2014年6月28日土曜日

パヴァラ・クンドル・アルダナーリーシュワラ寺院

◇Post from Arunachala-Live (http://arunachala-live.com/wordpress/?p=987)

 以下は、上のURLにある記事の翻訳です。パヴァラ・クンドル寺院の場所は、Googleマップで「Pavazha Kundru Ardha Nariswarer Temple」と地図検索すれば、表示されます。

ティルヴァンナーマライ、パヴァラ・クンドル

 パヴァラ・クンドル寺院は、主アルダナーリーシュワラ(*1)(半身がシヴァ、半身がパールヴァティーとしての主の両性具有の姿)に捧げられています。パールヴァティーが主シヴァの寵愛を再び得るためにタパスを行ったのは、ここです。その後、彼は彼女の前に現れ、彼女を彼自身に吸収し、そうして、2人は1人になりました。このようにしてアルダナーリーシュワラは生まれました。アルダナーリーシュワラのみに捧げられた寺院は多くはなく、比較的に知られていませんが、これは珍しく特別な寺院です。

 バガヴァーン・ラマナはここに1899年に滞在し、この寺院の内部で彼の母に聖なる教えを授けました(*2)。以前、彼女はマドゥライの実家に戻るように息子を説得しようと試みたものでしたが、その時以来、母は深く宗教的な人間に変容し、ティルヴァンナーマライその場所で息子に仕えることに人生を捧げたと言われています。  

 パヴァラ・クンドル(珊瑚岩)は、アルナーチャラの東の尾根に位置しています。朝日の光線が岩全体を美しい紅珊瑚(コーラル・レッド)に変えると思われているため、その名を得ています。このあまり知られていない寺院は、主要なバスの停車場から1キロほどのドゥルガイ・アンマン・コーヴィル道から出ている小さな街路を通して町から近づくことができます。寺院に上るための岩に刻まれた立派な石の階段があります。

 いったんそこに着くと、あなたは街の騒音をもう耳にしません。そして、それはほどんど完全に人通りがなく、自然の動植物にあふれた静かで安らかな場所にあるので、そのように瞑想には理想的な場所です。寺院のすぐそばには、巨大なバニヤンの老木があります。その下に座り、片方には山を眺めることができ、もう片方には寺院の塔を眺めることができます。それはとても珍しい眺めです。

 寺院のティールタムは、外に突き出た岩の中の壁龕(へきがん)内部の見事に緑色な自然の池であり、暑い夏の間でさえ、一年を通して水があります。そこに下りてゆく小さな階段があり、僧侶は毎日、プージャのために水を集めに行きます。

 荒廃しつつあったこの寺院を修復したのは、ラマナーシュラムの功績です。修復は、古代の建築様式を尊重し、保存し、古い石細工を壊すことなく、最小限のコンクリートの使用で、正確に行われました。ギリヴァラム沿いの他の神殿もまた、その熱心すぎる修復作業において、この過去を尊重する方法を見習うなら、良いのではないかと思います。

(*1)アルダナーリーシュワラ・・・「半分女性である主(神)」。
(*2)上の動画では、1898年にバガヴァーンが母に「運命についての詩節」を説いたことになっています。

2014年6月14日土曜日

パラニ・スワーミー - バガヴァーン・ラマナのナンディ、彼の無私なる奉仕者

◇『ラマナ・ペリヤ・プラーナム(Ramana Periya Puranam)』、p22~25

パラニ・スワーミー


V.ガネーシャン

 ティルヴァンナーマライに到着した最初の日に、バガヴァーンはアルナーチャラに、「父なる神よ、私は御身の命じるままに来ました。御身の御心が果たされますように」と言明しました。その瞬間からずっと、彼の全生活は自らに委ねられました。アルナーチャレーシュワラ寺院に6か月間滞在していた時、バガヴァーンはいつもサマーディ(無形の深い安らぎ)に没頭していました。驚くべきことに、その時まで彼はサマーディや、彼が経験していたことを言い表わすどのような言葉も耳にしたことがありませんでした。アルナーチャレーシュワラの地下の暗く、じめじめした壁龕(へきがん)、パーターラ・リンガでは、彼が自らに吸収されて、幸福に包まれ、無頓着で座っている間に、虫や害獣が彼の体をご馳走になりました。父なる神、アルナーチャラが、彼の息子の体へのこの責め苦を黙認できますか。彼はバガヴァーンを救うため、聖者セシャドリ・スワーミー、ヴェンカタチャラ・ムダリ、ウッタンディ・ナーヤナール、アンナーマライ・タンビラーンを送りました。

