2013年2月26日火曜日

簡単で安全なプラーナーヤーマ、ニルヴィカルパからサハジャ・サマーディへ

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』 

45年11月11日 朝

 ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードは、二十日間ばかりここに滞在しており、バガヴァーンに尋ねました。

質問:
 『マハー・ヨーガ』(ラクシュマナ・サルマ著)では、瞑想のはじめに呼吸、つまり、「息を吸うこと」と「息を吐くこと」に注意を向けてよく、それにより心の落ち着きがある程度得られた後で、心の源を探してハートへ飛び込むことができると述べられています。私はそのような実際的な助言をたいへん必要としています。私はこの方法に従えますか。それは正しいですか。

バガヴァーン:
 重要なことは、何とかして心を殺すことです。探求の方法に従う力を持たない人々には、心を制御するための手助けとして、プラーナーヤーマが勧められます。プラーナーヤーマには2種類あり、一つは呼吸を制御し、調整するもので、もう一つは単純に呼吸に注意するものです(*1)

45年12月1日

 昨夜、私(ムダリアール氏)はここに戻りました。ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師であるマハー・ヴィール・プラサードは、10月と11月に20日間ばかりここに滞在しており、ラーメシュワラムやそのほかの場所へ巡礼に出かけていましたが、(今は)ここに戻っています。

 『マハー・ヨーガ』のある文章に関連した彼のいつもの質問の続きで、彼はバガヴァーンに、「私は誰か」という心の探求を始める前に、呼吸に注意する(*2)ことが必要であるのか、先行する条件であるのか尋ねました。
  
バガヴァーン:
 すべては、その人のパクヴァ、すなわち、素質や適性によります。心を集中したり、制御する心の力を持たず、それを探求に向けることができない人々は、呼吸に注意する(*3)ように助言されます。なぜなら、そのような注意は、自然に、そして、当然ながら、思いの停止につながり、心を制御下におくからです。

 呼吸と心は同じ場所から起こり、どちらかが制御される時、もう一方も制御されます。実のところ、探求の方法において-それはより正確には、単に「私は誰か」でなく、「私はどこから来たか」ですが-私たちは、究極的な現実として残るものに到達するために、「我々は体でなく、感覚などでなく」と言いながら単に取り除こうと試みているのでなく、自我にとって「私」という思いがどこから私たちの内に生じるのか見つけようと試みているのです。その方法は、その内に、明示的でなく暗示的にですが、呼吸への注意(*4)を含んでいます。私たちが全ての思いの源である「私」という思いがどこから飛び出るのか注意を払うとき、必然的に呼吸の源にも注意しています。なぜなら、「私」という思いと呼吸は同じ源から生じるからです。

 プラサード氏は呼吸を制御するために、1対4対2の割合で息を吸い、止め、息を吐くように規定されている一般的なプラーナーヤーマは良くないのか、再び尋ねました。

バガヴァーン:
 時には、数を数えることによってでなく、マントラを口にすることなどによって調整されるそういった割合すべては、心の制御するための助けです。それが全てです。呼吸への注意(*5)もまた、プラーナーヤーマの一つの形です。息を止めることなどはより乱暴で、サーダカを全ての段階で導く適切なグルがいない時などの場合には有害となるかもしれません。しかし、単に呼吸に注意することは簡単であり、危険を伴いません。

 年配の紳士であるスワミナータ・アイヤル氏が来ました。彼はティンドゥッカル出身の代議士です。彼と一緒に、ラマナと呼ばれる3歳ぐらいの男の子がいました。見たところ、その子はその時までバガヴァーンに会ったことはなかったようですが、バガヴァーンについてたくさん聞いていたようです。それで、その子は講堂で「今、ラマナを見つけたよ」と言いました。それは自然と我々みんなの笑いを誘い、バガヴァーンも一緒に笑いました。

 その年配の紳士はバガヴァーンに、サハジャ・サマーディを達成する前に、まずはニルヴィカルパ・サマーディを経験すべきでないのか尋ねました。

バガヴァーン:
 私たちがヴィカルパ(*6)を持っていて、それらを放棄しようと試みている時、すなわち、私たちが未だ完全でなく、心を一点に集中し続けるか、もしくは、心を思いなく保つために意識的な努力をしなければならない時、それはニルヴィカルパ・サマーディです。修練を通じて、サマーディに入ったり再び出たりすることなく、私たちがいつもその状態にいる時、それがサハジャの境地です。サハジャにおいて、人は常に自分自身を見ています。彼はジャガット(*7)をスワルーパ(*8)、もしくは、ブラフマカーラ(*7)として見ます。

 ディヤーナ、ジニャーナ、バクティ、どのような方法に人が従っても、かつては手段であるものが、終には、目的そのものになります。サマーディは、私たち自身の、私たちの真の境地の別名なのです。

(*1)(*2)(*3)(*4)(*5)・・・いずれも動詞のwatchが使われており、「呼吸を見守る」とも訳せます。
(*6)ヴィカルパ・・・「想像、思い」
(*7)ジャガット・・・「全世界」
(*8)スワルーパ・・・「自分自身の本質、真の姿」
(*9)ブラフマカーラ・・・「ブラフマンの形、姿」

46年5月10日 抜粋

ジヴラジャニ:
 バガヴァーンは、真珠を潜って取る人のように、呼吸と言葉を制御して自分自身の中へと潜り、自らを発見するか、もしくは、自らを達成しなければならないと言いました。それでは、バガヴァーンは呼吸の制御の修練をすることを私に勧めるのでしょうか。

バガヴァーン:
 呼吸の制御は心を制御する助けであり、そのような助けなしには心を制御できないと気づくような人に勧められます。心を制御でき、集中できる人々にとっては、それは必要ありません。呼吸の制御は、心が制御できるまで、最初は使うことができますが、その後に放棄されるべきです。心とプラーナは同じ源から生じるので、一方の制御により他方も制御されます。

