2019年9月22日日曜日

バガヴァーンとの日々⑩ - 46年1月3日から46年1月8日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p90~101

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月4日 午前

 受け取った手紙などの中に、D.C.デーサーイーによるDivine Grace Through Total Self-Surrenderと呼ばれる小冊子がありました。バガヴァーンはそのいくつかの抜粋を私たちに読み上げました。以下の引用はポール・ブラントンからです。「私は全く穏やかで、私が誰で、何が起こっているのか完全に気づいたままいます。自らはいまだ存在しますが、それは変化した輝かしい自らです。私の取るに足りない人格よりはるかに優れた何かが意識に生じ、私になっています。私はきらめく光の大海のただ中にいます。私は聖なる至福の膝の上に座っています」。以下もまた(そうです)。「神聖な恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の(一つの)顕現です。それは、全ての自然法則に優越する独自の知られざる法則を通じて、不可思議な方法で出来事の流れを変更でき、相互作用によって自然法則を変更できます。それは森羅万象の中で最も強力な力です」。

 「それは、完全な自らの委ねによって呼び起こされたときにのみ、降り立ち、働きます。それは内から働きます。なぜなら、神は全ての存在のハートに住まうからです。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞けます。」

 ポール・ブラントンはその性質を以下のように描きます。「合理主義者はそれを笑い、無神論者はそれをあざけりますが、それは存在します。それは魂の意識の領域への神の降下です。それは予期せぬ予知できない力の訪れです。それは広大無辺な沈黙の声の表明です...それはそれ独自の法則下で本物の奇跡を行える広大無辺な意思です」。

午後

 サイード博士が、今月のVisionからバガヴァーンにスーフィーの物語を読み上げました。その教訓は、師の指示への絶対的な、疑わない信頼と服従がなければならない、ということです。

 他の全員が彼(ガズニ)の宝石を壊すというムハンマド・ガズニの命令に従おうとしなかったとき、一人の従者が躊躇なくそれを壊し、他の人々にそれを責められたとき、「私の師の命令より私にとって貴重なものは何もありません」と言いました。私はこのことでラーマーヌジャの人生の以下の出来事を思い出し、それをサイード博士たちに話しました。ランガナータ神がシュリーランガムでの行進に持ち出されていたようで、ラーマーヌジャは出てきて、行進を見るよう弟子に呼びかけました。その弟子はラーマーヌジャの牛乳を煮ていて、どれほど呼ばれても出てこようとせず、後で彼の師に説明しました。「ランガナータはあなたの師で、彼はあなたにとって重要です。あなただけが私にとって重要なので、私はあなた(へ)の奉仕、つまり、あなたのために牛乳を煮ることををやめて、ランガナータを見に行くことはできませんでした」。

 1946年1月3日の午後のデーサーイー夫人の質問へのバガヴァーンの答えに関連して、私は彼に尋ねました。「本業や専門職というような、人生の中の重要な出来事だけあらかじめ決定されているのですか、それとも、水を一杯飲むや部屋のある場所から別の場所に動くというような、人生の中の取るに足りない行為もまた、あらかじめ決定されているのですか」。

 バガヴァーン: ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。

 私: では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。

 バガヴァーン: では、何のために体は存在するようになりますか。

 それはこの人生で遂行するよう運命づけられた様々な物事を行うために用意されています。全てのプログラムが計画されています。「タミル語(わずかなものもの意思以外によって動かない)」は、あなたが「タミル語の意思以外によって動かない)」や「タミル語(カルマ以外によって動かない)」と言おうとも、同じ真理を表します。人間にとっての自由に関して言えば、彼は彼自身を体と同一視しない、体の活動の結果起こる楽しみや苦しみによって影響されないことが自由にできます。

46年1月5日 午後

 私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは何か質問に答えているところで、「夢が短く、目覚め(の状態)が長いこと以外、夢と目覚めの状態に違いはありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いために、私たちはそれが私たちの真の状態であると想像します。しかし、実際のところ、私たちの真の状態とは、時にトゥリーヤ、第四の状態と呼ばれるものです。それは常にあるがままにあり、3つのアヴァスター、つまり、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。私たちがこれら3つをアヴァスターと呼ぶため、私たちは第四の状態もトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らなる真の自然な状態です。これが実現されるとき、私たちはそれがトゥリーヤ、第四の状態ではなく-なぜなら、第四の状態は相対的でしかありません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的状態だとを知ります」と言いました。