 セシャドリ・スワーミーはバガヴァーンの体を地下の洞窟から外へ運び出しました。他の人たちもまた、バガヴァーンのサマーディの境地を守るためにできることをしました。しかしながら、たくさんの無知な人々はバガヴァーンを寺院で邪魔し続けました。結果として、バガヴァーンはグルムールタム、アンナマライ・タンビラーンが所有し、ティルヴァンナーマライの郊外にある聖者の神殿に連れて行かれました。奇妙なことに、グルムールタムでも蟻や他の虫たちにたかられました。しかし、バガヴァーンは完全に体に気づかないでいました。体は洗われず、もつれた濃く長い髪になり、指の爪は長く、巻き上がりました。彼はほとんど食ベ物をとらなかったので、体はやせ衰え、ひどく弱りました。どうしてアルナーチャラがこの全てに耐えられますか。それゆえ、彼はパラニ・スワーミー、彼のナンディをバガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシに送りました。(アルナーチャラの南のすそ野には、シヴァの牛の長、ナンディに驚くほど似た岩があります。ヴィシュワナータ・スワーミーやクンジュ・スワーミーのような古参の信奉者は、それを指して、「それはパラニ・スワーミーです。我々のバガヴァーンのナンディです」と言います。)

インドの様々なナンディの像。シヴァ神を祭る寺院に必ずあり、主神殿に向かい合っている。

 パラニ・スワーミーは隠遁した行者であり、ティルヴァンナーマライの池の土手でガネーシャの石像を信心深く祭っていました。毎日、彼は、塩や添え料理がない炊いた米の簡素な食事を一度だけとりました。この簡素な行者にはただ一つの目的があり、そして、それは真理を理解することでした。ある日、彼の友人の一人が彼に、「この石の像を祭って何の役に立ちますか。これはあなたに何ももたらしません。グルムールタムには、神が血肉をまとい、そこにいます。一本脚で立ち、苦行を行ったプラーナの5歳のドルヴァのように、サマーディに完全に没入した若い行者がいます。行って、彼に仕えなさい。あなたの人生の目的が遂げられるでしょう」と言いました。

 パラニ・スワーミーはグルムールタムへ行きました。いつも通り、若いバガヴァーンは完全にサマーディに没頭していました。はじめて彼を見て、パラニ・スワーミーはまさにその根本から揺さぶられました。彼は神だけでなく、彼のグルもまた見ました。その瞬間から、パラニ・スワーミーにとってこの至高の行者以外の世界は存在しませんでした。彼自身も行者であったため、彼は若い聖者の靈的な委ねの深みを感じることができました。彼は自らに誓いました。「死ぬまでこの聖者に仕えよう」。

 彼はバガヴァーンに仕え始めました。バガヴァーンがサマーディにいる間、人々は彼の体に触れに来て、彼を揺らし、彼に話しかけようと試みたものでした。パラニ・スワーミーの務めは、この身体的形態を守り、この最高の境地が妨げられないことを確実なものにすることでした。彼は虫さえも師を煩わせないよう取り計らいました。彼は何であれ集められた食べ物を茶碗一杯分、バガヴァーンに食べさせたものでした。このように、バガヴァーンは毎日少なくとも食べ物をいくらかとりました。彼はバガヴァーンの周りに門がついた柵までも立てました。パラニ・スワーミーが外へ行く必要がある時はいつでも、誰もバガヴァーンを煩わせないよう、彼は扉に鍵をかけました。このようにして、彼は18か月間、昼も夜もバガヴァーンをお世話しました。

