2013年7月29日月曜日

死の間際の解放 - パラニ・スワーミー、母アラガンマル、牝牛のラクシュミー

◇『大いなる愛と恩寵(Surpassing Love and Grace)』、p235~240

29.死の間際の解放 


ヴィシュワナータ・スワーミー 

 死と転生、束縛と解放というテーマにおいて、バガヴァーンの教えは、「死ぬのは誰か。生まれるのは誰か。再び生まれるのは誰か。束縛されているのは誰か。解放されるのは誰か」という探求を促すことでした。強力な自らの探求に通じるこの方法は、彼が明白に説くか、もしくは、純粋な不ニの真理を把握できる探求者らに静かに伝えたもので、彼らは質問者が存在していない自我であり、現実の自らは問うべき質問を持たず、誕生や死・束縛や解放に何の関わりもないことをすぐに学びました。しかし、バガヴァーンはまた、時おり、その教えを探求者の理解力に合わせ、純粋な自覚にいまだ準備ができていなかった人々の「より低い、臨時の見解」を認める用意がありました。ギーターの十一章で「誰も生まれず、誰も死なない」と断言し、四章で彼自身とアルジュナの「膨大な輪廻転生」について語るシュリー・クリシュナのように、バガヴァーンもその教えを変化させ、聞く者の心持ちや能力に合わせました。一般的なヒンドゥー教の教えは、誕生と死の輪廻からの解放は、人が神への献身と委ねにより成熟している時に、神の恩寵によって得られるというものです。相対的な視点から書かれているこの文章には、三つのそのような例が描かれています。

 パラニ・スワーミーは、バガヴァーン・ラマナの最初期の信奉者の一人であり、何であれ世俗的なことへの無執着で特筆されます。バガヴァーンが昼夜サマーディに没頭して、グルムールタム(ティルヴァンナーマライの郊外の東部、ケールナトゥルの近くに位置するサマーディ神殿)に住んでいた時、パラニ・スワーミーは彼のことを耳にして行き、付添人として加わりました。彼はアルナーチャラのヴィルーパークシャ洞窟でのバガヴァーン滞在の最後まで、十六年以上も仕えました。

 バガヴァーンがスカンダーシュラム(より高い場所にある彼のために新しく建てられた住まい)へ移った時、パラニ・スワーミーは独居のためヴィルーパークシャ洞窟に留まることを選びました。それから、折にふれ、バガヴァーンはそこに彼を訪れ、彼が弱りつつあることに気付きました。バガヴァーンは毎日、彼を訪れはじめ、できることは何でも手助けしました。

 ある日、彼はヴィルーパークシャ洞窟からスカンダーシュラムに孔雀が大変興奮して飛んでくるのを見て、パラニ・スワーミーが危険な状態にいるのではないかと心に浮かびました。すぐにバガヴァーンは洞窟に下りて行き、彼の直観が正しいことが分かりました。パラニ・スワーミーは死の苦しみの中にいて、息が苦しく喘いでいました。バガヴァーンは右手を彼の胸に置き、彼のそばに座りました。パラニ・スワーミーの呼吸は穏やかになり、パラニ・スワーミーの胸の内で震えを感じた時、バガヴァーンは手を離しました。バガヴァーンは、これは生命が体の中で消える兆候であると言いました。しかし、バガヴァーンが手を離した時、まさにその瞬間、パラニ・スワーミーの目が開きました。「彼がハートに退いただろうと思ったのですが、彼は逃れました!」。バガヴァーンは加えて、「ハートでの即座の吸収ではありませんが、それは人が精神的体験のより高い状態に行く兆候であると言われています」と述べました。

 『シュリー・ラマナ・ギーター』からの以下の文章が、ここで関心を引くかもしれません。

 聖典によれば、ここで解放された者とブラフマローカへ行き、そこで解放を得る者の体験の間に違いは存在しない。

 上の2人の体験と同一であるのは、ここでさえ(死の時に)、プラーナが純粋な存在に溶け込むマハートマーの体験である。

 自らに住まうことはみなにとって同じであり、束縛の破壊はみなにとって同じであり、ただ一種のムクティしか存在しない。ムクタの間の相違は、他者の心にのみ現れる。

 自らに住まい、いまだ生きているうちに解放を得るマハートマー、彼の生命の力もまた、ここでさえ自らの内に吸収される。 (第14章、5・6・7・8)
 


