2015年12月25日金曜日

アドヴァイタの文脈で見るキリスト教 - 魂(プシューケー)から霊(プネウマ)へ

◇「山の道(Mountain Path)」、1988年7月 p181~183

アドヴァイタとキリスト(教)信仰

ビード・グリフィス神父

 シュリー・ラマナ・マハルシには様々な宗教の人々の中から弟子がいますが、その多くはキリスト教徒です。それゆえ、伝統的キリスト(教)信仰を抱く者が不二の教説とマハルシのものであった「私は誰か」という探求の方法をどれほど受け入れることができるのか調べることは興味深いことかもしれません。一見したところ、伝統的なキリスト教はアドヴァイタ哲学からかけ離れたものであるように思えるかもしれませんが、より深い学びによって二つの教説には深遠な類似性が存在することが明らかになるやもしれません。この格好の例は、アドヴァイタとキリスト(教)信仰の調和にその人生を捧げたフランス人修道士、ル・ソー神父、スワーミー・アビシクターナンダの教えと人生に見出されます。彼にとっての決定的瞬間が訪れたのは、1949年1月、彼がティルヴァンナーマライのアーシュラムを訪問した時でした。彼はそれについて(以下のように)記しました。「私の心がその事実を認識しうる、ましてやそれを表現しうる前にさえ、この賢者の目には見えない光輪(栄光)は私に中の言葉より深い何かによって感じられていました。アルナーチャラの賢者の中に、私は永遠なるインドの比類なき賢者、その(インドの)賢者たち、その苦行者たち、その予言者たちの途切れない継承を認めました。それはあたかもインドの魂そのものが私自身の魂のまさにその深みを貫き、それと神秘的な交わりを持ったかのようでした。それは万物を貫通し、バラバラに切り裂き、巨大な深淵を開きました」。

 このフランス人修道士の人生を変え、その心に絶え間ない苦闘を引き起こしたのは、この体験でした。この圧倒的な不二の体験を彼のキリスト(教)信仰と調和させようとしながら、彼は日記にその苦闘を書き留めました。その体験は彼にとってさらに深まったのは、彼がティルコイルールのスワーミー・グナナーナンダのアーシュラムで6か月過ごした時、スワーミー・グナナーナンダの内に彼に真正なアドヴァイタの体験を伝えた真のグルを認めるようになった時でした。生涯、彼はこの比類ない体験の絶対的真理を疑い得ませんでしたが、それを伝統的キリスト(教)信仰と調和させることは絶え間ない苦闘でした。彼の本は、『Sacchidananda』の題名で英語に翻訳され、彼はそれをアドヴァイタ的体験へのキリスト(教)的アプローチと呼び、二つの教説を調和させる彼の最初の真剣な試みでしたが、後にこれを超えて行きさえしました。彼が最も深い理解の水準に達したのは、サンニャーサとウパニシャッドに関する随筆からなる『The Further Shore』という彼が記した最後の本の中でした。サンニャーサに関する随筆は元々、リシケーシュのシヴァーナンダ・アーシュラムの雑誌『Divine Life』に掲載され、多くのヒンドゥー教徒に非常に高く評価されています。この本自体が、アドヴァイタとキリスト(教)信仰を調和させることに彼がどれほど成功したのかについての良い試金石です。

 アンリ・ル・ソー、”スワーミージ”、内なる旅、10分ごろから場面はアルナーチャラへ

 我々がアドヴァイタ的体験とのキリスト教の関係を理解したいと思うなら、聖パウロに見出される体(ソーマ)と魂(プシューケー)と霊(プネウマ)の間の区別から始めるのが最良です。不幸にも、後代に、アリストテレスに基づいた体‐魂としての人間の概念が受け入れられるようになり、これは人と神の間に隔たりを残しました。神は人類の「外側」、人類より「上」(にいる)と思われ、神の内在性の感覚は失われがちになりました。しかし、初期の伝統では、聖霊とは、人と神の間の出会いの場であると理解されています。人の霊が神の聖霊に出会うのは、その地点です。聖パウロは「アンソロポス・プシューケーコス」、魂の人と「アンソロポス・プネウマティコス」、霊の人の区別をし、彼の理解するところの人生のまさにその目的とは、魂から霊へ、人から神へと進むことです。この理解において、人間とは、まずはじめに物質的有機体、体であり、世界の物質的有機体の一部です。現代物理学の見解では、全世界は「力の場」、「相互依存的関係性の複雑な網」であり、絶え間ない動的変化の状態にあります。それは「依存的生起(縁起)」という仏教的見解とシヴァの踊りというヒンドゥー教の神話に非常に近しいものです。そして、これは人間の物質的基礎、粗大な体または「アンナ・コーシャ」、「ムーラ・プラクリティ」です。