 ある訪問者がバガヴァーンに尋ねました。「聖職者は様々な儀式やプージャーを定め、断食やごちそうなどと共にそれらを適切に順守しなければ、罪が生じるだろうなどと人々は言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を順守する必要性はありますか」。

 バガヴァーン: ええ。そのような崇拝すべてもまた必要です。それはあなたに必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にも必要ではなく、全く何の役にも立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも彼が幼児教室で習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

 同じ訪問者が、「私はオームカーラ・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: ええ。どのプージャーでも良いのです。オーム・ラムや他のどの名前でも結構です。要点は、オームやラムや神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラやジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする彼は、ラーマ・マヤになります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を彼は知ります。

 私たちの本質はムクティです。しかし、私たちは束縛されていると私たちは想像していて、自由になるための様々な骨の折れる試みを行っています。私たちはその間中ずっと自由なのにもかかわらず。これは私たちがかの段階に達した時になってはじめて理解されるでしょう。私たちは、私たちがいつも私たちであったもの、そして、(今も)私たちであるものを必死に得ようとしていたことに驚くでしょう。一つの例で、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけ、様々な大陸を横切り、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に帰ってきて、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラマムに入り、講堂に歩み入るという夢を見ます。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横になったところで寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今までずっといました。それはまさにそのようです。自由であるのに、どうして私たちは自分たちが束縛されていると想像するのか問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を横切り、世界を冒険中だと想像したのですか。その全ては心、マーヤーです」と答えます。

 シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから(来た)と言う別の訪問者が、バガヴァーンに尋ねました。「しかし、我々は世界で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な事実です。それは彼にとってとても現実的です。私たちはそれを夢と呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

 バガヴァーン: ジニャーナ、現実の視点からは、世界と同様に、世界のごくわずかの部分である、あなたが言う苦しみは確かに夢です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのを見ます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、空腹で苦しんでいることに気づいた他の人たちに食事を与えます。夢が続く限り、あなたが今、世界で見る苦しみを現実的だと思うのと同様に、その全ての苦しみは非常に現実的です。目覚めて初めて、夢の中の苦しみが現実ではないことをあなたは発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中、長時間、懸命に働き、疲れて、空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから少しも動いていないことに気付きます。しかし、だからと言って、あなたが夢にいる間に、そこであなたが感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞えると言っているのではありません。夢の中の空腹は夢の中の食べ物で満たされなければいけません。夢の中でとてもお腹が減っているとあなたが気付いた仲間たちには、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混同できません。あなたがジニャーナの境地に達し、そうして、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることで社会奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、私たちに言われるように、アハンカーラなしに、つまり、「私が行為者である」という感覚なしに、「私は主の道具である」と感じながら、それを行うべきです。同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼には助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思い上がってはいけません。そうではなく、その人の中の神を崇拝するための手段として、あなたはその人を助けなければいけません。そのような奉仕すべても自らのためであり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身だけを助けているのです。

 T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルが、これに関連して言いました。「エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、『私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒なやつが溝から出ようともがいているのを見ることの自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました』と答えました」。

 ジョーシー氏: 私は世帯主です。私には霊的成長の行く手をふさぐ扶養家族と障害物があります。私はどうすべきでしょうか。

 バガヴァーン: その扶養家族と障害物があなたの外にあるのか、それらがあなたなしに存在するのか確かめなさい。

 ジョーシー氏: 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

 バガヴァーン: あなたは今どこにいますか。どこが目的地ですか。進まなければならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らならざるものと同一視する、長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外側に向けることにより、あなたは世界を、自らならざるものを見つづけています。あなたが心を内側に向けるなら、あなたは自らを見るでしょう。

 この会話の後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンがただちに言いました。「母がこの歌をしょっちゅう歌っていました。これは今、私たちが話していた、まさにそのことを繰り返しています」。そこで直ちに、私はバガヴァーンにその歌の作者は誰か尋ねました。

