2019年10月31日木曜日

『バガヴァーンとの日々』(14)- 46年2月2日から46年2月6日まで

◇『DAY BY DAY WITH BHAGAVAN From the Diary of A.DEVARAJA MUDALIAR』、p133~143

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年2月2日 朝

 訪問者が、ハリジャンの向上のために働いていること、その運動の彼の協力者たちがマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得て、彼の祝福を受けたこと、マハートマー・ガーンディーが、もし彼らがハリジャンの娘とより高いカーストの紳士との間に結婚をもたらすことができるなら、そのような結婚は彼の祝福を得るだろうと彼らに言ったこと、彼(訪問者)がこの件についてのバガヴァーンの見解を聞きたいということをバガヴァーンに伝えました。バガヴァーンは、「マハートマー・ガーンディーがそのように言ったのなら、私たちは皆、彼が言ったことに耳を傾けるでしょう。私たちにとってなすべきことがさらに何かありますか。彼は著名な人物で、その分野で働いています。私たちはそれと何か関係していますか」と言いました。私たちのほうに向き、バガヴァーンは言い足しました。「私が口を開けば、誰それもまたこれこれのことを言ったと新聞に何か出るでしょう。翌日にはそれを批判する人々がいるでしょう。私たちの仕事は、静かにしていることです。私たちがこの全てに携わるなら、人々は当然、もっともなことにも、『どうして彼は静かにしていないで、この全てに口出ししているのか』と尋ねるでしょう。同様に、マハートマー・ガーンディーが、全ての活動をわきに置いて静かにしているなら、彼らは、『どうして彼はこの全ての活動に携わらないで、静かしているのか』と尋ねるでしょう。彼は彼が来た目的のことを行わなければいけません。私たちは私たちが来た目的のことを行わなければいけません」。

 アーブー山からのアーナンダ・スワーミという人が、質問をして、以下の答えを得ました。

 質問: 本の中で、プルシャはアングシュタ・プラマナだと言われています。それは一体、何を意味しているのでしょうか。

 答え: 明らかに、本は、その中にプルシャが顕現しているウパーディに言及しているに違いありません。本が、全てに行き渡るプルシャがアングシュタ・プラマナであるということを意味しているはずがありません。

 質問: そのプルシャはハートの中にありますか。

 答え: あなたが物質的なハート(心臓)のことを言っているのなら、そんなはずがありません。しかし、本は、逆さまの蓮華であるハートを内なる洞窟とその洞窟の中の炎などと表現しています。そのような霊のハートの中に、プルシャが住まうと言われているかもしれず、その炎はそのアングシュタ・プラマナであるかもしれません。

 質問: その光を見ることが自らの実現ですか。

 答え: それを見ることではなく、その中に住まうこと、それであることが、自らの実現です。

 質問: ニルヴィカルパ・サマーディでは、プラーナはどうなりますか。

 答え: それが出て来たところに行き、溶け込みます。

 質問: その時、呼吸があるのかどうか知りたいのですが。

 答え: その時、呼吸の形ではなく、何らかのスークシュマな形であるかもしれません。マハー・プラーナについて話されています。

 質問: サハジャ・サマーディとは何ですか。

 答え: それは私たちのスワバーヴァ・スティティです。それは私たちの自然な状態にいることです。ニルヴィカルパ・サマーディもまた、私たちのヴィカルパを捨て去ることしか意味しません。私たちがヴィカルパを捨て去るなら、サマーディは私たちの自然な状態です。

 質問: スシュプティ・アーナンダとトゥリーヤ・アーナンダの違いは何ですか。

 答え: 異なるアーナンダは存在しません。ただ1つのアーナンダしか存在せず、それは目覚めの状態の間に享受するアーナンダ、最も下等な動物から最上のブラフマーまでのあらゆる種類の存在のアーナンダ、自らのアーナンダを含んでいます。眠りの中で無意識に享受される至福は、トゥリーヤでは意識的に享受されます。それが違いです。ジャーグラットの間に享受されるアーナンダは、ウパーディ・アーナンダです。

 午後の大部分の間、バガヴァーンは、ヴェンカテーシャ・シャーストリアーがウパニシャッドの中に見出されるリブの全ての言葉をひとまとめにしたノートを熟読していました。

46年2月3日 午前

 ラジオのニュースが、4、50万の人々がガーンディーに会うためにマドゥラに集まったと知らせました。バガヴァーンは、「そのような群衆を収容する場所はどこですか。おそらく、アラガル寺院に向かう途中でしょう」と言いました。このことはバガヴァーンにマドゥラでの彼の昔の時代について思う気にさせ、言いました。「私には1人親戚がいました。叔父みたいもので、その寺院のマニガルでした。そのため、私は時折そこに行っていて、私たちはそこで大いに尊敬され、注目されていました。そこでは大量のギーで、とても素晴らしいポンガル・プラサードが作られていました。ある時、大きな真鍮のお皿に入ったそのようなプラサードをもらい、他に誰もいなかったので、私はそれをはるばるほぼ2マイル、その叔父の村まで運びました。しかし、その家の人々が結局はあまりそれを欲しがっておらず、その大部分を彼らの召使たちに与えたことに気づきました。彼らはとてもそれに慣れていたため、それは彼らを引き付けませんでした。私はその寺院の敷地によく遊びに行きました。寺院の周りには様々な建物があり、今は顧みられず、廃墟となっていますが、ナーヤクの王たちによって使われていました。ティルマル・ナーヤクはそこに住んだと言われています。当時、このラージャたちは彼らの山々を要塞化し、そこに住みました。例えば、ジンジーを見なさい。ジンジーの要塞は3つの山の上に建てられています。それらは全て廃墟になっています。この地方の近くのパダイヴェードゥは、昔、大都市でした。ハンピは大都市で、帝国の首都でした。その町はシュリー・チャクラをひな型にして造られていること、どこかに何らかのわずかな間違いがあったこと、そしてそのために帝国は一時期繁栄したが、持ちこたえられずに衰退したことが言われています。(以前はハンピのディワーンで、後にシャンカラーチャーリヤの)ヴィドヤラーニャによってなされた予言が、再びその帝国の子孫かムトの彼の後継者がシュリー・チャクラをひな型にして都市を造るなら、その都市を首都にして大帝国が再び繁栄するだろうと言明したという噂があります。現在のシャンカラーチャーリヤがそのような運命のために生まれてきた人物かもしれないとさえ思っている人たちもいます。私たちのナーヤナは、この町(ティルヴァンナーマライ)はもともと、神々自身によって、シュリー・チャクラをひな型にして作られているため、私たちが山のあたり一面に家を建て、その都市を作りさえすれば、これが大帝国の首都になるだろうと思っていました。彼はスワラージについていつも考え、話し、それを夢見、その計画を立て、スワラージが得られるときに彼が何をするつもりか言っていたものでした。古い、古い時代に山の南側のどこかこの辺りに町があったと人々は言います。今後何が起こるのか誰にも分かりません。今ここにある、この全ての家々が建てられることになるのを私たちは想像しましたか」。

 バガヴァーンはまた、アラガル寺院が、ティルパティ寺院と共に、シヴァ派によってムルガ(主スブラマンヤ)の寺院としてみなされていること、それはムルガの6つのパダイヴェードゥの1つだということを言いました。

午後

 バガヴァーンは、どのように聖スンダラムールティと寺院を結びつける部分が扱われているのか確かめるために、ティルチュリのsthala puranaを読んでいました。彼は私たちにそれをあちこち説明していて、聖者を褒め称える様々な文章を読んでいる間に、バガヴァーンは感極まってものが言えなくなり、ほとんど先に進めませんでした。少なくとも1ダース(12回)は、彼は言葉を詰まらせ、自分を抑えた後で、先に進まなければなりませんでした。

46年2月4日

 昨晩、バガヴァーンは、ティルチュリのsthala puranaの中で、ティルチュリでスンダラムールティの前に神がカライヤールとして現れ、彼にカナペルールに来るように求めたことを読みました。このカライという言葉は、牡牛か、比ゆ的には若い精力的な男性のどちらかを意味するかもしれません。その本にはさらに、彼は手に花束とchuzhiyam(三つ又のほこ)と呼ばれる武器を持って現れたと書かれていました。(牛か男性かの)疑問を解消するために、バガヴァーンは、もし手に入れられるなら、そのカナペルールのsthala puranaを調べたほうがいいでしょうと言いました。ムルガナールは、私たちの図書館にその本を一冊贈呈したと言いました。それで、それはすぐに見つけ出され、バガヴァーンに手渡され、彼はその本をくまなく調べました。今日の午後もまた、彼はその本を読んでいました。この本でもほとんど同じ言葉が使われていたため、疑問を解消することはできませんでした。彼は私たちにいくつかの部分を、特に、一般的に知られていない以下の出来事も載ったSundaramurti Padalamを読み上げました。シヴァが「カライヤール」として現れ、聖スンダラールに、「どうしてあなたは私たちについて歌っていないのですか。私たちはカナペルールに住んでいます」と尋ねたときに、その聖者は彼がその時いたティルチュリでさえ歌い始め、カナペルールに向かって歌い続けたようです。途中、彼はティルプナイヴァーサルで止まりました。そこに、神と女神が老人とその妻としてスンダラムールティのところに来て、とてもお腹がが減っていると言い、彼に食べ物を求めました。彼は急いで彼らのために食べ物を調理しましたが、用意できたとき、客を見つけることはできませんでした。スンダラムールティは村の中で彼らを探しましたが、彼らを探し出すことはできませんでした。彼が家に戻ると、用意した食べ物もまた消えていることに気づきました。その時、スンダラムールティは、これは主のリーラーだと思いました。すると、声がしました。「カナペルールの私たちのところに来ずに、あなたはここで何をしているのですか」。スンダラムールティは、「どうすればいいのでしょうか。あなたはどこかの森の中に行き、住んでいます。私はそこへの正しい道をほとんど知りません」と答えました。その声が、「私は牡牛に乗ってあなたの前を行くでしょう。その牡牛の足跡をたどりなさい」と言い足しました。それで、スンダラムールティはしばらく足跡をたどりました。しばらくすると、足跡が見つかりませんでした。スンダラムールティは再び祈りました。すると、再び足跡が見え、それをたどりました。かなりの距離の後、足跡はなくなり、彼がどこを見てもリンガムがありました。全てはリンガ・マヤ、ジョーティ・マヤでした。それでも、スンダラムールティは一方向に進み、寺院のヴィマーナムを見つけました。

 彼とその一行は、外の貯水池で体を洗い、寺院に入りたいと思いました。すると、見よ!寺院が消え去りました。その時、スンダラムールティは、「我が主が私に腹を立てているのは、私が最初にここに来なかったからだろうか」と心の中で思い、祈り始めました。すると直ちに、ヴィマーナムの頂上が1つ1つ現れ、寺院がそこにありました。バガヴァーンはこの全てを私たちに物語り、最後に言及された情感や祈りがそこに見つかるか確かめるために、聖スンダラールのテヴァーラムに目を向けました。それは見つかりませんでした。しかし、バガヴァーンはテヴァーラムを読み上げ、一度ならず、それらの歌のバーヴァと共鳴し、大いに心動かされ、感極まってものが言えなくなりました。しかし、感動に圧倒されたときに時々彼がするようにその本をわきにはやらず、大いに努力して自分を抑え、テヴァーラム全編を(読み)終えました。彼は特に、その聖者が神は全てのバーヴァを超えている(タミル語)ハートの中で実際に彼に瞑想する人々にとって花の蜜のようだと言った詩と、その聖者が神を彼の友、主、師と呼ぶ詩もまた指摘しました。彼はその本をわきに置き、ムルガナールが講堂に入ったすぐ後、バガヴァーンは、「彼は今着ました」と言い、私はどうしてバガヴァーンがそう言ったのかムルガナールに説明しました。すぐ後、バガヴァーンは、私が上に記録したほとんど全ての物語をムルガナールに話し始めました。

 今日の午後、タレヤーカン婦人が言いました。「バガヴァーン、私は、私がティルコイルールでした体験を報告しなければいけません。私は前に何回もティルコイルールに行っていますが、バガヴァーンが訪れた寺院などをこれまで目にしていませんでした。そのため、今回、私は必ずその全てを訪れることにし、私を全ての場所に案内するために、わざわざ私たちのヴィシュワナータに同行してもらいました。私たちは最初、アライヤニ・ナッルール寺院に行きました。46年2月2日に私たちがその寺院に到着したのは、午前8時ごろでした。がっかりしたことに、寺院の巨大な扉が大きな錠前で閉じられていることに気づきました。寺院の内側にも外側にも人が見当たりませんでした。私はどうすればいいのか分かりませんでした。どうにかバガヴァーンの最初の旅に関係する全ての寺院とその中のいくつかの場所を必ず見られますようにと、私は熱心にバガヴァーンに祈り続けていました。ヴィシュワナータが、『外側のプラカラを回って、何をなすべきか考えましょう』と私に言いました。それで、私は彼と共に回り始めました。しかし、私はずっと心の中で、私が気落ちして送り戻されませんようにと、私が訪問の目的を必ず全うしますようにと、バガヴァーンに強く祈っていました。私たちが回っているときに、私はある場所で水と牛乳が寺院の内側から滴り落ちているのを見て、寺院の中に誰かいるにちがいないとヴィシュワナータに言いました。しかし、ヴィシュワナータは、アビシェーカムの水が滴り落ちてるのかもしれないと言いました。私が4番目の角を回っているとき、驚いたことに、扉がほんの少し開いていることに気づきました。私たちが静かにこっそりと入ってくるように誰かが求めているかのようでした。私たちは回ることをやめ、寺院に入りました。中で、私たちは愛嬌のある顔つきの年を取った僧侶を見つけました。彼は、しかしながら、私たちがそこにいる間中、私たちと一言も話しませんでした。彼は私たちのためにアーラティ、アルチャナ、全てのことをを行い、そこは暗かったので、私たちの要望でランプをつけ、私たちに全ての場所を案内しました。私たちは外に出て、再び寺院の周りを回りました。私たちが回り終えるまでに、扉は再び閉められていて、その老人はいなくなりました。その日、扉を開け、私たちにダルシャンを与えたのは、バガヴァーンの恩寵でしかないと私は思います」。バガヴァーンはヴィシュワナータに、「その老人は誰か尋ねて、調べなかったのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「いえ、しませんでした」と答えました。

46年2月5日

 午前も午後も、バガヴァーンはKalaiyarkoil Puranamを読んでいて、その中の様々な部分を私たちに説明していました。彼はとてもその歌と物語に夢中であったため、今朝、新聞が届いた後でさえ、私たちに説明し続けていました。いつものようにラジオを聴くことを認められなかったために残念がっていた、付添人のクリシュナスワーミは、「そのような物語まで、バガヴァーンが取り上げるなら、全くきりがないでしょう」と発言しました。話を聞いていて、そうしてある意味バガヴァーンが話し続けるように励ましていた私たちを自分は非難しているのだと彼は思っていました。彼は、バガヴァーンが得ていたような、人が他の人々と分かち合たいと思う文学上の小旅行の楽しみを理解できませんでした。バガヴァーンは私たちに、どのようにその詩人が彼の技を示しているのか、どのようにたった一節がその詩人に何日も不安な思いをして過ごさせたかもしれないかを私たちに説明していました。

46年2月6日

 昨晩、ここの副行政長官で、転任のためカダルールに発つ、ラージャラトナ・ムダリアールが、いとまごいをしにバガヴァーンのもとに来ました。私の要請を受けて、彼は、ここでタミル語と呼ばれる祭りにおいて祝われる神と女神の間のタミル語(愛の口論)に関連して寺院の僧侶に使われる歌や会話などの写しを手に入れていて、私にそれを渡しました。昨晩、私は吟味してもらうためにそれをバガヴァーンに預けました。7時45分ごろに私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは上記のものを読んでいて、それを彼の近くの人々に説明していました。私が入ってくるのを見て、バガヴァーンは、「今来たばかりですか」と言いました。ちょうどその時に説明していた箇所を終えた後、彼は再び私のために初めから読んで説明しはじめ、最後まで読み続けました。私たちはラージャラトナム氏が手に入れた写しが完全でないことに気づきました。私に届けられた写しの中に含まれていないものが寺院の僧侶のもとにあるのかどうか突き止めることを私は約束しました。

 本日、午前10時から11時の間に、寺院の前のバガヴァーンの新しい講堂のための基礎が築かれ、バガヴァーンはその式典に出席しました。その仕事を担当するシュタパティ(シュリー・ヴァイダヤナータ・シュタパティ)が、簡単なスピーチを行い、その中で、全ての仕事を1年以内に完了するように取り計らうことが彼の目標であり、努めであること、彼が全てのバガヴァーンの信奉者の協力と善意を求めることを彼は言いました。多くの信奉者もまた、様々な金額を寄付しました。はじめにある未亡人が来て、サルヴァーディカーリにいくらかお金を差し出しました。彼はそれを受け取り、「このお金をその女性が寄付金として提供してくれました」と言いながら、地面の上のお盆にそれを置きました。すると直ちに、様々な信奉者が様々な金額を置き始めました。その場所に差し出された額は、2000ルピー以下のはずはなかったと思います。ティルコイルール出身のラジオの歌手が、バガヴァーンを称える2、3の歌を歌い、その式典は私たち、入居者のためのご馳走で終わりました。

午後

 バガヴァーンはもう、カライヤールコイル神殿についての本の大半を読んでいて、「カライヤール」は、若くたくましい男性だけを意味し、雄牛ではないという、つまり、彼はティルチュリの近くに若い男性として聖スンダラの前に現れたというのが彼の意見です。


 パーラーヤナの後、ある人がやって来て、「私たちは明日の朝、私たちの村に行きます」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「分かりました」と言い、その人は去りました。付添人のほうを向き、「タミル語(彼らに与えられていますか)」と言いました。付添人は出ていき、尋ね、戻ってきて、「彼らにまだ与えられていません。しかし、彼らに与えられるものが取っておかれています」と報告しました。私はこの全ては何についてなのかと思っていました。バガヴァーンは、「私が山のアーシュラム(つまり、スカンダーシュラマム)にいたとき、アンナーマライ・スワーミという人がいました。彼は1922年のタイの月に亡くなり、エーサンニャ・マト近くに埋葬されました。これは彼のグル・プージャー、命日法要です。彼の親族が来て、毎年それを祝います。彼らはそこで貧しい人々に食事を与え、お米などをここに置いていきます。私たちは彼らに私たちのプラサーダム(ヴァダイ、ポンガルなど)を与えます。そのようなグル・プージャーの日には、私たちのタミル語のパーラーヤナと共に、そのアンナーマライ・スワーミによって作られた歌を歌うのが通例です。私は彼らが今日何をするつもりなのか知りません」と私に言いました。私は、「それが慣習であったなら、私たちは今日ぜひとも同じことをすべきでしょう。それについてどうして疑問があらねばならないのしょうか」と言いました。そうしているうちに、バララムが、そのアンナーマライ・スワーミとは誰かバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンはそこで直ちに、111枚の挿絵が載ったカマスによって出版されたバガヴァーンの伝記を取り出し、アンナーマライ・スワーミが写真の右端に立っている集合写真を私たちに見せました。バガヴァーンは、「母は彼をとても気に入っていました。彼はタイの月に亡くなりました。彼女はヴァイカーシの月に亡くなりました」と言いました。その写真を見てすぐ、私たちは皆、バガヴァーンが写真の中でとても細く痩せていると言いました。バガヴァーンは、「それは当時私が一日一食で生活していたからです。およそ1年ぐらい、私は一日に一食しか食べていませんでした。しかし、写真の中の私の状態は何でもありません。あなたたちはグルムールタムでの私を見るべきでした。私は骨と皮だけで、どこにも肉はありませんでした。お腹は見当たりませんでした。それは背中に張り付いていて、そこまで引っ込んでいました。ですから、写真のこの状態はそれほど悪いわけではありません」と言いました。私たちはこの写真がいつ撮られたのかバガヴァーンに尋ねました。1921年のジャヤンティごろだと彼は言いました。このことから、会話は、バガヴァーンがここで最初に撮影された時期に移りました。すると直ちに彼は言いました。「それは1900年か1901年でした。政府が、ここの捕虜たちを写真に撮るために写真家を連れてきました。当時、ここに写真家はいませんでした。この写真家は、クンバコーナム・マウナ・スワーミの弟子で、私について耳にしていたようです。それで、彼はここへの旅をうまく利用して、私を訪問しました。彼は私たちにクンバコーナム・マウナ・スワーミの写真をくれて、私の写真を撮りました。集合写真が最初に撮られたのは、1906年かそこらです。その中で私たちは6人いました。私、パラニスワーミ、シヴァイヤ(彼は当時、コータラムのモウナ・スワーミになっていませんでした)、(当時、ここの衛生査察官だった)パチャイ・ピッライ、ランガ・スワーミ・アイヤンガー(Best & Co's agent)、そして、監督官セーシャ・アイヤルです。その写しは手に入れられません。アイヤンガーの家族が持っているかもしれません。私たちは見つけ出せていません」。この段階で、タレヤーカン婦人が、「子供のころのバガヴァーンの写真はないのですか」と尋ねました。バガヴァーンは言いました。「当時、ティルチュリのような場所に写真家はいませんでした。しかし、私が7、8才のころに、ヨーロッパ人の写真家が、ティルチュリの副治安判事などの集合写真を撮るためにそこに来ました。彼は病院の後ろに滞在していました。彼が副治安判事の集合写真を撮った後、私の叔父のネリアッパ・アイヤルが自分の写真を撮ってもらいたいと思いました。彼はその写真の中で私も彼のそばに置きたがりました。それで、私は学校から呼ばれました。

 「私は急いで来ました。ちょうどその時、私は最近きれいに剃られた広い額で(つまり、上に突き出た頭のてっぺんで)ほとんど(髪の毛の)房を後ろに隠していて(shiba注)、ボタンはなく、私の周りにだらりとぶら下がっている私のジッバなど、全般的に見てパチリと撮られるには準備ができていませんでした。私が到着するまでに、叔父は病院の敷地で椅子に座っていて、そこにはいい背景のためにクロトン(変葉木)があり、写真家がカメラを調節するのに忙しくしていました。私は叔父の左に立たせられ、右手を叔父の椅子の左手に置きました。病院から大きな本が持ってこられ、私は左側のわきの下でそれを持つように頼まれました。そのように配置され、私はパチリと撮られることになっていました。しかし、ついてないことに、ちょうど写真が撮られようとするときに、ハエが私の顔の上にとまり、私はそのハエを追い払うために手を上げました。その結果として、写真の中では私の右手が空中で揺れているのを見ることができます。私たちはこの写真もまた手に入れることができていません。私の子供時代、少年時代に撮られた他の私の写真はありません」。

(原注)
・プルシャ・・・人、または、自ら
・アングシュタ・プラマナ・・・親指の大きさの
・ウパーディ・・・付加物、付属物
・ニルヴィカルパ・サマーディ・・・その中で個別の自分とブラフマンとの間の全ての相違が存在しなくなったサマーディ
・スークシュマ・・・微細な
・マハー・プラーナ・・・重要な生命の力
・サハジャ・サマーデイ・・・自然で、絶え間のないサマーディ
・スワヴァーバ・スティティ・・・自然な状態
・ヴィカルパ・・・疑い、または、誤った概念
・スシュプティ・・・深い、夢を見ない眠りの状態
・トゥリーヤ・アーナンダ・・・ブランフマン、第四の状態、トゥリーヤの状態で経験される至福
・ウパーディ・アーナンダ・・・付加物によって引き起こされたアーナンダ
・マニガル・・・公共機関、施設の責任者、管理人
・ポンガル・プラサード・・・神に捧げられるポンガル
・ポンガル・・・米、豆、木の実、ギーなどからなる南インドの料理
・プラサード・・・神やグルなどに捧げられた後、信奉者に配られる食べ物
・パダイヴェードゥ・・・神々と悪魔が戦った戦地に建てられた寺院、神殿
・sthalapurana・・・聖地の伝説、言い伝え
・リーラー・・・冗談、戯れ
・リンガ・マヤ・・・リンガで満ちた
・ジョーティ・マヤ・・・光輝で満ちた
・ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、または、天の車
・バーヴァ・・・感情、気分
・プラカラ・・・寺院の中の神殿を囲む舗装された庭
・アビシェーカム・・・神に差し上げられる、水、牛乳、凝乳などからなる聖なる沐浴
・アーラティ・・・聖像のまえで灯火を振ること
・アルチャナ・・・聖像に花を捧げること
・シュタパティ・・・寺院や他の神聖な建築物の建築家
・ヴァダイ・・・南インドの、油で揚げられたケツルアズキのパン生地の料理
・ジッバ・・・襟とカフスのない長いゆったりとしたシャツ

(shiba注)
シカー(shikha)という、伝統的なヒンドゥー教徒、特に、バラモンや僧侶の剃られた頭の上に残された毛の房があります。web検索して写真で見ると、辮髪のように後頭部にだけ髪の毛が残っています。バガヴァーンは当時この髪型をしていて、バガヴァーンの特徴的な突き出た頭頂部(智慧の頭頂と言われるようです)が、その毛の房を隠していたということだと思います。

2019年10月19日土曜日

バガヴァーンとの日々⑬ - 46年1月27日ら46年2月1日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p122~133