 キリスト教の伝統の魂、または、プシューケーは、ヒンドゥー教の伝統の微細な体に対応します。それは五感、欲求、感情だけでなく、想像力、理性、意思もまた含みます。カタ・ウパニシャッドの用語において、それは五感(インドリヤ)と心(マナス)と知性(ブッディ)、そして、アハンカーラ、「私の作り手」も含みます。プシューケーは自我、経験上の自ら、ジヴァートマンを中心とし、それがその本質的限界であると認識することが重要です。それゆえに、プシューケー、個々の分離した自らを超越しうること、そして、聖霊、アートマンに自分自身を開きうることに全てはかかっています。キリスト教の伝統のプネウマは、ヒンドゥー教の理解におけるアートマンに極めて密接に対応しています。それは人間性の超越の地点、創造されざるものへの創造物の開放、最終的解放への通路です。

 この観点から考えると、キリスト教の伝統において考えられるところの人間の堕落とは、プネウマからプシューケーへの、聖霊から魂への、無限かつ永遠なるものから有限で一時的なものへの転落に存します。同じ原則に基づいて、救済とは、聖霊の命への魂の返還、人が神との交わりを再び取り戻すことに存します。托身(受肉)によって、神は再び人に入り、神は人になり、聖霊の内の命へと魂は戻されます。これは(キリストの)復活を通して達成されています。復活において、イエスの体と魂は聖霊の命へと連れ行かれると理解されています。粗大な体は十字架の上で死に、墓に埋葬されました。次に、それは微細な体に変じ、彼は弟子たちにその微細な体で現れ、時間と空間の通常の様態を超えて現れ、消えました。最終的に、昇天において、体と魂は時間と空間を超え行き、無限で永遠なるものへと終に入り、その結果、人は神と一つになりました。

 キリスト教の啓示がこれらの用語において考えられるなら、それがどのようにアドヴァイタ的体験と関連しうるのか理解することは困難ではありません。魂、もしくは、心の体は、自我、アハンカーラを中心とし、本質的に二元的です。それは全てのことを主体と対象、心と物質、時間と空間という観点から考えます。しかし、我々が心の状態を超え、自我を超え行く時、我々は一切の二元性から自由の身となります。聖霊の中では、この一切の人間性は乗り越えられています。ヒンドゥー教の伝統におけるシャンカラであれ、仏教におけるナーガールジュナ、イスラム教におけるイブン・アル・アラビー、キリスト教におけるマイスター・エックハルトであれ、その最終的な境地において、二元性が存在しないことは全ての伝統の神秘主義者の体験です。全創造物がその初めから向かっているのは、この超越的な境地であり、人類の運命とは現在の分割された意識の状態から不二、無限、永遠である最終的な意識の境地へと進むことです。しかし、その不二の現実において、全ての神秘主義者が証言するように、この世界の全ての現実性が見出されます。我々は世界を時間と空間で分割され、瞬間ごとに変化していると見ますが、それは我々の現在の分割された意識の様態の限界でしかありません。我々が心の様態を超え行く時、我々は現実そのものを「totasimul」、完全かつ同時に見ます。シャンカラがタイッティーリヤ・ウパニシャッドの注釈の中で述べたように、「ブラフマンを知る者は、永遠であり、ブラフマンの本質から異なるものでなく、我々が真理、知、無限-サティヤム、ジニャーナム、アナンタムとして描いた、一回の認識を通して、一瞬に蓄積されたものとして、全ての好ましい物事を同時に楽しむ」のです。

