2016年1月1日金曜日

バガヴァーンはどのように平伏を受け取るか - 彼らは「私自身」である

◇『The Call Divine(召命)』 Volume XII、Book 2、1963年10月1日、p41~42 

バガヴァーンと平伏

ラマナーシュラマム  T.K.S著

 バガヴァーン・シュリー・ラマナ・マハルシへの平伏について、彼の見識ある信奉者たちの間には、あらゆる種類の話があります。バガヴァーンは人々が彼の前で平伏することを決して好まず、その種の献身は全て見せびらかしに過ぎないと言う人もいます。その一方で、サードゥ・アルナーチャラ(故A.W.チャドウィック少佐)の常なる持論では、バガヴァーンへのどの平伏もみな「自我の棺へ打ち込まれた釘」であるため、彼はそのような平伏を歓迎した、とのことでした。平伏は、平伏する者に師の恩寵を受け取りやすくします。あなたがあなた自身を恩寵に開放しなければ、恩寵があなたに思いがけず訪れることも、あなたを祝福することもありません。

 長年にわたり途切れなく、信奉者から来る日も来る日も数千の平伏を受けるためには、バガヴァーンはバガヴァーンでなければなりません。日に数千の平伏を受けうることは、他の「教師」にとっては人間業ではないでしょう。

  この時点で私に思い起こされるのは、平伏を受けることがいかに危険であるか、厚かましい王の前で偉大なタパスヴィンが実演した物語です。彼はカマンダル(水差し)を地面に置き、その前で平伏し、その結果、器は複数の破片に割れました。その教訓とは、その前で平伏が行われる者は、それにふさわしくあらねばならないということです。そうでなければ、それを受ける者に害となるでしょう。

 これらのことを念頭に置き、来る日も来る日もバガヴァーンの前で行われる何千もの平伏を彼がどのように受け取るのか、ある日、私はバガヴァーンに気さくに尋ねました。バガヴァーンは(以下のように)答えました。「あなたにその秘密を教えましょう。彼らが私に平伏する前に、私は彼らに平伏します。私のもとへ来る人々は、謙遜の徴として地面に体を投げ出すだけです。心の中身は、等しく良くないかもしれません。心の中身が何であれ、私が彼らを見る時、私は心をのぞき込むことなく、そこにチャイタンヤ、すなわち、アートマンをのぞき込みます。それは私の自らであり、彼らはそれに気づいていません。私は彼らと一つですが、彼らはそれに気づいていません。すなわち、クタシュタとブラフマンは不可分です。私にとって「他者」はいません。のみ在ります。そのさらなる言外の意味は、彼らは平伏していると思っていますが、彼らは真の平伏(プラニダーナ)をしていないということです。その一方で、私は身体的にお辞儀しませんが、私のエーカ・バーヴァはあらゆる方法で彼らを手助けします。そのように、全ての人の中の私はクタシュタであり、私は私自身の実在を彼ら全ての中に見ます。私は数千(の平伏)を受け取れるのでなく、幾千(の平伏)を受け取れます。私は彼ら全てですが、彼らは彼らが私自身であることを知りません」。

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