 次に、地上における人生最後の日のバガヴァーンの母親、アラガンマルの例を取り上げます。彼女は長年ヴィルーパークシャ洞窟とスカンダーシュラムでバガヴァーンの間近で生活しており、精神的に向上していきました。彼女の人生最後の日-1922年5月19日-死が近づいてくる兆候に気付き、バガヴァーンは右手を彼女の胸に、左手を彼女の頭に置き、朝8時から夜8時まで彼女のそばに座りました。「それは母と私自身との間の闘いでした。彼女の蓄積された過去の傾向(ヴァーサナー)は繰り返し何度も上がってきて、その場で破壊されました。そうして、その過程は終わり、最上の安らぎが行き渡りました。私はハートの最後の震えを感じましたが、それが完全に止むまで手を離しませんでした。パラニ・スワーミーとの経験のおかげで、今回、私は注意深くいました。母のプラーナ(生命力)が完全にハートに溶け込んだのを見ました。」(何年も前に、ヴィルーパークシャ洞窟でアラガンマルが重篤な病にかかっていた時、バガヴァーンはタミル語で4詩節を作り、その中の1つで、死後に体を火葬する必要がないように、炎の山アルナーチャラにジニャーナの炎で母を焼き尽くすように祈ったことをここで記すことは興味深いことでしょう。アルナーチャラ自身であるバガヴァーンは、何年も前に彼が祈りの形で表したことを行いました。(*1)

 ここで、『バガヴァッド・ギーター』の以下の有名なスローカが思い出されます。「死の瞬間にさえ私だけを思い起こし、体を放棄した者は、私の存在に溶け込む。これについて疑いは存在しない。何であれ思いながら、人が最後にその体を離れる時、その最後の思いの力により、人はそれを得る。おお、パルタ!これがブラフマンの境地である。これに到達し、もはや惑わされない。最後の瞬間にさえこの境地に留まり、人はブラフマンとして解放される。」(第8章-5・6、第2章-72)

 バガヴァーンはその時まで食事をとっていませんでした。それで、母親への付き添いが終わった後、彼は穏やかに食事をとりました。その夜の間ずっと、祈りの歌が歌われ、バガヴァーン自身もティルヴァーチャカム(聖者マーニッカヴァーチャカルによりタミル語で作られたシヴァを讃える賛歌の集成)すべてを歌うことに加わりました。翌朝、アラガンマルの体は山から山の南の場所に下ろされ、そこで埋葬されました。体は通常のように火葬されませんでした。それはアラガンマルが長年サンニャーシニであり、カーシャヤ(黄土色の服)を身につけていただけでなく、バガヴァーンの驚くべき恩寵によって解放されたからでもあります。バガヴァーン自身により、リンガが彼女のサマーディに安置されました。その時居合わせたガナパティ・ムニは、アラガンマルの解放についてサンスクリット語で六詩節詠いました。これはその中の二つの翻訳です。

ヴェーダーンタの聖句により示される最上の光
一切世界に行き渡る光
その光は息子の恩寵によって母アラガンマルに明るく輝き
彼女自身がかの光として輝いた
マハルシの聖なる母が輝き出ますように
彼女の恩寵の神殿が輝き出ますように
安置されたリンガが永久(とわ)に輝き出ますように
清涼な泉が永久に湧き出ますように

(ここで言及されているのは、母のサマーディの近くでバガヴァーンにより示された場所を掘るとすぐに湧き出た澄みきった泉のことです。)

 天来の詩人の言葉の通り、今やそこには、聖域に安置された花崗岩のシュリー・チャクラ・メールと共にある母のサマーディの上に建造された美しい寺院が立っており、その恩寵の絶えることのない泉と共にバガヴァーンの恩寵の神殿が隣接してあります。


  次は、牝牛のラクシュミーです。子牛の時、彼女は夢で指示を受けた村人によって母牛と共にシュリー・ラマナーシュラマムに贈られました。受け入れの表れとして、バガヴァーンは子牛を優しくなでましたが、世話するためのアーシュラムの設備不足のため、彼女達はティルヴァンナーマライに住んでいる信奉者へ任されました。彼は彼女達の世話をして、牛乳をアーシュラムに毎日持ってきました。タイの月の二日、牝牛の崇拝(ゴープージャ)の日に、信奉者らは子牛のラクシュミーと母牛をアーシュラムへと連れてきました。ラクシュミーはバガヴァーンにより優しくなでられ、彼女は特に彼になついていました。以来、ラクシュミーが家で柱につながれていなかった時、彼女は自分でアーシュラムに走って行き、バガヴァーンのもとへまっすぐ行き、バガヴァーンは彼女を優しくなで、果物や食べ物をあげました。