 この世界が非現実であるということではありません。それどころか、「この全世界はブラフマンである」とウパニシャッドは確言します。しかし、我々がそれを認識する方法には欠陥があります。我々が「魂」から聖霊へ、心から心を超えたものへと進む時、その時、我々はこの世界をあるがままに見るでしょう。無限である真理と知-サティヤム、ジニャーナム、アナンタム-の完全性の中に、我々は全ての人と全てのものをあるがままに見るでしょう。これが救済のキリスト(教)的理解です。それは聖霊の無限の命への体と魂の移行です。イエス自身がその境地について、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言うことができ、弟子たちのために、「父(なる神)である、あなたが私の内におり、私があなたの内にいるように、彼らが一つになりますように。彼らが我々の内で一つになりますように」と祈ることができました。これがキリスト(教)的アドヴァイタ、完全な一体性の境地であり、その中に区別はいまだ見出されません。それは純粋な同一性の状態ではありません。イエスは、「私は父(なる神)である」でなく、「私は父(なる神)の内におり、父(なる神)は私の内にいる」と言っています。彼は、「私を見る者は、父(なる神)を見る」、そして、「私と父(なる神)は一つである」と言うことができます。けれども、彼は、「私は父(なる神)である」とは言えません。純粋なアドヴァイタがありますが、それでも、その不二性の中に区別は残ります。

 この区別は何でしょうか。三位一体というキリスト(教)の教説は、それを「関係」として描きます。存在(being)の完全な一体性はありますが、それでも、その存在の中に関係があります。現代物理学が世界を「相互依存的関係性の複雑な網」として描いていることが思い出されるでしょう。世界は相互に依存した統一体ですが、それは無数のエネルギーの振動から成り立ち、その関係性によって区別されているだけです。良く知られているように、物理学者はもはや原子の中の「粒子」について話さず、異なる周波数の波について話します。そのようにまた、我々が想像するように、人間は孤立した個人ではなく、時間にして創造の始まりまで及んでいる広大無辺な統一体の一部です。各人が、サーンキヤ哲学でマハットとして知られる広大無辺な意識という漠々たる領域の中の意識の中心です。そして、この意識とエネルギーからなる全世界は、至高のエネルギー(シャクティ)と至高の意識(シヴァ)の中に連れ行かれます。我々が見てきたように、世界はシヴァの踊りに比することができ、ギリシャ正教会において三位一体がペリコーレーシス-踊りとして知られているのは、非常に興味深いことです。世界の中心には、この永遠の踊り、純粋な意識の至福の中での位格(父と子と聖霊)の交わりが存在します。それでも、この存在(being)の中の多様性すべては、至高なる神性の不二の存在、不二の意識の中に含まれています。

 キリスト(教)的アドヴァイタに関する考察は、何かそのような世界と人の概念へと我々を導きます。しかし、全てが述べられた時、言葉は言いようのない、かの現実を表現しえないということを認めなければなりません。教会博士、聖トマス・アクィナスは、神その人、絶対的現実は人知にとって「omnino ignotus」-全くもって未知-のままであると言明しました。最終的に、彼は「ネーティ、ネーティ」であるとウパニシャッドをもって我々は言わなければなりません。究極的な真理が知られるようになるのは、沈黙の中であり、ヒンドゥー教徒であれ、カトリック教徒であれ、我々全員が、全てが知られている、その沈黙、その静寂、その究極的な神秘の中へと導かれつついます。「それが知られる時、全ては知られる」。

ビード・グリフィス神父

はっきり聞き取れるところだけ下に訳してます
ヴェーダーンタ、ヨーガ、仏教の教えやスーフィーの教えを通して、キリスト(教)信仰の深い次元を発見することは全く可能であると私は考えています。
我々は神のことを考えなければなりません。我々は何らかのイメージを必要とします。我々は何らかの概念を必要とします。我々は聖書や何らかの聖典を必要とします。それらは神についての理解を我々に与えるためのものです。それは我々の導き手ですが、我々はそこで止まるべきではありません。我々が作り上げた全てのイメージ、概念、考えは、イメージや概念を超える「超えてある神秘」へと我々を導かなければなりません。

2015年12月13日日曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ② - ラマナにとって「マラナ」は吉兆である

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年4月 p87~90

 バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性 

 K.スブラマニアン博士 

  マハルシは楽しみに水を差す人ではありませんでした。彼は心地よいユーモア感覚を持っていました。彼の先生が彼に会いにティルヴァンナーマライにやって来た時、マハルシは彼の詩の一つを差し上げました。それに大変に感銘をうけた先生は、その作品の中の詩節について二つ質問を尋ねました。マハルシは他の人々に向けて、「見なさい!学校で質問に答えることを恐れて、私はマドゥライを離れました。彼は再び質問を尋ねにはるばるやって来ました!」と言いました。