ジヴラジャニ:
 呼吸の制御を達成しようと力を振り絞ることは良いですか。

バガヴァーン:
 いいえ。力を振り絞ること(*1)は良くありません。最初、プラーナーヤーマは、ほんの少しだけ行うことができます-出来る限り過度の力み(*2)なしに。

(*1)英語の「straining」の訳
(*2)緊張、英語の「strain」の訳

2013年2月15日金曜日

肉体的要求の満足、二種の欲望、自らの探求と「アハム・ブラフマースミ」

◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』

Talk 266. (p230~232)

ムスリムの教授(以下、信奉者):
 人は欲望を放棄すべきであると言われています。しかし、抑えがたい体の要求があります。どうすべきでしょうか。

マハルシ:
 大志を抱くものは、三つの必需品を備えなければなりません。それは、①イッチャー、②バクティ(献身)、③シュラッダー(*1)です。イッチャーとは、体への愛着のない(飢え、渇き、排泄のような)肉体的要求の満足を意味します。それがなされないなら、瞑想は進歩できません。バクティとシュラッダーはすでに知られています。

信奉者:
 二種類の欲望-より卑俗なものとより高貴なもの-があります。より卑俗な欲望をより高貴な欲望に変えるのは、我々の義務ではありませんか。

マハルシ:
 そうです。

信奉者:
 では、バガヴァーン、あなたは三つの必需品があり、その中でイッチャーは体などへの愛着のない自然な欲求の満足であると言いました。私は一日に3回か、4回の食事をとり、肉体的要求にとても注意を払っているため、体に虐げられています。私が体から離れ、肉体的要求という苦悩から逃れる状態は存在しますか。

マハルシ:
 有害であるのは愛着(ラーガ(*2)、ドゥヴェシャ(*3))です。行為そのものは悪くありません。3回か、4回食べることに害はありません。ただし、「私はそういう食べ物じゃなくて、こういう食べ物が欲しい」などと言ってはいけません。

 加えて、あなたはそれらの食事を目覚めている12時間にとりますが、寝ている時間には食べていません。眠りがあなたをムクティ(解放)に導きますか。単に活動しないことが人をムクティに導くと思うことは間違いです。

信奉者:
 サデーハ・ムクタとヴィデーハ・ムクタがいると言われています(*4)

マハルシ:
 解放は存在しません。すると、どこにムクタ(解放された者)がいますか。

信奉者:
 ヒンドゥー教のシャーストラ(聖典)は、ムクティについて語らないのですか。

マハルシ:
 ムクティは自らと同意語です。ジーヴァン・ムクティとヴィデーハ・ムクティは無知な人のためにあります。ジニャーニは、ムクティもバンダ(束縛)も意識していません。束縛、解放、ムクティの序列は、無知を振り落とすためにアジニャーニに向けて全て語られています。ムクティしか存在せず、その他の何も存在しません。

信奉者:
 それはバガヴァーンの立場からは結構なことです。しかし、我々に関してはどうですか。

マハルシ:
 「彼」と「私」という違いはジニャーナの障害です。

信奉者:
 しかし、バガヴァーンが高い序列に属し、我々が制限されているということは否定できません。バガヴァーンは我々を(神)と一つにしてくれますか。

マハルシ:
 寝ている時、あなたは制限に気づいていましたか。

信奉者:
 私は現在の状態に私の眠りの状態をもたらし、それついて話すことはできません。

マハルシ:
 その必要はありません。それらの三つの状態は不変の自らの前を交替します。あなたはあなたの眠りの状態を思い出すことができます。それがあなたの本当の状態です。その時、制限はありませんでした。「私という思い」が生じた後で、制限が生じました。

信奉者:
 どのようにして自らを達成すべきですか。

マハルシ:
 自らは達成できません。なぜなら、あなたが自らであるからです。

信奉者:
 そうです。私の中に不変の自らと変化する自分がいます。二人の自分がいます。

マハルシ:
 変化する性質は思いに過ぎません。全ての思いは、「私という思い」が生じる後に生じます。その思いが誰に生じるのか確かめなさい。そうするれば、あなたは思いを超越し、思いは退きます。つまり、「私という思い」の源を突き止め、あなたは完全な「私‐私」を実現します。「私」が自らの名前です。

信奉者:
 「私はブラフマンである(アハム・ブラフマースミ)」と瞑想したらよいのでしょうか。

マハルシ:
 その聖句は「私はブラフマンである」と思うことを意図していません。アハム(私)は、全ての人に知られています。ブラフマンは、全ての人の中にアハム(私)として住しています。その「私」を見出しなさい。その「私」はすでにブラフマンです。そのように考える必要はありません。単純に、その「私」を見出しなさい。

信奉者:
 シャーストラの中で覆い(さや)を捨て去ることが述べられていませんか。

マハルシ:
 「私という思い」の生起の後、「私」と体、感覚、心などとの誤った同一視が存在します。「私」は間違ってそれらと交わっており、真の「私」は見失われています。汚された「私」から純粋な「私」へ移るために、この捨て去ることが述べられています。しかし、それは正確には自らでないものを捨て去ることを意味するのでなく、現実の自らを見つけることを意味します。

 現実の自らは、無限の「私‐私」です。つまり、「私」は完全なものです。それは永遠です。始まりも、終わりもありません。別の「私」は生まれ、死にもします。それは永遠ではありません。変化する思いが誰にあるのか確かめなさい。それらは「私という思い」の後に生じると見出されます。「私という思い」を捕まえなさい。思いは退きます。「私という思い」の源を突き止めなさい。自らのみが残ります。

信奉者:
 理解することが困難です。理論は分かります。しかし、実践はどうですか。

マハルシ:
 その他の方法は自らの探求に着手できない人たちのためにあります。「アハム・ブラフマースミ」を繰り返し言うために、もしくは、それを思うためにさえ、行為者は必要です。それは誰ですか。それは「私」です。その「私」でありなさい。それが直接的な方法です。その他の方法もまた、究極的には、この自らの探求という方法に全ての人を導きます。

信奉者:
 私は「私」に気づいています。しかし、私の問題は解決していません。

マハルシ:
 その「私という思い」は純粋でありません。それは体や感覚との交わりにより汚れています。誰に問題があるのか確かめなさい。「私という思い」にです。それを捕まえなさい。その時、その他の思いは消えます。