 数年後、アーシュラムで牝牛を養うための適切な準備がなされた時、彼女はアーシュラムに戻されました。アーシュラムでさえ、牝牛の小屋(ゴーシャラ)でラクシュミーが柱につながれていなかった時はいつも、彼女はまっすぐバガヴァーンの講堂へ走って行き、彼のもとに現れました。バガヴァーンは手元にどんな仕事があっても、ラクシュミーを迎え、優しくなでるために全部わきにやり、彼女の目を深く見つめたものでした。ラクシュミーがバガヴァーンに感じた愛着はそのようであり、彼女が彼から受けとった応答はそのようでした。年月は流れ、ラクシュミーはバガヴァーンのまさに誕生日にしばしば子牛を生みました。

 ついには、ラクシュミーは年をとり、病気になりました。バガヴァーンは牛小屋で彼女を毎日訪れたものでした。そしてある日、彼女はまもなく亡くなりそうに見えました。バガヴァーンは彼女のそばに座り、憐れみをもって彼女に触れ、見ました。その後すぐ、彼女は亡くなりました。ラクシュミーの体をアーシュラムの構内に埋葬する準備がなされました。通例の聖なる沐浴が彼女に与えられ、しかるべき儀式の後、バガヴァーンの講堂から数ヤード離れたアーシュラムの北側の敷地の近くに埋葬されました。バガヴァーンはそばで椅子に座り、すべての手順を見ていました。果物と揚げた米が、その時にいたすべての人に配られました。

 その夕方、バガヴァーンは、その日の日付と星の配置を尋ねました。信奉者たちは、どうして彼がそれを尋ねるのだろうと思いました。それはとても珍しいことでした。次の朝、バガヴァーンは彼がタミル語でつくった牝牛のラクシュミーが解放を得た年月日、曜日、星座の配置を述べた詩節を見せました(*2)。デーヴァラージャ・ムダリアールはバガヴァーンに彼がムクティそのもの(誕生と死の輪廻からの最終的な解放)を意図しているのか、もしくは、その用語を形式的な方法で使ったのか尋ねました。バガヴァーンはその言葉を意図的に、その本来の意味で使ったと請け合いました。それゆえ、バガヴァーンが彼女の解放をもたらしたことが明らかになりました。ラクシュミーのサマーディの上に彼女の石像があり、背後の石板に(彼女の解放について)バガヴァーンによって書かれたタミル語の詩節が刻まれています。

 近くに、最後の瞬間にバガヴァーンに世話してもらった犬(ジャッキー)、鹿(ヴァリィ)、カラスのサマーディがあります(*3)。それらは我々に知られているほんのわずかのバガヴァーンの恩寵の働きです。ジニャーニのすぐ近くはブラフマローカ(ブラフマンの領域)として描かれ、生きているうちに、もしくは、最後の瞬間にそのような人のそばにいる機会を得た人々は実に幸運です。

 究極的な真理では束縛も解放もなく、純粋な自覚のみ、一切の中の唯一の自らが存在するのですが、相対的な真理もまた真剣に受け取られるべきです。なぜなら、そこから我々は始まり、それからのみ一切のサーダナが生じるからです。バガヴァーンが「ウパデーシャ・サーラ」でニシュカームヤ・カルマ、献身、ジャパ、ディヤーナという一切の段階を扱っていることは覚えておかれるべきことです(*4)。その後、人は自らの探求へ到り、その成果は、分離した個人性自体が存在せず、それゆえに、束縛も解放もないという実現です。

(*1)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/12/blog-post_16.html
(*2)「On Friday, the 5th of Ani, in the bright fortnight, in Sukla Paksham, on dvadasi in visaka nakshatra in sarvadhari year [that is, on 18th June 1948] the cow Lakshmi attained mukti.」
「アーニ月(6月)の5日の金曜に、シュクラ・パクシャム(月が満ちて行く2週間)に、サルヴァダリ(1948年)のヴィシャーカー・ナクシャトラ(月の位置)のドヴァダーシー(第12日)に、牝牛のラクシュミーはムクティを得た。」
(*3)http://www.geocities.jp/ramana_mahaananda/ramanasramam-holder/photo-holder/lakshmi-samadei.htm、シリウスさんのHPでラクシュミーやその他の動物のお墓の写真が見れます。
(*4)http://arunachala-saint.blogspot.jp/2012/12/quintessence-of-instructionupadesa-saram.html、第3詩節がニシュカームヤ・カルマ(無欲の行為)を、第4~9詩節で献身・ジャパ(朗唱)・ディヤーナ(瞑想)が扱われています。

