2013年6月9日日曜日

『アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ』  第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

◇『不ニの知の灯と解放の真髄(Lamp of Non-Dual Knowledge&Cream of Liberation)』

アドヴァイタ・ボーダ・ディーピカ

第二章 アパヴァーダ(付加の除去)

弟子:(1)
 師よ、無知には始まりがないと言われています。その結果、無知には終わりがないということになります。どうして無始なる無知を払えるのですか。あなたは憐れみの大海です。どうかこれを私にお教え下さい。

師:(2)
 そうです、我が子よ。あなたは聡明であり、微妙な事柄を理解できます。あなたは正しく言いました。確かに、無知には始まりがありません。しかし、終わりがあります。知の生起が無知の終焉であると言われています。日の出が夜の暗闇を払うように、知の光は無知の暗闇を払います。

 (3-4)混乱を避けるため、世界の一切万物は、「原因、性質、影響、限界、結果」という範疇の下、その個別の特徴を分析することによって考察できます。しかし、超越した現実は、不ニであるので、これらを超えています。しかしながら、それ以外のすべて、マーヤーから先、それの上に誤って見られるものは、上述の分析に従います。

 (5)これらの中で、マーヤーは先行する原因を持ちません。なぜなら、マーヤーは、それに先行する何ものの産物でもなく、ブラフマンの内に留まり、自明であり、始まりがありません。創造の前、その顕現のための原因はありませんが、それは顕現します。それはひとりでに存在するはずです。

弟子:(6)
 この言明のための典拠が何かありますか。

師:
 ええ、ヴァーシシュタの言葉です。彼曰く、「泡が自然と水の中から生じるのとまさしく同様に、名と形を顕現する力も、全能であり完全に超越的な自らから湧き上る」。

弟子:(7-9)
 マーヤーは原因を持たざるをえません。陶工という作用因(媒介)なくして粘土が壺にならないのとまさしく同様に、ブラフマンの内でずっと未顕現に留まっている力はイーシュワラの意思のみによって顕現できます。

師:
 消滅において、不ニのブラフマンのみ残り、イーシュワラは残りません。明らかに、彼の意思は存在できません。消滅において、一切が顕現から引き戻され、未顕現に留まると言われる時、それは「ジーヴァ、全世界、イーシュワラ」のすべてが顕現しなくなることを意味します。未顕現のイーシュワラはその意思を行使できません。(実際に)起こることはこれです-眠りの中の休止している力がそれ自体を夢として展開するのとまさしく同様に、マーヤーの中の休止している力もそれ自体をイーシュワラ、その意思、世界とジーヴァからなる複数性へと展開します。そのように、イーシュワラはマーヤーの産物であり、彼の起源の起源ではありえません。それゆえ、マーヤーは先行する原因を持ちません。消滅において、意思のない純粋な存在のみ残り、何の変化の余地もありません。創造において、マーヤーは、今までこの純粋な存在の内に顕現せずに留まっていましたが、心として輝き出ます。心の戯れにより、魔法ごとく、「イーシュワラ、世界、ジーヴァ」として複数性が現れます。顕現したマーヤーが創造であり、未顕現のマーヤーが消滅です。そのように、マーヤーはひとりでに現われ、それ自体を引き込みます。このように、マーヤーは始まりを持ちません。ですから、それに先行する原因は存在しなかったと我々は言います。

弟子:(10-11)
 その「性質」とは何ですか。

師:
 それは表現できません。その存在が後に無効にされるため、それは現実ではありません。それは事実として経験されるため、それは非現実ではありません。また、それは二つの両極-現実と非現実-の混合でもありません。ですから、賢者はそれは言い表せないと言います(アニルヴァチャニーヤ)。