信奉者:
 分かりました。どのようにそれを行うべきですか。それが全ての問題です。

マハルシ:
 「私」「私」「私」と考え、他の一切の思いを排除して、その一つの思いにつかまりなさい。

(*1)シュラッダー・・・直接的に対応する英語はなく、広い意味を表す。「信念(faith)」に加え、「信頼(trust)、自信(confidence)、忠実(loyalty)」などとも関係づけられる。
(*2)ラーガ・・・「愛着」。
(*3)ドゥヴェシャ・・・「嫌悪」。
(*4)サデーハ/ヴィデーハ・・・デーハは「体」を意味する。サデーハは「体を持つ」、ヴィデーハは「体を持たない」。

◇『Ramana Smrti-Sri Ramana Maharshi Birth Centenary Offering』、p104 抜粋

 ある日、シュリ-・マハルシに、サーダナ、すなわち、修練がなければ精神的に進歩することは全くないということが示唆されました。少し経って、彼は以下のことを述べました。

 人を束縛するのは、心です。そして、人を解放するのも、その同じ心です。心は、サンカルパとヴィカルパ-欲望と性質から成り立っています。欲望が、性質を形作り、決定します。欲望には二種類-高貴なものと卑俗なもの-あります。卑俗な欲望とは、愛欲と強欲です。高貴な欲望とは、悟りと解放に向けられます。卑俗な欲望は、理解力を汚染し、曇らせます。サーダナは、高貴な欲望が備わった大志を抱く者にとって簡単です。落ち着きが精神的進歩の基準です。清められた心をハートへ沈めなさい。その時、務めは終わります。これが全ての聖なる修練の精髄です!

2013年2月10日日曜日

『マハルシの福音』 第2巻 第4章 ハートは自らである

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p54-57

マハルシの福音 

第2巻 第4章 ハートは自らである 


信奉者:
 シュリー・バガヴァーンは、ハートを意識の座として、そして自らと同一として話します。ハートとは、厳密には何を意味するのですか。

マハルシ:
 ハートについての質問が起こるのは、あなたが意識の源を探すことに興味があるからです。考え深い人々みなにとって、「私」とその性質についての探求は抗しがたい魅力があります。

 神、自ら、ハート、意識の座、それをどのような名で呼ぶのであれ、まったく同じです。理解されるべき点はこれです-ハートは人の存在のまさにその核心、中心を意味し、それがなければ何物も存在しません。

信奉者:
 しかし、シュリー・バガヴァーンは、肉体の中にハートのための特定の場所を、それは胸部にあり、中央から指幅2つ分(約3.8cm)右にあると明確に述べています。

マハルシ:
 ええ。賢者たちの証言によれば、それは霊的体験の中心です。この霊的ハート-中心は、同じ名前で知られる血を押し出す、筋肉でてきた器官とは全く異なります。霊的ハート-中心は、体の器官ではありません。ハートについてあなたが言える全ては、それがあなたの存在のまさにその核心であるということです。あなたが目覚めていても眠っていても夢見ていても、仕事に従事していてもサマーディに浸っていても、(サンスクリット語のその言葉が文字通り意味するように)あなたと本当は全く同一であるそれであるということです。

信奉者:
 その場合、どうして体のどこかの部分にそれを位置づけられるのですか。ハートのための場所を定めることは、時間と空間を超えているそれに生理的な制限を課すことを暗示するでしょう。

マハルシ:
 その通りです。しかし、ハートの場所について質問をする人は、自分自身を体を伴ってか、体の内に存在しているとみなしています。今、この質問をしながら、あなたの体だけがここにあって、あなたはどこか別の所から話しているとあなたは言うでしょうか。いいえ、あなたはあなたの体の存在を認めています。この観点から、肉体に関するどのような言及も行われるようになっています。

 真実を言えば、純粋な意識は分割できず、部分なく存在します。それは姿形を持たず、「内」と「外」を持ちません。それにとって、「右」も「左」も存在しません。純粋な意識は、ハートであり、全てを包含しています。そして、何ものもその外側に、それと離れて存在していません。それが究極の真理です。

 この絶対的な見地からすれば、ハート、自ら、または、意識が、それに割り当てられる特定の場所を肉体の中に持つはずがありません。その理由は何でしょうか。体そのものが心の投影に過ぎず、心は光輝くハートの貧弱な反射でしかありません。その中に万物が含まれる、それを、唯一の現実の微小な現象的な顕現でしかない肉体の内のわずかな部分として、どうして限定できますか。

  しかし、人々はこれを理解していません。彼らは肉体と世界の用語で考えざるをえません。たとえば、あなたは、「祖国からヒマラヤを越えて、このアーシュラムにはるばるやって来ました」と言います。しかし、それは真実ではありません。本当のあなたである全てに行き渡る唯一の(Spirit)にとって、「到着」や「出発」やどのような移動がどこにありますか。あなたは、あなたが常にいている場所にいます。このアーシュラムに到着するまで、あちらこちらに移動したり、運ばれたのは、あなたの体です。

 これは単純な真理ですが、自分自身を対象的世界に住む主体であるとみなす人にとって、それは何かまったく空想的なこととして思われます!