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月27日

 クリシュナスワーミが、約束したように、今朝、戻りました。バガヴァーンは、マドラスでガーンディーに会うための彼の旅行について優しく質問していました。クリシュナは、電車には膨大な群衆がいたこと、ここからマドラスまでずっと立たなければならなかったこと、再びそこには10万以上の群衆がいたこと、ある曲がり角には駐車された車の海があったこと、私たちの友人の何人かの親切な尽力により6ルピーのチケットで彼がマハートマー・ガーンディーのとても近くに座ったこと、後に全ての群衆が門を破って殺到したこと、ガーンディーがヒンディー語以外のどの言葉でも話すことを拒んだことなどを話しました。バガヴァーンは、「あなたはガーンディーに会いました。今や、あなたは、そのような旅行から得られる喜びを味わい、知っています」と言い、そのように言いながら、「大事にしまってしておきなさい。6ルピーの価値があります」との言葉と共にチケットを返しました。クリシュナはまた、T.N.K.博士から彼に贈られた大小の多くの写真を持ってきました。その中の多くで、彼とバガヴァーンが一緒に見つかります。これに関連して、ナーガンマが、ヴィシュワナータ・アイヤルの母親がスカンダーシュラマムでとられたバガヴァーンの写真を見たがっていた、とバガヴァーンに言いました。彼はアルバムを持ってきて、その女性に見せるように言いつけ、それは行われました。

 クリシュナが、「T.N.K.博士が、私を通じて何か薬をバガヴァーンに送ると言っていましたが、私は彼に再び会って、それを持ってくる時間さえありませんでした。T.P.R.がそれを持ってくるでしょう」とバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「どうして薬を?今、私はどこか悪いのですか。私は大丈夫です。この全ては不必要な空騒ぎです。どうしてあなたは私に薬を送るように彼に頼みに行ったのですか」と言いました。クリシュナは、「私は頼んでいません。彼自身がそれを送ると言いました。彼はバガヴァーンに会いに来るつもりでもいます」と言いました。バガヴァーンは、「彼は『バガヴァーンはどうですか』とあなたに尋ねて、あなたは何か言ったでしょう。そうでなければ、どうして彼が薬を送らなければならないのですか」と述べました。クリシュナは、「そのように尋ねられるとき、どうして黙っていられますか。話さざるを得ません」と言いました。クリシュナはまた、バガヴァーンに言いました。「私たちの友人の何人かが、私たちのアーシュラムを訪ねることをガーンディーに提案したいと思っていました。しかし、彼らがO.P.ラーマスワーミ・レッディ氏に相談したとき、彼は、『ここで私たちは誰もガーンディーに面会できません。ラジャジだけが影響力を持っています』と言いました」。するとバガヴァーンは、「彼はそのような場所に来ることを許されないでしょう(タミル語)」と言いました。1週間ほど前、バガヴァーンは、かつてガーンディーがこの場所にやって来て、(私たちのアーシュラムから200メートル以下の)家畜品評会場の近くにいて、そこでの仕事をそのために決められた時間以下で終わらせ、寄付金を集め、その場を離れた、と述べていました。クリシュナはまた、マハートマーが頻繁にバガヴァーンについて考えていること、彼に大きな尊敬の念を持っていることを人々に話しているという知らせをもたらしました。バガヴァーンは、「ええ。ええ。それはそうかもしれません。誰かが自分には心の安らぎがないと彼に言うときはいつでも、彼は、『しばらくラマナーシュラマムに滞在しに行きなさい』と彼らに言い、彼らをここに送り出します。彼らはやって来て、私たちに言います」と言いました。

 後ほど、午前10時すぎ、バガヴァーンはDinamaniを読んでいて、(コーヤンブットゥール近くの)ペールールの寺院に関する記事をそこで見つけ、私たちにそれを読み上げ、「それは私にとって初耳です。私たちはスンダラムールティの人生においてやPeriyapuranamの中でこれについて耳にしていません。しかし、それはSthalapuranamの中にあるのかもしれません」と言いました。これがその物語です。一年の特定の日に、神と女神が隣接する畑に連れ出され、ある信奉者の代わりに苗木を植え替える神と女神の祭りが祝われています。それは、ある日、スンダラムールティ・スワーミが寺院に入り、がっかりしたことに神も女神もそこにいないことに気づき、彼らを探すとすぐに、彼らが畑でこのハリジャンの信奉者のために(苗木を)植え替えることに取り組んでいるのを発見したということを記念しています。

46年1月28日 午前

 今では1か月ほどここに滞在している、P.B.ライ氏が、彼のベンガル語のバガヴァーンの伝記を仕上げました。彼はバガヴァーンの前で献辞を読み、英語に翻訳し、彼は数年まえマドラスで誰かからバガヴァーンについてはじめて耳にし、すぐ後でこの伝記を書き始め、これを完成させるのに4年を要したと言いました。バガヴァーンは、ずっと前、どこかのベンガル人がベンガル語の雑誌に彼の短い伝記を書き、彼についてのさらにいくつかの記事も何かのベンガル語の新聞か雑誌に掲載されたと言いました。ライ氏は、今バガヴァーンによって言及された2つの記事を書いたと言いました。そこで直ちに、バガヴァーンは他のベンガル語の記事を探し、それを探し当て、吟味してもらうためにライ氏に渡しました。それはAmrutと呼ばれる雑誌に掲載され、1934年に出版されました。この記事の著者は、ラーマクリシュナ・ミッションのジャガディーシャーナンダ・スワーミです。ライ氏はそれを熟読し、その記事は全ての点に触れているが、どういうわけか、バガヴァーンがここに来る前にマドゥラで起こった、死を思うことから生じ、自らの実現に帰着するバガヴァーンの体験について言及し忘れていると午後、私に言いました。

 最近ここにいた、ゴークル・バーイーという人が、ガーンディーをここに連れてこようとしたが、ガーンディーが、すでにあまりにも込み合っている彼の予定に何一つ追加されるべきでないと断固として命じていることが分かったということを手紙で知らせました。バガヴァーンは、「彼らはこの全てのための時間を見つけられません」と言い足しました。

46年1月29日

 バガヴァーンは、Ramana Lila(テルグ語のバガヴァーンの伝記)の新版を手に取り、何気なくそれを開くと、彼によって作られた奇妙な詩節をふと見つけ(食事の前、間、後に水を飲むことについてや、シッディを追い求める人々が手品師よりいっそう悪いことについてのような)、「彼はこの版にこの全てをつけ付け足しています。私はこれまでそれを目にしていません。いつ彼はこの全てを書き取り、それをこの版に付け足したのですか」と驚きを表しました。

 バガヴァーンがまだこの新版に目を通している間に、訪問者が尋ねました。「私は1年ほど前にここに来て、それ以来、バガヴァーンの指示に従おうとしてきています。私は、しかしながら、あまりうまくいっておりません。私は全ての女性を母として見ようとしてます。しかし、私はうまくいっていません」。バガヴァーンは返答せず、その訪問者は続けました。「私が家にいるうちは、大丈夫です。しかし、外に出て、女性を見るとき、私は心を制御することができず、足をさらわれます(心奪われます)。どうしたらいいのでしょうか」。彼はまた、「私はアートマ・サークシャートカーラムが欲しいのです。どうしたらいいのでしょうか。私はバガヴァーンの祝福を願い求めます」と言い足しました。一呼吸おいてから、バガヴァーンは返答しました。「家にいるときは大丈夫だとあなたは言います。家にいなさい、心の中の家に(いなさい)。心を外側に行かせてはいけません。それを内側に向け、そこでそれを家に留めなさい。そうすれば、万事うまくいき、あなたはアートマ・サークシャートカーラムを得るでしょう。問題は、私たちは心であると私たちが思っていることです。私たちが心であるのか確かめなさい」。

 その訪問者が言いました。「私はグリハスタです。それでも、私は妻に対してさえブラフマチャルヤを実践したいのです。しかし、うまくいきません。どうしたらいいのでしょうか」。バガヴァーンは返答しました。「それは長年のヴァーサナーのためです。サンカルパがとても強力なのは、それがとても長く存在してきたからです。しかし、それはなくなるでしょう」。

46年1月30日 午後

 バガヴァーンは、アップ・シャーストリー氏からの手紙を読んでいました。彼はベナレスのガンジス川の上で船の中に住んでいるハリディヤル・マハーラージという人を訪問していました。そのマハーラージ(スワーミ)は、200歳だという評判です。これに関連して、バガヴァーンは言いました。「私がグルムールタムにいたとき、私の爪は1インチほどの長さに伸び、垂れた長いジャタ(もじゃもじゃの髪)をしていて、人々は、見た目はとても若いが、私がとても年を取っていると、私が何世紀にもわたってそのように生きているとよく話していました!」。

 (すぐ前の記録で言及された)訪問者が、バガヴァーンに言いました。「今晩、私は家に戻ります。私は私の苦境を口にしました」。

 バガヴァーン: ええ。それは徐々になくなるでしょう。

 訪問者: 私はバガヴァーンのクリパ・ドリシュティ(慈悲の眼差し)を願い求めます。

 バガヴァーンは返答しませんでした。このわずか数分前、コロンボのラーマーチャンドラの2人の娘が歌い終え、(熱心な長年の信奉者である、彼女たちの父親によって作られた)ほぼ最後の歌に以下の詩が含まれていました。タミル語(恵み深いグルとしてアンナーマライに留まる彼は、その眼差しを彼らに向け、彼らの悲しみを晴らし、彼らに救いへの道を教える)。


 アーナンダ・スワーミという訪問者が、1940年のいつかの日付のThe Hinduからの抜き刷りを持ってきました。その中で、モーリス・フリードマン(ここ十年来のバガヴァーンの信奉者)が、どのように、詐欺の疑いをはさむ余地のない状況で、2人の女性が祈り、一種の恍惚状態に入り、その後、その手の中に不可思議にどこからともなくいくつかの砂糖菓子とアーモンドを得たのか報告しています。そのスワーミはまた、人々が果物などを受け取る、そのような他の例を彼自身が見たことがあると言い、そのような出来事はどのように説明しうるのかバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは返答しました。「私たちはとても多くの物事を耳にします。そのような物事のために働く宗派があります。彼らはそのような物を見たり、得たりするかもしれません。しかし、誰がそれを見たり、得たりするのですか。あなたがそれを見るはずです。Periyapuranamでも、似たような出来事が言及されています。ある商人が、食事と一緒に後で食べると言い、妻にマンゴーを2つ送りました。彼が仕事から戻る前に、サードゥが来て、とてもお腹が減っていると言い、その妻は、彼を憐れみ、いくらかお米をあげ、そのお米と共にあげる用意のできたものが他に何もなかったので、マンゴーを1つあげました。彼女は夫が1つのマンゴーだけで満足するようにと願いました。夫が後で戻り、食事の間にマンゴーを求め、1つを平らげ、それがとても甘いことに気づいて、もう1つも求めました。妻はにっちもさっちもいかなくなり、夫の激怒を恐れ、前に2つの果物をしまっておいていた部屋に行き、この状況で神に助けを願い祈りました。さすれば、見よ!彼女が2つの果物をしまっておいたところに、もう1つ果物が置かれていました。それで、彼女はそれを持っていき、夫にあげました。彼はそれを食べ、それがさらにいっそうおいしく、彼が以前に決して知らなかった恍惚感とシャーンティを彼に与えることに気づきました。そのため、彼は妻にその果物について真実を言うように迫り、彼女から聞き出しました。驚いて、そして、まだ少しいぶかって、彼は妻にもう1つ果物を願い求め、手に入れるように頼みました。妻はやってみますと言い、神の恩寵によってもう1つ果物を受け取りました。その時、彼女が聖者であることが彼に分かってきて、彼は彼女の前で平伏し、彼女をこれ以上妻として扱うことは彼にとって罰当たりなことだと思い、村を去り、別の村で住みに行きました。妻はしばらく後に彼を探しあて、彼は彼女の主であるため、彼のところに行くのは彼女の義務だと、彼が彼の望むことを彼女にすべきだと思い、彼女はその村に向かいました。夫は、それを察知し、そこの村人たちに、「偉大な聖者がやって来ます。私たちはしかるべき敬意、作法、華やかさをもって、御輿や太鼓の音色を持ち出して、彼女を歓迎しなければいけません」と言いました。そうして、彼は手厚い歓迎を準備して、迎え入れる一団の先頭で行進し、妻の前で最初に平伏しました。

 「妻はどうすればいいのか分かりませんでした。彼女は死すべき運命の肉体を脱ぎ捨て、アストラル体に住まい、ついには天界に達し、そこでもまた夫を迎えました。その女性の聖者はカーライッカール・アンマイヤールで、その物語はPeriyapuranamの中に見られます」。

 私たちはまた、フリードマンとこのアーナンダ・スワーミによって語られたものに似た出来事を思い出しました。それはほんの数か月前にバガヴァーンの講堂で起こり、この日記に記録されています。その時、グジャラート人の女性が祈りの後、砂糖菓子を手の中に受け取りました。バララム氏の要望で、この日記の前の巻が持ちだされ、バララム氏が上述の出来事についての記述を、その奇跡を行った女性の名前と住所と共に、それが起こったとおりに読み上げました。アーシュラマムの古参の一員、ラーマスワーミ・ピッライ氏は、そのような出来事を重要視することを非難しました。彼は、「箱の中に入れられ、のこぎりでバラバラに切られ、無傷で出てくる人のように、私はもっと不思議な物事を見たことがあります。そのような奇跡から私が学んだ全ては、私たちは私たちの目を信用すべきではないということ、私たちの目がそのように(現実だと)伝えるからというだけで、ものが現実であると決して信じるべきではないということです」と言いました。バガヴァーンもまた言い足しました。「私たちはとても多くの不思議な物事が行われるのを目にします。手品師が固く縛られた女の子を麻袋に入れ、それをかごの下に置き去りにします。彼がその女の子を呼ぶと、彼女が別のどこからかか現れます。魔法のようなことが存在しています」。

 このころに、タミル語のパーラーヤナの時間になりました。私たちは(シヴァプラカーシャム・ピッライによる)Ramana Deva Malaiの第29詩節から始めました。奇妙な偶然で、それは、「知性、ブッディは、マーヤーのために現実を見ない」と書いてあり、バガヴァーンはシヴァプラカーシャム・ピッライの作品を引用し、タミル語(全てはマーヤーの仕業です)と私たちの会話に続けて言い足しました。

46年1月31日 午前

 午前8時30分ごろ、つまり、S.ラオ医師がバガヴァーンの足をマッサージし終えた、ほぼ半時間後、バガヴァーンは、「タミル語」、つまり、「まるで彼がマッサージしているかのようです。しかし、私がその人を探すと、誰もいません」と言いました。

 午前11時ごろ、訪問者が尋ねました。「バガヴァーンは今朝、私に、『現実(ヤタールタム)を知らなければ、安らぎ(シャーンティ)を得ることはできない』と言いました。その現実とは何ですか」。

 バガヴァーン: 常に存在するものが、現実です。それは安らぎです。安らぎはその別名です。

 訪問者: どうやってそれに達するのですか、もしくは、どうやって安らぎを得るのですか。

 バガヴァーン: すでに私が言ったように、存在するものは、安らぎです。私たちがする必要がある全ては、静かにしていることです。安らぎは、私たちの本質です。私たちはそれを台無しにしています。必要とされることは、私たちがそれを台無しにしなくなることです。私たちは新たに安らぎを作り出そうとしていません。例えば、講堂に空間があります。私たちはその場所を様々な物でいっぱいに満たしています。私たちが空間を欲しいなら、私たちがする必要のある全ては、それら全てのものを取り除くことです。そうすれば、私たちは空間を手にします。同様に、私たちが心から全てのごみを、全ての思いを取り除くなら、安らぎが明らかになるでしょう。安らぎを妨げているものを取り除かなければいけません。安らぎが唯一の現実です。

午後

 バガヴァーンは、Ramana Lilaの新版を見直していました。この版には、多くの間違いが潜り込むことを許されていると彼は感じています。いくらかは、適切に調査されていなかった校正刷りのため、ヴェンカタクリシュナイアーが当時視力の悪さに苦しんでいたためです。しかし、他のいくらかは、事実を確認する際の注意が不十分なためです。バガヴァーンはこれらを訂正しようとしていました。例えば、その本に載っているバガヴァーンのホロスコープに関連して、彼は15年を5年に訂正しました。彼はパーパハラナーディ川の方向と場所が正確でないことに気づきました。そのような間違いはバガヴァーンの性に合わず、そのため彼はそれらを発見するために全編を辛抱強く調べています。それは彼にとって、とりわけ彼の悪い視力を用いてでは、あまりにも重い負担です。

46年2月1日 午前

 ラジオのニュースが、コーチンのマハーラージの死を知らせました。バガヴァーンは、「彼は亡くなったのですか。私たちは彼の病気のことを読んで知りました!」と言いました。私は、「彼は年を取っていたに違いありません!」と言いました。バガヴァーンは言いました。「ええ。別の年を取った人が、今や玉座に上ろうとしているのかもしれません。亡くなった人は、ほんの数年前に玉座に上りました。アッパン・タンビラン(彼はバガヴァーンを訪問し、彼について記しました)が、いま生きていたなら、王位を獲得していたでしょう。彼らには、継承を待つ、王子の長いリストがあります」。私は、「彼らは一般的に年を取っているだけでなく、とても博学で、敬虔でもあります-このコーチンのラージャたちは」と言いました。バガヴァーンは、「ええ。彼らは一般的にサンスクリット語に精通しています。トラヴァンコールがハリジャンにその寺院を解放したときさえ、コーチンはしませんでした」と言いました。バララムが、「私が大学で学んでいた時、コーチンの第42位の王子が私と一緒に学んでいました。彼らにはそのように長い継承権の相続人のリストがあります」と言いました。付添人のクリシュナスワーミが、コーチンは大きな州なのかバガヴァーンに尋ねました。そこで直ちに、私たちはコーチンは小さいが、プドゥコーッタ(イ)はもっと小さいことについて話しました。誰かが、プドゥコーッタは、その元々の所有者が彼の主人を裏切って、英国民の手助けをしたから州になったと言いました。ここから、会話はタミル語(オーマイヤン)の方向に流れました。彼は当時、英軍にとって恐怖の的であり、英軍は彼を長い間捕まえられず、プドゥコーッタ・パリアガル(人?)の助けでついに捕らえられた言われています。その時、バガヴァーンは言いました。「ディンディグルに砦があります。正面入り口は警備されていて、私たち少年は入ることを許されていなかったものでした。私たちは壁の最も遠くの端に行き、登り、砦の中に飛び降り、砦の背後の壁の穴によって砦から出ました。その穴を通って、オーマイヤンは英国人から逃れた言われていました。私たちが今、その壁を見ると、どうやって私たちは登って、そこから飛び降りたのだろうかと思います」。バガヴァーンはRamana Lilaを引き続き調べ、さらに間違いを発見していました。

午後

 G.スッバ・ラオ氏が、Ramana Lilaから、シャンカラーチャーリヤが彼の弟子の1人にバガヴァーンはスブラマンヤの3人目のアヴァターラだと(1人目はクマーリア・バッタルで、2人目はジニャーナ・サンバンダール)言ったということを読み、シャンカラーチャーリヤは一体誰にそのように言ったのかバガヴァーンに尋ねましたが、バガヴァーンは分かりませんでした。しかし、シャンカラーチャーリヤは最後の人より前の人、つまり、今の人から3代前に違いないと彼は言いました。バガヴァーンはまた、「そのシャンカラーチャーリヤは、私に会いにスカンダーシュラマムに来ました。彼は彼が聞いたことを繰り返して言っていたに違いありません。それを(言い)始めたのは、ナーヤナだけです。以前は誰もそう言ってませんでした」と言い足しました。バガヴァーンは、Ramana Lilaの中で、ヴェンカタ・クリシュナイヤによるバガヴァーンのマドラスからの旅の詩的な描写-彼の体のヴィマーナム(*1)の中で、彼はダハラーカーシャ(*2)、チット・アーカーシャを横切っていたという-をふと見つけ、それを私たちに読み上げました。これは彼にここでの過去のある出来事を思い出させ、彼は言いました。「昔、私たちがスカンダーシュラマムにいたとき、タイの月に、私たちはある夜、山を巡りに40か50人のグループで出かけました。私たちは皆、始める前に、お茶に加えてプリなどのしっかりとした食事をとっていました。彼らは加えてマルンドゥ(材料として阿片を含んだレーヒャム)をとっていました。私たちがここの近くに来るまでに、ナンボードリという人、アートマーナンダ・スワーミが、『私はクシーラ・サーガラに浮かんでいて、船がその海沿いに私を運んでいる感じがします』と言い出しました。別の人は、飛行機に乗って空を飛んでいる感じがすると言いました。そのように、ヴェンカタ・クリシュナイヤは、私がダハラーカーシャを旅していたと言っています!」。そうしているうちにラーマナータ・ディークシタルが講堂に入って来て(彼は1912年以来バガヴァーンと共にいます)、彼を見るとすぐ、バガヴァーンは言いました。「彼はその機会に私たちと共にいたはずです。別の機会に、私たちがヴィルーパークシ洞窟にいたとき、私たちは山を巡りに出かけ、チダンバラム・スブラマンヤ・シャーストリーがその一団の先導者でした。私たちがここの近くのどこかに来たとき、グル・バクティについて、山を巡りながら、それぞれの人が1時間講義してはどうかと彼が提案して、ラーマナータンの番は一番初めでした。彼らは皆、マルンドゥ(つまり、ガンジャ)をとっていました。ラーマナータンは講義をはじめ、ティルヴァンナーマライとラマナ、チダンバラムとナタラージャ、体と自らが同じであるという彼のテーマを詳しく論じました。彼はそのテーマを論じ続け、それを擁護する独創的な主張を言い続けました。それは大変な熱意と気迫であったため、彼は制限時間をはるかに超えました。彼が止めるように頼まれたとき、彼は哀れを誘う様子でもう少し時間をと嘆願しました。そのため、彼は続けることを許されました。彼が2時間費やした後でさえ、彼は終えようとせず、彼を止めなけばならず、それから、別の人が話すように頼まれました。ラーマナータンの話しぶりは素晴らしいものでした。誰もそれを彼に期待していなかったでしょう。彼が「タミル語」を作ったのは、その翌日でした」。バララム氏は、昔ヴィルーパークシ洞窟にバガヴァーンが1人でいて、小さな壁を建てることに取り組んでいると、ある訪問者がそこに来て、どこにスワーミがいるのかバガヴァーンに尋ねたとき、バガヴァーンが彼に「スワーミは出かけました」と言ったということが言及されている、Ramana Lilaの中の文章をふと見つけました。バララムはバガヴァーンに、「そうなのですか?」と尋ねました。バガヴァーンは、「ええ」と言いました。さらに読み進めると、バララムは、その人が少し滞在し、どのスワーミが戻ってくるのも見つけられずに去って行き、彼が3日目に再びやって来て、その時も彼は少し滞在して、バガヴァーン以外誰も見つけられず、帰って行き、帰る間に彼はエチャンマを会い、彼女に彼のスワーミとは彼がその日と前の機会にヴィルーパークシ洞窟で会った人だと聞かされ、エチャンマが後に、そのようにその人を誤解させるのは彼にとってふさわしいのかバガヴァーンに尋ね、バガヴァーンが彼女に、「あなたは私に『私がそのスワーミです』と知らせる鈴を首回りにつけて出歩いて欲しいのですか。それとも、額に私がそのスワーミであるという張り紙を張って(出歩いて欲しいの)ですか」と返答したという陳述を見つけました。

 このことはバガヴァーンにその若かりし日々について、古い腰布と小さくぼろぼろのタオルだけ身に着けて出歩いていた時、彼のことをスワーミとみなすことがもちろん誰にとってもどのように簡単ではなかったかについて話す気にさせました。彼は言いました。「私がパチャイアンマン・コイルにいたとき、私はぼろぼろの破れた小さなタオルを持っていました。それはほとんどぼろ切れで、たいていの場所から糸が飛び出していました。一度、牛飼いの男の子が、『総督がこのタオルを欲しがってるよ』と私に言って、この破れたぼろ切れをからかいました。私は、『あなたにそれをあげる気はないと彼に伝えなさい!』と返答しました。私はそれを人前で決して広げませんでした。私はそれを丸めて球にしておき、そのように丸めて球になったタオルで必要に応じて体や手や口を拭いていました。私は2つの岩の間のある場所でそれを洗い、乾かしていました。私と一緒にいた人々の誰も、その場所を訪れたことはありませんでした。私の腰布さえもぼろぼろでした。一番上の端が擦り切れたとき、私は腰布を逆にして、それを裏の端で使っていました。森に入るとき、私はウチワサボテンのとげを針として使って腰布から取った糸でそれをひそかに繕っていました。そのため、誰も私のタオルと腰布の哀れな状態を知ることも、感づくこともありませんでした。ある日、どうにかして、当時私とよく共にいた人たちの1人が、私が布を乾かしていた場所に行き、そうして偶然、私の布の状態に気づきました。彼らはその後、そのような状態を許したことで、言い訳しようのない冒涜(アパチャーラ)を犯したなどで涙を流しました。彼らはトランクの中に布生地やとても多くのタオルなどを持っていて、全て私のために使うつもりでいました。ただ彼らはどれほどひどく私のタオルと腰布が破れていたか知らなかっただけでした。そうでなければ、彼らはずっと前にそれを他のものに取り換えていたでしょう」。彼は言い足しました。「私たちのムルガナールがこれらの事実を歌の中で述べていて、私がインドラをタオルとして(つまり、千の小さな目、穴があるタオル)、そして、ウチワサボテンのとげによって縫われた腰布を持っていると描写しました。しかし、その事実を知らない人は、その詩人がそもそも何を意図したのか理解できないかもしれません」。彼はまた、聖スンダラムールティの人生から2つの物語を私たちに話しました。その1つでは、その聖者は這い上がるナス(タミル語)の葉っぱで崇拝を行っていましたが、他の人々は彼が料理のためにそれを準備していると思いました。もう1つでは、ソーマヤジュルという人が、その葉っぱを通じてその聖者の助けを得て、彼のヤグナでシヴァの出席を取り付けました。

