2013年8月28日水曜日

サティヤ・ナーラヤン・タンドン氏の体験 - シュリー・バガヴァーンに導かれて

◇「山の道(Mountain Path)」、1970年4月、p107~108

 以下の文章は、以前に投稿した「聖なる山、アルナーチャラの紹介 - アルナーチャラとバガヴァーン・ラマナ」で言及されていたS.N.タンドン氏の体験です。(文:shiba)

アーシュラムの広報(Ashram Blletin)の中の一つの記事

 (「山の道」の)読者もご存じのカンプールのサティヤ・ナーラヤン・タンドン夫妻は、いつものように、今年もアーシュラムにひと月以上滞在しました。滞在中、タンドン氏は健康状態が思わしくありませんでしたが、アーシュラムの日課に1日でさえ欠かすことなく参加しました。瞑想のための彼のお気に入りの場所は旧瞑想講堂でした。我々の要望に答え、彼は「山の道」の読者の興味をひくだろう以下の体験の文章を記しました。

 いつも通り、私は朝のプージャーのために座りました。気がつくと私は、旧講堂のシュリー・バガヴァーンのサマーディに面する窓の下にいました。しばらく後で、私は講堂全体がアルナーチャラ山に向かって動いて行き、洞窟、もしくは、大きな穴へ入って行くのを感じました。そこで、気がつくと私は泉の下に座っており、そこから水が私の頭に流れ落ち、私は沐浴していました。何かが私の体の表面から層になってはがれて行きました。それは体の汚れが洗い流されているか、古い皮膚がはがれ落ちているかのどちらかだと心の中で思いました。泉から頭に流れ落ちる水は、地面をぬらすことなく、すべて私のハートへと入って行きました(似たようなことが数年前、私に起こりました)。その場所の一方の隅に、シュリー・バガヴァーンは目を半分閉じて石板の上に座っていました。

 それから、シュリー・バガヴァーンは私を後に連れ、平らな表面の上を歩いて行きました。我々はひどくむさ苦しく不潔な、悪臭を発する路地を通り抜けました。私はシュリー・バガヴァーンがどこに私を連れてゆくのか、なぜこのような不快な場所に来たのか考えていました。いくらか距離を歩いた後、私は空気全体が息が詰まり、息苦しいように感じました。私はシュリー・バガヴァーンに、願わくばこの不快な場所から私を連れ去って下さいと懇願しました。彼は微笑して、私の方をふりかえって見ました。

 その後、我々は広大な草原と果樹の広がりに向かい進みました。空気は甘美な香りで満ちていました。我々は歩み続け、とても心地よい風景をその間ずっと楽しみました。ある場所でシュリー・バガヴァーンは止まり、「あなたは疲れて、お腹が減っていますね」と言いました。彼はいくつか果物をとり、私に食べさせました。その果物はとてもみずみずしく、力を与え、2・3口食べることにより、疲労・飢え・渇きが無くなったので、私は満足し、それ以上食べようという気が起こりませんでした!

 我々は更に進み、今や、白い大理石のような平原にきました。我々は寺院を見つけ、少し離れた距離にモスク、それから、教会がありました。それら全ての中に、何の生き物も見られず、全ては静寂でした。それらの場所のどこにも立ち止まらず、我々は道を進みました。今や、思いはやって来なくなり、私は脳に空白を経験しました。まるで糸につながれたように、私は機械的にシュリー・バガヴァーンの後ろを歩いていました。より高い所へ進むにつれ、いっそう穏やかさを感じました。すべっているかのように、私の足は何の努力もなしに動きました。

 最後に、私は無数の水銀球で照らされているかのような、とても明るい場所に辿り着きました。そこで私はシュリー・バガヴァーンも、空も、大地も、この体も見ませんでした。しかし、私は「私は在る」と感じました。

2013年8月22日木曜日

ラーマチャンドラ・アイヤル氏の思い出 - あなたが持てるもので満足せよ

◇『シュリー・ラマナ・マハルシと向かい合って(Face to Face with Sri Ramana Maharshi)』

                                                                54.
T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルはティルヴァンナーマライ生まれです。彼の宗教と哲学への関心は、彼を1920年代にシュリー・ラマナへ導きました。マドラスの弁護士として、彼は多くのアーシュラムの法的業務を扱いました。彼はまたマハルシの講堂で通訳として、付添人として仕えました。

 私はシュリー・バガヴァーンの講堂へ入り、彼を見ました。確信させるほどに全く強烈な体験と共に、私は顔をつけてうつぶせに倒れ、彼に平伏しました。私が何年もずっと思い焦がれ、私の全存在を揺り動かし、私の力を導くことのできる「彼」がここにいたのだという発見。彼はとても偉大でしたが、とても簡素でした。私は立ち上がりました。バガヴァーンは微笑み、席を勧めました。すべての感情、思いと湧き上る疑問はどこにもありませんでした!私は寄る辺、人生における最大の幸運を見つけたと感じました。