 肉体の中にハートの場所が割り当てられるのは、一般的な理解の水準に降りてくることによってです。

信奉者:
 では、ハート-中心の体験が胸の特定の場所にあるというシュリー・バガヴァーンの言明を私はどのように理解すべきでしょうか。

マハルシ:
 真実かつ絶対的な見地からすれば、純粋な意識としてのハートは時間と空間を超越しているということをいったんあなたが受け入れれば、残りのことを正しい見方で理解することがあなたにとって簡単になるでしょう。

信奉者:
 私がハートの場所についての質問をしているのは、その基準においてだけです。私はシュリー・バガヴァーンの体験について尋ねているのです。

マハルシ:
 肉体と全く無関係の、心を超越している純粋な意識は、直接的な体験の問題です。ちょうど普通の人がその体の存在を知っているように、賢者たちはその体のない永遠の存在(Existence)を知っています。しかし、意識の体験は、身体的認識がない場合だけでなく、それを伴う場合でもありえます。純粋な意識の体のない体験において、賢者は時間と空間を超えていて、ハートの位置についての疑問はその時全く起こりえません。

 しかしながら、肉体は意識と離れて(生命をもって)存続できないので、身体的認識は純粋な意識によって維持されなければなりません。その本質として、前者は、無限で永遠である後者に制限され、決して後者と同一の広がりを持つことはできません。体の意識は、賢者が同一性を実現している純粋な意識のモナド(*1)のような小規模の反射に過ぎません。彼にとって、そのため、体の意識は、彼自身である自ら光り輝く無限の意識の、いわば、反射した光線でしかありません。賢者がその身体的存在に気づいているのは、この意味においてのみです。

 純粋な意識としてのハートの体のない体験の間、賢者は全く体に気づいていないため、その絶対的体験は、彼が身体的認識を伴っている時に行われる一種の感覚の想起によって、肉体の範囲内に位置づけられます。

信奉者:
 ハートの直接的な体験もなく、後に続く想起もない私のような人たちにとって、事はいくぶん理解することが難しいようです。ハート自体の場所について、おそらく、私たちはある種の当て推量に頼らなければなりません。

マハルシ:
 一般の人に場合にさえ、ハートの位置の決定が当て推量に頼ることになるなら、その問題は確かに十分な考慮に値しません。いいえ、あなたが頼らなければならないのは、当て推量ではなく、間違いのない直観です。

信奉者:
 誰にとってその直観があるのですか。

マハルシ:
 誰も彼もにとって。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンは、私がハートの直観的な知識を持っていると思っているのですか。

マハルシ:
 いえ、ハートの(直観的な知識)でなく、あなたの自己認識に関連するハートの場所の(直観的な知識)です。

信奉者:
 シュリー・バガヴァーンは、私が肉体の中のハートの場所を直観的に知っていると言うのですか。

マハルシ:
 もちろんです。

信奉者:
 (自分自身を指さして)個人的にについてですか-シュリー・バガヴァーンが言及しているのは。

マハルシ:
 ええ。それが直観です!たった今、どのように手振りであなた自身を指し示しましたか。あなたは指を胸の右側に置きませんでしたか。それがまさにハート-中心の場所です。

信奉者:
 それでは、ハート-中心の直接的な知識がないとき、私はこの直観に頼らなければならないのですね。

マハルシ:
 その何がいけませんか。(小中の)男子生徒が「この計算を正しくしたのは、僕です」と言うときや、彼が「あなたにその本を走って取ってきましょうか」とあなたに尋ねるとき、彼は計算を正確に行った頭を指さすでしょうか、それとも、あなたに本を取ってくるために彼を素早く運ぶだろう足を(指さす)でしょうか。いいえ、どちらの場合でも、彼の指は全く自然に胸の右側に向けられ、そうして、彼の中の「私」(という)性(質)の源がそこにあるという深淵な真理を無邪気に表します。そのように彼に彼自身を、自らであるハートを指し示させるのは、間違いのない直観です。その行為はまったく何気ないもので、普遍的です、言い換えれば、それは全ての人の場合に同じです。

 肉体の中のハート-中心の場所について、あなたはこれより有力などんな証拠が必要ですか。

(*1)モナド・・・単子。哲学で、宇宙を構成する形而上学的な単純実体。特に、ライプニッツ哲学の根本原理(デジタル大辞泉)。

2013年2月8日金曜日

「自我である自分」と現実の自らの違い、ハートとチャクラの違い

◇『サット・ダルシャナ・バシャヤとマハルシとの対話(Sat-Darshana Bhashya and Talks with Maharshi )』、p12~p19

体の中の退く場所 


信奉者:
 あなたが尋ねられた時はいつも、あなたは「はじめに、疑問が誰に起こるのか知りなさい」、「疑う者を誰か疑えますか」、「他者についての話に進む前に、あなた自身を知りなさい」など言います。これは質問者を扱うためのあなたの手にある真のブラフマーストラ(至高の武器)です。私は...

マハルシ:
 ええ。あなたは何を言わんとしているのでしょうか。

信奉者:
 どうぞ我々の段階まで来て、我々の疑いをとり除いて下さい。あなたは我々の立場を理解できます。我々はあなたの立場を理解できません。あなたは遥か高みにいて、我々は遥か下にいます。あなたが望めば、あなたは我々のもとに来れますが、我々はあなたのもとに行けません。

マハルシ:
 あなたは何を言いたいのでしょうか。

信奉者:
 自らはあらゆる所にあると言われています。ブラフマンは遍在しています。それははるか向こうにあり、それは自らでもあります。私の自らがブラフマンであるなら、私はあらゆる所にいるはずです。しかし、私はこの体の中にいるか、もしくは、この体に制限されているという感覚があります。たとえ私がこの体と異なっているとしても、私はそれから不可分です。同様に、私は心と不可分です。「私」でさえも心の一部であるようです。脳がなければ、心はどこにありますか。この体の一部である脳や心がなくても、私が存在できると私にはまるで想像できません。

マハルシ:
 終わりましたか。疑いは決して止みません。一つの疑いが取り除かれるなら、別のものがとってかわります。それはあたかも木の葉を一枚一枚取り除くようなものです。たとえ一切の葉が切り取られても、新しい葉が生えます。木そのものが根こそぎにされなければなりません。

信奉者:
 何ができるでしょうか。疑問を考え、言い表わすことは悪いことでしょうか。

マハルシ:
 いいえ。唯一の確かな治療薬は、疑う彼を知ることです。疑う者を誰も疑えません....

信奉者:
 それが私が恐れていたことです。私はさるぐつわをかまされ....

マハルシ:
 いいえ。助け船を出しましょう。仮に私があなたに答えを与えるとしても、それがあなたの全ての疑いを静めるでしょうか.... あなたは自分が体や心などであると言いました。あなたが自分自身であると言う、この心とは何ですか。あなたは心はとても多くの機能を含むあらゆる思いであると言います.... 「私」は心の一部です。心は体の一部ですね?