2013年7月21日日曜日

シュリー・ラマナの愛の教え - 怒りの制御法、イエスの愛の教えの実践

◇『大いなる愛と恩寵(Surpassing Love and Grace)』、p89~92

10.ラマナを思い出して-チャガンラル・ヨーギ

IV.シュリー・ラマナの愛の教え 

 「怒りから妄想が、妄想から混乱した記憶が、混乱した記憶から理性の破壊が、理性の破壊から彼は滅びる」(*1)。そのように、シュリー・クリシュナは『バガヴァッド・ギーター』で述べています。そのように、怒りは人の衰退の根本の原因であり、彼を人間性を欠いたものにします。それゆえ、逆に、怒りの克服を成し遂げた者は完璧な人です。しかし、怒りを克服することは簡単ではありません。怒りの制御のために、様々な方法が偉大な教師や聖者により説かれています。これらの中で、アルナーチャラの聖者、シュリー・ラマナが説いたものは、大変ユニークで斬新な方法です。

 シュリー・ラマナ自身は怒りを克服した人であり、怒りを克服する方法を示して欲しいという要望を携えた若い男性により話を持ちかけられた時、そうするための珍しくも効果的な方法を彼に示しました。それはこのように起こりました。

 ある時、若い男性がシュリー・ラマナーシュラムにやってきて、講堂に入りました。平伏した後、彼は「バガヴァーン!私の五感(senses)は暴れ回り、変わりやすいのです。あなたの恩寵を私に授け、それらを制御する方法を私にお示しください。」

 「変わりやすさは心のせいです。いったん心が制御されるなら、五感はひとりでに良くなります」とシュリー・バガヴァーンは微笑んで答えました。

 「そのとおりです、バガヴァーン!しかし、私はつまらないことにさえも興奮し、怒りを制御しようとすればするほど怒りが強く私を捕らえるのです」と若い探求者はさらなる困難を言い足しました。

 「そうですか。しかし、一体あなたはどうして怒らなければならないのですか。そして、あなたが怒りたいなら、どうしてあなたの怒りに怒らないのですか」とシュリー・バガヴァーンは若者に質問しました。更に説明して、シュリー・ラマナは、「怒りが高まってくる時はいつも、他人に対してイライラするのではなく、怒りをあなた自身に向けなさい。あなた自身の怒りに怒りなさい。あなたがそれを行うなら、他の誰かに対するあなたの怒りは静まり、それを克服することもできます」と言いました。そのように結論付け、シュリー・バガヴァーンは笑い、それはとても簡単であると示唆しました。

 講堂に座っている信奉者たちも彼の笑いに加わりました。彼らの大部分はシュリー・バガヴァーンは上述の言葉を軽い気持ちで発したのだと思いました。これらの貴重な言葉をよく考えたわずかな人しか、この斬新な怒りを制御する方法の知恵を理解できませんでした。

 なんという一見すると奇妙で、実行不可能な考えでしょう!我々は誰にでも、すべての人に対しては怒りません。我々は自分自身以外の召使い、子供、他の人々や物事について怒るのです!我々が自分自身の不品行に対して決して怒りをあらわさないのは奇妙ではありませんか。それゆえ、シュリー・バガヴァーンにより示された方法は、ユニークで、とても効果的です。

 シュリー・バガヴァーンは自らへ定着のために怒りの完全な制御を成し遂げていましたが、広く世界の福利のため怒りを克服する実践的な方法を若者に示しました。彼は我々一般人に怒りを放ち、それを自分自身の怒りと他の悪徳に向ける自由を与えました。我々が足の棘(とげ)を別の棘によって取り除き、その後に両方の棘を捨てるのとまさしく同様に、シュリー・ラマナは怒りを自分自身に使うことによって、他者に対する怒りを取り除き、両方の怒りを不要とするように助言します。これは実に斬新ですが、しかし、もっとも実践的で、効果的な怒りや他の同様の悪徳を克服する方法です。

 シュリー・ラマナは常に自らに定着しており、それゆえ、怒り、嫉妬などの悪徳は彼を悩ますことができず、どれほどの侮辱やいやがらせでも、または、身体的な殴打でさえ彼を平静から振り落とすことはできませんでした。そのような全ての出来事において、以下の人生の出来事に見られるように、彼はまったく怒りから自由でした。

 ある時、シュリー・ラマナがアルナーチャラ山の洞窟に座っていた時、嫉妬したサードゥが彼に水をかけました。しかし、彼はいつものようにうろたえず、自らに没頭していました。彼の落ち着きを見て困惑したサードゥに対する怒りのうずきすら彼の心に生じませんでした。何もシュリ-・ラマナを苛立たせることはできないと悟り、哀れなサードゥは静かに立ち去りました。

 ある日、若い男性がシュリー・ラマナーシュラムを邪な目的を持って訪問しました。講堂に入り、前の方に席ををとり、シュリー・バガヴァーンにあらゆる類の質問をし始めました。彼はシュリー・バガヴァーンを偽善者と暴くことによってアーシュラムから口止め料をゆすり取ろうと思っていました。彼はすでにこの企みを裕福な僧たちに試み、成功していました。繰り返し練習することにより、彼はこの技を磨き、収入を得る職業としていました。どこか他で成功をおさめ、彼はこの企みを試みようとシュリー・ラマナーシュラムにやってきました。