 彼は言いました。「アヴダイ・アンマルです。彼女は非常に多くの歌を作りました。それはあれらの地域(マドゥラや近辺の他県)でとても人気があります。そのいくつかは出版されています。それでも、とても多くが出版されないままです。それは世代から世代へ、主に女性を介して、口頭で受け継がれてきました。彼女達は他の人たちから歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」。私はバガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを今、知りました。バガヴァーンは、それにも関わらず、彼女は大変多くの歌を暗記していたと私に言いました。その歌と意味が以下に記されます。

(タミル語の歌)

常に意識かつ至福である
自らがどうして
どうして今まで、あたかもこれを
忘れていたかのように振る舞ったのか
摩訶不思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私の愛しい人よ
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗い波が深淵なる至福の海に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもない、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、特性がない
分離がなく、それゆえ、恐れがない
おお、摩訶不思議、夢の中のように見える物事!
内も外も、高きも低きも、十方すべても
光の中に失われた-無限に広大で
壊れえず、支えられず、完全で穏やかな(光の中に)
純粋な意識、不変の至福
かつては遠く遥かなもの、目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜、歓喜が!

46年1月6日 朝

 (「Who」として知られる)ラクシュマナ・サルマ氏が来ました。バガヴァーンは、サルマ氏が彼の(サンスクリット語の)ヴェーダーンタ・サーラムの英訳を書き出したノートに目を通していました。私はこのヴェーダーンタ・サーラムが何を扱っているのか知りたくなり、サルマ氏の息子、カメーシュワランにそれについて尋ねていました。バガヴァーンがこれを聞き、私のほうを向き、「これはマハー・ヨーガと同じです」と言いました。

 サルマの誕生日について会話があり、バガヴァーンが「彼はいつも、日々生まれていると言っています」と言い、Reality in Forty Versesという題で英語に翻訳されているタミル語のUlladu Narpaduへの補遺の第11詩節に言及しました。この歌を調べるために、彼は「タミル語」(タミル語のCollected Works)を彼のそばの回転棚から取り出し、それを戻す前に、虫食いが表紙の上で仕事をしていたことを見つけました。彼は、「私たちはこれらの本を学んでいませんでした。それで、この虫たちがそれを咀嚼(食べる、読む)していました」と述べました。

午後

 L.サルマ氏が来て、私の隣に座りました。今朝、私は彼から3フィートぐらいしか離れていなかったのに、彼は私だと分かりませんでした。そのため、私は彼に白内障の手術を受けるよう勧めていました。彼は、この病気などの進行を遅らせることができていて、将来もまたそのようにできるなら、手術の危険を冒すよりも部分的な視野で残りの人生をやっていくだろうと言いました。それで、私は彼にそれは全く彼にさらにどれだけ寿命があるか次第だと言い、これに関連して、この件に関する彼のホロスコープの解釈はどうなのか尋ねました。そうして、私たちは占星術について話し、私はバガヴァーンに占星術についての見解を尋ねました。彼は、「問題ありません(タミル語)。どうしていけませんか。人がカルマの理論を受け入れるなら、占星術やホロスコープの理論も受け入れなければならないでしょう」と言いました。この後、サルマ、サイード博士、G.スッバラオと私自身は、占星術の科学について、私たちの未来などを知ることが役立つのか、意義があるのか話しました。そして、スッバ・ラオ氏は、占星術の関する書籍の中でホロスコープに従って起こると定められていることは、償いのためのプージャーなどによってある程度変更されうると明確に主張されていると私たちに言いました。S.ラオ氏はさらに続けて、どのようにバガヴァーンのような人々の御足のチリさえもが、どのように彼らからの一瞥が私たちの全ての罪などを焼き払えるのか言いました。これについて私は、「私もまた、サット・サンの美徳を称揚する、これらの著作の中のいくつかを目にしました。私はこれらの著作が文字通り真実として理解されるべきなのか、その中にはいくらか誇張がないのか知りたい思うのですが」と尋ねました。S.ラオ氏は、それらは文字通り真実だが、人は信仰を持たなければならないと言いました。そこで、私は、もしそうであるなら、サット・サンについてのそれらの聖句に責任がある人たちは、どうして彼ら自身で但し書きを付け加えずに、S.ラオ氏のような注釈者たちにそれを加えるのを任せるのか彼に尋ねました。そうして、私たちの幾人は数分間論争しましたが、そのような機会にいつもそうであるように、バガヴァーンは慎重に黙ったままでした。その後、私たちも黙りました。前に一度、Reality in Forty Versesへの補遺の中のサット・サンに関する5つの詩節に関連して、私はその質問をバガヴァーン自身にして、バガヴァーンは「タミル語」、つまり、「私は(サンスクリット語の)その詩節を見つけたから翻訳したんです。分かりません!」と言っただけでした。