弟子:
 では、何が現実で、何が非現実なのですか。

師:
 マーヤーの礎となるもの、純粋な存在、またはブラフマンは、二元の余地はなく、現実です。名と形から成り立ち、世界と呼ばれる幻の現象は、非現実です。

弟子:
 マーヤーは何と言われうるのでしょうか。

師:
 その二つのどちらでもありません。現実の礎とも、非現実の現象とも異なります。

弟子:
 それを説明して下さい。

師:(12-17)
 火があるとします。それは礎です。火花がそれから飛び散ります。それは火が形を変えたものです。火花は火そのものの中に見られませんが、火から出てきます。この現象の観察により、火の中に内在する火花を作りだす力が推測されます。

 粘土は礎です。首の部分と開いた口をもつ中空の球体がそれから作られ、壺と呼ばれています。この事実により、粘土でも壺でもなく、両方とは異なる力が推測されます。

 水は礎です。泡はその結果です。両方とは異なる力が推測されます。

 蛇の卵は礎であり、若い蛇はその産物です。卵とも、若い蛇とも、異なる力が推測されます。

 種は礎であり、芽はその産物です。種とも、芽とも、異なる力が推測されます。

 深い眠りの変化するジーヴァは礎であり、夢はその結果です。眠りから目覚めた後、ジーヴァとも、夢とも、異なる力が推測されます。

 同様に、ブラフマンの内に潜在している力は、ジャガットという幻を作りだします。この力の礎はブラフマンであり、ジャガットはその結果です。この力はそれらのどちらでもありえず、両方と異なるはずです。それは定義できません。しかしながら、それは存在します。しかし、それは不可解のままです。ですから、我々はマーヤーの「性質」は言い表せないと言います。

弟子:(18-20)
 マーヤーの「影響」とは何ですか。

師:
 それはブラフマンという不ニの礎の上に、その覆う力と投影する力によって、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」という幻を表すことにあります。

弟子:
 どのようにですか。

師:
 休止している力が心として現れ出すとすぐに、心の潜在性が芽吹き、木々のごとく成長し、共に世界を形作ります。心はその潜在性と戯れます。それらは思いとして湧き上り、この世界として物質化します。それゆえ、それは夢の映像に過ぎません。ジーヴァとイーシュワラはその内容物であり、この白昼夢と同じく幻です。

弟子: 
 それらの幻の特徴を説明して下さい。

師:
 世界は対象物であり、心の戯れの結果として見られています。ジーヴァとイーシュワラはそれに含まれています。部分は全体と同程度に現実的でありえます。仮に世界が壁に絵具で描かれていると想像してみなさい。ジーヴァとイーシュワラは絵の中の人物です。人物は絵そのものと同程度に現実的でありうるに過ぎません。

 (21-24)世界そのものが心の産物であり、イーシュワラとジーヴァは同じ産物の部分を形作っています。それゆえ、それらは心の投影に過ぎず、それ以上の何物でもありません。これは、マーヤーがイーシュワラとジーヴァの幻を生じさせると述べるスルティから、そして、ヴァーシシュタが魔法によるように潜在性は「彼、私、あなた、これ、それ、私の息子、財産」などとして心の中で踊ると述べるヴァーシシュタ・スムリティから明白です。

弟子:(25-27)
 そのスムリティはどこでイーシュワラ、ジーヴァ、ジャガットについて話しているのですか。

師:
 ソハミダム(*1)、すなわち、「彼、私、これ」という言明の中で、「彼」は見られないイーシュワラを意味します。「私」は自我としてまかり通るジーヴァを意味します。「これ」は外(的世)界すべてを意味します。聖典、論理的推論、経験から、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」が心の投影に過ぎないことは明白です。

弟子:(28-29)
 どのように論理的推論と経験はその見解を支持するのですか。

師:
 目覚めと夢における心の生起と共に、潜在性は戯れはじめ、ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガットが現れます。深い眠りや気絶などにおいて潜在性が退くと共に、それらはすべて消えます。これはすべての人の経験の内にあります。