 マハルシは並外れた倹約家でした。彼は詩節を記すために新聞の余白を使ったものでした。彼はあまりに多くの花や葉っぱを摘むことをプージャーのためでさえ誰にも許しませんでした。地面に一粒の米を目にした時でさえ、それを拾い、そのあるべき場所に置きました。かつて、腰布が破れた時、彼は近くの茂みに行き、とげを一本取り、それに穴をあけ、針として使いました。彼は破れた腰布から糸を取り、即興で作った針と糸で縫い合わせました。

 どのような詩のはじめにも、マンガラ・スローカ、祈願の詩節を記すことが通例です。作品が無事に完成するために、神の祝福が祈願されています。マンガラは、吉兆を意味します。普通、マンガラ・スローカは一つだけ記されます。マハルシはウッラドゥ・ナールパドゥ(40詩節)に二つのマンガラ・スローカを記しました。最初のものは、「在るそれ」を意味するウッラドゥという言葉で始まります。二つ目は、「死」を意味するマラナという言葉で始まります。最初のスローカは「在るそれ(That which is)」を扱い、二つ目は「存在しないもの(that which is not)」を扱っています。死という言葉は、一般的にアマンガラ、すなわち、「不吉」です。おそらく、マハルシはマンガラ・スローカの中でマラナを使用した最初の人です。なぜなら、彼に彼自身を実現させたのは死の体験であったからです。他の人々にとっての死は、体の死です。しかし、彼の死の体験は体の意識の死、自我の死に帰着しました。彼にとって、死は吉兆でした。それは彼の役に立ちました。マンガラ・スローカの中でそれについて記すことを彼が選んだのも、不思議なことではありません。興味深いことに、「マラナ」という言葉の中には「ラマナ」という言葉があります。我々がマラナについて思う時、ラマナについても思わなければなりません。それは死の恐怖を追い払います。

 マハルシについての他の並外れたことは、言葉によっても、手を掲げることによっても彼が人々を祝福しなかったことです。いつ我々がどのアーシュラムへ行こうとも、アーチャーリヤやグルが人々を祝福していたり、プラサーダムを授けていることに気づきます。バガヴァーンは誰をも祝福せず、またブラサーダムを少しも授けませんでした。彼は人々に来たり、去ったりするよう決して求めませんでした。彼は人々にあれやこれやをするよう決して求めませんでしたが、それでも人々は彼に会いに行きました。彼の面前で彼らが大変な安らぎを享受したからです。シュリー・バガヴァーンは他者の中に彼自身を見、彼自身の中に他者を見ました。それゆえ、祝福する者はおらず、祝福される者はいませんでした。彼はまた、彼は誰にとってもグルではなく、また、誰も彼の弟子ではないと言いました。純粋なアドヴァイタの境地において、他者は存在せず、それゆえに、グルとシシュヤの問題は生じません。彼はそう言っただけでなく、人生の毎秒毎秒をそのように生きました。彼はティルヴァンナーマライに54年間住みました。しかし、彼はどのように彼の遺体を扱うべきか、どこに埋葬すべきか誰にも指示しませんでした。彼の離欲は完全でした。

 シュリー・バガヴァーンは時間と空間を超えていましたが、彼は最も時間に正確でした。食堂の鐘が鳴った時はいつでも、たとえシュリー・バガヴァーンが何かを話していても、彼は急に(話を)中断したものでした。彼は誰も待たされていないことを願っていました。たいていの時、彼は沈黙していました。しかし、不断の言葉と彼が言った、彼の力強い沈黙を通して、彼は通じ合いました。このコミュニケーションは、アーシュラムにやって来た人々だけに、また、人間だけに限ったものではありませんでした。彼はモウナ、つまり、沈黙を通して一切の疑いを晴らしたシュリー・ダクシナームールティでした。沈黙とは、シュリー・バガヴァーンによれば、舌の沈黙ではなく、心の沈黙です。