信奉者:
 私はそうであるとは言いません。しかし、あたかもそうであるかように感じます。

マハルシ:
 ええ、では、先に進みましょう。あなたは心です。心は脳に位置しているか、もしくは、それと同一のものです。同時に、あなたは自分が心と異なっているが、それから分離していないと言いました。そうではありませんか。では、我々の全ての思い、感情、情熱、欲望、愛着、衝動、本能、要するに、我々である全て、我々が感じ、考え、知る全てを体の中に位置づけましょう。「私」が考えか、思いか、感情であれ、あなたはどこに「私」を位置づけるのでしょうか。

信奉者:
 感覚、感情などは、体の神経管に、神経構造にすべて位置する、つまり、生じると言われています。しかし、脳に位置する心はそれらに気づいています。それは反射作用と呼ばれています。

マハルシ:
 そのように、あなたが「私」を心の一部として考えるなら、あなたはそれを脳に位置づけるでしょう。しかし、私はあなたに、この「私」はなるほど心の一部ですが、しかし、そのまさしく根本の部分であり、それ自身を心と異なり、心を使用していると感じているのだと言います。

信奉者:
 私はそれを認めます。

マハルシ:
 それでは、この「私」は根本的な思い、本質的な(内奥の)感情、自明の経験、目覚めている状態のように心が活動的でない深い眠りでさえも継続する自覚なのです。では、あなた自身によれば、根本的な部分である「私」は体に位置しているはずです。

信奉者:
 それはどこですか。

マハルシ:
 あなた自身がそれを見出さねばなりません。しかし、あなたはそれを体の解剖によっては見つけられません。

信奉者:
 では、どのように?心の解剖によってですか。

マハルシ:
 ええ、あなたが心であるので、あなた自身を解剖し、どこにあなた(「私」)がいるのか見出さなければなりません。それゆえに、私は「汝自身を知れ」と言います。

信奉者:
 しかし、この「私」のための場所、中心が本当にあるのですか。

マハルシ:
 あります。それは自分の中心であり、眠る時、心は脳での活動からそこに退きます。それはハートであり、いわゆる血液の器とは異なります。それは胸の中央にあるアナーハタ・チャクラ、ヨーガの本で言及される六つの中心の一つではありません。

信奉者:
 では、それはどこにありますか。おそらく、私はそれを後で知るのでしょうが。そのような自分の中心が体にあるなら、ブラフマンはアートマンであり、それが全てに行き渡っているなどどうして言われなければならないのですか。

マハルシ:
 はじめに体に位置する自分だけに留め、それを見出しなさい。その後、ブラフマン、一切‐存在(the All‐Presence)について考えることができます。

では、私自身とは何か


信奉者:
 私はハートが何であるか、どこにあるのかなど知りたいです。しかし、まずは、この疑いを晴らしたいと思います。私は自分自身の真理に無知であり、私の知識は限られ、不完全になってきています。あなたは、「私」が自ら、アートマンと意味すると言います。しかし、アートマンはいつも自らに気づいていますが、私は気づいていません....

マハルシ:
 人々はいつもこの混乱に陥ります。あなたが「自分自身」と呼ぶものは、生まれも死にもしない現実の自らではありません。

信奉者:
 では、あなたは、私が私自身と呼ぶものが体か、もしくは、体の一部であると認めています。

マハルシ:
 しかし、体は物質(ジャーダ)です。それは決して知らず、いつも知られるものです。

信奉者:
 では、私がアートマン、自らでもなく、アナートマン、「自らでないもの」でもないなら....

マハルシ:
 助け船を出しましょう。精神と物質、自らと体の間に、アハンカーラ、自我である自分、ジーヴァ、生ける者と呼ばれる何かが生まれています。今、あなたが自分自身と呼ぶものはこの「自我である自分」であり、常に意識のある自らとも、意識のない物質とも異なりますが、同時に、精神と物質、チェータナとジャーダの特徴を帯びています。

信奉者:
 では、あなたが「汝自身を知れ」という時、あなたはこの「自我である自分」を知るように求めているのですか。

マハルシ:
 しかし、「自我である自分」がそれ自身を知ろうと試みる瞬間に、それはその性質を変えます。「自我である自分」はそれが吸収されたジャーダの性質を次第に帯びなくなり、自らという意識、アートマンの性質をますます帯び始めます。

自らの秘密の場所


信奉者:
 では、あなたが「汝自身を知れ」という時、誰に呼びかけているのですか。

マハルシ:
 何であれ、あなたであるものに。あなたに「汝自身を知れ」という提案が与えられています。「自我である自分」が自身の起源を知る必要性を感じるか、もしくは、それ自身を超越するように駆り立てられる時、その提案を受け、より深く進み、そこで、それ自身の真実の源と現実を発見します。そのように、それ自身を知り始める「自我である自分」は、その自らを知る結果になります。

信奉者:
 今しがた、あなたはハートが自らの中心であると言っていました。

マハルシ:
 ええ。それは自らのだだ一つの至高の中心です。それについて疑いを持つ必要はありません。現実の自らはそこに、ジーヴァ、もしくは、「自我である自分」の背後にあるハートの内にいます。

信奉者:
 では、それが体の中のどこにあるのか教えてください。

マハルシ:
 あなたはそれをあなたの心で知ることはできません。(胸の右側を指さして)私があなたにここが中心である言っても、あなたはそれを想像により悟ることはできません。それを悟る唯一の直接的な方法は、自分自身を想像することをやめ、自分自身であろうと試みることです。その時、あなたは中心がそこにあると悟り、自動的に感じます。