46年1月7日 午前

 マハタニ氏がバガヴァーンに尋ねました。「Advaita Bodha Deepikaでは、心とそれ自体を同一視した至高の自らは、変化に富むように見えると言われています。それ自体が自らに由来するマーヤーに由来している心が、どうして不変の自らを変更、変化させることができるのですか」。バガヴァーンは、「実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、『この創造はどのように生じたのか』と尋ねる人たちのために、上の説明が与えられています」と答えました。

午後

 バンンガロールのラーマチャンドラ・ラオ氏が、The Ramana I have knownという題の作られたばかりの彼のカナラ語の著作をバガヴァーンの前で読みました。彼が読み終えた後、彼が初めてバガヴァーンのもとに来たのはいつか私は彼に尋ね、彼は「1918年です」と言いました。それから、私は、彼がそれ以降の彼の全ての体験を話しているのか、彼が何かメモや備忘録の助けでそのようにしているのか彼に尋ねました。彼は1918年以来起こった全てについて書いていて、記憶のみからだと彼は返答しました。私はそのような記憶力に驚嘆していました。バガヴァーンは、「ナーヤナ(カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ)なら、彼が居合わせたあらゆる出来事の日時を覚えていて、あなたに教えるでしょう」と言いました。


 G.L.サルマ氏は、ギータ・サーラムに関する原稿を用意したようです。バガヴァーンは、バララム・レッディ氏にそれを読み上げるよう頼みました。その中で、「完全な献身があるときにのみ、主は応え、信奉者を完全に引き受けるだろう」と言われていたので、(オウロビンドーの(アーシュラム)での滞在の後、最近やって来た)P.バナージ氏がバガヴァーンに尋ねました。「人が完全に献身的でなければならないというのは、主が恩寵を示すための先行条件なのでしょうか。献身的であろうとなかろうと、主は自然にその恩寵において彼の子供全員に対して恵み深いのではないのでしょうか」。

 バガヴァーン: どうして人が献身的でなくいれますか。全ての人が彼自身を愛しています。それが体験です。仮に自らが彼の最愛の対象でないなら、人はそれを愛するでしょうか。自ら、主はどこか別の場所にいるのでなく、私たち各々の内側にいます。自分自身を愛することで、人は自らのみを愛しています。

 その訪問者は、どうしてこれが彼の質問への答えなのか理解できませんでした。私は、「バガヴァーンは一度ならず、『主の恩寵はいつも流れています。それが流れていない時は、それが注がれていない人は存在しません。しかし、それを受け取れるのは、その能力を育てた人たちだけです。献身が先行条件であるのは、主からの恩寵の流れにとってではなく、そこで常に流れている恩寵をあなたが受け取り、取り込みうることにとって、です。

 これに関連して、サイード博士が、主は、罪びとも聖者も等しく、全ての友であるが、彼は特別、彼を心に抱く人たちのハートにいて、そのような人々はにとって愛しい、と書いてあるバガヴァッド・ギーターの詩節を引用しました。