 マハルシに何度か会ったダンカン・グリーンリーズは記します。「ただ居るだけで、そのように、それ(人(格))が属する無の深遠の中に人(格)を沈み込ませることを私に可能にする人を私は他に知らない。普通の人から心を奪い去り、無時間の遍在する存在の歓喜の中に深く沈められるほどに、その恩寵を放つ人間は他に見当たらない」。

 シュリー・バガヴァーンは、サマーディにいるとも、それから出ているとも決して言いませんでした。彼は自らから決して逸れることなく、常にその中にいました。彼はその境地の中に常に留まりながら、様々なことを行いました。彼は「アヴィチュタ・スティタプラジニャ」でした。サマーディは彼の自然な境地でした。

 少年時代と青年時代に、私は何度かマハルシのもとを訪れたことがあります。行くたびに、私は表現しえない安らぎを感じました。あらゆる渇望と疑問は、彼の面前で消え失せました。彼は私に来るようにとも、去るようにとも求めませんでした。彼は完全に自由であり、この自由を全てのものに与えました。しかし、彼のもとを離れるたびに、私は全くもって嫌々ながら彼のもとを離れました。私は王子や農夫が彼の前で平伏しているのを目にしました。彼は彼らを皆同じように扱いました。

 マハルシの人生と教えは不可分です。シュリー・バガヴァーンがマドラスを離れ、ティルヴァンナーマライに向かった時、彼の兄の大学の学費を払うために兄から渡されていた5ルピーの内の3ルピーだけを持っていきました。バガヴァーンは、マドゥライからティンディヴァナムまでの列車の運賃だと彼が思った額だけを取りました。彼はアルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラに全てのことを任せていました。我々ならば誰もが、仮に状況が好ましくないなら、家に帰るお金を持っていなければならないと考え、5ルピー全額を取ったでしょう。バガヴァーンには、アルナーチャラが彼を受け入れてくれないのではないかというわずかの疑念さえありませんでした。ティルヴァンナーマライに到着するとすぐに、シュリー・バガヴァーンは真っ直ぐ寺院に行き、到着を報告しました。その後、彼はアイヤンクラム貯水池に行き、キウラーのムトゥクリシュナ・バガヴァタールの妻が彼に差し上げたお菓子を捨てました。彼にティルヴァンナーマライの知り合いは誰もいませんでした。いつ、どこで次の食事を得るのか、そもそも得るのかどうか彼は知りませんでしたが、アルナーチャラにその身を完全に委ねており、アルナーチャラが必要なことを行うと感じていたので、それについて心配しませんでした。また、彼は腰布に必要である布の分だけドーティをちぎり、残りを捨てました。彼は余分のカウピーナに興味はなく、残りの布をタオルとして使うことも考えませんでした。彼は絶対的最小限をとりました。

 17歳の少年は躍進を遂げ、浮世の塵をふるい落としました。これがヴァイラーギャであり、これが隠遁であり、これが完全な委ねです。

 彼は自らの知を強調し、それへ向かう道として自らの探求を強調しました。自らの探求は難しいと言った人々には、マハルシは神への完全な委ねを提案しました。委ねた時、大抵の人々は、委ねたのだから、あらゆることが自分たちの望み通りに進むだろうと期待します。マハルシは、完全な委ねは良いことと悪いことを平静に受け入れることを当然伴うと言いました。そのような委ねにおいて、幸せや不幸せを感じる自我は存在しません。実際、完全な委ねにおいて、自我は自らに溶け込んでいます。自分自身の意思は存在しません。マハルシは宗教と儀式を超えていました。彼の教えは、最も簡素であり、最も科学的です。探求する者を探し求めなさい。あなたは誰か見出しなさい。あなたは至福です。しかし、あなたの苦しみは、あなたが自分自身を体と同一視するためです。万物の源は自らです。自らの探求を通して、あなたの心を自らに溶け込ませなさい。その時、あなたはこの世界で幸せに役目を果たすことができます。自我が自らの中に失われる時、自らはその全き光輝と栄光において輝きます。