 これが中心、ハートであり、聖典ではフリット・グーハ(ハートの洞窟)、アルル・ウッラムとして述べられています。

信奉者:
 私はどの本にもそれがそこにあると述べられているのを見つけませんでした。

マハルシ:
 私がここに来たずっと後で、マラヤーラム語版の『アシュタンガ・フリダヤム』の中の1詩節に偶然出くわしました。それはアーユルヴェーダの標準的な作品であり、その中でオージャス・シュターナ(*1)が、意識(サムヴィット)の座と呼ばれる胸の右側に位置していると述べられています。しかし、それがそこに位置していると言う他の作品を私は知りません。

信奉者:
 古代作家が「ハート」という用語でこの中心を意味したと私は確信してよいですか。

マハルシ:
 ええ、そうです。しかし、その体験の場所を確認するよりもむしろ、その体験を持とうと試みるべきです。人は見たい時、彼の目がどこに位置しているか探しに行く必要はありません。あなたがハートに入りたいと思うなら、ハートはそこで常にあなたに開かれており、たとえあなたが気づいていなくても常にあなたの全ての行動を支えています。自らがハートの中にあると言うよりもむしろ、ハートそのものであると言うほうがおそらくより適切でしょう。実際は、自らは中心そのものです。それはあらゆる所にあり、それ自身を「ハート」、自らという自覚として気づいています。それゆえに、私は「ハートが御身の名である」と言ったのです。

信奉者:
 誰か他に主をハートと名付け、そのように主を呼びましたか。

マハルシ:
 私がこのことを言ったずっと後で、ある日、聖アッパル(*2)のテヴァーラムの賛歌に偶然出会い、そこで彼は主をウッラムという名で触れていました。それはハートと同じです。

信奉者:
 あなたがハートがプルシャ、アートマンの至高の中心であるという時、それは六つのヨーガの中心の一つではないとほのめかしました。

マハルシ:
 上から下までに含まれるヨーガのチャクラは、神経構造の中の様々な中心です。それらは様々な種類の力や知識を示す様々な段階を象徴しており、至高のシャクティが位置するサハスラーラ、千の花びらを持つ蓮華に至ります。しかし、シャクティの働き全体を支える自らは、そこに位置しておらず、ハートの中心からそれを支えています。

信奉者:
 では、それはシャクティの顕れと異なりますね?

マハルシ:
 実際は、自らと別にシャクティの顕れは存在しません。自らがこの全てのシャクティとなっています....

  ヨーギンが恍惚状態、サマーディの最高の中心に昇る時、彼が気づいていてもいなくても、その状態の彼を支えているのはハートの中の自らです。しかし、彼がハートの中で気づいているならば、彼がどのような状態にいて、どのような中心にいても、いつでも至る所に存在し、永遠で、不変であるのは、同じ真理、同じハート、唯一の自ら、聖霊であると知っています。タントラ・シャーストラは、ハートをスーリヤ・マンダラ(*3)、もしくは、太陽と呼び、サハスラーラをチャンドラ・マンダラ、もしくは、月と呼びます。それらの象徴は、二つの、アートマ・シュターナとシャクティ・シュターナの相対的重要性を表しています。

(*1)オージャス・シュターナ・・・生命力の場所、座
(*2)聖アッパル・・・17世紀のシヴァ派の詩聖ティルナーヴッカーラルの別名で、「父」を意味する。
(*3)マンダラ・・・「円」を意味するサンスクリット語。

2013年2月2日土曜日

マハートマー・ガーンディーの死、ガーンディーが愛した二つのバジャン

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』、p369~372

1948年2月6日
(167)マハートマー・ガーンディーの死 

 1月30日の夜、マハートマー・ガーンディーの死の知らせが、至る所で知られるようになりました。夜、女性はアーシュラムにいることができないので、私はその知らせを家で聞きました。次の日の朝、7時30分に私は行きました。祈りがラジオで放送されていました。死の知らせは新聞に掲載されました。バガヴァーンはそれを読み、祈りを聞きながら、「これは一生を通じてこのように祈った人々の祈りです」と言いました。「ヴァイシュナヴァ・ジャナトー」という歌がラジオで放送され、バガヴァーンはそれを悲しそうに聞いていました。

 9時45分、バガヴァーンが出かけようというとき、新聞記者が来て、公表するためにその悲劇に対する見解を示てしくれるよう頼みました。

 バガヴァーンは感極まって声を詰まらせ、言いました。「悲劇的な形でのマハートマーの死のために、全ての人の心が悲しみを感じています。私に言えることが特に何かあるでしょうか。悲しまない人が誰かいるでしょうか。私が何か言えば、あなたはそれを公表するでしょう。その後、次から次へ人がやって来て私に尋ねるでしょう。それが何のためになりますか」。

 そのように言い、バガヴァーンは記者を遠ざけ、散歩に出かけました。帰ってくると、「ヴァイシュナヴァ・ジャナトー」が再び放送され、バガヴァーンの目から涙が流れ落ちました。

 午後4時30分、全ての女性が「ラグパティ・ラーガヴァ・ラージャーラーム」を歌い始めました。バガヴァーンは続けるよう我々に身振りで合図しました。5時に法螺貝が吹かれ、マハートマーの死のために特別なアーラティ(*1)が、母の寺院で捧げられました。聖灰と辰砂(しんしゃ)が持ち込まれた時、バガヴァーンは大変な敬意をもってそれらを手に取りました。

 おととい新聞を読みながら、バガヴァーンはそばに座っている人に言いました。「ほら、彗星がしばらく前に現れませんでしたか。この新聞にマハートマーの死はそのためだと書かれています。そのように、今やその最初の結果が終わりました」。

 それを言った時、バガヴァーンの心の中には一体何があったのでしょうか。しばらくして、彼は別の新聞を取り上げ、それを読み終えると言いました。「発砲した人はマハートマーに近づき、お辞儀した後、『今日は、どうしてそんなに遅れて来たのですか』と彼に尋ねたようです。マハートマーは仕事のためだと答えました。その直後、弾丸が発射されました」。バガヴァーンはラーマーヤナから類例を引用して、言いました。「ラーマはラヴァナを殺した後、ヴァイクンタ(*2)に行かなければならかったのを忘れたようです。それで、デーヴァタ(*3)達は皆で相談し、死の神、ヤマを彼のもとに送りました。ヤマは行者の身なりでやってきて、うやうやしく、『あなたが来た目的の仕事は今や終わりました。どうぞ天国に来てください』と言いました。これも同様です。『スワラージ(*4)は達成されています。あなたの仕事は済んでいます。どうしてまだここにいるのでしょうか。あなたは帰るべきではないでしょうか。もうすでに遅れています』。そのように、マハートマーは送り出されたようです」。