46年1月8日 午後

 マハタニ氏が、(46年1月7日の項目に記録されているのが認められる)彼の質問についてバガヴァーンに再び尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたが引用する、まさにその文が、心が上重ねであると、それが現実性を持たず、縄の中の蛇の幻のようであると言っています。その聖句はまた、至高の自らは、心と同一視されたとき、変化に富むように見えると言います。見る者、自我にとって、自らは変化に富むように見えます。しかし、自らは常に同一、不変、不可変です。それはこのようです。スクリーンがあります。そのスクリーン上に、はじめ王様の姿が現れます。彼は玉座に座っています。その後、その同じスクリーンの中の彼の前で、様々な人物と物とともに劇が始まり、スクリーン上の王様は同じスクリーン上のその劇を観ます。見る者と見られるものはスクリーン上の影に過ぎず、スクリーンがそれらの映像を支えている唯一の現実です。世界の中でも、見る者と見られるものはともに心を構成していて、その心は自らによって支えらえ、自らに基盤を置いています」。

2019年9月19日木曜日

バガヴァーンとの日々⑨ - 45年12月29日から46年1月3日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p81~90

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月29日 午前

 ヴィシュワナータ・ブラフマチャリ氏が、C.ディークシトゥル氏のRamana Gopalaのタミル語訳を持ってきて、バガヴァーンはそれを熟読しました。


 P.C.デーサーイ氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻るところで、そこで哲学会議の一部門を主宰していました。デワンジ氏はバガヴァーンに、「心の一方向性を得るための最も簡単な方法とは何ですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「最良の方法は、心の源を見ることです。心のようなものが存在するのか確かめて見なさい。心が存在する場合にだけ、それを一方向に向かわせるという問題が生じるでしょう。内側に向かうことによってあなたが探求するとき、心のようなものが存在しないことにあなたは気づきます。

 その後、P.C.デーサーイ氏は、「あなたが心の性質を継続的に、途切れなく探求するとき、あなたは心のようなものは存在しないと気づく。これが皆にとって真っすぐな道である」という趣旨のサンスクリット語のバガヴァーンのウパデーシャ・サーラを引用しました。その訪問者は再び尋ねました。「私たちの聖典には、全てを創造し、維持し、破壊するのは神であり、は全てに遍在していると書いてあります。もしそうであるなら、もし神が全てのことを行い、私たちが行う全てが神のニヤティ(おきて、法)に従っていて、すでに広大無辺な意識の中で計画されていたのなら、個々人の性格とそれに対する責任はあるのでしょうか」。

 バガヴァーン: もちろん、あります。外ならぬその聖典が、人がすべきこと、すべきでないことに関する規則を定めています。もし人に責任がないなら、ではどうしてそのような規則が定められなければならないのですか。あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたがなぜこの創造や何やかやが(あるのか)と神に尋ねるなら、それはあなたのカルマに従ってあると再びはあなたに言うでしょう。あなたが神とあらゆることを注意深く計画するのニヤティを信じているなら、あなた自身をに完全に委ねなさい。そうすれば、あなたに責任はなくなるでしょう。そうでなければ、あなたの本質を見出し、そうして自由を得なさい。

 スンダレーサ・アイヤル氏が「kandar Anubhuti」(カンダル・アヌブーティ)を2冊バガヴァーンに持ってきて、それらは、母の遺徳に敬意を表して無償配布するためにその本を500冊出版した、ダーシ・ラージャンバルの息子(シャンムガ・スンダラム、ここの学校の教師)から送られたと言いました。バガヴァーンはこれに関連して、「彼女は若い女性で、あのカーストの生まれでしたが、私に食べ物を与える前に食事をとらないという誓いを立てていました」と再び言いました。

45年12月30日

 Ramana Gopalaがタミル語に翻訳され、今朝、校正刷りが講堂で読み上げられました。

午後

 ある信奉者がThe Bombay Chronicleからの切り抜きを持ってきて、バガヴァーンに差し上げました。その中で、ラマナ・サッチダーナンダ・サンガによって、ラマナ・ジャヤンティが今年、ボンベイのマトゥンガで祝われた様子、そして、マンナールグディのヴィジャヤラーガヴァー・バーガヴァタルという人とその一行がバガヴァーンとその人生と教えについての素晴らしいカーラクシェーパムを行った様子が報告されています。その切り抜きは皆のために講堂で読み上げられました。その中にはラマナについてのハリカンタが催されたと書かれていました。バガヴァーンは、「ラマナについてのハリカンタは誤った名称です。カーラクシェーパムのほうが適当だったでしょう」と言いました。