 多くの人々は、バガヴァーンがいつもアドヴァイタの哲学を語り、彼に助言を求めるすべての人に自らの探求を指示したという印象を持っています。しかし単純にそうではありません。バガヴァーンの助言は状況の必要性に応じて変わりえました。

 アーシュラムの郵便局が設けられた時、一人息子を亡くした郵政省の高官が妻と共にアーシュラムにやって来ました。彼は、「私たちはその子をたいへん愛していました。彼を亡くした後、私たちには安らぎも、幸福もありません。私たちに唯一残された願いがあります。来世で息子に会えますか」と言いました。彼はそのための保証を求めました。いくらかの説得が効果的でないと判明した後で、バガヴァーンは身を乗り出し、彼らに保証するかのように手を掲げ、「ええ、今世であなたがあなたの息子を見たのと同じようにはっきりと来世であなたは彼を見ます」と言いました。このことはその人を大いに幸せにしました。彼はバガヴァーンの足に何度も触れ、とても満足した様子で帰って行きました。

 彼が去った後、私は、「バガヴァーン、どうしてあのように話したのですか。どうしてそんなことが起こりうるのですか」と言いました。バガヴァーンは、「どうすればいいのですか。私があのように話さなかったら、彼の信仰は土台から粉々になってしまったでしょう」と答えました。私がまだ懐疑的であったので、バガヴァーンはギーターからの1詩節を私に読むよう求めました。その意味するところは、「知識はそれを把握する能力に応じて与えられるべきである。受け入れる用意のない人々に哲学を教えるならば、彼らの信仰は破壊される」でした。

 1945年、バガヴァーンはディリップ・クマール・ローイ(*1)にバクティはジニャーナの母であると言いました。バクティ・マールガの追随者がバクティが最良であると言明する時、彼は実際そのバクティという言葉でジニャーナ・マールガの人がジニャーナと呼ぶものを意味しているのです。その境地、属性によるその描写、属性の超越において、違いは存在しません。ただ、様々な思想家が様々な言葉を使っているだけです。

 数日後、ローイはバガヴァーンに、「自我を殺す最良の方法は何ですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「心に心を殺してくれるように頼むことは泥棒を警察官にするようなものです。彼はあなたと一緒に行き、泥棒を捕まえるふりをしますが、何も得られるものはないでしょう。ですから、あなたは内に向かい、どこから心が生じるのか見なければなりません。その時、心は存在するのをやめます」と答えました。

ディリップ・クマール・ローイによる歌

 母の寺院が建設されている時、深刻な資金の不足が起こりました。サルヴァーディカーリー(*2)は私とチャガンラール・ヨーギに5万ルピーの寄付を求めてボンベイのジャマナ・ラール・バジャージ(*3)を訪問して欲しいと思いました。これにはバガヴァーンの許可が必要でしたが、彼には許可を求める勇気はありませんでした。私は幾人かの信奉者を集め、許可を得るためにバガヴァーンのもとへ行きました。いくらかの間、我々は彼の前に立ちましたが、彼は我々を見ようとさえしませんでした。我々のそれぞれが他の人が話して欲しいと思いました。我々が尋ねた時、彼は長いあいだ返答しませんでした。ついに、彼は我々の方を向き、「私はすでに私の名において請い求めないようにあなた方に言っています。今、もう一度あなた方に言います。あなた方が持っているもので満足しなさい。アーシュラムのこれら全ての建物は、私の物乞いの結果としてやって来たのですか。全ては起こるべくして起こりました。単に個人的努力の結果だけでは何も起こりません」と言いました。

 特にバガヴァーンの人生の最後の数年間、我々みなが彼の健康状態を心配していましたが、バガヴァーン自身は彼の体が招いた様々な痛みや問題に無関心でした。彼が何らかの関心をもったならば、それは彼の均整のとれた体の問題が彼に会いに来た信奉者らに不便となることでした。

1966年10月の「山の道(The Mountain Path)」に、T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルは以下のように書き留めています。

 大学での私の専攻科目は哲学でした。かつて私が講堂に入った時、自らの性質についての議論が行われていました。書籍から学ぶ知識が記憶に新しかったので、私は西洋体系における意識の様々な段階について読んだことを述べ始めました。私は特に超越意識と潜在意識という用語を口にしました。バガヴァーンは耳に留め、鋭く反応しました。「何ものかに関連してのみ、あなたはそれに『超越』や『潜在』状態を仮定できます。意識は真理であり、それについてのどのような仮定も無知の創造物であり、心を曇らせますが、それでも知性にとっては魅力的です。真理は単純で、直接的であり、変化を経験しません。自ら、アートマン、ブラフマン-それをどんな名で呼ぼうとも、存在するものは意識です」。私はバガヴァーンの言葉を聞いただけでなく、何か他のものも経験しました。私は私の本質に触れ、経験し、私の意識の中へ深く潜り、至福の大海の中で泳ぎました。私はバガヴァーンの前でひれ伏し、心の中で大声で叫びました-おお、バガヴァーン!私の師よ!私の暗闇を払う者よ!あなたに帰依します!私をあなたの僕(しもべ)として受け入れよ!