 また、一切の潜在性が知によって根こそぎにされる時、「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」はこれを最後に消えます。これは「ジーヴァ、イーシュワラ、ジャガット」を超えた不ニの現実に確立した完全な眼識(洞察力)を持つ偉大な聖者の経験の内にあります。ですから、これらがすべて心の投影であると我々は言います。そのように、マーヤーの「影響」は説明されます。

弟子:(30-32)
 マーヤーの「限界」とは何ですか。

師: 
 それはマハーヴァーキャの意味への探求から生じる知です。マーヤーは無知であり、無知は探求の欠如に基づき存続します。探求の欠如が探求にとって代わる時、正しい知が生じ、無知を終わらせます。

 では、聞きなさい。体の病は過去のカルマの結果であり、間違った食べ物の上に存続し、その継続と共に増悪します。もしくは、縄についての無知は、それが探求されない限り、蛇を視界へ映し出し、それに引き続き、他の幻覚が伴います。同じように、マーヤーは自明であり、無始であり、自然に起こりますが、自らの本質への探求の欠如の内に存続し、世界などを顕現し、より巨大に成長します。

 (33-35)探求の生起と共に、探求の欠如のため力強く成長したマーヤーはその栄養を失い、その結果、すなわち、ジャガットなどと共に徐々に弱まります。探求の欠如にもとづき、縄についての無知という要因が縄を蛇に見せますが、探求の生起と共に突如として消えるのとまさしく同様に、マーヤーは無知の内に栄え、探求の生起と共に消えます。縄の蛇とその幻を作り出す力が探求の前に存続し、探求の後に単なる縄に帰するのとまさしく同様に、マーヤーとその結果であるジャガットは探求の前に存続しますが、その後で純粋なブラフマンに帰します。

弟子:(36-38)
 どうして唯一のものが二つの異なる方法で現われられるのですか。

師: 
 ブラフマン、不ニの純粋の存在は、探求の前にジャガットとして現われ、探求の後、それ自体をその真実の姿で示します。

 適切な考察の前には、どのように粘土が壺として見え、その後で粘土のみとして見えるのか、もしくは、黄金が装飾品として見え、それからただ黄金だけであると分かるのかご覧なさい。ブラフマンもまた同様です。探求の後、ブラフマンは過去、現在、未来において一元であり、不ニであり、分割されず、変化しないと実現されています。その中に、マーヤーやジャガットなど、その影響のようなものは何も存在しません。この実現は、至高の知と無知の限界として知られています。そのように、マーヤーの「限界」は言い表わされます。

弟子:(39)
 マーヤーの「結果」とは何ですか。

師:
 成果なく無へ消え去ること、それがその結果です。兎の角は、何の意義もない音に過ぎません。マーヤーも同様に、何の意味もない音に過ぎません。実現した聖者は、そのようにそれを見出します。

弟子:(40-43)
 では、なぜすべての人がこの点において同意しないのですか。

師:
 無知な者は、それを現実であると信じます。思慮深い者は、それは言い表せないと言います。実現した聖者は、それは兎の角のように存在しないと言います。そのように、それはこれら三つの方法で現われます。人々は自分自身の視点からそれについて話します。

弟子:
 無知な者は、どうしてそれを現実であるとみなすのですか。

師:
 子供を怖がらせるために幽霊がいるという嘘がつかれる場合でも、子供はそれを真実であると信じます。同様に、無知な者はマーヤーに目をくらまされ、それを現実であると信じます。現実のブラフマンと非現実のジャガットの性質を探究する者たちは、マーヤーがどちらとも異なると見出し、その性質を定義することができず、言い表せないと言います。しかし、探求を通じて至高の知を達成した聖者は、「娘によって灰へと焼き尽くされる母のように、知によって灰に帰されたマーヤーはいかなる時も存在しない」と言います。