 ティラク・シャーストリが、エチャンマルについて新聞社に記事を送るために、彼女についてバガヴァーンから知りたがりました。バガヴァーンは、「あなたが好きなことを書いて構いません。ヴィジャヤムや他の本には、彼女への言及が含まれています」と言いました。バガヴァーンは、「私たちのヴェンカタクリシュナイヤーの母も同じ夜に亡くなったようです。今日のテルグ語の新聞、Zamin Ryotでそれを見つけました」と言いました。

 R.ナーラヤナ・アイヤルが、エチャンマルは最後まで意識があったのかどうかバガヴァーンに尋ねました。(私自身を含め)人々は、エチャンマルが、彼女の周りの人々を認識できておらず、最後の二日間は彼女(自分)の存在に気づいていなかったとバガヴァーンに伝えましたが、バガヴァーンは返事として、「ええ、彼女は(意識が)ありました。彼女はサマーディにいるように、亡くなりました。彼らは正確にいつ命が尽きたのか知らないとさえ言われています」と言いました。マイソールのラーマチャンドラ・ラオが、「遺体は全然遺体のように見えませんでした。それは彼女がここにいた時とそっくりに見えました」と言い足しました。

45年12月31日 午前

 チンタ・ディークシトゥル氏がここにいます。バガヴァーンは、「昨日、私たちはチンタ・ディークシトゥルについて話していました。今、彼はここにいます」と言いました。後に、別の紳士が到着しました。パンジャーブ出身のムスリムで、彼は生まれつき盲目でしたが、アラビア語、ペルシャ語、ウルドゥー語と英語を習得し、コーラン全文を暗記しています。彼は、英語のWho am I?の本をウルドゥー語で彼に通訳もした、ある友人からバガヴァーンについて聞き、そこで直ちにバガヴァーンを訪問しに行くことを決めたようです。それゆえ、彼は一人っきりで、パンジャーブからはるばるやって来ました。誰かが彼にバガヴァーンの他の著作を聞いてはどうかとここで提案しました。彼は、「いえ。その必要はありません。あの一冊で十分です」と答えました。

1946

46年1月2日 午後

 バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものをジョーシー氏が提出し、バガヴァーンがそれに答えます。

 はじめに、ジニャーニが心を持たずに仕事を行うことについて:「心が殺されるなら、人は仕事を行えないとあなたは想像します。人に仕事を行わさせられるのは心だけであるとどうして思うのですか。活動を同じく生み出せる他の原因があるかもしれません。例えば、この時計を見なさい。心なしに動いています。また仮に、私たちがジニャーニは心を持つと主張するとしましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は、何か遠くの物のことばかり思って、語られる話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、仕事を行っていても、仕事を行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、たとえ体が活動的でも動いていなくても、それは仕事を行っています。」

 質問2: ソーハムは「私は誰か」と同じでしょうか。

 バガヴァーン: アハムだけがそれらに共通しています。一方はソーハムで、他方はコーハムです。それらは異なります。どうして私たちはソーハムと言い続けなければならないのですか。人は真の「私」を見出さなければなりません。「私は誰か」という質問の中で、「私」が意味するのは、自我です。それを追跡し、その源を見つけようとするなら、それが分離して存在せず、真の「私」に溶け込むことを私たちは悟ります。

 質問3: 私は委ねのほうが簡単だと感じます。私はその道を採用したいと思います。

 バガヴァーン: どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたは一者の中にあなた自身を失わなければならないでしょう。委ねは、「貴方は全てなり」や「貴方の意志が果たされんことを」という段階にあなたが達してはじめて、完成です。
 
 その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。現実には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは簡単に見えます。なぜなら、人々は、いったん口で「私は委ねます」と言い、その重荷をに負わせれば、自由になって、好きなことができると想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後、あなたは好き嫌いをまるで持てず、あなたの意思は完全に存在しなくならなければならず、主の意志がそれに取って代わります。そのような自我の死は、ジニャーナと何も異なりません。ですから、どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性(oneness)へと至らなければなりません。