(*1)ディリップ・クマール・ローイ・・・ベンガル地方出身の音楽家・音楽学者・小説家・詩人・随筆家。ロマン・ローラン、ガーンディー、タゴールと親交があった。バートランド・ラッセルとの対話:http://russell-j.com/ROY-01.HTM
(*2)サルヴァーディカーリー・・・「全ての支配者」。アーシュラムの運営・管理をしていたバガヴァーンの弟のチンナ・スヴァーミのこと。
(*3)ジャマナ・ラール・バジャージ・・・原注によるとインドのバジャージ・グループの創立者。マハートマー・ガーンディーへの奉仕に人生を捧げた裕福な実業家。

2013年8月20日火曜日

アッラー、イエスetc - ただ一つのものが様々な名で呼ばれている

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』

1946年4月23日

(43)在るそれは、ただ一つである 

 今日の午後、ムスリムの若者が2、3人の友人と共にここにやって来ました。彼が座った様子から、彼が質問を尋ねたいのだと私は感じました。少し後で、彼はタミル語で質問を尋ねはじめました。「どうすれば人はアッラーを知ることができますか。どうすれば人は彼を見ることができますか」。それが彼の質問の趣旨でした。いつものようにバガヴァーンは、「はじめに、質問しているのは誰かあなたが見出すならば、その時、あなたはアッラーを知ることができます」と言いました。

 若者は再び、「この棒がアッラーであると思いながら、私がそれに瞑想するなら、私はアッラーを見ることができますか。私はどのようにアッラーを見るべきですか」と言いました。「決して破壊されない、かの真のものが、アッラーとして知られています。はじめに、あなた自身についての真理をあなたが見出すなら、アッラーについての真理が現れます」とバガヴァーンは言いました。それは彼を扱うには十分でした。彼は友人と共に去りました。彼らが去ったすぐ後、バガヴァーンは側にいる人々に、「ほら、彼はアッラーを見たいのです!この目でもって(それを)見ることができますか。この目がどうして(それを)認められますか」と述べました。

 昨日、ヒンドゥー教徒がバガヴァーンに、「オームカーラ(*1)はイーシュワラの名前ですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「オームカーラはイーシュワラであり、イーシュワラはオームカーラです。それはオームカーラそのものがスワルーパ(真の自ら)であるという意味です。スワルーパそのものがオームカーラであると言う人もいます。それをシャクティであると言う人もいれば、それはイーシュワラであると言う人もいます。それはイエスであると言う人もいれば、それはアッラーであると言う人もいます。どのような名が与えられても、そこに在るものはただ一つです」と言いました。

 4日か5日前、誰かの質問へ与えられた答えを思い出して、アーシュラムに住んでいる信奉者がバガヴァーンにこのように尋ねました。「あなたはアーナンダ(至福)もまた解消されると言いました。もしそうなら、ディヤーナ、サマーディ、サマーダーナの意味は何ですか」。バガヴァーンは、「ラヤ(*2)ということで何が意図されていますか。それはアーナンダで止まるべきではありません。それを経験するための誰かがいるはずです。その誰かを知るべきではありませんか。その誰かを知らなければ、それがどうしてディヤーナとなれるのですか。経験する人が知られるならば、その人は自らです。人が自分自身になる時、それはディヤーナになります。ディヤーナは自分自身の自らを意味します。それがサマーディです。それはサマーダーナ(瞑想の唯一の対象、すなわち、至高の神霊への思いの完全な吸収)でもあります」と言いました。

「アッラー - 99の名」

(*1)オームカーラ・・・文字通りの意味は、「オームという音節」。
(*2)ラヤ・・・「解消、消滅」

2013年8月12日月曜日

委ねの本質、感情の制御、ヴァルナーシュラマの必要性、自我の追跡

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p84~87

 読みやすいように文章を少し変え、対話形式にしています。(文:shiba)

46年1月2日 午後 

 ジョーシー氏が、バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものを提出しました。そして、バガヴァーンがそれに答えます。

バガヴァーン:(はじめに、ジニャーニが心を持たず務めを行うことについて)
 あなたは心が破壊されるならば、人は務めを行えないと想像しています。どうして人に務めを行わすことができるのは心だけであると思うのですか。活動を生み出すことができる他の原因もまたあるかもしれません。例えば、この時計をご覧なさい。心を持たずに動いています。また、我々が「ジニャーニは心を持つ」と言うと仮定しましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は心をまったく何か遠くの物事へ向けて話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、務めを行っていても、務めを行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、体が活動的でなかったり、動いていなくても、心は務めを行っています。