 いくらか後、バガヴァーンはこの敷地から出て行かなければなりませんでした。隣の囲い地には、マンゴー果樹園がありました。その所有者は、そこのココナッツの葉で作られた茅葺き小屋に滞在しに来るようバガヴァーンとパラニ・スワーミーにお願いしました。果樹園の所有者によって、詮索好きな訪問者が入ることを厳しく禁じられていたため、6か月間、パラニ・スワーミーとバガヴァーンは邪魔されることなくそこに滞在しました。バガヴァーンの別の一面が開かれたのはこの時期でした。パラニ・スワーミーはバガヴァーンよりも30歳年上であり、彼に父親のような愛情を抱いていました。思いやりのある父親のように、パラニ・スワーミーは町へ行き、彼の「名づけ子」が読むように本を手に入れたものでした。このようにして、はじめてバガヴァーンは、「カイヴァルヤ・ナヴァニータム」、「ヴェーダーンタ・チューダーマニ」、「アドヤートマ・ラーマーヤナム」、「ヨーガ・ヴァーシシュタム」、「プラブリンガ・リーライ」やその他多くの著作を読みました。アドヴァイタやヴェーダーンタについてのこれらの本のいくつかを読むとすぐに、彼はこれらの本が彼が16歳の時に体験したものを描いていることを知りました。ここで彼はサマーディ、アートマ、マーヤー、サンサーラのような言葉を学びました。バガヴァーンが彼の自覚の境地に留まり、それが同一の名のない自ら、実在、ハートであり、全存在の中に常にあると人類に明らかにしたのは、アルナーチャラ、全知なる静寂の自らの意思でした。これを伝えるためには、教育のようなものが不可欠でした。バガヴァーンが聖典やヴェーダーンタの用語に流暢であるのは、彼の人生のこの局面に端を発しています。

 いくらか後、果樹園の所有者は、彼らに敷地から立ち退いてほしいと思いました。彼らはアルナギリナータル寺院に移りました。そこで、バガヴァーンはパラニ・スワーミーに、「あなたはあの道を托鉢しに行って下さい。私はこの道を托鉢しに行きます」と言いました。バガヴァーン自身がどのように彼が家の前に行って、立ち、手を二度鳴らし、待ったのか説明しました。家の持ち主が彼に食べ物を与えたなら、彼はそれを手で受け取り、直ちにそれを食べました。その時、手を洗う必要を感じることなく、彼は髪で手を拭ったものでした。後に、バガヴァーンは、「それを行っている時、私はただ一人の世界の絶対的支配者であるように感じました」と思いかえしました。そのために、バガヴァーンは、真の放棄が所有者性の概念を拒絶するだけでなく、誰にも何ものにも依存していないと感じることでもあると言明したのです。彼は同じ家から二度と托鉢しようとしませんでした。結果として、彼はティルヴァンナーマライのほとんど全ての通りと家で托鉢することになりました!

 アルナギリナータル寺院でも、多くの人々が彼を悩ませ始めました。彼らはどうしてバガヴァーンが常にサマーディにいるのか理解できませんでした。パラニ・スワーミーがいない時、彼らは彼の邪魔をしたものでした。パラニ・スワーミーはパヴァラ・クンドルと呼ばれる小高い丘に注目し、バガヴァーンをそこに移しました。パラニ・スワーミーがバガヴァーンに関わっている間中、彼はいつも目立たない所にいました。なぜなら、彼の務めはバガヴァーンの身体を守り、彼のサマーディの境地が妨げられないように取り計らうことだったからです。彼は決してバガヴァーンの他の活動の邪魔をしませんでした。徐々に、バガヴァーンの名声は町中に広がり、数人の人々がパヴァラ・クンドルにも集まり始めました。パラニ・スワーミーは別の場所を探しに行き、アルナーチャラのすそ野にあるヴィルーパークシャ洞窟に注目しました。後に、バガヴァーンは、「我々がヴィルーパークシャ洞窟にはじめて行った時、陶器の壺(土鍋)以外何もそこにありませんでした」と言いました。数年後、何人かの女性の信奉者が日中にそこで食事を給仕し始めました。ペルーマル・スワーミー、アイヤ・スワーミー、カンダスワーミーのような他の付添人もまた、数年の内に彼に加わりましたが、パラニ・スワーミーはいつも第一の付添人のままでした。