 質問4: どのように感情を取り扱うべきでしょうか。私は感情を抑えるべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「誰にこれらの感情があるのか」尋ねるなら、それらは消滅せずに、より強まるようです。

 バガヴァーン: それは、あなたが適切に私の方法に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は、全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それを取り除くことです。あなたが感情を抑えるなら、しばらくの間は抑制されるかもしれませんが、再び現れるでしょう。あなたが感情を満たすなら、しばらくの間だけ満たされ、再び満足を渇望するでしょう。欲望を満たし、それによって欲望を根絶しようとすることは、灯油を上から注いで火を消そうとすることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。

 別の訪問者がバガヴァーンに、「私が『私は誰か』という探求をしようとするなら、私は眠りに落ちます。どうするべきでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーン: あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが眠りに落ちるまで探求をし続けるなら、探求は眠る間も続くでしょう。目覚めればすぐ探求を再開しなさい。

 別の訪問者がバガヴァーンに、国が進歩しうるとすれば、ヴァルナーシュラマの違いが無くなることが必要ではないのか尋ねました。

バガヴァーン: どうしてそれが必要であるか、必要でないか人に言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に「誰それもこれこれの意見です」と発表しに行きます。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた、他ならぬその聖典が、全生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディを唯一の現実として示してもいます。全生命の合一性、一体性より優れた真理を教えることが誰にできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後、彼が国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタは、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改めんとする改革者」と広告を出しました。世界のどの二人も等しくなれず、等しく振る舞うこともできません。どれほど懸命に我々が消し去ろうとしようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだした、そのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだし、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えただけです。各人にとって唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。

 別の訪問者が、「ジニャーニは一般的に、活動的な生活から退き、どのような世俗的活動にも従事しません」と言いました。

 バガヴァーン: そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治する人たちもいれば、森の中に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控える人たちもいます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、世間から退くと私たちは言えません。

 訪問者: 我々の本の中で言及される肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、世間で普通の日々の仕事を行っているジニャーニの具体的な例をバガヴァーンが挙げられるのか私は知りたいと思います。

 バガヴァーンは答えませんでした。

 訪問者: 自らの実現のために放棄は必要ですか。

 バガヴァーン: 放棄と実現は同じものです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らならざるものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、自らの実現です。唯一の同じ真理の、一方は消極的な、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、私たちの本質である自らの実現、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段のように見えます。それらは終には目的になります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続ける私たちの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらが私たちの側の何の努力もなく進む時、私たちは目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々が行っていることとは、我々が非現実を実現している、つまり、非現実を現実とみなているということです。我々はそれを捨て去らなければなりません。それが求められる全てです。

 訪問者: どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるでしょうか。

 バガヴァーン: それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界や何やかやが存在しますが-を追跡しようとする時、あなたは自我がまるで存在せず、この全創造も同様であると分かります。

46年1月3日

 私が講堂に入った時、バガヴァーンはすでに質問に答えているところでした。私が推測するに、質問の趣旨は「進化論は真実でしょうか」で、バガヴァーンは言いました。「私たちみなの困った点は、私たちが過去を、私たちであったものを、そしてまた、私たちが未来にどうなるのかを知りたがることです。私たちは過去についても未来についても何も知りません。私たちは現在を、私たちが今、存在していることを確かに知っています。昨日も明日も、存在するのは、今日に関連してだけです。昨日はその時点では『今日』と呼ばれ、明日は、あした、私たちに『今日』と呼ばれるでしょう。今日は常に存在しています。常に存在するものは、純粋な実在です。それには過去も未来もありません。今現在、常に存在する実在なる本質を見出そうとしてみてはどうですか。」

 別の訪問客が、「現在は過去のカルマのためだと言われています。私たちは今、自由意思によって過去のカルマを乗り越えられるのでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーン: 私が(前)あなたに言ったように、現在とは何か確かめなさい。その時、あなたは過去や未来によって影響される、もしくは、(それらを)持つものを(理解し)、そして、常に存在し、常に自由であり、過去にも未来によっても、どんな過去のカルマによっても影響されないものを理解するでしょう。

