではありません。人の最大の過ちは彼が本来的に弱く、本来的に邪悪であると思うことです。全ての人がその本質において神聖であり、強靭です。弱く、邪悪であるものは、彼の習癖、彼の欲望や思いです。ですが、彼自身ではありません。」
  彼の言葉は、気持ちを引き立たせる強壮剤となりました。それは私を元気づけ、鼓舞しました。別の人の口からであるなら、より劣った弱々しい人物からであるならば、私はそれをそのような価値でもって受け入れるのを拒否し、論駁し続けたでしょう。しかし、内なる忠告者が、聖者が偉大な真正な聖なる体験の深みから語っていると私に請け負いました...(*4)

(*1)中心・・・「the Center」の訳。真ん中。
(*2)talks.310、p280,281
(*3)talks.398、p384

(*4)『A Search in Secret India』、第16章「密林の隠者の住処で」、p280,281

2014年5月4日日曜日

シッダ・ゴーラクナートとジニャーニ・プラブ - 真の不死とは何か

◇「山の道(Mountain Path)」、1971年7月 p149、150

知者と奇術師


T.K.S

 シュリー・バガヴァーンを訪れた人々は、宗教的生活の様々な側面、そして、超常的な魔法のような力(シッディ)の獲得についても彼とよく議論しました。シュリー・バガヴァーンは、非常な努力と苦行の後のみに我々がこの身体的存在を得ているため、我々はみなシッダであるとよく言っていました。この素晴らしい達成の目的は、一切の達成の中で最も偉大なもの-純粋な実存‐知‐至福-を成し遂げることです。しかし、我々が超常的な力を得るためだけに肉体を使うなら、さらなる束縛-鉄の鎖のかわりに黄金の鎖-を身につけるだけとなります。やはり、束縛は束縛です。黄金のそれを取り除くためには、あなたは至高なる束縛の破壊者、すなわち、ニルヴァーナを得た者への奉仕を求めねばなりません。

 知者(ジニャーニ)の見解では、それらの力は夢で得られた力以上に現実的ではありません。もし物乞いがある王国を統治している王様であるという夢を見るなら、その夢が続く限り、彼は王様であるという楽しみと満足を得ますが、目覚めるとすぐに彼は空腹を満たすために物乞いの器を手にとらねばなりません。同様に、それらの力は、内にある性質の存在に関係する限りのみ、満足を与えます。しかし、それが存在していないと見出される時、それらの力が本質的に虚偽であると知ることの激しい衝撃が訪れます。

 この原則を例示するため、シュリー・バガヴァーンは『プラブリンガ・リーラ』の中のゴーラクナートという名の偉大なシッダの物語をよく引用しました。彼は様々な類の非常な努力の後、1000年の間でさえも死なないように彼の肉体を完成させました。彼は体に様々な試験を課し、体はそれに申し分なく耐えました。この達成に得意気になり、彼は全てのヨーギとシッダに彼の体に剣をつき通すように勧めましたが、彼らがそうしようと試みた時、体は切られも、つき通されもしませんでした。寺院の鐘の場合のように、大きなガーンという金属音がそこから発しました!そのシッダは試みの成功に大得意になり、彼の体現した状態がいつの日か終わりを迎えるということは決して頭に浮かびませんでした!

 彼が愚か者の楽園で得意気になり、幸福を感じていた時に、彼は偉大なジニャーニ、アッラーマ・プラブのことを耳にしました。彼の足元に座り、彼の存在の至福を取り入れるために、彼のもとに多くの人々が集まっていました。言うまでもなく、このジニャーニは、実のところ、人類を助けるためのその姿をした主シャンカラ自身の化身でした。

 彼のもとに来たすべての人に、我々の身体的経験の一切が虚偽であり、個人性という存在しない分離性に基づいていると彼は説きました。真の境地は一切存在の中の一つの不可分な全体性であり、それを理解するとすぐに一切の対極性や複数性の感覚は消え去ります。簡潔に言うと、あなたが絶対的現実、ただ一つの比類ない目撃者、ただ一つの存在‐自覚であり、二元性は幻に過ぎないと彼は教えていました。それであることが、実現(悟り)です。

 さて、我々の偉大なシッダは、彼がどのような類の人物か知りたいという無益な好奇心から、そして、できるなら彼に挑戦し、彼の教えを馬鹿にするためにジニャーニの面前に行きました。彼はジニャーニが骨と皮でばかりであるのに気付き、驚きました。彼は尊大に話かけました。「あなたは死の恐怖を克服した偉大なジニャーニであると言われています。しかし、なんとみじめな体にあなたは住んでいるのですか!その体で死を克服できると思いますか。私を見てください!私は体が決して破壊されないように私の体を完全にしたことを確信しています。ここに剣があります。この体でそれを試してみなさい。そうすればあなた自身で私の達成の性質を知ります!」。

 ジニャーニはそのような危険な試みをするのはご免こうむりたいと願いました。しかし、ゴーラクナートがしつこく繰り返した時、彼は剣を手にとり、その体に向けて打ちつけました。いつも通り、金属音がそれから発し、しばらくの間、響きました。謙遜を装い、アッラーマ・プラブは大変に感銘を受けたふりをして言いました。「あなたが得たのは実に偉大な力です。あなたに栄光あれ!しかし、今や私はあなたの体を試すというあなたの願いを叶えたので、あなたは私の体に同じ試みを受けさせたいという私の願いを叶えなければなりません。どうぞその剣を手にとり、それで私を殺して下さい!」。

 シッダはそうすることを恐れました。彼はジニャーニが死ぬだろうと言いました。しかし、ジニャーニは、誰にも責任はないので、自分が死んでも問題ないと請け負いました。それで、彼は剣でジニャーニの体を打ちつけました。大変驚いたことに、剣は体になんら影響することなく体をまっすぐに通過しました。ゴーラクナートは剣を右から左に、その逆に、前に後ろに通せることに気づきましたが、しかし、あたかも剣が虚空を通過しているかのように、アッラーマ・プラブはそれによって何ら影響されませんでした。

 このことは彼に実に激しい衝撃を与え、突如、彼は声を上げました。「私が成し遂げたことは一体何なのか。私はただ壺を焼いたに過ぎないが、あなたは不死なる存在の核心を得ている。偉大なるグルよ、どうぞ私をあなたの弟子とし、不滅の自らを知る方法をお教えください」。このように言い、シッダはジニャーニの足元に平伏し、ジニャーニは彼を弟子として受け入れ、彼に知識と無知を超えたを説きました。

 さて、この物語はシュリー・バガヴァーンの不滅の存在という真の境地の明確な例示であり、真理を愛する全ての人が、それを楽しみ、それを聞き、祝福を受けたと感じました。