原注
(*1)ヴィマーナム・・・寺院の塔の上の部分、天界の車
(*2)ダハラーカーシャ・・・ごく小さいアーカーシャ、ハートの中で実現される自らに適用される用語

2019年10月8日火曜日

バガヴァーンとの日々⑫ - 46年1月22日ら46年1月26日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p113~122

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月22日

 朝早く、パラヤーナの直後、バガヴァーンはバララムにテルグ語の詩節を見せ、それを改善するために彼の提案を求めました。バララムは、「私が行うべき提案が何かあるでしょうか」と返答しました。バガヴァーンは、「分かりません。私はあなたのような人々に尋ねなければなりません」と言い、回転棚に詩節を差し込みました。

46年1月23日 夜

 シュリニヴァーサ・ラオ医師が、Reality in Forty Versesへの補遺の第10詩節の中で、バガヴァーンが私たちにソーハムと断言するように説いていないのか尋ねました。バガヴァーンは以下のようにそれを説明しました。

 全ヴェーダーンタは、デーハム、ナーハム、コーハム、ソーハムの4つの言葉に簡約できると言われています。この詩節には同じことが書かれています。最初の2行では、なぜデーハムがナーハムか、つまり、なぜ体が「私」ではない、ナ・アハムか説明されています。次の2行では、人がコー・アハム、つまり、私は誰か探求するなら、すなわち、人がどこからこの「私」が生じたか探求し、それを実現するなら、その時、そのような人のハートの中に、遍在する神アルナーチャラが「私」として、サ・アハム、ソーハムとして輝くだろう、すなわち、彼は「私はそれである」、つまり、「それが『私』である」と知るだろう、と書かれています。

 これに関連して、バガヴァーンはまた2詩節-1つはターユマーナヴァル、もう1つはナンマールワールから-を引用しました。(以下は)その両方の要約です。「私は分離した存在であると思い続け、『私』と『私のもの』について話し続けていたが、私がこの『私』について探求を始めたとき、あなたのみ存在することを私は知った」。2詩節とその意味が、以下に記載されます。

1. タミル語の詩節

2. タミル語の詩節

    (1) この「私」は誰か探し
       すぐに私は発見した
       あなたのみが至福なる天国として立つのを
       神聖なる主、あなたのみが!          -ターユマーナヴァル
 
    (2) 私は誰か知らずに
       「私」と「私のもの」について私は話していた
        しかし、私はあなたであり、私のものはあなたである
        全ての神々が崇める主よ            -ナンマールワール


6年1月24日 午前

 バガヴァーンは私のために上の2詩節を選び出し、ターユマーナヴァルの「タミル語」の第7詩節から以下の2行も引用しました。

タミル語の詩節

                                 私はあなたになり、あなたのみ存在しているが
                                 破壊されない「私」は存続している
                                 知る、内なる私として、そして、
                                 知られるものに変わる私として
                                 知っている、及び、知らない多くのものに(変わる)

 バガヴァーンは、多くの似たような引用がアールワールの歌の中で他に見つけられると言い足しました。S.ラオ医師は、バガヴァーンの手から「タミル語」(Tirivoimozhi)という本を受け取り、「なるほど、注釈もあります」と言いました。「私はあなたであり、私が私のものと呼んだ全てはあなたであることに私は気付いている」と書いてある、この詩節に関して、ヴィシシュタードヴァイタの注釈者は、「私と私のものを神自身とみなせるほど、私は神の近くに達した」と書きました。

 S.ラオ医師は言いました。「自らを実現した人々が、彼ら自身の間で意見を異にするはずがなく、様々な学派の指導者は、もし彼らが自らを実現した人たちであったなら、互いの教えに矛盾することを言ったはずがありません。しかし、彼らの支持者たちは、これら全ての分裂と現代の口論を引き起こすような方法で、その教えを誤解したか、誤って解釈したに違いありません」。S.ラオ医師は、彼がセーラムにいたとき、ある紳士が彼に聖ナンマールワールからの1詩節をしばしば引用したと言いました。その詩節の中で、そのアールワールは、ティルパティの神をヴィシュヌともシヴァとも描いています。

 郵便が、D.S.シャーストリ氏からの、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの旅行に関する彼の妹のテルグ語の手紙の英訳を持ってきて、ヴィシュワナータ・アイヤル氏によって講堂で読み上げられました。パタシャラの少年たちが、「4匹のウサギが偉大な指導者を作っている」という印刷写真をバガヴァーンに見せました。10時15分ごろ、私が講堂にやって来たとき、バガヴァーンは私がそれを見たことがあるか尋ねました。私が「いいえ」というと直ちに、彼はそれを取りに行かせ、私に見せました。バガヴァーンは、「あなたは最初に4匹のウサギを見て、その後、どのようにそれがガーンディーを形作っているのか見なければいけません」と言いました。

午後

 午後3時ごろ、私が講堂に入ったとき、バガヴァーンはラオ医師が述べた詩節をすでに探しているところでした。ほんの短い時間で、私たちはその詩節をつきとめました。それは「タミル語」で始まり、ペーヤールワールがティルパティで神を見たときに、彼によって作られたと言われています。


 付添人のクリシュナスワーミが、マハートマー・ガーンディーに会いにマドラスに行きたいと、日曜日に帰ってくるだろうとバガヴァーンに言いました。バガヴァーンは、「サルヴァーディカーリに聞きなさい。以後、私があなたに行く許可を与えたと言わないように」と言いました。彼は、「彼が今出かけるなら、彼が戻ってくるときサルヴァーディカーリは彼を受け入れないかもしれません。彼がマドラスから戻ると、彼を迎え入れることに彼(サルヴァーディカーリ)が反対するなら、どうしたらいいのですか。ここで、どんな権限を私は持っていますか」と言い足しました。この全てにも関わらず、バガヴァーンに行って戻ってくると告げ、クリシュナは出かけました。

46年1月25日

 ローカンマルが、TiruvachakamからTirukkazhukkunra Pathigamを歌いました。ムルガナールはそこで直ちに、「タミル語」(恥じることなく恥じた)の意味は何か尋ねました。バガヴァーンは、それはタミル語(探すことなく探した、考えることなく思った)のような表現の1つであるかもしれないと、そして、タミル語(どうすれば人は考えることなく考えられますか。これらは全て言い方です。他の言い方はありません)と言いました。同様に、ムルガナールは、「タミル語」(おお、64人のヤクシャに8つの霊的達成を授けた、主よ)の中の引喩は何か尋ねました。バガヴァーンは確信を持っていませんでしたが、それはTiruvilaiyadal Puranamの中の物語の1つだと思いました。私はスブラマニアン・ピッライによる注釈付きのTiruvachakamの私の写しを取りに行きました。「タミル語(恥じることなく・・・)」などに関して、その本は全く光明を投じませんでした。後の行(64人のヤクシャ・・・)に関して、その本には、引喩はウッタラコーサマンガイの物語に対するものだと書いてありました。バガヴァーンは、Tiruvilaiyadal Puranamを受け取りましたが、そこでその物語を見つけられませんでした。そこで見つかった物語は、やはり6人の「タミル語」(ヤクシャ)についてでしたが、別のものでした。ムルガナールは、「このウッタラコーサマンガイの物語は、出版されていないようです。私たちが先の本(Tiruvachakam?)を手に入れられるなら、聖マニッカヴァチャガールの人生の多くの物事と彼の多くの言葉や歌がより明らかになるようです。私たちはその本が手に入れられるのか問い合わせなければなりません」と発言しました。


 パラヤーナの後、バガヴァーンはヴィシュワナータ・アイヤルに、「どの場所を訪れたのですか」と尋ねました。ヴィシュワナータは、「私たちはグーハ・ナマーシヴァーヤールの洞窟、マンゴーツリー洞窟、ヴィルーパークシ洞窟、スカンダーシュラマムに行きました。私たちは新しい道を通って戻りました。その道はとてもよく作られているので、私たちは苦労せずに戻ることができました。それはとても素晴らしい坂です」と返答しました。バガヴァーンは、彼らがムライパール・ティールタムから近道を通って行ったのか尋ね、ヴィシュワナータは「はい」と答えました。バガヴァーンは言いました。「私が今それらの場所を見ると、当時は岩と石とトゲだらけだったそれらの場所に私たちはどうやって住んでいたのだろうかと思います。しかし、当時、私たちは非常に快適で、くつろいでいました。私たちは決して不便を感じませんでした。明かりはありませんでした。私たちは岩と低木だらけの中を暗闇の中でさえ歩いたものでした。ある人が言ったように、私たちは明かりと目の両方を足に付けていました」。私が講堂から少し離れたとき、ソーナ・ドラブジ嬢(彼女と彼女の父親は、アーシュラマムの頻繁な訪問者で、バガヴァーンの熱心な信奉者です)が私に、上の全ての洞窟をヴィシュワナータ氏に付き添ってもらったのは私です、と言いました。

46年1月26日 午前

 バガヴァーンは、マドヴァ学派についての本に言及しました。S.ラオ医師が棚から取り出し、以前はアンナーマライ大学所属のB.N.クリシュナムルティ・サルマという人による、「マドヴァの有神論的現実主義の、ある哲学的基礎」に関する2冊の小冊子を私に渡しました。バガヴァーンは、その紳士は一昨日来て、その小冊子を直接手渡したと言いました。「彼は来て、サンスクリット語で話しました。彼はティルヴァイヤールのサンスクリット大学の学長です。彼は全ての人がサンスクリット語で話すべきだと言います。彼は、たくさん読んだが、真理を実現することができないと言います。私たちは彼に私たちの本を読み、助けになるか確かめるように勧めました。彼はここからいくつか本を持って行きました」。

 バガヴァーンは、数分間その小冊子をあちこち調べました。しかし、彼は興味を持っておらず、「これは全て学者向けです」と言いました。ラオ医師が、ムクティを扱っている、ある文章を指摘しました。それは、ムクティの後でさえ、それぞれのジーヴァは個人性を保つと、ジーヴァの階層構造と共に、ムクティを得た人たちの間にいくつかの段階が存在する、など書かれています。ラオ医師は、「他者がいる限り、人は恐怖を持つでしょう。より高い段階がある限り、人はそれに達したいという欲望を持つでしょう。そのため、これは、唯一、完全な安らぎをもたらしうる、恐怖も欲望もない、かの段階のはずがありません」と言いました。バガヴァーンはこれを承認し、恐怖も欲望もない、かの至高の境地についてのサンスクリット語の聖句を引用しました。

 (すでに言及された)パンジャーブからの盲目のムスリムが、今日、再び講堂にやって来ました。バガヴァーンは、Swadesamitranで、ネロールの盲目の人についての記事をほんの数分前に読んだところでした。彼の年は41で、マドラスでマハートマー・ガーンディーのダルシャンを得ていて、シャンカラの注釈つきのギーターをまるまる復唱できました。このことは、このムスリムがコーラン全てを復唱できるので、この2つのケースの類似性について私たちを話す気にさせました。バガヴァーンはテルグ語の新聞、Zamin Ryotを読んでいて、ネロールのカナカンマとラクシュミー・バーイー(バガヴァーンの信奉者で、ここの頻繁な訪問者)によるテルグ語のいくつかの詩節を目にしました。彼はその詩節を切り取り、ファイルブックに張り付けるようにバララムに頼みました。「この詩節はここで去年のジャヤンティに作られ、読み上げられましたが、今新聞に発表されています」とバガヴァーンは私たちに言いました。タレヤーカン夫人の要望で、その詩節は今日、ナーガンマによって講堂で読み上げられました。昼食の鐘が鳴ったとき、バガヴァーンは盲目のムスリムについて言いました。「彼がお昼をとっていくのか確かめて下さい。もしそうなら、ヒンディー語を知る誰かが彼の世話を引き受け、彼と一緒にいなければいけません」。彼は私たちによって大切に世話されるでしょうと私たちが言って初めて、彼は満足しました。

午後

 タレヤーカン夫人の要望で、ナーガンマは、マートゥ・ポンガルの日にここで起こったことについての彼女の記述を読み上げ、バララムはそれを英語に翻訳しました。彼女はまた、9月のある日に起こったことについての別の記述も読み上げました。バンガロールの信奉者たちが2羽のハトを持ってきて、アーシュラマムで飼うようにバガヴァーンにお願いした時のことです。どのようにそのハトがバガヴァーンに優しくなでられ、彼の膝上に座るという大変な幸運を得たのか、どのようにほぼ1時間の間、彼らがサマーディにいるかのよう静かにしていたのかは、全てナーガンマによって美しく書き留められていて、バララム氏はこれも翻訳しました。

 私はマドヴァの哲学に関する小冊子を手に持っていて、バガヴァーンは私に、「それを読みましたか」と尋ねました。「これは私の興味を引きません。バガヴァーンがおっしゃられたように、それは偉大な学者だけの興味を引くのかもしれません。しかし、私が時々感じるように、この著者も、『どうして常に存在していないなら、現実として扱うことを拒否しければならないのか』と尋ねています」と私は言いました。バガヴァーンは、「束の間のショーでしかないものを、どうして現実であると言えますか」と言いました。講堂の誰かが、「この全ての問題は、英語への翻訳のために生じています。サンスクリット語の言葉はサティヤムで、その意味は、現実ではなく、常に存在するものです」と言いました。バララムもまた、「存在するものは、決して存在しなくならない。(どの時点においてでも)存在しないものは、存在していない(タミル語)」と書いてあるギーターを引用しました。しばらくして、スッブ・ラクシュミー・アンマル(ここの台所でずっと奉仕をしているバラモンの未亡人)が、「私はケーライ・パーティが住んだ洞窟を今まで見たことがありませんでした。それで、昨日、その場所を見に行きました」と言いました。バガヴァーンは、「あなたが見た洞窟はどれですか」と尋ねました。スッブは、「それはアーラマラトゥ・グーハイと呼ばれています。私はそれを見ました。私たち皆がスカンダーシュラマムから戻った日に、バガヴァーンが、『ケーライ・パーティが住んだのはここです』と言いました。それで、私はそれがその洞窟であると思いました」言いました。バガヴァーンは、「いえ。それは彼女が住んだ洞窟ではありません。彼女は近くのグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院のマンパタムにだけ住みました。今、アーラマラトゥ・グーハイと呼ばれる洞窟に私はしばらく住んでいました。当時、バニヤンの木はありませんでした。その木とヴィルーパークシ洞窟までの両側の全ての木は、後にスカンダーシュラマムを計画し、作ったカンダスワーミによって全て植えられ、水を与えらえました」と言いました。その後、バガヴァーンは昔を思い出して、言い足しました。「私が初めてやって来て、そこのスブラマンヤール寺院に座っていたときにさえ、このケーライ・パーティは大寺院にいました。彼女は寺院のサードゥに食べ物を提供していました。後に、彼女は、よく食べ物を送っていた、あるカンマラ(鍛冶屋)の女性からの食事を私に持ってき始めました。しばらく後、ケーライ・パーティを通じて送るのではなく、そのカンマラの女性自身が食べ物を私に持ってき始めました。当時、ケーライ・パーティには、大きなジャタ(もじゃもじゃの髪の房)がありました。私が後にヴィルーパークシ洞窟に住むようになったとき、彼女はグーハイ・ナマーシヴァーヤール寺院に住んでいて、その時、髪を全て剃り落としました。彼女はそこのマンタパムに住み、マンタパムの壁や柱に彫られたナマーシヴァーヤールなどの像を崇拝していました。僧侶が内部の像を崇拝しに来ていました。しかし、彼女は彼女が住むマンタパムの壁の像を崇拝し、食べ物を捧げました。彼女は朝起きて、小さな丘の上を散歩に出かけ、私たちのアーシュラマムが今ある場所に向かって進み、スカンダーシュラマムがある場所に立ち寄り、彼女の場所に下って行きました。その頃までに、彼女は燃料や牛の糞などを集め、背中の後ろでそれを束にしていました。膝の上には、料理のためのあらゆる種類の多くの青葉を集めていました。彼女はポットを一つだけ持っていました。まずそのポットで水を沸かし、沐浴しました。同じポットで、彼女は米を調理し、ソースを作り、彼女が持ってきた葉っぱなどの副菜を用意し、それぞれかわるがわる、その食べ物を壁や柱の像に捧げ、私に持ってきて、その後、彼女自身の食事をとりに行きました。午後、彼女は町に行きました。町で彼女が知らない家はありませんでした。彼女は様々なものを求めに行き、それらを得ました。私のところに来て、彼女は、『善良な人が割れた米を一握りくれました。これでおかゆを作りました』と言いました。

 「しかし、見に行ってみると、彼女の居場所には様々な蓄えと大きなポット満杯の割れた米があありました。彼女はそういった女性でした。彼女は私をとても気に入っていました。私も時折、彼女のところに行きました。私は彼女が青葉を、例えば、ワサビノキから集めるのを手伝ったりしました。私はまた、調理される前の準備として葉っぱをきれいにしたり、むしったりするのを時々手伝いました。時々、私はそこにいて、彼女と一緒に食べました」。彼女がいつ亡くなったのか私はバガヴァーンに尋ねました。「彼女は、私たちがここに来る前に亡くなりました。彼女はただここ(アーシュラマム)に、ダクシナームールティ寺院の反対側のタマリンドの木の下に、埋葬されました」と彼は言いました。

 パラヤーナが終わったすぐ後、午後6時15分ごろ、サルたちが(彼らが果物と木の実をねだりに来るバガヴァーンのそばの窓が閉まっていることを知り)、同じ側の戸口付近に来ました。その戸口を通って講堂から出たいと思った女性や子供たちは、怖がりました。これに関連して、ヴィシュワナータ・アイヤル氏がマンティという言葉を使い、それはオスのサルを意味すると言いました。私は、「それはその正反対を意味すると思いますが。ピッライ・ペルマール・アイヤンガーからのこれを見てください。タミル語(マンティは彼女の仲間に土の中から根っこを彼女にくれるよう頼んだ)」と言いました。そこで直ちに、ムルガナールが、マンティは一般的に両方の性別を、特に女性を意味するために使われると言いました。バガヴァーンは、タミル語(私はサルの子供のようではない)を引用し、「そこでは明らかに、母ザルに言及しているはずです」と言い、さらに、マンティという言葉が見い出されるTirupaaugazhからのある歌とパッティナタールのタミル語Udarkkotruvannam)からの別の歌を思い出しました。この2つの歌はすぐに選び出されました。最初の歌はPalani Vaguppuです。その中の言及された個所がバガヴァーンによって読み上げられ、私たちに説明されました。それはパラニの肥沃さを褒め称えたもので、「ビンロウジの木に座っているマンティが、近くのビャクダンの木の上の花々を見て、それらが蛇の頭だと思い、怖がって別の木に飛び移りました。そして、そのように明け渡された枝々は、初めに下に曲がり、次に上に上がり、近くのプランテインの木々に房になって垂れ下がっている完熟のプランテインの実にぶつかり、プランテインをばらまき、今度は(プランテインが)下にあるジャックフルーツ(パラミツ)の上に落ち、その中で作られた蜜を流し出せました。その結果、放たれた大量の蜜が川に流れ入り、隣接するシャンバガの木の森を潤しています」と書いてあります。この全てはバガヴァーンによって説明されました。前の場合にも、私たちの(国の)詩人たちが国の肥沃さを誇張する例としてバガヴァーンがこれを挙げたのを私は聞きました。パッティナタールの別の行も選び出されました。それらは(以下のように)なります。タミル語。バガヴァーンはこの歌を最後の最後まで読み、韻律に従って朗読しました。

2019年10月1日火曜日

バガヴァーンとの日々⑪ - 46年1月9日から46年1月21日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p101~113

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月9日 午後

 P.バナージ氏がバガヴァーンに尋ねました。「ジーヴァンムクティとヴィデーハムクティの違いは何ですか」。

 バガヴァーン: 違いはありません。尋ねる人たちのために、「体を持つジニャーニがジーヴァンムクタで、彼がその体を下すときヴィデーハムクティを得る」と言われています。しかし、この違いは傍観者にとってだけであり、ジニャーニにとってではありません。体が下ろされる前も後も、彼の境地は同じです。しかし、私たちはジニャーニを人間の形と、その形の中にいるとみなしています。しかし、ジニャーニは、彼が自ら、内側にも外側にもあり、どの姿形にも制限されない唯一の現実であると知っています。バーガヴァタの中に1詩節あり(ここでバガヴァーンはタミル語の詩節を引用しました)、「酔っぱらっている人が彼の上着が体にかかっているのか、体から滑り落ちたのか意識していないように、ジニャーニはその体をほとんど意識しておらず、体が留まろうと落ちようと彼にとって違いはない」と書いてあります。

 P.B.氏が尋ねました。「信奉者と弟子との違いは何ですか。ここのある友人が、私はバガヴァーンの弟子だと自称すべきではないと、私は信奉者にだけなれると私に言いました」。

 バガヴァーン: 私たちがある物や人を崇拝するなら、その時、私たちは信奉者です。私たちがグルを持つなら、その時、私たちは弟子です。

 バガヴァーンが弟子を取らない、つまり、誰も正式には手ほどきせず、そのため、人が「私はバガヴァーンの弟子だ」と言うなら誤解を招くかもしれないという理由から、彼の友人は彼にそのように言ったに違いないと私は加えて言いました。

 P.B.: しかし、私が彼の教えに従おうとするので、その教えを受け取り、私自身を彼の弟子だとみなしたらどうですか。

 「もちろん、エーカラヴヤがドローナの像から弓を学んだように、そうしてもいいでしょう」と私は答えました。

 バガヴァーンがそこで言い足しました。「ともかく、上の場合のように、全てのことは内からやってきます。はじめ、人は彼がサンサーラの束縛に捕らわれていると、彼が弱くみじめであると、全能であり、彼を救える神を頼り、助けを得なければ、束縛と悲惨から抜け出せないと感じます。そうして、彼はイーシュワラにバクティを行います。このバクティが成長し、彼の献身の熱心さがとても強くなり彼自身をまるごと忘れ、イーシュワラマヤになり、完全な委ねが達成されたとき、神が人間の姿を取り、グルとしてやって来て、唯一の自らしか存在しないと、それは彼の内にいると信奉者に教えます。それで、信奉者は彼の内なる自らを実現することによってジニャーナを得て、その時、彼が崇拝し、バクティを抱いたイーシュワラや主、人間の姿でやって来たグル、そして、自らが、全く同じであることを理解します」。

 P.B.氏の最初の質問は、実現についてバガヴァーンをさらに話す気にさせ、彼は言いました。「実現、ムクティに段階は存在しません。ジニャーナに程度は存在しません。そのため、体を伴ったジニャーナの段階と体が下ろされた時の別の段階はあり得ません。ジニャーニは、彼が自らであり、自ら以外、何ものも、彼の体も他の何ものも存在しないことを知っています。そのような人に、体の存在や不在がどんな違いをもたらせますか。

 「実現について話すことは誤りです。実現すべき何が存在しますか。現実のものは常に、あるがままにあります。どのようにそれを現実‐化するのですか。必要とされる全てはこれです。私たちは非現実を現実‐化、つまり、非現実のものを現実とみなしています。私たちはこの態度を放棄しなければなりません。それがジニャーナを得るために私たちに必要とされる全てです。私たちは新たなものを何も作り出そうとしておらず、私たちが以前持っていなかった何かを達成しようとしていません。本の中で示される例はこれです。私たちは井戸を掘り、巨大な穴を作ります。穴、井戸の中のアーカーシャ(空間)は、私たちによって作られていません。私たちはそこでアーカーシャを満たしていた土を取り除いただけです。アーカーシャはその時そこにあり、今もそこにあります。同様に、私たちは、私たちの内部にある長年のサンスカーラ全てを投げ捨てさえすればいいだけで、その全てが捨て去られたとき、自らのみが輝くでしょう」。彼はまた言いました。「ムクティ、ジニャーナ、ディヤーナは私たちの本質です。それらは自らの別名です」。

46年1月10日 午後

 バガヴァーンは、ヴェンカテーシャ・シャーストリガル氏が作ったタミル語の詩節(タミル語)を熟読していました。彼とその妻(サランマル)は、アーシュラマムに滞在していました。しかし、2週間前、彼らはアーディヤンナーマライに移り、そこで腰を落ち着けました。私とT.P.ラーマチャンドラ・アイヤルと他何人かが1月1日に山の周りを回ったとき、シャーストリアー氏とその妻は道の途中で私たちと出会い、私たちを彼らの家に連れて行き、そこで、私たちはそれらの詩節を読み上げてもらいました。それゆえ、その詩節は私たちにとって初めてではないと私は言いました。すると、シャーストリアー氏はその時の詩節は27節で、今は108節あると言いました。数日前、ヴェンカタラマ・アイヤル氏が、シャーストリアーとその妻が火曜日にここに来るつもりだと言う知らせをバガヴァーンに伝えました。バガヴァーンはこれを聞いた後、シャーストリアー宛にここに届いた手紙に関連して、「火曜日に彼らはここに来るようです。彼らがここに留まるのか戻るつもりなのか、私たちは分かりません」と言いました。シャーストリアーが講堂にやって来たとき、私はバガヴァーンの発言について彼に伝え、「私があなたにこれを話したのは、あなたがそこに移ったことを私も好んでいないからです」と言い足しました。バガヴァーンは、「彼らはアーディ・アンナーマライに行き、そこで住むつもりだと言いに来ました。私は何も言っていません。どうして私たちが干渉すべきなのですか。彼らは、アーシュラマムでのような制約や規制の下にいることなく、自由に住みたいのですです。彼らがどこにいようとも、彼らは心の安らぎを持たなければなりません」と言いました。