 他者の無礼、悪意、嫉妬、不品行などに対するシュリー・ラマナ自身の方法は、完全な沈黙の遵守でした。事実、彼はまた、沈黙によって説諭し、教えもしました。彼の沈黙はとても力強いものでした。彼の大変に強力な武器は、攻撃的で無礼な全ての人たちと戦い、武装を解除しました。

 まさしく、沈黙はシュリー・ラマナの本来的性質となっていました。それはあらゆる類の人々からの攻撃に対する彼の難攻不落の鎧でした。それで、その若者がどこかで引っかけようとシュリー・ラマナを激しい議論、会話、もしくは、表現に引き入れようと努力を尽くした時、シュリー・ラマナは完全に沈黙したままでした。それゆえ、哀れな若者の目的はくじかれました。若者は口汚い言葉を吐いていましたが、シュリー・ラマナは一言も発さず、終始穏やかで、うろたえませんでした。ついに、万策尽き果てて、若者は彼の目的を達成することは不可能であると理解し、敗北を認めざるを得ず、アーシュラムを立ち去りました。

 1924年6月26日、すなわち、アルナーチャラ山のふもとの母のサマーディ(お墓)の近くでシュリー・ラマナーシュラマムが始まった2年後、シュリー・ラマナは、彼の人生において最も偉大な教訓を世界に教えたかもしれません。この日の午後11時30分、3人の強盗が高価なえものを得ようとして襲ってきました。

 シュリー・ラマナは強盗に憎しみを持って対処せず、愛を持って対処しました。なぜなら、ブッダのように、彼もまた復讐は復讐によって対処されるべきでなく、愛によって静められるべきであると教え、実践しました。彼は最も困難な時にさえ彼自身が彼の教えを実践に移すことによって、その効果を世界に示しました。

 盗みに来た強盗に対してさえ、なんという崇高で、道徳性を高める普遍的な愛と兄弟愛の例でしょうか!シュリー・ラマナのような解放された人のみが、そのような見事な道を人類に示すことができます。それが彼らの直接の経験に由来するものだからです。シュリー・ラマナは彼自身が実践したことのみを説きました。そのために、彼の教えは何らかの方法で彼に接触した膨大な数の信奉者にたいへん力強い影響を持ったのです。

 何世紀も前、イエス・キリストは「誰かが我々の右の頬を打つ時、我々は彼に我々の左の頬を差し出すべきである(*2)」と説きました。その時から数百年経ちましたが、シュリー・ラマナを除き、その愛の教訓をそっくりそのまま実践した人を聞いたことがありません。彼は文字どおりそれに従い、実際に左の太ももを打ちつけた強盗に右の太ももを差し出しました。

 このように、シュリー・ラマナの教えは現実の実践と人生の本当の経験に基づいていました。彼の教えに従うことによってのみ、我々は我々自身から無数の苦しみを取り除き、安らぎと幸福という目的を達成できます。

 自我のない愛である、シュリー・ラマナに恭しく礼拝いたします。

(*1)バガヴァッド・ギーター2章63詩節
(*2)マタイによる福音書5:38、39「『目には目を歯には歯を」と言われていたことは、あなたがたの聞いているところである。しかし、わたしはあなたがたに言う。悪人に手向かうな。もし、だれかがあなたの右の頬を打つなら、他の頬をも向けてやりなさい。」

2013年7月13日土曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第5章 自らと個人性

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p19-21

マハルシの福音


第1巻 第5章 自らと個人性 


弟子:
 大海に注ぐ川がその個別性を失うのと同じように、死は人の個人性を解消するため、転生はありえないのではありませんか。

マハルシ:
 しかし、水が蒸発し、雨として山々に戻るとき、もう一度それは川の形で流れ、海に流れ込みます。そのようにまた、眠りの間の個人性もその分離性を失いますが、それでも、サンスカーラ、過去の傾向に応じて個々人として戻ります。死においてもまさにその通りです。サンスカーラのある人の個人性は失われません。

弟子:
 どうしてそうなるのですか。

マハルシ:
 その枝を切られている木がどのように再び成長するのか見てみなさい。木の根が引き抜かれないままである限り、木は成長し続けるでしょう。同様に、死の際にハートに沈んでいる過ぎず、それが理由で消滅していないサンスカーラは、適切な時に転生を引き起こします。そのようにしてジーヴァは生まれ変わります。

弟子: 
 無数のジーヴァと、その存在がジーヴァの存在と相補的関係にある広大な世界が、ハートに沈んだ、そのような微細なサンスカーラからどうして芽吹きうるのですか。