 「今、あなたが話した話はウッタラ・ラーマーヤナからではないでしょうか」と私は尋ねました。

 バガヴァーン:「ええ、ですが、そこだけではありません。別の本でも書かれており、クリシュナの場合ではヴィヤーダの矢が死の原因でした。同じように、それはマハートマーにも起こりました。」

 昨日、ホリンドラナート・チャトパダーイ(*5)がマハートマーの写真を見せ、言いました。「ガーンディーとバガヴァーンが一度も会うことがなかったのは残念です」。

 バガヴァーンは言いました。「しばらく前、彼はティルヴァンナーマライにやって来ました。アーシュラムの向こうの山の周辺の道で集会が催されるべく彼のために準備されていました。人々は帰り道で彼がアーシュラムにやってくると思いましたが、群衆に押され、それは不可能でした。そして、彼は駅にまっすぐ帰って行きました。後に、彼はそれを非常に残念がったようでした。シャンカールラル・バンカーは彼をここに連れて来ることにとても熱心でした。1938年にラージェンドラ・プラサードとジャムナラル・バジャージがここに来て、スカンダーシュラムを見たとき、しばらくそこで滞在するようマハートマーに勧めたいと思いました。しかし、それは実現しませんでした。サバルマティやワルダで自分は精神的に落ち込んでいると言う人がいたとき、マハートマーは、『ラマナーシュラマムに行き、そこでひと月滞在した後、戻って来なさい』とよく言いました。ラーマスワーミ・レディアールが、マドラス州の主席大臣に就任した直後にマハートマーに会いに行った時、マハートマーはどれぐらい彼がラマナーシュラマムに通っていたのか尋ねたようでした。そこに30年以上通っていると彼が答えた時、『そうですか。私は3たび試みたのですが、これまでそこに行けていません』と言いました。彼に何が出来たでしょうか。彼が一時も独りにしておかれないなら、どうしてここに来れたでしょうか」。

 悲劇の前夜、マハートマーは死の予感を夢から得て、それゆえ、彼は早急に書類を片づけ、そのために祈祷式に来るのが遅れたという趣旨の記事をバガヴァーンは今日の新聞で読みました。バガヴァーンは述べました。「そうです。悟りを開いた人々にとって、予感ぐらいのことがないでしょうか。彼らは知っているでしょうが、他の人に告げないでしょう」。

(*1)アーラティ・・・ヒンドゥー教の崇拝の儀式で、ギーの中に浸されたランプの芯からの火や、樟脳からの火が神々に捧げられる。
(*2)ヴァイクンタ・・・ヴィシュヌ神の住まい。至高の主ナーラヤナと共に、解放された魂が永遠に至福を楽しみ住まう場所であるパラムダーマ(至高の住まい)としても知られている。
(*3)デーヴァタ・・・神々
(*4)スワラージ・・・ヒンディー語で、スワは「自分自身」、ラージは「統治、規律」を意味する。たいていは、外国の統治からのインド独立のためのガンディーの考えを意味する。
(*5)ホリンドラナート・チャトパダーイ・・・インド系英語の詩人、俳優。サロージニー・ナーイドゥの弟。

ヴァイシュナヴァ・ジャナトー(Vaishnav jan to tene kahiye)

 ヒンドゥー教のもっとも有名なバジャン(賛歌)の一つ。15世紀にNarsinh Mehta(ナルシン・メータ)により作られた。グジャラート語。マハートマー・ガーンディーの日々の祈りの中の一つ。ヴィシュヌ神やクリシュナの信奉者の人生、理想、精神性を歌っている。


歌詞
(wikiと動画を参考にしてます)

ヴィシュヌ神の信奉者(ヴァイシュナヴァ)たる者は、他者の痛みを知る
心に高慢を入り込ませず、他者に善をなす

ヴィシュヌ神の信奉者たる者は、全世界を堪忍し、賞賛する
他者を悪く言うことなく、約束を守り(言葉)、行為、心を清く保つ
そのような子に生を授けた母は祝福されている

ヴィシュヌ神の信奉者たる者は、全てのものを等しく見る
貪欲と強欲を取り除き、自分の母に敬意を払うように女性に敬意を払う
舌が疲れたとしても、決して不実を口にせず、他人の所有物に決して触れない

ヴィシュヌ神の信奉者たる者は、世俗的愛着に屈しない
彼はあらゆる類の欲望と怒りを放棄した
彼の唇の上に常にあるのは、神の神聖な名である
全ての巡礼の地は、彼の内にある

ヴィシュヌ神の信奉者たる者は、世俗的愛着に屈しない
彼はあらゆる類の欲望と怒りを放棄した
詩人ナルシはそのような人に会うのを好む
その人の徳により、家族みなが救いを得る

ラグパティ・ラーガヴァ・ラージャーラーム(Raghupati Raghava Raja Ram)

 マハートマー・ガーンディーのお気に入りの有名なヒンドゥー教のバジャンの一つ。主ラーマへの賛美の歌。最も一般的なバージョンはVishnu Digambar Paluskarにより音楽にのせられ、ダーンディへの241マイルの塩の行進を歩いている間に、ガーンディーとその追随者によって歌われた。



歌詞
(wikiを参考にしてます)

 ラグ家の首長、主ラーマよ
 倒れた者らを起こす方、シーターとラーマ
 シーターとラーマ、シーターとラーマ
 おお、最愛なる方、シーターとラーマを讃えよ
 イーシュワラとアッラーフが、あなたの名前である
 主よ、この知恵により全ての者を祝福せよ