 ヴェンカテーシャ・シャーストリガル氏が滞在していた、アーディヤンナーマライについて言えば、バガヴァーンは、「それはいい場所です。私は時折、そこに滞在したものでした。ある時、ギリ・プラダクシナの途中で私たちは雨に降られ、そこの寺院に一晩中滞在しました。サーマ・ヴェーダの詠唱を聞いたのは、その時でした」と言いました。

46年1月11日 午後

 コロンボからの若者がバガヴァーンに尋ねました。「J・クリシュナムルティは、意図的な集中の方法とは違って、無努力かつ無選択の自覚の方法を教えます。どのように瞑想を行うのが最も良いか、どのような形を瞑想の対象がとるべきか、シュリー・バガヴァーンは説明して下さるでしょうか」。

 バガヴァーン: 無努力かつ無選択の自覚は、私たちの本質です。私たちがそれを得る、その状態にいることができるなら、問題ありません。しかし、努力なくして、意図的な瞑想という努力なくして、人はそれに到達できません。長年のヴァーサナー全ては、心を外側に運び、心を外的対象物に向けます。そのような全ての思いは放棄されねばねらず、心は内側に向けられねばなりません。そのためには、たいていの人々にとって努力が必要です。もちろん、全ての人が、全ての本が「スンマ・イル」、つまり、「静かにしなさい、じっとしていなさい」と言います。しかし、それは簡単ではありません。ですから、この全ての努力が必要なのです。たとえ「スンマ・イル」で示されるマウナ、至高の境地を即座に達成した人を私たちが見つけても、必要な努力がすでに前世で終わっていたと考えられます。したがって、無努力かつ無選択の自覚は、意図的な瞑想の後にのみ、到達されます。その瞑想はあなたが最も気に入るどんな形をとってもかまいません。他の全ての思いを遠ざけるには何があなたの助けになるか確かめ、その方法をあなたの瞑想として採用しなさい。

 これに関連して、バガヴァーンは、聖者ターユマーナヴァルの「タミル語」から詩節5と52、「タミル語」から36を引用しました。その要旨は、次の通りです。「あなたがじっとしていれば、至福が付き従うだろう。しかし、幾たびあなたがあなたの心にこの真理を伝えても、心は静かにしないだろう。静かにしようとしないのは、心である。『静かにしなさい、そうすれば、あなたは至福を得るだろう』と心に言うのは、心である。全ての聖典がそれを言っても、我々が偉大な人々から毎日それについて聞いても、そして、我々のグルさえもがそれを言っても、我々は決して静かにしておらず、マーヤーと感覚の対象物の世界に迷い込む。それゆえに、意識的な、意図的な努力、瞑想が、マウナの境地、静かにいる境地を得るために必要とされる。」

 コロンボからの別の若者がバガヴァーンに尋ねました。「意識の3つの状態は、現実性の程度において、4番目より、どのように劣っているのでしょうか。この3つの状態と4番目の実際の関係は何でしょうか」。

 バガヴァーン: ただ一つの状態、意識、自覚、実在のそれしか存在しません。目覚め、夢、眠りの3つの状態は、現実のはずがありません。それらはただ来ては去ります。現実のものはいつも存在するでしょう。3つの状態すべてで存続する「私」、実在のみ、現実です。他の3つの状態は現実ではなく、そのため、それらがこれこれの程度の現実性を持つと言うことはできません。私たちはこのように大雑把に言い表せるかもしれません。実在、意識が、唯一の現実です。意識プラス目覚めを、私たちは目覚めと呼びます。意識プラス眠りを、私たちは眠りと呼びます。意識プラス夢を、私たちは夢と呼びます。意識は、その上を全ての映像が行き来するスクリーンです。スクリーンは現実で、映像はその上の影に過ぎません。長い間の習慣によって、私たちはそれら3つの状態を現実とみなしてきたため、私たちは単なる自覚、意識の状態を第4のものと呼びます。しかしながら、第4の状態は存在せず、ただ一つの状態しか存在しません。

 これに関連して、バガヴァーンは、ターユマーナヴァルの「タミル語」から詩節386を引用し、このいわゆる第4の状態は目覚めた眠り、目覚めの中の眠りとして表現されている-つまり、世界に気付かず(asleep)自らに気付いている(awake)、と言いました。

 O.P.ラーマスワーミ・レディヤール(議会議長)がバガヴァーンに尋ねました。「しかし、この3つの状態が、現実の状態、自らなるスクリーン上をどうして行き来しなければならないのですか」。

 バガヴァーン: 誰がこの質問をしますか。これらの状態が行き来すると自らが言いますか。これらの状態が行き来すると言うのは、見る者です。見る者と見られる物は共に心を構成しています。心というようなものがあるのか確かめなさい。その時、心は自らに溶け込み、見る者も見られる物も存在しません。それで、あなたの質問への本当の答えとは、「それらは行き来しますか。それらは行くことも来ることもありません」です。自らのみが常にあるがままにあり続けます。3つの状態は、その存在を「アヴィチャーラ(無-探求」」に負っていて、探求がそれらに終止符を打ちます。どれほど説明しようとも、人が自らの実現を得て、どうして自明の唯一の実在に長らく気づかなかったのかと思うまで、その事実は明らかにならないでしょう。

 別の訪問者がバガヴァーンに、「心と自らの違いは何ですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: 違いはありません。内側に向けられた心が自らです。外側に向けられれれば、それは自我と全世界になります。様々な衣服にされた綿を、私たちは様々な名前で呼びます。様々な装飾品にされた黄金を、私たちは様々な名前で呼びます。しかし、全ての服は綿で、全ての装飾品は黄金です。一は現実で、多は名と形に過ぎません。

 しかし、心は自らから離れて存在しません、つまり、それは独立して存在しません。自らは心なしで存在しますが、決して心は自らなしでは存在しません。

46年1月18日 午前

 今日はタミル語(タイ・プーサム)の日です。このことは、どうしてラーマリンガ・スワーミの名声がその日に祝われるのか、彼はタイ・プーサム(の日)に騒々しいこの世を去ったのか、私を尋ねる気にさせました。バガヴァーンは分かりませんでした。私はまた、正確にはどのようにラーマリンガ・スワーミが地上の生を終えたかに関して、バガヴァーンが何か確かなことを知っているのか知りたくなりました。バガヴァーンは、これについても何も言いませんでした。

午後

 シュリーマッド・バーガヴァタムの英語の縮小版の中で、プリトゥが、(体が)構成されている複数の要素に体を溶け込むままに任せたと書いてあるのを私は見つけました。これはラーマリンガ・スワーミについて一般的に報告されていることにとてもによく似ているように思えたので(つまり、彼が部屋に入り、自分自身を閉じ込めたこと、数日後、部屋がこじ開けられたとき、空っぽだったこと)、「実現した」方々は体をそのように消し去ることができるのか私はバガヴァーンに尋ねました。彼は言いました。「本は、ある聖者たちは、彼らを連れてくるために特別に送られた象などに乗って、その体とともに天に赴いたと私たちに言います。それら(の本)はまた、光や炎として、アーカーシャやエーテルとして、石のリンガムとして聖者たちが消え去ることについて話します。しかし、覚えておくべきことは、この全ては傍観者の視界の中にのみあるということです。ジニャーニは彼が体であると思っていません。彼は体を見さえもしません。彼は体の中の自らのみを見ます。もし体がそこになく、自らのみあるなら、どの形であれ、その消失の問題は起こりません」。これに関連して、バガヴァーンは、46年1月9日の項目ですでに言及されたバーガヴァタムからのタミル語の詩節を再び引用しました。そして、今回、彼はその本からサンスクリット語の詩節とタミル語の詩節を両方を私たちに抜き出させました。私は以下にその2詩節を記載します。

タミル語の詩節

サンスクリット語の詩節
(バーガヴァタム、11章、ハムサ・ギーター、22)

(この詩節の意味は、113ページに記載されます)

 バガヴァーンは言い足しました。「死に際して体が後に残される者は誰もジニャーニと呼ぼうとしない、ある思想学派があります。ジニャーニが体をそのように重要視すると思うことは不可能です。しかし、そのような学派があります-シッダ学派です。ポンディチェリで、彼らは協会を持っています」。このすぐ後、ポンディチェリからの17才ぐらいの青年が来て、バガヴァーンに尋ねました。「プラナヴァの音を聞いた後、人が達すべき、それを超えた段階とは何ですか」。バガヴァーンは言いました。「そのプラナヴァを聞くのは、超えた段階について話すのは、いったい誰ですか。確かめ、見出しなさい。そうすれば、全てが明確になるでしょう。プラナヴァとは何ですか。あなたが話すプラナヴァを聞くことを超えた段階とは何ですか。どこにありますか。その全てのことを私たちは知りません。しかし、あなたはいます。そのため、あなた自身、見る者についてはじめに見出しなさい。そうすれば、全てが知られるでしょう」。

 青年は再び尋ねました。「私はムクティへの道とは何か知りたいのですが」。

 バガヴァーン: それは結構なことです。しかし、ムクティとは何ですか。私たちが道なるものについて話せるように、それはどこにあり、あなたはどこにいますか。両者の距離はどれほどですか。まずはあなた自身について、そして、あなたがどこにいるのか見出しなさい。その後、これらの質問が生じるのか確かめなさい。


 会話は、カーヤ・カルパについて様々な人々によって提案される様々な調理法に向かいました。バガヴァーンは、樟脳、樹齢100年のニームの木などに基づいた2、3のカルパに言及し、言いました。「誰がこの体にそんなにも手間をかけたいと思うのですか。本の中で説明されるように、私たちが持つ最大の病は、体、タミル語(誕生なる病)です。人が体を丈夫にし、寿命を延ばすために薬をとるのなら、それは病気を強め、永続させるために薬をとる人のようです。体は私たちが担う重荷であるため、荷物を運ぶことに従事し、重荷を振り捨てられる目的地への到着を切に願うクーリー(日雇い労働者)のように私たちは逆に感じるべきです」。

46年1月19日

 バガヴァーンは、タイ・プーサムとラーマリンガ・スワーミについての私の質問への答えが、今日のBharata Deviに出ていると私に言いました。そこには、スワーミがタイプーサムの日に、死に備えて部屋に入ったと書いてあります。スワーミをマハートマー・ガーンディーと比べ、彼(スワーミ?)Arutpaから主に引用した長い記事をヴィシュワナータ・アイヤル氏が読み上げました。

午後

 昨日、私はバガヴァーンに、バーガヴァタムの11章からのサンスクリット語の詩節をタミル語に翻訳してはどうかと提案しました。タミル語の詩節がサンスクリット語の原文にきっちり従っていないと彼が感じていたからです。それで、今日、講堂でムルガナールを見て、それについて彼と話しながら、彼は手に紙やペンを持たずに以下の詩節を何気なく作りました。

タミル語の四行詩

(この詩節の英訳は、113ページに記載されます)


 バガヴァーンは、タミル語訳を改良し、それを原文のサンスクリット語に近づけたいと思いました。彼はムルガナールといくつか変更を検討し、上の詩節を最終的なものとみなしてはいけないと私に言いました。

46年1月20日

 バララム・レッディ氏が、その翻訳が「タミル語」で始まるReality in Forty Versesへの補遺の中にあるサンスクリット語の詩節についてバガヴァーンに尋ね、バガヴァーンは、どのように彼がAbhavamという言葉を使い、カーヴヤカンタがAbhedamのほうを好んだか説明しました。バガヴァーンは、この詩節は、体は「私」でないという主張を二つの方法で確立しようと努めているとさらに私たちに言いました。第一に、体がジャーダ(意識がない)であり、決して「私」と感じたり、言ったりできないと言うことによって、第二に、私たちが体を持たないとき、つまり、体の意識を持たないときでさえ、「私」が存在すると言うことによって。この詩節についての会話は、以下の状況下で始まりました。モロッコのベルナルド・デュバルという人が、8年ほど前、15日間ぐらいここにいたようです。彼は、この戦争の間に捕虜でいたときにサンスクリット語を学び、バガヴァーンのウパデーシャ・サーラムを英語に翻訳しさえしたこと、後に彼がその全ての書類を失ったこと、バガヴァーンの全てのサンスクリット語の作品を彼に送っていただきたいということを、(今では10年間アーシュラムに住んでいる)A.W.チャドウィック少佐に最近、手紙で知らせました。デュバル氏のこの要望に関係して、バララムは、バガヴァーンによってサンスクリット語で作られた全ての作品は何か調べ出そうしていて、バガヴァーンは上の詩節もまた彼によって作られたとバララムに話したようです。

 ヴィシュワナータ・アイヤル氏の母親が来て、バガヴァーンに、「ナーガンマが、マートゥ・ポンガルの日にゴーシャラでアーシュラムの中で起こったことについてテルグ語で報告を書いてます。それはとても良いものです」と言いました。バガヴァーンは、「そうですか。彼女の兄はここで起こることの報告を彼女に書くよう頼んでいます。彼女はここにいますか」と言いました。そこで直ちに、私たちはナーガンマにそれを読み上げるように頼み、彼女はそうしました。バガヴァーンは、ヴィシュワナータの母にRamana Gopalaを読んだことがあるか尋ねました。彼女は、「私は息子がしたタミル語の翻訳しか読んでいないので、テルグ語の原文が聞きたいです」と言いました。そこで直ちに、私たちはナーガンマにテルグ語版を読み上げるように頼み、それは行われました。

 ボンベイの公認会計士、ゴクール・バーイー・D.バット氏という人が、バガヴァーンに関する詩節をいくつか作り、講堂で読み上げました。私の要望で、彼はまた、講堂に集まった全員のためにそれを翻訳しました。チットゥールから公務員(?)検査官のゴーヴィンダラーマイヤという人が、バガヴァーンの許しを得て、賢者アンギラサのGurupadakaを読み上げました。彼はそうするようスブラマニア・シャーストリという人に勧められたようです。その人は、80歳を超える、とても高齢のジニャーニで、もともとはコンジーヴァラム(カーンチープラム)の住人で、ラーマイヤは最近アンバトゥールで彼に会いました。

 今朝、10時ごろに講堂に戻る前に、バガヴァーンはラーマスワーミ・アイエンガー氏という人に牛小屋の近くでダルシャンを与えました。どうやら彼は、数年間、クンバコーナムでラマナーシュラマムのようなものを開催しているようです。彼は今や年を取り、衰えていて、彼がしたとされる様々な悪行のためにバガヴァーンに近づくことをサルヴァーディカーリが彼に禁じていた、長年の後、大変苦労してバガヴァーンに会いに来ました。この気の毒な人は牛小屋に運びこまれた彼の車の中に留まらなければならず、バガヴァーンは、講堂へ行く途中、車の近くに数分立ち、彼の古くからの弟子にダルシャンを与えました。その弟子はただ泣くばかりで、何も言いませんでした。バガヴァーンは、彼のよく知られる恵み深い表情の一つで彼を見ました。

午後

 私は講堂に行くのがとても遅くなりました。しかし、午後の散歩に行く前に、バガヴァーン自身が私に、「あなたは私たちがあの詩節に与えた最終的な形を見てませんね」と尋ね、私に以下を見せました。

タミル語の四行詩

(この詩節の英訳は、113ページに記載されます)


 私は(上の詩節の)一行目のタミル語を「空に上っている」と理解していたので、どうしてそれが適当なのかバガヴァーンに尋ねました。しかし、彼はそれはただ「動いている」を意味するだけだと説明しました。彼はまた私に、「私たちはサンスクリット語で簡潔にそれを知っています。しかし、Sita Rama Anjaneya Samvadamの中で、それはとても入念に詳しく述べられています」と言いました。この発言は、昨日、バガヴァーンが、タミル語のバーガヴァタムの中でサンスクリット語の詩節に対応するものを何も見つけられなかったとき、G.スッバ・ラオが、テルグ語のSita Rama Anjaneya Samvadamの中で同じことが起こったのを思い出したと言ったことによります。今日、その本が取り出されて、関連する部分がバガヴァーンに見せられました。バララム・レッディは、Sita Rama Anjaneya Samvadamとテルグ人との関係は、Kaivalyamとタミル人の関係と同じだと私に言いました。

 クンジュスワーミが講堂に到着したとき、クンバコーナムのラーマスワーミ・アイエンガーは出発したのか、彼はどうする予定なのか、バガヴァーンは彼に尋ねました。クンジュは、ラーマスワーミは健康を回復するまで1、2か月パラコットゥに滞在する予定であると、他の人たちのみが翌日に帰るだろうと言いました。

46年1月21日

 ゴクール・バーイーが、グジャラート語のラマナ・ギーターの第11章、次に、グジャラート語のウパデーシャ・サーラムを読み上げました。P.C.デーサーイー氏がバガヴァーンに頼みました。「第14詩節で、彼らはサンスクリット語の詩節の2行目を『心が継続的に自らの瞑想に定められるなら』などと翻訳しました。原文には『継続的に』も『自ら』も見つからない以上、それは問題ないのでしょうか」

 バガヴァーン: エーカ・チンタナは、継続的な思いを伴います。他の思いがやって来ないとするなら、ただ一つの思いが継続的でなければなりません。その詩節の意図するところは次のようです。前の詩節では、心を制御するためには、呼吸の制御、プラーナーヤーマが役立つかもしれないと言いました。この詩節は、そのように制御下に、ラヤの状態に連れ行かれた心は、単なるラヤ、眠りのような状態にいるままにしておくべきでなく、エーカ・チンタナ、一つの思い-その思いが自らについてであってもイシュタ・デーヴァターやマントラムについてであっても-に向かわせるべきだと言います。その一つの思いが何になるかは、それぞれの人のパクヴァ、適性によるでしょう。その詩節は、それを一つの思い(という表現)に留めています。

 デーサーイー氏は、次の版のグジャラート語の第14詩節が訂正されるべきか、今のままでもいいのか知りたいと思いました。バガヴァーンは何も言いませんでした。彼はその問題について十分話していました。(私は、2行目に「継続的な」を導入しても差し支えないだろうが、原文の中でバガヴァーンが言った全ては、ラヤに連れて行かれた心をエーカ・チンタナ、一つの思いに取り組まさせなければならないということなので、「思い、または、自ら」を取り入れることは正当化できないと判断しました)。


 46年1月20日の項目に書き留められたタミル語の詩節を作ることにバガヴァーンがまだ従事しているとき、バララム・レディ氏はテルグ語でも詩節を作るように彼に願いました。それで、バガヴァーンは作り、バララムといくつか選択肢を話し合いました。私は再び、タミル語の詩節の一行目の意味についてバガヴァーンに、「『体がある場所に留まっていても、動き回っていても、それは永続しない」と言っても意味がないように思えますが」と尋ねました。そこで直ちに、彼は私に、一行目はその全体が一つの文であるかのように読まれるべきでないと、一行目は行の半分で止まるべきだと言いました。詩節の正しい理解のために、私は以下に直訳を載せます。

 「体は永続しない(現実でない)。それが止まっていても、動き回っていても、プラーラブダのために、それが彼に張り付いていても、彼から滑り落ちていても、自らを実現したシッダはそれに気づいていない。あたかも酔いによって目がくらんだ酔っ払いが、彼の服が身に付いているのかいないのか気づいていないように。」

2019年9月22日日曜日

バガヴァーンとの日々⑩ - 46年1月3日から46年1月8日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p90~101

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

46年1月4日 午前

 受け取った手紙などの中に、D.C.デーサーイーによるDivine Grace Through Total Self-Surrenderと呼ばれる小冊子がありました。バガヴァーンはそのいくつかの抜粋を私たちに読み上げました。以下の引用はポール・ブラントンからです。「私は全く穏やかで、私が誰で、何が起こっているのか完全に気づいたままいます。自らはいまだ存在しますが、それは変化した輝かしい自らです。私の取るに足りない人格よりはるかに優れた何かが意識に生じ、私になっています。私はきらめく光の大海のただ中にいます。私は聖なる至福の膝の上に座っています」。以下もまた(そうです)。「神聖な恩寵とは、活動中の広大無辺な自由意志の(一つの)顕現です。それは、全ての自然法則に優越する独自の知られざる法則を通じて、不可思議な方法で出来事の流れを変更でき、相互作用によって自然法則を変更できます。それは森羅万象の中で最も強力な力です」。

 「それは、完全な自らの委ねによって呼び起こされたときにのみ、降り立ち、働きます。それは内から働きます。なぜなら、神は全ての存在のハートに住まうからです。そのささやきは、自らの委ねと祈りによって清められた心の中でのみ聞けます。」

 ポール・ブラントンはその性質を以下のように描きます。「合理主義者はそれを笑い、無神論者はそれをあざけりますが、それは存在します。それは魂の意識の領域への神の降下です。それは予期せぬ予知できない力の訪れです。それは広大無辺な沈黙の声の表明です...それはそれ独自の法則下で本物の奇跡を行える広大無辺な意思です」。

午後

 サイード博士が、今月のVisionからバガヴァーンにスーフィーの物語を読み上げました。その教訓は、師の指示への絶対的な、疑わない信頼と服従がなければならない、ということです。

 他の全員が彼(ガズニ)の宝石を壊すというムハンマド・ガズニの命令に従おうとしなかったとき、一人の従者が躊躇なくそれを壊し、他の人々にそれを責められたとき、「私の師の命令より私にとって貴重なものは何もありません」と言いました。私はこのことでラーマーヌジャの人生の以下の出来事を思い出し、それをサイード博士たちに話しました。ランガナータ神がシュリーランガムでの行進に持ち出されていたようで、ラーマーヌジャは出てきて、行進を見るよう弟子に呼びかけました。その弟子はラーマーヌジャの牛乳を煮ていて、どれほど呼ばれても出てこようとせず、後で彼の師に説明しました。「ランガナータはあなたの師で、彼はあなたにとって重要です。あなただけが私にとって重要なので、私はあなた(へ)の奉仕、つまり、あなたのために牛乳を煮ることををやめて、ランガナータを見に行くことはできませんでした」。

 1946年1月3日の午後のデーサーイー夫人の質問へのバガヴァーンの答えに関連して、私は彼に尋ねました。「本業や専門職というような、人生の中の重要な出来事だけあらかじめ決定されているのですか、それとも、水を一杯飲むや部屋のある場所から別の場所に動くというような、人生の中の取るに足りない行為もまた、あらかじめ決定されているのですか」。

 バガヴァーン: ええ、あらゆることがあらかじめ決定されています。

 私: では、人はどのような責任、どのような自由意思を持つのですか。

 バガヴァーン: では、何のために体は存在するようになりますか。

 それはこの人生で遂行するよう運命づけられた様々な物事を行うために用意されています。全てのプログラムが計画されています。「タミル語(わずかなものもの意思以外によって動かない)」は、あなたが「タミル語の意思以外によって動かない)」や「タミル語(カルマ以外によって動かない)」と言おうとも、同じ真理を表します。人間にとっての自由に関して言えば、彼は彼自身を体と同一視しない、体の活動の結果起こる楽しみや苦しみによって影響されないことが自由にできます。

46年1月5日 午後

 私が講堂に入ったとき、バガヴァーンは何か質問に答えているところで、「夢が短く、目覚め(の状態)が長いこと以外、夢と目覚めの状態に違いはありません。共に心の結果です。目覚めの状態が長いために、私たちはそれが私たちの真の状態であると想像します。しかし、実際のところ、私たちの真の状態とは、時にトゥリーヤ、第四の状態と呼ばれるものです。それは常にあるがままにあり、3つのアヴァスター、つまり、目覚め、夢、眠りについて何も知りません。私たちがこれら3つをアヴァスターと呼ぶため、私たちは第四の状態もトゥリーヤ・アヴァスターと呼びます。しかし、それはアヴァスターではなく、自らなる真の自然な状態です。これが実現されるとき、私たちはそれがトゥリーヤ、第四の状態ではなく-なぜなら、第四の状態は相対的でしかありません-、トゥリーヤーティータ、第四の状態と呼ばれる超越的状態だとを知ります」と言いました。

 ある訪問者がバガヴァーンに尋ねました。「聖職者は様々な儀式やプージャーを定め、断食やごちそうなどと共にそれらを適切に順守しなければ、罪が生じるだろうなどと人々は言われます。そのような儀式や儀式的崇拝を順守する必要性はありますか」。

 バガヴァーン: ええ。そのような崇拝すべてもまた必要です。それはあなたに必要ではないかもしれません。しかし、そのことは、それが誰にも必要ではなく、全く何の役にも立たないということを意味しません。幼児教室の生徒に必要なものは、大学院生には必要ありません。しかし、大学院生さえも彼が幼児教室で習ったまさにそのアルファベットを使わなければなりません。今や、彼はアルファベットの使い方と意義を十分に知っています。

 同じ訪問者が、「私はオームカーラ・プージャーをします。私はオーム・ラムと言います。それは良いですか」と尋ねました。

 バガヴァーン: ええ。どのプージャーでも良いのです。オーム・ラムや他のどの名前でも結構です。要点は、オームやラムや神という一つの思い以外の他の一切の思いを遠ざけることです。全てのマントラやジャパはその手助けをします。例えば、ラムのジャパをする彼は、ラーマ・マヤになります。崇拝する者が、やがては崇拝されるものになります。その時になってはじめて、彼が繰り返し唱えていたオームカーラの完全な意味を彼は知ります。