 バガヴァーンがマラヤーラム語を学んだのは、ここでした。パラニ・スワーミーは、マラヤーラム語版の「アドヤートマ・ラーマーヤナム」から1ページ読んだ後にのみ、その日の1度だけの食事をとるという誓いを立てていました。彼は生涯、この自ら課した制約に従いました。パラニ・スワーミーの母語はマラヤーラム語でしたが、彼はそれを流暢に読めませんでした。そのため、彼が毎日の読書を終えるまでに長い時間がかかりました。他の信奉者とバガヴァーンは、彼らみなが食事をするために座る前に、パラニ・スワーミーが終わるのを待ったものでした。ある日、バガヴァーンは、1日に1ページ読むという彼の誓いは、彼自身が読まなければならないという厳格な条件があるのか、もしくは、彼のために誰かが声に出して読むのを彼が聞けば十分なのかパラニ・スワーミーに尋ねました。パラニ・スワーミーは後者に同意し、バガヴァーン自身がこの毎日の務めを引き受けました。バガヴァーンの母語はタミル語のため、マラヤーラム語の知識はありませんでした。それゆえ、バガヴァーンはパラニ・スワーミーにマラヤーラム語を自分に教えてくれるように頼みました。たちまちに、バガヴァーンは読み、書き、理解するほど十分にその言葉を身につけました。それ以来、バガヴァーンのおかげで、パラニ・スワーミーは「アドヤートマ・ラーマーヤナ」を毎日1回服薬し、全ての人が遅れずに食事をとるようになりました!(クンジュ・スワーミーは、バガヴァーンはエーカグラーヒー、サンスクリット語で「一点に集中した観察力を持つ人」であったと私に言いました。いったん露光されると、写真のネガに映像が焼きつくように、バガヴァーンには抜群の記憶力がありました。彼は一度文章を見たら、再びそれを参照する必要はありませんでした。)

 ある日、ある人がガネーシャの彫像をヴィルーパークシャ洞窟内部の壁龕(へきがん)に据えました。感激し、パラニ・スワーミーはバガヴァーンに、「主ガネーシャに何か捧げものをしてはどうでしょうか」とお願いしました。バガヴァーンが捧げものをする方法は、食べ物や花輪や花を通じてではなく、詩節を通じてでした。これがバガヴァーンによって作られた最初の詩節でした。「壁龕に住まう大きく太ったお腹を持つ主よ、あなたの父が托鉢しに巡るのを許したあなたよ、少なくとも今や、あなたの恩寵のまなざしを同じく父の息子である私に注いでください」。

 午後に、バガヴァーンの付添人は食べ物を集めるために通りで托鉢したものでした。施し物を集めるために彼らが歌った伝統的な歌は、アーディ・シャンカラによるもので、「サンバ・サダーシヴァ、サンバ・サダーシヴァ、サンバ・サダーシヴァ、サンバ・シヴォーム」でした。町の人々がこの繰り返しの文句を耳にすると、彼らはバガヴァーンの付添人が来ていると知り、食べ物を用意したものでした。これを知り、不信心な者たちが彼らの先に行きはじめ、同じ歌を歌い、代わりに食べ物を集めました。それで、バガヴァーンの付添人は、「施しものを集めるためだけに私たちが歌える歌を作ってください」と彼に頼みました。バガヴァーンはいつも通り、沈黙を保ちました。翌日、彼らが山の周りを巡っている時、パラニ・スワーミーは彼らの中で最も博識なアイヤ・スワーミーを側に呼び、「バガヴァーンが何かつぶやいています。おそらく、彼は詩節を作っています。この紙とペンを手にとってください」と言いました。その1周の間に、バガヴァーンは108詩節作りました。アイヤ・スワーミーは忠実にそれらを書き取りました。アクシャラマナマーライ、すなわち、文字で編まれた婚礼の花輪と名付けられ、それはこれまでに書かれた中で最も靈的に感動的で、献身的な賛歌の一つです(アーサー・オズボーンがかつて私に言うには、「英語で三千冊の詩の本を読みましたが、それらの多くは本質的に献身を表すものでした」。どれも献身と知恵において、これらの詩節を凌駕しないと私に言いました。)

 しばらくして、バガヴァーンはより高い所にある洞窟、スカンダーシュラムに移りました。パラニ・スワーミーはそこで数日過ごしました。しかしながら、年をとり弱っていため、彼は毎日その洞窟まで登れませんでした。バガヴァーンの許しを得て、彼はヴィルーパークシャ洞窟に滞在し続けました。毎日、バガヴァーンは下りてきて、いくらか時をパラニ・スワーミーと過ごしました。ある日、スカンダーシュラムにいる間に、バガヴァーンは孔雀が異常なほど騒ぎ立てながらヴィルーパークシャ洞窟から飛んで来るのに気付きました。「これはパラニ・スワーミーの最後です」と言い、彼は即座に駆け降りました。彼がヴィルーパークシャ洞窟に着いた時、パラニ・スワーミーはすでにとても苦しげに息をしていました。息子のように、彼が体を下ろすまで、バガヴァーンはパラニ・スワーミーの頭を膝の上に置きました(ヒンドゥー教の伝統では、父親が亡くなろうとする時、息子は彼の最後の務めとして父親の頭を膝の上に置かなければなりません。聖典によれば、父親がそのような機会を得るなら、彼は天国に行きます)。長年の間、パラニ・スワーミーは師に無私なる奉仕を行ってきました。今や、バガヴァーンのナンディは、アルナーチャラ、沈黙のシヴァに帰る時でした。