質問2:
 ソーハム(*1)は「私は誰か」と同じでしょうか。

バガヴァーン:
 アハム(*2)だけがそれらに共通しています。一方はソーハムであり、もう一方はコーハム(*3です。それらは異なります。どうして我々はソーハムと言い続けなければならないのですか。人は本当の「私」を見出さねばなりません。「私は誰か」という質問において、「私」は自我を意味します。それを追跡し、その源を見つけようと試みるなら、我々はそれが分離して存在せず、本当の「私」に溶け込むことが分かります。

質問3:
 私は委ねのほうが容易であると感じます。その道を採用したいと思います。

バガヴァーン:
 どの道を通ってあなたが行っても、一者(the One)の中にあなた自身を失わねばなりません。委ねは、あなたが「おん身は全てである」や「おん身の御心が果たされんことを」という段階に達する時にのみ完全です。その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。実際には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは容易に見えます。なぜなら、人々がいったん口で「私は委ねます」と言い、彼らの重荷を主へ置くなら、彼らは自由になり、好きなことができると彼らは想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後にあなたは好き嫌いをまるで持てず、主の御心が取って代わり、あなたの意思は完全に存在しなくならねばなりません。そのような自我の死はジニャーナと何ら異なりません。ですから、どの道をあなたが行こうとも、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性へ行かねばなりません。

質問4:
 どのように私の感情を取り扱うべきでしょうか。私はそれを抑制すべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「これらの感情は誰にあるのか」尋ねるなら、それらは消滅せず、より強力になるようです。

バガヴァーン:
 それはあなたが私の方法に適切に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それらを取り除くことです。あなたが感情を抑制するなら、しばらくの間は抑えられるかもしれませんが、再び現れます。あなたが感情を満たすなら、それらはしばらくの間だけ満たされますが、再び満足を渇望します。欲望を満足させ、それによって欲望を取り除こうと試みることは、灯油をかけることによって火を消そう試みることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。

別の訪問者:
 私が「私は誰か」という探求を試みるなら、私は眠りに落ちます。私は何をすべきですか。

バガヴァーン:
 あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが探求を眠りに落ちるまでし続けるなら、探求は眠りの間も続きます。目覚めればすぐに、探求を再開しなさい。

別の訪問者:
 国が進歩するためには、ヴァルナーシュラマ(*4)の違いが無くなるのが必要ではありませんか。

バガヴァーン:
 どうしてそれが必要であるのか、必要でないのか言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に発表しに行きます。「何某(なにがし)もこれこれの意見です」。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた同じ聖典が、全ての生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディ(*5)を唯一の現実として示してもいます。全ての生命の合一性、もしくは、一体性より優れた真理を教えることが誰かできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後で、国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタ(*6)は、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改める改革者」と広告を出しました。世界に二人として同じにはなれず、同じ様には振る舞えません。どれほど懸命に我々が消し去ろうと試みようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだしたそのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだしただけであり、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えました。各々にとっての唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。
 
別の訪問者:
  一般的に、ジニャーニは活動的な人生から退き、どのような世俗的活動にも従事しません。

バガヴァーン:
 そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。ある人々は実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治します。ある人々は森に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控えます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、人生から退くと我々は言えません。

訪問者:
 私はバガヴァーンが我々の本で言及されている肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、人生で普通の日常の務めを行っているジニャーニの具体的な例をあげられるのか知りたいのです。

バガヴァーン:
 (沈黙)

訪問者:
 自らの実現のために放棄は必要ですか。

バガヴァーン:
 放棄と実現は同じです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らでないものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、または、実現です。一方は、同じただ一つの真理の消極的な側面であり、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、我々の本質である自らの実現、または、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段として見えます。終には、それらは目的となります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続けるために、あなたの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらがあなたの側の何らの努力なしに進む時、我々は目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々がしていること、それは我々が非現実のものを実現している、つまり、非現実を現実とみなしているということです。我々はそれを捨て去らねばなりません。それが求められる全てです。

訪問者:
 どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるのしょうか。

バガヴァーン:
 それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界と全てが存在しますが-を追跡しようと試みる時、あなたは自我がまるで存在せず、この全ての創造も同様であると分かります。

(*1)ソーハム・・・「彼/それは私である」
(*2)アハム・・・私
(*3)コーハム・・・「私は誰か」
(*4)ヴァルナーシュラマ(ダルマ)・・・カーストの序列や人生の段階、カーストや人生の段階に属する義務
(*5)アブヘダ・ブッディ・・・相違の概念をもたない知性
(*6)ラム・ティールタ・・・ラーマ・ティールタのことで、ラムはラーマの短縮形。1873年から1906年。ヴェーダーンタ哲学の教師。日本にも来ていたようです。