 私たちの本質はムクティです。しかし、私たちは束縛されていると私たちは想像していて、自由になるための様々な骨の折れる試みを行っています。私たちはその間中ずっと自由なのにもかかわらず。これは私たちがかの段階に達した時になってはじめて理解されるでしょう。私たちは、私たちがいつも私たちであったもの、そして、(今も)私たちであるものを必死に得ようとしていたことに驚くでしょう。一つの例で、これが分かりやすくなるでしょう。ある人がこの講堂で眠りに落ちます。彼は世界旅行に出かけ、様々な大陸を横切り、山や谷、森や国、砂漠や海を放浪し、長い年月の難儀な骨の折れる旅の後、この国に帰ってきて、ティルヴァンナーマライに到着し、アーシュラマムに入り、講堂に歩み入るという夢を見ます。ちょうどその時、彼は目を覚まし、彼が少しも動いておらず、彼が横になったところで寝ていたことに気づきます。彼は大変な努力の後でこの講堂に帰ってきたわけではなく、講堂に今までずっといました。それはまさにそのようです。自由であるのに、どうして私たちは自分たちが束縛されていると想像するのか問われるなら、私は、「講堂にいるのに、どうしてあなたは自分が山や谷、砂漠や海を横切り、世界を冒険中だと想像したのですか。その全ては心、マーヤーです」と答えます。

 シュリー・オウロビンドー・アーシュラムから(来た)と言う別の訪問者が、バガヴァーンに尋ねました。「しかし、我々は世界で苦しみを見ます。ある人は空腹です。それは身体的な事実です。それは彼にとってとても現実的です。私たちはそれを夢と呼び、彼の苦しみに心動かされずにいるべきなのですか。

 バガヴァーン: ジニャーナ、現実の視点からは、世界と同様に、世界のごくわずかの部分である、あなたが言う苦しみは確かに夢です。夢の中でも、あなた自身が空腹を感じます。あなたは他の人が空腹で苦しんでいるのを見ます。あなたは食事をとり、憐れみに心動かされ、空腹で苦しんでいることに気づいた他の人たちに食事を与えます。夢が続く限り、あなたが今、世界で見る苦しみを現実的だと思うのと同様に、その全ての苦しみは非常に現実的です。目覚めて初めて、夢の中の苦しみが現実ではないことをあなたは発見します。あなたはたっぷり食べて、眠りについたかもしれません。あなたは夢を見て、灼熱の太陽が一日中照りつける中、長時間、懸命に働き、疲れて、空腹で、たくさん食べたいと思います。その時、あなたは目覚め、お腹一杯でベッドから少しも動いていないことに気付きます。しかし、だからと言って、あなたが夢にいる間に、そこであなたが感じる苦しみが現実でないかのようにあなたが振る舞えると言っているのではありません。夢の中の空腹は夢の中の食べ物で満たされなければいけません。夢の中でとてもお腹が減っているとあなたが気付いた仲間たちには、その夢の中で食べ物が与えられなければなりません。あなたは、二つの状態、夢と目覚めの状態を決して混同できません。あなたがジニャーナの境地に達し、そうして、このマーヤーから目覚めるまで、あなたが苦しみを見る時はいつでも、苦しみを和らげることで社会奉仕をしなければなりません。しかし、その時でさえ、私たちに言われるように、アハンカーラなしに、つまり、「私が行為者である」という感覚なしに、「私は主の道具である」と感じながら、それを行うべきです。同じように、あなたは、「私は自分より下にいる人を助けている。彼には助けが必要だ。私は助ける立場にいる。私は優れていて、彼は劣っている」と思い上がってはいけません。そうではなく、その人の中の神を崇拝するための手段として、あなたはその人を助けなければいけません。そのような奉仕すべても自らのためであり、他の誰のためでもありません。あなたは他の誰でもなく、ただあなた自身だけを助けているのです。

 T.P.ラーマチャンドラ・アイヤルが、これに関連して言いました。「エイブラハム・リンカーンの古典的な例があります。彼は豚が溝から出るのを助け、その過程で彼自身と服を汚してしまいました。彼がどうしてそんなにも労を費やしたのか尋ねられた時、彼は、『私は豚の問題を終わらせるためというよりもむしろ、気の毒なやつが溝から出ようともがいているのを見ることの自分自身の苦しみを終わらせるためにそれをしました』と答えました」。

 ジョーシー氏: 私は世帯主です。私には霊的成長の行く手をふさぐ扶養家族と障害物があります。私はどうすべきでしょうか。

 バガヴァーン: その扶養家族と障害物があなたの外にあるのか、それらがあなたなしに存在するのか確かめなさい。

 ジョーシー氏: 私は初心者です。私はどのように始めるべきでしょうか。

 バガヴァーン: あなたは今どこにいますか。どこが目的地ですか。進まなければならない距離はどれほどですか。自らは到達されるべきどこか遠くにありません。あなたはいつもそれです。あなたはただ、あなたの習慣、あなた自身を自らならざるものと同一視する、長年の習慣をやめさえすればいいのです。一切の努力はそのためだけにあります。心を外側に向けることにより、あなたは世界を、自らならざるものを見つづけています。あなたが心を内側に向けるなら、あなたは自らを見るでしょう。

 この会話の後、ローカンマがタミル語の歌を歌い始めました。バガヴァーンがただちに言いました。「母がこの歌をしょっちゅう歌っていました。これは今、私たちが話していた、まさにそのことを繰り返しています」。そこで直ちに、私はバガヴァーンにその歌の作者は誰か尋ねました。

 彼は言いました。「アヴダイ・アンマルです。彼女は非常に多くの歌を作りました。それはあれらの地域(マドゥラや近辺の他県)でとても人気があります。そのいくつかは出版されています。それでも、とても多くが出版されないままです。それは世代から世代へ、主に女性を介して、口頭で受け継がれてきました。彼女達は他の人たちから歌を聞き、すでに歌を知っている人たちと一緒に歌い、歌を暗記します」。私はバガヴァーンの母親が読み書きができなかったことを今、知りました。バガヴァーンは、それにも関わらず、彼女は大変多くの歌を暗記していたと私に言いました。その歌と意味が以下に記されます。

(タミル語の歌)

常に意識かつ至福である
自らがどうして
どうして今まで、あたかもこれを
忘れていたかのように振る舞ったのか
摩訶不思議、理解を越えているのは
あなたのおかしな恐れ
私の白鳥、私の愛しい人よ
私へのあなたの恐れ!
心は学び、知り、忘れ
体はもうけられ、生まれ、死ぬ
どこからこの不浄が清浄の中に
大、小、階級、地位、光景、見る者-
どうしてこの薄暗い波が深淵なる至福の海に?
言葉も沈黙の誓いも必要ない
行くことも来ることもない、始まりも終わりも中間もない
光もなく、音もない、特性がない
分離がなく、それゆえ、恐れがない
おお、摩訶不思議、夢の中のように見える物事!
内も外も、高きも低きも、十方すべても
光の中に失われた-無限に広大で
壊れえず、支えられず、完全で穏やかな(光の中に)
純粋な意識、不変の至福
かつては遠く遥かなもの、目的地に思い焦がれていた
今やここに、歓喜、歓喜が!

46年1月6日 朝

 (「Who」として知られる)ラクシュマナ・サルマ氏が来ました。バガヴァーンは、サルマ氏が彼の(サンスクリット語の)ヴェーダーンタ・サーラムの英訳を書き出したノートに目を通していました。私はこのヴェーダーンタ・サーラムが何を扱っているのか知りたくなり、サルマ氏の息子、カメーシュワランにそれについて尋ねていました。バガヴァーンがこれを聞き、私のほうを向き、「これはマハー・ヨーガと同じです」と言いました。

 サルマの誕生日について会話があり、バガヴァーンが「彼はいつも、日々生まれていると言っています」と言い、Reality in Forty Versesという題で英語に翻訳されているタミル語のUlladu Narpaduへの補遺の第11詩節に言及しました。この歌を調べるために、彼は「タミル語」(タミル語のCollected Works)を彼のそばの回転棚から取り出し、それを戻す前に、虫食いが表紙の上で仕事をしていたことを見つけました。彼は、「私たちはこれらの本を学んでいませんでした。それで、この虫たちがそれを咀嚼(食べる、読む)していました」と述べました。

午後

 L.サルマ氏が来て、私の隣に座りました。今朝、私は彼から3フィートぐらいしか離れていなかったのに、彼は私だと分かりませんでした。そのため、私は彼に白内障の手術を受けるよう勧めていました。彼は、この病気などの進行を遅らせることができていて、将来もまたそのようにできるなら、手術の危険を冒すよりも部分的な視野で残りの人生をやっていくだろうと言いました。それで、私は彼にそれは全く彼にさらにどれだけ寿命があるか次第だと言い、これに関連して、この件に関する彼のホロスコープの解釈はどうなのか尋ねました。そうして、私たちは占星術について話し、私はバガヴァーンに占星術についての見解を尋ねました。彼は、「問題ありません(タミル語)。どうしていけませんか。人がカルマの理論を受け入れるなら、占星術やホロスコープの理論も受け入れなければならないでしょう」と言いました。この後、サルマ、サイード博士、G.スッバラオと私自身は、占星術の科学について、私たちの未来などを知ることが役立つのか、意義があるのか話しました。そして、スッバ・ラオ氏は、占星術の関する書籍の中でホロスコープに従って起こると定められていることは、償いのためのプージャーなどによってある程度変更されうると明確に主張されていると私たちに言いました。S.ラオ氏はさらに続けて、どのようにバガヴァーンのような人々の御足のチリさえもが、どのように彼らからの一瞥が私たちの全ての罪などを焼き払えるのか言いました。これについて私は、「私もまた、サット・サンの美徳を称揚する、これらの著作の中のいくつかを目にしました。私はこれらの著作が文字通り真実として理解されるべきなのか、その中にはいくらか誇張がないのか知りたい思うのですが」と尋ねました。S.ラオ氏は、それらは文字通り真実だが、人は信仰を持たなければならないと言いました。そこで、私は、もしそうであるなら、サット・サンについてのそれらの聖句に責任がある人たちは、どうして彼ら自身で但し書きを付け加えずに、S.ラオ氏のような注釈者たちにそれを加えるのを任せるのか彼に尋ねました。そうして、私たちの幾人は数分間論争しましたが、そのような機会にいつもそうであるように、バガヴァーンは慎重に黙ったままでした。その後、私たちも黙りました。前に一度、Reality in Forty Versesへの補遺の中のサット・サンに関する5つの詩節に関連して、私はその質問をバガヴァーン自身にして、バガヴァーンは「タミル語」、つまり、「私は(サンスクリット語の)その詩節を見つけたから翻訳したんです。分かりません!」と言っただけでした。

46年1月7日 午前

 マハタニ氏がバガヴァーンに尋ねました。「Advaita Bodha Deepikaでは、心とそれ自体を同一視した至高の自らは、変化に富むように見えると言われています。それ自体が自らに由来するマーヤーに由来している心が、どうして不変の自らを変更、変化させることができるのですか」。バガヴァーンは、「実際には、変化はなく、創造はありません。しかし、『この創造はどのように生じたのか』と尋ねる人たちのために、上の説明が与えられています」と答えました。

午後

 バンンガロールのラーマチャンドラ・ラオ氏が、The Ramana I have knownという題の作られたばかりの彼のカナラ語の著作をバガヴァーンの前で読みました。彼が読み終えた後、彼が初めてバガヴァーンのもとに来たのはいつか私は彼に尋ね、彼は「1918年です」と言いました。それから、私は、彼がそれ以降の彼の全ての体験を話しているのか、彼が何かメモや備忘録の助けでそのようにしているのか彼に尋ねました。彼は1918年以来起こった全てについて書いていて、記憶のみからだと彼は返答しました。私はそのような記憶力に驚嘆していました。バガヴァーンは、「ナーヤナ(カーヴヤカンタ・ガナパティ・ムニ)なら、彼が居合わせたあらゆる出来事の日時を覚えていて、あなたに教えるでしょう」と言いました。


 G.L.サルマ氏は、ギータ・サーラムに関する原稿を用意したようです。バガヴァーンは、バララム・レッディ氏にそれを読み上げるよう頼みました。その中で、「完全な献身があるときにのみ、主は応え、信奉者を完全に引き受けるだろう」と言われていたので、(オウロビンドーの(アーシュラム)での滞在の後、最近やって来た)P.バナージ氏がバガヴァーンに尋ねました。「人が完全に献身的でなければならないというのは、主が恩寵を示すための先行条件なのでしょうか。献身的であろうとなかろうと、主は自然にその恩寵において彼の子供全員に対して恵み深いのではないのでしょうか」。

 バガヴァーン: どうして人が献身的でなくいれますか。全ての人が彼自身を愛しています。それが体験です。仮に自らが彼の最愛の対象でないなら、人はそれを愛するでしょうか。自ら、主はどこか別の場所にいるのでなく、私たち各々の内側にいます。自分自身を愛することで、人は自らのみを愛しています。

 その訪問者は、どうしてこれが彼の質問への答えなのか理解できませんでした。私は、「バガヴァーンは一度ならず、『主の恩寵はいつも流れています。それが流れていない時は、それが注がれていない人は存在しません。しかし、それを受け取れるのは、その能力を育てた人たちだけです。献身が先行条件であるのは、主からの恩寵の流れにとってではなく、そこで常に流れている恩寵をあなたが受け取り、取り込みうることにとって、です。

 これに関連して、サイード博士が、主は、罪びとも聖者も等しく、全ての友であるが、彼は特別、彼を心に抱く人たちのハートにいて、そのような人々はにとって愛しい、と書いてあるバガヴァッド・ギーターの詩節を引用しました。

46年1月8日 午後

 マハタニ氏が、(46年1月7日の項目に記録されているのが認められる)彼の質問についてバガヴァーンに再び尋ねました。バガヴァーンは答えました。「あなたが引用する、まさにその文が、心が上重ねであると、それが現実性を持たず、縄の中の蛇の幻のようであると言っています。その聖句はまた、至高の自らは、心と同一視されたとき、変化に富むように見えると言います。見る者、自我にとって、自らは変化に富むように見えます。しかし、自らは常に同一、不変、不可変です。それはこのようです。スクリーンがあります。そのスクリーン上に、はじめ王様の姿が現れます。彼は玉座に座っています。その後、その同じスクリーンの中の彼の前で、様々な人物と物とともに劇が始まり、スクリーン上の王様は同じスクリーン上のその劇を観ます。見る者と見られるものはスクリーン上の影に過ぎず、スクリーンがそれらの映像を支えている唯一の現実です。世界の中でも、見る者と見られるものはともに心を構成していて、その心は自らによって支えらえ、自らに基盤を置いています」。

2019年9月19日木曜日

バガヴァーンとの日々⑨ - 45年12月29日から46年1月3日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p81~90

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月29日 午前

 ヴィシュワナータ・ブラフマチャリ氏が、C.ディークシトゥル氏のRamana Gopalaのタミル語訳を持ってきて、バガヴァーンはそれを熟読しました。


 P.C.デーサーイ氏が、P.C.デワンジ氏(引退した副裁判官)を紹介しました。彼はトリヴァンドラムから戻るところで、そこで哲学会議の一部門を主宰していました。デワンジ氏はバガヴァーンに、「心の一方向性を得るための最も簡単な方法とは何ですか」と尋ねました。バガヴァーンは、「最良の方法は、心の源を見ることです。心のようなものが存在するのか確かめて見なさい。心が存在する場合にだけ、それを一方向に向かわせるという問題が生じるでしょう。内側に向かうことによってあなたが探求するとき、心のようなものが存在しないことにあなたは気づきます。

 その後、P.C.デーサーイ氏は、「あなたが心の性質を継続的に、途切れなく探求するとき、あなたは心のようなものは存在しないと気づく。これが皆にとって真っすぐな道である」という趣旨のサンスクリット語のバガヴァーンのウパデーシャ・サーラを引用しました。その訪問者は再び尋ねました。「私たちの聖典には、全てを創造し、維持し、破壊するのは神であり、は全てに遍在していると書いてあります。もしそうであるなら、もし神が全てのことを行い、私たちが行う全てが神のニヤティ(おきて、法)に従っていて、すでに広大無辺な意識の中で計画されていたのなら、個々人の性格とそれに対する責任はあるのでしょうか」。

 バガヴァーン: もちろん、あります。外ならぬその聖典が、人がすべきこと、すべきでないことに関する規則を定めています。もし人に責任がないなら、ではどうしてそのような規則が定められなければならないのですか。あなたは神のニヤティとそれに従って起こる物事について話します。あなたがなぜこの創造や何やかやが(あるのか)と神に尋ねるなら、それはあなたのカルマに従ってあると再びはあなたに言うでしょう。あなたが神とあらゆることを注意深く計画するのニヤティを信じているなら、あなた自身をに完全に委ねなさい。そうすれば、あなたに責任はなくなるでしょう。そうでなければ、あなたの本質を見出し、そうして自由を得なさい。

 スンダレーサ・アイヤル氏が「kandar Anubhuti」(カンダル・アヌブーティ)を2冊バガヴァーンに持ってきて、それらは、母の遺徳に敬意を表して無償配布するためにその本を500冊出版した、ダーシ・ラージャンバルの息子(シャンムガ・スンダラム、ここの学校の教師)から送られたと言いました。バガヴァーンはこれに関連して、「彼女は若い女性で、あのカーストの生まれでしたが、私に食べ物を与える前に食事をとらないという誓いを立てていました」と再び言いました。

45年12月30日

 Ramana Gopalaがタミル語に翻訳され、今朝、校正刷りが講堂で読み上げられました。

午後

 ある信奉者がThe Bombay Chronicleからの切り抜きを持ってきて、バガヴァーンに差し上げました。その中で、ラマナ・サッチダーナンダ・サンガによって、ラマナ・ジャヤンティが今年、ボンベイのマトゥンガで祝われた様子、そして、マンナールグディのヴィジャヤラーガヴァー・バーガヴァタルという人とその一行がバガヴァーンとその人生と教えについての素晴らしいカーラクシェーパムを行った様子が報告されています。その切り抜きは皆のために講堂で読み上げられました。その中にはラマナについてのハリカンタが催されたと書かれていました。バガヴァーンは、「ラマナについてのハリカンタは誤った名称です。カーラクシェーパムのほうが適当だったでしょう」と言いました。

 ティラク・シャーストリが、エチャンマルについて新聞社に記事を送るために、彼女についてバガヴァーンから知りたがりました。バガヴァーンは、「あなたが好きなことを書いて構いません。ヴィジャヤムや他の本には、彼女への言及が含まれています」と言いました。バガヴァーンは、「私たちのヴェンカタクリシュナイヤーの母も同じ夜に亡くなったようです。今日のテルグ語の新聞、Zamin Ryotでそれを見つけました」と言いました。

 R.ナーラヤナ・アイヤルが、エチャンマルは最後まで意識があったのかどうかバガヴァーンに尋ねました。(私自身を含め)人々は、エチャンマルが、彼女の周りの人々を認識できておらず、最後の二日間は彼女(自分)の存在に気づいていなかったとバガヴァーンに伝えましたが、バガヴァーンは返事として、「ええ、彼女は(意識が)ありました。彼女はサマーディにいるように、亡くなりました。彼らは正確にいつ命が尽きたのか知らないとさえ言われています」と言いました。マイソールのラーマチャンドラ・ラオが、「遺体は全然遺体のように見えませんでした。それは彼女がここにいた時とそっくりに見えました」と言い足しました。

45年12月31日 午前

 チンタ・ディークシトゥル氏がここにいます。バガヴァーンは、「昨日、私たちはチンタ・ディークシトゥルについて話していました。今、彼はここにいます」と言いました。後に、別の紳士が到着しました。パンジャーブ出身のムスリムで、彼は生まれつき盲目でしたが、アラビア語、ペルシャ語、ウルドゥー語と英語を習得し、コーラン全文を暗記しています。彼は、英語のWho am I?の本をウルドゥー語で彼に通訳もした、ある友人からバガヴァーンについて聞き、そこで直ちにバガヴァーンを訪問しに行くことを決めたようです。それゆえ、彼は一人っきりで、パンジャーブからはるばるやって来ました。誰かが彼にバガヴァーンの他の著作を聞いてはどうかとここで提案しました。彼は、「いえ。その必要はありません。あの一冊で十分です」と答えました。

1946

46年1月2日 午後

 バガヴァーンが質問用紙と呼ぶものをジョーシー氏が提出し、バガヴァーンがそれに答えます。

 はじめに、ジニャーニが心を持たずに仕事を行うことについて:「心が殺されるなら、人は仕事を行えないとあなたは想像します。人に仕事を行わさせられるのは心だけであるとどうして思うのですか。活動を同じく生み出せる他の原因があるかもしれません。例えば、この時計を見なさい。心なしに動いています。また仮に、私たちがジニャーニは心を持つと主張するとしましょう。彼の心は普通の人の心と大いに異なります。彼は、何か遠くの物のことばかり思って、語られる話を聞いている人のようです。ヴァーサナーが取り除かれた心は、仕事を行っていても、仕事を行っていません。逆に、心がヴァーサナーで満ちているならば、たとえ体が活動的でも動いていなくても、それは仕事を行っています。」

 質問2: ソーハムは「私は誰か」と同じでしょうか。

 バガヴァーン: アハムだけがそれらに共通しています。一方はソーハムで、他方はコーハムです。それらは異なります。どうして私たちはソーハムと言い続けなければならないのですか。人は真の「私」を見出さなければなりません。「私は誰か」という質問の中で、「私」が意味するのは、自我です。それを追跡し、その源を見つけようとするなら、それが分離して存在せず、真の「私」に溶け込むことを私たちは悟ります。

 質問3: 私は委ねのほうが簡単だと感じます。私はその道を採用したいと思います。

 バガヴァーン: どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたは一者の中にあなた自身を失わなければならないでしょう。委ねは、「貴方は全てなり」や「貴方の意志が果たされんことを」という段階にあなたが達してはじめて、完成です。
 
 その境地はジニャーナと異なりません。ソハムには、ドゥヴァイタが存在します。委ねには、アドヴァイタが存在します。現実には、ドヴァイタもアドヴァイタも存在せず、在るそれが、在ります。委ねは簡単に見えます。なぜなら、人々は、いったん口で「私は委ねます」と言い、その重荷をに負わせれば、自由になって、好きなことができると想像するからです。しかし、実のところ、委ねの後、あなたは好き嫌いをまるで持てず、あなたの意思は完全に存在しなくならなければならず、主の意志がそれに取って代わります。そのような自我の死は、ジニャーナと何も異なりません。ですから、どんな道を通ってあなたが行くのであれ、あなたはジニャーナ、もしくは、一体性(oneness)へと至らなければなりません。

 質問4: どのように感情を取り扱うべきでしょうか。私は感情を抑えるべきですか、満たすべきですか。私がバガヴァーンの方法に従い、「誰にこれらの感情があるのか」尋ねるなら、それらは消滅せずに、より強まるようです。

 バガヴァーン: それは、あなたが適切に私の方法に取り組んでいないことを示しているだけです。正しい道は、全ての感情の根元、それらが出てくる源を見出し、それを取り除くことです。あなたが感情を抑えるなら、しばらくの間は抑制されるかもしれませんが、再び現れるでしょう。あなたが感情を満たすなら、しばらくの間だけ満たされ、再び満足を渇望するでしょう。欲望を満たし、それによって欲望を根絶しようとすることは、灯油を上から注いで火を消そうとすることのようです。唯一の道は、欲望の根元を見出し、そうして、それを取り除くことです。

 別の訪問者がバガヴァーンに、「私が『私は誰か』という探求をしようとするなら、私は眠りに落ちます。どうするべきでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーン: あなたが目覚めている間中ずっと探求を継続しなさい。それで全く十分でしょう。あなたが眠りに落ちるまで探求をし続けるなら、探求は眠る間も続くでしょう。目覚めればすぐ探求を再開しなさい。

 別の訪問者がバガヴァーンに、国が進歩しうるとすれば、ヴァルナーシュラマの違いが無くなることが必要ではないのか尋ねました。

バガヴァーン: どうしてそれが必要であるか、必要でないか人に言えるでしょうか。私はそのような問題について何も言いません。人々はしばしばヴァルナーシュラマについての私の意見を尋ねにやってきます。もし私が何か言うなら、彼らはすぐに新聞に「誰それもこれこれの意見です」と発表しに行きます。ヴァルナーシュラマ・ダルマを定めた、他ならぬその聖典が、全生命の一体性、そして、アブヘダ・ブッディを唯一の現実として示してもいます。全生命の合一性、一体性より優れた真理を教えることが誰にできますか。誰も自分自身を改める前に、国民や国を改革し始める必要はありません。各々の第一の義務は、彼の本質を実現することです。それをした後、彼が国民や国を改革したいと思うならば、ぜひとも彼をそのような改革に従事させましょう。ラム・ティールタは、「改革者求む-ただし、はじめに自分自身を改めんとする改革者」と広告を出しました。世界のどの二人も等しくなれず、等しく振る舞うこともできません。どれほど懸命に我々が消し去ろうとしようも、外側の相違は必ず継続することになります。ヴァルナーシュラマが作りだした、そのような階級や区分をなくそうとする、いわゆる社会改革者の企ては成功しておらず、新しい区分を作りだし、ブラフモ・サマージストやアーリヤ・サマージストのような2、3のカーストや階級をすでに存在しているものに更に付け加えただけです。各人にとって唯一の解決策は、彼の本質を実現することです。

 別の訪問者が、「ジニャーニは一般的に、活動的な生活から退き、どのような世俗的活動にも従事しません」と言いました。

 バガヴァーン: そうかもしれませんし、そうでないかもしれません。実現した後も貿易や商売を続けたり、王国を統治する人たちもいれば、森の中に隠遁し、体の生命を維持するために絶対的に必要なもの以外の一切の行為を控える人たちもいます。ですから、全てのジニャーニが活動を放棄し、世間から退くと私たちは言えません。