2014年6月8日日曜日

C.G.ユング博士が語るシュリー・ラマナの現代人にとっての重要性

◇『五十周年記念(Golden Jubilee Souvenir)』 p114~117

シュリー・ラマナと現代人への彼のメッセージ 


C.G.ユング博士 (チューリッヒ)
 Zammer博士の『Der Weg Zum Seibst(自らへの道、または、バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシの人生と教え)』へのC.G.ユング博士の前書きからの抜粋。
  シュリー・ラマナは、インドの大地の真の息子です。彼は誠実であり、それに加え、全く驚嘆すべき格別の人物です。インドにおいて、彼は汚れのない場所の中でも最も汚れのない地点です。

 我々がシュリー・ラマナの人生と教えの中に見つけるものは、インドの中で最も純粋なものです。その息遣いは世界から解放され、世界を解放する人のものであり、それは千年王国の聖歌です。この歌はただ一つの偉大な主題の上に築き上げられ、色とりどりの千の反射において、インドの精神の内にそれ自身を若返らせます。そして、その最も新しい化身がシュリー・ラマナ・マハルシその人です。

 自らと神の同一性は、ヨーロッパ人にとって衝撃的に感じられます。シュリー・ラマナの言葉の中で表現されているように、それは特に東洋の悟りです。心理学は、そのようなことを目的とすることは心理学の範囲をはるかに超えていると述べる以外は、それにさらに何も貢献できません。しかしながら、インド人にとって聖なる源としての自らが神と異ならないことは明確です。そして、人が彼の自らに留まる限り、彼は神に包摂されているだけでなく、彼は神自身であり、シュリー・ラマナはこの点において非常にはっきりしています。

 東洋の修練の目的は、西洋の神秘主義のそれと同じです。焦点は、「私」から自ら、人から神へ移し替えられます。これは自らの中に「私」が、神の中に人が消えることを意味します。同様の努力が『霊操』(*1)の中で記述されており、その中で「個人資産」である「私」は、可能な限り最大限、キリストの所有(者性)に従属させられます。シュリー・ラーマクリシュナは自らに関して同じ立場をとりました。ただ彼に関しては、「私」と自らの間のジレンマがもう少し前面に出ています。シュリー・ラマナは、聖なる修練の真の目的は「私」の解消であると間違いなく明言しています。ラーマクリシュナは、しかしながら、この点に置いていくぶん躊躇する態度を示してます。彼は、「私の意識が続く限り、その限りは真の知(ジニャーナ)と解放(ムクティ)は不可能です」と言いましたが、しかし、彼はアハンカーラの致命的な性質を知っているに違いありません。彼は、『この合一(サマーディ)を得て、この「私」から脱することができる人は何とわずかなのでしょうか。それはまずめったに起こりません。思う存分に話し、あなた自身を絶え間なく分離しなさい。しかし、この「私」はいつもあなたのもとへ帰ります。ポプラの木を切りなさい。明日にはそれが新たな芽をつくっていることに気づきます。この「私」がついに破壊できないと分かった時、それを僕(しもべ)である「私」としていさせましょう』と言いました。この譲歩に関して、シュリー・ラマナは確かにより徹底的でした。

 この二つの数量-「私」と自ら-の間の変化する関係は、東洋の内観的な意識が、西洋の人間にはほとんど達成できない程に探求した経験の領域を表現します。東洋の哲学は、我々のものとはまるで異なり、我々に非常に価値のある現在を描きますが、しかしながら、我々はそれを「所有するために獲得するに違いありません」。シュリー・ラマナの言葉は、今一度、インドの精神が内なる自らの熟考において数千年もの間に蓄積した最も重要なものを要約しています。そして、マハルシの個人の人生と作品は、もう一度、解放する原初の源を見つけるためのインドの人々の心の奥底にある努力を例示しています。私が「もう一度」と言ったのは、インドがとなり、それと共に国際社会に参加するという運命的な段階の前に立っているからです(*2)。その指導原理は、魂の「孤独」と安らぎだけを除き、すべてのものをその計画下におきます。