マハルシ:
 バニヤンの巨木が小さな種から芽吹くように、ジーヴァと名と形を伴う全世界も、微細なサンスカーラから芽吹きます。

弟子:
 どのように絶対的な自らから個人性が出現し、どのようにその帰還は可能になるのですか。

マハルシ:
 火炎から火花が生じるように、絶対的な自らから個人性が出現します。その火花は自我と呼ばれます。アジニャーニの場合、自我はその生起と同時にそれ自体を何らかの対象物と同一視します。それは、対象物とのそのような関わりなしに留まれません。

 この関わりはアジニャーナによるもので、その破壊が人の努力の目的です。それ自体を対象物と同一視する、この傾向が破壊されるなら、自我は純粋になり、その後、それはその源に溶け込みもします。自分自身と体との誤った同一視は、デハートマ・ブッディ、「私は体である」という考えです。これがなくならなければ、良い結果は後に続きません。

弟子:
 どのように私はそれを根絶すべきですか。

マハルシ:
 あなたは体と心に関わることなくスシュプティ(*1)に存在しますが、他の2つの状態では、あなたはそれらに関わっています。仮にあなたが体と一体であるなら、どうしてあなたは体なしでスシュプティに存在できるのですか。あなたは、自分の外側にあるものから自分自身を分離することはできますが、自分と一体であるものからは(分離)できません。それゆえ、自我は体と一体であるはずがありません。これが目覚めている状態で実現されなければなりません。3つの状態は、この知識を得るために学ばれます。

弟子:
 (3つの)状態の中の2つに制限された自我が、どうして3つの状態全てを包含するそれを実現しようと努力できるのですか。

マハルシ:
 純粋な状態の自我は、2つの状態の合間、もしくは、2つの思いの合間に経験されます。自我は、一方をつかんではじめて、もう一方を手放す、いも虫(*2)のようです。その本質は、それが対象物、もしくは、思いと接触していない時に知られます。ジャーグラット(*3)、スワプナ(*4)、スシュプティという3つの状態の検討によって得られた確信を通じて、あなたはこの合間を永続する不変の現実、あなたの真の存在(Being)として実現すべきです。

弟子:
 私が目覚めの状態にいるように、私はスシュプティに好きなだけ留まったり、思いのままにその中にいることはできないのですか。この3つの状態のジニャーニの経験はどうですか。

マハルシ:
 スシュプティは、あなたの目覚めの状態でも確かに存在します。今でさえ、あなたはスシュプティにいます。このまさに目覚めている状態で、それに意識的に入り、到達しければなりません。本当は、それに入ったり、それから出たりすることはありません。ジャーグラットの状態でスシュプティに気づいていることが、ジャーグラット・スシュプティ、それがサマーディです。

 アジニャーニは、スシュプティに長く留まれません。なぜなら、彼の性質によって、彼はそれから出ざるを得ないからです。彼の自我は死んでいないので、くり返しくり返し生じるでしょう。しかし、ジニャーニは、自我をその源で粉砕します。あたかもプラーラブダ(*5)によって駆り立てられるかのように、それが彼の場合にも時には現れるように見えるかもしれません。つまり、アジニャーニの場合のように、ジニャーニの場合も、ただ表面上の目的のためだけに、プラーラブダが自我を維持、保持しているように見えるでしょう。しかし、根本的な違いがあります。アジニャーニの自我はそれが生起するとき(本当は、深い眠りを除き、それは退いています)、その源を全く知りません。言いかえれば、アジニャーニは、その夢と目覚めている状態でスシュプティに気づいていません。ジニャーニの場合は、逆に、自我の生起や存在は見かけだけのもので、そのような見かけの自我の生起や存在にも関わらず、彼は途切れのない超越的な体験を享受し、その注意(ラクシャヤ)をいつも源に保っています。この自我は無害です。それは燃やされた縄の残骸のようでしかありません-形を持ちますが、それは何を結ぶのにも役立ちません。継続的に注意を源に保つことによって、海の中の塩でできた人形のように、自我はかの源に溶け込みます。

弟子:
 キリストの磔(はりつけ)の意義とは何ですか。

マハルシ:
 体が十字架です。イエス、人の子は、自我、もしくは、「私は体である」という考えです。人の子が十字架の上で磔にされるとき、自我は消滅し、後に残るものは絶対的存在です。それが輝かしい自らの、神の子-キリストの復活です。

弟子:
 しかし、どうして磔が正当化されるのですか。殺人は恐ろしい犯罪ではありませんか。

マハルシ:
 全ての人が(今)自殺しています。永遠の、幸福に満ちた、自然の境地は、この無知な人生によって窒息死させられてきています。このように現在の生は、永遠の明白な存在の殺害によるものです。それは実際、自殺の一例ではないですか。ですから、どうして殺人などについて心配するのですか。