弟子:(44-46)
 どうしてマーヤーが娘によって灰へと焼き尽くされる母と比べられるのですか。

師:
 探求の過程で、マーヤーはさらにさらに透明となり、知に変じます。そのように、知はマーヤーから生まれるため、マーヤーの娘であると言われています。探求の欠如のもとに長きにわたり栄えているマーヤーは、探求によって、その最後の日を迎えます。蟹が子を産み、その結果、自分自身が死ぬことになるのとまさしく同様に、探求の最後の日に、マーヤーは自身の破滅のための知を生みます。即座に、娘である知は彼女を灰へと焼き尽くします。

弟子:
 どうして子供にその親が殺せるのですか。

師:
 竹林で竹が風で動き、互いにこすり合わされ、親木を燃やす炎を作りだします。そのようにまた、マーヤーから生まれる知はマーヤーを灰へと焼き尽くします。マーヤーは兎の角のように名前においてのみ留まります。ですから、聖者はそれを存在しないと言明します。さらに、まさにその名前がその非現実性を示唆しています。その名前はアヴィドヤーとマーヤーです。それらの中、前者は「無知、もしくは、存在しないもの」を意味し、また、マーヤーは「存在しないもの」(*2)です。ですから、それは単純な否定です。それゆえ、成果なく無へ消え去ることが、その「結果」です。

弟子:(47-49)
 師よ、マーヤーは知に変じます。それゆえ、それは成果なく無として消え去ると言われるはずはありません。

師:
 知、変じられたマーヤーが現実であるならば、マーヤーは現実であると言えます。しかし、この知そのものが虚偽です。それゆえ、マーヤーは虚偽です。

弟子: 
 どうして知が虚偽であると言われるのですか。

師:
 木々の摩擦から生じる炎はそれらを燃やし尽くし、その後、消えます。汚れを除く木の粉は水の中の不純物を下へと運び、それ自体は不純物と共に沈着します。同様に、この知は無知を破壊し、それ自体は消滅します。それもまた最終的に溶かされるため、マーヤーの「結果」は非現実のみとなりえます。

弟子:(50-52)
 知もまた最後には消え去るならば、どうして無知の影響であるサンサーラを根絶できるのですか。

師:
 無知の影響であるサンサーラは、知のように非現実です。一つの非現実は、もう一つの非現実によって取り消されます。

弟子:
 どうしてそれがなされうるのですか。

師:
 夢の影響下にいる人の飢えは、夢の食物で満足させられます。一方はもう一方と同様に非現実ですが、しかし目的に叶います。同様に、知は非現実ですが、しかし目的に叶ないます。束縛と解放は、無知の虚偽の概念に過ぎません。縄の蛇の出現と消失が等しく虚偽であるように、ブラフマンの内の束縛と解放も同様です。

 (54-55)結論すると、至高の真理は不ニのブラフマンのみです。その他一切は虚偽であり、いかなる時も存在していません。スルティはそれを支持し、言います。「何ものも創造されず、破壊されてもいない。束縛も解放も存在しない。誰も束縛されず、解放を望んでもいない。熱望する者はおらず、修練する者はおらず、解放された者もいない。これが究極の真理である」。そのように、付加の除去は、マーヤーとその影響を超える不ニの現実、純粋な存在の知に存しています。その実現が、体の内で生きている間の解放(ジーヴァン・ムクティ)です。

 (56)この章を注意深く学ぶ者のみが、無知の付加を取り消す手段として、自らへの探求の過程を知ろうと欲し得ます。そのような探求に適する探求者は次章で扱われる三つの特性を備えねばなりません。その後で、探求の方法が扱われます。

 有能な探求者は、先へと進む前に、これら二章を注意深く学ばねばなりません。

(*1)ソハミダム・・・「Sohamidam」、soh=彼、aham=私 、idam=それ
(*2)「ヤー・マー・サー・マーヤー(ya ma sa maya)」 ya=~であるもの、ma=ない、sa=彼女?

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