 東洋の国々は、精神的財産の急速な崩壊に脅かされており、その場所にやってきたものは、西洋(人)の心の最良のものに属しているとはいつもみなすことができないものです。それゆえに、人はシュリー・ラーマクリシュナやシュリー・ラマナのような聖者を現代の預言者とみなすのかもしれません。彼らは我々にインドの何千年もの精神的文化を思い出させるだけでなく、それを体現しています。彼らの人生と教えは、西洋文明の新しい物事すべてや、世界への物質科学的および商業的関心の中に魂の要求を忘れないようにという印象的な警告となっています。政治的、社会的、知的分野において獲得し、所有しようとする息つく暇もない衝動、それは西洋人の魂の中の表面的な、満たされない情熱をかきまわし探しながら、東洋でも絶え間なく広がりつつあり、いまだ見過ごされるべきでない結果を生む恐れがあります。インドだけでなく、中国においても、その中でかつては魂の命が栄えた多くのものが、すでに失われています。西洋の外面化の文化は、真に多くの悪を取り除くことができ、その破壊はとても望ましく、都合がよいように思えます。しかし、経験が示すように、この進歩は精神的文化の喪失とあまりに密接にもたらされます。秩序立ち、衛生的に設けられた家に住むことは疑いなくより快適ですが、この家に誰が住むのか、そして、彼の魂が同じような秩序や純粋さの状態、すなわち、外面的な生活のために役立つ家のような状態を楽しんでいるのかについての問いには答えません。一度、人が外面的な物事の追求に向けられるなら、経験が示すように、生活必需品だけでは彼は決して満足せず、よりいっそうのものを常に求めて努力します。その先入観に忠実に、彼は常に外面的な物事の中にそれを探します。外面的な成功すべてにもかかわらず、内面的には同じままであることを彼は完全に忘れ、それゆえに、彼の周りの他の人のように2台の自動車ではなく、1台しか所有していない時に自分の貧しさについて不平を言います。確かに、人の外面的な生活は多くの改善や美化を生みますが、心がそれに追いついていない程度に応じ、その価値を失います。全ての「必需品」の供給は、疑いなく、過小評価されるべきでない幸福の源です。しかし、その上、それを超えて、人は要求を掲げます。それはどのような外面的な物品でも満たすことはできません。そして、この世界の「素晴らしいもの」を探し求めるこの声が聞き届けられるのが少なくなるにつれ、人生の状況のただ中で、心は説明しえない不運と理解しえない不幸の源になります。彼は人生から全く異なる何かを期待したのでしょうが。外面化は不治の苦しみに通じます。なぜなら、誰もがいったいどうして人が自分自身の性質のために苦しむのか理解できないからです。誰もが自分自身の満たされないという性質に驚かずに、それを自分の生得権とみなしています。彼の魂の食事の偏りがついには心の平静への最も深刻な妨げになると彼は理解しません。これこそが西洋人の病を形づくるものであり、彼はその貪欲な落ち着きのなさを全世界に感染させるまで休みません。

 東洋の知恵と神秘主義は、それゆえ、彼らが独自のまねできない話ぶりで話すなら、我々に語るべきたいへん多くのことを持っています。彼らは我々に、同様の考えをもつ我々自身の文化の中に我々が所有しており、すでに忘れ去られてしまったものを思い出させ、重要でないと脇によけたもの、すなわち、我々の心の運命に我々の注意を向けます。シュリー・ラマナの人生と教えは、インド人だけでなく、西洋人にとっても重要です。それは非常に興味深い記録を形づくるだけでなく、無自覚と自制の喪失という混沌のなかに自らを見失う恐れのある人類にとって警告するメッセージでもあります。

(*1)『霊操』・・・イグナティウス・ロヨラ著の『Exercitia Spiritualia』の日本語訳。http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9C%8A%E6%93%8D
(*2)Der Weg Zum Seibst』は1944年出版。『Golden Jubilee Souvenir』の初版は1946年9月に発行。インドの独立は1947年8月15日。