2013年8月7日水曜日

バガヴァーンとの対話② - 世界の現実性(夢と目覚め)、サット・サンガ

◇「山の道(Mountain path )」、1981年6月、p153~155

バガヴァーンとの対話 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ 

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ:
 神は様々な種類の世界を創造し、いまだ新しい世界を創造するつもりであると言う人々がいます。

シュリー・バガヴァーン:
 我々の現在の世界そのものが真実ではありません。各々の人が様々な想像の世界を彼の想像に応じて見ます。それでは、どこに新しい世界が現実的であるという保証がありますか。ジーヴァ(個人)、世界、神、それら全ては真実の境地に依存しています。「私」という個人の感覚が存在する限りは、それらもそこに存在します。この「私」という個人の感覚から、心から、これら三つが生じています。あなたが心を破壊するならば、それら三つは留まらず、ブラフマンのみが留まります。それは今でさえ留まり、住まっています。私たちはものを誤って見ています。この誤った認識はこのジーヴァの本質を探究することによって正されます。たとえジーヴァが超越した心(super-mind)に入っても、それは心の中に留まります。しかし、心を委ねた後、ブラフマン以外留まるものは存在しません。この世界が現実、もしくは、非現実であっても、チェータナー、もしくは、ジャーダであっても(意識がある、もしくは、意識がなくても)、幸福な場所、もしくは、悲惨な場所であっても、それら全ての状態は無知の状態に生じます。「私」という個人の感覚を欠くアートマ・ニシター(自らに定められた)の境地は、至高の境地です。この境地において、対象的な思考の余地はなく、この個人的存在の感覚もありません。存在‐意識‐至福というこの自然の境地においてどのような疑いも存在しません。自分自身の中に名と形の知覚がある限り、神は形を伴い現れますが、無形の現実の知見(アルーパ・ドリシュティ)が達成される時、見る者、見る、見られるものという変形はありません。その知見は意識そのものの本質であり、不ニであり、分割されません。それは制限なく、無限であり、完全です。体の内に「私」という個人の感覚が生じる時、それから目覚めの状態が現れます。この感覚が不在の時、それでは誰が世界を見るのですか。

質問:
 我々が我々の体に存する物質的性質を抑制できるのとまさしく同様に、自らは全てに共通しているため、聖者は他者の物質的性質を変えられるといった力を彼自身の内に持つにちがいないと信じている人たちがいます。

答え:
 ジニャーニは他者が存在していると信じていません。ですから、誰かの物質的性質を変えるという問題は存在しません。他者が見られる時、それは無知です。

質問:
 ジャナカはジニャーニでしたが、彼は支配する君主でした。しかし、ジニャーニである彼のグル、ヤージュナヴァルキヤは世俗を放棄し、森へ行きました。どうしてそうなのですか。

答え:
 全ては各々のジニャーニのプラーラブダ(運命)に応じて起こります。クリシュナは楽(らく)を楽しむ者(ボーギー)でしたが、スカデーヴァは苦行者(トゥヤーギー)でした。ジャナカとラーマは王でしたが、彼ら全てはジニャーニでした。彼らの内なる体験は同じであり、外の人生はプラーラブダに従っていました。

質問:
 ある人は縄に蛇を、ある人は棒を、ある人は花輪を、ある人は水の流れを見ますが、縄を縄として見る人は真実の知識を持っています。その他の見る者の知識は真実ではありません。

答え:
 他の見る者の見かたについて考える必要はありません。それらの他者はあなたの想像の内にだけ存在します。ただ一人の見る者を知りなさい。そうすれば、全てはよくなります。

質問:
 どのようにですか。

答え:
 夢の中で多くのものが見られますが、それらはすべてただ1人の見る者の想像の内に存在します。あなたが夢から目覚める時、夢と夢の中の見られるものはそれら自身のプラーラブダを引き受けます。

質問:
 それでは、他者はいなくなるのですか?

答え:
 世界と同じです。『アパロークシャーヌブーティ』(シャンカラに帰せられるアドヴァイタの作品)において、著者は「見る者、見る、見られるものが存在しないその境地に、視線は鼻先ではなく、そこに(その境地に)定められるべきである」と述べます。

質問:
 それから質問が起こります。視線がそのように定められるならば、どのように毎日の生活が続けられるのですか。

答え:
 アディシュターナ(礎)以外何も真理とならないため、ヴァヤヴァハーラ(世俗的な活動)の間でさえ、ジニャーニは視線(ねらい)を礎に定めています。壺の内に土が存在すると感じることが適切な態度です(つまり、形でなく本質を見る)。

質問:
 壺は水で満たせますが、土に水を注ぐことによって同じ結果は達成できません。

答え:
 あなたに壺を壊した後で土を見るようにとは言ってません。壺が完全な時でさえ、あなたは土からなる形においてそれを見ることができます。同様に、世界をブラフマンからなる形として見ることができます。目覚めの状態にブラフマンの知を持つことは、壺の内に粘土の知識を持つことに似ています。