 別の訪問客が、「ある人は別の人の中に何かへの衝動を引き起こせますか。グルは、あたかも魔法によるかのように、弟子を変容できますか」と尋ねました。

 バガヴァーン: グルについてのあなたの考えは何ですか。あなたは彼を人の姿で、ある寸法や色などをした体として考えています。ある弟子が悟った後でグルに言いました。「私の無数の生まれ全てにおいて、あなたがただ一つの現実として私の最奥のハートの中に住まい、今、人間の姿で私の前に来て、この無知の覆いを取り去ったことを今や私は悟りました。そのような恩情へのお返しに、私はあなたに何ができますか」と言いました。そして、グルは言いました。「何もする必要はありません。あなたがあなたの真の境地にあるがままにいる(「私はいる」として留まる)なら、それで十分です」。これがグルについての真理です。

 ジョーシー氏が5つの質問をしました。以下に、その質問とバガヴァーンの答えを記します。

 質問1: 答えることなく、「私は誰か」と尋ね続けるべきでしょうか。誰が誰に尋ねるのですか。探求の時、どのバーヴァナー(態度、概念)が心にあるべきですか。「私」とは何ですか、自らですか、自我ですか。

 答え: 「私は誰か」という探求における、「私」とは自我です。その質問が本当に意味するのは、この自我の源、起源とは何か、です。心の中にどんなバーヴァナーも持つ必要はありません。必要とされる全ては、あなたがこれこれの様子の、これこれの名前などを持つ体であるというバーヴァナーを放棄しなければならない、ということです。あなたの本質についてバーヴァナーを持つ必要はありません。それは現に常に存在しています。それは現実であり、決してバーヴァナーではありません。

 質問2: 私はいつもこの探求に従事できません。というのも、私にはするべき他の仕事があって、そのような仕事をする時、この探求を忘れるからです。

 答え: あなたが他の仕事をする時、あなたは存在しなくなりますか。あなたは常に存在します。違いますか。

 質問3: 行為者の感覚-「私が行なっている」という感覚-なしに、仕事は行えません。

 答え: 行えます。愛着なく働きなさい。あなたが行為者であるという感覚を伴って働いた時よりも、仕事はより良く運びさえするでしょう。

 質問4: 私は何の仕事をすべきで、何(の仕事)をすべきでないのか分かりません。

 答え: 気にしないで結構。今世で、あなたによって行われるべき仕事として定められていることは、あなたがそれを好んでも、好まなくても、あなたによって行われるでしょう。

 質問5: どうして悟ろうとしなければならないのですか。夢から目覚めるように、私はこの状態から出でくるでしょう。眠る間、私たちは夢から出ようと試みません。

 答え: 夢の中で、あなたはそれが夢であると少しも気づかないので、あなたの努力によって夢から出ようとする義務をあなたは負っていません。しかし、この人生では、あなたの眠りの経験によって、読んだり、聞いたりして、この人生が夢のようなものであるという何らかの直感をあなたは得ていて、それゆえに、努力し、それから出るという義務があなたに投げかけられています。けれども、あなたが求めていないなら、誰があなたに自らを実現して欲しいのですか。あなたがその夢の中にいることを好むなら、そのままいなさい。

 質問4に関連して、P.C.デーサーイー婦人が、バガヴァッド・ギーターを引用しながら、バガヴァーンに尋ねました。「(アルジュナに告げられたように)各々によって行われるよう定められている、ある仕事があり、私たちがどれほどそれを行いたくないと思っても、(どれほど)それを行うのを拒んでも、私たちが結局それを行うことになるなら、自由意志は存在するのですか」。

 バガヴァーン: 私たちによって行われることになっている仕事が、我々によって行われるであろうことは、本当です。しかし、私たち自身を体と、仕事を行うものと同一視しないことによって、仕事の喜びや苦しさ、好ましい、もしくは、好ましくない結果を免れていることは、私たちに開かれています。あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行うのはあなたではないことを知るなら、運命や過去のカルマや神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぶのであれ、それに従って体が従事する仕事が何であっても、あなたはその結果に影響されないでしょう。あなたはいつも自由であり、その自由に限界はありません。