弟子:
 シュリー・ラーマクリシュナは、ニルヴィカルパ・サマーディ(*6)は21日以上継続できず、もし続けるなら、その人は死ぬと言います。それは事実ですか。

マハルシ:
 プラーラブダが使い果たされるとき、後に何の痕跡も残さず、自我は完全に解消されます。これが最終的な解放(ニルヴァーナ)です。プラーラブダが使い果たされなければ、ジーヴァンムクタ(*7)の場合に生起するように見えるかもしれないように、自我は生起するでしょう。

(*1)スシュプティ・・・夢を見ない深い眠りの状態
(*2)芋虫・・・worm、にょろっとした足のない虫で、ミミズとかウジとかを指しているようです。芋虫はcaterpillarの訳なのですが、ぴったりした訳語が見当たらないのでここで使っています。
(*3)ジャーグラット・・・目覚めている状態
(*4)スワプナ・・・夢を見ている状態
(*5)プラーラブダ・・・現在の人生で経験するように割りてられた過去の行為の結果の一部
(*6)ニルヴィカルパ・サマーディ・・・思いのない自らへの没入
(*7)ジーヴァンムクタ・・・生きているうちに解放を得た者

2013年7月7日日曜日

常に「あなた」に留まれ / あなたは虚空ではなく、その目撃者である

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p277~279 後略

1946年7月21日

 午後、ウッタル・プラデーシュ州のジャーンシーからの年配の訪問者、バルガヴァ氏は以下の二つの質問をしました。
  1. 始めから終りまで、私はどのように「私」を探し求めるべきですか。
  2. 瞑想する時、私は真空(*1)や虚空(*2)が存在する段階に達します。そこから、私はどのように進むべきですか。
バガヴァーン:
 映像、音、その他の何があっても、もしくは、虚空があっても、気にすることはありません。この全ての間にあなたは存在していますか、それとも、あなたは存在していませんか。あなたが虚空を経験したと言えるためには、その虚空の間にさえ、あなたはそこにいたに違いありません。その「あなた」に据えられることが、始めから終わりまでの「私」の追求です。ヴェーダーンタに関する全ての本の中に、弟子によってなされ、グルによって答えられた虚空、もしくは、残された無に関するこの質問をあなたは見つけます。対象を見たり、経験を持ち、そして、見たり、経験することをやめる時に虚空を見出すのは心ですが、それは「あなた」ではありません。あなたは、その経験と虚空を共に照らしている絶え間ない輝きです。それは劇場の光のようであり、劇が進行している間に劇場、俳優、劇をあなたが見ることを可能にしますが、輝くままあり、劇がすべて終わった時にあなたが「劇は上演していない」と言うことを可能にします。また、別の例もあります。我々は我々の周りの対象物を見ますが、完全な暗闇の中でそれらを見ることができず、「私は何も見ていない」と言います。その時でさえ、目が何も見ていないと言うために目はそこにあります。同様に、あなたが言及した虚空の中にさえ、あなたはそこにいるのです。

 あなたは、粗大、微細、原因という三つの体、目覚め、夢、深い眠りという三つの状態、過去、現在、未来という三つの時間、そしてまた、その虚空の目撃者です。10番目の男の話の中で、10人それぞれが数え、それぞれが自分自身を数えるのを忘れ、9人しかいないと思った時、彼らが一人いなくなっており、それが誰か分からないと思う段階があります。そして、それが虚空に対応します。我々は我々の周りに見る全てが永遠であり、我々がこの体であるという概念にとても慣れ親しんでいるため、この全てが存在しなくなる時、我々もまた存在しなくなったと想像し、恐れます。

 また、バガヴァーンは『ヴィヴェーカチューダーマニ』から212、213詩節を引用しました。その中で弟子は、「五つの覆いを自らでないとして取り除く後に、私は全く何も残っていないと気づきます」と言い、グルは、それによって(自我とその創造物と含む)全ての変形とその消失(つまり、虚空)が知覚される自ら、もしくは、それはいつもそこにあると答えました。バガヴァーンはこのテーマについて話を続け、言いました。

バガヴァーン:
 自ら、もしくは、「私」の本質は、輝きに違いありません。あなたは全ての変形とその消失を知覚します。どのようにでしょうか。あなたが輝きを別の人から得ると言うことは、どのように彼がそれを得たのかという質問を提起し、推論の連鎖に終わりはないでしょう。ですから、あなた自身が輝きなのです。このいつもの例は以下になります。あなたは様々な原料からなり、様々な形のあらゆる種類のお菓子を作りますが、それはみんな甘く感じます。なぜなら、その中の全てに砂糖があり、甘さは砂糖の本質だからです。そして、同様に、全ての経験とその消失は、自らの本質である輝きを含んでいます。砂糖がなければ、あなたが作るものの中のどれ一つも甘く感じられないのとまさしく同様に、自らがなければ、それは経験できません。