 シュリー・ラマナ・マハルシは新しいことを何も言いませんでしたが、彼はアドヴァイタを生きました。ガーンディーは、気落ちしている誰にでもシュリー・ラマナーシュラマムに行き、精神的なバッテリーを充電するよう求めたものでした。世の中に嫌気がさした人にとって、マハルシは元気をつけさせる強壮剤です。彼は純粋な意識である自らへの道を指し示しています。宗教に関係なく、彼は全ての人の心に訴えかけます。家住者であれ、サンニャーシであれ、彼の方法は全ての人が修練できます。それはどのような類の儀式もなく、最も科学的で、直接的です。その人生とその教えを通して、自我に心動かさずにいる時(dead to ego)、人は自らに気付く(alive to Self)ということを確証しています。真理の探求者は、ティルヴァンナーマライのアーシュラムへ行きます。そこでは、彼の存命時と同じように力強く、今、彼の活気に満ちた存在が感じられます。

 『Der Weg Zum Seibst(自らへの道)』の中で、有名な心理学者、カール・ユングはマハルシについて語ります。「我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。・・・シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります」。

 実現(悟り)は、求められずに、シュリー・バガヴァーンのもとへやって来ました。彼が実現を得た時、彼はヴェーダ、ウパニシャッドなどの知識を持っていませんでした。彼はペリヤ・プラーナム、63人の聖典シヴァ派の聖者の人生に関するタミル語の著作だけを読んでいました。16歳の時に彼が死に真っ向から向き合った時、自らの知という宝物は彼のもとへやって来ました。大変な決意と驚くべき勇気を持って、彼は一人で死と向き合いました。その言葉の意味を知ることなく、彼はブラフマンを体験しました。我々は皆、(知識として)それについてたいそう知っていますが、(体験として)それを知りません。

 1950年4月14日、午後8時47分、マハルシは普遍的な精神(遍在する聖霊)に溶け込みました。流星が一つ、空を照らし、それは国の様々な場所で見られました。ティルヴァンナーマライのアーシュラムで、マハルシの存在は今でさえ力強く感じられます。彼を探し求める全ての人にとって、彼が以前にそうであったのと同じく今も、彼に気軽に会うことができます。彼は周辺のない中心になっています。

2015年12月4日金曜日

バガヴァーン・ラマナの唯一性 ① - マハルシにプライバシーは存在しない

◇「山の道(Mountain Path)」、1987年1月 p8~10

バガヴァーン・シュリー・ラマナの唯一性

K.スブラマニアン博士
マハルシについて最も並外れたことは、24時間彼に会えることでした。彼に会うための許可は必要なく、特別なダルシャンの時間はありませんでした。我々の全員が、数時間ごとにプライバシーを要求します。我々は煩わされたくありません。我々にはいつも「煩わ」されているマハルシがいましたが、彼は決して煩わされていると感じませんでした。
  人々はよく彼の周りで眠ったものでした。彼が夜に外に出なければならない時、彼は注意深く足の踏み場を選んで進まなければなりませんでした。誰かが彼にたいまつを差し出した時、マハルシはその必要はないと言いました。信奉者たちに強く勧められ、彼はそれを受け取りました。彼は誰もが煩わされないような方法でそれを使いました。彼が夜に外に出なければならない時はいつも、お腹の近くでたいまつを照らし、その助けによって外への道を見つけたものでした。眠っている人たちを煩わすことになるかもしれなかったので、彼は地面の近くでたいまつを照らしませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 しかし、この配慮は人間に限ったものではありませんでした。それは鳥獣や植物に及んでいました。時折、犬たちが講堂で眠ることを選んだ時、犬たちがその場所を汚してしまうと不平を言う人たちがいたものでした。犬たちがトイレに行けるように、マハルシは彼らを真夜中ごろに外に連れ出しました。犬、スズメ、孔雀、リス、猿、牝牛たちは、よく彼のもとに行きました。彼は彼らに話しかけ、彼らは彼の指示に従いました。彼は誰が蛇を殺すのも決して許しませんでした。「私たちは彼らの居場所にやって来ました。私たちは彼らに保護を与えるべきです」。彼の面前では、猿たちでさえ静かにいました。かつて、彼がアーシュラムの瞑想講堂にいたとき、猿が彼の近くに行こうとしました。少し心配になった人々は、その猿を追い払おうとしました。マハルシは猿を見て、彼の近くに来るように招きました。猿は彼の近くに行き、彼女の赤ちゃんを彼に見せました。マハルシは、「あなたたちみなが彼女を追い払おうとしました。彼女は赤ちゃんを見せに来ています。あなたたちは子や孫を連れて来ます。彼女が同じことをするのを許してはどうですか」と言いました。猿はしばらく留まり、喜びのかん高い声を上げながら去りました。リスたちが彼の寝椅子に登ったときは、たくさんの木の実をもらい、彼の手のひらからそれを食べました。彼は全ての存在に愛を放っていました。