 訪問者: 我々の本の中で言及される肉屋のダルマヴィヤーダような、今生きていて、世間で普通の日々の仕事を行っているジニャーニの具体的な例をバガヴァーンが挙げられるのか私は知りたいと思います。

 バガヴァーンは答えませんでした。

 訪問者: 自らの実現のために放棄は必要ですか。

 バガヴァーン: 放棄と実現は同じものです。それらは同じ境地の異なる側面です。自らならざるものを捨て去ることが放棄です。自らに住まうことがジニャーナ、自らの実現です。唯一の同じ真理の、一方は消極的な、他方は積極的な側面です。バクティ、ジニャーナ、ヨーガは、私たちの本質である自らの実現、ムクティの別名です。はじめ、それらは手段のように見えます。それらは終には目的になります。バクティ、ヨーガ、ディヤーナなどを続ける私たちの側に要求される意識的な努力がある限り、それらは手段です。それらが私たちの側の何の努力もなく進む時、私たちは目的を達成しています。達成すべき実現は存在しません。現実は、常にあるがままにあります。我々が行っていることとは、我々が非現実を実現している、つまり、非現実を現実とみなているということです。我々はそれを捨て去らなければなりません。それが求められる全てです。

 訪問者: どのようにして非現実がやって来たのですか。現実から非現実が生じうるでしょうか。

 バガヴァーン: それが生じたのか確かめなさい。別の立場からは、非現実のようなものは存在しません。自らのみが存在します。あなたが自我-それのみに基づき世界や何やかやが存在しますが-を追跡しようとする時、あなたは自我がまるで存在せず、この全創造も同様であると分かります。

46年1月3日

 私が講堂に入った時、バガヴァーンはすでに質問に答えているところでした。私が推測するに、質問の趣旨は「進化論は真実でしょうか」で、バガヴァーンは言いました。「私たちみなの困った点は、私たちが過去を、私たちであったものを、そしてまた、私たちが未来にどうなるのかを知りたがることです。私たちは過去についても未来についても何も知りません。私たちは現在を、私たちが今、存在していることを確かに知っています。昨日も明日も、存在するのは、今日に関連してだけです。昨日はその時点では『今日』と呼ばれ、明日は、あした、私たちに『今日』と呼ばれるでしょう。今日は常に存在しています。常に存在するものは、純粋な実在です。それには過去も未来もありません。今現在、常に存在する実在なる本質を見出そうとしてみてはどうですか。」

 別の訪問客が、「現在は過去のカルマのためだと言われています。私たちは今、自由意思によって過去のカルマを乗り越えられるのでしょうか」と尋ねました。

 バガヴァーン: 私が(前)あなたに言ったように、現在とは何か確かめなさい。その時、あなたは過去や未来によって影響される、もしくは、(それらを)持つものを(理解し)、そして、常に存在し、常に自由であり、過去にも未来によっても、どんな過去のカルマによっても影響されないものを理解するでしょう。

 別の訪問客が、「ある人は別の人の中に何かへの衝動を引き起こせますか。グルは、あたかも魔法によるかのように、弟子を変容できますか」と尋ねました。

 バガヴァーン: グルについてのあなたの考えは何ですか。あなたは彼を人の姿で、ある寸法や色などをした体として考えています。ある弟子が悟った後でグルに言いました。「私の無数の生まれ全てにおいて、あなたがただ一つの現実として私の最奥のハートの中に住まい、今、人間の姿で私の前に来て、この無知の覆いを取り去ったことを今や私は悟りました。そのような恩情へのお返しに、私はあなたに何ができますか」と言いました。そして、グルは言いました。「何もする必要はありません。あなたがあなたの真の境地にあるがままにいる(「私はいる」として留まる)なら、それで十分です」。これがグルについての真理です。

 ジョーシー氏が5つの質問をしました。以下に、その質問とバガヴァーンの答えを記します。

 質問1: 答えることなく、「私は誰か」と尋ね続けるべきでしょうか。誰が誰に尋ねるのですか。探求の時、どのバーヴァナー(態度、概念)が心にあるべきですか。「私」とは何ですか、自らですか、自我ですか。

 答え: 「私は誰か」という探求における、「私」とは自我です。その質問が本当に意味するのは、この自我の源、起源とは何か、です。心の中にどんなバーヴァナーも持つ必要はありません。必要とされる全ては、あなたがこれこれの様子の、これこれの名前などを持つ体であるというバーヴァナーを放棄しなければならない、ということです。あなたの本質についてバーヴァナーを持つ必要はありません。それは現に常に存在しています。それは現実であり、決してバーヴァナーではありません。

 質問2: 私はいつもこの探求に従事できません。というのも、私にはするべき他の仕事があって、そのような仕事をする時、この探求を忘れるからです。

 答え: あなたが他の仕事をする時、あなたは存在しなくなりますか。あなたは常に存在します。違いますか。

 質問3: 行為者の感覚-「私が行なっている」という感覚-なしに、仕事は行えません。

 答え: 行えます。愛着なく働きなさい。あなたが行為者であるという感覚を伴って働いた時よりも、仕事はより良く運びさえするでしょう。

 質問4: 私は何の仕事をすべきで、何(の仕事)をすべきでないのか分かりません。

 答え: 気にしないで結構。今世で、あなたによって行われるべき仕事として定められていることは、あなたがそれを好んでも、好まなくても、あなたによって行われるでしょう。

 質問5: どうして悟ろうとしなければならないのですか。夢から目覚めるように、私はこの状態から出でくるでしょう。眠る間、私たちは夢から出ようと試みません。

 答え: 夢の中で、あなたはそれが夢であると少しも気づかないので、あなたの努力によって夢から出ようとする義務をあなたは負っていません。しかし、この人生では、あなたの眠りの経験によって、読んだり、聞いたりして、この人生が夢のようなものであるという何らかの直感をあなたは得ていて、それゆえに、努力し、それから出るという義務があなたに投げかけられています。けれども、あなたが求めていないなら、誰があなたに自らを実現して欲しいのですか。あなたがその夢の中にいることを好むなら、そのままいなさい。

 質問4に関連して、P.C.デーサーイー婦人が、バガヴァッド・ギーターを引用しながら、バガヴァーンに尋ねました。「(アルジュナに告げられたように)各々によって行われるよう定められている、ある仕事があり、私たちがどれほどそれを行いたくないと思っても、(どれほど)それを行うのを拒んでも、私たちが結局それを行うことになるなら、自由意志は存在するのですか」。

 バガヴァーン: 私たちによって行われることになっている仕事が、我々によって行われるであろうことは、本当です。しかし、私たち自身を体と、仕事を行うものと同一視しないことによって、仕事の喜びや苦しさ、好ましい、もしくは、好ましくない結果を免れていることは、私たちに開かれています。あなたがあなたの本質を悟り、どんな仕事でも行うのはあなたではないことを知るなら、運命や過去のカルマや神の計画など、あなたがどのようにそれを呼ぶのであれ、それに従って体が従事する仕事が何であっても、あなたはその結果に影響されないでしょう。あなたはいつも自由であり、その自由に限界はありません。

2019年4月12日金曜日

バガヴァーンとの日々⑧ - 45年12月16日から45年12月28日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p71~81

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月16日

 45年12月16日のSunday Timesに、セイロンのV.F.グナラトナによる「In silent adoration of Sri Maharshi」という題の記事が出ました。私は講堂でそれを熟読しました。バガヴァーンは、「サイード博士がそれを読み、それを味気ないと思っています」と発言しました。そこで直ちに、私は、「その中に何も文句をつけるところはありません。実は、ずっと以前に、おそらく去年のジャヤンティの時に、コロンボのラーマチャンドラ氏が私にその原稿を見せ、私はそれを読みました」と言いました。その記事には、すでにバガヴァーンとその教えに詳しい我々に新たに伝えるべきものは何も含まれていませんが、彼の教えを短くとも正確に述べています。

45年12月17日 午前

 サイード博士による「The Maharshi who transforms man's life」という題の45年12月16日のSunday Heraldの中の記事が、講堂で読み上げられました。サイード博士は、彼がつけた題名は違うものだったが、編集者がそれを変更したと言いました。バガヴァーンは、45年12月16日のFree Indiaに出たムハッラムの重要性に関するサイード博士による別の記事も熟読しました。

午後

 サイード博士は、彼がつけた題名は「Ramana Maharshi's invisible work」だったと言いました。

45年12月19日

 ある女性が「スッブが来ました」と言って、もう一人の女性をバガヴァーンに紹介しました。バガヴァーンはこのスッブが誰か見分けられませんでした。しかし、その女性が誰か彼に説明されたとき、彼は、「タミル語」(スッブクッティですか)と言い、彼女が彼を最近訪問したティルチュリのチェッラム・バッタールの妹だと分かりました。この女性は、バガヴァーンが少年時代に遊んだ小さな女の子であったようです。彼は、「この女性には叔母がいて、私が子供のころ、彼女は私を彼女の家に連れていき、私を可愛がってくれたものでした」と我々に言いました。私は、「その女性は今どこにいますか」と尋ねました。バガヴァーンは、「彼女はずっと以前に亡くなりました。彼女の夫は再婚して、7人の子供がいました」と言いました。

 サイード博士は年を取り、様々な病気にかかり、そのことは彼が山の周りをまわるのをとても困難にしています。しかしながら、バガヴァーンが彼の弟子たちが山の周りをまわるのを重んじていることに気づいたため、彼と妻は1か月ほど前、それをすることに決めました。彼らはバガヴァーンの許可を取り、周りをまわって、何の困難も不都合な出来事もなく、戻って来ました。今日再び、彼ら二人ともバガヴァーンのもとに来て、山の周りをまわる許可を取りました。バガヴァーンは、もし人が1度か2度山の周りをまわるなら、山自体が再びその周りをまわるよう人を引き付けるだろうと言ったものでした。私はそれが真実であると分かりました。今、それがサイード博士に起こっています。

 私の二人の息子とその妻と子供たちと10人以上ぐらいの私の親族が今晩到着し、私が彼らを紹介したとき、私が彼らのための適当な宿泊場所をとれていたかなどバガヴァーンは優しく尋ねました。バガヴァーンはここに来る全ての人の快適さを平等に気遣います。どうして人が彼を愛さずに、彼の御足に捕らわれることなくいられるでしょうか。

45年12月21日

 今日はバガヴァーンのジャヤンティ(65回目の誕生日)です。信奉者の参加者がいつもより多く、彼らの多くが遠い場所から来ました。いつもの装飾、音楽、ごちそう、貧しい人々への食べ物の提供がありました。午後、この行事のために特別に作られたバガヴァーンをたたえる多くの祈りや詩節が読み上げられました。(リシケーシュの)スワーミ・シヴァーナンダから送られたメッセージも読み上げられました。

45年12月23日 午後

 ポンディシェリの総督の秘書官であり、そこのフランス政府の内閣長官、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットがバガヴァーンのもとに来ました。彼が床の上に楽にしゃがむことができなかったので、バガヴァーンは彼に腰掛けを出すよう我々に頼みました。我々はバガヴァーンの対面に彼のために椅子を置きました。彼はフランス語で書かれた請願書を持参していました。彼と共に来た、タミル語を話す通訳者たちを通じて挨拶を述べた後、彼がフランス語で書いたものを彼は差し出しました。我々のバララム・レッディがそれをバガヴァーンに翻訳しようと試みました。しかし、そのフランス語はかなり格調高かったため、彼はそれがかなり難しいことに気づきました。それで、我々は(その妻と3人の子供が5年近くここに住んでいて、1か月ほど前にシャム(タイの旧名)から戻ってきた)オズボーン氏を呼びに行きました。彼が来て、以下のように要旨を説明しました。「私はほとんど知りません。私はさらに(それ)以下です。しかし、私は私が何について話しているか知っています。私は言葉や説明や議論ではなく、マハルシの霊的影響による積極的な助けを求めています。私はいくらかサーダナを行い、自我がもう少しで消滅されようとする段階に達しました。私は自我に消滅してもらいたいのです。しかし、同時に、私はそれが殺されるのを見るためにそこにいたいと思います。これは相矛盾する望みを持っているように見えます。私が最終段階に達し、自我を殺すことを可能にする、私が完全に信頼する、その影響によって、マハルシが何らかのことを行って下さるよう私は心から願います。私は心に向けて言われた単なる議論や説明でなく、本当の助けを求めています。私のためにマハルシはこれを行って下さるでしょうか」。

 彼は別の質問も書き出していました。「私は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘としてきました。それは問題ないでしょうか、それとも、マハルシは私に他の座右の銘や理想を提案して下さるでしょうか。」

 バガヴァーンは数分間黙っていましたが、その間中ずっとその訪問者をじっと見ていました。数分後、訪問者は、「私は今、マハルシが喜んで送ってくれるであろう影響をすぐに受け取れる状態にいない感じがします。しばらく後、彼の影響や霊的助けを吸収できるであろう、かの高揚した状態に私がいるときに、再び戻ってきましょう」と言いました。彼は、「この通訳の方(オズボーン氏)と少し話して、また別の時にここに来てもよろしいでしょうか」と言い足しました。バガヴァーンは、「ええ、もちろん話しに行って構いません」と言いました。彼ら二人は出て行きました。サルヴァーディカーリがその訪問者に果物とコーヒーを差し上げ、彼はまた別の時にここに来たいという望みを言い表して、いとまごいしました。訪問者が講堂を離れた後、バガヴァーンは、「彼はこの全てについて読み、いくらかサーダナを行っていたようです」と言いました。誰かが、我々の図書館にあるバガヴァーンの教えに関するフランス語の本を訪問者に見せてはどうかと提案しました。本がそれゆえ持ち出され、彼がまだサルヴァーディカーリと共にいて、コーヒーを飲んでいる間に彼に見せられました。彼は本を見て、その全てを読んでいると言いました。

 (マドラス公衆衛生の副局長であり、今では数年間バガヴァーンのもとに来続けている)スブラマニア・アイヤルが、スカンダーアシュラマムでのバガヴァーンの(45年11月25日にT.N.クリシュナン医師によって撮られた)41枚の写真を収めたアルバムを持ってきて、アーシュラマムにそれを贈呈しました。バガヴァーンは写真を見ました。太陽光によって少し損なわれた1枚か2枚を除き、写真は全て見事なものでした。

45年12月24日 午前

 バガヴァーンは、T.P.ラーマチャンドラ・アイヤル氏に、我々のヴィシュワナータ・ブラフマチャリの兄弟、スブラマニア・アイヤル氏(ディンディグル)によって書かれた手紙を読み上げるよう頼みました。それは今月21日にティルチュリで祝われたバガヴァーンのジャヤンティの盛大な様子を報告していました。スブラマニア・アイヤル氏はS.ドーライスワーミ・アイヤル氏に手紙を書いていて、ジョルジュ・ル・ボットとバガヴァーンの間の会話を報告していました。それは講堂で集まった全員のために読み上げられました。私もまた、この日記に記録された同じ出来事の報告を読み上げました。

 ある訪問者が、自分がプラーナーヤーマとディヤーナを両方とも行えるのか尋ねました。バガヴァーンは、「一方は他方の助けになるものです。人がプラーナーヤーマを必要とするかどうかは、人のパクヴァ、適性しだいです」と言いました。

午後

 パーラーヤナの後、オズボーン氏が、ムッシュ・ジョルジュ・ル・ボットが去る前に以下のことを言ったと言いました。「私は私が言い表した体験を2度しました。最初は私自身の努力によって、2度目は、今は亡きフランス人哲学者の静かな影響下で。彼は私の腰を持ち、私の側の何の努力もなしに同じ段階に私を連れて行きました。2度とも、私は限界点に波のように近づき続けましたが、しり込みしました。マハルシが私を再びあの地点に連れて行くことができると私が決心したのは、その2度目の体験のためでした。

 プラーナーヤーマに関する質問を続けた訪問者に、バガヴァーンは言いました。「目的は、心を一点に向かわせることです。そのためのプラーナーヤーマは助けとなるもの、一つの手段です。ディヤーナのためだけでなく、我々が心を一点に向かわせなければならない、あらゆる場合に、それは純粋に世俗的もしくは物質的な目的のためでさえあるかもしれませんが、プラーナーヤーマを行い、その後、他の仕事を始めるのは良いことです。心とプラーナは同じもので、同じ源を持ちます。一方が制御されるなら、他方も同時に制御されます。人がプラーナーヤーマの助けなしで心を一点に向かわせることができるなら、プラーナーヤーマを気にする必要はありません。しかし、心をすぐさま制御できない人は呼吸を制御してもよく、それは心の制御に通じるでしょう。それは馬を手綱で引き、一方向に行かせるようなものです」。

 バガヴァーンは、ムッシュ・ル・ボットによって言及された体験を彼が得る手助けをしたフランス人哲学者の名前を彼が口にしたかオズボーン氏に尋ねました。オズボーン氏は名前を言うことができませんでしたが、今は亡きその哲学者は、古代ギリシャ哲学に長け、それを奉じる人であったようだと言いました。バガヴァーンは、「その哲学者は亡くなっていると言われているので、それは(ルネ・)ゲノンではないでしょう」と述べました。

 バガヴァーンは続けました。「彼は『あなた自身を解放せよ』を座右の銘にしていると言います。でも、どうして何か座右の銘がなければいけないのですか。解放は私たちの本質そのものです。私たちはそれです。私たちが解放を望むという事実こそが、全ての束縛からの自由が私たちの本性であることを示しています。それは新たに獲得されなくていいのです。必要である全ては、私たちが束縛されているという誤った概念を取り除くことです。私たちがそれを成し遂げるとき、どのような類の望みも思いもなくなるでしょう。人が解放を望む限り、その限りは、人は束縛されているとあなたたちは信じるかもしれません」。彼はまた言いました。「人々は、自我や心が殺される時、その結果は単なる空白で、幸福ではないかもしれないと心配します。実際に起こることは、思う人、思いの対象、思うこと、全てがただ一つの源に溶け込むことです。その源は意識かつ至福そのものであり、従って、その境地は不活発でも、空白でもありません。どうして人々が、全ての思いが存在しなくなり、心が殺される、その境地を恐れなければならないのか私は分かりません。眠るとき、心や思いは存在しません。人が眠りから起きるとき、『幸せに眠った』と言います。眠りは全ての人にとってとても大切であるため、誰も、王子も乞食も、それなしで済ますことはできません。そして、人が眠りたいとき、全ての世俗の楽しみの範囲内でどれほど上等なものでも、たいそう望まれる眠りから彼を誘惑することはできません。例えば、王様が眠りにつきたいと思うとしましょう。他の全ての物事以上に彼にとって大切な彼の妃がやって来て、彼の邪魔をします。しかし、彼女でさえ、彼はその時払いのけ、眠りにつくことのほうを好みます。それは、全ての思いがやむ、その境地において得られうる至高の幸福の表れです。人が眠りにつくことを恐れていないなら、どうしてサーダナによって心や自我を殺すことを恐れなければならないのか私は分かりません」。バガヴァーンはまた、上の談話の間に、自我なる雲がジニャーナなる月を隠す限り、自らなるユリは花開かないだろうと言い終える(この日記ですでに引用された)タミル語の詩節を引用しました。

45年12月25日 午後

 私が山の周りをまわる許しをバガヴァーンから得ようと講堂に行ったとき、我々の調剤士、N.ピシャロティ氏がマラヤーラム語で彼によって最近作られたいくつかの詩節を読み上げていました。

 チンタ・ディークシトゥル氏のテルグ語の作詩、Ramana Gopalaが講堂で読み上げられました。皆が大いにそれを楽しみました。バガヴァーンもまたそれを高く評価し、それは皆に読み上げられる価値があると思いました。それゆえ、それが行われました。

45年12月26日 午後

 (バガヴァーンを数年前に初めて訪問し、テルグ語の雑誌Bharatiに友人への手紙の形式でその体験の報告を記したソウリスという女性の父)ヴェンカタチャラム氏を指して、バガヴァーンは言いました。「彼は今朝来ました。私はすぐにシュリニヴァーサ・ラオ医師にも来て、ヴェンカタチャラム氏のそばに立つように頼み、誰も今後は一方を他方だと間違わないように彼らを皆に見せました。彼らはとても良く似ています。2、3年前は、さらに良く似ていました」。最近バガヴァーンはある本を受け取り、その中には1年間(1938か1939年?)のヴェンカタチャラム氏のC.ディークシトゥル氏への手紙が公表されています。講堂で、その手紙の中でバガヴァーンに関係する部分が、ヴェンカタチャラム氏によって読み上げられました。

45年12月27日 午前

 バガヴァーンは、45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマムへの訪問についてナーガンマによって書かれた彼女の兄への報告を読んでいました。皆がそれを聞くために、読み上げてはどうかと私が提案した時、バガヴァーンは少しだけしか読んでいませんでした。それゆえ、それはナーガンマによって読まれ、ヴェンカタチャラム氏によって翻訳されました。我々は皆、それを高く評価しました。


 エチャンマが三日間重い病にかかっていて、二日間意識がないことがバガヴァーンに報告されました。バガヴァーンは、「タミル語」(しばしば彼女はそのようでした。彼女は眼を閉じてそのようにいたものでした)と言いました。この言葉から、彼女が回復するということを意味してバガヴァーンが言ったと私は想像しました。

45年12月28日

 エチャンマルが午前2時30分ごろに亡くなったようで、講堂でつい午前8時ごろに、その事がバガヴァーンに報告されました。会話は自然とエチャンマルについて、どのように1907年から彼女が全く途切れなくバガヴァーンに食べ物を差し上げることをやりぬいたか、になりました。バガヴァーンは、彼が大寺院のイルッパイ樹の下にいたとき、彼に食べ物を与えた他の3人もまた思い出しました。一人はダーシ・ラージャンバルであり、バガヴァーンに食べ物を与える前に食べないという誓いを立ていたようで、彼がグルモールタムに移る前の2か月ほどの間、彼に食べ物を与えていました。彼女は1日か2日、グルモールタムにさえ食べ物を送り続けていたようです。しかし、バガヴァーンは彼女にそれをやめるよう頼みました。この女性はごく最近亡くなったようです。バガヴァーンはカンマラ(?)の女性、ミーナクシ・アンマルにも言及し、言いました。「彼女はラークシャシーのようでした。彼女は毎日山の周りを回り、その後料理しに来て、私に食べ物を持ってきました。しばらく後、彼女はパラニスワーミを含む全ての人に対する支配権を掌握し始めました。他の人々が食べ物などを持って来たなら、彼女は私にいくらか与え、余りは何でも持って行ったものでした」。(バガヴァーンは午後、「私たちのナーガッパの母、ラトナンマも当時食べ物をよく持ってきました」と言いました)。定期的に供給される食べ物、バガヴァーンが言うところのkattalai(カッタライ、「命令」の意)について、彼は言いました。「あなたたちはそういった全ての定期的な供給がどんな問題を伴うのか知りません。それを行う人々はあなたたちに対していくらか支配権を期待します。それはまた彼らの中にいくらかアハム(私)を作り出します。彼ら全員があなたたちに何か食べることを期待します。「タミル語」(ほら、あなた自身の手で何か取り分けなさい)と言って、その後、それぞれが何かを取り分けるでしょう。その量はあまりにも多くなるでしょう。いくらでも人々がいくらでも物を持ってきます。それも、いつでも。そして、あなたたちはそれを食べなければなりません。時々、私たちは受け取った全てのもの、牛乳、食べ物、おかゆなどを混ぜ合わせて、結果としてできた混合物が液体であるかのようにそれを飲み込んだものでした。『スワーミでいること』はとても困難です。あなたたちはそれを理解できません。私は50年間の経験から話しています。グルモールタムでのそのような経験の後、私は一つの場所に留まらないことでそれを避けたいと思いました」。

午後

 シャンタンマが来て、エチャンマが安らかに息を引き取り、人々はいつこの世を去ったかさえも正確に分からなかったと、そして、彼女はほぼ二日間意識がなかったが、その二日間に1度少し意識があったとき、彼女が尋ねた唯一の質問が「バガヴァーンに食べ物は送られましたか」だったとバガヴァーンに報告しました。(後に、私はナーガンマから、これが完全には正確ではないと知りました。誰かが、エチャンマの心がはっきりしていて、ぼうっとしていないかどうか調べるために、「今日、食事はバガヴァーンに送られましたか」という質問を尋ね、エチャンマルはすぐにそれに気づいた様子を示したようです)。彼女の遺体は火葬されました。私はそこで直ちに、「そのような人々の場合、火葬されるべきなく、埋葬されるべきだと言われていますが」とバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「彼女自身が、体は火葬されるべきで、骨だけ拾われ、彼女の村に埋葬されるべきだと口にしたようです」と答えました。私はまた、昨夜のバガヴァーンの「彼女はよく眼を閉じたままいたものでした」という発言が意味するところは何か彼に尋ねました。彼は、「彼女は頭の中心に集中する修練をしていて、呼吸を完全に制御して二日や三日間でさえ昏睡状態のような状態でいたものでした。私は彼女にそれはラヤでしかなく、それに満足するべきではなく、それから出て、それを越えなければならないと言いました」と説明しました。

 我々のチャガンラル・ヨーギによって紹介された、ジョーシー氏という人が以下の質問をして、バガヴァーンが以下のように答えました。

 質問1: 私が「私は誰か」と考えるとき、「私はこの死すべき運命の体でなく、私はチャイタンニャ、アートマ、もしくは、パラマートマである」という答えがやって来ます。そして、突然、別の質問が起こります-「どうしてアートマはマーヤーに入ったのか」、もしくは言い換えれば、「どうして神はこの世界を創造したのか」。