 (少し後で)はじめ、人は自らを対象物として見ます。次に、人は自らを虚空として見ます。次に、人は自ら自らとして見ます。この最後のみにおいて、見ることは存在しません。なぜなら、見ることは在ることです。

(*1)真空・・・「vaccum」の訳
(*2)虚空・・・「void」の訳

2013年7月3日水曜日

『マハルシの福音』 第1巻 第2章 沈黙と独居

◇『Maharshi’s Gospel -The Teachings of Sri Ramana Maharshi』 2009年15版、p10-11

マハルシの福音


第1巻 第2章 沈黙と独居 


弟子:
 沈黙の誓いは役立ちますか。

マハルシ:
 内なる沈黙は、自らの委ね(*1)です。そして、それは自我意識なく生きることです。

弟子:
 独居はサンニャーシン(*2)に必要ですか。

マハルシ:
 独居は人の心の中にあります。ある人は世間の真っただ中にいますが、それでいて完全な心の平静を保つかもしれません。そのような人はいつも独居にいます。別の人は森に留まりますが、それでも心を制御できないかもしれません。彼は独居にいるとは言えません。独居とは心の態度です。人生の物事に愛着する人は、どこにいようとも独居を手に入れることはできません。愛着のない人はいつも独居にいます。

弟子:
 マウナ(*3)とは何ですか。

マハルシ:
 言葉と思いを超越する状態が、マウナです。それは心の活動のない瞑想です。心の征服が、瞑想です。深い瞑想は、永遠の言葉です。沈黙は常に話しています。それは絶え間ない「言語」の流れです。それは話すことによって中断されます。というのも、言葉は、この無言の「言語」を妨害するからです。講義は個々人を改善することなく、何時間か楽しませるかもしれません。沈黙は、それに対して、永遠であり、全人類を利益します...沈黙とは、雄弁を意味します。口頭の講義は、沈黙ほど雄弁ではありません。沈黙は、止むことのない雄弁です... それは最良の言語です。

 言葉が止み、沈黙が行き渡るときの状態があります。

弟子:
 ではどうすれば私たちは考えを互いに伝えられるのでしょうか。

マハルシ:
 二元性の感覚が存在するなら、それは必要になります...

弟子:
 どうしてバガヴァーンは巡り歩いて、一般の人々に真理を説かないのですか。

マハルシ:
 どうしてあなたは私が(今)それをしていないと分かるのですか。説法とは講壇に上がり、周囲の人々に熱弁をふるうことですか。説法は知識を分かりやすく伝えることです。それは実際、沈黙の内にのみ行えます。1時間、説教に耳を傾け、人生を変えるほどにそれに感銘を受けることなく去る人をどう思いますか。聖なる影響の中に座り、しばらく後にその人生観が全く変わって去る、もう1人と彼を比べて見てみなさい。どちらが良いですか。ききめなく声高に説法することですか。それとも、内なる力を送り出しながら、黙って座ることですか。

 また、どのように言葉は生じますか。抽象的な知識が存在し、そこから自我が生じ、それが今度は思いを生み出し、思いは話される言葉を生み出します。ですから、言葉は最初の源のひ孫です(*4)。言葉がききめを生み出せるなら、沈黙を通しての説法がどれほどより力強いはずか、自分で判断しなさい!しかし、人々はこの分かりやすいありのままの真理、彼らの日常的な、常に存在する、永遠の体験の真理を理解しません。この真理とは、自らのそれです。自らを意識していない人が誰かいますか。しかし、彼らはこの真理を耳にさえしたくないのに、向こうにあるもの、天国や地獄や輪廻転生についてしきりに知りたがります。

 彼らは謎めいたことを好み、真理を好んでないため、ゆくゆくは彼らを自らに連れてくるために、宗教は彼らの要望に応えます。どのような手段がとられても、あなたは結局、自らに帰らなければなりません。ですから、今この場で自らに留まってはどうですか。あの世の目撃者であるには、それについて思いを巡らすには、自らが必要です。ですから、それらは自らと異なりません。無知な人でさえも、彼が物を見るとき、自らのみを見ます。

(*1)自らの委ね・・・self-surrender、ここでの「自ら」はアートマンではなく、自我である自分と解釈しています。
(*2)サンニャーシン・・・出家者
(*3)マウナ・・・沈黙、静寂
(*4)抽象的な知識(親)⇒ 自我(子)⇒ 思い(孫)⇒ 言葉(ひ孫)