 私たちは弟子がグルに仕えることを耳にしています。ここには、弟子に仕えた他に類を見ないグルがいました。彼は毎朝3時ごろに調理場に行き、野菜を切り、チャツネをすりつぶしたりしました。彼がこしらえたものはなんでも非常に美味でした。彼はおいしい料理に興味はありませんでしたが、信奉者への愛情からそれをこしらえました。

 ある時、マハルシの手に水ぶくれがいっぱいあった時、ヴィシュワナータ・スワーミーという信奉者が彼の仕事をすることを申し出ました。マハルシは水ぶくれで困っていないと言い、きつい手仕事やりつづけました。その信奉者はこれに耐えられず、ある日、マハルシよりずっと早く調理場に密かに入り、普段マハルシによって行われる仕事を全て終わらせました。マハルシが調理場に入った時、彼のする仕事がないことに気づきました。彼が何が起こったのか尋ねた時、ヴィシュワナータ・スワーミーが全ての仕事をしてしまったと聞かされました。マハルシは何も言いませんでした。彼がヴィシュワナータ・スワーミーに会った時、彼になぜそうしたのか尋ねました。ヴィシュワナータ・スワーミーは、マハルシの手に水ぶくれがある時に、チャツネをすりつぶしているのを見るのに耐えられなかったと言いました。マハルシは言いました。「初めのころ、私は食べ物を乞わなければなりませんでした。今、私は無料で食事を与えられています。私はこれに値する何らかの奉仕をすべきではありませんか。今日、あなたは私の仕事をしてしまいました。今日、私は何の奉仕もしていません。あなたのドーティを私に渡して下さい。あなたのためにそれを洗います」。ヴィシュワナータ・スワーミーは感動して涙しました。それ以後、彼はシュリー・マハルシの仕事に決して干渉しませんでした。

 ある信奉者たちは、少なくとも正午12時から午後2時の間の2時間、マハルシは煩わされるべきではないと思いました。彼らはその時間、彼をそっとしておこうと決めました。マハルシはこのことについて相談されませんでした。正午以降に訪問者が一人もいないことに気づいた時、マハルシは付添人に何が起こったのか尋ねました。正午12時から午後2時の間は訪問者が入るのを許可しないと決められたことを彼は告げられました。マハルシは講堂の外に出て、座り、「人々はいつでも私のもとにやって来ます。彼らの中には待つ余裕のない人もいます。彼らが私に会えないようにするなら、私が彼らに会いに行きましょう。あなたがたは扉を閉めておくかもしれませんが、私を閉じ込めることはできませんよ」と言いました。彼は規則を破りたくありませんでしたが、訪問者に不便をかけたくありませんでした。彼の他者への配慮とは、そういったものでした。

 ある時、アメリカ人女性がアーシュラムを訪問しました。彼女は地面にしゃがむことが困難であると分かり、マハルシに向けて足を伸ばしました。インドの伝統ではそのようにすることが失礼であることに彼女は気づいていませんでした。ある信奉者が彼女の所へ行き、他の人々のように足をたたみ、座るよう彼女に求めました。これに気づき、マハルシは、その女性はしゃがむことが困難であると分かったのだから、他の人々のようにしゃがむよう求められるべきではないと言いました。付添人がそれは失礼であると言った時、マハルシは、「ああ、そうなのですか。足を伸ばすことで、私はあなたたちみなに失礼なことをしていますね。あなたが言うことは私にも当てはまります」と言いました。そのように言って、彼は丸一日中、足を組んで座りました。彼に足を再び伸ばしてもらうためには、信奉者側の大変な説得を要しました。