 答え: 「私は誰か」と尋ねることが本当に意味するのは、自我もしくは「私」なる思いの源を見出そうとすることです。あなたは「私はこの体ではない、など」といった、別の思いについて考えるべきではありません。「私」の源を追及することが、他の全ての思いを取り除く手段として役立ちます。私たちは、あなたが口にしたような他の思いに機会を与えるべきではなく、(それぞれの思いが生じれば)誰にその思いが生じたのかと尋ねることによって、そして、その答えが「私がその思いを得る」であるなら、この「私」とは誰か、その源はどこからかとさらに尋ねることによって、「私」なる思いの源を見出すことに注意を定め続けなければなりません。

 質問2: アートマはサークシャートカーラの対象でしょうか。

 答え: アートマはあるがままにあります。それはいつもサークシャートです。一人は知る、一人は知られるという、二人のアートマ(自分)はいません。それを知ることとは、それでいることです。それは人が他の何かを意識している状態ではありません。それは意識そのものです。

 質問3: 私は「ブラフマ サティヤム ジャガット ミティヤム」(ブラフマンは現実であり、世界は非現実である)の意味が理解できません。この世界は実在しているのでしょうか、していないのでしょうか。ジニャーニは世界を見ないのでしょうか、それとも、彼はそれを別の形で見るのでしょうか。

 答え: 世界にその現実性や虚偽性について悩ませておきましょう。あなた自身の現実性についてまずは見出しなさい。そうすれば、全ての事がはっきりするでしょう。どのようにジニャーニが世界を見ても、どうだっていいでしょう。あなたがあなた自身を実現しなさい。そうすれば、あなたは理解するでしょう。ジニャーニは、名と形からなる世界が自らを制限していないこと、自らが名と形を超えていることを知っています。

 質問4: 私はどうやって崇拝するのか分かりません。どうか私に崇拝する方法をお示し下さい。

 答え: 「崇拝する者」と「崇拝されるもの」が存在しますか。崇拝する者なる「私」を見出しなさい。それが最良の方法です。いつも見る者が追跡されなければなりません。

<巻末にある用語集から>
・パーラーヤナ(parayana):ヴェーダの朗誦
・ムハッラム(moharrum):イスラム教の祭り
・ラヤ(laya):溶解、吸収
・チャイタンニャ(chaitanya):意識、感じうるもの
・サークシャート(カラ)(sakshat(kara)):直接的知覚

2019年4月3日水曜日

バガヴァーンとの日々⑦ - 45年12月7日から45年12月12日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p59~71

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年12月7日

 Visionの1937年9月号に、ナーム・デーヴによるThe Philosophy of the Divine Nameに関する論説が含まれています。バガヴァーンはそれに賛成して頻繁に言及しています。今日もシュリニヴァーサ・ラオ医師がそれを持ってきて、バガヴァーンは彼に説明しました。バガヴァーンは、「この全ては、ナーム・デーヴが完全な悟りを得た後、ヴィトバー(神)が彼に悟りを得させるためにそのもとへと遣わしたヴィショーパケサルの足に触れた後、彼によって発されたに違いありません」と述べました。バガヴァーンは、その後、以下の物語を話しました。

 「ヴィトバーはナーム・デーヴがいまだ至高の真理を悟っていないことに気づき、彼に教えたいと思っていました。ジニャーネーシュワルとナーム・デーヴが巡礼から戻った時、ゴーラ・クンバルは彼の住まいにいる全ての聖者にごちそうしました。その中にジニャーネーシュワルとナーム・デーヴがいました。その祝宴で、ジニャーネーシュワルはゴーラと共謀して、ゴーラに公然と言いました。「あなたは陶工です。壺を作り、どれがきちんと焼けていて、どれがそうでないか確かめるために壺を吟味することに毎日従事しています。あなたの前のこれらの壺(つまり、聖者たち)は、ブラフマーの壺です。その内のどれがしっかりしていて、どれがそうでないのか確かめて下さい」。そこで直ちに、ゴーラは、「ええ、スワーミ。そうしましょう」と言い、彼がその堅固さを吟味するために壺を軽く叩くのに使う棒を手に取りました。それを手に持って高く掲げ、彼の来客一人ひとりのところに行き、彼がいつも壺にするように、各々の頭を軽く叩きました。来客はそれぞれ慎ましく甘んじて叩かれました。しかし、ゴーラがナーム・デーヴに近づいたとき、後者は憤然として叫びました。「この壺焼きめ、その棒で私を叩きに来るとは、どういうつもりだ」。ゴーラはそこで直ちにジニャーネーシュワルに言いました。「スワーミ、他の全ての壺はきちんと焼けています。この壺(つまり、ナーム・デーヴ)だけがまだきちんと焼けてません」。集まった来客全員がどっと笑いました。ナーム・デーヴは非常に恥ずかしい思いをし、ヴィッタラ(ヴィトバーの別名)のもとに駆け込みしました。彼はヴィッタラととても親しい間柄で、彼と共に遊び、彼と共に食べ、彼と共に眠ったりしていました。ナーム・デーヴは、ヴィッタラの最も近しい友であり仲間である、彼の身に起こったこの不面目について愚痴を言いました。(もちろん、この全てを知っていた)ヴィッタラは彼に同情するふりをし、ゴーラの家で起こったことの一部始終を尋ね、何もかも聞いた後で言いました。「一体どうして他の全員がしたように、黙ったまま、甘じて叩かれなかったのですか。それがこの全ての問題が起こった理由です」。すると直ちにナーム・デーヴはよりいっそう嘆き、「あなたも他の人たちに加わって、私を辱めたいと思っています。どうして私が他の人々のように甘受すべきだったのですか。私はあなたの親友では、あなたの子供ではないのですか」と言いました。ヴィッタラは、「あなたはまだ適切に真理を理解していません。それに、私があなたに伝えても、あなたは理解しないでしょう。でも、これこれの森にある荒れ果てた寺院にいる聖者のところに行きなさい。彼はあなたに悟りを与えることができるでしょう」と言いました。ナーム・デーヴはそれに従いそこに行き、シヴァ・リンガムに足を乗せた、寺院の隅で眠っている気取りのない老人を見つけました。ナーム・デーヴは、彼-ヴィッタラの仲間-が、この人から悟りを得るようになることをまるで信じられませんでした。しかしながら、そこには他に誰もいなかったので、ナーム・デーヴはその人の近くに行き、手を叩きました。その老人ははっとして目を覚まし、ナーム・デーヴを見て、「あぁ、あなたはヴィッタラがここに送ったナーム・デーヴですね。来なさい!」と言いました。ナーム・デーヴは唖然として、「この人は偉大な人に違いない」と思い始めました。それでも、誰であっても、どれほど偉大であろうとも、足をリンガムの上に乗せるのはぞっとするようなことだと彼は思いました。彼はその老人に、「あなたは偉大な人物のようです。しかし、あなたの足をリンガムの上に置くことはあなたにとって適切なことですか」と尋ねました。その老人は、「えぇ、私の足がリンガムの上にありますか。それ(リンガム)はどこですか。どうぞ私の足をどこか他に移してください」と答えました。ナーム・デーヴは足を動かし、様々な場所に置きました。足がどこに置かれても、シヴァ・リンガムがありました。ついに、彼はそれを彼の膝の上に乗せ、彼自身がシヴァ・リンガムになりました。その時、彼は真理を悟り、その年を取った紳士は、「もう帰って構いません」と言いました。バガヴァーンは言い足しました。「注目すべきは、彼がその身を委ね、グルの足に触れたときにのみ、悟りが訪れたということです。この最終的な悟りの後、ナーム・デーヴは家に戻り、数日間、寺院のヴィッタラのところに行きませんでした。ヴィッタラを毎日訪問するだけでなく、寺院でヴィッタラと共に自分の時間のほとんどを過ごすことは彼の習慣だったのにです。そのため、数日後、ヴィッタラはナーム・デーヴの家に行き、ナーム・デーヴが彼を忘れ、一度も彼を訪問しないのはどういわけか無邪気な人のように尋ねました。ナーム・デーヴは、「私をかつぐのはもう結構。私はもう知っています。あなたのいない場所がどこにありますか!あなたと共にいるために、私は寺院に行かなければいけませんか。私はあなたから離れて存在してますか」と答えました。それで、ヴィッタラは言いました。「では、あなたは今や真理を理解しています。そういうわけで、この最後の教えのためにあなたを遣さなければなりませんでした」。

 バガヴァーンは、シュティタ・プラジニャに関する1945年12月のVisionの中の論説に、そして、その論説の中で引用されたサット・ダルシャナからの数行に言及しました。サイード博士はそこで直ちにバガヴァーンに、いつReality in Forty Versesがバガヴァーンによって作られたのか尋ねました。バガヴァーンは言いました。「それはつい1928年ごろでした。ムルガナールがどこかに様々な日付を書き留めています。ある日、ムルガナールが、様々な機会に折に触れて私が作るはぐれた詩節が失われることを許すべきではなく、一緒に集められるべきであり、総数を40にするためにさらにいくつか加え、全40(詩節)を適切なタイトルがついた本にするべきだと言いました。彼はそれゆえ30以下ほどの詩節を集め、それを計40にするために残りを作るよう私に求めました。私はそのようにして、その気分がやって来るとき、様々な機会に数詩節作りました。数が40に達したとき、ムルガナールは、それらが手元の主題にあまり直接関係していないや、そうでなければあまりふさわしくないという名目で、30以下の古い集まりから次々削除しはじめ、削除したものの代わりに新たなものを作るよう私に求めました。この過程が終わり、ムルガナールが要求したように40詩節になったとき、40の中で古いものからは2詩節しかなく、残りすべてが新たに作られていたことに気づきました。それは決まった計画に従ってでなく、一気にでもなく、系統だって作られたのでもありません。私は様々な機会に様々な詩節を作り、ムルガナールたちがその後、その主題、つまり、現実を一貫して規則的に取り扱っているようにいくらか見せるために、その中で表された考えに従ってある順序で並べました」。(古い集まりに含まれ、ムルガナールによって削除された詩節は、20ほどでした。これはその後、上述の作品の補遺として付け加えられ、その補遺も今や40詩節あります)。

 バガヴァーンはまた言いました。「Marital Garland of Lettersは、一部はヴィルーパークシ洞窟で、一部は私が山の周りを歩いている時に作られました。ウパデーシャ・サーラムだけが計画、決まった目的をもって、一気呵成に書かれました。そのわけは、ムルガナールが詩の全体のテーマのために100詩節の限度を設け、その中でウパデーシャという特定の主題は30詩節に制限されるべきだと計画したからです。その上、彼はすでに3詩節作っていたため、残りは27詩節だけで、私はその短い範囲の中でテーマ全体を扱うよう求められました」。

 午後、バガヴァーンはシュリニヴァーサ・ラオ医師にラーマという名前の重要性を説明しました。「『ラ』は自らを、『マ』は自我を意味します。『ラーマ』、『ラーマ』と繰り返し唱え続けるとき、『ラ』の中に溶け込み、『マ』は消え去り、その後、『ラ』のみが残ります。その状態には、ディヤーナでの意識的な努力はなく、それはそこにあります。というのも、ディヤーナは私たちの本質だからです」。

45年12月8日 午前

 シュリニヴァーサ・ラオ医師がこのノートを手に取り、昨日の記入を読み上げました。そこで直ちにバガヴァーンは、ムルガナールたちが様々な詩節が作られた日付を書き留めたノートを取り出すようクリシュナスワーミに頼みました。我々はReality in Forty Versesが作られたのは1928年にだけであることに気づきました。

 バガヴァーンはタミル語の新聞、Hindustanを私に見せました。その中には、45年11月25日のスカンダーシュラマムへのバガヴァーンの訪問についてのティラク・シャーストリによる記事が含まれ、とりわけその名前の由来を説明していました。

午後

 バガヴァーンの依頼で、私があるサンスクリット語の本をとりにパータシャーラーに行っていた時、講堂で、以下に記録される出来事が起こりました。カムディン嬢(現マッキーヴァー夫人)が、ある女性の隣に座っていました。その女性は恍惚状態に入り、ナーラーヤナ、つまり、神から氷砂糖を受け取ったと主張しました。彼女は、その中にインチキは全くなかったと、その氷砂糖は不可思議にその女性の手の中に入って来たと思っています。私もまたその氷砂糖を少しいただきました。

 その出来事はK.A.マハタニ氏によってこのように記録されています。

 1945年12月8日、午後3時45分ごろ、講堂の女性用側の前列に、8才と10才ぐらいの二人の女の子と共に、50才ぐらいのグジャラート人の未亡人が座っているのを目にしました。私は彼女がサマーディにいるのを見て取れました。

 数分後、彼女は足を延ばさずにサマーディの姿勢で静かにあおむけに倒れました。講堂にいる人々は彼女がヒステリーの発作に襲われていると思いましたが、その二人の女の子は彼女がサマーディにいると、それは彼女にしばしば起こることだと言いました。その後、その二人の女の子はグジャラート語のバジャンを見事な旋律で歌い始めました。(その歌は「Haji mare gher thaya lila ler」と始まります)。

 バガヴァーンはずっとその女性を注意深く見ていて、手で膝を叩いて拍子を合わせながら、その旋律を楽しんでいました。バガヴァーンが歌にそれほど興味を示していることに私が気付いたのは、これが初めてでした。

 数分後、その女性は誰の助けもなく起き上がり、同じ姿勢でサマーディの状態で座り、グジャラート語でなにかつぶやき始めました。私は何かヴィジョンを見たかどうか彼女に尋ねました。彼女はヒンドスタニー語で「ええ」と言い、シュリー・ナーラーヤンが講堂の皆にメッセージを与えると言い足しました。「彼らに目を閉じさせ、何のプラヴリッティもなく(つまり、何の思いや動きもなく)、静かにいさせよう。そうすれば、私は誰にも彼にもダルシャンを与えるだろう」。

 私は彼女が言ったことをバガヴァーンに通訳しました。2、3分間、彼女はバガヴァーンに向けて両手を握り合わせて頭を下げていました。その後、彼女の近くに座る二人の女の子の内の一人に氷砂糖のかけらを彼女が手渡したことに我々は気づきました。

 その前、彼女の開いた両手が全くからっぽであったのを我々は見ていました。私はその女の子にその氷砂糖は何で、どのように彼女の手の中に入って来たのか尋ねました。

 その女の子は、「これはバガヴァーン・ナーラーヤンからその女性に与えらえたプラサードです。彼女がサマーディに入るときはいつでも、彼女は様々な機会に(果物、花、花輪、ビャクダン、クムクム、お菓子といった)様々なものを得ます」と答えました。

 その後、その女性は、6才の時からそのような状態によくなると言いました。その女の子は氷砂糖のかけらをバガヴァーンに差し上げました。彼はその少しを手に取り、残りは講堂にいた他の人々の間で分けられました。
 
 私はこれはとても奇跡的ですと述べました。バガヴァーンは手のしぐさだけで、「ええ」と示しましたが、何も言いませんでした。数分後、その女性は二人の女の子と共に講堂を後にしました。立ち去る前、彼女はバガヴァーンに深くお辞儀し、彼の祝福とボンベイに戻る許可を求めました。

 私は彼女がその日の午前中に来て、同じ日の夕方に立ち去ったと聞きました。彼女は事務所で、ボンベイ、オペラ・ハウスの向かいのプルショーッタム・ビル、R.G.ラヴァル様方、マタジ・マニベン・サマーディワッラーと名前を言いました。

 45年12月9日 午前

 昨日、バガヴァーンがHindustanの中のティラクの記事に言及したとき、私は、「我々のナーガンマも45年11月25日のバガヴァーンのスカンダーシュラマム訪問とそこでの出来事についてテルグ語で記事を書いています」と言いました。ナーガンマは以前、これについて私に話していました。今朝、ナーガンマは書いたものを持ってきて、バガヴァーンに見せました。彼は少し読んで、その後、「彼女に読ませましょう。私たちは皆で聞きましょう」と言い、書類を彼女に返しました。彼女が読み上げる前に、バガヴァーンは他の事柄について我々に話し始めました。バガヴァーンは、古くからの弟子、カンダスワーミがバガヴァーンのための独立したアーシュラムを建てたいと切望していたと言いました。彼は敷地を選ぶために山上と森の中の様々な場所を詳しく調べ、ついに現在のスカンダーシュラマムの敷地を提案し、バガヴァーンもそれを了承しました。そこで直ちに、カンダスワーミは山裾にあるウチワサボテンの密林であったものを改造し始めました。その時の誰の手も借りない彼の労働の結果が、我々が今見るアーシュラムです。彼は、「あなたたちはその敷地の当初の状態を想像できません。カンダスワーミはほとんど超人的な努力で働き、4人が協力してさえなしえなかったことを彼自身の手で成し遂げました。彼はウチワサボテンを全て取り除き、地面を平らにするために岩や巨石を減らし、庭を造り、アーシュラムを立ち上げました。私たちは植えるためにココナッツの木を4本手に入れました。それを適切に植えるために、カンダスワーミは10フィートほどの深さの巨大な四角い穴を掘りました。そのことで、あなたたちは彼が引き受けた仕事に彼が投じた労力の量がどれほどであったか分かるでしょう。彼は力強く、がっちりした体格の人でした」と言い足しました。その後、バガヴァーンは、上述のカンダスワーミ、ペルマールスワーミ、パラニスワーミ、ナーラーヤナ・レッディ、イーシュワラ・スワーミなどがバガヴァーンと共に座っているSelf-Realizationの中の集合写真を我々に見せました。その写真はヴィルーパークシ洞窟背後の岩の上でとられました。彼はその後、「この写真で、カンダスワーミは弱々しく痩せた人のように見ます。そのわけは、彼が1か月以上私たちから離れて、「タミル語」(7つの泉)でタパスを行っていて、意図的に十分な食事をとっていなかったからです。それ以前は、彼は筋肉質で、がっちりした体格の人でした。彼はいくらかの小麦粉と少しの粗糖だけ持って7つの泉に出かけ、そこで1か月半ほど住み、この乏しい食料だけをとって生活しました。ある夜、午後7時ごろ、ペルマールスワーミとナーガッパー・チェッティとおそらく他に一人か二人で、カンダスワーミを探しに行き、7つの湖の岩壁の中で彼が眠っているのを見つけました。ペルマールスワーミは中に入り、カンダスワーミのほら貝を持ち出しました。カンダスワーミとペルマールスワーミは、ほら貝で長く途切れない音を鳴らすことに長けていました。ペルマールスワーミは、洞窟の外で大きく長い音を鳴らしました。カンダスワーミは目を覚まし、ほら貝を吹いているのがペルマールスワーミであると分かり、出てきました。私を見て、彼は平伏しました。私たちは皆、そこで夜を過ごしました。私たちは彼が持っていた小麦粉と粗糖の残り物を平らげ、彼が集めた薪を燃やし、彼がそこに引き続きとどまることを不可能にして、私たちと共に立ち去るよう説得しました。写真の中で彼が痩せて見えるのは、彼の断食とタパスのためです」と言い足しました。

 バガヴァーンは、ペルマールスワーミとカンダスワーミが一斉にほら貝を鳴らした様子、そして、バガヴァーンがヴィルーパークシ洞窟にいた時、ペルマールスワーミとカンダスワーミとパラニスワーミが通りに食べ物を乞いに出かけ、それを山の上に持って来て、そこにいる全員でそれを分け合った様子を続いて話しました。ペルマールスワーミが彼らに加わる前、パラニスワーミとアイヤスワーミとカンダスワーミはチャットラムに行き、そのマニガルが皆のための食べ物を与えていたものでした。しかし、ペルマールスワーミも加わったとき、マニガルはどうして追加のものが必要なのか疑問視し始めました。そこで直ちに、ペルマールスワーミは、もはやそのチャットラムに行ったり、マニガルの意のままになるべきでなく、街に乞食に行くことを主張しました。それに応じて、4人以上の一行は、この用事のために洞窟を後にしたものでした。洞窟を出発する時、彼らはほら貝で長い音を鳴らしました。これはバガヴァーンの一行が乞食の役目で洞窟を出発したということを町の人に知らせるものでした。一行が山のふもとに着いたとき、もう一度音を鳴らしました。3度目の合図は、通りの入り口で鳴らされました。通りの住民全員がお供えを持って準備し、一行はシヴァナーマーヴァリを歌い、お供えを集めながら、通りに沿って行進したものでした。集められた食べ物は、バガヴァーンの近くに集まった全員と全サルなどにとって十分にあったようです。Marital Garland of Lettersは、乞食の一行が使うために特別に作られました。バガヴァーンはおどけて、「Marital Garland of Lettersは長年、私たちを養いました」と言い足しました。

45年12月10日

 昨日か一昨日、午前中に、バガヴァーンの講堂近くのアーシュラムの敷地のどこかで、チンナスワーミたちがヘビを目にしました。我々は、「ヘビの種類は何だ」「叩け、叩け!」という叫び声を耳にしました。我々が実際に叩く音を聞いたとき、バガヴァーンは「タミル語」「タミル語」(「誰が叩いているのですか」と大きな声を上げました。このバガヴァーンの抗議は一行の耳に届かなかったようで、そのヘビは殺されました。バガヴァーンは、「タミル語」(この人たちがそのように叩かれるならば、彼らはそれがどういう意味かを知るでしょう)と言い足しました。


 P.C.デーサーイー氏が、アルナーチャラ・マーハートミャに関するM.ヴェンカタラマ・アイヤル氏によって用意された原稿を講堂で読み上げました。

45年12月11日

 午後6時30分ごろ、数か月前にここに来て、一日か二日滞在し、映画撮影機でバガヴァーンを撮影した、ハイデラバード(デッカン)、ベガンペット出身の若者、ラーマチャンドラ・レッディ氏が、彼が100フィートほどのフィルムを用意していて、許されるなら、バガヴァーンの前でそれを映写するとバガヴァーンに話しました。バガヴァーンに異議はなく、それで彼は講堂の西の端で二人の人に白いシーツを持たせ、そのスクリーン上に彼が撮影した映像を映しました-バガヴァーンが講堂から出てきて、末っ子を抱いているナーラーヤナ・アイヤルの息子ラマナタンに会い、杖で触れ、彼に話しかける場面や、バガヴァーンが牛小屋から出てきて、山を登り、その後、タレヤーカン婦人とソーナ・ドラブジー嬢を後ろに伴って、そこから戻ってくる場面や、他のいくつかの場面。我々は皆、その映像を高く評価しました。しかし、バガヴァーンはそれをはっきり見ることができませんでした。彼の視力がどれほど弱っていたのかは、我々にとって驚くべき新事実でした。それで、彼のために、スクリーンがバガヴァーンのソファー対面の南窓近くに掲げられ、再び映像が映されましたが、その時でさえ彼はそれをはっきり見ることができませんでした。

 バガヴァーンはこれに関連して、昔、グラント・ダフ氏か他の誰かがハリウッドでバガヴァーンの映画を見たとアーシュラムに手紙を書いたと言いました。バガヴァーンは、「私たちはそれについて何も知りませんでした。でも、私が山の上を移動していたときに、おそらく誰かが私を撮りに来たのでしょう」と言いました。

 K.K.ナンビアール氏も6か月ほど前に100フィートぐらいの映画を撮影しました。しかし、それは失敗だったようです。我々のヴェンカトーが、数年前、ジャヤデヴラルの友人が映画撮影機でいくらか撮影したが、彼らはそれについて何も聞いてなかったので、それも失敗だったに違いないと講堂で話しました。


45年12月12日 午前

 午前10時ごろ、デーサーイー氏は朗読を続けました。40年ほど前、足が不自由だったが、その後に足が使えるようになったクッパイヤルという人について彼が読み、バガヴァーンが、彼がその出来事について知っていて、クッパイヤルが良くなった後、彼を目にしたと言った時、私は、「タミル語」(つまり、それは本当はバガヴァーンによって行われたようですが、彼はそれについて私たちに話しません。それは彼の人目をはばかる方法です)と言いました。私がそう言ったのは、それについて知っていると信用できるバガヴァーンの旧友のランガ・アイヤルと少なくとももう一人が、バガヴァーンがその出来事について彼らに話したことから、彼らがその奇跡を起こしたのはバガヴァーンだけだったと確信していると私に請け負っていたからです。講堂で私が上述の発言をバガヴァーンの面前で、彼の聞こえるところで私の近くの人々にしたとき、彼は私の憶測を否定しませんでした。バガヴァーンはかつて、彼が山上に住んでいた時に起こった以下の出来事を私に話しました。「ある夜、この町をよく知らない女性が、ある通りに連れて行ってもらうために御者を雇いました。その御者はわざと山の近くの道から外れた場所に女性を連れて行き、宝石目当てに彼女を襲うか、彼女に乱暴しようとしました。その時、二人の巡査がその場に現れ、その御者を脅し、女性を適切な目的地まで送り届けました。その女性は巡査の番号(札)を書き留め、その後彼らについて尋ねましたが、その夜にそのような職務を行った人間の警察官は一人もいないことが確認されました」。ランガ・アイヤルは、これもまた本当はバガヴァーンの仕業だったと信じています。今、私は彼と意見が一致しています。というのも、バガヴァーンはその出来事をアルナーチャラに帰しましたが、バガヴァーンがその出来事を物語る様子から、彼の口からそれについて初めて聞いたときでさえ、私は同じ感じを受けたからです。我々はバガヴァーンを嘘のかどで咎められません。なぜなら、彼がしたことをアルナーチャラによってなされたと彼が言ったのは、彼とアルナーチャラが一つであるからです。