2013年2月1日金曜日

心の制御 - アルジュナとクリシュナの対話、修練による心の練磨

◇『シュリー・ラマナーシュラマムからの手紙(Letters from Sri Ramanasramam)』p420、421

1948年5月1日
(186)集中と離欲 

 製本する仕事に忙しくて、今朝、私はアーシュラムに少し遅れて来ました。その時、だいたい9時頃でした。その時までに、昨日ここに来たマハーラーシュトラ出身のある紳士が、いくつかの質問をしたようでした。途切れることなく雄弁に、バガヴァーンはそれに答えていました。神酒で満たされた言葉が、ガンジス川の水の速い流れのように、彼から出てくるようでした。ある信奉者はそれを英語に翻訳していました。私は遅く来たことを残念に思いました。私は急いで講堂に入り、座りました。その時、「アバヤーサ(心を一つの対象へ集中すること)」と「ヴァイラーギャ(離欲)」に関する質問が議論されていました。バガヴァーンは、以下のように説明しました。

彼は漸進的な修練を通じ、平静を達成すべきである。そして、不動によって制御された理性を通じ、心を神に確立し、彼は他の何をも思うべきでない。(バガヴァッド・ギーター、6章25詩節)

He should through gradual practice attain tranquillity; and having established the mind in God through reason controlled by steadfastness, he should not think of anything else. (Gita, VI: 25)

落ち着きのない、気難しい心を、それが追い求め走る、それら全ての対象から引き留め、彼はくり返しそれを神に集中すべきである。(同、6章26詩節)

Restraining the restless and fidgety mind from all those objects after which it runs, he should repeatedly concentrate it on God. (Gita, VI: 26)

 この教え全てにも関わらず、アルジュナの疑いは解消されず、さらに質問しました:

なぜなら、クリシュナよ、心はとても不安定で、荒々しく、頑強で、力強いのです。それゆえに、私はそれを制御するのは、風(を制御するの)と同様に難しいと考えます。(同、6章34詩節)

For, Krishna, the mind is very unsteady, turbulent, tenacious and powerful; therefore, I consider it as difficult to control as the wind.(Gita, VI: 34)

 これに返答して:

アルジュナよ、疑いなく、心は不安定で、抑制するのは難しい。しかし、瞑想と離欲の修練を通じ、それは制御されうる。おお、クンティーの息子よ。(同、6章35詩節)

The mind is without doubt unsteady and difficult to curb, Arjuna, but it can be controlled through practice of meditation and dispassion, O son of Kunti. (Gita, VI: 35)

 そのように主クリシュナは言いました。それゆえに、サーダカが修練と離欲を持つことがとても重要なのです。

 質問者の一人が、「ギーターの第2章では、探求の道に加えてディヤーナ(瞑想)を修練することが最良であると言われていますが、第12章では献身の道が最良であると言われています。これら二つをどのように調和させればいいのでしょうか」と言いました。

 バガヴァーンは、「最初、サーダカはジニャーナの道で瞑想を修練するように求められています。彼はそのようにできませんでした。次はヨーガで、それからカルマで、最後にはバクティです。そういう風に、その人に最も合う道をたどれるように相次いで教えられています。ともかく、どのような道でも目的地は一つです。主クリシュナの考えは、それぞれの人の精神的な発達に応じて、それぞれの道が簡単であろうということです」と言いました。 


◇『シュリー・ラマナ・マハルシとの対話(Talks with Sri Ramana Maharshi)』 

Talk 91. 1935年11月6日

 ベンガル地方からの訪問者が尋ねました。「どのように心は制御されるのですか」。

マハルシ:
 あなたは何を「心」と呼んでいるのですか。

信奉者:
 神のことを思うために座る時、思いが他の対象にさ迷います。私はそれらの思いを制御したいのです。

マハルシ:
 『バガヴァッド・ギーター』では、さ迷うことは心の性質であると言われています。人は思いを神に注がねばなりません。長い間の修練により、心は制御され、安定します。

 心の動揺とは、思いという形での心のエネルギーの浪費から生じる弱さです。人が心を一つの思いに張り付ける時、エネルギーは節約され、心はより強くなります。

信奉者:
 心の力の意味は何ですか。

マハルシ:
 気を散らさずに、一つの思いに集中する能力です。

信奉者:
 それはどのように達成されますか。

マハルシ:
 修練によって。信奉者は神に集中します。探求者、ジニャーナ・マールガの追随者は自らを追求します。両者にとって、修練は等しく困難です。

信奉者:
 たとえ心を自らの探求へ注いでも、長い間の苦闘の後に心は彼から逃れはじめ、しばらく後までその人はそのいたずらに気づきません。

マハルシ:
 それはそうでしょう。初期の段階では、心は長い間隔で探求へ戻ります。継続的な修練と共に、心はより短い間隔で戻り、最終的に全くさ迷わなくなります。眠っているシャクティが顕れるのは、その時です。純粋な(サットヴァな)心には思いがありませんが、活動的な(ラジャスな)心は思いで満ちています。純粋な心は、生命の流れ(Life-current)に変じます。

信奉者:
 その流れを体験する前に、思いの様相に入ることから心を遠ざけられるのですか。

マハルシ:
 ええ。流れはあらかじめ存在しています。

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p332~333 

46年10月18日 

 午後、シモガからの訪問客がバガヴァーンに、「どのように動揺する心を静めるべきですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「その質問をするのは誰ですか。それは心ですか、それとも、あなたですか」と答えました。訪問者は、「心です」と言いました。

バガヴァーン:
 あなたがこの心とは何か見るならば、心は静められます。

訪問者:
 どのように心とは何か見るべきですか。

バガヴァーン:
 心についてのあなたの考えは何ですか。

訪問者:
 私の考えでは、心とは思いです。

バガヴァーン:
 心とは思いのかたまりです。しかし、全ての思いの源は「私という思い」です。ですから、この「私」は誰か見出そうと試みるならば、心は消えます。あなたが外側の物事を考える時に限ってのみ、心は存在します。しかし、あなたが外側の物事から心を引き込み、心、すなわち、「私」について考えさせる時、言い換えれば、心を内に向ける時、心は存在しなくなります。