 ある時、調理場で、ある「特別な」食事が別に用意されようとしているのをマハルシが目にした時、彼はなぜそれが用意されようとしているのか尋ねました。それが月経の期間にいる女性のためであると告げられた時、彼は言いました。「どうして彼女は別に調理された食べ物を食べなければならないのですか。どうして他の全ての人に出される食べ物を彼女に与えることができないのですか。月経であることは罪ですか。区別せず、皆のために用意された食べ物から彼女に出しなさい」。彼は他者への思いやりと配慮の必要性を強調しました。彼にとって、他者への気遣いは精神性の基礎でした。

 マハルシは女性に不利になる言葉を一言も発していません。女性が一緒にいることがサーダナの障害になると彼はいかなる時も言いませんでした。彼は家庭生活を放棄して、サンニャーサに入るよう決して誰にも勧めませんでした。ある時、彼は言いました。「サンニャーサは、個人性を放棄することであり、頭を剃り、黄土色のローブを身に着けることではありません。ある人は家住者であるかもしれませんが、自分はそれであると彼が思わなければ、彼はサンニャーシンです。逆に、人は黄土色のローブを着て、放浪するかもしれませんが、自分がサンニャーシンであると彼が思う限り、彼はそれではありません」。性的なことを根絶する方法を尋ねられた時、マハルシは、「体が自らであるという誤った考えを根絶することによって。自らに性(別)は存在しません。『私は体である』とあなたが考えるために、あなたは別の人を体として見て、性(別)の違いが生じます。しかし、あなたは体ではありません。真の自らでありなさい。その時、性(別)は存在しません」と答えました。マハルシは、自らの探求の道は女性にもたどることができると言いました。実際、彼は、解放された女性は解放された男性のように埋葬されるべきであると言いました。

 彼は我々のヴェーダおよびウパニシャッドの中で最良かつ最上である全てを体現していました。彼は古(いにしえ)のリシの系譜の出自でした。彼は完全に自由であり、この自由を他者に与えました。彼は決して何も求めませんでした。彼は何であれ自分のためにするように誰にも求めませんでした。たいていの時、彼は沈黙し、理解を超える安らぎを伝えました。彼はあらゆる面で並外れていましたが、平凡な生活を送りました。彼はあれやこれやを放棄するよう人々に助言しませんでした。彼は彼らに「行為者」という感覚を放棄するように求めました。彼は人々に来るように、もしくは、去るように求めませんでした。彼は奇跡や千里眼などを重視しませんでした。彼にとっては、自らの実現が最も重要なことでした。この実現は新たな何かの獲得ではなく、一切の偽装の除去でしかないと彼は言いました。彼は他者と共に食べ、他者に給仕された分だけしか、それ以上は少しも食べませんでした。彼はどんな特別待遇も許容しませんでした。ある時、信奉者がマハルシのために特別に用意されたチャワンプラシュを送った時、その信奉者に配慮して彼は一日か二日はそれを食べましたが、後でそれをみなに分け与えました。彼はとても具合が悪い時でさえ、どんな特別な食事も承諾しませんでした。全てのものが等しくみなに分け与えられることを彼は強調しました。「それが私にとって良いのなら、皆にとって良いのです」と彼はよく言ったものでした。

 彼の純朴さは、並外れたものでした。ディリップ・クマール・ローイは彼についてこのように記しました。「彼の自らを忘却した様子は、私にとって、やはり魅惑的でした。彼のどの態度にも不自然なものは何もありませんでした-装われたり、崇高な、無理に効果を狙ったものはありませんでした。日没の雲の上に美が座すように、彼の上には偉大さが楽々と座していました-しばしば、破壊的な効果を伴うにしても。というのも、いかに偉大なる人が行うべきかについての我々の一切の考えは、純朴な不賛成の微笑みをもって、彼によって払いのけられたように思えたからです」。

 彼は学者ではありませんでしたが、学者たちは疑問を解消するために彼のもとへ行きました。彼は自発的には決して何も記しませんでした。他者の要望に応じて彼が記したものが、本を埋めています。彼の母語はタミル語です。しかし、彼はタミル語だけでなく、彼が信奉者たちから聞き覚えた三つの言語、サンスクリット語、マラヤーラム語、テルグ語でも魅惑的な詩を記しました。それらの言語の学者たちは、彼の詩の美しさに驚嘆しています。
(次号に続く)
(shiba注)
上の題の「プライバシー」に関してですが、英語のprivacyには、「①私生活、②秘密、③隠遁」の意味があるので、そのような意味をこめています。