午後

 午後2時50分ごろ、私が講堂に入ろうとしていたとき、バガヴァーンはタミル語のArunachala Puranamから詩節を読み上げていました。詩節の中で、ガウリは、アルナーチャラムのいくつかの通りを横切った後、ガウタマのアーシュラムに着いたと言われています。バガヴァーンが、ガウリが彼のアーシュラムに来ることによるガウタマの喜びを扱う詩節まで来た時、バガヴァーンは先に進むことができませんでした。というのも、涙が彼の目からあふれ、感動が彼の声をつまらせたからでした。それで、彼は本をわきに置き、デーサーイーは原稿の朗読を続けました。バガヴァーンがテーヴァーラムやターユマーナヴァルの献身的な賛歌のようなタミル語の著作の深く献身的などの部分も読み進めることができない様子を、私が過去に一度のみならず気づいたことを私がここに記録しても構わないでしょう。今日の午後、私が上述のArunachala Puranamをバガヴァーンから受け取り、彼を深く感動させた場所に言及し、要するに、彼が我々皆から隠そうとした彼の苦境に私が気づいていたことを彼に伝えると、彼は、「カーラクシェーパムを行い、聴衆にそういった一節を説明する人々が、どうやって泣き崩れることなくどうにかそれをやり遂げるのか私は分かりません。彼らは仕事を始める前に、はじめに岩のように心を固くしなければならないと思います」と発言しました。

 デーサーイー氏の原稿の朗読の途中、彼は聖なる山が8つの顔を持つことについて読みました。事実としてこの山が8つの顔を持つのかという私の質問に、バガヴァーンは答えました。「プラーナには、ブラフマーの前でうぬぼれたアシュタ・ヴァスが全ての功徳を失い、それを取り戻すため、彼らはここアルナーチャラの辺り一帯で苦行を行いに来たと書かれています。この山で、彼らは8つの顔を帯びたシヴァによって全く同時にダルシャンを授けられました。その8人のヴァスはいまだこの山の周りで8つの尾根の形でいます。このヴァスたちがいまだ山としてここにいて、この聖なる山の周りで苦行を行っていると言うのはどういう意味かは、理解することが困難です。それは彼らが(今)この山に住んでいて、苦行を行っていることだけを意味するのでしょうか、それとも、彼ら自身がこの山なのでしょうか」。彼は言い足しました。「どこにアシュタ・ディク・パーラカが実際に見張りとして立ったのか突き止めることは私たちにとって今や困難です-アシュタ・ディク・リンガムが今見つかる場所にでしょうか、それとも、そのリンガムは彼らによって設置され、崇拝されたものなのでしょうか。正確にはどこでガウリが苦行を行ったのか、どこでガウタマがアーシュラムを構えたのか私たちは確信を持てません。しかし、ガウリはパヴァラクンルとドゥルガー寺院とパチャイアンマン・コーリによって覆われる地域で苦行を行ったと、そして、ガウタマのアーシュラマムもまたその地域の近くにあったに違いないと考えても差し支えないでしょう」。

 バガヴァーンはまた、パヴァラクンルかその辺りに元々は存在していたかもしれないどの寺院も、おそらくティップの侵攻のために消滅したようだと、そこにある現在の寺院はほんの50年ほど前に建てられたと、そして、彼はかつてパヴァラクンルと大寺院の北壁の間で古い大砲の残骸を発見したと言いました。ティップ・スルターンはパヴァラクンル近くに大砲を設置し、当時要塞として使われていた寺院の北壁を攻撃したようです。北壁はいまだに大砲の砲撃の跡を残しています。バガヴァーンが与えた情報は政府に伝えられ、その大砲は運び去られ、遺物として保管されているようです。


 11日の夜にバガヴァーンの映画を見られなかった人々のために、本日午後6時30分ごろ、食堂で再び上演されました。我々がそこに行く前、バガヴァーンは、ヨーガーナンダとアメリカ人女性(ノイエ婦人)のグルであったシュクラという人もバガヴァーンの映画を撮り、後者の映像が最終的にハリウッドに届き、アーシュラムに手紙を書いたグラント・ダフなどの知るところになったかもしれないと言いました。

<巻末にある用語集から>
・シュティタ・プラジニャ(sthita prainya):知性において安定した者、自らを実現した賢者。
・パータシャーラー(pathasala):学校、特に少年たちがヴェーダの朗読を教わる学校。
・チャットラム(chattram):巡礼者や旅行者のための無料の宿泊所。時々、食べ物も無料で提供される。
・マニガル(manigar):施設の管理人。
・カーラクシェーパム(kalakshepam):ところどころに歌が織り込まれた宗教的講話。
・アシュタ・ヴァス(Ashta Vass):8人の天人。
・アシュタ・ディク・パーラカ(Ashta Dik Palakas):8つの方角の守護者。
・アシュタ・リンガム(Ashta lingam):8つのリンガム

2019年3月27日水曜日

バガヴァーンとの日々⑥ - 45年11月24日から45年12月6日まで

◇『バガヴァーンとの日々(Day by Day with Bhagavan)』、p50~59

バガヴァーンとの日々

A.デーヴァラージャ・ムダリアールの日記から

45年11月24日 午前

 バガヴァーンは、昔、彼がよく山頂に登った方法について話しました。どのような道を通ってでも、もしくは、道がなくても、彼は登りたい気がした時にはいつでも登りました。草刈り人たちだけが彼の使った道のいくつかを知っていたと彼は言いました。「時々、人々がマドラスや他の場所からやって来て、山の頂上にたどり着こうとして、スカンダーシュラマム近くで道に迷っていたものでした。そこで座っていた私を見つけ、彼らは山頂への道を私に尋ねたものでした。私が道は彼らの右の方で、北に向いていると彼らに伝えたとき、『私たちが誰で、どこから来たのか知ってますか。私たちはマドラス出身です。その手には乗りません。頂上はここ私たちの真上です。あなたは私たちを道に迷わせたいんです』と言う人達もいました。私は黙っているのが常でした。彼らはまっすぐに登ろうとして、長い時間の後、頂上にたどり着こうとする彼らの努力が全て無駄だったとことに気づき、疲れ果てて戻って来ました。私に近づくと、彼らは恥じてこうべを垂れ、私を避けて去っていったものでした」。

45年11月25日

 バガヴァーンは、彼がスカンダーシュラマムで生活していた間、どのようにチーターたちがよく彼を訪れたのか語りました。「ある時、チーターが明らかに攻撃的に思える恐ろしい唸り声を上げましたが、我々に何もせず、サルたちを追いかけに行きました。別の時、チーターが悠然と歩いて上ってきて、アーシュラムに近づくや否や大きな唸り声を上げましたが、その声にはただ平穏だけが見受けられ、攻撃性は見受けられませんでした。それはただその到着を知らせたいだけで、それ以上なにもないかのようでした。それはとても近くに来ました。スカンダーシュラマムで山の小川が今、流れているところにです。そして、しばらくして、別れを告げるかのように、もう一度唸り声を上げ、ゆっくりと歩み去りました」。

 朝食後、バガヴァーンはいつもように付添人を一人だけ伴ってスカンダーシュラマムに行きました。最近、スカンダーシュラマムは完全に修繕され、完璧な状態になり、ラマナーシュラマムの背後のそこへ続く山上の道もまた改善されました。その出来事を祝うため、そして、バガヴァーンが存分に楽しむことを我々が知った彼の昔のアーシュラマムで彼がいくらか時を過ごす機会を与えるために、バガヴァーンと信奉者全員がそこでその日を過ごし、ここには夕方にだけ帰って来る手はずでした。午前9時30分ごろまでに、200人ほどの人々がスカンダーシュラマムに詰め込まれ、我々は皆、午後になってようやく帰りました。バガヴァーンは4時15分ごろに出発し、午後5時30分ごろにラマナーシュラマムに着きました。スカンダーシュラマムで、バガヴァーンは幸せそうで陽気なムードでした。天気は、しかしながら、いささか曇り、冷え冷えとしていて、身を切るように冷たい風がほとんどの時間吹いていました。バガヴァーンは、スカンダーシュラマムとヴィルーパークシ洞窟で彼が生活する間に起こった様々な出来事を丁寧に事細かに物語りました。スカンダーシュラマムという名前が付けられたのは、そのアーシュラマムが古くからの弟子、カンダスワーミという人によって、大変な自己犠牲と人の手を借りない彼の肉体的努力によって、もともと計画され、建てられたからだと彼は説明しました。「この山で、必要が生じるときに、水が以前なかったところに、それも何の気配も見られなかったところに湧き出る様子は、奇跡です。その必要がなくなる後、水もまた消えます」と彼は述べました。彼は、今スカンダーシュラマムを流れている山の小川の歴史をたどり、どのように彼が最初、はるか上にその水源を発見し、その後、それを下に導くために弟子たちと共に働いたか(話しました)。ある夜、暴風雨になり、朝、町の人たちには、その距離から、あたかも大きな道路が一夜にして作られたかのように見えました。この出来事の間、パーダ・ティールタム(タミル語)と呼ばれる貯水槽は完全に満杯になり、貯水槽がもとあった場所には泥と岩が15フィートほどの高さまで積み重なっていたようです(後で、45年12月12日に、ある信奉者によってこの貯水槽の半分か、4分の3が再び復元されたことをバガヴァーンから知りました)。

 バガヴァーンはまた、彼がヴィルーパークシ洞窟とスカンダーシュラマム滞在中に関わったサルたちの歴史を詳しく物語り、特にどのようにタミル語(「足の不自由な男の子」、バガヴァーンの彼への愛称)がバガヴァーンの影響を受けたのか説明しました。バガヴァーンがヴィルーパークシ洞窟にいた間に、一匹のサルが当時の王様ザルにひどくかまれ、ひっかかれ、死んだものと見なされて洞窟近くに捨てられたようです。バガヴァーンは彼を憐れみ、看護し、彼は回復しました。以来、彼はバガヴァーンを慕い、いつも一緒にいて、日々の食事をバガヴァーンのアーシュラマムで得ていました。他のサルたちがそこに来た時、足の不自由なサルは彼らがバガヴァーンに近づくのを許さず、バガヴァーンに彼の足を不自由にした王様を指さしました。しかし、後には、全てのサルがそこに来て、彼らのかつての敵、足の不自由なサルに敬意と愛情を示したものでした。そのうちに、足の不自由なサルはサル王になりました。ある日、バガヴァーンとその一行は、スカンダーシュラマムを出発し、ギリプラダクシナに出かけ、後に残る一人か二人にアーシュラマムを任せました。バガヴァーンの不在時に、足の不自由なサルと他のサルの群れが来て、スカンダーシュラマムの全ての木の枝先や細枝を折り、彼らがそこで見つけた全てを滅茶苦茶にしました。バガヴァーンはどうして彼らがそうしたのだろうかと思っていました。次の日、サルたちは再びやって来て、足の不自由なサルが最も高い木に登り、その頂上に達し、木を揺らし、その後、降りてきました。これはサルの間での王の優先権の合図のようです。バガヴァーンがいつものように足の不自由なサルに食べ物を与えたとき、彼は食べようとせず、それを与えた人を他の3匹のサルが座っているところへ連れ行き、そこで彼は彼女たちと食べ物を分け合いました。3匹のサルは退位した王の妃で、彼らの慣習、しきたりによれば今や足の不自由なサルの妃でした。それで、バガヴァーンは足の不自由なサルが王様になったこと、そして、前日、彼らは皆、バガヴァーンの面前で戴冠式を行うためにやって来て、バガヴァーンの不在に気づき、枝を折ることなどでその失望や悔しさを表したことを知りました。

 足の不自由なサルはその後、3匹の妃の間に6匹の子供をもうけ、彼が毎日食事をとるとき、6匹全てがバガヴァーンからそれぞれ一口もらったものでした。足の不自由なサルは2度無作法にふるまい、バガヴァーンを叩いて傷つけたようです。毎回、バガヴァーンはその面前に出るのを彼に許可しないことで彼を罰しようと思いました。しかし、彼のお気に入りが後悔していることに気づき、責任があるのは彼のいたずら好きの性質でしかないと知り、バガヴァーンは彼を許しました。その内の一度は、バガヴァーンがそのサルのための牛乳を一皿手に取り、サルにとってそれが熱すぎたので、冷ますために息を吹き込もうとしたときでした。サルはバガヴァーンが自分で飲むために口の近くに牛乳を持ってきていると思いました。スカンダーシュラマムでは、時々、クジャクとヘビが、一方は尾を広げ、他方は頭をもたげて、彼の前で並んで遊んだものだったとバガヴァーンは言いました。この日、大勢の信奉者全ての主人役を務めたの人々は、共にバガヴァーンの優れた信奉者、T.K.ドーライスワーミ・アイヤル教授とバンガロールのサタコーパ・ナイドゥ氏でした。ナイドゥ氏に関して、以下は心理学上の興味深い研究として語るに値します。

 ナイドゥ氏は、バガヴァーンと知り合って、今では35年ほどです。彼がバガヴァーンと知り合って数年後、彼は一度ヴィルーパークシ洞窟に行き、バガヴァーンが出かけたことに気づき、ある場所に座ったようです。少しして、バガヴァーンが戻り、ナイドゥ氏は彼が座っていた場所がバガヴァーンが普段腰かけとして使っていた、まさにその場所であったことを発見しました。これがナイドゥ氏に大変なショックを与えたと言われていて、彼はアーシュラマムのほとんど永住者になり、アーシュラマム内に彼自身の永久的な部屋を持つのに、バガヴァーンの前に全く来ようとせず、ましてや講堂で座ったり、バガヴァーンと共に食事をとったりしません。さらに前、ナイドゥ氏が年に1度か2度アーシュラマムを訪れていた時、彼はあまりに気恥ずかしく感じてバガヴァーンの前に姿を現せませんでした。彼はそのもともとの出来事について決して話しません。私はそれゆえに他の人々から聞いたことを語ることで満足しなければなりません。

45年11月27日

 この場所への2度目の訪問中で今ここにいる、サロージニ・ハティー・シング嬢(ジャワハルラール・ネルーの義理の兄(か弟)、ハティー・シング氏の姉(か妹))が、バガヴァーンの日々の生活を撮影し、世界に公開してもらいたいという望みを言い表しました。私は彼女に、K.K.ナンビアール氏が同様の考えを抱き、数か月前に映画撮影機で2、3場面を撮影しさえしたが、フィルムか操作者のどちらかに何か問題があったためか、なんの成果も得られなかったと話しました。ハティー・シング嬢は、今回ここから帰った後、その準備をすると言いました。食事の時間に、母親と他の人々と共に今月24日のオウロビンドーのダルシャンからここに来た、インドゥマティ嬢(アンバラール・サラバーイの親族)が、何気なかったり、ユーモラスな出来事や発言を含んだ、バガヴァーンの普段の生活を扱った本があるか私に尋ねました。私は否定的に返答し、彼女はそれがあってしかるべきだと言いました。彼女は、「私たちがここに来る前、私たちはバガヴァーンがとても人間的で、彼がとても自由に動き、話し、ユーモラスな発言さえすることを知りませんでした。私たちは彼の霊的卓越性についてだけ知っていました。彼を人として私たちのより近くに連れてくる、この全ての側面を明らかにする本があってしかるべきです」と言いました。

45年11月29日

 27日の夕方、私はヴェールールに行き、今朝、地方判事のA.ロボ氏とその妻に彼らの家で会いました。二人ともバガヴァーンについて尋ね、ロボ氏は、アーシュラマムでのバガヴァーンの人生と行いの何らかの記録があってはどうかと提案しました。

  ロボ氏の家から、私は当時ヴェールールで仮住まいをしていた相談役、サー・ノーマン・ストラシーのところに行きました。そこでも再び自然と、我々はアーシュラマムについて話していました。彼は沈黙を通じてバガヴァーンの教えを聞いたと言い、「私たちはそれを理解できます」と言い足しました。

45年12月1日

 私は昨晩ここに戻りました。10月と11月の20日間ばかりここに滞在していて、ラーメシュワラムや他の場所へ巡礼に出かけていた、ウッタル・プラデーシュ州政府の主任技師、マハー・ヴィール・プラサードが、ここに戻っています。マハー・ヨーガのある一節に関連した彼のいつもの質問の続きで、彼は、「私は誰か」という心の探求を始める前に、呼吸を見守ることが人にとって必要なのか、先行条件なのかバガヴァーンに尋ねました。
  
バガヴァーン: 全ては、人のパクヴァ、つまり、彼の性質や適性しだいです。心を集中したり、制御し、それを探求に向ける心の力を持たない人々は、呼吸を見守るよう勧められています。なぜなら、そのように見守ることは、自然に、そして、当然のことながら、思いの停止につながり、心を制御下に置くでしょうから。

 息と心は同じ場所から生じ、その内の一方が制御される時、他方もまた制御されます。実のところ、探求の方法において-それはより正確には、単に「私は誰か」でなく、「私はどこより生じるか」ですが-私たちは、究極的な現実として残るものに達するために、「我々は体でない、感覚でない、など」と言って(体や感覚などを)単に取り除こうとしているのでなく、どこより自我として「私」なる思いが私たちの内に生じるのか見出そうとしています。その方法は、その内に、明示的でなく暗示的にですが、息の見守りを含んでいます。私たちがどこから全ての思いの源である「私」なる思いが飛び出すのか見守るとき、私たちは必然的に息の源もまた見守っています。「私」なる思いと息は同じ源から生じるからです。

 プラサード氏は、息を制御するために、1対4対2の割合で息を吸い、止め、息を吐くように規定されている規則的なプラーナーヤーマはより良いのかどうか再び尋ねました。バガヴァーンは、「時には、数を数えることによってでなく、マントラを口にすることなどによって調整される、そういった割合すべては、心の制御するための助けです。それが全てです。息を見守ることまた、プラーナーヤーマの一つの形です。息を止めることなどはより乱暴で、ある場合、例えば、サーダカを一歩一歩全ての段階で導く適切なグルがいない時には有害になるかもしれません。しかし、単に息を見守ることは簡単で、危険を伴いません」と答えました。

 年配の紳士、ティンドゥッカル出身の代議士、スワミナータ・アイヤル氏が来ました。彼と一緒に、ラマナと呼ばれる3歳ぐらいの男の子がいました。どうやらその子はその時までバガヴァーンに会ったことはなかったようですが、バガヴァーンについてたいそう聞いていたようです。それで、その子は講堂で「タミル語」(つまり、ラマナを今見つけた)と言いました。それは自然と我々皆の笑いを誘い、バガヴァーンもその笑いに加わりました。

 その年配の紳士は、サハジャ・サマーディを達成する前に、ニルヴィカルパ・サマーディをまず経るべきかバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「私たちがヴィカルパを持っていて、それを放棄しようとしている時、つまり、私たちが未だ完成されず、心を一点に向け続ける、もしくは、心を思いなく保つための意識的な努力をしなければならない時、それはニルヴィカルパ・サマーディです。修練を通じて、サマーディに入ったり再び出たりすることなく、私たちが常にその状態にいる時、それがサハジャの境地です。サハジャにおいて、人は常に自分自身を見ます。彼はジャガットをスワルーパ、もしくは、ブラフマカーラとして見ます。ディヤーナやジニャーナやバクティ、人がどのような方法に従っても、かつては手段であるものが、終には、目的そのものになります。サマーディは、私たち自身の、私たちの真の境地の別名です」と答えました。

 夕方、パーラーヤナの後、バガヴァーンは本を拾い読みしていました。バガヴァーンは私のほうを向き、それはB.V.ナラシンハ・アイヤル氏によるGlimpses of Sai Babaであり、シュロフ氏がバガヴァーンに見てもらうために持ってきたと言いました。私は、「ええ、今朝、私はそれをシュロフの家で見ました。それは何か新たなもの、サーイー・バーバーに関する彼の前作に含まれていないものを含んでいるのでしょうか」と言いました。バガヴァーンは、クップスワーミ・アイヤル判事によるその本の前書きを読み上げました。講堂にいたサイード博士が、彼がその本を読んだと、そして、それは新たなものを何も含んでいないと言いました。彼はまた、ナラシンハ・アイヤル氏が、主題に関して問われたとき、サーイー・バーバーが自らの実現を誰かに教えたかどうか言えなかったと言いました。ほとんど間髪を入れずに、サイード博士に反対するかのように、バガヴァーンはその本への前書きから、サーイー・バーバーが信奉者たちに物質的救済のための恩恵を授けただけでなく、自らの実現という究極の目的に向けて彼らの後押しもしたと書かれた一文を読み上げました。

45年12月2日

 アーシュラマムに昨晩到着した、ヴィジャヤナガラム州の王太后が、今朝、2、3人の他の人と共に講堂にやって来ました。シュリニヴァーサ・ラオ医師がバガヴァーンの足をマッサージしていました。バガヴァーンはシュリニヴァーサ・ラオ医師に、「あなたは座りに行きなさい。そうでなければ、彼らが来て、バガヴァーンの健康状態がどうかしたのか尋ねるでしょう」と言いました。医師はそれに応じてマッサージをやめました。バガヴァーンは、どんな理由でも彼のことで騒ぎ立てられることを好みません。

 午後、私はWonderful Indiaという本をバガヴァーンに見せました。その中には多くの写真が含まれ、バガヴァーンは写真を見ながら、その本を1時間以上熟読していました。

45年12月4日

 先月の中頃、講堂で、いくらか再配置が行われ、柵がバガヴァーンの寝いす周りの西側と南側に置かれ、全ての棚が講堂の東半分などに移されました。この全てが行われたとき、私はバガヴァーンの寝いす近くにそのように家具が込み合っていたら害虫が増えるかもしれないと述べました。それで、我々は殺虫剤について、戦時中に発見された最も効果的な殺虫剤のDDTについて話しました。今朝、シュロフ大尉がDDTをいくらか持ってきて、バガヴァーンのソファーを含め、講堂内と家具に吹きかけました。バガヴァーンは牛小屋に試してみるよう勧めました。可能ならば牝牛たちから彼女たちを今悩ましている全ての蠅を取り除きたいと彼はとても強く願っていました。シュロフ大尉はどのように使用すべきかという指示とともに、アーシュラマムにいくらかDDTを残していきました。我々は、マウニがすでにDDTの使用についての十分な指示が与えられた何らかの文書からの切り抜きを持っていることに気づきました。

45年12月6日 午後

 G.スッバ・ラオ氏がコータラムの故マウナ・スワーミについてバガヴァーンに話しました。彼はもともと1906年にバガヴァーンと共にいました。当時、彼はシヴァイヤと呼ばれていました。今日、バガヴァーンは、彼にはじめてカマンダラムを与えたのがシヴァイヤであったことを思い出しました。シヴァイヤは1年かそこらバガヴァーンと共に住み、その後コータラムに行き、1909年か1910年に再びバガヴァーンのもとに来た時、彼はココナッツのカマンダラム、バガヴァーンが使った最初のものを持ってきたようです。バガヴァーンは「タミル語」(ラマナ・ヴィジャヤム)という本の中の写真を持ち出しました。本の中にはバガヴァーンが岩に座り、他ならぬこのカマンダラムを右手に持ち、左手を左のももに置いている写真があります。この写真の中で、バガヴァーンは健康と力の絶頂期にいました。


 「angiyuru vaayumoli」という詩節(Collected Works of Ramana Maharshiの中のシュリー・アルナーチャラ・マーハートミャの第3詩節)に言及して、私はバガヴァーンにその中で言及されている洞窟は神の内部にあるのか、(もちろん、それもまた神であると言われている)山の内部にあるのか尋ねました。バガヴァーンは、「もちろん、文脈上、洞窟は山の内部にあり、洞窟の中に全ての楽しみがあるということです」と答えました。バガヴァーンは、「その詩節は、この山の内部には洞窟があり、それは光輝そのものであるか、もしくは、光で輝いていて、全ての楽しみをそこで見出しうることをあなたは信じるべきだと言います」と言い足しました。私はまた、「私はこの地がボーガ・クシェトラと呼ばれていることをどこかで読みました。それは何を意味しているのでしょう」とバガヴァーンに尋ねました。バガヴァーンは、「ええ、そう言われています。でも、それはどういう意味ですか。このクシェトラを思うこと自体がムクティを与えることができるなら、この地が人が望むであろう他の全ての楽しみを与えることができても何の不思議がありますか」と答えました。シュリニヴァーサ・ラオ医師が、自分自身に「私は誰か」という質問をした後、静かにいるべきか、それとも、「私はこの体、五感などでない」というような答えを与え続けるべきなのか、それとも、「私は誰か」という質問を繰り返し言い続けるべきか尋ねました。

 バガヴァーン: どうしてそれがマントラであるかのように「私は誰か」を繰り返し言い続けなければいけないのですか。他の思いが生じるなら、その時、他の思いを遠ざけるために、「誰にこの思いが生じるのか」、「どこから、この思いがやって来る『私』が生じるのか」という質問が尋ねられるべきです。マントラ・ジャパムにおいてさえ、マントラを繰り返し損なうとき、つまり、他の思いが心を占拠し始めたときに、「私はマントラを止めていた」と自分に言い聞かせ、それを繰り返し始めます。全ての道における目的は、神や自ら以外の他の全ての思いを近づけないことです。

 これに関連して、バガヴァーンは再び「御名は神です」と言い、「初めに言葉があり、言葉は神と共にあり、そして、言葉は神であった」と聖書を引用しました。スワーミ・ラームダースはよくナーマ・スマラナの重要性を説いていて、彼が使うはシュリー・ラム・ジャイ・ラム・ジャイ・ジャイ・ラムです。Visionの最新号で、スワーミ・ラームダースは「そが汝なり」について記していて、バガヴァーンは私にそれを参照させました。