質問:
 名と形は現実ですか。

答え:
 あなたはそれらをアディシュターナから分離しているとみなしてはいけません。名と形を理解しようと試みる時、あなたは現実のみを見つけます。それゆえ、永久に現実なるものの知を得なさい。

質問:
 夢は目覚めの状態の間に受けた印象のために生じるというのは事実ですか。

答え:
 いいえ、本当ではありません。あなたは夢で目覚めの状態において以前に見たことがない多くの新たな物事や新たな人々を見ます。あなたは夢の中で二番目の夢すら見るかもしれません。二番目の夢から目覚めた後、あなたは目覚めたと感じますが、それは一番目の夢という目覚めの状態です。同じように、人は毎日、目覚めますが、それは本当の目覚めの状態ではありません。

質問:
 どうして目覚めの状態はとても現実的なのですか。

答え:
 我々はとても多くのものを映画のスクリーン上に見ますが、現実ではありません。そこでスクリーン以外の何も現実ではありません。同じように、目覚めの状態において、アディシュターナ以外何も存在しません。ジャーグラット・プラマー(世界の知識)はジャーグラット・プラマータ(世界を知る者)のプラマー(知識)です。両方とも眠りにおいて去ります。(*1)

質問:
 どうして我々は世界においてそのような永続性や不変性を見るのですか。

答え:
 それは間違った考えのために見られています。ある人が同じ川で二回沐浴したと言う時、彼は間違っています。なぜなら、彼が二度目に沐浴した時、川は彼が一度目に沐浴した時と同じではないからです。炎の輝きを見て、人は同じ炎を見ると言いますが、この炎は瞬間ごとに変化しています。目覚めの状態はこのようです。変化のない見かけは知覚の誤りです。

質問:
 誰の誤りですか。

答え:
 プラマータ(知る者)です。

質問:
 どのようにして知る者は来たのですか。

答え:
 知覚の誤りのためです。実際は、知る者とその間違った知覚は同時に現れ、自らの知が得られる時、同時に消えます。

質問:
 どこから知る者とその間違った知覚が来たのですか。

答え:
 その質問を誰が尋ねていますか。

質問: 
 私です。

答え:
 その「私」を見出しなさい。そうすれば、あなたの全ての疑問は解消されます。夢の中に虚偽の知る者、知識、知られるものが生じるのとまさしく同様に、目覚めの状態において同じ過程が働いています。両方の状態において、この「私」を知るとすぐに、あなたは全てのことを知り、知られるべき何ものも残りません。深い眠りは、知る者、知識、知られるものを欠いています。同じように、真実の「私」を経験する時、それらは存在しません。目覚めの状態であなたが見る起こっているものが何であれ、それらは知る者に対して起こり、知る者が非現実であるため、実際には決して何も起こっていません。

質問:
 眠りから目覚めた後、どうして前日の世界は同じように見えるのですか。

答え:
 前日に見られた世界は現実ではありません。それは非現実な知る者の知識です。同様に、次の日の世界もまた非現実な知る者の知識です。実のところ、現実の世界は存在しません。我々から分離して見えるものが我々によって「世界」と呼ばれています。自我意識(アハンカーラ)のために、それは我々と分離して見えます。アハンカーラが去る時、何ものも分離して存在せず、それゆえ世界は存在しません。時間もまたプラマータから生じます。プラマータは現実でないので、時間もまた現実ではありません。アインシュタイン博士もまた、相対性理論の中でこれを唱えました。

質問:
 それでは、どのようにして日常生活の出来事は進むのですか。

答え:
 この頃、政府は一時間先に進めて時間を変更しました。時間は間違ったものですが、日常生活は依然として続きます。

質問: 
 『パンチャダシ』に、あなたが同じ学校に通っている子供たちみんなと一緒に歌っている息子の音楽を聞きたいと思うならば、他の子供たちに静かにするよう頼まなければならないという例があります。同様に、自らの声を聞くためには、あなたは他の全ての活動をやめなければなりません。

答え:
 特にこの例においては、息子が出席していなくても、あなたは他の子供たちの音楽を聞きます。ですから、この例えはうまく合っていません。真実を言えば、自らが存在しなければ、他の仕事を行うことはできません。他の例によれば、我々がハーモニウムの主旋律に注意を定めるなら、他の旋律がそれと共に流れていても、その旋律を聞くのに困難はありません。

質問:
 非現実であると信じられていても再び現れる蜃気楼とまさしく同様に、世界は非現実であると信じられていても再び現れます。

答え:
 蜃気楼の中の水の知識が真実でないのとまさしく同様に、ブラフマンの中の世界は真実ではありません。全ては一つのブラフマー・ルーパ(ブラフマーの形)です。それのみが真実の知です。

質問:
 ヴェーダーンタの古い体系によれば、無知がはじめに生じ、それから個人の存在という考えが生じたようですが、新しい体系によれば、前も後もないようです。個人の存在、無知、世界は同時に生じ、知を得るとすぐに、それら三つすべてが消えます。

答え:
 そうです。「あなたの知見をジニャーナマヤ(完全な知、知からなるもの)にした後、世界をブラフマーからなるとして見よ」(ヨーガ・ヴァーシシュタ)。

質問:
 そのような状態はサット・サンガ(聖者との交際)によってのみ得られます。

答え:
 サット・サンガが講話や対話のみを意味すると考えないように。それは自らの形として存在に住まうことを意味します。

質問:
 「アートマはスワヤム・プラカーシャである(自らはその独自の光でもって輝く)」という意味は何ですか。

答え:
 太陽に決して暗闇が見られることがないのとまさしく同様に、自らにも決して無知は見られません。自らは知ることはできませんが、アパロークシャ・アヌバーヴァ(直接的認識による自らの知)によって体験できます。これがスワヤム・プラカーシャトワ(自らの輝き)と呼ばれています。

(*1)ジャーグラットが英文では「world」となっていますが、本来は「目覚めている状態」という意味で、ジャガットが「世界」という意味です。

2013年8月4日日曜日

バガヴァーンとの対話① - 自らの探求、マントラ、アーサナ、書籍など

◇「山の道(Mountain path )」、1981年1月

シュリー・ラマナ・マハルシとの対話

スワーミー・マードハヴァ・ティールタ

質問:
 私は誰か。その問いは誰に向けられてますか。

答え:
 その問いは自我に向けられていて、アートマに向けられていません。

質問:
 「私は誰か」という探求と共に「私はシヴァである」と言うべきでしょうか。もしくは、「私は心、知性、体ではない」などと言うべきでしょうか、言うべきでないのでしょうか。

答え:
 探求の過程において、心の中のそのような問いに返答しないように。答えは内からやって来させるべきです。自我の答えは本物ではありません。ジニャーナ・マールガ(知の道)の方法により答えを得るまで探求を続けなさい。この探求は瞑想と呼ばれています。その状態から生じる動きなく、安らかなジニャーナマヤ(完全な知)が、ジニャーナ(知)です。

質問:
 現在、私は聖像の形に瞑想しています。また、グルから受けた指導に従い、ジャパもしています。私は「私は誰か」という探求を行うのに適していますか、適していませんか。

答え:
 「私」もまたグル・マントラです。『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド(*1)で、神の最初の名は「私」であったと言われています。オームは後で存在するようになったに過ぎません。アートマは常に「私‐私」と言います。ジャパの行為者がなければ、ジャパはまるで存在しません。全て(の人)が「私」のジャパをします。それに集中することにより、瞑想は成功します。そのような瞑想の成果はです。それでも、あなたが形への瞑想を続けたいと思うなら、そのようにしてかまいません。その人に合うサーダナが、その人にとっての適切な方法です。

質問:
 私は宗教的な教えを出版することによる宣伝(布教)の仕事をしています。そして私はジャパ、マントラ、執筆、主の偉業を歌うこと、研究、指導をしています。これを続けるべきでしょうか、続けるべきでないでしょうか。言い換えれば、「私は誰か」という探求を行っている間、私は先に述べたすべての仕事を続けるべきでしょうか。

答え:
 自らの探求を離れることなく、その全ての仕事を行いたいならば、そのようにしてかまいません。あなたははじめにジャパ、歌うこと、奉仕が何であるか理解しなければなりません。「私は在る」としてありなさい(*2)。現実が真のジャパです。ジャパと神は一つです。名と名付けられる物の間には同一性が存在します。偉大な信奉者、ナームデーヴ(*3)は言いました(ここで、バガヴァーンは「The Vision」の古い写しを手にとりました)。「は全世界に完全に行き渡っている。は不死であり、多くの形からなっている。そのものが形であり、形そのものがである。と形の間に区別は存在しない。神は顕現し、と形を帯びた。を超えるマントラは存在しない。人がその「私」を十分に知る時にのみ、の遍く行き渡る性質は理解され得る。彼自身を知る時、彼はをあらゆる場所に見出す。知識、瞑想、苦行の修練によって、誰もを実現できない。そうでなく、あなた自身をグルの御足に委ね、あなたの中の「私」が誰か知ることを習え。その「私」の源を見つけた後、自明の存在であり、一切の二元性を欠く一体性の中にあなたの個人性を溶け込ませよ。そのこそが全世界に行き渡り、浸透している。はパラブラフマンそのものである。そこに違いは存在しない。」

質問:
 私の現在の状態において、十分な信仰、謙虚、委ねが私の中にありますか。そうでなければ、どのようにそれらを完全にすればいいですか。

答え:
 あなたは完全です。ですから、不完全という考えを捨てなさい。破壊されるべき何ものも存在しません。自我は現実のものではありません。心こそが努力をなし、心は現実ではありません。人が蛇であると想像する縄を殺す必要がないのとまさしく同様に、心を破壊する必要はありません。心の形を知ることによって心は消えます。ニヴリッティは、ニティヤー・ニヴリッティに属しています(人は永遠に破壊されているものを破壊できません)。

質問:
 特定の姿勢で座るべきですか、もしくは、草の敷物の上に座るべきですか。

答え:
 自らに安立していることが本当の姿勢です。その姿勢にしっかりといなさい。どんな姿勢でアートマが座りますか。アーサナ(姿勢)がなければ自らの知は存在しないと言うことは間違いです。アートマはそれらを必要としません。特定の種類の姿勢をとることの強制は、心を不安定にします。

質問:
 スワディヤーヤ(*4)のためにどんな本を読むべきですか。

答え:
 自らが本当の本です。あなたはその本の中のどこでも目を通すことができ、誰もそれをあなたから取り去れません。あなたが思いだす時はいつでも、自らへ向きなさい。その後で、あなたは好きなものを読めます。

質問:
 どのように瞑想中に起こる疲労、恐怖、心配に打ち勝つべきですか。

答え:
 誰にそれらが起こるのか見出しなさい。この探求を行うことにより、それらのものは消えます。それらのものは永続的ではありません。それらに注意を払わないように。二元性の知識が存在する時、恐怖が生じます。あなたが「私と離れて他者が存在する」と思う時にのみ、恐怖がやってきます。あなたが心を自らへ向けるならば、恐怖や心配は消え去ります。現在の状態において、心が不安定な時、あなたが一つの恐怖を取り除くなら、別のものが起こり、それに終わりはありません。次から次へと木の葉をむしるのは骨の折れる仕事です。自我が全ての源です。あなたが根を破壊するなら、葉や枝は枯れます。

質問:
 あなたの近くで座っている間、あなたのアートマの力を受け取るために、どのような類の心の状態を我々はもつべきですか。

答え:
 心を静かに保ちなさい。それで十分です。あなた自身を静かに保つなら、この講堂に座り、あなたは聖なる助けを得ます。全ての修練の目的は、全ての修練を放棄することです。心が静かになる時、自らの力が経験されます。自らはあらゆる所に行き渡っています。心が安らかにあるなら、人はそれを経験し始めます。

質問:
 体の内に「私」の源はありますか。

答え:
 自我は体の内にあるので、はじめ、その探求は体の内で行われます。その源が見出される時、内も外もありません。ハートの内を探求することは、「私は誰か」という探求を意味します。

質問:
 ハートは体の内の右側にありますか。

答え:
 「私」が生じる場所がハートです。知の中心としてのハートを知りなさい。

質問:
 どちらが私にとっていいですか。あなたの目と口をしっかりと見ることですか。それとも、私は目を閉じて座り、心を特定のものに集中すべきですか。

答え:
 あなた自身の本質をしっかりと見なさい。目が開いていても、閉じていても重要ではありません。一者(One)はあらゆる所にいます。ですから、あなたが目を開いていても、そうでなくても全く同じです。あなたが瞑想したいなら、あなたの内にある「私」に対して瞑想しなさい。それはアートマです。それは目を持たないため、目を開いたり、目を閉じたりする必要はありません。あなたが自らの知を得る時、世界についてのどのような考えも存在しません。あなたが部屋に座っている時、窓が開いていても、閉まっていても、あなたは依然として同じ人です。同様に、あなたが現実(Reality)の境地に住まう時、目が開いていても、閉じていてもまったく同じです。外側の活動が続いても、続かなくても、大した問題ではありません。

質問:
 瞑想の間と後で、私は世界の不幸な人々についての多くの思いを持ちます。

答え:
 はじめに、この「私」が現実であるのか見出しなさい。それらの思いを得るのは「私」であり、結果としてあなたは弱さを感じます。それゆえ、どのように体との同一化が生じるのか見出しなさい。体の意識が全ての苦しみの根本原因です。あなたが「私は誰か」という探求を行う時、あなたはその源を見出し、「私」は破壊されます。その後、もはや質問は存在しません。

(*1)『ブリハダーランヤカ・ウパニシャッド』・・・ヤージュニャバルキャの作と思われる10の「ムキャ(主要な)・ウパニシャッド」の一つ。紀元前5百年より前に成立。意味は「偉大なる知の森」。
(*2)「Be as you are」の訳。「あるがままにいなさい」と意訳されますが、直訳的には「『私は在る(I AM)』としてありなさい」と訳せると思います。
(*3)ナームデーヴ・・・インド、マハーラーシュトラ州の詩聖。西暦1270~1350。
(*4)スワディヤーヤ・・・自らを学ぶこと